身代わり狂騒曲 風花千里
第九章 夢 一 雨が絶え間なく降っている。 梅雨時の雨はただでさえ鬱陶しいが、ここ数日は、やけに蒸す。足元からふやけるような心地がして、佐助は苛々を募らせていた。 苛つくのは、気候のせいばかりではなかった。 櫺子の戸を叩く音がした。 ──また、苛つきの種が来た。 返事をするのも億劫だった。 遠雷のように嫌な予感をもたらす音がした。男が櫺子を開けたらしい。 「源内先生、お留守ですか、源内先生!」 忙しない男の声が響き、内側の戸を、がたがた揺する気配がする。 ──何ぞ、急用か。 心なしか来客の声は切羽詰まっているような気もする。息を潜め、居留守を決め込むつもりだったが、たび重なる呼び掛けに仕方なく腰を上げた。 「ああ、いらっしゃいましたか」 戸を開けると、薄汚い衣を纏った爺がいた。 「誰でえ」 「文使いでごぜえやす。扇屋の白糸さんから、文を言付かってめえりました」 文使いは吉原から来たのではない。仲介先である柳橋の船宿から差し向けられていた。 爺は懐へ手を差し込んだ。半紙を斜めにして包んだ文を、大事そうに取り出す。 手渡されて、佐助はげんなりした。 ここ十日の間、白糸から毎日欠かさず文が届いた。 たまの文なら恋心もそそられる。だが日に何通も貰ったのでは、落とし紙ほどの有難味もなかった。 今日はこれで三通目。三度とも使いの人間が違うのは、前の文使いが柳橋まで帰り着かぬうちに、次の文が言付けられるからだった。 一日に三通も来るとは思わなかった、応対しなければよかった、と佐助は後悔した。 爺が佐助の肩越しに家の中を覗き、続いて佐助の顔に視線を移した。 そしてもう一度、本だらけの散らかった室内を見ると、渋い表情を浮かべた。 「確かに渡しましたぜ」 佐助の暮らしぶりから、駄賃を期待するだけ無駄と悟ったらしい。爺は仏頂面のまま、さっと出ていった。 二 何とぞ早くおいでくだされ やまやまお待ち入りまいらせ候 かしく 源内さま しらいと 淀んだ水の中で喘ぐ金魚のごとく、どよーんと気分が沈む。 本日、三通目の文は、さらにしつこい登楼の誘いだった。 初会での約束通り、佐助は二日後に裏を返し、三度目の登楼を経て白糸の馴染客となった。 馴染といっても初会で同衾しているから、妓との間に特別なことはなかった。宴席に専用の蝶足膳と象牙の箸が用意され、誰が注文したのか、二人のために豪華な三つ布団が誂えられていた程度だ。 値段の見当もつかない三つ重ねの布団が象徴するように、佐助は他人の金で遊ぶ身だった。登楼してもつつましく遊ぶだけなのだが、妓楼側では下にも置かぬ大層な扱いで佐助をもてなした。 白糸も他の客をほったらかしにして傍に付きっきり。そのせいで、白糸に振られた男たちが、さかんに源内の悪口を言い立てた。 馴染になってしばらくは、頻繁に通った。 十日の間に三度。それ以上登楼した時期もあったかもしれない。上がれば、白糸を昼夜買い切り、翌朝は遅くまで朝寝をきめ込んだ。 だが、そのうちに白糸の魂胆が読めてしまった。 ──白糸は源内の名前を利用しているだけなんだ。 文をくしゃくしゃに丸め、屑籠に投げ入れた。 白糸は源内とわりない仲になったのをいいことに、その経緯を喧伝した。噂は瞬く間に廓中に広まった。 妓楼も白糸を大々的に売り出した。女嫌いの源内を虜にした妓を一目見ようと、遊客が〈扇屋〉へ押し掛ける。噂は評判へと変わり、評判はさらなる評判を呼んだ。その結果、張見世で白糸を見立てる客も増えた。 もとより白糸は整った顔立ち。佐助と同様、お仙との相似を見い出す輩がいたらしく、わずかの期間に白糸の名は吉原じゅうに轟いた。最近、部屋持ちから座敷持ちに格上げされたとも聞く。本人も筆頭遊女にまで上り詰めるつもりだと鼻息が荒かった。 「女郎の誠」が真っ赤な嘘だと思い知らされ、佐助の足は廓から遠のいた。 源内から愛想づかしをされては、せっかく掴んだ出世の糸口が切れると踏んだのだろう。朝な夕な、白糸の文の攻勢が始まった。「いよし御 見 」だの「またの御見をまつ」だのと「会いたい」を連発する。 身代わりだから源内の名が纏わりつくのは仕方なかった。 しかし頭ではわかったつもりでも、気持ちがついていかなかった。 白糸は商売女だが、憎からずと思った女子だ。廓に通えば通うほど、佐助は己の本性を知ってほしいという気持ちが膨らむのを禁じえなかった。 ところが妓は、巷に知れ渡っている源内の業績を自らが発見したかのように褒め称えるばかり。べたべたした不快な気候と相まって、佐助の心は刺々しさを増すばかりだった。 身代わりになった時、自分は死んだものと覚悟を決めたが、消滅したのは肉体だけで、心はなくなるはずがないと思っていた。 思惑は見事に外れた。 世間の記憶にある〈平賀源内〉の印象は想像以上に強かった。佐助の性 は人々の中に残る源内の大きさに阻まれ、行き場をなくした。自 棄 になって、佐助の意のままに行動したこともあったが、世間は源内の新たな一面としてしか捉えなかった。 「俺の心は、俺のものでしかねえんだ!」 佐助は吠えた。 〈連〉という不可解な集団の中で、自分は与太者たちに寄ってたかって操られている。ひと所に囲われ、廓での乱痴気騒ぎのごとく、面白可笑しく踊らされているだけだった。 ──俺は嫌だ。このまま飼い殺しにされるなんて、ぜってえに嫌だ。 と、叫んだところでどうにもならなかった。自分はこの世から抹殺されている。源内として生きるか、死を選ぶかしか選択肢はなかった。 焦燥が募った。 身の置き所がなくなる。 鳩尾のあたりで濁流が渦巻いている。 口から反吐が出そうだった。 この胸の痞 えを一刻も早く降ろしたかった。 佐助は立ち上がって、室内をうろつき始めた。 部屋の隅に一升徳利が見えた。 徳利は弁天のごとく、艶めかしい姿態をこちらに向けている。 佐助は躙り寄り、徳利の首を握った。 三 熱い…… 顔が火照って、今にも火を噴きそうだ。 閉じた目の裏が、いやに明るい。 熱くて、眩しくて、目が開けられない。 気を目蓋に集める。 やっとのことで視界が開いた。 熱いはずだ。眩しいはずだ。 目の前に火の海が広がっていた。 火事か。 いや、違う。 火は、竈の火のように、ひとところで燃えている。 赤々と、ぼうぼうと、火の粉を噴き上げながら燃え続けている。 火に向かって、じっと目を凝らす。 炎の真ん中で、黒い影がちらちら浮かんでいる。 やがて影は大きくなった。 炎の中に誰かいる。 どうして、俺が。 本多髷に赤い煙管。 強い視線を向けているのは、紛れもなく俺だ。 だが、あいつが俺なら、ここにいて炎を見ている俺は、いってえ誰だ。 顔はいまだに熱い。なのに悪寒で背筋が震える。 源内。 そうだ。源内に違えねえ。 でも、なんで源内が火の中に。 ああ、『根南志具佐』で閻魔大王の男狂いなんか書いたから、罰が当たったんだな。 そこは焦熱地獄なんじゃねえのかい。 それにしても、あんたは俺に似ているんだな。 上がり気味の目尻、威張ったように胡坐なんぞを掻いている小鼻、しゃくれた顎も。 おっと、眉間の皺は俺のほうが少ねえな。 当たり前か。あんたは四十過ぎ、俺はまだ三十だ。 ってこたあ、俺が老けてんのか。 そうじゃない、あんたが若いんだな。 どうした、源内。なぜそんな悲しそうな顔をして、こっちを見るんだ。 なんだか死んだ子の年を数える母親のようだぜ。 そうか、あんたは、いろいろなことをやり残して、あの世へ行っちまったんだっけな。 戯作だの、物産会だの、鉱山だのよ。 あんたが死んじまったせいで、身代わりにされた俺は大弱りだ。 火浣布も、陶磁器も、発明もさ、俺には何一つできねえんだよ。 周りの奴らは、この家に居てくれるだけでいい、って言うがさ、それじゃ傀儡 と変わんねえだろ。 俺は傀儡じゃねえ。正真正銘、ちゃーんと生きてんだ。 この家で、一生酒をかっ喰らって生きてるだけなんて真っ平御免なのさ。 だからよ、もういいだろ。いろんな方面に手ぇ出して、あんたの名前は世の中に充分に知れ渡ったんだから。 ああ、ああ、そんな湿っぽい顔すんなよ。 俺まで悲しくなっちまうじゃねえか。 じゃあ、どうしたらいいってんだ。 俺はあんたの代わりに、何をすりゃあいいんだ。 どうやったら、あんたの代わりになれるんだ。 頼むから、答えてくれよ…… その時、燃えさかる炎の奥から、絞り出すような声がした。 「せ・か・い」 炎が勢いよく左右に揺れ、源内の顔を掻き消す。 「何言ってんだ、〈せかい〉って何だ。おい、源内、げんないぃぃー!」 うおっ、と叫んで、佐助は跳ね起きた。 羽織った浴衣が、じっとりと汗で濡れている。 慌てて周囲を見回すと、鉱物を置いた棚が目に入った。 昨晩、酔って二階に上がり、そのまま寝入ってしまったらしい。 「夢か……」 頭に残る源内の姿を確認し、佐助は肩で大きく息をついた。 四 「げぶぅ」 佐助は饐えた臭いのするげっぷを吐き出した。口の中が、ぬちゃぬちゃと粘っている。 一升の酒を空にした佐助は、前後不覚の体に陥り、目を覚ました時には翌日の朝になっていた。 降り続いていた雨はとうに上がっている。 布団の上で、もぞもぞと胡坐を掻く。 ずいぶん長い間眠ったはずだが、酒が抜け切っていなかった。時鐘代わりに撞きまくられたように頭が痛いし、体もひどく怠い。 どうにか煙草盆を引き寄せて、煙管に火を点けた。 もやもやした煙の向こうに、またしても源内の顔が浮かんだ。 ──夢の中で源内が言った〈せかい〉ってぇのは、何だろう。〈せかい〉は世界か。だが、世界をどうしろって注文だ。 煙と一緒に源内は消えていく。佐助は姿が消えた後も、同じ方向を見つめていた。 突然、脳天に〈せかい〉の在処 が閃いた。 煙管を置き、傍らの棚の下を覗き込んだ。 押し込まれていた紙包みを取り出す。包みを解くと、源内焼の皿が現れた。 図柄に世界地図を使った丸皿だ。春信の家から持ち帰ったきり忘れていた。 両手に皿を持ち、ねぶるように眺めた。 図柄は、陸地が茶、白、黄に、海は緑で彩色されていた。 広大な大陸に、ちっぽけな日本。 その日本から、源内は何を見て、何を考えていたのか。 ──あんたの心残りは、これか…… 夢に出てきた源内の、縋るような目を思い出す。 源内は世界の玄関口である長崎まで行ったことがある。 その際、港に立ち、海を眺めただろう。異国の人々と接触し、未知の言葉や習慣に胸を躍らせただろう。見知らぬ国の、ほにほろの絵のような空の下に立ってみたいと切に思っただろう。いつか世界へ出て行くのだという強い想いを胸に抱き、長崎を後にしたのであろう。 源内は毎年欠かさず本石町三丁目の長崎屋という宿に、参府の蘭人たちを訪ねていたと聞く。世界への憧れは、年々大きく膨らんでいったに違いなかった。 「だが、どう足掻いても、世界だけは無理な相談だ」 佐助は力なく呟いた。 日本は表向きには国を鎖している。日本と異国を繋ぐ窓口は四つしかない。長崎、対馬、薩摩、蝦夷。窓口は、どこも容易く行ける場所ではなかった。 いつの頃からだろう。佐助は、源内の仕事の一部を担いたい、と考えるようになった。 できるなら大海原の向こうへも行ってみたい。未知の世界へ踏み出してみたい。人の一生など博打のようなもの。何もかも振り棄てて、運命に身を委ねる価値は充分にある。 けれど、何の伝 手 もなく日本を出るのは不可能だった。たとえ四つの窓口のどこかに辿り着いたとしても、単身で異国へ乗り込んでいく才覚は持ち合わせていなかった。 ──やっぱり何もできねえのか。 情けなくて、悔しくて、佐助はきつく目を瞑った。 手の甲に、熱い滴が、一つ、二つと落ちた。 五 佐助は悄然として階段を下りた。無力感に苛まれ、肚に力が入らなかった。 厨で水を飲むと、少し気分がすっきりした。 戸を叩く音がする。 また文使いの来訪かと無視しかけたが、遠慮がちな叩き方は使い走りのものではない。 佐助は忙しなく戸を開けた。 「お仙ちゃん……」 走ってきたのか、顔を真っ赤にして〈鍵屋〉の看板娘が立っていた。 「何しに来たんだ?」 客寄せになくてはならないお仙が、朝から神田にいて、いいはずがない。 「近頃、先生の様子が変だって、南畝さんが心配してたから」 顔を曇らせ、お仙が気遣うような表情を見せた。 「あいつに俺の何がわかるってんだ」 「湯屋へ行っても二階には上がらず、すぐ帰るというじゃないの。橘洲さんのお屋敷で開かれた狂歌合わせの会にも出なかったとか」 先月、狂歌会の誘いを受けたが、出席を断った。狂名を隠れ蓑に戯れ歌を詠む〈連〉の馬鹿さ加減に付き合う気力に欠けていた。 「ご執心だった〈扇屋〉の花魁のところも、ご無沙汰のようじゃないの」 「ど、どうして、それを」 佐助は狼狽した。 南畝は白糸の件をお仙に喋ったらしい。丸餅のように円く肥えた南畝の面を思いきり壁に叩きつけてやりたかった。 だが続くお仙の言葉は、佐助の気持ちを別の方向へと導いた。 「廓へも行かず、毎日家に篭っているって聞いたから気になってね。黴でも生やしてぶっ倒れてるんじゃないかと、来てみたの」 お仙は柔らかく微笑んだ。 六 ──心配して来てくれたのか…… 潤んだようなお仙の瞳に、佐助は引き込まれそうになった。 ささくれ立っていた心が和む。 「朝ご飯はまだでしょう? 塩むすびを拵えてきたの」 お仙が携えていた小さな風呂敷包みを掲げた。 「さあ、入って」 佐助は家の中へ押し込まれた。 お仙が厨から茶碗を二つ持ってくる。 お仙の着物は、縹色の薄手の単。屋外では朝陽が眩しくてわからなかったが、小さな格子柄が一面に浮き出ていて、見るからに涼しげな風情だ。帯は白地に竹の葉模様。後ろで大きく、ふっくらと結んでいる。 「今日は暑いから、冷たいお茶も持ってきたのよ」 お仙は手際よく握り飯を包んだ竹の皮を開き、竹筒の中身を二つの茶碗に注ぎ分けた。 握り飯を掴み、大きく口を開けてかぶりつく。ほどよく塩の効いた飯が、口の中いっぱいに広がった。握り飯は三つあったが、米粒一つ残さず平らげた。 「通いのお婆さんも追い出しちゃったんでしょ」 お仙が咎めるように佐助を見た。 「訪ねてくる客が手土産を持ってくるからな。飯炊きの必要もねえんだ」 「洗濯や掃除はどうしてるの」 「独りもんだから、洗濯なんて三日に一度、井戸端で洗えば事は済む」 と言ったものの、洗濯は五日もしていない。掃除に至っては、いつ箒を手に取ったかも覚えていなかった。 「そんな塩梅じゃ、二階の石の片付けも進んでいないんでしょう。今日はお休みを貰ったから、あたしが掃除と片付けを手伝ってあげる」 お仙は二階への梯子を指し示した。 「もう、石なんて要らねえんだよ」 「今、何て言ったの」 お仙が首を傾けた。 「鉱山は、よしちまったんだ。俺が行く必要もねえ。石は捨てちまってもいいのさ」 「どうしたの? 自棄になってるの? あんなに鉱山の仕事に打ち込んでいたじゃない。再開するかもしれないし、石の整理は続けるべきだわ」 お仙のひと言で気持ちが揺れた。胸の奥底で何かが大きく動く。 「鉱山に思い入れがあったのは源内先生だろ。俺は大工の佐助だ」 「今さら何を言うの。お前さんは正真正銘、平賀源内先生……」 お仙が言い終わるのを待たずに、佐助は声をかぶせた。 「戯作は書けねえ、発明はできねえ、本草の知識もねえ。おまけに鉱山の仕事だって、及びでねえときたもんだ。できるのは、酒を飲むことと女を買うことだけ。それでも源内を名乗れってえのか」 肚の底に溜まった澱のような思いを、佐助は一気に吐き出した。 「要するに、俺は源内の抜け殻に過ぎねえんだよ」 七 佐助の豹変に驚き、お仙は口元に手を当て微動だにしなかった。 「お仙ちゃん」 佐助は躙り寄った。 お仙が反射的に身を引く。すかさずお仙の腕を力任せに掴んだ。 その拍子に、佐助の中で揺れていた何かが、ばちん、と音を立てて割れた。 「俺は、お仙ちゃんが好きだ」 一点を見つめて動かないお仙の眼を、佐助は捉えた。 「初めて会った時からずっと憧れてた。お仙ちゃんは、春信の絵に描かれたほどの別嬪だ。とてもじゃねえが手が出せねえ高嶺の花だと思ってた。だから口には出せなかった」 佐助は俯いた。お仙への想いが大きくなりすぎて、うまく扱いきれなくなっていた。 「だが、時折この家で一緒に過ごして、俺はお仙ちゃんに惚れてると、はっきり悟った。お仙ちゃんも、俺を嫌いじゃねえから石の仕分けを手伝ってくれたんだろう?」 腕を掴んだ手に力を込めた。お仙がたじろぐ様子が伝わってくる。 抱き寄せようとして、腕を強く引っ張った。 気づけば、己の胸に華奢な体が納まっていた。 「やめて!」 お仙が佐助の胸を押し返した。 「やっぱり先生はおかしいわ」 「俺は源内じゃねえ、と言ったろ」 佐助は声を絞り出すようにして凄んだ。 お仙も負けていない。声を落とし、鋼の盾のような二つの眼で佐助の視線を撥ね返した。 「いいえ、お前さんは源内先生。というより、先生として生きるしか、すべがないのよ」 確かに、ここにいる源内は偽者でしたとお上に届出をしない限り、佐助は佐助として生きてはいけない。 「俺が嫌いか」 佐助はお仙の気持ちが知りたかった。自分と一緒になり、共に生きてくれるのであれば、たとえ抜け殻扱いをされたとしても耐えられる気がした。 お仙さえよければ、手に手を取って江戸を出奔してもいい。源内の名を捨てて、見知らぬ土地で生きていくのだ。幸い佐助には作事の腕がある。どこへ行っても仕事はあるし、贅沢をしなければ食うには困らない。 「嫌いじゃないわ。でも私にとって、お前さんはいつも源内先生。あたしのおじさんのような人よ。惚れたとか、腫れたとか、そんな浮ついた話じゃない」 お仙は、言葉の最後を、特にはっきりと言った。 ここでも源内の名が付き纏ってくる。 「あたしは、お前さんを源内先生としか見られない。それに……」 「それに何だ」 続きを促した。含みのある言い方が気にかかる。 「あたしには、幼い頃から決まってる許婚 がいるんだもの」 息が、一瞬、止まる。 許婚……お仙に……許婚…… お仙の顔が次第に遠のいていくような錯覚に襲われる。 おぼろげになっていくお仙の口元が微かに動いた。 「ごめんね」 そのひと言が合図だった。 ずっと積み上げてきたお仙への想いが、大きな音を立てて崩れた。 «第十章 狂乱
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