2013年2月28日木曜日
2013年2月27日水曜日
蟲雙紙 024 「叩き網は…」/ 風花銀次
蟲雙紙〈二十四〉 風花銀次 叩き網はのどかにやりたる。はげしきはわろく見ゆ。 捕虫網ははしらせたる。吸蜜中の蝶などを捕らへむに、ふと見やるほどもなくひらめき、そよかぜにふかれたるごとき花ばかりのこりたるこそおかしけれ。はたはたと花散らすはいとわろし。
2013年2月25日月曜日
小説「曼荼羅風」5 -もう半分- / 齋藤幹夫
曼荼羅風 齋藤幹夫
――其之伍 もう半分―― 「いやに正直だねえ…正直めッ!…… 何 でもいいようゥ、そのお金ねえ、あたしに預けておきよ、ねッ……さあ、お出しよ、こっちィ預かっとくから……ええ? いいよいいよ」古典落語「もう半分」より 今朝、出掛けに、子供は実家で晩御飯を食べさせて貰い、そのまま泊まるから、あなたは何処かで済ませて来て頂戴、と女房に云われ、きょとんとしていると、ほらまた忘れてる、今夜は今度のクラス会の打ち合わせで皆と食事をしてくると云っておいたでしょう、と来た。忘れていたのではない。端から聞いていないのだ。女房は確かに云ったのであろうが、私の方が聞いていないという意味である。そんな事を言い返せば要らぬ騒動が始まるから、ああ、とだけ答え、家を後にした。それにしても「クラス会の打ち合わせで皆と食事」とは如何なることだ。クラス会なんぞは参加者の把握と会場予約をすれば事足りるのではなかろうか。どうせ、クラス会の計画が持ち上がった時に「じゃあ、一度皆で会って、食事でもしながら打ち合わせをしましょうか。久し振りだし」ってな具合に話が進んだのに違いない。そもそも久し振りに会う場こそがクラス会であろうに。そんなことを曼荼羅風の大将と話しながら、秋刀魚の腸のほろ苦さに温燗などをやっていると、入口の引き戸の心地よい音が聞こえ、すぐさまそれを打ち消す騒々しい声が店内に侵入して来た。声の後に続いて入って来たのは熊さん八つぁんの二人組。入って来たなり熊さんが、お決まりの御挨拶(大将から聞いたところによる)をする。 「はい、こんばんは。大将、瓶麦酒ね、じゃんじゃん一本」 普段なら框の方に坐る二人だが、今夜は付場の前の長卓に、それも私を挟んで右に熊さん、左に八つぁんが腰を下ろした。なんだか厭だ。出された瓶麦酒を八つぁんが持ち、熊さんに「ほい」と傾け、熊さんは麦酒会社の商標が入ったビアタンを差し出す。八つぁんが注ぎ終わると、今度は熊さんが瓶ビールを、八つぁんに傾ける。「おっ、とととと。ほいお疲れさん」と八つぁんがビアタンを軽く持ち上げ、熊さんも、お疲れさん、と応える。これが二人に挟まれた私の顔の前で行われたのである。何だか鬱陶しい。 「今日はお二人、距離を置くように坐って。何ですか、喧嘩でもされたんですか」 「喧嘩なんかしてねえよ。熊がよ、そこに坐ったから、その奥の向こう側へわざわざ行って坐るのも面倒だから俺がここに腰掛けただけの話よ」 私は右の熊さんに聞いてみたのだが、左の八つぁんが私の後頭部に向かって答えた。 「お疲れ様でした。すんなり進みましたか、打ち合わせ」 大将が労いの言葉を熊さん八つぁんに掛ける。普段のこの時分なら、この二人組はこの店で、すでに御気分宜しくなっているのだが、たった今の御登場、それも素面だったのは、なにやら「打ち合わせ」なるものを行っていたようだ。 「すんなりは行かねえなあ。なんやらかんやらと必ず茶茶入れて来る奴がいるからよ。まあ、終わったからもういいや。大将もありがとさんで。祭の日にゃ、『曼荼羅風』って入った提灯が眩しいくらいだ」 熊さんは続けて私に「今日はよぉ――」と「打ち合わせ」とやらの詳細を教えてくれた。来月にここらの氏神様の祭があり、商店街は献灯会というものを立ち上げて献灯料を集めた。曼荼羅風も献灯料を出したようだ。献灯料は神社に寄付し、境内に社名店名の入った提灯がずらりと並ぶ献灯提灯台が設置される。その集計と報告会、祭の日の商店街の行事の打ち合わせが行われ、献灯会の会長が熊さんで、八つぁんが会計を任されているとか。 「ほんとに四の五の煩せえ奴が多いよな。だいたい打ち合わせなんか、軽くこう一杯やりながら、ちゃんちゃん、で終わらせてよ、はいお疲れさんでまた一杯ぐらいが丁度いいんだ。ごたごたと長えんだよ。茶じゃ間がもたねえし、茶茶は多いし」 女房は食事しながら打ち合わせ、八つぁんは飲みながら打ち合わせと来た。どうして「打ち合わせ」に付加価値を付けたがるのだろう。女連中はお喋り、男連中は単に飲みたいだけか。否近頃は「女子会」なんていうのもあるらしいから、一概には云えない。 「飲んじまったら蛸八、お前も喋り出すだろうが。それこそ纏まらねえよ。酒飲まねえで、お前が黙 りでいるからあの時間で終われるんじゃねえか。それはそうとよ、今夜はあんまし飲むんじゃねえぞ。大金預かってんだからな。酔うとどうなるか解らねえ」 八つぁんは献灯料の現金を風呂敷に包み、持って来ているらしい。熊さんにそう云われ、そうだそうだ、と云いながら風呂敷包みを胸に抱え込む。そしてすかさず「大将、熱燗頂戴」と云っている。解ってるんだか、解ってないんだか、解ったもんじゃない。 「本当に気を付けて、八つ田さん。まあ店に忘れて行く分には、落語の『もう半分』みたいなことはしませんので大丈夫ですが、外に出られた後ではね――。はい、お待ちどう」 大将は一合徳利と猪口を八つぁんに前に置いた。熊さんが大将に向かって「何だよ、その『もう半分』ってえのは」と訊いた。私も気になっていた。 「もう半分」という噺はですね――。 宿酔で今日はもう飲まないなんて云っておきながら、頃合いになるとついつい飲んでしまうのが酒飲みの性で、隅田川のそばの居酒屋に訪れた爺さんもその枠の内。江戸時代の居酒屋は一合ずつの計り売りなのだが、この爺さんは「これを一杯ッつ三杯飲むのを、半分ッつ六杯飲むと、それァまた…余計飲めるような心持がしましてねえ、へえ…それで、半分つつ飲むんですよ」と五勺ずつ頼む。相当酔いも回って来た爺さんは持って来た風呂敷包みを忘れて店を後に。風呂敷の中は金子五十両。居酒屋の旦那は後を追っかけて返そうとするが、そこへ身重の女房が現れて引き止め、爺さんが戻って来ても知らぬ存ぜぬで通して、猫ばばしてしまおうと企む。先の爺さん程無くして居酒屋へ戻り、風呂敷包みは無かったかと尋ねる。居酒屋の女房は、無い、知らぬの一点張りで、旦那も女房の押しに負けて、知らないとついつい云ってしまう。その金子五十両は娘が吉原へ身を売って借りてくれた金。爺さんは、その娘に「今夜ばかりは、お酒を飲まないでおくれ」と云われていたのに、飲んでしまってこの始末と己を悔いて、肩を落とし居酒屋を出て行った。一度は白を切った旦那だが、その経緯 を聞き、やっぱり猫ばばは出来ないと後を追うが一足遅く、爺さんは橋の上から身を投げてしまった。落胆しながら旦那が店へ帰ると女房が産気付き、出産。生まれた赤ん坊はすでに歯が生え揃い、白髪が生え、顔が先程の川に身を投げた爺さんそっくりで、それがぎろりと睨みつける。女房はあまりの出来事に卒倒しそのままあの世へ行ってしまった。残された旦那は女房の野辺送りを済ませ、爺さんの五十両を元に店を直し、女中を置いて、皮肉にも店を繁盛させた。赤ん坊には乳母を付けるが、どの乳母もすぐに「お暇を頂きたい」と云って来て長くは続かない。これは変だと、暇を求めて来た何人目かの乳母に辞める理由を問うと、この赤ん坊、夜な夜な床をそおっと抜け出し、行灯の油を舐め、寝ている乳母のほうをじろっと睨 め付けると云う。旦那は自分の目で確かめようと、その頃合いに赤ん坊の寝ている部屋の襖をそっと開けて覗き込む。その先には床を抜け出し行灯の油を舐める赤ん坊がいる。旦那が持っていた六尺棒で打ちつけようとした時、赤ん坊はひょいと振り向き、油皿をつき出し「もう半分ください」 「怪談ですね。怪談ですけど、志ん生師匠が演るっていいますと、ぞぞっていう背筋に虫が走ったような怖さはありませんが、味わい深いものです。今輔師匠ですと、先に笑わせておいて、後から地獄の底に引きずり込むような鬼気迫るものがありますね」 大将は話し終わり「これ、よかったら摘んでください」と軽く炙った栃尾の油揚げに刻んだ葱を乗っけて、その横に大根おろしを添えた一品を出してきた。 「こいつぁ、旨えなぁ」 「御代りが欲しいくらいですね。もう半分ぐらい」 熊さんの声に私が応えるが、いつも煩い八つぁんの声が聞こえない。様子を窺うと目を見開いたまま固まっている。こいつぁ、この手の話にゃ滅法弱くってなぁと熊さんが云う。 「大将、そりゃあ、ほんとうの話かい」 八つぁん、生唾を飲み込みながら間の抜けたことを訊く。 「落語ですよ、本当にあった話じゃありません。圓朝師匠は、怪しい物は神経病だなんて云っておったそうですが、『神経病』って云うのが当時の流行りみたいなもんだったんでしょう。ですが八つ田さん、そう気になさらずに。怖いと思えば、怖くない物まで怖い」 「でもよう、『幽霊の正体見たり旦那だな』って云うだろう。女の幽霊なら粋で別嬪の奴もいるかもしんねえが、旦那と来ちゃあ男だよ。色気も糞も無けりゃあ、怖えだけじゃねえか。それによ、俺がこの銭を失くしちまってよ、責任感じて気落ちして、身ぃ投げちまって、俺の孫かなんかに、そんなのが産まれた日にゃあ、どうすんだ。ああ、おっかねえ」 「化けて出んのはお前だ、蛸八。化け物が鏡見て驚いてるようなもんじゃねえか。それになんで身内に祟ってんだ。そもそもよ、身投げするような玉かよ。表六玉のくせしやがって。なんだ『旦那だな』ってのは。なにからなにまで間違ってるよ」 熊さん、一気呵成に叩き込むが、八つぁんには何処吹く風。臆病風のみ吹きまくる。 「厭だなぁ、今夜ひとりで便所行きたかねえなぁ。嬶について来てくれなんて云えねえし、この歳で寝小便もなぁ――。枕元に一升瓶置いとくってのも、入り切んなかったら、それこそ大 事 だ。もう半分足りません、なんてな――。――そうか、ここで出してっちまえばいいんだな。そんでもって小便の元になる酒 を飲まなきゃいい」 顔こそ此方に向けているが、八つぁんは私達に話しているのではない。どうも独り言のようである。本人は頭の中で思っているだけのつもりだが、全て口から出てしまっている。 「ちょいと便所行ってくら。そして、小便が済んだらお勘定だ。今夜はもう飲まねえ。訳は云えねえし、訊かねえでくれ。万が一の用心のためだと思ってくれ」 大将も熊さんもあんぐりと口を開けて、トイレに駆け込む八つぁんを見つめている。皆から預かった献灯料に不始末があってはならない。だから酒を飲むのも途中で切り上げて帰るとは、流石八つぁん見上げたものだと、思ったことを口に出していなければ皆がそう思ったものを、これでは台無しである。トイレから戻った八つぁんはそそくさと勘定を済ませ「ばたばたして申し訳ねえ」と風呂敷包みを確り抱えてさっさと店の外へ出て行った。 「救いようのねえ、臆病者の大莫迦だぜ」 熊さんが大きな溜息とともに呟いた。その時、曼荼羅風の引戸がからからと音を立てて開いた。そこには八つぁんが顔を覗かせていた。 「どうした。早速風呂敷を失くしちまったか」 熊さんは半ば立ち上がりながらそう云うと、八つぁんは「いや――」 「誰か一緒に帰らねえかな、と思って」 「手 前 ひとりで帰りやがれ。この表六玉がっ」 熊さんが怒鳴りつけると、八つぁんは幽かに音を立てながら引戸をゆっくりと閉め、閉まり切るまで幽霊のような恨めしそうな目付きで此方を見ていた。 「お後がよろしいようで」註:文中の落語の引用部分は、飯島友治編『古典落語 志ん生集』ちくま文庫に拠った。
2013年2月22日金曜日
小説「身代わり狂騒曲」 04 ‐ 重三郎の懸念 / 風花千里
身代わり狂騒曲 風花千里
第四章 重三郎の懸念 一 「やい、危ねえじゃねえか」 「おっと、ごめんなさいよ」 正面から来た男とぶつかりそうになり、重三郎は慌てて道の端へ避 けた。 「気をつけやがれ、すっとこどっこい!」 「すみません。ちょっと考え事をしてたもんだから」 重三郎は軽く頭を下げた。その拍子に、醤油を焦がしたような香ばしい匂いが、すん、と鼻をつく。思わず、男の提げていた岡持に目をやった。 「そこに入ってるのは、鰻か」 「そうだよ。豊島町〈伊勢屋〉の蒲焼っていやあ、この界隈じゃ有名なんだ」
2013年2月20日水曜日
蟲雙紙 023 「こころゆくもの…」/ 風花銀次
蟲雙紙〈二十三〉 風花銀次 こころゆくもの くはしくかいたる昆蟲圖譜の、蟲に影なかりける。夏山へのゆくさに、さきこぼれて、をのこどもいとおほく、蟲よくとる者の網ふりたる。しろくきよげなる捕蟲網に、いといと小さき蟲をとるべく花をすくへば、花天牛 入りたる。花天牛に、金 花 蟲 すこしまざりたる。ものよくいふ蟲屋ゐて、ひとのとりたる蟲の、種の同定したる。谷におりて飮む水。 つれづれなる折に、いとあまりめづらしうもあらぬ燈 盜蛾 の來て、世の中の物がたり、此の頃あることの、をかしきも、にくきも、あやしきも、これかれにかかりて、おぼろ
2013年2月18日月曜日
短歌&随想「船霞星」/ 齋藤幹夫
船霞星 -やほよろづの星々- 齋藤幹夫神々も挑みたりけむはるかなる沖の霞よ さらば星船
全天で最も大きい星座は海蛇座。春の代表的な星座で、獅子座の足元にその巨體をうねらせてゐる。頭を地上に見せ始めその全體が天を這ふやうになるまでには凡そ十時閒程掛る。この海蛇座が全天一位を獲得したのは今から三百六十年程前のこと。それまではアルゴ座が全天一位の座に君臨してゐた。その大きさは海蛇座の一・四五倍。 アルゴ座は希臘神話の「アルゴ號冒險譚」に由來する。ハリーハウゼンの特撮映畫『アルゴ探檢隊の大冒險』はこの神話を原作とし
2013年2月16日土曜日
詞句窯變 ― trans haiku 004 "Diecisiete haiku" / 風花銀次譯
詞句窯變「『命數』抄」 風花銀次 なんとも畏れ多いことだがホルヘ・ルイス・ボルヘスの詩集『命數』(一九八一年、邦譯未刊)に所收の俳句十七句を日本語の五七五に譯してみた。ボルヘスが「飜譯は原文の代替物とはなりえない」といつてんのは承知のうへだし、西班牙語に堪能つてわけでもないんだが、意外となんとかなつちまふもので、譯しちまつたもんはしやうがなく、あの手この手で譯したとはいへ、精確な譯などもとより望むべくもない本歌取りみたいなものだから、なんてこたあない、あたしがボルヘスの句をどう讀んだかを申し述べてゐるだけのことだね。まあ、惡しからず許されよ。 |
2013年2月14日木曜日
短歌三十首「當世鳴鳥狩」/ 齋藤幹夫
當世鳴鳥狩 齋藤幹夫 書初めに「紫色雁高我開令入給」大師流にしたため 烏帽子覆面赤袴 口語譯懸想 文賣 ねりありくらし 「當世鳴鳥 狩 」と氣取し甚六が女郞屋 にて暴 利 たくられり 助六を食 みておもふはとほき世の江戸の吉原中之町かな 梅剪 りて櫻折りたる向い家の關白亭主攝政女房 緋のハーレー・ダヴィッドソンとともにお釋迦の俗物の叔父にぞくぞく 花の定座を橫から掠む粹人は儲け無くとも賣るが喧嘩と
2013年2月13日水曜日
蟲雙紙 022 「すぎにしかた戀しきもの…」/ 風花銀次
蟲雙紙〈二十二〉 風花銀次 すぎにしかた戀しきもの 針のない時計。こはれた兜虫。蝶や蜻蛉 のうすきはね。蛇の衣のながながしきが、おしへされて文箱の底などにありける。見つけたる。 また、をりからあこがれし蟲の繪姿、雨などふりつれづれなる日、さがし出でたる。こぞのうつせみ。
2013年2月12日火曜日
2013年2月9日土曜日
ひとり兎園會 4 「幽霊」/ 齋藤幹夫
ひとり兎園會 齋藤幹夫
――其之肆 幽霊―― 一生の間さまざまのたはふれせしを、おもひ出して觀念の窓より覗けば、蓮の葉笠を着るやうなる子共の面影、腰より下は血に染て、九十五六程も立ちならび、聲のあやぎれもなくおはりよおはりよと泣ぬ。是かや聞き傳へし 孕女 なるべしと氣を留めて見しうちに、むごいかゝさまと銘々に恨み申すにぞ、扨はむかし血荒をせし親なし子かとかなし。『好色一代女』巻六「夜發の付声」より 井原西鶴 他人様の家庭の、長男坊が誰某と喧嘩して怪我をしただの、長女が誰某に赫々云われて学校に行きたくないと云っているだの、奥さんがパート先で若造の主任から口煩く云われていて辞めたいと云っているなどの情報は、わが女房の口から聞いてもうんざりするほどだから、テレヴィの「大家族云々」とかいう番組など私は一切視聴しないが、どうやら世間様では好評を博し、また一方では不評を買い、どちらにせよ視聴する者が少なからずいるようである。貧乏子沢山とは云わないまでも「子沢山ゆえの生活苦」といった内容が多いと聞くが、昔「子沢山」は、食糧確保の口減らしを理由として「間引き」が行われる要因のひとつであった。貧乏子沢山の他にも、丙午生まれの女は七人の夫を食い、丑年の次男は兄を食うという俗信や、障碍をもって生まれた、双子であった、男でなかった、女でなかった、飢餓等を理由に「子殺し」が行われていた。「間引き」 の方法には窒息、首を捻る、圧殺、餓死などがあり、川や海へ流す、埋める(野山や畑、床下や土間、便所の傍と場所は様々)などして処理したと伝わる。宮崎県米良地方には〽ねんねんころりよ おころりよ ねんねしないと 川流す、なる歌詞を持つ子守唄があり、これは間引き歌と云われる。 堕胎もまた歴史浅からぬものではなく、間引きとともに行われていた。要因にはやはり「貧乏人の子沢山」をはじめ、不義密通、母体保護等があるとされる。その方法は水銀を飲んだり、枝や根を局部に挿入したり、腹部圧迫、高所から飛び降りる等の記録が残っているようで、母体保護の観点からは首を傾げたくなるものが多く、堕胎より間引きの方が母体には安全であったと云える。先の宮崎県米良地方の子守唄には〽ねんねんころりよ おころりよ ねんねしないと 墓建てる、と続きがあり、しかしながら、基本的には墓を建てるはおろか供養すらしなかったようで、「七歳までは神のうち」「七つから大人の葬式をするもの」という諺もあり、極端に云えば人間として見做されていなかった。 妊婦が産褥で死亡した際の埋葬方法には幾種類かの方法が取られ、基本的には腹を裂き胎児を取り出したり、赤ん坊の代わりに人形を抱かせるなどして「出産」をした形を取らせる。そうしないと死してなお無念さが残り、成仏しないと考えられていたのだ。「うぶめ」はその死んだ妊婦の無念さがこの世に残ったものだと云われている。夜 発 とは辻にて客を拾う娼婦のこと(旅行代理店の店頭の「夜発バスツアー」なるチラシを見て、何だかいかがわしいものを連想するのは私だけだろうか)。井原西鶴の「夜發の付聲」では一代女が九十五、六体の「孕女」を見る。その姿は蓮の葉を笠にして被り、下半身に血が滲みた子供。「おんぶして、おんぶして」と泣くこの子らは負ぶわれたことのない堕胎された子供ら。一般(?)に「うぶめ」は下半身を血で真っ赤に染め、子を抱き、さめざめと泣いている女で、これに声をかけて来た者に「この子を抱いてやってくれ」と云ってくるとされ、一代女の見た「うぶめ」とは違うものである。この件に関しては京極夏彦氏が『姑獲鳥の夏』のなかで見事な考察をしているので引用させて貰おう。「つまりね、男が見るウブメは女、女が見るウブメは赤ん坊、そして音だけのウブメは鳥なんだよ。そしてこれらは 同 じ も の として認識されていたのだ。当然、ウブメは今どきの人が謂う幽霊とはイクォールじゃない。お産で死んだ女の無念というより、もっと広い範囲で捕らえなければ理解できないものなんだ」『姑獲鳥の夏』より 京極夏彦 間引きされた子供の幽霊なんぞは、古くから伝わるものを私は聞いたことがない(ただの無知によるものかもしれないが)。 何せ人と見做されていなかったのだから、無念さなど残る筈もない、と生きている者が思っていた結果がそこにあるとしか思えない。賽ノ河原で延々と、なる言葉もあるが、これは寺の経営手段のひとつだと思っているし、座敷わらしは間引きされた子が云々というのも今ひとつ納得がいかない。愚息が「妖怪と幽霊はどう違うのか」と聞いてきた事があり、そこで井上圓了を引き合いに出し妖怪と呼ばれるまでの経緯とか、柳田國男の定義等を持ち出して、小学生を相手に説明するには些か面倒臭い事であるし、聞かれたのが風呂に浸かっている最中であったので湯当りの原因になり兼ねないから「そんなものどちらも化け物なんだから、いちいち分ける必要ない。ただ『あな恐ろしや』『おお怖い』『ああ面白い』で済ませておけばいい。楽しければいいんだ」と云っておいた。そのうちに少しずつ教えてやろう。幽霊なんかいない、脳が作り出すまやかしだと云うことを。そのうえでいずれ酒を酌み交わしながら「怪」を語り合うのも一興かも。 栓抜きは何処にあるのか、と女房に訊けば、突っ慳貪に「食器棚の上から二番目の抽斗」だと云う。云われた通りに抽斗を開けてみるが、無い。無いから再び訊く。「無い筈はない。よく見ろ」と此方を振り向きもせず女房は答える。よく見ても「無い」のだから此処じゃないと云えば、女房は億劫そうに立ち上がり、溜息交じりに寄って来て、私をぐいと横にやり抽斗の中を覗き込むなり「ほれ」と栓抜きを目の前に突き出した。眼で見た物は脳によって処理され認識することが出来るが、見る側の記憶、精神状態や視点、あらゆる内的・外的な要因に影響され、ひとつの対象物は複数の観察者の眼に均等に、寸分違わず同一の物として映り、脳によって認識されているとは限らない。有る物が見えず、見えない物が有ると云った矛盾した認識をする場合が間々ある。こと幽霊なんぞに関してはそんなものだ、と私は思う。死ねば全てが終わり全て無くなり、残るのは屍と遺品と生きている側の感情のみ。死んだ者には無念や、恨み悲しみといった感情など無い。その様な感情を抱くのは生きている者。幽霊を見るのも須く生きている者であり、生きている者の脳が幽霊を作り出し、見せる。幽霊同士がお互いを認識し、「お先に出させて貰います」「この度は成仏することが出来まして、その節は色々とお世話になりました」「柳田さんの幽霊、最近見かけないけどどこか具合でも悪いのかしら」「あら井上さん、御存知なくって。成仏されたってって話よ、柳田さんの幽霊」「そう云えばここ最近顔色が悪かったですものねえ」などとやり合うことはあり得ない。 数年前父を亡くしたとき、悲しみはあったにせよ、死んだらそれで何もかも終わりという思いのある私には、それよりも死にゆく父に宿る癌細胞、己が増殖するために宿主を死へと誘い、何れは己が住処を無くすモノの不条理さに想いを駆け巡らせていた。この世に未練を残した者が幽霊となって現れるのならば、意識不明、危篤状態の最中に孫の声には反応する(最期の言葉はその孫の名前であった)のだから、父はさぞ未練があるに違いないと思い、ならば幽霊となって現れてみせよ、と心に思っていたりもした。危篤状態が三日三晩続き、皆が皆、疲労困憊の体。妹弟は体調を崩し深夜の院内のベンチに横になり仮眠をとっていた。妹弟の様子を見に行こうとしてナースステーションの前を通る。そこには父の心電図モニターが置かれ二十四時間の監視がなされていた。ナースステーションには夜勤の看護士は誰一人いなかった。先程からナースコールが引切り無しに鳴っていたので、皆出払っていたのだろう。その時父の心電図モニターが目に入った。緑色の光の線が横に真直ぐに流れている。妹弟は一先ず置いておいてすぐに病室に引き返し父の様子を見れば、人工呼吸器で息をしながら眠っている。さっきの心電図モニターは見間違いか、と首を傾げるも、取り敢えず妹弟を病室に呼び戻そうとナースステーションの前を通る。再び心電図モニターを見たが、今度は一定の振幅を繰り返す波形が左から右へ流れていた。妹弟を病室へ戻らせ、私は先程の件がどうしても気になって、ナースステーションの前で三度足を止める。心電図モニターに目をやると、波形は無く直線の緑色の線が流れ、一定の電子音が鳴っていた。急いで病室に戻ろうとした時、視界の端に何かがいた。振り向くと深夜の病院の薄暗い廊下にパジャマ姿で微笑えむ父が立っていた。やがてそれは霞のように私の前から姿を消した。病室に戻ると父の呼吸は止まっており、しかし私以外の者はその事に気がついてはいない。私が父を抱かかえたのを機に漸く気付いて慌て出し、皆が「お父さん、お父さん」と呼びかける。父は私の腕の中で、はぁ、と最期の息を吐き出し、引き取った。そのようなモノを私自身が見てしまうと、そりゃあ、三日三晩寝てないんだもの、無いものが見えたってしょうがない、と思ってしまう。 ひとり兎園會 ――其之肆 幽霊―― 閉会
2013年2月6日水曜日
蟲雙紙 021 「こころときめきするもの…」/ 風花銀次
蟲雙紙〈二十一〉 風花銀次 こころときめきするもの天牛 の材採集。かつて成蟲のとまりたるよき枝をたづねて、ひとりゆきたる。立ち枯れに日のあたりたる。落ち葉の、あつくつもりて、しめり、にほひたちたる。 材を割り、食痕をたどり、ゆかしう籠りたる幼蟲を見たる。羽化脱出後の材にても、朽木 蟋蟀 などゐて、いとをかし。橡 のしたをゆくとき、あしもとに、鐵砲蟲茸 のそびゆるも、ふとおどろかる。
2013年2月4日月曜日
詞句窯變 ― trans haiku 003 / 風花銀次譯
Syunsyou no jibun no kage to gokandan |
春宵の自分の影と御歡談 |
2013年2月2日土曜日
短歌&随想「獅歔星」/ 齋藤幹夫
獅歔星 -やほよろづの星々- 齋藤幹夫春立つを告ぐる星あれ獸園に
春告鳥は鶯。春告草は梅。春告魚は鴎に問ふまでもなく鰊。さて春告蟲は歔 欷 する拘 はれの獅子雪溪襀翅 なのか天鵞絨 吊虻 か、そもそも有るのか無いのかは銀次兄 にお願ひするとして、春告星といふものも聞いたことが無い。 春の星座の代表格は獅子座。立春の宵の口の東の空に、獲物に跳びかからむがごとく天頂を目指す雄雄しき姿を魅せる。尾の位置に輝くデネボラは、牛飼座のアルクトゥルスと處女 座のスピカで春の大
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