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2013年1月11日金曜日

ひとり兎園會 3 「河童」/ 齋藤幹夫

 ひとり兎園會 ―其之參 河童―      齋藤幹夫


          ○河童かっぱ  川太郎ともいふ(『畫圖百鬼夜行 陰』より  鳥山石燕)
 伊勢神宮の主祭神は内宮に天照坐皇神大御神あまてらしますすめおおみかみ、外宮に豊受大御神とようけのおおみかみ、内宮の神体は八咫鏡を祀る。天照坐皇神大御神は皇室の御祖神、神宮は日本の総氏神、そこには脈々と「國體」が息衝いている。神宮式年遷宮の際には社殿の造り替えはもとより、殿舎、宇治橋、神宝も造り替えられるのだが、その時、神宝の須賀利御太刀すがりのおんたちの柄には朱鷺の羽が二枚巻かれる。 1981 年に佐渡島に
生息していた5羽が捕獲され、 ﹅ ﹅の朱鷺は絶滅した。以降次々と死にゆき、終には 2003 年 10 月 10 日の「キン」の死をもっての朱鷺は絶滅する。朱鷺の死、繁殖状況、中国から贈呈された朱鷺の報道をはじめ、国立環境研究所の日本産の遺伝子を持つ朱鷺の国家予算を使ってまでの復活計画、このマスコミや政府の上を下への大騒ぎ振りは、須賀利御太刀、式年遷宮に影響が及ぶからであり、つまり國體に関わることに起因するとは日本国民の多くが知らないことである。
 環境省は 2012 年8月 28 日に「レッドリスト」の改訂版を公表。それまで「絶滅危惧種」となっていた日本川獺は、「絶滅種」に指定された。絶滅の報道は朱鷺のその時の足元にも及ばず、政府は慌てる素振りさえ見せないが、私には朱鷺以上に衝撃であった。 1979 年8月に高知県須崎市で確認されて以来、今日まで 30 年以上目撃されず、生息確認が出来ていないことが絶滅種指定の理由と云う。室町時代の国語辞書『下学集』には 獺 かわうそが歳を取ると河童になると書かれているらしく、もとより河童の正体は獺と云われたりもして(狐狸のように人を化かす妖怪、泉鏡花や岡本綺堂なども獺の怪異譚を書くほど名の知れた「獺」と云うモノもいるのだが)、日本川獺の絶滅
宣言は「河童絶滅」と私の脳内で変換され、衝撃を受けたのはその所為である。無論、獺が絶滅したとて河童が絶滅した訳ではなく、むしろ河童の目撃例が減少すると云うのが的を射ている。しかし、改訂版レッドデータの公表後も川獺の目撃例が挙がっているし、何処かにひっそりと生息していることを願いたいが、「あ、川獺だ」「違うよ、あれは河童だよ」などと本末転倒した会話がなされ「川獺の正体見たり川太郎」と云われる時が来ることも、一寸だけ願ったりもしている。河童の正体には先の川獺の他にも亀、大山椒魚や猿、溺死体の誤認。柳田國男の云うところの零落した神、水神など信仰対象としての視えざるモノ。中国の川の神「河伯」からの系譜。その神を齎したであろう渡来人。渡来人と何らかの関わりのあるとされる治水関係等の特殊技能集団。その河原者と呼ばれる賎民、謂わば川の民、そして山の民も含まれ、またその地の近親相姦の末に生まれた異常な子供、と河童そのものよりその正体のほうが不可解なものになってくる。もっと不可解なのは相も変わらず異星人説を唱えている者達だが――。
 老若男女を問わず、且つ日本全国隅々にまでその名が知れ渡っている河童の、その異称もまた累々としている、とされていて、川太郎を始め、がわっぱ・がたろう・がーた・かわっそ・かわそ・すいこ・せこ・みずし・みずち・ひょうすべ・ひょうすぼ・ひょうすんぼ、等等と切りがない。別名異称と云われているが「がわっぱ・がたろう」の類は河童、川太郎の転訛として考えられ、「かわっそ・かわそ」は先の妖怪獺、「すいこ・せこ」は妖怪水虎、「みずし・みずち」は水の主や水神の類、「ひょうすぼ・ひょうすんぼ」は
妖怪ひょうすべ、とそれぞれ系譜を持ち、私はこれらを一紮げにして河童とイコールで結びたくはない。河童とひょうすべの絵を見比べても全く別種のものであり、亀と川獺が同じ仲間と思う者もいるはずがなく、それはそれ、これはこれである。河童の全国メジャー制覇は、古くは江戸時代の黄表紙、柳田国男の『遠野物語』経て、新しくは水木しげる御大の功績が大きく(黄桜の清水崑氏、小島功氏による河童の画やピンポンパンのカータンも)、現
代では水棲の怪=河童という図式が成立している。私なんかは、ひょうすんぼが伝承される地に生まれ育った者だから、その地域の「遊泳禁止」の看板に河童の画が描かれているのを見ると「ここは、ひょうすんぼ、だろう」と口を衝いて出てしまうが、それでは世間様に対しての効力が無いのだろう。それだけ河童が水棲の怪として幅を利かせているのだ。

 天明元年の八月頃、仙臺河岸伊達侯の藏屋敷にて、河童を打殺し鹽漬にいたし置く由、まのあたり見たる者の語りけると圖を松本豆州持來る。其子細を尋るに、右屋敷にて小兒など無故入水せしが、怪むものあつて右堀の内淵といへる所を堰て水をかへ干けるに、泥を潛りて早き事風の如き物有。やうやく鐵砲にて打留しと聞及びし由語りぬ。傍に曲淵甲斐守ありて、むかし同人河童の圖とて見侍りしに、豆州持參の圖と違なしといゝぬ。              『耳嚢 』巻の一「河童の事」より

 古来より伝わる河童の目撃とその捕獲譚は上記の他にも「寛永年中豊後肥田ニテ捕候水虎之図」で有名な大分県肥田市の捕獲例、大田南畝の『一話一言 河童図説』にある享和元年( 1801 年)に水戸浦での捕獲例等があり、詳細な記録と捕獲された河童の図まで残っていて、真に迫っている。私の知人の奥方も、埼玉県志木市を流れる柳瀬川で奥方の知人と二人で河童を目撃したと云っており、その姿は頭に皿、背に甲羅の誰もが河童と思い浮かべるそれであったと云う。柳瀬川に棲む河童は「河童の詫び証文」の話や『寓意草』や柳田国男の『山島民譚集』で紹介されるほど結構有名なのだが、柳瀬川に架かる橋を毎日のように通っている私の前にはまだ現れてくれない。河童はいまや、妖怪ではなく未確認動物、UMA( Unidentified Mysterious Animal の略で和製英語。本来なら Cryptid )のような扱いである。未確認生物には一応、妖怪の類は含まれないのだが、河童がそう云われるのは、特に目撃例が多く、河童の木乃伊と云われるものが全国各地に現存し、また人口に膾炙し過ぎているのも原因かも知れない。かつてはジャイアントパンダも未確認動物だったらしいが、現在の未確認動物とされるものには胡散臭いものが数多く含まれる。ここで河童はあくまでも妖怪云々と声高に反論しても疲れるだけだから止しておくが、百歩譲って未確認生物であるにしても楽しませてくれるならば大いに歓迎する。
 私の母の実家は日向の国の東臼杵郡北方町ひがしうすきぐんきたかたちょう(現在は延岡市に合併され北方町きたかたまち)で、私ら兄弟は夏休みになるとそこに泊まりがけで遊びに行き、蟲捕りや川遊びに興じた。川遊びに行く時は祖母が決まって仏壇に供えた仏飯を食べて行けと云う。仏飯を食うと目が光り、その眼光を恐れて「ひょうすんぼ」が脚を引っ張らない、また万が一溺死したとしても、死後も目が光ったままだから水底に沈んだ屍を見付けるのが容易くなる、と云うのが理由であった。水底で眼から光を放ちながら横たわる自分の屍を想像し震え上ったが、脚を引っ張り水中に引き摺り込む「ひょうすんぼ」も怖かったので、渇いた仏飯を嫌々ながらも食ったものだ。その家は今でも畜産農家を営んでいるが、祖父母の代の頃には冬場の農家にとっては貴重な収入源であった「炭焼き」も兼業していたようだ。冬季になると祖父は山に建てた炭焼き小屋に夜毎籠り木炭を生成した。
 ――夜中、炭を焼いちょると「ひょうすんぼ」が小屋の前を通りよる。あいつらは夏は川ン中にりよるが、冬ンなると山ン中へ行きよるから、そこが通り道じゃったっちゃろう。あいつらは炭焼く火がおじいして、そん前に来たら「しゅうぅ、しゅうぅ」っち鳴きよった。人間の目には見えん。外ン暗がり中から「しゅうぅ、しゅうぅ」っちきこゆるだけ。
 祖父から聞かせてもらった「ひょうすんぼ」の話である。今では炭焼き小屋も無く、その炭を使っていた竈、五右衛門風呂、掘り炬燵も無くなり、家の中は都会の生活となんの変わりがない。祖父も祖母も鬼籍に入り、昔遊んだ川は、その上流の河岸をコンクリートで保護し台風などの災害時の対策を施したためか魚がいなくなったと聞く。動物を滅ぼすも絶滅危機に貶めるのも人間であれば、レッドリストなどを作成し保護しようとするのも人間である。妖怪の存在は人間の存在があってのことで、人間は妖怪の跋扈する闇を無くしている。人よ何も触れるな、と云いたいが、その恩恵に与っている私が偉そうな口は叩けない。それでも近代化された母の生家から一歩外に出ると、満天の星が恐ろしいくらいに広がる闇夜が存在する。炭焼き小屋も無くなり恐れるべき火を無い漆黒の山道を「ひょうすんぼ」にはわが物顔で闊歩していてもらいたい。だが魚のいない川には春になっても戻らず、一年中山から下りずに暮らしているのだろうか。

            ひとり兎園會 ――其之參 河童――  閉會

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