身代わり狂騒曲 風花千里
第十章 狂乱 一 佐助はお仙が帰った後の座敷で、独り項垂れていた。 「俺は源内の抜け殻か……」 源内は殻を脱いで冥土へ向かったというのに、世間は抜け殻を後生大事に崇め奉っている。春信も、平角も、南畝も、そしてお仙も。 誰も彼もが、佐助を甦った源内として扱ってくれる。が、佐助の本性には目を背け、見ない振りをした。 「抜け殻ってえのは中身が空っぽだ。だからといって、なぜ俺の中身も空っぽだと決めつけるんでえ。俺はこうしてものを考えたり、女子に惚れたりするじゃねえか」 気がつけば、拳を握りしめていた。 息遣いが速く、激しくなっている。 肩が上下に動き、口から、ぜえぜえと喘ぐような音が漏れた。 体が熱い。 喉が焼けついたように、ひりひりする。 佐助の目に、畳に置かれたままの茶碗が映った。 一つを鷲掴みにして、力いっぱい壁に投げつけた。 悲鳴のような音を立て、茶碗が粉々になった。 続いて、もう一つ。 佐助の恋情のように、二つの茶碗は見事に砕け散った。 一度噴き出した怒りは、簡単には治まらない。 積んであった書物を手で薙ぎ倒し、鍋や釜をぶん投げた。障子を力任せに外すと、勢いよく部屋の中央に叩きつけた。 肩で息をしながら、座敷の隅に立ち竦んだ。 感情の嵐が静まったわけではない。投げるものが、なくなっただけだった。 二階へ続く階段を見上げる。棚に並べられた陶器をすべて叩き壊したら、少しは憂さを晴らせるかもしれない。 階段を上りかけた時、外に人の気配を感じた。忍び寄ってくるような微かな足音だ。 息を殺し、耳を澄ませた。相手は家の中の様子を窺っているようだ。 ──お仙ちゃんが戻ってきたのか。 すぐに甘い考えを打ち消した。聞こえた足音は、お仙の吉原下駄が出す音ではない。 ばきっ、不穏な音が飛んできた。 佐助は一足飛びに三和土へ下りた。 二 「何してやがる!」 軒先に生っちろい男が突っ立っていた。家人がいるとは思っていなかったのか、顔を強張らせ、体を硬直させている。鼬に似た小狡そうな目が落ち着きなく泳いでいた。 確か重三郎と初めて湯屋へ行く時に、この家を覗いていた輩だ。あの時は重三郎が追い払ったが、何ゆえまた現れたのだろうか。 佐助は男の視線を追って、庇を見上げた。 先日、苦労して取り付けた雨樋が、途中で激しく折れていた。樋は時間をかけてしっかり取り付けた。少々の衝撃では折れるわけがなかった。 佐助の目が男の元に戻る。 「おめえがやったのか」 男は背が高い。跳び上がれば、楽々と樋に届くだろう。ぶら下がって全体重を掛けたに違いない。 足早に歩を進め、男との距離を詰めた。 「ち、違います」 男の声が震えている。唇が戦慄 いているのがわかる。 「この雨樋は庇にがっちりくっついてたんだ。ああ、そうか。前の樋も妙な壊れ方だと思ったら、あれもおめえがやったんだな。畜生、何の恨みがあって、こんな真似をしやがる」 勢いよく腕を突き出し、男の胸倉を取った。 「離せっ」 男は体を仰け反らせた。雨樋が折れた時に落ちた木屑が、男の藍地の袖に付いていた。 「ほれ見ろ、この木屑は何だ!」 証拠を見せられると、男は途端に低姿勢になった。 「許しておくんなせえ。ほんの出来心で……」 「さては俺を陥れようと何か企んでるな」 掴んだ胸倉を、ぐいっと手元へ引き寄せた。 男は顔を背け、口を噤んでいる。 男の面に、一発、拳骨を見舞った。 丸太が転がるように、男が地面に倒れた。 と同時に、家の周囲に並んだ草木の鉢が、吹っ飛んで転がる。 相手の頬骨の感触が、握った拳を通して伝わってきた。拳の痺れが闘志に火を点ける。 間髪を容れず、倒れた男の上に馬乗りになった。 続けざまに、二度、三度と殴った。 男が呻き声を上げた。口の端が切れて、血が滲んでいる。喧嘩をした経験がないのか、男は打擲されるがまま。抵抗すらできない。 殴るほどに気持ちが激昂してきた。眼裏が真っ赤に染まる。 もう、相手が誰であろうとよかった。嬲る相手がここに居りさえすればよかった。 「この、腑抜け野郎がぁ!」 頬、鼻、顎……所構わず拳固を浴びせた。 三 「あれー! 誰か来ておくれ!」 男を殴る佐助の背後で、女が喚いた。 「源内先生!」 慌てふためく胴間声がして、後ろから羽交締めにされた。 「離せ、離せったら!」 体を左右に振って、締め付けられた腕を振り解こうとした。胴間声が制止する。 「落ち着いてくだせえ。相手は気ぃ失ってます。いい加減に止めねえと死んじまいますぜ」 「死ぬ」という言葉に魂消て、こわごわ振り返った。 路地奥の割長屋に住む寺子屋の師匠が難しい顔をして睨んでいた。 周りで長屋の住人たちも事の推移を見守っている。師匠に目で促され、佐助は殴っていた男に視線を戻した。 男は地面に仰向けになったまま、ぐったりとしていた。面があちこち腫れ上がっている。腹の辺りが上下しているのを見ると、とりあえず生きてはいるようだった。 ──いつの間に、こんなに殴っちまったんだ。 男の形相を見て、愕然とする。殴っている間の記憶が、どこかへ飛んでいた。 表通りから、複数の人間が走ってくる。 「源内!」 厳しい声が佐助の耳を刺した。春信の声だった。弟子を二人連れている。仕事を放り出して駆けつけてきたと見え、手に岩絵の具がついていた。 「何をしてるんだ!」 「こいつが、雨樋を折りやがったんだ。謝りもしねえし、つい……」 下を向き、吐き捨てるように呟いた。 春信が仰向けになった男の傍に屈み込み、表情を曇らせた。 「こいつは、お前の天敵、有吉芝園んとこの弟子だな。近頃、うろちょろしていると重三郎が言ってたが……」 「雨樋を折ったのは腹いせのためか。俺が丹精凝らして取り付けた樋をめちゃくちゃにしやがって、許せねえ!」 佐助は再び殴りかかろうとした。 だが、殴ることは叶わなかった。師匠が佐助の体を離さずにいた。 「馬鹿野郎! 腹が立ったからって、襤褸雑巾みたいになるまで殴ることはなかろうが。下手をすれば人殺しになるところだったんだぞ」 顔を歪め、春信が怒鳴った。これほど激しく感情を乱した春信を見るのは初めてだった。 連れてきた弟子に男の介抱を言い付け、春信が寺子屋の師匠から佐助を引き取った。 「一緒に来な。あたしの家で頭を冷やすんだよ」 と、半ば引き摺るようにして佐助を表通りへ連れ出した。 四 春信は周辺の長屋の主だ。界隈では町の顔役としても知られていた。 佐助は春信の寝起きする部屋へ連れ込まれた。 嫌々ながら、部屋の真ん中に座る。 春信が水の入った茶碗を置いた。 「あの男の師である有吉芝園ってのはね、数多いる儒学者のうちでも、特に頭が固くて有名なんだ。執念深い性質だから、儒学を批判した奴はいつまでも目の敵にされる。あの男も芝園に言い含められて、お前を陥れる種を探しに来たに違いないよ」 佐助は今まで男の存在に全く気づいていなかった。佐助の尻尾を掴もうとしていたかと思うと不愉快になる。 「なぜ半殺しのような目に遭わせた。もしあいつが雨樋を壊した犯人だとしても、自身番に突き出せばいいだけの話だろ」 春信の問いに、佐助は黙って水を啜る。だが、渇き切った喉には焼け石に水のごとし。甕一杯飲み干したとしても、渇きは永遠に治まらない気がした。 「源内は気は短いが暴力は嫌いだった。近所の連中に止めてもらわなかったら、あいつは頭をやられて御陀仏になっちまったかもしれない。そうなったら、お前は人殺しだ」 春信の説教は止まらない。喋るにつれて、声に怒気が混じり始めた。佐助を呼ぶ時の「おまえさん」も「お前」に変化していた。 「俺が人殺しだって?」 佐助は春信の言葉の端を捉えた。 「『お前』ってえのは、誰のことだ。源内が暴力を振るわねえんなら、佐助のことか。そんなわけねえよな。佐助ってのは、とっくに死んだ人間なんだから」 「源内……」 春信の顔色が変わった。 佐助はわざと口を捻じ曲げ、げたげたと馬鹿笑いをした。 「やっぱり俺は源内か。それじゃ、もしあの男が死んだら、殺したのは他の誰でもねえ、源内だ。おめえたちが奉る、抜け殻の源内が殺したってことになるんだよ。へっ、ざまあ見やがれ」 と放言したはいいが、すぐに不安になる。 源内の名を貶めたくて暴力沙汰を起こしたのではなかった。 気づいたら殴り倒していただけだった。酒は抜けていたはずなのに、自分のしたことを覚えていない。特に男を殴った記憶は、綺麗さっぱり頭から欠落していた。 佐助は首を垂れた。両手の甲が腫れて赤くなっている。拳を浴びせた覚えもないのに、痛みだけが酷くなっていた。 春信が立ち上がり、傍らに座る気配がした。 五 温かい手が佐助の肩に載せられた。 「おまえさん、もしかして、気の病じゃないのかい」 春信に顔を覗き込まれた。眼には労るような色が見える。 「気の病? 俺が? そんなはずはねえ。他人と喋りもするし、本だってしっかり読める」 佐助は顔を上げ、憮然として否定した。 「気の病は老いぼれるのとはわけが違うんだ。心配事があって苛々するとか、よく眠れないとか、気持ちの釣り合いが取れない状態を言う。もしや、何か心を乱されるような事件があったんじゃないのかい」 春信の指摘は見事に的を射ていた。 ところどころつかえながら、佐助は白糸の一件と、お仙との遣り取りをぶちまけた。お仙に恋を打ち明けた場面に至っては、見苦しいとは思いつつ涙を零してしまった。 手放しで共感するわけでもなく、また軽蔑するわけでもなく、春信は静かに佐助の告白に耳を傾けてくれた。 「源内……」 話をすべて聞き終えた上で、春信は口を開いた。 「ごめんよ、今は源内と呼ばせてもらうからね。今にして思えば『死んだ人間を甦らせる』なんて馬鹿げた企てが、うまい具合に運ぶはずはなかったんだ」 春信の面に陰りが見えている。 「外見や仕草が似ても内面まで同じにはなれない。無理に似せようとして己を押し殺せば、気を病むのは当たり前だ」 絵の手ほどきをした春信が身代わりを否定する。佐助には意外な成り行きだった。 「おめえだって、与太に乗った口じゃねえか」 「あの時は源内が死んだ直後で、夢でもいいから生き返ってほしかったんだ。初めてお前さんが現れた時、あたしは心ノ臓が止まりそうになったよ。源内は生きていて、実はどこかに隠れていただけなんだ、と思った」 初対面の時と同じように、春信は熱っぽい視線を寄越した。 「だけど、絵を教えるために頻繁に接するようになって、よくわかった。いくら上手に演じようと、やっぱりおまえさんは、あたしの好きだった源内にはなれない」 「おめえの好きだった源内?」 と、佐助が問うのと同時だった。 胡坐をかいた佐助の膝の上へ春信が飛び込んできた。 夜道で幽霊に出くわしたように、佐助は肝を潰した。 六 「お、おい、何してんだ」 春信が佐助の胸に顔を埋めた。腹のあたりに春信の鼓動が伝わってくる。 佐助は無意識のうちに、春信の頭を強く押し戻していた。 体の均衡を失い、春信は手を着いて畳に倒れ込んだ。顔を背け、そのまま動かない。 「すまねえ、おめえが変な態度をとるから……」 邪険にしたのは春信の素振りのせいではなかった。 寄り添われて妙な気分になったからだ。春信の仕草は、手練手管に長けた白糸より、ずっと誠意に溢れていた。 「ふっふっ」 春信が肩を揺すって、不可解な笑いを漏らした。 「何がおかしいんでえ」 「男にしか興味を持たないという源内の性質には、気づいていたかい?」 佐助は頷いた。稚児買い、浜村屋との艶聞、そして春信の言動。すべて源内が男色家であった事実を示している。 「重三郎や平角は、おまえさんに野郎買いをさせるのは可哀想だと考えた。だから吉原に連れていった。源内が女にも興味を持つようになったと世間の眼を欺ければ、身代わりを演じやすいからね。まさか裏目に出るとは考えていなかったようだけど」 春信が面を上げた。軽い口振りとは裏腹に、悔しそうな、落胆したような、捉えがたい形相をしていた。 「もう遊びは終わりだと、あたしが〈連〉の奴らに、掛け合ってあげる」 春信は破顔一笑した。何かをふっ切ったような清々しい笑顔だった。 「あいつらが素直に納得するかな」 誰が言い出した遊びか知らないが、連中は与太に全身全霊を捧げている。 「与太話に乗ったのは仏の枕元にいた奴らだ。根はいい輩だからな。人一人が病んだというのに、続けようと無理強いする奴はいないよ」 佐助は目頭がじくじくと熱くなるのを感じた。潤んだ目を拭いもせず春信を見つめる。思えば、春信は最初から自分の味方だった。 「そんな想いのこもった目で見るなよ。また、おかしな気分になっちまうじゃないか」 照れているのか、春信が頻りに自分の顔を撫でた。 「身代わりをやめられたとして、俺はこれから、どうすればいいんだ」 春信という強力な援軍を得たにもかかわらず、先行きに不安を感じた。身代わり役を下りれば、借金が重く圧し掛かってくるはずだった。 春信は任せておけというふうに、胸に手を当てた。 「治郎兵衛には話をつけておくから、借金は働いてゆっくり返していけばいい。ただ、事が落ち着くまでには、しばらく時間がかかる。その間は江戸を離れたほうがいい。路銀はあたしが何とかするからさ」 ──江戸を離れる? 話が意外な方向へ転び出した。 この先、お仙と顔を合わせるのは気まずいから、江戸を離れるのは、吝かではなかった。 しかし佐助は旅をした経験がない。目的地をどこに定めたらいいか見当もつかなかった。 落ち着く先を考えてもらい、路銀を都合してもらう。自分の未来はいまだ他人の手に委ねられている。 ──いつになったら、一人で生きていけるのか。 考えると心が萎えそうになる。 気持ちを奮い立たせようと、佐助は、つんと顎を上げ、窓の外を眺めた。 「その横顔。本当に源内にそっくりになったな。源内の仕草が習い性になっちまったんだね。これから佐助に戻るのは案外大変かもしれないな」 開け放した窓から一匹の羽虫が飛び込んできて、窓枠に止まった。 「源内はもう、あたしの心の中にしかいないんだねえ」 春信は寂しそうに呟くと、注意深く虫を摘まみ上げ、そっと掌の中に包み込んだ。 «第十一章 果たし合い
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