五月は薄闇の内に─耕書堂奇談 風花千里
第一話 歌麿の肉筆画(後) 二十 蔦重は半信半疑で京伝の顔を凝視した。 確かに顔の造作は本人のものだ。 だが、京伝の顔は暗闇の裂け目にぽっかりと浮かんでいて、首から下は手妻師が掻き消したように全然見えない。 「魚をちょろまかした泥棒猫みてえに、びくついているなよ」 おちょくるような口調で吐 かしながら、京伝が裏口から押し入ってくる。 「おめぇ、体に何を纏ってんだ」 蔦重は唖然とした。 座敷からの僅かな明かりに捉えられた京伝は、
2017年11月21日火曜日
2017年11月15日水曜日
短歌十首「影を踏む」/ 風花銀次
影を踏む 風花銀次 月照れば亡き人の影踏むばかりなる心地する夜ふけなりけり 月の裏側を是非見にきたまへと朋より轉居通知が屆く 機影どかと踏むべくありぬ 向日葵の迷路をたれにも遇はず出でけり リア充も非リア充も死に絶えて空は澄み鳥の歌はラブラブ 送り火は焚かない どうせ歸らないんだらうし、ずつとゐるんだらうし 紫式部ならざる小紫一枝載せて半月盆の漆黑 ねがはくは十月櫻の花のもと黃昏の國にこそ死なめ
2017年11月11日土曜日
小説「五月は薄闇の内に─耕書堂奇談」(2)/ 風花千里
五月は薄闇の内に─耕書堂奇談 風花千里
第一話 歌麿の肉筆画(中) 十二 「加減はどうだえ」 うっすらと目を開けると、女房のお芳 が覗き込んでいた。 いつの間にか蔦重は、母屋の寝間に敷かれた分厚い布団の上に寝かされていた。 お芳が蔦重の額に手を当てる。今年で四十になるお芳は、芝神明町の暇瑾問屋の娘だった女だ。 「熱は下がったようだね。一時はどうなることかと心配したけど、これで、ひと安心だ」 「昨晩、この家で女が泣いていただろう。聞こえなかったか」
2017年11月7日火曜日
童話「ヘビのニョロリ」/ 志野 樹
ヘビのニョロリ 志野 樹 ヘビのニョロリは、なかまのヘビとは少しちがっていました。 話をするときは、ゆーっくりとしゃべりますし、前にすすむときは、名前のとおり、ニョロリ ニョロリ ニョロニョロ~リと、ゆるやかにうごきます。 雨上がりのある日、ニョロリは、しめった林の中をさんぽしていました。 すると、一ぴきのムカデと出くわしました。大きくはありませんが、よく太ったムカデでした。 「わあ、おいしそうだなあ」 ニョロリは、口をあけて、ムカデを食
2017年11月1日水曜日
小説「五月は薄闇の内に─耕書堂奇談」(1)/ 風花千里
五月は薄闇の内に─耕書堂奇談 風花千里
第一話 歌麿の肉筆画(前) 一 五月晴れの少々蒸し暑い日の昼下がり。 地本問屋「耕書堂 」のあるじ、蔦重 こと蔦屋重三郎は、吉原の目抜き通りである仲の町 を歩いていた。 通りの真ん中には、紅紫、青紫、紫、白と色とりどりの花菖蒲が植わっている。四月は大金を投じて同じ場所に桜の木をずらりと植え、満開の時季は壮観だったものだが、花が散るやいなや、すぐに来るべき季節にふさわしい草木に植え替えられた。長年、あまたの女を使い捨てにして栄えてきた吉原ならではの習わしだ。 花菖蒲の植え込みから目を転じ、何気なく揚屋町の路地を、ひょいと覗いた。 狭い路地の奥から「あれぇ」という女の声がする。 切羽詰まったような声に気をそそられ、路地へ飛び込んだ。 吉原の他の五つの町と違い、揚屋町は日用品を商う店が多い一画だ。裏通りは小間物屋だの団子屋だの、小さな店が犇めき合っている。また、さらに奥へ進むと怪しげな茶屋があちこちに点在した。 蔦重を路地へ誘い込んだ声は、芸者が情 人 としけこむ際に使う、天神茶屋のあたりから聞こえた。 路地を入って二つ目の角を左に折れ、また一つ目の角を右へ。 天神茶屋の提灯が見えてきたところで、男が地面に俯せになって倒れていた。二藍 の単を着流しにした遊び人風の優男だ。 あやうく躓きそうになり、蹈鞴 を踏んで男の体を跨ぎ越す。 「大丈夫か」 振り返りざまに声を掛ける。しかし男は微動だにしない。俯せの左の腋にじわじわと血が滲み出している。 その時だった。女の鋭い悲鳴が、廓特有の甘く噎せ返るような鬱気を切り裂いた。 見れば、自分に向かって女が駆けてくる。女は蔦重の姿を認めると、一瞬ぎょっと驚いたような顔をした。 が、すぐ助けを求めるように右手を伸ばした。 蔦重はその場から動けなかった。女の背後から、一人の武士が刀を振り翳していた。 青空から降り注ぐ陽光に、刃が、きん、と煌めく。煌めきは少しの躊躇もなく女の肩口を抉ったのち、蔦重の視界から消えていった。 女は声もなく土の上に崩れ落ちた。藤色の着物の背が、みるみるうちに臙脂に色を変える。 武士は大物を仕留めた猟師のごとく、清々しい表情で刀を鞘に納めた。 女を目撃してから武士が刀を振り下ろすまでは、ほんの一刹那。蔦重は目の前で起きた刃傷沙汰に、呆然と立ち竦むだけだった。 「其方は、この女の知り合いか」 石灯籠のように硬直していた蔦重を、武士が睨め付けた。 武士は思ったより年若だった。二十歳を少し越えたくらいか。野暮ったい着こなしは、いかにも田舎侍といった風貌だ。 武士の様子をさり気なく見ているうちに、蔦重は少し落ち着きを取り戻した。 「いいえ、手前はただの通りすがりでございます。それよりお武家様、いったいどういう仔細があってこの女子を斬ったのでございますか」 いくら武士でも、何の罪もない町人を斬れば重罪だ。蔦重は相手を刺激せぬよう、努めて物柔らかに訊ねた。 「この女は某 の兄嫁だった。夫がありながら若い用人と不義密通を重ね、事が露見すると、その用人と手に手を取って国を出奔した。某は兄の代わりに逃げた二人を追い掛け、江戸におるとの話を耳にした。やっとのことで探し当て、たった今、成敗したところだ」 女への蔑みの色を隠そうともせず、武士は語る。 「お武家様の奥方が、何ゆえ吉原のような悪所に」 「逃亡中に金が尽きたかして、廓に身を売ったらしい。江戸に参った某は、絵双紙屋の店先に掛かった浮世絵に兄嫁の顔を見つけた。すぐさま店の主人に訊ね、絵の雛形が吉原の女郎だと知った」 「では、この女は」 吉原の女郎と聞き、蔦重は慌てて女に駆け寄り、その体を抱き起した。 「お前は……花房 じゃないか」 二 蔦重は蒼白になった女の顔を見て肝を潰した。 女は〈大文字屋〉という妓楼が抱える花魁、花房だった。 蔦重は吉原で生まれ育った。しかも耕書堂は吉原の案内書である「細見」の発行元。名のある妓楼にいる女郎の顔や序列は、ほとんど頭に入っていた。花房は廓でも五本の指に入るほどの美人と名高い花魁だ。 「しっかりしろ」 蔦重は花房の耳元で励ます。 だが、助かる見込みがないのは一目瞭然だった。武士が手加減した様子はなかったし、抱き起こした花房の背は噴き出した血汐でぐっしょり濡れていた。 それでも最後の力を振り絞っているのだろう。花房は小さく呻くと、薄目を開けた。わずかに生の光を宿した瞳が何かを探しているように左右に動く。 探す相手はきっと、すぐ傍で息絶えている男だ。突然に降ってわいた災難に命の火を消されようという段になっても、いとしい情人の身を案じる気力は残っていたと見える。 しばらく彷徨っていた花房の視線が、ふと一点で止まった。目が大きく瞠かれる。 花房は、蔦重を見ていた。 空井戸に落ちた火種のごとく、花房の瞳の中には冥 い憤りの情が燻っている。 蔦重は首を傾げた。今、死に瀕している状況で、花房が恨むべきは武士であるはず。何ゆえ蔦重が怒りを向けられなければならないのか。 そのうちに、瞳の奥に燃える火がだんだんと大きくなる。蔦重を絡め取ろうとして火焔を伸ばす。 (いかん) 思わず顔を背けた。このまま目を合わせていたら、冥土の淵とやらへ一緒に引きずり込まれるような気がした。しかし顔を逸らしても、頬に感じる視線は痛いくらいに熱い。 どのくらいの時が経っただろうか。 「事切れたようだな」という武士の呟きに、蔦重は我に返った。 花房は、と見れば、市松人形みたいな真っ黒な目が虚ろに開いたまま絶命していた。 花房の視線から解放され、蔦重はようやく周囲を見回す余裕ができた。 騒ぎに気づいた通行人や茶屋の使用人が、怖々、蔦重たちを取り巻いている。 蔦重は花房の遺骸を抱きながら、声を張り上げた。 「誰か、京町二丁目の大文字屋へ行って、妓夫 を呼んできてくれ。それと戸板を二枚持ってくるのも忘れずにな」 人垣の後ろから顔を覗かせていた魚屋の主人が「任せとけ」と言い捨て、走り出した。 三 「さて、お武家様」 花房の体を地面に下ろし、蔦重は武士を仰ぎ見た。 「こんな他 人 目 のある場所に亡骸 を捨て置くわけにもいきませぬ。これから、この女子の勤めていた妓 楼 へ運びますが、お武家様もご同行願えませんでしょうか」 と、恐る恐る申し出る。 仕事柄、蔦重は武士の身分のまま戯作や絵を物す輩たちと深く付き合っている。けれども、その関係は本屋と作者という同志的な繋がり。世に憚る大多数の武士と交わりがあるわけではなかった。 特に参覲の折、国元から主君に付き従ってきた田舎侍は、遊廓でも扱いに困る客の筆頭だった。おだてておかねば武士の体面を傷つけられたと腹を立てるし、甘い顔をしていれば、妓や店に対して傍若無人に振る舞う。だから、妓楼も女郎も田舎侍と接する時は、表向き持ち上げるだけ持ち上げて良い気分にさせ、たんまり金を使わせた後で、こっそり舌を出して嘲った。 目の前の武士も、自尊心ばかりが強い、七面倒臭い相手かもしれない。蔦重は自らの言動が粗雑にならぬよう心した。 だが、武士は思いのほか話のわかる人物だった。 「某がこの二人を斬ったのは敵討のためだ。お上にもきちんと願い出ておる……とはいえ、まさかこのまま知らぬ振りをして立ち去るわけにはいかんじゃろな」 と、ゆったりとした口調で答える。 敵討という緊張から解き放たれたためか、武士の物言いに、かなりはっきりしたお国訛りが交じっていた。ぎょろりとした二重瞼の目、鼻翼が左右に張った高い鼻を見ると、武士の出身は西国のどこかではないかと思われた。 武士に聞く耳があるとわかったので、蔦重はここぞとばかりに畳みかけた。 「吉 原 には吉原のけじめというものがございますから、敵討に至る経緯 を妓楼のあるじにお話しねがえませんか」 「其方も同行してくれるのか」 縋るような眼差しで、武士は蔦重を見つめた。身の丈が五尺三寸ほど、胸板が厚く逞しい体つきの偉丈夫だけれども、海千山千が集う吉原においては、普段と勝手が違うのだろう。どうにも居心地が悪そうだ。 「もちろんですとも。大文字屋とは昔から懇意にしておりまして、今もあるじを訪ねる途中だったのでございます」 「左様か。それなら心強いな」 強張っていた武士の頬が、少しだけ緩んだ。 蔦重と武士を取り巻く野次馬を掻き分け、厳つい顔つきの若い男が近づいてきた。大文字屋の妓夫だ。 「蔦屋の旦那、いってえ、どうしたっていうんです」 妓夫は花房の骸 を見下ろし、目を剥いた。 「どうもこうも、こちらのお武家様が成敗なされたのだ。この女はお前の店の花房だろう」 妓夫に確認するよう、蔦重は目で促した。花房の面 はすっかり血の気が失われ、店に出る際にこってり塗りたくる白粉の色とさほど変わらなかった。妓夫は地面に膝をつき、花房の顔を覗き込んでいる。 「へえ、確かに花房ねえさんに違えありません。だが、何だってお武家様に斬られなきゃいけなかったんですか」 妓夫の細く鋭い目に怒りが燃えている。理由いかんでは、たとえ武士が相手でも泣き寝入りはしないという覚悟が見えている。 「花房はこのお武家様の兄嫁で、不義密通が露見して国から逃げ出したのだそうだ。ようやく見つけ出し、不義の相手ともども斬り捨てたというわけだ」 「それじゃすぐ近くで死んでいる男、ありゃ花房の情 人 なんですかい。くそっ、兄さんだっていうから、花房を呼び出しても多めに見てやっていたのに」 妓夫は地団太踏んで、いきり立った。花房と情人は兄妹という触れ込みで、大文字屋に乗り込んできたらしい。 そこへ、やはり大文字屋で働く小僧が二人がかりで戸板を二枚重ねて運んできた。野次馬の人垣がわらわらと崩れていく。人が散って空いた場所に、小僧たちは戸板を置いた。 「いつまでも道端に骸を置きっぱなしというわけにもいくまい」 蔦重は今が潮時と声を張り上げる。 「話の続きは妓楼に着いてからだ。急いで花房とそっちの男を戸板に載せろ」 と早口で命じ、妓夫と小僧を急き立てた。 四 大小合わせ二百軒を超す妓楼を抱える華やかな吉原だが、昼は鷺が頻繁に飛来し、夜は蛙の鳴き声が喧しい浅草田圃と隣り合っている。 廓ができた当初は日本橋葺屋町 にあったが、五十年後に起きた明暦の大火ののち、悪所は江戸市中から遠く離すというお上の政策により、移転が実施された。そのせいで遊客は大変な不便を強いられたかと思われた。 だが、いつの世も、人は遊びにかけては苦労など厭わない。恋しい妓と会うためならば、たとえ火の中、水の中。助平な男たちは、江戸の方々から猪牙舟や馬や駕籠、あるいは自らの足を使って、離れ小島のような吉原の町を目指した。 吉原の内部は都合六つの町に分かれている。 唯一の入り口、大門 を背に、仲の町の通りを挟んで右手に江戸町一丁目、左手に江戸町二丁目がある。少し足を進めると、揚屋町、角町。京町一丁目、二丁目は、さらに先だった。 とはいえ、そもそも吉原は敷地が狭い。揚屋町から京町二丁目まで移動しても、たいした距離ではなかった。 蔦重たちが到着すると、大文字屋の店先は大騒ぎになった。 羽織の前を血で真っ赤に染めた蔦重と、肩を怒らせ、厳めしい顔で周囲を圧する若侍と、二枚の戸板に載せられた男女の骸が、出し抜けに現れたのだから、騒ぎになるのも当たり前だった。 しかも死んだ女は大文字屋の花魁だ。朋輩の妓たちは恐怖に顔を引き攣らせて泣き喚くし、他の妓楼の使用人が商売敵の凶事をいち早く嗅ぎつけようと集まってきたから堪らない。揚屋町にいた野次馬どもも大勢従いて来ていた。 騒ぎは長くは続かなかった。大文字屋の妓夫がうまく場を仕切ったからだ。 妓夫は花房の亡骸に相対した当座こそ取り乱していたが、元来、頭の回転が速く、機転が利く男。すぐさま野次馬たちを蹴散らした。 続いて憑き物がしたように泣き叫ぶ妓たちを店の二階へ追いやり、店の男衆を呼び集めて二つの亡骸を奥へ運ばせる。その上で、妓楼の一階に設えられた内証と呼ばれる楼主の座敷に、蔦重と武士を通した。いや、その前に蔦重は、花房の血に塗れた着物を脱がされ、女中頭が用意した単に着替えさせられた。 内証では大文字屋のあるじ、二代目の村田市兵衛が待っていた。 市平衛は初代の養子で、蔦重より四歳下。歳が近いせいもあり、二人は何かと馬が合った。六年前に耕書堂を吉原から日本橋通油町に移した後も、親しく付き合っている。 市兵衛は加保茶 元成 なる狂名を持つ狂歌師でもあり、吉原連という「連」を主宰している。蔦 唐丸 を名乗る蔦重も吉原連の連衆 だった。 「うちの子が世話を掛けたそうで、済まなかった」 開口一番、市兵衛は蔦重に詫びた。市兵衛は大兵肥満の大男。色白で肌艶がいいので、まるで大きな鏡餅が頭を下げているようで、どこか滑稽だ。 蔦重は笑いを堪えながらも、真面目に話を引き取った。 「ここへ来る途中、たまたま騒動に行き合ったんだ。魂消たよ、花房が敵持ちだったとはね」 「俺だって知らなかった。まさか武家の奥方様だったなんてよ。あの妓は十七でうちへ来たんだが、今にして考えてみれば、初めっから気位の高い、愛嬌のない娘だったなあ」 市兵衛は妓夫に花房の正体を聞いてきたようだ。丸く弧を描く顎のあたりをしきりに擦りながら、花房が売られてきた当時を振り返っている。 すると、今まで黙って供された茶を啜っていた武士が、いきなり口を挟んだ。 「十七だと。あの女が国から出た時は、もう二十歳になっておったはず。其方ら、騙されておったのだな」 五 「それじゃ花房は、もう二十二になるって勘定ですかい。ここへ来た当時、あんまり擦れていなかったんで、十七という触れ込みをすっかり信用しちまってました」 市兵衛は、つるつると禿げ上がった頭を掻いた。 「何 もかんも、某が斬り捨てた、あの男の入れ知恵なのだ」 武士が唸るように声を絞り出した。 「某は、豊後は臼杵 、稲葉家の家臣、嶋田正之進と申す。某の家は代々稲葉家の家老を勤め、今は兄の清右衛門が跡目を継いでおる」 「兄上様と仰ると、花房を奥方として娶られたお方ですね」 と確認しつつ、蔦重は驚いていた。 大名家の家老の妻女が、江戸で女郎に堕ちる。そこに込み入った理由がないはずはなかった。 「あの女……名は紗 衣 と申すのじゃが、兄に輿入れいたしたのは十四の歳。まだまだ幼さの残る顔立ちじゃった」 「十四でお輿入れ……早過ぎるとまでは申しませんが、何か祝言を急ぐ事情でもおありだったのですか」 蔦重は言葉を差し挟む。 実は二十二歳だったという花房は、蔦重の目から見ても十代で通る初々しさを残していた。十四の歳なら、童女 のような形姿 だったのではないか。 「紗衣の父は稲葉家の小侍で、紗衣がお屋敷に奉公に上がっておったとこを兄上が見初めたのだ。その頃は、某らの父の具合が悪く、祝言を急ぐちゅう理由もあった」 「失礼ですけど、兄上の清右衛門様も、花房……いや、紗衣様と同じお年頃で」 市兵衛が、おずおずと訊ねる。花房が大名家家老の奥方だったと知り、普段は福々しく愛嬌のある顔が珍しく固くなっていた。 「兄は某より十五歳年上である。だから当時は三十になったばかりじゃった。兄は『朴念仁』を地でいくと言われるほど真面目で頑固じゃが、紗衣のことは小鳥を可愛がるように細やかな心遣いで慈しんでおった。嫁いで三年ほどの間、兄上と紗衣は誰もが認めるほど仲睦まじい夫婦じゃった」 正之進は遠くを見るように両目を細めた。 表情は思いのほか柔らかい。勘定して見れば正之進は紗衣と歳が近いから、輿入れしてきたばかりの愛らしい兄嫁に、義弟としての愛情以上のものを感じていたかもしれなかった。 「ところが、清右衛門様と紗衣様との間に割って入った男がいたんですね。それが先ほど正之進様が斬った男だ、と」 蔦重は大文字屋に来る途中、戸板に載せられた男の顔をじっくり見てきたが、武士にしては線の細い、歌舞伎の若衆方のような色男だった。 「あの男は稲葉家の用人、真藤左近の次男で、銀治郎と申す者。どうにも女癖が悪く、同僚の妹だの商家の後家だのに手を出し、始終、悶着を起こしておったが、紗衣の美しさに目が眩み、事もあろうに上役の妻女を誑かしたのだ」 「はて、清右衛門様と奥方の間は、うまくいってたんじゃねえんですか」 市兵衛の真ん丸な頭が少し傾いだ。本人は首を傾げたつもりなのだろうが、太く短い首は大きく盛り上がった肩の間に埋もれ、傍目には全く見えない。 「三年過ぎても、子ができなかったせいもあるんじゃろうな。兄は気にせずとも、周りが早く跡継ぎをと、うるさくなってきた」 「確かに、三年はちと長いかもしれませんな」 蔦重は思わず合いの手を入れた。嫁いだ後、長いこと懐妊の兆しすらなかったら、武家の妻は離縁されても文句は言えない身の上だった。 「『紗衣様が幼すぎて、清右衛門様はいまだ指一本触れておらん』とか、『紗衣様は石女』とかいう噂がまことしやかに囁かれた。するといつしか、兄との仲がしっくり行かなくなってしもうたのや。今にして思えば、銀治郎が紗衣に言い寄り始めたのも、兄に側女を置く置かぬ、ちゅう話が出た頃じゃったな」 「紗衣様は、何だって銀治郎みてえな男に惑わされちまったんでしょうかね」 市兵衛の疑問はもっともだった。 銀治郎のような女誑しは、武士、町人を問わず、江戸には掃いて捨てるほどいる。 だが、少しおつむのいい女なら、火遊びの相手として付き合う場合はあっても、道行きをするほど深入りはしない。女誑しに深くのめり込んだところで、相手に飽きられれば、他の女同様、塵芥のように捨てられるのがオチ。ならば自分だけを好いてくれる誠実な男を選ぶほうが得策というものだ。 「銀治郎は、紗衣にとって初めての恋の相手じゃった」 正之進が周囲の空気が澱みそうなほど暗い息を吐いた。 六 「嫁いだものの、紗衣は夫を歳の離れた兄のように思っておる節があった。兄は朴訥な人柄で口数も多い方ではなかったから、無理もなかったかもしれぬ。ところが逆に、銀治郎は鄙には稀な洒落者で口も上手。擦れっ枯らしが言葉巧みに近づいたのじゃけん、世間知らずの紗衣が心を奪われるまでに、そう時間はかからなかったっちゅうわけや。紗衣はすっかりのぼせ上がって……」 「なるほど、花房が斬られなければならなかった理 由 はよくわかりました」 正之進がなおも話を続けようとするところを、蔦重は慌てて遮った。 蔦重は苛ついていた。 江戸の男はせっかちだ、と言われるが、蔦重も気が短い。特に自分の思う早さで事が進まないと、鳩尾のあたりが、きりきりするほど焦れる。 隣にいる市兵衛も同様だろう。先ほどから居心地悪そうに、端坐した大きな尻を右へ左へと揺らしている。 一方の正之進は、田舎者の律儀さゆえか、話を端折って簡潔に説明するという術を講じない。このまま口を開かせておいたら、日暮れになっても、紗衣と銀治郎の道行まで話が進まないだろう。 その上、蔦重はしばらく前から左足に違和を感じていた。 草履の鼻緒の当たる部分が、ずきずきと痛む。草履は今朝下ろしたばかりだから、鼻緒擦れを起こしたのかもしれなかった。そっと触ってみると、指の股の周囲に熱を持っているのが、足袋の上からでもわかる。 酒でも飲めば治るかもしれない。陰気臭い話はとっとと終わらせ、蔦重は早く市兵衛と酒を酌み交わしたいと思った。 「ところで正之進様、紗衣様がうちの花房だと、よくおわかりになりましたな」 市兵衛が絶妙の間合いで話の矛先を変えた。 「西国、京、大坂と散々探しても、某は不義者の二人を見つけ出せなかった。じゃが、二人は江戸におるとの噂を聞いて下ってきたところ、絵双紙屋の店先で一枚の浮世絵に気づいた。絵は三人の男女を描いちょったが、そのうちの一人の女が紗衣に瓜二つじゃった」 正之進は、今見てきたばかりのように目を瞠った。 「ほほう、花房とそっくりの女が描かれているというならば、それは、歌麿が描いた絵でしょうな」 市兵衛が曰くありげに蔦重へ目を呉れた。 七 (やっぱりあの絵だったか) 蔦重は、揚屋町の仇討ち現場で正之進が発した「浮世絵に兄嫁の顔を見つけた」という一言がずっと気になっていた。 件の絵とは、耕書堂から売り出した三枚続きの大判錦絵だった。三枚の画面それぞれに男が一人、傍らに女が二人佇む構図。緑あふれる広々とした庭で、のんびりと涼んでいる様子が生き生きと描かれている。 絵師は近頃めきめきと人気が出てきた喜多川歌麿。歌麿は絵を描くにあたり、蔦重に雛形になる男女を用意してほしいと所望した。特に画面中央に据える男が大事で、世の男らの理想となるような粋で、上品で、姿のいい色男である必要があった。 男の雛形は、すぐに決まった。 若い頃には「宝暦の色男」の異名をとった戯作者、朋誠堂喜三二 である。 朋誠堂は本名を平沢平角常富といい、幕臣の顔も持つ。出羽久保田の江戸留守居役で、他国の役人と折衝しなければならない役目柄、公費を自由に使える立場にあった。吉原でも遊び方を心得た男として知られ、すでに五十歳を超えているはずだが、いまだ色香の漂う男振りだった。 雛形の二人の女のうち、年嵩のほうは辰巳芸者の菊奴が務めた。だが、問題は若い娘の雛形だった。 器量よしでなければならないのは当然として、例えば水辺に咲く杜若 のように、どこか初々しさを残した清楚な美人である必要があった。 「若いほうの雛形に、花房を推したのは、確か歌麿だったな」 と市兵衛が訊ねた。歌麿は狂歌集の挿絵も手掛けるから、市兵衛もよく知っている。 「どこぞの小町娘、水茶屋の女と候補を挙げても、歌麿は納得しなかった。そこで自ら探してきたのが、この妓楼に勤め始めたばかりの花房だった。だが、花房は雛形にはなりたくない、とにべもなく断った」 当時を思い出し、蔦重は渋面をつくった。 「それを、俺を介して無理やり承知させたのが、蔦重さん、あんただった」 「無理やりたあ、人聞きの悪い。雛形の件は花房にとって悪い話じゃなかったはずだ。売り出し中の花魁が歌麿の絵に描かれるんだ。しかも、天下の色男、朋誠堂と並んでな」 「俺もあん時は、花房に向かって、何が不満だ、何で断るんだ、とずいぶん責めたもんだった。しかし、ようやく事情が呑み込めた。花房は錦絵に描かれて、国元の人間に己の居場所を知られることを恐れたんだな」 市兵衛に指摘されて、蔦重の背中にすっと冷気が走った。 雛形の件は、花房があまりにも頑なに固辞するので、蔦重も意固地になっていた面がある。楼主である市兵衛を動かし、借金を盾に取って花房を説得させたあげく、首を縦に振らせた経緯があった。 三人の雛形が決まり、描かれた絵は『庭中 の涼み』と題され、ひと月前に発売された。 敵討という慣例の性格上、討つ相手が見つからなければ追手は地の果てまでも探し尽くす。だから、『庭中の涼み』のおかげで花房の居所を突き止めたのであれば、花房の死は蔦重にも関わり合いがあると思われても、致し方なかった。 「どうした、顔色が悪いぞ」 市兵衛が蔦重の顔を覗き込んだ。 「あまり気に病むなよ。花房も、正之進様に斬られてかえって幸せだったのかもしれんぞ。あの兄と称していた銀治郎に金をせびられ、骨の髄までしゃぶられていたようだからな」 「借金もしていたのか」 「母親の病に高い薬が必要とかで、これまでに何度も金を用立ててやったよ。もちろん花房も納得の上だったがな。だが、年季まで勤め上げても返せないほどに、借金は膨らんでいたんだ。あの男は金を搾り取れるだけ搾り取り、花房をあっさり捨てるつもりだったかもしれん」 「馬鹿な女よのう。あのまんま国元におれば、たとえ子ができなくとも、兄は決して悪いようにはしなかったはずだのに……」 語尾を震わせ、正之進が呟いた。 幼さゆえに夫の想いに気づかず、女の盛りを迎えてなお、ダニのごとき銀治郎の支配を受ける。 自分が手を掛けたとはいえ、正之進は哀れな兄嫁の末路を悲しんでいるように見えた。 八 「親仁さん、例のものを持ってきやしたが、如何いたしやしょう」 座敷の外で歯切れのいい声がした。 市兵衛が「入れ」と応答すると、間髪容れずに襖が開く。 開いた先には、ひと仕事を終えたというような、さっぱりとした顔つきで、妓夫が座っていた。 妓夫は素早く座敷に躙 り入ると、懐紙を折って作った包みを二つ、市兵衛に渡した。 「二人の遺髪でございます。どうぞ、お持ちくだされ」 ゆったりとした物腰で、市兵衛は正之進の前に包みを置いた。 包みの上書きには、取り違えのないよう「花房」「花房兄」の名があった。 流麗な筆跡は、市兵衛の内儀のものだ。内儀も、秋風 女房 の狂名を持つ狂歌師である。 「かたじけない。これで兄の憂苦を拭い去ることができる。とはいえ、紗衣の悲惨な末路は、詳しく伝える気にはならぬがな」 正之進は懐から袱紗 を出すと、二つの包みを丁寧にくるんだ。 「ところで、この後の始末はどうするつもりだ。某は面番所でも御番所でも、どこへでも出て話す心構えはできておるぞ」 正之進は眦 をきっと上げ、居住まいを正した。 「それならご心配は要りませぬ。当方で、しかと済ませますゆえ」 福々しい市兵衛の顔に、一瞬、凄みが走る。 「まことか。しかしそれでは、其方たちに迷惑が掛かるのではないか」 正之進の眉根に困惑の色が見て取れる。公認の敵討とはいえ、町中で二人も斬り殺し、遺髪を貰って「しからば御免」では済まされないと考えているのだろう。 「正之進様」 市兵衛が厳かに呼び掛けた。骨の髄まで響くような低く重みのある声だ。 「吉原とは不思議なところで、江戸の市中とは違い、吉原なりの遣りようがあるんですわ」 「吉原で起きた事件はすべて内々に片づける、という意味か」 正之進が、ちろりと市兵衛の顔色を窺った。 「そうです。会所の面々には報告済み。面番所の同心にも鼻薬を嗅がせてあります。このまま正之進様が廓から立ち去られても、誰も咎める者はおりませぬ。どうぞ遺髪をお持ちになって、国元へお帰りくださいませ」 言い終えると同時に、市兵衛の口の端がゆっくりと吊り上がった。 正之進は呆気にとられた表情で、市兵衛の口元を見つめている。まだ半信半疑の様子の正之進を前に、蔦重も言葉を継いだ。 「親族を殺害された場合の敵討とは違い、女敵 討 はあまり正之進様の名誉にはならぬのではないですか。面番所から役人を呼び、詳しい経緯を話しても、世間話の芽が大きくなるばかり。正之進様には何の得にもならぬと思われますが」 蔦重の問い掛けに正之進は息を呑んだ。 どうやら図星だったようだ。両の膝に置いた握り拳がわずかに揺れている。 正之助に告げる気はなかったが、市兵衛が面番所を通したくない理由はもう一つある。 あと半刻ほどで大文字屋は夜の見世が始まる。事情説明に時間を食い、騒動が長引けば、店にも利益にならない。夜見世を一日でも休めば、妓楼に莫大な額の損が出た。 ならば、花房と連れの男は武士に狼藉 を働いた廉 で斬られた、と申し立てておけばよい。敵討の現場にいたのは蔦重一人だったのだから、蔦重さえ黙っておけば、事件が吉原の外へ漏れる心配はなかった。 「大文字屋は侠気に富んでいると吉原でも評判の男でございます。花房の亡骸 も、きっと悪いようには致しません。ご安心くださいませ」 蔦重は請け合った。 普通なら、花房と銀治郎の遺骸は投げ込み寺に持ち込まれて終わりだ。しかし情に厚いところのある市兵衛なら、花房だけはこっそり檀家の寺で供養するという手を打つだろう。 市兵衛と蔦重の双方から説得され、正之進はようやく深く頷いた。 「それでは、後はよろしく頼む」 と言葉を残し、大小を携えた。 九 吉原から乗ってきた駕籠を降り、蔦重は通油町にある耕書堂の前に立った。 時刻は四つ過ぎ(午後十時二十分)。当然ながら、店は閉まっている。 入口の板戸が立てられ、開店時には店先に出ている「通油町/紅絵問屋/蔦屋重三郎」と記された大きな出し箱も、今は店内の土間に仕舞われていた。 耕書堂の閉店時間は夕五つ(午後九時)。住み込みの番頭や手代はまだ起きていて、明日の準備をしているかもしれないが、他の使用人は、そろそろ眠りに就く時刻だった。 蔦重は、酔いの残った目で、しみじみと「我が城」を見上げた。 耕書堂はまず貸本屋として商いを始めた。蔦重が二十歳の時だ。場所は吉原。親戚が引手茶屋を経営していたので、その店先を借りての商売だった。 細々と貸本業を続けるうちに、蔦重に好機が巡ってきた。吉原〈細見〉への参入である。初めは「検 め」と呼ばれる仕事が主で、細見を出すに当たっての調査、情報収集、編集に携わった。 蔦重は吉原で生まれ、吉原で育った男。吉原のことなら、どこそこの花魁の飼っている猫の名前まで知っていた。 持っている情報網を駆使し、まったく新しい細見作りに心血を注ぐ。結果、蔦重の編集した細見は、読みやすくて詳しいと評判になった。 二年後、蔦重は自作の細見の出版、販売に漕ぎ着ける。それまでの細見は、通り一遍の情報しか載っていない割に高価な代物だった。 だが、蔦重の作った細見は違った。従来のものより判型が大きく、編集に工夫がされているため、丁数が少なくて済んだ。 情報量は多いのに、薄くて安い。以降、耕書堂は細見の出版を独占した。間借りの店を畳み、吉原に新たな店舗を構えるまでになった。 数多くの戯作本の刊行、浮世絵の出版が軌道に乗る頃には、身代も大きくなった。地本問屋として成功した蔦重は、名うての書物問屋、地本問屋が犇めく一等地、日本橋界隈に進出する決意を固める。今から六年前の話だ。 吉原という小さな輪の中で商売を興した蔦重だったが、耕書堂の贔屓筋や戯作者、絵師の後援者である大名や豪商と繋がりができるにつれ、自らも江戸一番の本屋になりたいと強く願うようになった。 せっかちの性分ゆえ、一度こうと決めたら話は早い。通油町で売りに出ていた丸屋という地本問屋の店舗兼住居を買って手を入れ、ひと月後には開店した。 今の店は、一昨年、防火のために屋根を板葺から瓦葺にした他は、外見上は六年前とほとんど変わっていない。けれども、商いの額や使用人の数は比べ物にならぬほど多くなっていた。 (いろいろ無茶もやってきたが、よくぞここまで大きくなったものよ) 蔦重は感慨に耽った。 店を興した当初から、蔦重の商いは「情けより儲け」だった。 例えば古くから付き合いのある紙問屋や絵具屋があっても、もっと安価で質のいい紙や絵具を扱う店があるとわかれば、少しの躊躇もなく乗り換えた。 また売れっ子の戯作者や絵師であっても、つまらない作品ばかり成していれば容赦なく切り捨てた。代わりに才能のある無名の戯作者、絵師を見い出し、寝食の面倒を見ることを条件に安い報酬で書かせた。 江戸を代表する地本問屋となった今でこそ、「義理人情に厚い粋な知識人」と世間からおべっかを使われる蔦重だが、一昔前は「儲けのためなら、友をも売る男」と陰口を叩かれていた。 (しまった、一つ書き物をせねばならなかったな。そろそろ家の中へ入るとするか) 知人に文を書く用を思い出し、蔦重は急いで店横の路地に入った。 耕書堂は特徴のある建物で、表通りに面した二階建ての店と奥に建ったやはり二階建ての母屋がおよそ五間の渡り廊下で繋がっていた。 路地に沿って板塀が造られ、渡り廊下の両側には小さいながらも庭がある。 蔦重は塀の中程についた戸を開け、庭へ入った。小道を通り、店の裏口へ向かう。 裏口の戸に手を掛けた。まだ鍵は掛かっていない。ここは最後に手代が戸締りをする段取りになっていた。 店に上がると、母屋の方角から女中頭の怒鳴り声が聞こえてきた。 「吉松、寝る前にちゃんと厠へ行くんだよ。今夜も寝小便をすると、金輪際、許さないからね」 吉松は三月ほど前に来た住み込みの小僧だ。七つになるが、寝小便の癖がなかなか抜けず、始末に困っていると、蔦重も漏れ聞いていた。 (小僧の寝小便が悶着の種になる。耕書堂も平和なもんだな) くっ、と小さく笑うと、蔦重は店の奥へと進んだ。 十 「ふうっ、ちと食い過ぎたな。最後に白飯を食ったのがいけなかったか」 帳場の奥の間に置かれた文机の前に坐り、蔦重は大きく息をついた。 敵の遺髪を携えた正之進を見送った後、大文字屋の奥座敷で馳走に与 った。 そもそも蔦重が大文字屋を訪問した理由は、久しぶりに食道楽の二人で「旨いもんを食う」という趣向のためだった。 二十種近い贅を尽くした料理や山海の珍味を平らげた後で、蔦重の腹は紐を締めつけ過ぎた附締太鼓のように、パンパンに張っていた。 「さて、一筆、認 めるとするか。書き終える頃には腹の張り具合も楽になっているだろう」 机に奉書紙を広げ、墨を磨り始めた。文を送る相手は、さる大名の隠居。歌麿に孫娘の姿絵を依頼したいという件への返信だった。 まだ盛夏ではないから、昼間は蒸し暑くとも、夜になるとだいぶ涼しい。 開け放した窓から吹き込む冷んやりとした風が、白いものが交じり始めた蔦重の鬢を撫でるように通り過ぎる。襖と文机の間に据えた置行灯の炎を揺らす。 筆を執り、書き出しの文句を考えようと目を瞑った。 (はっ) 妙な気配を感じ、蔦重は目を開けた。 前屈みになっている己の体勢に気づき、慌てて体を起こす。 (うたた寝をしていたのか) 仄暗い座敷の中で苦り笑いを零す。膝元にさっきまで持っていたはずの筆が転がっていた。 文言を考えているうちに、机に突っ伏して眠ってしまったらしい。酒を飲んだ後に書き物をするという考え自体が無謀だった。不自然な体勢で眠りこけていたせいか、体の節々が痛い。 気づけば、窓も開けっぱなしだった。 帳場の奥のこの小座敷は、蔦重が普段からよく使う空間だ。客への応対は番頭や手代に任せ、六畳ほどの座敷で、大事な客と会ったり、売り出しの方策を練ったりした。 小座敷の壁面には、これまで蔦屋で出した浮世絵が所狭しと吊ってある。 北尾政美、勝川春草、喜多川歌麿……、元から売れていた絵師もいるし、歌麿のように蔦重が才を見込んで描かせ、大々的に売り出した描き手もいる。耕書堂から出版した浮世絵は大概がよく売れていた。 ぼんやりと数多ある壁の絵を眺める。 古くは礒田いそだ 湖龍斎 『雛形若菜 の初模様 』の続き物や北尾重政・勝川春草『青楼美人合姿鏡』 の連作などが見える。斬殺された花房が雛形を務めた『庭中の涼み』は、いまだ売り出し中なので、まだ壁面にはなかった。 代わりに文机の横に軸装した肉筆画が掛かっている。描いたのは歌麿で、会心の絵ができたので、しばらく座敷へ掛けて眺めてくれと置いていった品だ。 ところがこの小座敷には床の間がない。仕方なく出入口に向かって左側の壁に板切れを渡し、釘を打って軸を掛けていた。 絵は歌舞伎舞踊『鷺娘』を材とした作品で、『哀しみの鷺娘』という題がついていた。 画中には、冬景色を背景に、白無垢の振袖に黒い帯を結んだ一人の若い女が立っている。綿帽子を被り、樺色の傘を差す女は憂いを秘めた表情で俯いている。 鷺娘を描いた浮世絵は鈴木春信の作を筆頭にいくつかあった。それらの先行作品と差をつけようとしたわけでもあるまいが、歌麿は『哀しみの鷺娘』の雛形にも花房を使った。 歌麿は花房が気に入り、『庭中の涼み』の他にも、写生の修練のためと称し、何枚かの絵を物した。花房も大っぴらに世に出回らないならばという条件付きで、雛形を引き受けていたようだ。 『哀しみの鷺娘』もそんな中の一枚なのだろう。なかなかの出来栄えだ。構図もいいし、何より鳥と人の立場の狭間で揺れる鷺娘の儚げな表情が素晴らしい。 歌麿と相談し、摺物として売り出せば評判を取れるような気がした。雛形の花房も死んでしまったのだから、誰に遠慮する筋合いもない。 時の鐘が聞こえた。捨て鐘に続く鐘の音を数える。 一、二、三……八つ(零時半)だ。 (もう八つか。どうにも体がだるいな。風邪を引いたかもしれん。文は明日にして、もう休むとするか) 全身に疲れを感じ、一つ大きな欠伸をした。体調が悪いなら早く休まないと、明日の商売に差し支える。 蔦重は拾い上げた筆を硯箱の中に収めた。 その時。 ひっ、ひっ 静まり返った座敷の中に、誰かが啜 り泣いているような声がした。 十一 (誰だ) 高くて、か細い女の声だ。 蔦重は驚いて、座敷の中を見渡した。東 、西 、南 、北 、ぐるり見回しても、誰もいない。 当たり前だ。薄暗くとも、たかが六畳の空間だ。誰か隠れていれば、すぐにわかる。 では、帳場か。置行灯を右側の壁際へと動かし、襖を細めに開けた。 隣の帳場の方を覗く。しかし真っ暗闇の板の間に、人の気配は微塵もなかった。 空耳かもしれぬと思い、耳を澄ました。 ひっ、ひっ、ひぃっく…… また聞こえた。 間違いない。確かに女の泣き声だ。陰気で耳に纏わりつくような嫌な泣き方だ。 ぶるぶると頭を小刻みに振った。じっと聞いていると、誤って飛び込んだ小虫のごとく、声が耳深く押し入ってきそうな気がする。 硯箱の蓋が開けっぱなしだったことに気づき、机に戻った。 (いってえ誰が泣いているのだ。奥にいる住み込みの女中か。いや、店と住まいは離れているから、少々泣き喚いても、声が聞こえるはずはねえ) 間口に応じて課される棟別銭が安くて済むように、江戸の商店は間口をできるだけ狭くし、奥行を広くとっている。耕書堂も同様に奥へ向かって縦に長い建物で、店と住居は屋根付きの渡り廊下で繋がっていた。 (まさか、花房が。いやいや、そんな馬鹿な。あの女は俺の目の前で討ち取られたじゃねえか) 吉原では、自害した女郎の幽霊が自分を振った男に取り憑いただの、最下層の女郎が巣食う羅生門河岸に男の生き肝を抜いて回る物の怪が出ただの、魑 魅 魍魎 にまつわる話は枚挙に暇 がない。 頭の隅に花房の死に顔がちらついて離れなくなった。瞑 く落ち窪んだ生気のない眼 が、底なし井戸のようにぽっかり開いている。色の失せた唇からは、呼気ではなく、怨みの言葉が漏れてくるように思えた。 首筋に嫌な汗が噴き出した。それなのに、体は背筋に冷風を吹きつけられたように、悪寒がする。 (今夜はどうかしてるぞ。きっと疲れているのだ。一刻も早く寝ないと) 机に手を掛け、腰を浮かせた。おのずと視線が上に向く。 すると、視線が一点で止まった。 体が硬直する。 暗い中に、ぼぉっと青白い炎が浮かんでいた。 目を見開いて、もう一度、確認する。 見間違いではない。壁をしりしりと焦がしつけるごとく、禍々しく白い炎が燃えていた。しかも人の形に、だ。 (ゆっ、幽霊?)人形 の炎には確かに頭があり、体がある。華奢な体つきは女にも見える。 その瞬間、衝撃が脳天を突き抜けた。 「痛っ、いたたたたた……」 蔦重は大声を上げた。 左の爪先から頭に向かって、ひとっ飛びに痛みが走った。一瞬ではない。研ぎ澄ました刃で肌を斬り据えるような痛みが、続けざまに走り抜ける。 余りの痛さに足を投げ出した。 しかし少し動いただけでも、左の足先が、ずきんずきんと痛む。昼間、痛みが出た場所だ。悪寒も先ほどより酷 くなる。 何が何だかわからぬ。なぜ急にこんな理不尽な痛みに襲われねばならないのか。 (もしや、足の痛みは花房の仕業なのか。やはり、無理やり雛形を押しつけた件を怨んでいるのか) 突然の激痛に動揺して、極端な方向へ考えが至る。寒さによる体の震えが、不安をいっそう煽る。 (あれは、歌麿が「花房でなければ絵を描かぬ」と駄々を捏 ねたんだ。依頼者からは前金でたんまり画料を貰っていたし、歌麿以外の絵師に描かせるわけにはいかなかった。それに俺は花房が敵 持ちだなんて、一切、知らなかった) 虚空に向かい、必死で弁明する。 すると、女の甲走った声が静寂を打ち砕いた。 けけっけっけっけっけけけ…… 笑い声だった。言い訳に終始する蔦重を蔑むような、いやらしく、ねちっこい嘲笑。 声に誘われ、再び鋭い痛みが身体を刺し貫く。 「うおぉぉぉー」 肚の底から声が出た刹那、目の前に真っ黒な幕が下りた。
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