身代わり狂騒曲 風花千里
終章 旅立ち 一 明和七年十月十五日 空がうっすらと白み出していた。 空気は冷たいが、風もなく、旅立ちには打ってつけの朝だった。 木挽町の下屋敷で、田沼意次に長崎行きを告げられてから、一年以上が過ぎていた。 佐助はすぐにでも長崎へ向かいたかった。ところが、その前に秩父鉱山の再開発の話が持ち上がった。以前は石綿や金の採掘が主だったが、再開発は鉄の採掘を目的としていた。 殖産興業に意欲を燃やす意次は、鉄鉱にいたく興味を示し、内々に、佐助に調査を命じた。佐助は一年をかけて鉱脈の調査を進め、幕府に採掘の申請書を提出した。 申請書を提出しても、許可が出るまでにしばらく時間がかかる。その間を縫って、長崎行きが急遽、決まった。 今思うと、一年間の猶予は佐助に余裕をもたらしたかもしれない。秩父まで何度も往復し、だいぶ旅にも慣れてきた。源内振りも板につき、地元の協力者とも、何一つ怪しまれることなく付き合えるようになった。 この一年で、佐助は源内として甦った。 意次は、明和六年八月十八日に側用人兼務の老中格に昇進した。同時に、加増も受けた。この分だと、天を目指す竜のごとく、まだまだ出世の階段を駆け上っていくだろう。 ──家を出る前に、一服していくか。 ホルトの葉の模様がついた愛用の煙管を手に取った。ホルトの木は、まだ見たことがないが、旅に出れば、どこかで本物に出合う機会もあろう。 傍らには、年季の入った胴乱が出番を待っている。中には、往来手形、下着、火付け道具、矢立、薬など、旅の携行品が詰め込まれていた。 俯いて自らの出で立ちを眺める。合羽、着物、羽織、手甲、股引、脚絆。これで出がけに陣笠を被り、草鞋を履けば、旅装は調う。 「おはようございます」 戸口が開き、重三郎が顔を出した。 「朝っぱらから、どうした?」 「源内さんの旅立ちの朝じゃないですか。見送りに来たんです」 重三郎は片頬に笑窪を刻み、朗らかに笑った。 二 日本橋まで行くという重三郎と、佐助は家を出た。 「今日は通二丁目の地本問屋に用があるんです。そのついでに見送ろうと思ったんですよ」 重三郎は新しい吉原細見の発行をもくろみ、有力者から助言を得ようと、精力的に動き回っていた。 途中、春信の家を通り過ぎた。 「春信さんが逝ってから、もう三月になりますか……」 重三郎がしんみりとして言った。 六月一五日、春信は世を去った。昨夏から体調を崩し、しばしば寝込むようになっていた。体の不調もさることながら、気鬱がひどくなった。 今年の夏以降は、何日も食事を摂れない日が続いた。もともと華奢な体つきだったが、食が細くなるにつれて、ますます痩せていった。顔の色も透き通るように白くなり、空気に溶けてしまうかと思われた。 だが、調子が悪くても仕事の手は休めなかった。何かに取り憑かれたように絵を描き続けた。無理を重ね、しまいには血を吐く。それでも絵筆を持つのを止めようとしなかった。 ──あいつは、自ら死を選んだのさ。 春信の死は病死である。 しかし、佐助は知っていた。春信が源内恋しさに気を病んでいったことを。源内の元へ行きたいと、自らを死へと追い込んでいったことを。 春信は源内に恋していた。佐助にとって一番の理解者だった春信だが、春信にとって、佐助は最後まで〈身代わり〉でしかなかった。 春信は絶望し、気を病み、源内を追ってあの世へ行く道を選んだ。 自分の存在が春信を苦しめていたかと思うと、佐助は身の内が捩れるような辛さに襲われた。 ──春信、あの世で源内先生と、よろしくやってるか。 夜の明けた空を仰ぎ、冥土にいるはずの春信に語りかけた。 「そういえば、南畝が、よろしくと言ってました」 重三郎が口を開く。 「奴も忙しいのか」 最近さらに肥えた南畝の顔が浮かんだ。 「年明けに出した浄瑠璃本の評判がよくて、続編を書くのに大忙しのようです。相変わらず廓にもよく顔を出しますけど」 「狂歌も続けているのか」 「狂歌師として、四方赤良の名も広まりつつあります」 「有名になったせいか、主殿頭様のお屋敷でも、随分と幅を利かせてやがる」 南畝は狂歌の火付け役として名を馳せ、山の手連という〈連〉を結成した。唐衣橘洲の四谷連、朱楽菅江の朱楽連など、江戸のあちこちで新しい〈連〉が出現していた。 「重三郎も〈連〉に入ったそうじゃねえか」 「吉原大文字屋の主人、加 保 茶 元成 が吉原連を作ったんで、付き合いで入ったんです」 重三郎は貸本業から地本問屋への商売替えを企てている最中だ。最先端の江戸文化である狂歌連に身を置くのは当たり前、〈連〉の繋がりは商売に必要不可欠の要素なのだろう。 「それにしても、主殿頭様には、してやられましたね」 重三郎の顔にほろ苦い笑みが滲んだ。 三 「まさか、主殿頭様が言い出しっぺだったとはな。洒落のきつい殿様だぜ」 意次の思いつきのせいで、佐助はもとより、重三郎や平角は、さんざん振り回された。 「あの後、平角さんが南畝に怒ったのなんの。主殿頭様に一杯食わされた件より、南畝に立ち回られた経緯のほうが腹に据えかねた。一時期、二人の間には険悪な空気が立ち込めましたが、今では仲直りして、一緒に狂歌会に出かけているようです」 木っ端役人の南畝が、雲の上の人である意次に無理難題を押し付けられ、苦悩したのは想像に難くない。 南畝は機知に富むたちではない。重三郎が〈身代わり〉の計画を考えついたからよかったものの、無策のままだったら、意次の覚えが悪くなるばかりか、田沼屋敷への出入りが禁止になったかもしれない。 上役のご機嫌取りで、小役人の苦労が絶えないのは、いつの時代も同じだった。 「お仙ちゃんまで絡んでいたとはな」 佐助は顔を顰めた。 今でもお仙のことを考えると、かすかに胸が疼く。 お仙はこの春、許婚だった政之助の元へ嫁いでいった。 政之助の度重なる求婚に根負けした形だったが、お仙も、もう二十二歳。世間一般の常識からすると、嫁入りは遅すぎるくらいだった。 「南畝から聞いて、面白半分に与太に加わったと思ってましたが、お仙ちゃんも主殿頭様の手の内にあったとは」 お仙は市井評判の美女と名高い。早くから田沼屋敷に招かれ、何かと目を掛けられていた。意次から佐助の教育係を任され、二つ返事で引き受けたのだそうだ。 「要するに、主殿頭様につながる〈連〉と、重三郎や平角が集う〈連〉、両方に属していたのが、南畝とお仙ちゃんだったんだ」 途方もなく大きな繋がり。その輪の中へ佐助は投げ込まれていたのだった。 「南畝とお仙ちゃんの橋渡しで二つの連が重なり、あっぱれ、源内先生が甦ったってわけです」 重三郎が、佐助、いや、甦った源内をつくづくと眺めた。 四 前方に日本橋が見えてきた。 神田白壁町から十軒店の通りを経て、四半刻。 東海道の起点である日本橋は、人でごった返していた。 重三郎が橋の袂で立ち止まった。 「ここから源内さんの旅が始まるんですね」 武士や商人が行き交う中で、佐助と同じような旅装の人々も見受けられた。 「世界への扉を開ける。源内先生が、果たそうとして果たせなかった仕事を、俺が代わりになし遂げる」 誰に言うともなく宣言した。 紅毛に関する知識は、小浜藩酒井家の奥医師杉田玄白から授けてもらった。 玄白には、しばらく源内の死が伏せられていた。 半年ほどして源内の身代わりが誕生した経緯を聞かされると、即座に不快の念を露わにしたそうだ。 けれども意次の命で佐助が源内の遺志を継いだと知ると、何かと手を差し伸べてくれるようになる。今ではよき相談相手として双方の家を行き来する間柄になっていた。 ただ知識は豊富になったけれど、言葉には不安があった。江戸に来た阿蘭陀商館長の宿を訪ね、阿蘭陀語の手ほどきを受けたが、まだ少々の会話ができるほどの力しかなかった。 だが、長崎には通詞もいる。難しいやり取りは、通詞を介して話せばいい。 言葉だけではない。初めての長旅、異国人との駆け引き等、気掛かりな事項は多々ある。それでも長崎での仕事に手応えを感じていた。 ──なぜなら、俺は源内だからだ。 源内ならやれる。源内である俺ならやれる。 一年の間に、佐助の内には源内の魂が住みついてしまった。何をするにも、不安より自信が先に立つようになり、何をやるにしても、心身に力が漲っている。 人込みの中から、旅姿の二人連れが佐助のほうへ向かってきた。夫婦者なのか、男と女の組み合わせだ。 「おぬしら、どうしてここへ」 佐助の前に立ったのは、政之助とお仙だった。 「拙者はこの度、長崎への遠国御用を仰せつかり、彼の地へ赴くところだ」 政之助が畏まって答えた。ともすれば緩みそうになる厳つい顔を必死に引き締めている。 「遠国御用って、お仙ちゃんもかい?」 「だって、一人で江戸に置いとくと心配だから一緒に来てくれって、うるさいんですもの」 薄化粧できりりとした出で立ちのお仙が、困ったように眉根を寄せる。焼餅焼きの政之助に説き伏せられて同行するようだ。 言葉とは裏腹に、お仙の目は期待で輝いている。好奇心旺盛な女子が、長崎への旅と聞いて心を躍らせないわけがない。 ──しかしなぜ、政之助がいきなり長崎へ。 佐助は首を傾げた。 日本橋北詰から向こう岸を眺める。橋を越え、ずっと進んでいけば、木挽町に行き当たる。大江戸一の洒落者が赴く下屋敷がある場所だ。 ──さては主殿頭様が陰で糸を引いたな。 合点がいった。意次は佐助の長崎行きに多大な期待を寄せている。任務が円滑に遂行できるよう、旅慣れた政之助を共に長崎へ遣わそうと考えたに違いなかった。 正直、お仙の同行が気にならないと言えば嘘になる。けれども、佐助には色恋の沙汰より、もっと大事な志があった。 ──旅は道連れという。確かに長崎までの道のりに連れがいたほうが心強い。主殿頭様、御配慮をありがたくお受けいたしますぜ。 今時分、北叟笑んでいるであろう意次に佐助は礼を述べた。 「それじゃ、旅立つとするか」 「道中、お気をつけて」 重三郎が手を振った。 「おう、行ってくるぜ」 明けきった空に陽が昇る。 今日は日ッ本晴れの上天気だ。 佐助は荷物を担ぎ直すと、世界への一歩を踏み出した。 (了)
»序章 源内死す | »第1章 佐助の憂鬱 | »第2章 葬式 |
»第3章 修業の始まり | »第4章 重三郎の懸念 | »第5章 連 |
»第6章 工房 | »第7章 吉原詣 | »第8章 扇屋 |
»第9章 夢 | »第10章 狂乱 | »第11章 果たし合い |
»第12章 密談 | »第13章 甦る源内 | »終章 旅立ち |
0 件のコメント:
コメントを投稿