五月は薄闇の内に─耕書堂奇談 風花千里
第二話 冩樂の大首絵(後) 十九 でっ、どっ、でっ、どっ、と不貞腐れたような不規則な足音が階上から下りてきた。 ほどなく開け放した襖の先に、一九が立った。小遣い稼ぎの仕事に精魂を傾けていたからか、目が血走り、着物もあちこち着崩れている。 「突っ立ってねえで、入れよ」 京伝が値踏みをするような目をして一九を呼び入れた。 一九は少しだけ躊躇するような表情を浮かべたが、すぐにいつもの飄々としたとぼけ顔に戻り、京伝と蔦重の間へ来た。おどけた動作で、どかっと胡座を掻く。 「他人様の店の売り物に質の悪い悪戯をしたのは、おめぇだったのか」 蔦重は声に毒を忍ばせた。ここまでの経緯から、特別な方法でドーサを引いた犯人は一九なのだと察していた。 しかし一九は、見知らぬ場所に連れてこられた鶏のように首を四方八方へ振り、 「あっしには何の話だか、さっぱりわかんねえんですがね」と嘯いた。 「わからないはずはねえだろうよ、この地獄耳が。俺が厠から帰ってきた時分には、もう上で聞き耳を立てていたくせに」 一九の鼻面に叩きつけるように、京伝が言い放った。京伝は厠からの帰り、階段の上で身を潜めていた一九の姿を認めていたらしい。 「だって、二人して怪異だの、妖だのと騒いでいるから、こちとら仕事になりゃしねえ。何をそんなに盛り上がってんのかと知りたくなるのは当然だろう」 へらへら笑いに紛らわせ、一九は巧みに京伝の攻撃を躱した。 「どれ、俺にも実物を見せておくんなせえよ」 一九の頼みに、京伝は渋面を作りながら、件の絵を床に滑らせた。 「ああ、これかい」 隣の若妻の浮気現場を覗き見るような好奇の目で、一九は絵に顔を寄せる。 「ほぉー、こりゃあ、すげえ。この世のものとは思えねえ凄まじい顔つきだ。まるでこの世の恨みつらみが、ぎゅーと詰まってるみてえじゃねえか。蔦重さんは何か、こいつらの恨みを買ってるんですかい」 一九は自らも力いっぱい顔を歪め、さも恐ろしそうに体を震わせた。 「白々しい芝居をしやがって。京伝の話じゃ、役者の顔が縮んだ理由はドーサの引き方にあるという。どうせ、おめぇが妙な引き方をしたんだろう」 馬鹿馬鹿しい与太が大好きな一九のこと。世間に一泡吹かせようと、奇妙奇天烈な与太をぶち上げても、何ら不思議はなかった。たとえその結果、耕書堂に損害を与えたとしても、だ。 「蔦重さん、妙な引き方とは失敬な言い草じゃねえですか。世話になってる手前、俺は、ここんちの仕事はきっちり仕上げているつもりだがね」 ほぼ一文字に近い細い目を吊り上げ、一九は抗議の色を見せた。 一九は手先が器用で、頼んだ仕事はすべて人より美しく仕上げた。特にドーサ引きは、滲み止めのドーサ液を絶妙な具合に薄く均一に塗る技に長けている。一九が引いた紙で自分の絵を摺ってほしいと指定する絵師も大勢いる。 蔦重が黙っていると、一九が言葉を続けた。 「だいたい、どういうふうにドーサを引いたら、こんなおぞましい顔が出来上がるってんだ」 「京伝、おめぇはわかってんだろう」 と蔦重が訊く。 「また脳味噌が固まり出した。いったん下ろし金で滅茶苦茶に擂り下ろしてやろうか。いいか、ドーサは水を弾くだろ」 京伝の迫力に、蔦重は思わず「ああ」と頷かざるを得なかった。 「じゃ、塗ってねえところは」 「水を通しちまう」 「よろしい。では、この女形のように細かい縮緬皺を寄せるには、どうすればいい」 「木綿糸ほどの幅でドーサを引く、引かないを交互に繰り返したらどうだ。いや、冗談だ。そんな芸当、神様だってできっこねえよな」 思いつきを口にした蔦重だが、すぐさま撤回した。ひどく狭い幅でドーサを引く。気の遠くなるような細かな作業をする意味が見い出せなかったからだ。 ところが、京伝は意味を見い出したらしい。 「物差しと非常に細い筆を使って引いたら、できなかねえな。皺の向きだって自由自在に変えられる。俺の見立ても同じだ。では、女形の顔の部分だけ縮んだ謎はどう説明する」 見立てが同じなら、あとは全部、己で謎を解けばいい。京伝がいちいちしつこく問い掛けてくる理由は、蔦重に対するいつもの嫌がらせに違いなかった。 「わからねえ。顔だけに皺が寄るドーサ液がある、とか」 「下ろし金で細かくしすぎて、味噌が軟らかくなりすぎちまったか。そんな都合のいいドーサはねえよ」 京伝が呆れ顔を向けた。 「だけど、顔に着目したのは蔦重にしちゃ上出来だ。手の込んだドーサ引きを手掛けた奴は、紙のどの位置に顔が来るか、初めから知っていたんだ」 「何だと」蔦重は事の重大さに、二の句が継げなかった。 二十 「どの紙にどの絵柄を摺るか、って話は限られた人間しか知らねえはずなんだが……」 蔦重はようやく息を継ぐと、言葉を絞り出した。 限られた人間とは、二人。蔦重と摺師の才次だ。才次には、この絵はこの紙の束を使って摺る、と予め指示していた。 京伝は蔦重の動揺を見て、話を引き取る。 「蔦重の言ってるのは、あんたと才次だろう。だが、さっき指摘したように、才次には紙にあんな細工をする暇はねえ。じゃ、誰だ。絵師の寫樂か。寫樂だってわざと悪戯を仕掛けて、絵の力量以外のところで評判を取りたかねえだろう」 「他に誰が……って、考える間も要らねえな。やっぱり、一九か」 母屋や店のみならず、耕書堂の仕事を手伝うという名目で、一九は近所に構える工房にも出入り自由だった。だとしたら、蔦重と才次が次に摺る絵の相談をしているところを立ち聞きもできるはず。 しかも、豪華な雲母摺りの大首絵として売り出すため、蔦重は一九が滲み止めを施した出来のいい紙を使うように指定していた。 「いい加減に白状しろ。おめぇ、何でこんな手の込んだ真似をしたんだ。妙な噂を立てて、耕書堂を潰す気だったのか、それとも……」 蔦重は店主の威厳をちらつかせつつ凄んだ。ところが、途中で尻窄 みになった。傍らで、一九が暢気に鼻糞をほじっている様子が目に入ったからだ。 「人の話を聞いてんのか」 蔦重は声を荒げる。すると一九は鼻の穴に突っ込んでいた指をじっと眺めたのち、着物の端になすりつけた。ふくぅと欠伸を噛み殺す。 「蔦重さん、そりゃ濡れ衣ってもんだ。俺は与えられた仕事をこなした以外は、なーんにもしちゃいねえ。犯人探しなら他を当たってくんな」 しらを切っているのか、本当に知らないのか、一九は頑なに、似非怪異への関与を否定する。 そのうち一九は、蔦重の顔の前へ自らの右手を差し出した。 「何の真似だ」細いが器用そうな一九の手先を見ながら、蔦重は問うた。 一九はひょこんと頭を下げると、 「言いつけられた仕事はすっかり片づけたんで、駄賃をくだせえ」 と、上目遣いに懇願した。 「ドーサ引きも挿絵描きも、全部か」 蔦重が頼んだ仕事は、かなりの分量があった。 「へえ、今日は、昼からやってましたからね」 「すべて終わっているなら、約束通り手間賃は払う」 蔦重は二百文ばかりを一九に渡した。 「じゃ、俺はこれで」 一九はふらつきながら立ち上がった。部屋を出ると上には行かず、階段を下りる気配がする。 「どこへ行くんだ」京伝が声を掛けた。 「おぜぜが入ったんだ。行くところは決まってる」 酒を飲ます店か、夜通し開いている賭場かはわからぬが、一九は外出を匂わせた。 「だが、もう四つだぞ」 「まだ鐘は鳴ってないから、木戸は開いてる。この隙に外へ繰り出すのさ」 一九の気配は次第に薄くなり、最後のほうは声だけが階段を上ってきた。 「今の一九の態度をどう思うか」 「どうもこうも、やったのは一九だ。間違いねえ」 京伝は小気味よく断言した。 「そうだよな」と蔦重も同意する。 「今、思い出したが、この間、一九が二日酔いで朝寝をきめ込んでいただろう。あの時に寝惚けて『自分は筆一本で世間を仰天させられる』と抜かしやがったんだが、あれは紙への細工の話だったんだな」 一九が夢の中で自作自慢をしているのだと思い込み、蔦重は気にも留めていなかった。 「ああ。一九のことだ。覚えているかは別として、酔っ払い相手に、方々で己の悪戯を吹聴してたかもしれねえ」 「ところで、おめぇは初めっから真相がわかってたのか」 「まあな。蔦重の脳味噌が手入れ知らずの腐れ味噌だとしたら、俺のは御公儀御用達の高級味噌だからな。働きがまるで違うんだよ」 京伝は心底、気の毒そうな目をして、蔦重を見遣った。 「でも一九は、なんであそこまで平然としらを切るんだ」 一九が素直に謝れば、蔦重は、面白い与太だった、と耕書堂の主人として寛大な態度をとる余地はあった。 「決まってんだろ。あんたを恨んでる事実を隠したいからさ」 京伝は事もなげに言った。 二十一 すでに一九が場にいないので、蔦重は京伝に当たり散らした。 「やつは居候だぞ。仕事がなくて食いっぱぐれてたところを俺が拾ってやったんだ。感謝されこそすれ、恨まれる理由なんて皆目わからねえよ」 「知ってるよ。一九を耕書堂へ連れてきたのは、この、俺だからな。一九だって、耕書堂へ置いてもらっている件については、蔦重に恩義を感じていると思うぜ」 京伝は蔦重の怒りを受け止め、落ち着いて答える。 「それじゃ、他に何の恨みが」 「うーん、恨みというより、妬みとしたほうが適当かもしれんな」 京伝は腕を組み、自説を修正した。 「妬みって俺へ、か」 「いや、違う。寫樂にだ」 「馬鹿な、寫樂が誰かも知らんくせに」 蔦重の声がわずかに上擦る。ここで京伝が「冩樂」の名を持ち出した意図が読めなかった。 「本当に、そうか?」 京伝の瞳が、ちろりと動いた。 「おめぇは、わかるのか」 「京伝様を舐めるんじゃねえよ。いくら寫樂の素性をひた隠しにしたところで、少し気の利いた人間なら、寫樂の絡繰 はすぐわかる」 愛用の煙管に火を点けると、京伝は蔦重の顔を目掛けて、ふう、と煙を吐き出した。 「何だ偉そうに。それじゃ言ってみろよ。好きに勘ぐるのは勝手だが、後で恥を掻くのは、おめぇのほうじゃねえのかい」 「真相を暴露されて恥を掻くのは、確実にあんたのほうだ。いいか、耳の穴を、よーくかっぽじって聞けよ。寫樂なんて絵師はいねえ。寫樂は傀儡なんだ」 「へへ、高級な味噌を働かせた結果が外れて、残念だな、あの絵はちゃんと寫樂という絵師が描いている」 しめた、と蔦重は思った。京伝の思考は見当違いの方向へ行っている。だとすれば、京伝をやり込める絶好の機会だ。 ところが、蔦重が小躍りせんばかりに胸を高鳴らせる一方で、京伝は天竺から来た珍獣を見物するような目で蔦重を見ていた。 「愚か者が。どこのどんな絵師が描いていようが、この際、どうでもいいんだ。俺が言いたいのは、冩樂という傀儡を操っている人間がいるってことさ。で、言うまでもなく絡繰の黒幕は、蔦重、あんただよ」 京伝が人さし指で蔦重を示した。 蔦重はこっそり乱れた息を整えた。京伝の言葉の中に一つ真実が含まれていた。 「そんな口から出任せを。証拠でもあるのか」 「あるともさ。まずは冩樂が誰なのか、今もって公にしていねえ点だ。第一弾の大首絵は役者の不買運動もあって売れはしなかった。だが、絵自体はかなりの評判だった。なのに、なぜ絵師の正体を明かしていねえのか。正解は、謎のままにしておけば、売れなかった時に絵師のすげ替えが利くからだ」 京伝は立ち上がると、行灯に照らされた床をゆっくり歩き出した。 「なぜ、絵師をすげ替えるつもりだとわかるんだ」 口中に湧いてきた唾を飲み込み、動揺を気取られぬよう、蔦重はさり気なく訊ねた。 「落款だよ。あれは冩樂のものじゃねえ」 「何を言ってんだ。ちゃんと〈冩樂〉と書いてあるじゃねえか」 「ふふ、京伝様の澄みきった目ん玉を、侮っちゃいけねえよ」 京伝は荒野で兎を追う古狐のような貪欲な目をして、部屋の中を見渡した。 「おっ」と声を上げる。お目当てのものを見つけたらしい。何を手にするかと思えば、文机の上に重ねてあった最新の狂歌集だった。 「ほれ、ここだ」 京伝は狂歌集を開くと、ある箇所を指し示した。 開かれた場所には、蔦重の狂歌と似顔絵、それから狂名である「蔦唐丸」の名があった。蔦重は昔馴染みの吉原で結成された狂歌の〈連〉に名を連ねている。 「何だ、俺の歌じゃねえか」 「この『蔦』の字をよく見ろ。物差しで線を引いたように横の線がすべて真っ直ぐ揃っている。それから四つの点の打ち方。四つとも縦方向に向けて打たれていて、四つ目の点に向かって少しずつ点が大きくなっていく。これは、蔦重が字を書く時の癖だよな」 京伝は歩きながら朗々と指摘する。 蔦重は首筋に変な汗が滴り落ちるのを感じた。 続きは聞かなくてもわかった。冩樂の「冩」の字も、横の線が「蔦」の字のように真っ直ぐ平行に伸びている。点の打ち方の癖も、全く同じだった。 「よく落款まで見ていたな。そうだ、冩樂の落款は俺が書いたものだ」 これ以上のしらを切るのを諦め、蔦重は白旗を掲げた。 二十二 「ようやく白状したな。冩樂ってのは特定の絵師じゃねえ。いわば〈工房・冩樂〉なんだよな」 京伝の問い掛けに、蔦重は無言で頷いた。〈工房・冩樂〉なる名称は京伝の造語だが、言いえて妙である。 「『冩樂』という名は〈誰にでも樂に冩せる〉という意味だろ。あの極端に誇張した冩樂の絵は、一見、斬新に見えるけれども、実は誰でも真似できるほど単純だ。寫樂の売り出しに店の再建を賭けていたあんたは、一人の絵師に任せて失敗に終わらせるわけにはいかなかった。だから、己で指揮を執り、覆面絵師を造り上げた」 「おめぇは、寫樂を名乗った絵師が誰か知っているのか」 蔦重はとくとくと真相を看破していく京伝を、感嘆の思いで見つめる。今までひた隠しにしてきた寫樂の正体だ。どのように真実を暴いたのか、興味があった。 「大首絵の下地を考え出した絵師は、たぶん春朗だ」 「そうあっさり正解を口にされると腹も立たねえな。どうして、わかった」 「初め、寫樂の正体は、春朗か一九のどっちかだろうと踏んでいた。両者とも変人だし、世間の意表を突いた仕掛けが好きな輩だからな。だが、売り出された二十八枚の絵をじっくり見て、春朗だと確信した。一九だったら、あそこまで役者の顔を誇張して書かねえ。勝川派に破門され、役者絵を描きにくくなった春朗が、勝川派にはねえ独自の絵柄を生み出したのだ」 京伝の種明かしに、蔦重が口を挟む余地はなかった。 「最初は〈工房・寫樂〉なんて、考えていなかったんだ。だが、春朗の名では、勝川派がうるさくて出せねえ。勝川のやつらも、うちと縁のある絵師が多いからな。仕方なく寫樂なる絵師を仕立てたわけだ」 京伝の説明に補足した上で、蔦重は、さらにぼやく。 「俺と春朗とで巧く立ち回ったつもりだったが、おめぇはすべてお見通しだったんだな。まあ、寫樂の正体を知っても巷でぺらぺら喋られなかっただけ、よしとするか」 「〈工房・寫樂〉なんて面白い思いつきに、俺を交ぜねえからさ。よっぽどこの前に出た洒落本で寫樂の真実を当て擦ってやろうかと思ったぜ」 「なんで、やらなかったんだ」 「〈工房・寫樂〉は、まだ続くだろうから、次は俺も一つ交ぜてもらおうと思って、しばらく様子を見てたのさ」 確かに、与太や出鱈目が好きな京伝らしい発想ではあった。 「だがね、忘れちゃいけねえよ。寫樂の絡繰に気づいたのは、俺だけじゃなかった。一九も気づいてたんだ」 「そういや、さっき寫樂への妬みとか言ってたが。あれは、どういう意味だ」 「一九は食客の立場から、歌麿に代わる絵師を育てたい、という蔦重の目論見に気づいていた。一九だって絵師だ。当然、自分に任されるんじゃねえかと期待していただろう。だが、いつまで経っても声は掛からねえし、そのうち妙な役者絵の版木が摺師の元に届けられるようになる。一九は自分が蔦重の眼鏡に叶わなかった事実を知った」 京伝が一息つき、煙管を燻らせた。何物にも代えがたいという至福の顔つきだ。 「それで、俺を恨んでいたのか」 「一九は武士の出だからな。世話になっている蔦重に、恨み言をはっきり口にするのは自尊心が許さねえ。だから、恨みが妬みに転じ、矛先が寫樂に替わったんだ」 謎が解けた。 一九は摺師の工房へ自由に出入りできる特権を利用し、寫樂の絵の版木を調べたのだろう。次に摺る版木がどれかを見定めると、ちょうど役者の顔が来る位置に細くドーサを塗り分け、その紙を、翌日に摺る分の紙の束へ紛れ込ませた。 「一九の起用も考えたんだが、それより春朗が描いた、あの単純な絵柄に惹かれちまったんだ。単純ゆえに使う絵の具も少なくて済むから、費用も抑えられるしな。歌麿に代わる絵師の売り出しは絶対に失敗できなかったし、第一弾の春朗の筆遣いが不評なら、次は他の絵師に描かせてもいいと考えていた」 「で、この怪談話のけりは、どうつけるんだ。役者の顔が変形する絵として、もう一度、販売し、売れ残りを一掃させるか。怪異を見てえ物好きなやつらの間では、きっと評判になるぜ」 京伝の口から輪っかの形に煙が出た。怪異を宣伝に使うのかどうか、蔦重の返答を面白がって待っているように見える。 「うーん、どうするかな。ところで、一九が紛れ込ませた特別な紙は、この一枚だけだったんだろうか」 蔦重は気になる点を打ち明けた。縮む絵がまだたくさん存在するなら、宣伝の材料にはなる。 「一九が今さら口を割るとは思えねえが、俺の想像では、ドーサを木綿糸の太さに塗り分けるなんて細かな細工はたくさんできねえ。一九の悪戯を幇助したやつがいねえ限りは、おそらく、この絵だけじゃねえかな」 「それなら、怪異を口実にした再売り出しはやめよう。売り出す絵の中に顔の縮む絵がねえんじゃ、かえって耕書堂は嘘っぱちを吹いてやがると言われちまう。だったら、次の歌舞伎興行を題材として、寫樂の第二弾を売り出すよ」 蔦重は決断した。今は第二弾の売り出しに力を注ぐべきだった。 「第二弾も春朗を使うのか」 「やつは勝川派を見返してやりたくて必死だ。もう一度くれえ、機会を与えてやろうかと思っている」 「一九はどうする」 蔦重の腹を探るような目をして、京伝が聞いた。 「第二弾が失敗したら、使うかもしれん。一九の他に、近所に住む、絵の上手い能役者もいるから、春朗の代わりには困らねえよ」 と答えておいたが、蔦重は、一九は絵よりも戯作のほうに才があると感じていた。 飲んだくれたり、他人を妬んだりする暇があったら、さっさと傑作を物してほしいものだ。 「ふぁー、謎はすべて解けたんだから、そろそろ休むとするか」 欠伸とともに、京伝の垂れ気味の目が、眠気でさらに下がってきたように見える。 「この絵は、どうしたらいいだろう。ずっとこの薄気味悪い顔のままなのか」 件の絵を手に取り、蔦重は京伝の前に突き出した。 「呆れた。発条仕掛けの絡繰人形みてえに、もう脳味噌の動きが止まっちまったんだな。今は湿気を含んでいるから紙が縮んでいるだけだ。二日か三日も天気が続けば、乾いて少しは元の顔に近づくだろうよ」 二十三 蔦重は、深川は小名木川沿いの道を急いでいた。 今日は永代寺門前の料理屋で地本問屋の寄合があるのだが、出掛けに抱えの彫師から相談を持ち掛けられ、相手をしているうちに、すっかり店を出る時間が遅くなった。 だが、急いでいると言っても気ばかりで、あまり速くは進まない。先ほどから、地面に着いた左の足先に、竹槍で突つかれたような痛みを感じていたからだった。 少しは歩けと、しつこく医者の青庵から言われているので、乗ってきた駕籠は新大橋を渡ったところで帰していた。 しばらく落ち着いていた痛風の痛みが、近頃、ぶり返していた。相変わらずの野菜嫌いも原因だろうが、特に薬を飲み忘れた日は顕著で、今日も忙しさにかまけて、飲まずに出てきてしまった。 午後になって風が出てきたからでもなかろうが、微風 が草履の先を掠めるたびに、嫌がらせをされているような心地になる。 ぢくぢくした痛みに顔を顰 めながら、蔦重は辻駕籠でも通りかからぬかと周囲を見回した。 すると、前方の高橋の袂 で何やら人だかりがしている。 蔦重が寄っていくと、屯 している人々の間から、町方同心らしき侍が屈んで何かをしている姿が見えた。 (何だ、土左衛門か) 近づくにつれ、同心が見ているのは、地面に寝かされた溺死者だとわかった。同心は遺骸に掛けられた筵を捲っているので、筵が邪魔になり、仏が男か女かは定かでなかった。 近辺に響き渡る同心と手下のやり取りを聞いていると、あらかた調べは終わったようだ。 近所の輩が戸板を運んできて、筵ごと遺骸を乗せる。いったん自身番にでも運ぶつもりなのだろう。 人垣が崩れ、その間から二人の逞しい男が運ぶ戸板が出てきた。二人は漁師なのか、艶を帯びた、いい色に日焼けしている。その後に同心と手下が続いた。 板が蔦重の前を通る時、いきなり強めの風が吹いた。風は砂埃を巻き上げ、戸板の上の筵を飛ばした。 蔦重は目を逸らす暇もなく、溺死者の顔を拝む羽目になった。 溺死者は小柄な男だった。 まだ死んでから大した時間が経っていないのだろう。虚ろに開いた目はあるべき場所にきちんとあったし、溺死者に特有の水にふやけたぶよぶよの状態にはなっていなかった。 男の容姿は醜男の部類に入るだろう。太り肉 で、水でふやけているわけでもないのに顔が膨れていた。小さな目と上向きの鼻と間が抜けたような締まりのない口とが、顔の真ん中にぎゅっと集まっている。どう贔屓目に見ても、冴えない面だった。 手下が飛んでいった筵を拾って戻ってきた。同心の許可を得て、止まっていた戸板の上に掛けようとする。 その時だった。 筵を掛ける手下の手が溺死者の頭に当たり、顔が横向きになった。 「うっ」 蔦重は胸に異様な圧迫を感じて、後ずさった。 溺死者の目がゆっくりと動き、蔦重に視線を据えていた。 (縁起でもねえ。さっさと行こう) 蔦重は踵を返すと、人垣から離れる。少し遠回りになるが、川岸から離れた道を通るつもりだった。 「蔦屋さん、ちょっと待ってくださいよ」 背後から呼び止められる。振り返ると、日本橋横山町に店を構える地本問屋の宝来屋が立っていた。 二十四 「これは、宝来屋さん。あんたもこれから寄合かね」 嫌な相手に声を掛けられたものだ、と思いながら、蔦重は外面だけは愛想良く返事をした。 宝来屋は、つい最近、店を構えたばかりの若い商売人だ。父親は馬喰町で堅い本ばかりの書物問屋を営んでいるが、暖簾分けのような形で息子に地本への参入を促した。 息子もなかなか才覚のある男で、浮世絵にしろ戯作にしろ、売れそうだと踏むと、大量に仕入れて、売り切った。今や、急成長の地本問屋といえば、宝来屋は真っ先に名の挙がる店だった。 「ええ、そうです。遅れちゃいけないと急いでいたんですがね、土左衛門が上がったと聞いて、つい見物しちまいました。ところで、見当違いの方角へ行こうとしていたようですが、蔦屋さんは寄合に行かないんですか」 宝来屋は蟷螂 のような油断のならぬ目を、ぎろんと動かし、蔦重の顔色を探っている。 地本の世界に足を踏み入れたばかりの宝来屋は、同業者の動向を抜け目なく見ており、隙あらば商売敵の足を引っ張ろうと狙っている。同業者の中には、ほんの小さな商いの失敗を宝来屋につけ込まれ、廃業に追い込まれた店もあるという。 今まで蔦重とは接点がなかったが、こうして面と向かってみると、若く溌剌とした風貌の裏には、陰湿な敵愾心が潜んでいるように感じられた。 「いや、これ以上ここで足止めを食らうと寄合に間に合わなくなりそうだから、少し遠回りをしてでも別の道から行こうと考えたのだ」 蔦重は川沿いの道を避けた理由をでっち上げた。 「もう土左衛門は運ばれてしまいましたよ。野次馬も散り始めているし、一緒に川沿いを行きましょう。そのほうが絶対に早い」 宝来屋は半ば強引に蔦重の腕を掴むと、ともに歩き始めた。蔦重は、本当は一人で行きたかったが、川沿いが近道である以上、断る理由もなかった。 「そういや、寫樂の絵の噂を聞きましたぜ。なんでも、役者の顔が伸び縮みするとか」 宝来屋が満面に好奇の色を浮かべて訊く。 「亀屋に聞いたのか。ったく、あのお喋り爺が」 紙でできているかのような亀屋の薄っぺらい唇を思い出し、蔦重は憮然として答えた。 京伝が怪異の謎を解いてから、七日が経っていた。 おそらく頃合いは良しと見て、亀屋の主人が自らの体験をあれこれ吹聴したのだろう。 しかし、顔の伸び縮みする絵は蔦重のところにある一枚だけ。今さら言い触らしたところで、巷で怪異が話題になるはずもない。 ところが蔦重の返事を聞き、宝来屋は呆けたように口を開けた。 「亀屋って、何の話です。まさか今、世間で評判の事件を知らねえんですかい。市中のあちこちで、寫樂が描いた役者の顔が変形するって話ですよ」 「馬鹿な……いったい誰が、そんな出鱈目を」 喉の内側に膠 が張り付いているかのごとく、言葉が閊 えてうまく出ない。京伝は、一九がドーサを引いた特殊な紙は一枚きりという見解を示したのに、何ゆえ今頃、怪異が起こり始めたのだろうか。 「誰って、私の周りに限っても、近所に住むご隠居だの、国元への土産にうちで絵を買っていったお侍だの、かなりの数に上りますよ」 「そんなに大勢いるのか。まさか宝来屋さんも怪異を見たんじゃねえだろうな」 「その、まさかですよ。見ましたとも、寫樂が描いたやどり木と腰元の絵です。もっとも私が見たときは、腰元の顔の半分だけが縮んだんですがね。でも、半分だけだと、かえって不気味さが増しますわ。まるで苦悶が極まって肌が爛 れちまったような、それは怖ろしい形相でした」 腰元の顔が半分しか縮まなかったというくだりに、引っ掛かりを覚えながらも、蔦重は予期せぬ怪異の再現に愕然としていた。 (信じられねえ。一九はそんなにたくさんの紙を作れたんだろうか) 寝食の面倒を見る代わりに、一九にはドーサ引きの他にも、様々な雑用をさせている。さらに、小金があれば、一九は夜な夜な飲み歩いて正体をなくしている。水で縮む紙を山ほど仕込む暇はないはずだった。 (まさか、他にも悪戯を仕掛けた奴が?) 一九が酔っ払って己の悪戯を吹聴したとしたら、面白がって追随する輩がいるかもしれない。 一度、しっかり調べてみなければなるまいと、蔦重が思案していたところへ、宝来屋が妙なことを言い出した。 「やっぱり、この怪異は役者の怨みが引き起こしたんじゃないんですか。あまりにも間が合いすぎている」 「間とは何だ。怪異なんて、暇な誰かが何らかの細工をして生み出した如 何 様 だよ」 と、蔦重は首を傾げる。 すると宝来屋は蔦重をまじまじと見据えた。相手の能天気を嘲るような目つきだ。 「本当にそう思っているんですかい。さっき、あなたは土左衛門の顔を見たでしょう。あれは腰元若草役を演じた中村万世の、なれの果てですよ」 「あれが中村万世だと。嘘つけ、あんな醜男の役者がいるものか」 蔦重は周囲を憚らず、大声で喚いた。 「これは、長年ずっと役者絵を出してきた蔦屋さんとは思えないお言葉ですねえ。女形は白粉を塗っちまえば、元の顔なんかわからないじゃないですか。私はさっき、町方の旦那が話すのを聞いていたんですよ。旦那が野次馬の一人から聴き取った話だと、土左衛門は間違いなく万世だそうです」 「だが、なぜ冩樂の怪異と関係があるんだ。おおかた万世は酒にでも酔って、川に落ちたのだろう」 「ふふ、あなたは何もご存知ないんですね」 宝来屋が鼻を蠢かせて、せせら笑った。 「役者の顔が故意に誇張された冩樂の大首絵で一番の迷惑を被ったのは、万世だったんですよ。三階の役者が人気役者と共に浮世絵に描かれると聞いて喜んでいたのに、売り出されたら、あんな丸々とした腹太餅みたいな顔ですよ。しかも人気役者じゃないから、大っぴらに文句は言えない。そのうちに世間の物笑いの種にはなるわ、所帯を持つはずだった女には振られるわで、自暴自棄になってたって話ですぜ」 宝来屋が万世についての情報を滔々と語る。さっき駆けつけたばかりの町方同心が万世の詳しい情報など知るはずもないから、自ら嗅ぎ回って調べた結果だろう。 「万世は自分で川に飛び込んだのか……」 蔦重は呟いた。気づかぬうちに声が沈んでいる。万世の死が、まさか自死だとは思いもしなかった。 万世は飛び込む前に、何を考えたのだろう。 自分を捨てた女か。人気役者への一歩を踏み出すはずだった未来か。それとも…… 「万世は下積みが長い。冩樂の絵で顔を売れば、人気役者の末席に連なれるかもしれないと期待したでしょう。しかし、売り出された絵は、あまりにも悪意に満ちた誇張がなされていた。好きな女にもそっぽを向かれた万世が絶望したのも、無理はありませんわな。あれ、どうしました。顔色がひどく悪いですよ」 宝来屋が俯いた蔦重の顔を覗き込んでいた。 蔦重は平気な振りをしようと笑みをつくってみたが、うまくいかなかった。 痛かった左足の痛みが酷くなっていた。痛みが強いので呼吸が浅くなり、動悸がする。心ノ臓のあたりが錐で突かれたように痛む。 蔦重は宝来屋から離れ、川端に座り込んだ。 「少し具合が悪いのだ……寄合はやめとくよ。宝来屋さんは……ここから一人で行ってくれ」 息も絶え絶えに伝えると、蔦重は案じ顔の宝来屋に構わず、通りがかりの辻駕籠を呼び止めた。 二十五 まだ朝も四つ過ぎだというのに、すでに東の中空で、お天道様が肌を甚振 るような強い光を放っている。 蔦重は浅草新鳥越町にある正法寺を目指していた。 (それにしても、暑いな) 蔦屋の屋標である、富士山形に蔦の葉一枚を染め抜いた手拭いで、額の汗を拭う。 柳橋から猪牙舟に乗った時から、気温がぐんぐん上がり始めた。陽光は艫に掛けた蔦重の手の甲を容赦なく刺し、ちりちりと焦がす。 四日前に江戸の町を大雷雨が襲った後は、ずっと好天が続いている。今年の梅雨も、ようやく明けたようだった。 正法寺の山門が見えてきた。あと少し坂道を上れば辿り着く場所にいるのだが、蔦重は木陰で立ち止まり、休憩した。 正法寺橋で舟を降りれば、寺はすぐ目と鼻の先。しかし、少し歩くと息切れのする蔦重は、一気に坂道を上り切る体力がなかった。 道端の石に腰を下ろし、蔦重は近そうでいて遠い寺の山門を眺めた。山門は開け放してあり、敷地の中もよく見える。 正面に建つのは本堂だ。創建が慶長六年、新鳥越町に移転してきた年が延宝九年だから、本堂はだいぶ古びて、ガタが来ていた。特に茅葺き屋根の傷みが激しく、ところどころ茅が抜け落ちて斑になっている。 早いところ瓦葺きに換えればいいのに、と思うが、金にうるさく、貯め込んでいる割にはケチで吝 いと評判の住職が、おいそれと費用の掛かる瓦葺きを選択するとは思えなかった。 しばしの休憩の後、ようやく正法寺に着いた。 社務所に寄ると、住職は本堂で待っているという。 蔦重は幼い頃から見知った本堂への道筋を辿りながら、手にした風呂敷包みを抱え直した。 本堂の廊下から声を掛けると、障子が開いて、若い僧が顔を覗かせた。筋骨隆々とした逞しい体をしている。予め話は通してあったから、蔦重はすぐに迎え入れられた。 蔦重と入れ替わりに、僧が一礼して出て行く。中には一人、住職の楽隠が端座していた。 「久しぶりだな。また、困り事か」 朝の勤めを終えたばかりの楽隠が振り返った。横幅のある顔についた、円くてつぶらな目を細める。いつ見ても鯰 のような愛嬌のある顔つきだ。楽隠はゆったりした動作で、蔦重に向き直った。 「今度ばかりは参った。俺は間違いなく怨まれている」 蔦重は持参してきた風呂敷包みを開いた。現れたのは愛用の文箱。もちろん中には京伝が怪異の謎を解いた絵が入っている。 「供養してほしいのは、これだ」 箱の中から寫樂の摺物を取り出し、楽隠の前へ置いた。楽隠は両手で摺物を掴むと、じっくりと眺めた。 「これが噂の寫樂の絵か。ふむ、ここまであからさまに役者の癖を描き切るとは、相当な気概を持った絵師だな」 「感想は、それだけか」 「いや。それに加えて、この摺物の中には何か瞑 いドロドロした感情が漂っておるようだ」 と答えつつ、楽隠は摺物の表面を手で撫でる。すると「おや」と小さく声を上げて眉を顰 めた。 「役者の顔が、でこぼこしておるぞ」 やはり気づいたか、と蔦重は思った。梅雨明けしてから晴天が続いているせいで、縮んでいた役者の顔は少し元の長さを取り戻していた。 けれども、じっくり見ればやはり顔は歪んでいるし、紙の上から触ればすぐにわかる。 「この絵は、役者の顔が伸び縮みするのだ」 蔦重は、亀屋の噂から始まった怪異の経緯、怪異に関する京伝の謎解き、その後の怪異の多発、昨日ようやく知った腰元役の三階役者の自死について、包み隠さず楽隠にぶちまけた。 「もし自死した役者が怨むとしたら、普通は蔦重ではなく、絵柄を考えた寫樂のはずだがな。蔦重が怨まれているのだとしたら、あんたが一番この絵に関わっていると思わざるを得ぬな」 楽隠は小粒な目で、舐め取るように蔦重を見上げた。 傾き掛けていた正法寺を短期間で立て直した楽隠は、人の事情の裏の裏までを見抜く眼を持っている。おそらく寫樂という絵師の絡繰、裏切り者である歌麿への蔦重の憎しみもすべてお見通しなのだ。 「よし、わかった。この絵は付き纏っている怨念が強すぎるようだ。ねんごろに供養してあげるとしよう」 楽隠は絵を文箱へ仕舞うと、いったん間を置くように言葉を切った。 一瞬、二瞬……。項 のあたりをそわそわと撫でられるような、妙な静寂が場を占めている。楽隠はとぼけたような表情で、虚空を見つめ、頻りに真ん丸い顎を手でさすっている。 蔦重は、ようやく間の意味するところに気がついた。 「ああ……、これは供養料だ」 蔦重は前回と同じく、懐紙にくるんだ十両を楽隠の前に押しやった。楽隠は体をずらし、包みを受け取る。重さを計るように手の上で何度か握ると、外に控えていた僧を呼びつけて手渡した。 「ところで蔦重、ずいぶんと窶 れたな。痛風の具合が悪いのか」 「痛風の痛みもあるんだが、近頃、脚気も患 っちまって、時折、胸が苦しくて難儀する」 「道理で。顔色も悪いし、肌の色艶も冴えない。気をつけないと、怨みで取り殺されるより、先に心ノ臓がいかれてお陀仏だぞ」 楽隠はてらてら光る顔を近づけ、穏やかならざる冗談を口にする。その上で、少々下劣な笑みを浮かべ、 「〈小僧は脚気の薬〉と言うぞ。うちには年端もゆかぬ可愛い小僧が何人かおる。よかったら、これから相手をさせてもよいぞ」 と、提案した。 「とても、そんな気分にはなれねえよ」 蔦重は頭を振った。体も気分もすぐれぬ時に稚児遊びなぞ、たとえ金を積まれてもお断りだ。 「しかし、前にも言ったかもしれぬが、あんたは『奇』に遭遇するたびに体の具合が悪くなっていくようだぞ」 「確かに怪異を見るたびに、心ノ臓によくない気はするな」 労るように、蔦重は自らの胸に手を当てた。 「『奇』のあるところには、得体の知れぬ『怨』や『恨』が蠢いている。『奇』を近づけぬようにするには、他人の怨みを買わぬよう生きることだな」 楽隠がしかつめらしい表情をつくった。 「だがな、怨みを買わないように注意していても。『危』だの『忌』だのはそこらじゅうに潜んでいて避けようがない。さらに言えば、とうてい人の手には負えぬ数多の『鬼』どもも、あんたのような気力の衰えた者に取り憑こうと百鬼夜行、鬼 々 として跋扈 しておる」 楽隠の声は静かだが、妙に威圧的だった。 「じゅ、住職、脅かさねえでくれよ」 蔦重は懇願した。「奇」も「危」も「鬼」も、もう金輪際たくさんだった。 「まあ、愚僧も陰ながら蔦重の無事を祈っておくよ」 頬の肉を緩め、楽隠は、にひい、と笑った。 「一つ、よろしく。住職だけが頼りだ」 蔦重は深々と頭を垂れた。人の怨みを鎮められそうな人物は、もはや蔦重の周囲に楽隠しかいなかった。 楽隠は大きく一つ頷くと、 「任せておきなさい。ついては、今年は、いよいよ本堂の修理をしようと考えておってな。手始めに屋根を瓦葺きにするのだ。後日、寄進の旨を記した文書を届けさせるから、よきに計らってくれんかの」 と、ふっくら脂ぎった掌で、蔦重の手を握った。 (第二話 了)
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