身代わり狂騒曲 風花千里
第三章 修業の始まり 一 佐助は目を覚まし、寝床の中で大きな伸びをした。 今朝の空気は、蕩 けるように暖かい。あまりの心地よさに、もうひと眠りしようと目を閉じかけた。 「うわっ!」 驚いて、勢いよく跳ね起きる。 視界に映ったのは、自分の長屋でも、博打仲間の溜まり場でもなかった。 「痛 ててて……」 頭が猛烈に痛む。悲鳴を上げた喉の奥が、からからに渇いていた。 寝る前の記憶を必死に辿る。 ──色男が帰った後、四人で酒を飲んだんだったな。 おぼろげに浮かんできた情景が、気分をさらに重くさせた。 昨日、南畝は佐助の弟子入りを喜び、一人で燥 いでいた。 夕刻から酒盛りが始まった。師弟の盃を交わそうと、酒は南畝が酒屋で買ってきた。 春信以外の二人は、異様に酒が強かった。 佐助も下戸ではない。だが、釣られて調子よく盃を重ねているうちに、前後不覚のていに陥ってしまった。 源内のいまわの際に関する話題になったあたりだ。そこから先は、いつ寝床に入ったのか、重三郎らが帰ったのは何刻だったのか、何から何まで皆目覚えていなかった。 喉の渇きを癒そうと、手近な柱に縋 り、よろよろと立ち上がった。その足で三 和 土 に向かう。三和土の奥に厨 が設えてあり、隅に水甕が置かれていた。 なみなみと張られた水を柄杓で掬い、口へ運んだ。清冽な水が喉を通ると、頭の芯に巣食う痛みが、少し和らいだ気がした。 源内の家は、外と同様に内部も雑然としていた。 三和土にも厨にも、大小の壺や瓶が所狭しと並んでいる。壁には、奇妙な形状をした草が干されていた。 起きたついでに、家の中を見て回った。 家は二階建て。佐助が住んでいた長屋と違い、かなりの広さがある。 一階は、先程まで寝ていた部屋と昨夜酒盛りをした座敷。誰が片づけてくれたのか知らないが、酒宴の痕跡は残っていなかった。 座敷の脇に、二階に続く階段がのびている。 梯子のように細く急な階段の前に立った。 昨日から気にかかっていたのだが、上ってみたいとは言い出せずにいた。一人の今なら、誰をはばかる必要もない。 佐助は階段の踏面 に足を載せた。 二 十二畳の間は襖が開けっ放しになっていた。 部屋の四方八方に設えた木製の棚に、小間物屋の店先のごとく、ごちゃごちゃと、がらくたが載っている。 右手の棚に近づいた。 がらくたに見えたのは、物が雑多に放置されていたからだった。一つ一つつぶさに目を留めていけば、木端 屑のように見えた代物が、何か明確な意図をもって作られたものだとわかる。 四角い木の板を取り上げた。 先端が尖っており、中央に玻璃の管が通っていた。表面には規則正しく目盛りが刻まれ、その脇に蛮語が書かれていた。 ──目盛りがついてるってことは、何かを計る道具なのか。 世に物の長さや重さを計る道具は数多あるが、手にした道具を見たのは初めてだった。 管の下方に、ねっとりとした赤い色水が溜まっている。 板を逆さにする。逆さにすれば水が移動するかと思ったのだ。だが、水は少しも動かなかった。 板の正体を探るのは諦め、元の位置に戻した。少し視線を動かせば、佐助の気を引く得体の知れないものが、まだある。用途がわからなければ、後で春信か重三郎に聞けばいい。 棚に沿って、一歩足を踏み出した。 板の隣に置かれた白木の箱が目に留まった。 箱の大きさは縦が八寸弱、横が一尺二寸、高さがやはり八寸弱。材質は杉のようだ。側面に穴が空けられ、内から外へ向かって把手が付いている。 恐る恐る蓋を開ける。 中には銅線や銅板、玻璃の瓶などが、ごちゃ混ぜになって入っていた。試作中の機械のようだ。どんな使い道があるのかわからないけれど、源内が考案し、一から作っていたらしい。昨日、家の外で見た夥しい工作物の残骸は、この機械の失敗作かもしれなかった。 箱の中から一枚の紙切れを摘まみ出す。半紙ほどの大きさの紙には、走り書きで「この機械を〈エレキテル〉と名付ける」と記されていた。〈エレキテル〉は蛮語なのか。何を意味するのか。源内は〈エレキテル〉で何をしようと考えていたのか。 問い続けているうちに、源内の斬新な発想の元を知りたいと思った。それには外から眺めているだけでなく、中身を調べてみなければなるまい。 箱をひっくり返し、中身を全て取り出してみたい。足下から突き上げるような衝動と必死で闘う。しかし実行に移したとして、元のように部品を箱に納める自信がない。一つでも収納を間違えれば、永久に機械は動かなくなってしまうかもしれなかった。 悔しいが〈エレキテル〉の用途の解明も先延ばしにして、次の棚に目を転じた。 工作物から一転して、ごつごつした岩や石が統一感もなく置かれていた。山や河原に行けば、どこにでも転がっていそうな変哲もない岩石だ。 ところが、手近にあった岩に顔を近づけ、目を瞠った。 ──なんて綺麗な色だ…… 暗灰色の岩のところどころに、瑠璃色の鉱物が霜柱のごとく盛り上がっていた。視線を横に移動すれば、他にも暗褐色の岩の割れ目に緑の鉱物が顔を覗かせていたり、小さな籠に鴇 色の美しい玉がいくつも入っていたりする。 発明家、戯作者としての源内の業績は、重三郎や南畝から聞いていた。絵心も相当にあったらしいが、源内の手掛けた仕事が一つや二つでないのは、この家を見れば一目瞭然だった。源内は薬草に興味を持ち、鉱物にも造詣が深い。 ──まだ違う顔があるんじゃねえのか。 部屋の中央に据えられた文机の前に座る。何一つ見落とさないよう丹念に目を凝らした。 自分に瓜二つだという源内がどんな男だったのか、この際、全部暴いてやろうと思った。 やがて佐助の目は、工作物の向かいにある陶器の皿に吸い寄せられた。 三 絵皿は棚板の上に、横一線に飾られていた。 絵柄を見せてずらりと並ぶさまは、どこか廓の張見世を思わせる。皿の一枚一枚が、我こそは絶世の美相なり、と胸を張っていた。 表面に施された絵をよく見ようと腰を屈めた。 皿は、緑や黄、黒味がかった茶の釉薬で彩られた焼物だった。 窯で焼成する前に型押ししたのか、絵の部分がうっすらと盛り上がっている。絵柄は、古 の絵の画題を取り入れたものが多かったが、南蛮のものと思われる草花が皿を縁取るなど、洒落た意匠もあった。 源内は若い頃、長崎に遊学した経験があるという。 異国の船が着き、毛色の違う商人たちが行き交う長崎。その街で、若き源内は何を見たのだろう。阿蘭陀渡りの書物や道具、それから異国の風俗か。絵皿の面から異国への憧憬が立ち上っているように感じた。 棚の中程に大ぶりな四角い皿があった。今まで目にしたことのない意匠だ。そっと手に取り、文机まで運んだ。 ──これは、地図だな。 皿の表面を指でなぞり、佐助は確信を持った。 茶一色に彩られた大皿には奇妙な形が表れていた。右上から左下にかけて海老のような模様が浮き出ている。模様の上部に〈日本〉という文字が見える。図柄は日本全土を表していた。 切絵図なら何度も目にする機会があったが、日本地図を見るのは初めてだった。こうして見ていても、江戸が地図のどこに位置するのか判断がつかない。 皿を持った手を伸ばして、遠くから眺めた。 じっと見つめるうち、眼裏 に途轍もなく大きな情景が広がった。 日本という名の細長い国。その周囲は、すべて一面の大海原だ。日本はその大海の中に寝そべるごとく長々と横たわっている。 絵柄に表された大海の向こうに、どれほどの国があるのか。支那、阿蘭陀、葡萄牙 ……、その程度しか思いつけなかった。日本を囲む海の果てが、いったいどうなっているのか。佐助は、もっと大きな地図を見たいと思った。 さまざまな分野に首を突っ込み、奇抜な発想を形にしていった源内。遺された作品を目の当たりにすると、どれほど大勢で仕事を分担しようとも、この才人を再生させるのは不可能だと思わざるを得なかった。 ──あいつら、本気で源内先生を甦らせるつもりなのか。 佐助は皿を机に置き、頬杖をつく。こんなに手間隙をかけ身代わりを育てたとして、誰にどれだけの見返りがあるのだろう。 例えば南畝。狂詩で有名になったが、戯作者としてはまだ駆け出し。自作が売れるか売れないか、源内の名で発表し、世間の受けを探りたいと考えているだろう。 重三郎は近いうちに地本問屋への商売替えを目論んでいる。だとすると、源内はぜひとも抱えたい作家に違いない。 要するに、茶番がうまくいった暁に一番得をする者。それがこの企みの黒幕だ。 「わからねえ! 一番得するのは誰なんだ」 佐助は頭を抱えた。 四 「開けとくれ、春信だよ」 突如、陽炎のように立ち現れた声に肝を潰し、佐助は窓辺に駆け寄った。 障子を開け、下を覗く。家の前に佇む春信の髷が見えた。 「ちょっと、待ってておくんなさい」 いつまでも師匠を見下ろしていてはいけない。急階段を三段抜かしにして下りた。 下駄を突っ掛けるのももどかしく、大きな音を立てて戸を開ける。 ほとんど鼻面がくっ付きそうな位置に、ほのかに笑みを浮かべた春信が立っていた。 「起きていたんだね。昨夜の様子じゃ、二日酔いで寝込んでいるかと思ったけど」 暖かな陽光を全身に受け、春信は周囲の情景に溶けてしまいそうなほど儚げだった。 源内のみならず、春信もまたこの世の人ではない。佐助はそんな錯覚におそわれた。 「どうした、ぼんやりして。今日から修業だよ」 佐助は慌てて春信を招き入れた。 八畳間の座敷に陣取ると、春信は携えてきた風呂敷の結び目を解いた。 背筋を伸ばし、畏まった春信は実に姿勢がいい。だらしなく胡坐を掻いていた佐助は恥ずかしくなった。 ぎこちなく姿勢を変える。すると春信は、佐助の動きに注意を向けた。 「足は崩したままでいい。源内はいつも大胡坐で座ってたからね」 佐助は気が楽になった。再び、胡坐をかき直す。春信の計らいがなかったら、足が痺れて醜態をさらしたかもしれなかった。 「まずは臨写から始める。この中から描きたいと思う絵を真似てごらん」 春信は、風呂敷から手垢にまみれた写本を取り出した。 佐助は本を受け取り、細心の注意を払って表紙を捲る。 ところどころ黄ばみを生じた紙面に、実物と寸分も違わぬ雀の姿が描かれていた。少し頭を傾げた雀の嘴からは、今にも愛らしい囀りが聞こえてきそうだ。 「うおぉぉ」 佐助は歓喜の声を漏らした。 興奮の冷めやらぬまま、先を捲る。現れるどの見開きにも、墨一色の巧みな花鳥画が描かれていた。 「あたしは、若い頃、絵を学ぶために京に上ったんだ。西川 祐信 という大和絵師に従いて修業をしたんだけど、その前に狩野派も学んだ。狩野派の写実は、大和絵の基本を学ぶのに適していたからね」 春信は写本に触れた。 狩野派は、およそ二百五十年前の室町時代に狩野正信を祖として始まった。狩野派宗家の絵師は時の為政者に取り立てられ、障壁画などの大作から仏画、絵巻に至る小品まで、御用絵師として筆をふるった。 「これは狩野派の技術を修得するのに使った教材さ」 絵の修業の基本は、手本となる絵を忠実に写し取ること。勝手気ままに描けるのは、気の遠くなるような数の臨写を経てからだ。 以前に描いた経験があったので、佐助は写本の中程にあった鶏の絵を模写することに決めた。違い棚にしまわれていた硯箱を出し、墨を磨り始める。 墨を含ませた筆を持つ。上手く描こうと焦るからか、小刻みに手が震えた。 「構えなくていいよ。どれほど絵心があるか見るだけなんだから」 佐助の緊張を解きほぐすように、春信は煙管を使い出した。女物かと見紛うほど華奢な羅宇。痩身の春信にはよく似合った。 筆先を画帖にのせた。手本を見ながら筆を走らせる。描き始めると、余計な考えが吹き飛び、頭の芯が、きん、と冴えた。 夢中になって描いた。絵を描くのは本当に久しぶりだった。それでも意外なほど軽やかに筆が動く。 四半刻も経っただろうか。画面には、手本に似せた鶏の絵が出来上がった。 「おまえさん、絵を習ったことがあるね」 春信が、佐助の手元を覗き込んだ。佐助が描き上げている間、春信はひと言も発さず、静かに絵の完成を待っていた。 「大工になる前に、近所の画工に、二年ほど……」 「この餌を啄 む鶏の首の傾きや羽の具合なんか、実によく描けてるよ。いい筋をしているのに、もったいない。どうして、よしちまったんだい」 「親父がね、絵師でおまんまが食えるわきゃねえって、俺を大工修業に出したからですよ」 夢を諦めた経緯を思い出して、佐助は唇を噛んだ。 五 「おまえさんは、なりたくて大工になったわけじゃないんだね。それで仕事に身が入らず、やけになって博打に手を出したのか」 春信が煙管を仕舞いながら、穏やかな声で訊いた。 「いや、初めは修業に精を出していたんでさ」 佐助は節くれだった自分の指に目を落とした。 大工修業が辛かったわけではない。治郎兵衛は侠気に富んだ棟梁だった。道具の扱い方から仕事の段取りまで、弟子が一人前になるまでしっかり鍛え上げた。 おかげで修業期間を終えた佐助は、そこそこの収入を得られるようになった。家族を養い、僅かながらの蓄えもできた。 ところが一年前、ささやかだが幸せな暮らしに変化が起こった。 母親が病んで、看病の甲斐もなく世を去った。 佐助にとって母親は唯一の肉親だった。母のために仕事に精を出してきた。母の死により、何のために働くのかがわからなくなった。 次第に仕事に嫌気が差すようになった。ずっと母親と暮らしていたから、独りで飯を炊き、侘びしく食うのもたまらなく辛かった。 ある日、寂しさを紛らわそうとして、賭場へ足を踏み入れてしまった。 初めは小銭で遊んで帰るつもりだった。だが、甘かった。海千山千の賭場の連中が、佐助の心の隙を見逃すはずはなかった。 その日、五百文の元手から始めた勝負は大勝した。佐助は半日ほど遊んだ賭場で、およそ五両もの大金を手にした。五両といえば、給金の三月分。それを半日で稼ぎ出したのだから、箍が外れるのも時間の問題だった。 翌日から仕事が終わると賭場へ入り浸った。雨の日は朝から腰を据えての博打三昧。あっという間に博打の虜にされてしまった。勝つか、負けるか。ぞくぞくするような緊張の中に身を置くと、天涯孤独の身である事実を忘れられた。 三月ほどすると、徐々に負けが込んできた。今思えば、初めは稼がせていい目を見せておき、のめり込んだところで、骨の髄まで啜り尽くす魂胆だったのだとわかる。 当時の佐助は、自分には博才があると思い込み、陰で北叟笑む悪党どもの思惑には全然気づいていなかった。 負けを取り戻すべく、さらに深く足を突っ込んだ。その結果、給金ではとても返せないほどの借金をつくってしまった。 「大丈夫だよ、ちょいと回り道をしただけじゃないか」 春信が、幼子を元気づけるような明るい声を出した。 「もう大工仕事に戻る必要はないんだ。これからは思う存分に、絵を描くがいいよ。焦ることはない。新しい技法は、あたしが教えてあげるから」 やけになって博打に手を出し、気がついた時には借金まみれ。そんな、お定まりの顛末を知っても、春信は咎めも嘲 りもしなかった。 借金取りに追われ、気を擦り減らしてきた佐助に、春信の控えめな励ましは痛いほど胸に沁みた。 「先生みてえな立派な絵師に習えるなんて……夢のようだ」 「先生ってのは、よしとくれよ。おまえさんは源内なんだよ。馬鹿っ丁寧な言葉遣いも無用だ。あたしのことも、春信って呼んどくれ」 春信が苦笑いを浮かべた。 六 鶏の絵だけで技量の程はわかったと言う春信を説き伏せ、佐助はさらに臨写を進めた。季節を考え、次の手本には木 通 の花を選んだ。春信は源内の遺品となった書物を手に取り、頬ずりしそうなほど顔を近づけ、愛おしげに眺めている。 佐助は筆を執って描き始めた。 ──さっきの注意を、忘れないようにしなきゃな。 鶏の絵は、春信がたった一本の線を描き入れただけで、見違えるように良くなった。 〈鶏が鶏としてあるための一本の線〉を的確に引ければ、どんな絵でも描ける。無数に頭に浮かぶ線の中から、迷わず一本を選び取れ。 春信は、そう言いたかったに違いない。 佐助は気を集中して、手本を写した。 緩やかに時間が過ぎていく。夢中で木通の蔓を描き、一枚、二枚と葉を描き加えた。 こつ、こつ 遠慮がちに戸を叩く音がした。 「ごめんくださいな」雲雀 の囀 りのような愛らしい声がした。控えめな音を立て、櫺子、板戸が次々に開く。 「おや、よく来たね」 春信が、機嫌よく応対する。 客は春信の知り合いらしい。 ──うるせえな。人が真剣に絵と向き合ってるってのに。いったい誰だ。 木通の花びらを描き終えたところだった。佐助は仕方なしに筆を置き、三和土のほうを振り返った。 「源内先生、こんにちは」 声の主を目にした佐助は、口を開けたまま、その場にしゃちこ張った。 「か、笠森稲荷のお仙!」 ようやく口の周りの緊張が解けた。 三和土に若い女が立ち、涼やかに微笑んでいる。江戸で知らぬ者はない、谷中の水茶屋〈鍵屋〉の看板娘、お仙だった。銀朱 の袷をすっきりと着こなし、柳煤竹 と菜の花色の縞柄の帯を大きく後ろで結んでいる。 「まあ! ほんと源内先生にそっくりだわ」 少々蓮っ葉な口調で値踏みをしながら、お仙が上がり框に腰掛けた。 浅草奥山の楊枝店〈柳屋〉のお藤と共に、お仙は春信の錦絵に何度も登場する。絵の中では、活発そうで華やぎのあるお藤と対照的に、お仙は楚々として落ち着いた雰囲気の女子 だった。 実際のお仙は元気で明るい娘のようだ。薄く化粧をした肌は室内でもわかるほど艶やかで、内側から弾けそうな張りがある。お仙の座る框の周辺だけ、日溜まりができたように眩しかった。 ──この娘も与太に一枚、噛んでいやがるのか。 大江戸一と謳われる美女を前に、にやけそうになっていた口の端を、佐助は力を入れて引き締めた。 南畝を始めとして、重三郎に治郎兵衛、お仙までもが、佐助を死人の代わりにしようと画策している。昨日まで面識がなかった奴らから寄ってたかって嬲り者にされているかと思うと、胸糞が悪くなった。 お仙は佐助の胸の内など知る由もない。框から立ち上がると、厨へ入っていった。 大きな皿に草団子を山ほど盛って戻ってくる。 「もう九つ過ぎだから、お腹が空く頃だと思ったの。はい、うちの店のお団子よ」 と、二人の男の間に皿を置いた。 「今時分、こんなところで油を売ってて、おとっつぁんに叱られないのかい」 団子に手を伸ばしながら、春信が訊ねた。 まだ陽は充分に高い。本来なら店で自分目当ての客をいい塩梅にあしらっている頃だ。 「平気よ。今日は手伝いの娘が普段より多く来てるから」 「お仙ちゃんは、源内を自分の叔父さんのように慕ってたんだ。この家にも出入りしていて、秩父で採ってきた石の整理を手伝ってた」 「源内先生が集めた岩や石は、形の変わったのや、色の綺麗なのばかりで、何べん見ても飽きないんだもの」 お仙は目を輝かせた。 佐助は今しがた二階で見た、青みを帯びた岩を思い出す。女というものは流行りの柄の着物や、高価で煌びやかな簪 に憧れを抱く生き物だと思っていたが、磨かれてもいない武骨な岩や石に興味を引かれる希有な女子もいるのだ。 ──変わった娘だな。 体の内側から照り輝くような若さと、白鷺のように優美な美貌を持つお仙を、眩しいような思いで見つめた。美人にありがちな高慢ちきなところもなく、気さくで人懐こいお仙を前にすると、さっきまで胸の奥に渦巻いていた不快な感情が俄かに晴れる。 と同時に、お仙と仲睦まじく採集物の整理に勤しんだという源内に、軽い嫉妬を覚えた。 八 「それにしても、源内――」 「源内先生」と言いかけて、春信に睨まれ、佐助は慌てて言い直した。 「いや……俺の周りにゃ、随分といろんな人たちが集っていたんだな」 己ではない人間を「俺」と呼ぶ。その矛盾に慣れるには、まだ時間が掛かりそうだった。 「春信先生のような絵師だけじゃなく、お医者様だの、戯作を書く浪人だのと、源内先生の信奉者はたくさんいたのだもの」 自分の話でもないのに、お仙は得意げだ。 「今日は、春信……と、お仙ちゃんしか来てねえぞ」 納得がいかなかった。大勢の人間が出入りしていた形跡は微塵もない。今朝方も、春信が訪ねてくるまでは静かなもので、物音一つしなかった。 「『源内はまた秩父へ行ってる』と、治郎兵衛が方々で触れ回ったからだよ」 春信が悪戯っぽく微笑む。 それで謎が解けた。あるじが留守だとわかれば、訪ねてくる輩もいない。 春信はまた皿に手を伸ばした。団子はほとんどなくなっている。酒はあまり飲めないが、甘いものには目がないようだ。 「何年か前まで、ここには居候がうようよいたの」 「居候って、書生みてえなもんか」 源内ほどの高名な学者なら、書生が大勢いてもおかしくなかった。 「書生といったら、春信先生の工房にいるお弟子さんみたいなものでしょう。源内先生の元に集まってきたのは、ただ飯喰らいの人たちばかり」 お仙の話によれば、源内は食客の面倒をよくみていた。戯作や異国の文化について、夜ごと彼らと語り合うのを楽しみとしていたらしい。 「居候におまんま食わせるため、いろいろな仕事に首を突っ込んでたんだな」 「先生は、物事に熱中するとお金なんてどうでもよくなってしまうの。貧してにっちもさっちも行かなくなったら、戯作を書いたり、引き札の文言を考えたりして日銭を稼いでた」 「へーえ、筋金入りのお人好しだったんだな」 世に聞こえた天才の意外な素顔を知り、佐助は呆れ返った。 佐助の大げさな反応に、お仙が吹き出す。 「近頃は先生も留守がちだったから、新しく住み込む人もいなかったし、身代わりだってことがばれなくて済むわね」 「えっ? 俺は、身代わりだと知ってる奴としか喋っちゃいけねえのか」 佐助が狼狽えるのを横目に、春信が釘を刺した。 「喋るどころか、しばらく家から一歩も出しちゃ駄目だと、重三郎から釘を刺されている。お前さんは確かに源内に似てはいるが、そっくりというわけではないから、重三郎は源内に似せていく工夫をあれこれ考えている。だから、お前さんが源内だと周囲に認められるまでは当分ここへ籠もってもらう」 「そんな無茶な。外出できなかったら、湯屋にも行けやしねえ」 「心配するな。飯は交代で誰かが運んでくる。湯屋は……暖かくなったから行水で我慢しておくれ。そのうち、源内の癖や習慣もわかってくる。それまでの辛抱さ」 ──所詮は他人事だと思ってんだな。 団子のお代わりを注文するような気安さで、皆、無理を言ってくる。 表の煮売り屋で晩の菜を買うことも、湯屋でゆったりと湯に浸かることもできない。独り家に閉じこもり、佐助の正体を知っている人間が訪ねてくる時を、馬鹿面下げて待っているしかないのだ。 春信が機嫌を取るように佐助の目を覗き込んだ。 「お仙ちゃんは源内の癖をよく知っている。いろいろ教えてもらうといいよ」 「えっ?」 春信のひと言に佐助は突然顔が脂下がってくるのを意識した。 家にいればお仙のほうから訪ねてくれるというのだ。錦絵に描かれるほどの、飛びきりの美人と二人きり。でれでれするな、と言うほうがおかしかった。 先ほどまで腹の中でさんざん毒づいておきながら、佐助はあっさり考えを改めた。 「仕方ねえな、それじゃ当 分 は 大人しくしとくぜ」 と、たっぷりともったいをつけて承諾した。 「だけど、どうしてお仙ちゃんほどの人気者が、こんな下らねえ与太話に関わってんだ」 佐助の問いに、お仙は白く優美な手を口元に当てて笑った。 「あたしだって江戸の水で産湯を使ったくち。『源内の身代わり』なんて大仕掛けの絡繰芝居を、この目で見届けずにはいられないのよ」 «第四章 重三郎の懸念
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