身代わり狂騒曲 風花千里
第十三章 蘇る源内 一 「ふー、暑い」 大判の団扇で仰ぎ、佐助ははだけた浴衣の中へ風を送った。行水をしたばかりなのに、もう汗を掻いている。 二階から見える空は真っ白な入道雲を侍らせ、日光は肌を焦がすような強さに満ちている。ひと月ほど続いた梅雨も終わり、眼に入ってくる全てが夏の到来を告げていた。 浴衣の袂から、昼過ぎに届いた文を取り出し、ざっと読み返す。 ──いったい何をしに来るんだ。 差出人は南畝。相談したい件があるから家で待っていろ、という内容だった。 ──糞暑いのに、ご苦労なことだな。辿り着く前に道端で倒れちまわなきゃいいが。 暑さに弱そうな南畝の体躯を思い出した。 吉原で同席して以来、南畝とは顔を合わせていなかった。佐助はしばらく吉原通いに忙しかったし、南畝は御役目と浄瑠璃本の執筆に掛かりきりだった。南畝ばかりではない。重三郎とも同じ時期から会っていなかった。 ──春信とお仙ちゃんには、迷惑を掛けちまったな。 このひと月の己の狂乱ぶりに思いを馳せる。今でこそ冷静に振り返れるが、当時は鬱積した不満の捌け口が見つからず、常に悶々としていた。 ──春信がいなかったら、俺は人を殺めるか、さもなくば発狂してたかもしれねえ。 春信は佐助の行状を諌めると同時に、今後の身の振り方まで案じてくれた。江戸を離れろと助言してくれなかったら、今も鬱々として破壊行動を繰り返していたかもしれない。 その大恩人が、近頃、病みついている。 昨日、工房を訪ねた。 春信に会い、江戸を出る決意を伝えようとした。 ところが工房には弟子の姿しかなく、そのうちの一人が春信の不調を教えてくれた。 一目会いたいと頼んだが、床に臥せっており、会える状態ではないと拒まれた。 江戸を出ようと決めた今、春信の容態だけが気掛かりだった。 ──南畝の相談とは、俺の行く末にかかわる話かもしれねえな。 春信は〈連〉の仲間に佐助の処遇を諮ると言っていた。 ──もう俺の気持ちは決まっている。 鉱物が並んだ棚に手を伸ばした。 ──綺麗だ。この世のものとは思えねえ。 あちこちが瑠璃色に光る石。大人の握り拳ほどの石を取り上げ、文机に載せた。 瑠璃色の部分の名は膽礬 という。初めて見た時から、この石に心を奪われた。日に何度も眺めるうちに、無性に石の名前を知りたくなった。 源内は得た知識を事細かに書き記していた。胆礬の名も家にあった著書の中に見つけた。 源内の残した膨大な資料を読み漁るうち、佐助は本草学の知識を得ることができた。 ──家に籠って戯作三昧なんて生活、先生は望んじゃいねえ。 直接源内を見知っていたわけではない。だが、自信を持って断言できた。 本草学の兄弟子の話によれば、源内は行動的な学者だったらしい。 家で紅毛の書を繙くより、屋外で薬種になりそうな草木や動物、鉱物などを探すほうに重きをおいた。日々、方々を駆け回り、ほとんど家に帰らなかった時期もあるという。 また一方で、源内は人と人との繋がりを大切にしていた。 諸国の物産を集めた薬品会を開いた際も、全国の本草学者から出品を募るために、引札(広告)を作った。引札は各地の薬種問屋を通じて学者たちに配られ、薬品会を大々的に宣伝するのに力を発揮した。 源内は宣伝と運営に、自らが培った人脈を漏れなく活用した。 その結果、全国から珍しい動植物や鉱物などの見本、標本が江戸の会場に多数集まった。出品した学者のみならず、医者や身分の高い武士までが来場した。 学者としての源内の目は、常に「外へ」向いていた。 佐助も体力だけは人並み以上にある。江戸を出たら、知られざる鉱脈を探して、諸国を旅して回りたいと考えていた。 それが自分にできる源内への供養だと思った。 階下で音がした。南畝がやって来たのだろう。 佐助は石を棚に戻した。 二 「何だ、おめえまで来たのか」 開けっぱなしの戸口に重三郎がいるのを見つけた。 ──二人も押し掛けてくるとは。まさか俺の処遇とやらが悪い方向に行っちまったんじゃねえだろうな。 佐助は崩しかけた相好を引き締めた。 「ちょいと、お願いがありまして」 相も変わらぬ一癖ありげな面構えで、重三郎が応じた。 「入れ。しばらくしたら、南畝も来るはずだ」 招き入れると、重三郎は框を上がってきた。 「お願いってえのは、何だ」 重三郎が座敷に入って来るなり、間を置かずに訊ねた。もったいぶって腹の探り合いをするのは性に合わなかった。 「単刀直入に言うと、我々と一緒に主殿頭様のお屋敷へ行ってもらいたいんです」 重三郎は密事を伝えるかのように声を低めた。 「主殿頭様? って、まさか……」 「破竹の勢いで出世なされ、大樹様の側用人の地位にまで上り詰めておられる方のこと。主殿頭様は、源内さんを常に高く買っておられた」 田沼意次といえば、長屋のおかみさん連中の四方山話にまで登場する、今を時めく幕府の要人だ。 「源内は浪人の身だろう? 何ゆえ、側用人の重職に就くお殿様と交流があったんでえ」 源内は刀も二階の納戸に仕舞い込んでいたほどだ。幕府の高官と面を突き合わせて歓談する場面は想像できなかった。 「源内さんだけに限った話じゃありません。主殿頭様は才能のある人材をご自分の周りに集め、ざっくばらんに交流されているんです。末席ながら、私もしばしば招かれております」 「町人のおめえもか」 「武士だろうが、町人だろうが、はたまた職人だろうが、主殿頭様がその才を認めた輩なら、誰でも出入り自由なんです。あなたには話していませんでしたが、源内さんは主殿頭様の御屋敷からの帰り道に亡くなったんです。おっと、南畝が着いたようだ」 重三郎が戸口を振り返った。 三 「よかった。どこかに行ってしまったんじゃないかと思って、ここに来るまで気が気じゃなかったですよ」 南畝は大げさに肩を上下させた。 「何を言ってんだ。おめえが文なんか寄越しやがるから、今まで待ってたんじゃねえか。お屋敷に行くって話は重三郎から聞いた。話ってえのはそれだけなのか? まだあるんなら、さっさとしやがれ!」 佐助は半ば脅すように急かした。 「あれっ? 病気だって聞きましたけど、元気そうじゃないですか。実は春信さんからの口添えがあって、源内さんにしばらく旅に出てもらおうという話になったんですよ」 やはり、きちんと〈連〉に話を通してくれたようだ。春信の心遣いに佐助は心の中で手を合わせた。 佐助は金で買われた身。自分からは身代わりを辞められないが、許可があれば江戸を離れて活動できる。 「そいつは、ありがてえ」 興奮を抑え切れず、声が上擦った。 「俺は家に引き篭って御託を並べる性分じゃねえようだ。旅はただの一度もしたことねえけど、全国津々浦々を回っていいってんなら、こんなに嬉しい話はねえよ」 心を厚く覆っていた雲が、次第に晴れていく。 「で、いつからだ? 今からでもいいのか」 逸る気持ちに背を押されたように、前のめりになった。 気持ちは決まっている。江戸を出ろというなら、すぐに出発してもいい気でいた。 だが、南畝はせわしく佐助を制した。 「あなたが早く発ちたいと言うなら、すぐに支度を調えます。でも、少しだけ待ってください。主殿頭様が、どうしても源内に会いたいと催促されているんです。今日だけは、我々と共にお屋敷へ行ってもらえませんか」 と、珍しく低姿勢で懇願する。 どうせ行き掛けの駄賃。これほど頼まれるなら、ざっくばらんな殿様とやらに会ってもいい、と思っていた。ただその前に、一つ質しておかねばならない件がある。 「主殿頭様は、俺の正体をご存知なのか」 南畝がさっと視線を逸らす。答えは聞かなくてもわかった。 となると、源内と懇意だったという幕閣の重鎮と相対し、役目を全うできるかどうかだ。 「田沼屋敷へ行けってんなら、行かねえこともねえ。だが、主殿頭様に会った時に、ぼろを出しちまうかもしれねえぞ。それでもいいのか」 南畝は床を見つめて、じっと考えていた。 やがて「大丈夫……」と小さく頷いた。 だが、その後が続かない。これでは何が「大丈夫」なのか、さっぱりわからない。 またしばしの沈黙があって、今度は重三郎が口を開いた。 「何とかなりますよ」 と言いながらも、重三郎の顔は冴えない。それでも自らを鼓舞するように声を励ました。 「今日のところは、口の中に出来物ができたとでも言っておいてください」 「はっ? 喋らねえでも、いいのか」 佐助は仰天した。 策謀家とも名高い意次を、そんな子供騙しの手で欺けるとは思えない。 「こういう時は下手に誤魔化すより、喋らないほうがいいんです」 「だが、殿様は俺と話がしたいんだろう? 黙っていられねえかもしれねえぞ」 「その時は、『はい』とか『いいえ』とか、適当に相槌だけ打っておいてください」 どうやら本当に仮病を使わせる気らしい。うまく遣りおおせるか不安は尽きないけれど、二人の切羽詰まった顔つきを前にすると、今さら、行けない、とは言えなかった。 「わかったよ、相槌だけならできそうだ。俺を田沼屋敷とやらへ連れていってくれ」 と、勢いよく席を立った。 四 「何だ、この駕籠は」 舁き手に担がれた黒塗りの駕籠に、佐助は目を奪われた。南畝が乗ってきて待たせておいたらしい。狂歌会の時、平角が乗っていた代物によく似ていた。 「決まってるじゃないですか。あなたのための駕籠ですよ」 南畝が駕籠の戸を開け、中を示した。外見と同様、中も金のかかった瀟洒な造りだった。 ──途中で気が変わって逃げ出さねえように、閉じ込めて運ぶつもりだな。小賢しい烏賊野郎め、一丁からかってやるか。 駕籠に向かって、顎をしゃくった。 「おめえが乗っていけ」 南畝がきょとんとした顔で振り仰いだ。 「いや、これは私じゃなくて、源内さんのため……」 「こんなもんに乗ったら、窮屈でたまらん。俺の体は、そんなに鈍っちゃいねえんだよ」 「で、でも、平角さんが駕籠で連れて来いって」 南畝の声が言いわけがましく小さくなっていく。 ──やっぱり平角の差し金だったか。あの男がこんな小細工とは、相当慌ててるな。 無性に可笑しくなった。いつも澄まし返っている色男が、佐助を田沼邸へ送り込もうと躍起になっている。 「つべこべ抜かすな! 駕籠に乗るなんて、ぜってえ嫌だからな」 佐助は啖呵を切った。 「源内さんの勧め通り、お前が乗っていけ。私も源内さんと一緒に歩いていくから心配するな」 重三郎が、南畝の背を駕籠の中へと押し込んだ。 駕籠を両側から挟むようにして、佐助と重三郎は田沼屋敷への道のりを歩く。 途中で南畝は何度も戸を開け、佐助に話しかけた。佐助が気紛れを起こして遁走しないよう確かめているのが見え見えだった。 意次の下屋敷は木挽町にある。 木挽町は、町奉行所によって歌舞伎興行を許された江戸三座がある芝居町。源内は二代目瀬川菊之丞の贔屓だったから、頻繁に足を踏み入れていたはずだった。 また、江戸の芸能文化の中心地としても繁栄していた。芝居小屋以外に、手妻、曲芸など、さまざまな演芸が催されている。意次の屋敷は町の喧騒から少し離れた場所に位置していたが、芝居町特有の華やかで艶めいた雰囲気は充分に伝わってきた。 長々と続く、低い築地塀が途切れたところに、趣のある表門が見えた。 「ここか……」 佐助は密かに息を呑んだ。 武家屋敷を訪れるのは二度目。だが、田沼屋敷の広さは橘洲宅の比ではなかった。 南畝は乗ってきた駕籠を下りていた。 重三郎が門番に来訪を告げる。 ──すげえ…… 眼前に見える広大な敷地に、佐助は度肝を抜かれた。 ──俺の家が百軒は入りそうな広さだぜ。 意次の上屋敷は神田橋にあるが、番町界隈の旗本屋敷に比べると、この下屋敷の雰囲気は格別にくだけていた。 遠くに建つ母屋のほうから誰か来る。 「あれが主殿頭様か」 佐助は目を凝らした。 近づいてくる人物は、遠くから眺めてもわかるくらい見目形の良い男である。いよいよ屋敷のあるじと対面するかと思うと、佐助の胸はにわかに高まった。 南畝が嘲るような調子で遮る。 「違いますよ、あれは平角さん。先に着いてたんですね」 言われてみれば、少し俯き加減に歩く様は平角の癖だった。平角は大股でずんずん歩いてくる。佐助たちも延々と連なる敷石を踏み、母屋へ向かって進んだ。 連なる石の中程で、四人は顔を合わせた。 「遅いので、痺れを切らして迎えに出てきた」 平角の口調は珍しく忙しない。 「すみません。でも、南畝を駕籠に突っ込んできたので、これでも早く着いたほうです」 重三郎が苦笑した。確かに南畝を歩かせていたら、まだ馬喰町の辺りをちんたら進んでいたかもしれない。 「主殿頭様がお待ちだ、急ごう」 平角は三人を促すと、母屋の玄関に足を向けた。 五 意次は屋敷の最奥に位置する離れで待っていた。 「よく来たな。待っておったぞ」 意次は品のいい細面を崩し、一行を迎えた。光沢のある花 葉 色 の単 を着流しにして、寛いだ格好だ。 「遅くなりまして申し訳ございません」 南畝が畏まって挨拶をした。こういう時は緩んだ丸顔も厳めしい幕臣の面に変わる。 「はっはっ、おぬしが一緒だから、時間が掛かると思ってはいたがな」 南畝の出張った腹を眺めながら、意次が陽気に笑った。 ──実に快活で感じのいい殿様じゃねえか。 佐助は失礼にならぬよう、そっと目を向けた。 意次は五十に近いという。小柄だが、肌に張りと艶があり、全身から生気が漲っていた。 「久しぶりだな、源内。秩父からは、いつ帰って参ったのだ」 佐助が答えずにいると、重三郎が膝を進め、意次に向き合った。 「私が代わりにお答えします。源内さんが戻ってきたのは、つい最近でございます」 「なぜ、おぬしが答えるのだ」 横槍が入り、意次は不服そうに目を見張った。 「源内さんは口の中に大きな出来物ができております。痛みがあり、あまり口が開かない。『はい』『いいえ』ぐらいしか返事ができませぬ。源内さんにお訊ねがございましたら、わかる範囲で、ここにいる三人がお答えします」 重三郎が澄ました顔で、仮病をでっち上げた。 「口の中に出来物か。まあ、よかろう。今日は源内に相談があるのだが、一杯やりながら話すとしよう」 意次は廊下に向かって手を叩いた。 女中たちが入って来る。佐助、南畝、重三郎の前に膳が置かれた。意次と平角の前には箸のつけられた膳が据えてある。 一行を待ちわび、二人は先に飲み始めていたようだ。 腰の軽い重三郎が銚子を取り上げ、皆に酒を注いで回った。 「秩父の鉱山は、いったん休山にしたそうじゃないか」 酒を口に含みながら、意次が訊ねた。 平角のおもてに緊張が走った。重三郎の表情は懸念に満ちている。 「はい」 佐助は首肯した。意次の質問は、ひと言で答えられる無難な問いだった。 平角が間を置かずに、話を引き取る。 「これ以上掘っても大した成果がないとわかったので、秩父は休山としました。主殿頭様が期待を懸けていらした事業ですから、源内さんはまた別の山を考えているそうです。今しばらく、お待ちください」 「ほう、別の山を。それは楽しみだな」 意次はまた盃に口をつけた。 平角がこっそり息を吐いた。怖いもの知らずでならす平角が、意次の一挙一動に肝を冷やしている。 ──この御仁は、そんなに怖えのか。 意次とは初対面だが、佐助には気さくで磊落な殿様に見える。鉱山に期待していたのだから、源内とは話が合ったのだろう。 意次に対する佐助の印象は悪くなかった。童子のような屈託ない笑顔を見ていると、冷酷な遣り手という世間の評判が嘘ではないかと思われた。 だが、他の三人は落ち着きがない。特に平角と重三郎は、意次が口を開くたびに顔を見合わせ、何やら目配せをする。 「戯作のほうは、どうだ? 進んでおるのか」 意次が唐突に話題を変えた。 「はい」 佐助が物しているわけではないが、戯作は誰かが書いているはずだ。 南畝が補足する。 「源内さんは今、浄瑠璃本の執筆にかかっております。『福内鬼外』という名前で、来年の初めには出版されるはずです」 「浄瑠璃本か。相も変わらず、源内は多才な男よのぉ。そういえば、狂歌にも手を染めておるそうじゃないか。何でも死んだ母親の名を取り、狂名を『雀野鈴鳴』と称したとか」 意次が可笑しそうに笑った。それから、ふと真顔になり、佐助の目を覗き込んだ。 「先ほど相談があると申したのは、其方の身軽さを見込んでのことだ。鉱山開発が頓挫した今、少しの間、暇ができたのではないかな」 「はい」 「だったら、どうだ、阿蘭陀翻訳御用として、長崎へ行ってみないか」 「ええっ! 長崎ぃい?」 一言で答えるという段取りも忘れ、佐助は大声で叫んでしまった。 六 「主殿頭様!」 「いきなり翻訳御用は無理でございましょう」 重三郎と平角が口々に声を上げた。阿蘭陀翻訳御用の話は寝耳に水だったと見える。 「別に驚くことはなかろう。源内ならできると見込んでの話だ」 意次が声に力を込める。 佐助の中で、何度も「長崎」の地名が躍った。源内が最後まで心に懸けていた〈世界〉。その玄関口に、一介の大工だった男が派遣されようとしている。 一方、平角と重三郎の慌てぶりは頂点に達していた。 いつもはどんと構えた平角が、額に脂汗をかいている。重三郎も鼻の先を掻いたり、手を擦り合わせたりと、ひどく落ち着きを欠いていた。 ──春信から俺の行状を聞いて心配してるな。 意次は、佐助を源内だと信じて御用を命じた。もし眼前の男が源内の偽者だと知れば、ただでは済まない。世を謀る輩として計画に関わった者をこの場で手討ちにするかもしれない。あるいは、素知らぬ振りをしておいて後から罰するか。 「我が国は誠に狭い国だ。しかも表向きは、異国に対して国を鎖しておる」 意次が熱っぽい口調で続けた。 「江戸に都を移した頃は、それでもよかった。だがこれからの時代は、異国ともっと密に交流せねばならぬ。いつまでも『井の中の蛙』では、いかんのだ」 「ですが、翻訳御用といえば、通詞のように阿蘭陀語に精通していなければなりませぬ。源内さんに、それほどの力量があるとは思えませぬ……」 平角が異論を唱えた。阿蘭陀翻訳御用とは通訳のような仕事らしい。 「心配無用。阿蘭陀語を喋れぬのは承知の上。通詞は他に大勢おるから、大丈夫だ。それより源内にはもっと広い目で異国を感じてきてほしいのだ。蘭学、本草学、交易。長崎という異国に最も近い場所で、直 に見聞きしたり考えたりしたことを、躬 に逐一、報告してくれれば、それでよい」 意次の視線は、佐助の目を捉えて離さなかった。 意次に断じられれば平角も黙るしかない。苦渋の色を滲ませ、佐助の反応を窺っている。 ──本当に、俺なんかが主殿頭様の下で動いていいのか。 佐助は独り考え込んでいた。 世界の中の日本は、白飯の上にのった芥子粒のような、小さな小さな存在である。 そのちっぽけな日本から外へと向けられる目がある。意次の真摯で熱を帯びた眼差しだ。 そして意次と同様、源内の目も、海を越え、遥か遠くを見つめていた。 佐助は意次の熱い想いに打たれていた。 異国との交流に意欲を示す強い気持ちに痺れた。 「せ・か・い」 源内が囁く。源内が佐助を後押ししている。 意次の誘いを逃したら、二度と世界を見る機会はない。 お仙にも活を入れられたではないか。果報を待つより、自ら動いていけ、と。 佐助は意を決した。 「このお話、ありがたく、お受けいたします」 七 「おい!」 平角が腰を浮かせた。 「本当に行くつもりか? あんたは、一度も旅なんかしたことな……」 平角は話の途中で押し黙った。源内と佐助がごちゃ混ぜになり、口が滑ったらしい。 場の空気が、きしり、と凝 る。 にこやかに綻びかけていた意次の表情が、一瞬で固まった。 「平角、敬愛する源内先生を『あんた』呼ばわりするとは、穏やかではないな」 と、蒼白になった平角を、ぎろりと睨む。 「それに一度も旅をしたことがないたあ、どういう意味でえ。源内は、長崎だの大坂だの、方々へ足を延ばしていたじゃねえか。源内の口に出来物ができてるだの、どうもおかしいと思ってたんだ」 意次の口調が、突然、べらんめえ調に変わった。 「てめえら、何を企んでる? 隠し立てすると、ただじゃあ置かねえぞ。さっさと吐きやがれ!」 五寸釘をどすどす打ち込むような調子に、南畝が身を捩って震え出した。 「あ、あの、平角さんは昨日から熱があって物言いがおかしくなっているのです」 佐助が出来物のために喋れず、平角は熱に浮かされて失言する。これでは話が出来過ぎていて、かえって意次の疑念を招くのは明らかだ。 激昂しやすい性質と見え、意次は額に青筋を立てていた。 幕臣二人と商人一人は、なす術もなくひれ伏している。 だが、佐助はなぜか不可解な思いで宙を見つめていた。 ──何かおかしいぞ。 広げた網の中に、何かが掛かった気がした。 しかし掛かった獲物がなかなか見えてこず、もどかしさを感じる。 ──雀? 一つの言葉が浮かんだ。しばらく反芻してから、重三郎をそっと小突いた。 「おい、源内のおっ母さんは存命か」 「はっ? 御母堂は讃岐で元気にしておられます」 重三郎が平伏したまま小声で返してきた。 「それは、皆が知っている話なのか」 「親しかった人なら誰でも知ってます。源内さんの母親想いは有名でしたから。でも、今はそんな話をしている場合じゃない」 重三郎は佐助を窘めた。 「申し訳ございませぬ!」 平角が叫んで、意次の前に出た。 「何でえ、その真似は」 意次が怒気を露わにして、立ち上がった。 「実は、ここにいる源内さんは、本物ではないのです」 「何? この男は源内の偽者なのか。本物は何処にいるんでえ」 「本物はすでにこの世にありませぬ。こちらで酒宴があった際、帰りに酔って足を滑らせ」 「死んだのか」 「はい……」 平角の声は消え入りそうだった。 「死んだ男の偽者を連れてくるなど、おめえら、いったい何を企んでんだ?」 意次の視線は、人を何人も串刺しにできそうなほど鋭かった。 平角は床に頭を擦りつけ、観念したように無言でいる。 「だんまりか。うぬう、許せねえ。どうしてくれよう」 意次が床の間の刀掛けに躙り寄った。 「待っておくんなせえ!」 佐助は二人の間に割って入った。 「何だ、偽者のくせに」 意次は刀を掴んで、仁王立ちになった。 「そうだ。俺は源内の身代わりだ。だが、主殿頭様。あなた様は、俺が身代わりだってぇことを、端っから御存知だったんじゃありませんか」 「何を証拠に、そのような戯けた台詞を」 「さっき主殿頭様は仰いましたね。俺の狂名は死んだお袋の名を取ったと。確かにお袋の名前の『鈴』を入れ、〈雀野鈴鳴〉と名乗った。だがね、本物の源内の母親は、まだ生きている。あなた様は源内と親しかったから、母親が存命なのは承知なさっていたはずだ」 束の間、座敷の中に沈黙が漂った。 誰も彼もが、己の内に閉じ篭ったようだった。 八 「くっくくく……」 意次が、くぐもった声で低く笑った。 平角が頭を上げ、呆然と意次を凝視している。 「さすがだな。面だけでなく、その歯に衣着せぬ物言いも源内にそっくりだ」 意次の目から、先ほどまでの殺気が消えていた。 「佐助。躬はその方の正体を存じておった。源内は機知に富んだ男だったから、その身代わりがどの程度の玉か試してみたのだ」 「と、主殿頭様、今、佐助と仰いましたか。なぜ身代わりの名前まで」 重三郎の顔にも狼狽の色が濃かった。佐助の名は〈連〉の中でも限られた人間しか知らないし、何より、佐助自身が本名を使わなくなっている。 しかし佐助の胸には、ぴんと閃くものがあった。 意次は源内と同じ熱い情熱を秘めた男。二人は固い絆で結ばれた同志だったはずだ。 「主殿頭様は源内の才能を高く買っていた。もしや、身代わりなんて与太を考え出したのは、あなた様じゃ」 重三郎が息を呑んだ。計画が自分たちの手柄だと信じ切っていたのだろう。 「その通り。源内を生き返らせたいと考えたのは、この躬だ」 意次はたっぷりと間を取って真相を明かした。まるで千両役者のようだ。大江戸一の洒落者は、どうやらこの殿様らしい。 「躬は、源内の奇想天外な着想にいつも驚かされていた。奇妙奇天烈な発想を面白がっていた。だが、この世に甦らせたいと考えたのは、奴の才能を惜しんだというだけではない。当の源内でさえ考えつかぬような突飛なやり方で、盛大にあの世へ送ってやりたかった。それが、奴への手向けだと思ったのだ」 自ら銚子を取り上げると、意次は手酌で酒を注いだ。 「だから源内が死んだ夜、訃報を知らせに来た南畝に命じた。どんな手を使ってでもよいから、源内を甦らせてみせよ、とな」 と、薄笑いを浮かべて盃を干す。 だが、意次の目は笑っていなかった。土砂降りの後の池の面 のように、複雑な色を宿していた。 ──こりゃ、一枚も、二枚も、役者が上だ。 意次はただのざっくばらんな殿様ではなかった。源内を再生させたい理由も、きっと綺麗事ばかりではないのだろう。 傍らで、平角と重三郎が南畝に対して怒りの矛先を向けていた。 「てめえ、俺たちを騙したな!」 平角が噛みついた。 「源内さんが死んだ日、お前は朝方になって、のこのこ帰ってきたな。あの時に主殿頭様の命を受けていたのか」 重三郎も、悔しそうに南畝を睨めつけた。 「他でもない主殿頭様の思いつきですから。うまくやりおおせるには、まず味方から欺かなくては。烏賊野郎には烏賊野郎の遣り口ってものがあるんですよ」 南畝は、ふんぞり返って鼻の穴を膨らませた。 意次が佐助の名を呼んだ。 「この三月ほどの生活の様子を聞き、その方は源内の一部になれる、と思った。絵描きの才はもちろんのこと、戯作も読めるようになった。隣近所ともうまく付き合っているそうではないか。何をやらせても、飲み込みが早いたちなのだな」 「よく御存知でございますね。まるで俺の家を覗いておられたようだ」 「躬を誰だと思うておるのだ。その方の暮らしぶりを調べるぐらい造作もない。ただの一日も掛からぬわ」 意次が不敵な笑みを見せた。小柄な体がやけに大きく見える。威嚇しようとして毛を逆立てた化け猫のようだった。妖気めいたものが意次の体を包んでいる。 しかし意次の一挙手一投足に臆してはならない。是が非でも訊いておきたい件があった。 「一つ、お訊ねしてようございますか」 「何なりと申してみよ」 「身代わりが源内として生きていけると、主殿頭様は本気で思っておられたのですか」 意次の片眉が不自然に動いた。沼の奥底を浚うような目つきで佐助を眺めている。 佐助は真実を知りたかった。 意次は茶番が本当に成功すると考えていたのか。たいそうな策を講じて甦らせようとしたのは、死者への手向けばかりではなかろう。 源内は薬品会を通じて、全国に情報網、つまり巨大な〈連〉を持っていた。重三郎が源内の死後も新しい商売にその名を必要としたように、意次も源内の持つ〈連〉を利用したかったのではなかろうか。 利用したいのなら、利用されてもいい、と佐助は思った。 だが、それには条件がある。意次が本気で与太を形にする気があるのかどうかだ。真剣に考えているなら、応えねばならない。 「源内は必ず甦ると信じておった。ただ、駒の動かし方をしくじったのだ。躬はその方が気を病むとまでは考えつかなかった」 意次はそこで言葉を切ると、平角と重三郎を見遣った。 立てた駒が倒れるように、二人は、はっと面を伏せる。 「その方が正気を失いかけておると聞き、いったんは諦めかけた。源内は冥土へ行ってしまったのだし、これ以上事を進めて、病人をつくり出しても、死者は喜ぶまいと思ったのだ。ところが……」 「ところが?」 「その後は、この者に聞くがよい」 意次が立ち上がり、控えの間とを隔てる襖を開いた。 九 襖の先に一人の女が手をついていた。 「お仙ちゃん!」 思わず声を上げると、お仙は座敷へ入ってきた。 南畝の隣に座ると、ぺろんと舌を出す。 「あたし、主殿頭様から、源内先生のお目付け役を仰せつかっていたの」 「なんでまた、お仙ちゃんが……」 と呟いたところで、気がついた。紺屋稲荷で果たし合いをした際、政之助が零していたではないか。 「お仙ちゃんの大事なお勤めってのは、俺を見張る役目だったのか」 「前に言ったじゃないの。私も江戸の水で産湯を使ったくち。〈甦る源内〉なんて大仕掛けの絡繰芝居に関われるなんて、何を置いても、駆けつけなくちゃ」 男伊達のように、お仙が捲り上げた細腕をさすった。 「躬はその方の様子を逐一聞いておったが、先日、お仙が直訴しに来たのだ。源内先生をひとところに閉じ込めておくな、と」 意次がどれほどの権力を持っているのかは知らぬが、いくらさばけた殿様とはいえ、茶屋の娘が一人で頼み事をするのは相当の勇気がいるはずだった。 お仙がわが身を案じてくれたと思うと、たとえ源内の代わりだったとしても、佐助は嬉しかった。 「その方を長崎へ遣わそうと思いついたのは、その時だった」 意次が語るのを聞いて驚いた。阿蘭陀翻訳御用の話は、お仙の直訴が引き金になったということだ。 「躬も初めは身代わりには荷の重い役目だと考えた。しかし、源内は片時もじっとしておらぬ男だったのだ。なれば紅毛の言葉など喋れなくともよい。呑み込みのよい其方なら、長崎に行きさえすれば、どのようにも動けるはずだ。そして、いずれ異国との交易を強化し、躬と共に日本を富める国に導けるはず」 意次は思いの丈を一気に吐き出した。 「お仙の訴えを聞き、このまま源内の夢を、躬の夢を諦めてはならぬ、死者のためにも、源内の仕事を継ぐ方法を考えなければならぬ、という意を強くした」 意次は目を閉じ、天井を仰いだ。その目の裏には、在りし日の源内の姿が映っているに違いなかった。 「その方が長崎へ行ってくれるなら、後楯を惜しまぬつもりだ。その方、博打が好きだったそうではないか。ならばこの意次の仕掛けた大博打に、どうだ、一丁、乗ってみぬか」 意次の力強い声に、体の芯が熱くなった。 苛々が募っていた頃の不快な熱さではない。 もっと昂るような、心地のいい熱さだった。 ──この博打打ちの殿様に、ついていってみるか。 佐助は勝負師めいた意次の瞳を見つめた。 «終章 旅立ち
序章 源内死す | »第1章 佐助の憂鬱 | »第2章 葬式 |
»第3章 修業の始まり | »第4章 重三郎の懸念 | »第5章 連 |
»第6章 工房 | »第7章 吉原詣 | »第8章 扇屋 |
»第9章 夢 | »第10章 狂乱 | »第11章 果たし合い |
»第12章 密談 | »第13章 甦る源内 | »終章 旅立ち |
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