身代わり狂騒曲 風花千里
第一章 佐助の憂鬱 一 「行きたくねえなあ」 佐助は往来の端で立ち止まり、陰々滅々とした声でぼやいた。大工の親方である治郎兵衛に呼ばれ、仲間の家から神田白壁町へ向かう途中だった。 親方からは「必ず九つまでに来い」と命じられていた。 石町を通り過ぎたあたりで、九つの鐘が鳴ったのを聞いている。なのに、なかなか歩が進まない。昨日の大雪で、道が泥濘 んでいるせいばかりではなかった。 佐助は博打の負けが込み、借金を負っていた。家財道具を質に入れても、利息すら払えぬ有様だった。 独り身だから、家財はなくても困らない。しかし、質草にまで事欠くようになると、事は簡単には収まらなかった。 利息を払えなくなると、胴元の命で下っ端が佐助の長屋へ来て凄んでいく。長屋なら、まだよかった。近頃は作事場にまで借金取りが現れるようになった。 借金取りは積まれた材木を蹴散らしたり、作事中の家屋に唾を吐き掛けたりと、狼藉の働き放題。とうとう親方が佐助の借金を知るところとなってしまった。 治郎兵衛は大の博打嫌い。以前、賭け碁で身を持ち崩した弟子は半殺しの上に叩き出され、行方不明になっている。 「どうしたらいいんだ」 地面に目を落とした。雪が解けた後の泥濘みは、己の胸中のように、どろどろの、ぐちゃぐちゃだった。 重い足を引きずり、のろのろと歩く視界に、白壁町の木戸が入ってきた。 木戸を潜って平賀源内の家を探さなければならない。初めて足を踏み入れた場所だが、治郎兵衛によると、近くまで行けば源内の家は誰に尋ねてもわかるという。 試しに木戸から出て来た老婆を捕まえ、道を聞いてみた。 「平賀源内先生の家ってぇのは、どこにあるんだい?」 「木戸を潜ってしばらく行くと、左手に酒屋があるんだ。その横を入った先の、ちょいと小綺麗な家だよ」 老婆は嗄れた声で、気さくに教えてくれた。 「ありがとよ」と礼を言って、佐助は木戸へ向かった。 その途端、老婆が佐助の前へ回り込んでくる。 「何でえ、何か俺に用か?」 老婆は、まじまじと佐助の顔を見つめた。それからばつの悪そうな面持ちで目を逸らす。 「いや、わっちの勘違いだ。とっとと行きな」 老婆はくるりと踵を返した。佐助は首を捻りながら、木戸を抜けた。 しばらく歩くと、確かに左手に枡酒屋があった。脇の細い路地のほうへ折れる。 酒屋の板塀が途切れた先に、小綺麗な仕舞屋が建っていた。 だが、綺麗なのは家屋のみ。戸口の両側には白木の切れ端や得体の知れない工作物の残骸が堆く積まれている。家の周囲には、初めて見る草木の鉢植えが所狭しと置かれていた。 植木鉢を蹴飛ばさないよう注意深く歩きながら、洒落た櫺子 の戸の前に立った。 戸の向こうから、低い張りのある声が響いてきた。 「道に迷っているかもしれないから見てきます」 戸が開き、中から明るい茶の羽織を着けた若い男が顔を覗かせた。才気を感じさせる額、何事か企んでいるような野心に満ちた瞳。薄い唇はいかにも如才なさそうに見える。 佐助は戸口に突っ立ったままだったので、男と、もろに目が合ってしまった。 「あなたは……」 一呼吸おいて、男が顔を綻ばせた。笑うと片頬だけに小さく笑窪ができる。どこか釣り合いのとれぬ笑顔は、男の佇まいを胡散臭く見せていた。 「源内先生のお宅ってえのは、ここでいいのか」 相手は明らかに自分より年下だ。男に軽んじられぬよう、佐助は精一杯の虚勢を張った。 「そうです。さあ、早く中へ。治郎兵衛さんがお待ちかねだ」 と、佐助を急かし、男は背を向けた。 男の背後から家の中を差し覗き、ぎょっとした。治郎兵衛だけが待っていると思っていたが、見知らぬ顔が何人も佐助を見遣っていた。 「あまり似てないな」「たしかに無理があるかもしれません」と、仄明るい室内から声が漏れてくる。まるで浅草で評判の人面狗の見世物を見るごとく、彼らの視線は無遠慮だった。 「遅かったな」 憤怒の情を封じ込めた重い声が耳に届く。 部屋の一番奥に陣取り、治郎兵衛が凄みを利かせていた。 二 佐助は戸口を跨いだ途端、三和土に這い蹲った。 「面目次第もございやせん」 治郎兵衛に会ったら、とにかく土下座して謝ろうと心に決めていた。 俳諧に凝り、文化人を気取っているが、治郎兵衛は大工の棟梁。十何人もの職人を束ねる気の荒い男だ。 その治郎兵衛が佐助の借金を知ったとなれば、茶でも啜りながら穏便に、というわけにはいくまい。良くて破門、へたをすると作事場を荒らされた責めを負わされ、半殺しの目に遭うかもしれなかった。 「おめえの命は、俺が貰った」 天啓のように声が降って来た。 三和土に擦りつけた頭を上げる。いつの間にか、治郎兵衛が上がり框に立っていた。 「何て言いました」 「借金を肩代わりしたのと引き換えに、俺がおめえの命を貰ったのさ」 治郎兵衛は、日に焼けた浅黒い顔を左右不均衡に歪めた。 ──借金を肩代わりだって! 佐助は小躍りしそうになった。まさかの救いの手が差しのべられた。親方の背後に山吹色の光が射している。 黒々と逆立った極太の眉、ぶ厚い唇が不機嫌そうに見える大きな口と、見てくれは物の怪めいているが、治郎兵衛は慈悲深い観音様の生まれ変わりだったのだ。 佐助は両手を合わせ、親方を深々と伏し拝んだ。 ──待てよ。 十を数えるまで拝み続けていた頭に、ふと警告の声が響く。 借金は五十両に近い。佐助の稼ぎの二年分だ。質物を請け出すのとはわけが違う。ケチで知られる治郎兵衛が、弟子一人のために、大金をぽんと出すとは思えなかった。 その上、命を借金と引き換えにするという意図がわからない。危険な仕事に駆り出そうという魂胆か、あるいは、皆で寄ってたかって袋叩きにする気か。 治郎兵衛の企みが読めなかった。ひとまず下手に出て様子を窺おうと、佐助は不安を冗談に紛らした。 「俺の命なんて、親方に貰っていただくような、ご大層な代物じゃねえですよ」 と、かましてみたものの、首筋に冷たい汗が浮く。 治郎兵衛は眦が激しく吊り上がり、凄まじい面になっていた。飢えた熊めいた凶暴な視線が、佐助の眉間を真一文字に突き刺す。 「こちとらの言い方が悪かったな。要するによ、おめえに死んでもらいてえのさ」 治郎兵衛は厳かに宣言した。 佐助は仰天した。「死」という文字が頭の中で勝手に踊っている。 「か、堪忍してくだせえ。この通りだ、借金はこれから一所懸命、働いて返しますから、命だけは助けてくだせえ」 治郎兵衛の左脚に必死に縋りついた。 「駄目だ、駄目だ! おめえの命は、賭場の胴元から即金で買ったんだ。煮て食おうが、焼いて食おうが、俺の好きなように料理するんだよ」 治郎兵衛は左脚を浮かすと、佐助を蹴退けた。 ざしっ、と音を立て、佐助は三和土へ尻餅をついた。敲き固めた土の冷気が、着古した袷の布地を伝って臀へ伝わってくる。 冷たい、冷たすぎる……。 声に出さず何度も唱えた。 〈情けは人の為ならず〉というが、治郎兵衛は、たとえ一生涯、良い報いが来なくても、情けをかけるつもりは毛頭ないのだ。親方と慕ってきた男の非道な仕打ちに、臓腑の隅々までが冷え切っていく。 「脅かすのは、そのくらいにしましょう。佐助さんが怯えてます」 片笑窪の男が薄く笑いを含んだ声で治郎兵衛を窘めた。 「物分かりの悪 ぃ弟子に言うことを聞かせるには、脅かしといたほうがいいと思ってな」 治郎兵衛が黒光りのする額をつるりと撫でる。 「だが、もういいだろう。重三郎、後は事のあらましを説明してやってくんな」 「承知しました」 重三郎と呼ばれた男が鷹揚に頷いた。 「ともかく中に入りましょう。こんなところに座っていたんじゃ、ゆっくり話もできない」 重三郎が佐助の腕を取る。事の次第が呑み込めぬまま、佐助は下駄を脱いだ。 框を上がってすぐの座敷へ入る。そこには、治郎兵衛の他に、まん丸く膨れた餅のような顔立ちの男と、湖面のごとき静けさを湛えた痩身の男、それから江戸中の女 子 の視線を独り占めしそうな好男子がいた。先ほどまでの緊迫した空気は一新され、治郎兵衛は丸顔と談笑している。 ──本当に殺されるかと思ったぜ。 ようやく人心地がつき、周りを見る余裕ができた。命を貰うという話は悪い冗談だったようだ。佐助は三十。この世に大した未練はないが、まだ死に急ぐ歳でもない。 傍らで、こほん、と咳払いの音がした。 「で、話の続きですが」 心安く喋る治郎兵衛と丸顔を横目で見ながら、重三郎が話を切り出した。 「佐助さんは、すでに死んだことになっているんです」 また「死」という言葉が出てきた。二の句が継げない。さっき治郎兵衛の話が脅しだと言ったのは、この重三郎の口ではなかったか。 「どういう意味だ……俺はこの通りぴんぴんしてるじゃねえか」 「死んだと言っても心ノ臓が止まるって意味じゃない。確かに佐助さんは生きていますが、今後は佐助でなく、平賀源内として世を送ってもらうって話なんです」 「寝惚けたこと言ってんじゃねえよ。平賀源内と言えば、お大名から、長屋の連中、はたまた道を歩ってる犬っころまで、誰でも知ってるえらーい先生だ。源内先生の名を騙ったりしたら、たちまちのうちに、両の手にお縄が掛かっちまうよ」 「心配ご無用、私たちの手でこれからあなたの内外を源内として作り変えていきます」 重三郎は、佐助の顔を、じっと見ている。 「……源内先生として作り変える?」 佐助は重三郎の現実離れしたもの言いに怒りが湧いた。 「当の源内先生は何て言ってんだ。俺なら、赤の他人が自分の名を名乗って涼しい顔をしていたら、ぶん殴った上でその辺の橋から突き落としてやるけどな」 「源内さんは不慮の事故で亡くなりました。だからあなたが源内を名乗ったところで、どこからも文句は出ません」 重三郎がいやらしく口の端を引き上げた。 三 全身の血が背中に滞ったかのように、佐助は疲れていた。 人が死んで、容貌の似た別人が身代わりになる。大昔から、替玉天皇、将軍の影武者等、身代わりの逸話は枚挙に暇がなかった。容貌が似ているならば、元の人間の仕草や習慣を会得しさえすれば、偽者になり済ますのは意外に容易いからだ。 だが、源内は、学者、発明家、戯作者等々、多才な側面を持つ男だ。一介の大工が、源内のすべての顔を演じきるのは、あまりに無理があった。 「無茶苦茶な話だ。俺にはできっこねえ……」 「佐助! 自分が置かれた立場ってもんがわかってんのか! おめえは源内になるしか、この世で生きる道がねえんだぞ」 治郎兵衛の怒声が、礫のごとく飛んできた。 言われるまでもなく、事態の重大さは充分承知している。佐助の名で源内が埋葬されたとすれば、佐助は人別帳から消える。となれば、無宿人として、日陰で生きていくしかなかった。 「佐助さんの不安も、もっともです。でも、大丈夫。戯作や書画、焼物は、その道に秀でた人たちが創作し、源内の名で世に出すんです。佐助さんは普通に生活してくれればいい。難しいことはありません」 浮世離れしたふざけた話を、重三郎は眼を輝かせながら面白そうに語る。 「死人の身代わりなんて与太ぁ考え出して……あんたら、きっと罰が当たるぜ」 胸のむかつきに耐えかね、佐助は吐き捨てるように呟いた。 呟きを聞き咎め、重三郎が目を光らせる。向けられる眼光は、ぎりりと鋭かった。 「失敬な。これは源内さんへの供養なんです。あなたが身代わりになったからといって、源内さんは喜びこそすれ、怒ることは微塵もありません」 重三郎は本気で怒っているようだった。 佐助は、与太を実現させようと躍起になっている男たちの気持ちが理解できなかった。しかし旗色は、どうにも悪くなっている。借金のかたという札を握られた佐助に「できない」という選択肢は与えられていないようだった。 「よおし、今日からおめえは源内だ。佐助って名前は、二度と使うんじゃねえぞ」 料理人が出刃を振るうように、治郎兵衛がばっさりと断じた。その上で、 「俺は帰 るぜ」と、忙しく腰を上げる。 「お帰りですか」 治郎兵衛の動きを、重三郎が目で追った。 「ちょいと、句会にな。このところ雪で仕事にならなかったが、明日は作事場へ入らなきゃなるめえ。その前に会へ顔を出しておこうという寸法よ」 治郎兵衛は照れたように頭を掻いた。俳諧の話題になると、普段は鬼瓦のように厳つい顔が、途端に半 平 のような締まりのない面になる。 「親方が帰るんなら、俺もこのへんで」 佐助も急いで腰を浮かせた。一刻も早くここから出て、一人きりになりたかった。 「どこへ帰るんですか。源内さん、あなたの家は、ここです」 重三郎が押しとどめた。抜かりなく新しい名で佐助を呼んでいる。 「着替えやら大工道具やら、いろいろ持ってこなきゃならねえだろ」 借金取りから逃げ回っていたので、日本橋堀江町にある長屋には十日ほど帰っていなかった。大工道具も家財道具も一切合財が質物になっている。だから帰る理由はないのだが、嘘をついてでも戻り、この息詰まるような状況から一旦抜け出したかった。 「いいや、帰っちゃならねえ!」 治郎兵衛が戸口へ向きかけた体を戻し、佐助の前に立ちはだかった。 「明日の朝、堀江町の長屋から、おめえの葬式を出すんだ。今頃は、うちの若 えもんが部屋を綺麗に片付け、亡骸を煎餅蒲団に横たえてる時分だろうよ」 「亡骸って、まさか……」 「もちろんおめえの身代わりになった源内の骸 さ」 治郎兵衛は事もなげに言い捨てた。 「おめえは死んだんだから葬式を出すのは当たり前だろう。でもって、死んだ奴はのこのこ長屋へ戻っちゃならねえ。源内になったんだから、この家に住み、源内の着物を着るんだよ」 佐助は顔から血の気が引いていくのを感じた。 漠然としていた不安が一気に現実のものとなった。葬式まで出されたら、もう二度と佐助として外を歩けない。今まで懇意にしてきた仲間に別れの一つも告げられないまま、源内として生きていかねばならない。 「それと、おめえが源内になり代わったことは、絶対に他言無用だぞ。もし口外したら、その時は、ただじゃおかねえ。よーく覚悟しておけ」 地鳴りのような太く低い声で牽制すると、治郎兵衛は悠然と三和土へ下りた。 「後を頼んだぞ。俺は源内の近況を聞きたがる奴らを、適当にあしらっておくからな」 「わかりました、行ってらっしゃいまし」 重三郎が戸口を出ていく治郎兵衛の背を一瞥した。 「では、これからの段取りを、じっくり相談しましょう」 重三郎は細長い箱を差し出した。 「何でえ、これは」 おもむろに突き出された木製の箱を見て、当惑した。促されるまま箱の蓋を開ける。中には、柔らかな布に抱かれ、一管の煙管が入っていた。 「源内さん愛用の品です。今日から、これを使ってください」 煙管を手で弄びながら目を凝らす。 細身の煙管は羅宇が渋い赤。吸い口と雁首は銀製だった。一目見ただけでも、手の込んだ作りとわかる。吸い口と雁首には、知らない植物の意匠が見事な浮き彫りにされていた。 「この模様は、ホルトの木の葉を象ったものです。ホルトは源内さんが紀州で見つけた木で、紅毛流外科医の常備薬であるポルトガル油(オリーブ油)が取れるとか」 佐助の手元を覗き込んでいた重三郎が、種明かしをした。 源内が自分のために作らせた、この世に二つとない煙管。確かに、手触りといい彫りの美しさといい、佐助が足を運ぶような店ではお目にかかれない代物だった。 「俺には、俺の煙管がある」 腰に下げた自分の煙草入れを示した。源内の煙管のように高価な品ではないが、何年も使い続けているから愛着がある。 「それは処分します。源内と言えばホルトの木。これで煙草を喫むだけで、周囲はあなたを源内と認めてくれます」 重三郎は一方的に言うやいなや、佐助の腰へ手を伸ばし、煙草入れごと取り上げた。 「煙草ぐれえ、好きなように喫ませてくれたって、いいじゃねえか」 佐助は泣きごとを垂れた。だが、重三郎は取り合わない。 「吹かしてみてください」 「へえへえ、わかったよ」 押しの強い重三郎の物言いに負け、佐助は傍にあった煙草盆を引き寄せた。遺品の煙管を使うには抵抗があったが、緊張が解け、煙草が喫みたい気分ではあった。 「いい感じですね。少し源内の雰囲気が出てきた」 佐助が煙管を燻らすさまにちらりと目を走らせた。 「おい、重三郎。俺たちはいつまで待ってりゃいいんだ」 その時部屋の真ん中で談義本を捲っていた丸顔が、出し抜けに喚いた。 四 「忘れたわけじゃない。源内さんを落ち着かせるのが先だと思ったんだ」 重三郎は不貞腐れた男を宥め、佐助を振り返った。 「この人は大田南畝といって、売り出し中の戯作者。南畝のことはご存知ですか」 紹介された男を見て、佐助はためらいがちに頷いた。 作事場と賭場との往復に忙しく、今まであまり本を読まなかった。しかし、大田南畝の名前ぐらいは知っている。 南畝は御徒(御家人)身分にありながら、余技で詩文を綴っている。すでに文人としての名声は江戸を離れ、遠く上方まで届いているという。 ──大田南畝ってのは、こんな若造だったのか。 佐助は不躾な視線を送った。御上の烏 賊 野 郎 (御目見以下)は酒食に溺れているのか、近くで見ると顔の皮膚が弛み、色艶も冴えない男だった。 「源内さんには言葉にできないほど世話になったのだ。恩返しに、今度はあんたの面倒を見てやろうと思って」 南畝が佐助の視線をはね返した。口の端を小さく上げ、小馬鹿にしたような笑みを刻む。 その挑発めいた言動に、かちんと来た。 佐助は喧嘩っぱやい性分だ。小賢しい若造を前に、思わず拳を握っていた。 「まあ、落ち着いて」 あたりに漂う険悪な空気を敏感に察し、重三郎が割って入った。 「で、この方が平角さん。立派なお武家様なんですが、戯作も物されている。源内さんの一番弟子でいらっしゃいます」 お武家様と聞き、佐助は南畝の斜向かいに座る好男子に目を転じた。墨染の羽織を纏った洒落男には、武士特有の厳めしく偉ぶった雰囲気はない。遊び慣れた商家の若隠居のような余裕さえ感じられた。 平角は佐助のほうへ僅かに視線を投げて寄越した。ふん、と貶むような鼻息を漏らし、不愉快そうにそっぽを向く。 嫌味丸出しの南畝と平角の態度を見ると、佐助は歓迎されていないように思えた。 望んでこの家を訪れたわけではない。相手に疎まれているのなら、もっけの幸いだ。ともかく一度暇乞いをして頭を冷やそうと、腰を上げかけた。 すると、重三郎が佐助の肩を掴んで引き戻した。 「もう一方 、紹介せねば。こちらは絵師の鈴木春信さん。近くに住んでおられます」 名前を聞いて、佐助は鳩尾に拳固をくらったように仰け反った。 春信といえば、先年、谷中にある水茶屋〈鍵屋〉の看板娘お仙を描き、大評判をとった絵師だ。佐助は若い時分に絵師を志した時期がある。繊細な筆使いで美人画を描く春信は、今なお憧れの的だった。 「春信さんも、ご存知のようですね。それなら話が早い」 重三郎が畳み掛ける。 「春信さんと南畝は、今日からあなたの師匠です。春信さんには絵の心得、南畝には狂詩の指南をしてもらいます。そのつもりでいてください」 「話が違うじゃねえか! さっきは『普通に生活してくれればいい』って言っただろう」 佐助は声を荒らげた。 「確かに申しました」 ゆっくり瞬きをして、重三郎は肯定の意を示した。 「誤解のなきよう申し添えておきますが、これは、あくまでも教養を身に付けるため。普通に生活していても、いつ何時、絵を描けと言われたり、狂詩を詠めと頼まれたりするかわからない。そのための修業です」 同意を求めるように、重三郎が他の二人へ顔を振り向けた。 「重三郎の言う通り。源内さんは、どこへ行っても人気者だったのだ」 南畝が厚く血色のいい唇を舐めながら、話の口火を切った。 「たとえば、源内さんが企画した薬品会には、諸国から大勢の人が集まった。その時も、国への土産にと、源内さんの書画を所望する人々が引きも切らない有様だった。そういう場所で恥を掻かなくて済むよう、出来る限り絵と詩文の素養を身につけてもらわなくてはいけないのさ。ねえ、春信さん」 と、春信の膝を揺する。 だが、春信は南畝の話など耳に入っていないようだった。「ああ」と低く呟いたきり、穴の空くほど佐助を見つめている。 ──この人は、いったい幾つなんだ。 絵師の強い視線に、こそばゆさを感じながら、佐助は春信の年齢を推し量った。世に知れた業績から察すれば、佐助よりずっと年上のはずだ。四十歳、いや、それ以上か。 しかし、目と鼻の先にいる春信は、佐助と同じか、年下にしか見えなかった。 細面で、色味の薄い肌。小作りの目鼻立ちは自身の描く若衆を連想させる。儚げな風情で、静かに端座する春信は、妖 しのごとくどこか謎めいていた。 「似ている……」 春信の口から、ため息が漏れた。 「顔つきや表情に似ていないところは多い。しかしこの男がまとっている気配はあたしにとって親しみがある。そうやって煙管を手にしていると、本当に源内が生き返ってあたしの前に座っているようだよ……」 声は震えがちだったが、どこか妖しく甘美な色を帯びている。 春信が手を伸ばし、佐助の鬢にそっと触れる。刹那、今まで感じたことのないような、ひり、という微かな痺れが、こめかみに走った。 ──憧れの鈴木春信に絵を習えるのなら、身代わり修業も悪かねえかもしれねえ。 生意気な南畝は鼻につくが、春信に師事できるというならば我慢できる気がしてきた。 ──思い切って一丁やってみるとするか。 佐助は決心すると居ずまいを正した。二人の師の前に両手をつき、頭を下げる。 「春信先生、南畝先生、宜しくお願いいたしやす」 「その代わり修業は厳しいから、覚悟しておきな」 春信が再び熱っぽい視線を寄越した。 「よし、血が騒いできたぞ。戯作者源内の身代わりは、私と平角さんで引き受けるから、安心しなさい」 南畝が浮き浮きした調子で声を上げた。 「私は、嫌だからな」 不機嫌な面をぶら下げ、今まで黙っていた平角が、短く答えた。 「なぜ? これは源内さんへの供養ですよ」 「源内さんの名を拝借して、おぬしは好き勝手に書き散らせばよかろう。だが、私は真っ平御免だ。源内さんの名でものを書くなど、恐れ多い。私の作は私の名前で出す」 「意固地なこと言わないで。春信さんだって師匠の役を引き受けてくれたんですから」 南畝がしつこく食い下がる。 「断る。春信さんも春信さんだ。あんたにとって、源内さんは何だったのだ。もうよい。こんな馬鹿げた話に付き合ってはおれぬ。私は帰るぞ」 平角は隣の間に控えていた供の者を呼びつけると、足音も荒々しく出ていった。 «第二章 葬式
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