身代わり狂騒曲 風花千里
第二章 葬式 一 日本橋堀江町は問屋と商店が多い町だ。 特に一丁目は団扇問屋が多く軒を連ねている。扱われる団扇は〈東 団扇〉と称され、〈花のお江戸の名物〉とも謳われていた。 重三郎は表通りの一角を折れ、路地へ入った。 路地裏に長屋が犇めき合っている。朝六つの裏通りには、棒手振りの売り声や家々からの煮炊きの匂いなど人の気配が色濃くたち込めていた。 「あそこだな」 背伸びをして路地奥を窺った。十間ほど先に人が集まっているのが見えた。 夜明け前に吉原を出て日本橋までやってきたのは、佐助の家で執り行われる葬式の様子を見たかったからだ。 もちろん仏は佐助ではない。白壁 町に安置されていた源内の亡骸が、昨夜この長屋に運び込まれているはずだった。 佐助を知る人々の前で、本当に源内を佐助として葬ることができるのか。重三郎はそれを確かめるために出向いてきたのだった。 人を掻き分け、開けっ放しの戸口の前に立った。 土間にいた若い男に会釈をする。男は治郎兵衛の弟子だった。 男は中に集っていた人々の元へ行き、重三郎の席をつくるように指示した。 人々が体をずらしてできた隙間を、重三郎は腰を屈めて進んだ。 余所者が入ってきたので、先に来ていた連中が皆一様に好奇の目を寄せてくる。部屋のあちこちから投げ掛けられるねちっこい視線で、肩や背に妙なむず痒さを感じた。 仏の足元まで行き、腰を下ろした。 仏は八畳間の壁に沿って敷かれた煎餅布団に横たえられていた。枕元に五十がらみの小柄な男とその女房らしき肉付きのいい女が頭を垂れている。女は手拭いで涙を拭き拭き、仏に語りかけていた。 「俺はここの家主で幸之助という者だ。お前さんは佐助の博打仲間か」 幸之助と称する小男が、女房の肩越しにきつい視線を投げ掛けてきた。佐助が博打で身を持ち崩した件は周知の話なのだろう。幸之助の一瞥は、不良仲間の参列を許さぬといった強い気迫に満ちていた。 「滅相もない。私は家の普請をした時に、佐助さんに世話になった者です」 重三郎は慌てて首を振った。 「それは失礼したね」 幸之助の厳しい表情がほっとしたように緩んだ。 「ここへ座りなさい」 幸之助が仏の頭の方へ移動し、空いた席を勧めた。 佐助、いや源内は、白壁町に安置されていた時と違わぬ安らかな顔だった。亡くなったのは一昨日だが、二日間、寒さが厳しかったので、遺体の傷みは少なかった。 重三郎は線香を手向け、静かに手を合わせた。 改めて源内の顔を見る。繊細で気難しそうな印象を与える細い頤。左右に張った鰓は意志の強さを感じさせる。顔の下半分だけなら真面目で頑固そうな人間にしか見えなかった。 だが上半分に視線を移すと印象は違ってくる。高くて大きめの鼻は自信家であることを匂わせていたし、弓形の濃い眉はどこか胡散臭い雰囲気を漂わせていた。 源内の面差しには、明と暗、二種類の絵具を無造作にかきまぜたような複雑な色が宿っていた。 重三郎は目を閉じた。生前の源内の姿が脳裏に甦り、目の奥が熱くなった。瞑った目の端が湿り気を帯びてくる。安物の線香の匂いが鼻についたせいばかりではなかった。 とはいえ、感傷に浸ってばかりはいられなかった。 果たして佐助は源内の身代わりになれるのか。そのためには、誰にも怪しまれずに源内が佐助として葬られなければならない。 重三郎は、こほんと咳払いをすると、幸之助のほうへ体を向けた。 二 「佐助は生まれた時からこの長屋にいたんだ」 重三郎と目が合った途端、幸之助は待ってましたとばかりに口を開いた。根が話し好きなのだろう。余所者と言葉を交わしたくてうずうずしている様子が見てとれる。 佐助の素性に関しては、ほとんど把握していない。重三郎は渡りに舟と幸之助の話に乗った。 「佐助さんのご家族の姿が見えませんが、どちらに」 佐助が天涯孤独の身だという話は承知していたが、あえて周囲を見回す。 「みーんな死んじまったんだよ」 身内の不幸を語るように幸之助が悲しげに目を伏せた。 「父親は長患いの末、佐助が一人前の大工になる前に死んだ。歳の近い弟もいたけど、その子も父親が逝ったあとに死んじまった」 「病気で?」 「奉公先の火事で逃げ遅れて焼け死んだのさ。そしたら今度は母親が気弱になっちまって、塞ぎ込むようになった。その頃、一人前になった佐助が、親方の元を出て戻ってきた」 「お母さんも亡くなったんですね」 「一年前に労症でね。あっという間にいけなくなった」 幸之助が少し声を詰まらせた。 「佐助さんにお連れ合いは」 博打で身を持ち崩すくらいだから、女房がいたとしてもとっくに愛想をつかされているだろうが、念のために訊いた。 「あの子は独り者 です。嫁さんを世話しようとしたこともあるんだが、おっ母さんが心配でそれどころじゃなかったのか、全く乗ってこなかった」 「お母さんの死後も、ここに住んでいたんですか」 「いや。おっ母さんが死んで淋しかったんだろう。悪い仲間と付き合うようになって、家に寄りつかなくなっちまった」 幸之助の顔が曇っていく。 佐助が博打にのめり込み、熱くなっていた時期だったのだろう。家主と店子の関係は親子の間柄に似ている。幸之助は佐助の素行に気づきながら、改心させられなかった責任を強く感じているようだった。 その時、幸之助の女房が、嗚咽を漏らしながら亡骸を寝かせた布団に突っ伏した。 肩や背が、初めは小さく、次第に大きく震える。 「お鈴さん、ごめんよぉ」 女房は亡骸の腰のあたりに縋りついた。 「あんたが死ぬ時、言ったよね……佐助は賢くて優しい子。だけど、気の弱いとこがあるから悪い奴に騙されないか心配だって。あたしも気になってはいたんだよ。でも佐助も三十だろう。いい歳をした男に説教を垂れるのもどうかと、しばらくそっとしといたのさ」 〈お鈴さん〉というのは、佐助の母親の名前のようだ。後を託されたにも拘わらず佐助の不品行を正せなかった。その悔いを女房も持っているようだった。 「佐助ぇ」 突然身を起こした女房が仏の枕元に這い寄った。目の周りを真っ赤に腫らし、その頬は涙と鼻水が入り混じってびたびたに濡れている。 「いったいどんな暮らしをしてたんだい、こんなに相好が変わっちまってさ。あんたはもっと若者らしいいなせな顔つきだったじゃないか」 女房はふっくらした手で仏の顔に触れ、そっと撫でた。 だがその途端、あれ、と仰け反り、初めて気づいたように呟く。 「しかもまるで、一気に十も歳とっちまったみたいに皺だらけ」 女房の醒めたような声を聞き、重三郎は肝を冷やした。 生前の源内は生気に溢れ、表情も豊か。歳は四十二だったが、いまだ青臭いところを残した壮年だった。だからこそ、三十になったばかりの佐助を身代わりにできた。 今寝かされている仏は血の気が失せ、肌がかさついている。実際の年齢に見合うだけのたくさん皺が、顔のあちこちに目立っていた。 いつもなら絶え間なく動き、永遠に閉じることのないように思われた口も、惚けたように力なく結ばれ、彼の特徴だった茶目っ気たっぷりの表情は、どこにも見出せなかった。 重三郎は、どきどきしながら女房の挙動を見守った。 「借金取りから逃げ回って、酷い暮らしをしていたんだろう。もっと早くあたしたちに相談してくれればよかったのに」 目の前の死人が佐助の身代わりだとは想像もしなかったのだろう。女房は自分が感じた違和を、佐助の不摂生によるものとしたらしい。声の調子が落ち着きを取り戻している。 佐助はほとんど長屋に寄りつかなかったというから、女房はかなりの間、佐助と顔を合わせていなかったのだろう。それが功を奏した格好だ。 重三郎はほっと胸を撫で下ろした。 「親方のおかげで葬式を出してもらえてよかった。あの世からお礼を言っとくんだよ」 重三郎は吹き出しそうになった。あの世からお礼とは、なかなか洒落っ気の強い女だ。が、当の女房は至極真面目だった。 ──そういえば、治郎兵衛さんはどこにいるんだ。 重三郎は周囲に目を配った。 三 土間の隅に、治郎兵衛の姿を認めた。 顔の真ん中に大きく鎮座した鼻を蠢かせ、腕組みをしてさり気なく周りを圧している。 突然、立てつけの悪い腰高障子が無遠慮な音を立てた。 治郎兵衛が振り返った。 戸が開き、小山のような治郎兵衛の陰から坊主頭が覗いている。 「経をあげてもらうから、席を空けてくれ」 治郎兵衛の呼び掛けで部屋の空気がびりびりと震えた。居合わせた参列者たちが、掃き集められた埃のように体を寄せ合う。 隣り合った人の間に指一本分の隙間もなくなった頃、僧侶と治郎兵衛がかろうじて座れるほどの空間が出来上がった。 堀江町近辺の寺から呼ばれたか、治郎兵衛が檀家になっている寺の住職か、いずれにしても僧侶は治郎兵衛が信頼を寄せる人物のようだった。 「南無……」 僧侶は経を唱え始める。嗄れてはいるが、麻紐をぴんと張るような力強い声だ。 参列者も自然とこうべを垂れた。しかし心の中では、長屋で行うにしては、ずいぶんときっちりした葬式だと思っているに違いなかった。 死者を葬るには、湯灌といってぬるま湯で身を清めてから納棺という手順を踏む。だが武家や商家などと違い、長屋では湯灌をする場所がない。埋葬する寺に亡骸を運び込み、そこで湯灌した後に納棺する。その後、形ばかりの経をあげて埋葬した。 今回の場合、源内は白壁町の家ですでに湯灌を済ませている。狭い長屋の部屋でも、僧侶を呼び、一通りの葬儀を済ませることが可能だった。 読経が進むにつれ、参列者からすすり泣きの声が漏れた。 治郎兵衛の横顔を盗み見る。ぶ厚い唇を不機嫌そうに結び、毅然と前を向いている。だが、膝に置かれた手が強く拳を握っている様子を、重三郎は見逃さなかった。 ──胸の内で源内さんに謝っているのだ。 治郎兵衛は源内を俳句の師匠として崇めていた。 崇拝する師匠が死んだのだから、立派な葬儀を催し、華々しく送りたかったはずだ。 けれども実際は、一介の大工として葬らねばならなくなった。 狭い長屋で、近所の住人のみが見守る中でのこぢんまりとした葬式。師をささやかな方法でしか送れなかった悔しさが、治郎兵衛の手の中に握り潰されているような気がした。 僧侶の声が静まった室内に響く。読経というのは、どうして人の気を沈ませるのか。葬式の首尾を見届けるために意気揚々とやって来たのに、しめやかな雰囲気の中で、重三郎は弱気になっていた。 ──見知らぬ人々に囲まれて、源内さんは今、どんな気持ちでいるのだろうか。 治郎兵衛と重三郎しか知った顔を見つけられずに淋しい思いをしているだろうか。みみっちい葬式で済ませやがって、と三途の川へ向かう途中で悪態をついているだろうか。 白茶けた仏の顔からは何の感情も汲み取れない。あらためて源内の死という現実を突き付けられ、重三郎は虚しくなった。 四 読経が終わると、戸口に近い者から順に外へ出始めた。 入れ替わりに男が二人がかりで粗末な白木の長箱を運び込んできた。男らは逞しい体つきをしている。やはり治郎兵衛に呼ばれた弟子たちだ。 「なんで座棺じゃないんだ」 幸之助が訝しげな声を出した。 「親方、その箱が棺桶ってわけじゃないだろうね」 幸之助の疑問はもっともだった。 庶民の埋葬は普通座棺を用いる。座棺とは膝を抱えた格好にした仏を納めるための桶で、寝たままの姿で納める長四角の寝棺に比べて埋葬場所が小さく済んだ。 「あ、あったりめえだろう。この箱に仏を入れて湯灌場に持っていくんだよ」 治郎兵衛は、幸之助の質問に慌てたように言葉を取り繕った。湯灌場は寺の片隅に作られ、湯灌していない遺体を清める場所だ。死んでから丸二日も経っているので、再度湯で体を温めないと、座棺に納められない事態になっているのであろう。 蓋を外した箱が亡骸の横に置かれた。 「仏を入れてやんな」 治郎兵衛のひと声で男らが動き出す。年嵩の男が経帷子を纏った仏の両脇を抱え上げ、若いほうが両脚を持った。 亡骸が布団を離れ、宙に浮いた。まず足から入れようと、若い男が両足を棺の底に納めた。その時…… 「うわっ」 年嵩が魂消たように喚き声を上げた。 その拍子に仏の脇へ通していた両手が外れる。 仏の体が放り出された。 どっ、ざん 上半身が横向きになり、右肩が参列者のいた側の箱の縁へ勢いよくぶつかった。反動で、左の肩が手前の縁に当たる。 箱の側板 に凭れるような格好で、仏がずるずると箱の中へ沈んでいった。 「馬っ鹿野郎! 何やってんだ」 治郎兵衛の怒声が飛んだ。 「す、すいやせん。なんだか雷にうたれたみてえに、手がびりびりと痺れちまって」 年嵩が舌を縺れさせながら謝った。蒼ざめた顔で自分の両手を眺めている。 「言い訳するんじゃねえ。おめえも大工のはしくれなら力は人一倍あるだろう。ぐっとこらえなきゃ駄目じゃねえか。うまく入ったからよかったものの、万が一、箱の外に飛び出して、仏の体に傷がついちまったらどうすんだ!」 治郎兵衛が怒鳴り散らす。目を剥いたその形相たるや、甲冑に身をかためた毘沙門天のようだ。師の遺体をぞんざいに扱われた怒りを、全身に漲らせている。 治郎兵衛の過剰な反応とは裏腹に、重三郎は箱に納まった仏の顔を呆然と見つめていた。 ──死人が……笑った。 驚きで口から心ノ臓が飛び出しそうだった。 箱の手前の縁にぶつかった時、仏の体は仰向けになった。 その時、仏が薄目を開けた。 しかもだらしなく結ばれていた唇が張りを帯び、一瞬、にっ、と笑ったのだ。 重三郎は混乱していた。仏はすでに元の無表情に戻っている。笑ったように見えたのは自分の勘違いだったのか。 心を落ち着けようと目を瞑った。 すると瞼の裏に先ほどの笑い顔がまざまざと映し出された。 その途端、あっ、と声を上げそうになった。 気のせいではない。あの顔は源内が面白がっている時の表情だ。諸国の物産が集まる薬品会で未知の動植物や鉱物に出合った時、エレキテルなる妙な機械の製作に勤しんでいる時、源内はいつも頬を緩め、楽しそうに独り笑いをしていた。 ──源内さんは、この葬式を面白がっている。 重三郎は確信した。 治郎兵衛も重三郎もでっちあげの葬式に対し、どこか弱腰になっていた。自分たちで与太を形にすると決めたのに、亡骸を前にしてめそめそしている。源内はそんな二人を前にして業を煮やしたに違いない。 〈俺は淋しい葬式も、粗末な白装束も一向に気にしちゃいねえんだ。もたもたするな。こうして自分で箱に入ってやったから、とっとと墓場へ持っていけ。この大与太の行く先を、俺はあの世からとくと眺めていてやらあ〉 重三郎の耳の中で、源内の豪快な叱咤の声が巡る。 もう間違いない。源内は己の再生計画である大与太を応援してくれている。 ──わかりました。源内さんのために、絶対にやり遂げてみせます。 重三郎は箱の傍に跪き、仏の手を握りながら誓った。 «第三章 修業の始まり
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