まがたま 風花千里
春は花摘み、秋は茸 狩り みどりこ太れば、珠をも太る 紅いべべ着て、ねんねしな ねんねんねんころり ねんねんねんころり眉 根 村の子守唄 **** 「おはよう」 鈴が井戸端で顔を洗っていると、背後から肩を叩かれた。 声のした方へ水にまみれた顔を振り向ける。 「なんだ、お縫か。おはよう」 胡瓜を入れた籠を背 負 って立っていたのは、幼馴染の縫だった。すでに畑に行って、ひと仕事をしてきたらしい。 「今日はあんたの祝言だっぺ? おめっとう、これであんたも、大人の仲間入りだわ」 二月前、一歳上の伝助と祝言を挙げたばかりの縫は、大きな籠を井戸端に下ろした。 手拭いでごしごしと顔を擦りながら、鈴は縫のいる場所へ向き直った。 「夫婦 になったからって、わっちは、なーんも変わんねえかんね。それよか、お縫、朝飯済んだら、久しぶりに、珠雪川 さ泳ぎに行がねえ?」 幼い頃、鈴と縫はよく遊んだ。春は花摘み、夏は水遊び、秋は茸狩り、冬は雪遊び。一日中でも遊び呆けた。 そんな鈴に呆れて、母親はたいそう叱ったが、父親は「どうせ、ガキのうちだげだ、遊んでおけ」と、女房の目を盗んで、こっそり遊びに出してくれた。だから、成長した今でも、鈴は父親が大好きだ。 「なあに言ってるだよ。お鈴はふんとに困ったもんだ。今日は、あんたと信吉の結婚を祝って酒事をするっつんだがら、そんな暇、あるわげねえだろ。それにあんたは、明日からわっちや母ちゃんたちと一緒に働かなきゃならんなぐなる身だべ。それが眉根村の習いだかんね。さあ、いつまでもガキみてえなごど言 ってねえで、早く帰って支度しな」 縫が姉さんぶった口調で鈴を諭した。 二人が暮らす眉根村は下野国と上野国の境にある。お上の国絵図にも載っていない、周囲を深い山に囲まれた小さな小さな村だ。 村から外へ出るには、山と山の間を縫って延びる細く険しい鼻 梁 街道を通るしかない。その鼻梁街道のどん詰まりにあるので、村は眉根村と呼ばれるようになったそうだ。 眉根村には、特異な風習がまかり通っていた。 眉根村に生まれると、子供のうちは男女分け隔てなく育てられる。だが、結婚を境に、女は四六時中、休む暇もなく労働に従事するようになるのだ。炊事、洗濯、掃除、子育ては当然のこと、畑作、魚取り、薪割りから、家屋の普請まで、およそ生活に必要な仕事を女が一手に引き受けていた。 一方の男は、何を方便 としているかというと、文字通り〝何もしない〟。 朝から酒をかっ食らい、昼寝をし、夜は男同士集まって、また酒を飲む。 ごくたまに、村の男らが数人で集い、鼻梁街道を通って町に出ていくことはあった。男らは、何日か町に滞在した後、諸国山海の珍味や、羽織にするための絹織物、春画などを山ほど携えて帰ってきた。しかし、それらの贅沢品は決して女たちの元には届かない。男たちによって、いつの間にやら消費されてしまっていた。 未婚の鈴から見れば、不公平極まりない風習でも、鈴の母をはじめとする村の女たちは、現状を当たり前のこととして受け入れていた。どんなにお転婆な娘でも、結婚すると、手のひらを返すように生き方を変えていく。その変化を目の当たりにして、鈴は不思議に思うと同時に、女の労働の上に胡坐をかき、のうのうと暮らす男たちに憤りを感じてもいた。 「信吉は、わっちだげ働かすような真似はしねえって言ってくれた。いつまでも女だげがあくせく働き、男 はてれんこてれんこして、働かねえのはおかしいだんべ? ほんだからさ、結婚したら二人一緒に働くって約束したんだわ」 鈴は信吉と夫婦になり、自分たちこそが眉根村の悪しき風習を変えるのだと決めていた。 「そんなん、信吉の親父 つぁまが許すわげねえ。親父つぁまは、この村の名主だ。総領息子が習いに逆らうなんて許さねえべ。そういや、信吉といやあ、さっき洞穴のほうさ歩いていったけんど」 縫が背伸びをして、珠 見 洞 と呼ばれる洞穴の方角を見遣った。 「うん、村の長老に呼ばれたみてえだわ」 珠見洞は、村の行き止まりにそびえる鷹無山 の麓にある。眉根村では、祝言の宴の後、夫婦となった男女が、その珠見洞の祠で契りを結ぶ仕来たりになっていた。 祝言が決まった頃から、信吉は村の男たちとの付き合いが多くなった。つい先日も、長老たちと共に鼻梁街道を通り、初めて町へ出ていった。その際、七日間も逗留したと聞く。 縫が、井戸端で籠の胡瓜を洗い始めた。 「朝飯のおかずにしちゃ、ずいぶんと多ぐねえか」 次々と洗われていく胡瓜を数えながら、鈴は目を丸くした。五十本近くの胡瓜が井戸の周りに積まれた。 「あはは、朝飯のおかずじゃねえよ。あんたの婚礼の出し物に使うから、採ってこって、うちのおっ義 母 に頼まれたんだわ。それにしてもさ、あんたと信吉、お似合いだねえ。信吉んちは村一番の長者。あんたは村一番の器量良し。この村の生まれじゃねえから、どことなく垢抜けてるし」 縫はやけに昂揚している。普段は、ぽつり、ぽつりと喋る、どちらかというと口の重いたちなのに、今朝は弁舌がやたらと滑らかだ。 「この村の生まれじゃねえって……、それ、わっちのことけ?」 鈴は縫の言葉の端に引っ掛かった。余所者と言われても、鈴の両親は眉根村の出身だ。 縫は小さく息を呑むと、手で口を覆った。目に、あからさまに後悔の色が滲む。 「いや、何でもねえ、今のは、ほれ、冗談だ。忘れてくれ」 「嘘だ! お縫とわっちは友だちだんべ? 正直に言ってくんなよ。わっちはお篠やお雪みたいに〈みどりこ〉だって言うのけ?」 鈴は、縫の腕にしがみついて、返事を待った。 眉根村は周囲を山に遮られた小さな村だ。したがって、住人も少ない。 村人のほとんどが姻戚関係にあり、いとこ同士の結婚も日常茶飯事だった。 だが、稀にその家の女房が懐妊した兆しもないのに、いつの間にか赤子が増えているという椿事が起こった。ある日、突然、家の中から元気な赤ん坊の泣き声が聞こえ出すのだ。 村人は、泣き声の主である赤子を〈みどりこ〉と呼んだ。〈みどりこ〉は決まって女の子。その事実は、成長した本人のみならず、家族の前で話題にすることも禁じられていた。 けれども、人の口に戸は立てられぬ。現に鈴だって、吹聴しないだけで、三軒隣に住むお篠や酒屋の次女であるお雪が、眉根村の生まれでないことを知っていた。 ほんじゃ、わっちも〈みどりこ〉なのけ? 今まで、わっちだけが知らなかったのけ? 鈴の頭の中で、ぐるぐると疑惑の念が渦巻く。 鈴には三つの時、村のお宮で髪置きを祝ってもらった記憶があるから、自分が〈みどりこ〉だとは想像もしなかった。 「お鈴?」下を向いて押し黙った鈴を気遣うように、縫が覗き込んでいる。「ごめんよ、余計なごど言っちまってさ」 「ううん。だけんどもよ、お縫はいつからわっちが〈みどりこ〉だって知ってたのけ?」 鈴は聞かずにはいられなかった。〈みどりこ〉なら両親の子供ではない。だったら、自分はいったいどこからやって来たのか? 「ちっこい時から知ってたわ。だけんど、うちの母ちゃんから絶対にかっ喋 るなって釘刺されてた。お鈴は〈みどりこ〉だから、大 事 にしてあげなくちゃいげねえとも言われたわ」 「わっちだげが、これっぽっちも知らねがったんだね……父ちゃんも母ちゃんも、なんも教えてくんねがったわ」 縫の答えを聞いて、鈴の目に涙が浮かんだ。子沢山の家が多い中、鈴には兄弟姉妹がいなかった。両親からは、鈴が生まれる前に兄姉は死別してしまったのだと聞かされていた。 「だけんどもよ、お鈴が泣ぐごたねえ。〈みどりこ〉は村の宝だべ。〈みどりこ〉は村を豊かにしるって、母ちゃんが言ってた。その証に、村の長老たちだってさ、お鈴ん家さ何かと目ぇ掛けてるだっぺ?」 縫の言うとおり、確かに家には、始終、長老や名主が出入りし、いつしか鈴の家は、村の有力者と目されるようになっていた。 「おぬいぃ、わっち、なんだか怖いよ」 初めて聞く出生の秘密に、鈴は得体のしれない懼れを感じた。もしかすると、いまだ鈴の知らない内緒事が、密かに村人の口から口へ伝播しているかもしれない。 なんの疑いもなく過ごしてきた楽しい子供時代が、嘘で塗り固められた絵空事だったように、鈴には思えてきた。 縫が水に濡れた手を振って、小刻みに震える鈴を抱き寄せた。 「信吉に嫁いでしまえば、怖くなんかねえさ。さあさあ、花嫁がそんな情けねえ顔してたらよ、鈴のおっかやんが心配 しるわ。気持ちを強く持って、早く家さ帰るべ」 籠を背負い、鈴の腕を掴むと、縫は鈴の家を目指して歩き出した。 **** しんとんと日も暮れて、縁が爛れたような生白い月を背に、鈴は夜道を歩いていた。 一人ではない。右隣には、鈴の父親の惣兵衛、左には信吉の父、信左衛門が鈴を守るように付き添っている。惣兵衛は酒を過ごしたか、ちと足取りがふらついていた。 夕刻、祝言の酒事がお開きになり、鈴は猩 々 緋 の大振袖を着替える間もなく外へ連れ出された。祝言が催された信左衛門の屋敷の前には、村人がずらりと集っていた。 酔った男たちは大声で祝唄を唸り、女たちは鈴の振袖に羨望の眼差しを向けた。村の女の婚礼衣装は真岡木綿の袷。絹の振袖は、名主の家に嫁ぐ女しか身に着けられないからだ。 見送りの女たちの中に縫の姿もあった。亭主の伝助は酔い潰れて寝たらしい。縫は、酒事の際にも裏で忙しく立ち働き、表の席に出て来ようとはしなかった。 お縫には、わっちの隣で一緒に祝ってほしかったのに。 母親以外、男衆に囲まれた祝言を思い出し、鈴はやるせなさで胸が塞がりそうになった。 四半刻は歩いただろうか。信左衛門がようやく歩みを止めた。 「着いたべ、こごだ」 鈴らの一行は、村はずれの鷹無山の麓を目指して来た。目の前の岩肌に、珠見洞がぽっかりと大きな口を開けている。 「ほおれ、こごからは、わりゃ一人で行ぐんだ」 父親が酒臭い息を吐きかけながら、あまり呂律の回らない口で鈴を促した。 「えっ? 一人で穴さ入るのけ?」 平素、珠見洞は女人禁制である。入口には必ず祠番がいて、女が近づこうものなら、金棒を振りかざして追い払った。女子 が洞穴に足を踏み入れられるのは、一生に一度、祝言後の床入りの時だけ。もちろん鈴も珠見洞まで来たのは初めてだった。 大人が二人も付き添ってきたから、鈴は祠まで連れて行ってくれると信じていた。 外から見る限り、洞穴のあたりは真っ暗で中の様子はまったく窺い知れない。 「中の祠で信吉が待ってっから、案ずるこたあねえ」 信左衛門が厳かな声で答えた。父親の惣兵衛は、晴れて姻戚となった信左衛門を頼もしそうに見詰めている。 「ほれ、おらの提灯を持ってけや」 惣兵衛が持っていた提灯を鈴の手に握らせ、娘の背中を押した。 「父ちゃんたちは、どこさ行ぐの?」 洞穴の奥から吹いてくる薄ら寒い風に、鈴は背筋が震えるのを感じた。 祝言の際に、自分が本当に〈みどりこ〉なのか問い質したかったが、父親は瞬く間に酔っ払い、母親は中座して裏で働いていたので、結局聞けずじまいだった。 最後まで娘の出生の秘密を隠し通そうとする両親に対して、鈴は不審の念を払拭できない。珠見洞まで来る道すがらも、不安に苛まれ、何度も足が止まった。 「儂らは帰って酒を飲み直すべ。若 えもんらの邪魔してはいげねえからな。さっ、早ぐ行け、信吉がしびれ切らしてるべな」 信左衛門は鈴を急き立てると、惣兵衛の腕を取り、さっさと洞穴から離れていった。 残された鈴は、覚悟を決めて珠見洞に足を踏み入れた。提灯を高く掲げて歩を進める。 五間ほど行ったところで、洞穴は大きく右に曲がっていた。どうりで外からは穴の内部が見えないはずだ。 しばらくすると、行く手に小さな灯りが見えた。灯りはちらちらと動き、次第に鈴のほうへ近づいてくる。 「お鈴か、さっ、こっちさこ」先ほど祝言を挙げたばかりの信吉の声だった。 鈴は、弾かれたように信吉に駆け寄る。真っ白な絹の単を着た信吉は、鈴の細くしなやかな体を強く抱き締めた。無言で鈴を横抱きにすると洞穴の奥へと入っていく。 穴の行き止まりに、白と緋色と碧の岩絵具で彩られた祠が見えた。 初めて見る壮麗な洞穴の内部に、鈴は驚いて息を呑んだ。 祠の前には祭壇が設えられ、壇上には純白の褥が敷かれている。 信吉は荒々しく鈴を褥へ横たえた。 信吉の体から奇妙な熱気が立ち上る。鈴は肩肘をつき、はっと身を起こした。 思えば、祝言の席から、信吉の様子はおかしかった。婚礼の杯事でも、信吉の目はうろうろと宙を彷徨い、危うく杯を取り落としそうになった。かといえば、酒が回ったせいなのか、鈴の派手な猩々緋の振袖を狂おしい目つきで眺め回した。 「信吉、何かあったのけ? 今日はちっと様子が変だわ」 「そんなごどねえよ。祝言で気ぃ張ってたから、こ わいだげだわな」 平気を装って鈴の問い掛けに答えたが、信吉の態度は、どこかよそよそしい。 鈴は母親から、男は祝言が終わると、途端に冷淡になるものだと聞かされていた。 いんや、信吉だげは違う。 鈴は胸の中で、母の言葉を否定した。鈴は信吉とも幼馴染だ。性差はあったが、長い年月をかけてお互いを深く認め合い、長じてからはゆっくりと恋を育ててきたのだ。 「夫婦になっても信吉は変わんねえべ? 一緒に村の悪い風習を改めるんだよな?」 相手を信じれども、一抹の不安は拭えない。鈴は、信吉の腕に縋って念を押した。 信吉は黙ったまま、鈴と掴まれた自分の腕を見比べていた。 やがて鈴の体を抱き寄せ、共に褥の上に倒れ込む。 鈴の疑問を丸ごと呑み込むかのように、信吉の唇が、乱暴に鈴の口を塞いだ。 信吉は、名主の家の長男らしく、おっとりとして頼もしい男のはずだが、鈴の上に圧 し掛かっている男は、目が血走り、何かに取り憑かれたような狂気の色さえ浮かんでいる。 怖……い 鈴は身を竦めた。ぬらぬらと蠢く男の唇から逃れようと、頭を激しく振ろうとした。しかし、男の逞しい腕で頭を押さえつけられているので、身動きすらかなわない。 鈴は、ひんやりとした冷たさを背中に感じた。質のいい繻子で作られた褥の感触だった。気づけば帯を解かれ、襦袢ごと振袖も剥かれていた。 桃の実のような形のいい乳房を男の指が激しく揉みしだく。好き合った男の振舞いなのに、なぜかおぞましさが先に立つ。 「やだ!」鈴は腕に渾身の力を込めて、信吉を突き飛ばした。 「何拒むだよ。わりゃは、もうおらの嫁御だべ」 荒い息を吐きながら、信吉は憮然とした調子で言い切った。 「だけんど、こんな、こんなの…信吉じゃねえ……」 勝手に流れ出した涙で声がくぐもり、最後は言葉にならない。小さい頃から好きだった信吉と夫婦になって初めての夜なのに、身も心も一つになれる夜なのに、信吉の振舞いは、相手の首筋に刃を当てるがごとく非情だった。 信吉はじっと鈴の目を覗き込んでいた。やがて、ふっと息をついて、鈴の頬を濡らした涙を指で拭った。 「ごめん……なんか気ぃ高ぶっちまって。きっと、お鈴があんまり綺 麗 だからに違えねえ」 いつもの穏やかな信吉の声に戻っていた。信吉は再び鈴の隣にそっと添い寝をした。 温かな指が、今度は鈴を愛おしむように、やさしく肌の上を滑っていく。信吉のいつもと同じ物柔らかな視線にさらされ、鈴はあまりの心地よさに、我知らず甘い悲鳴を上げていた。乳から、背を通って尻へ。最後に信吉の手が黒く柔らかな叢に伸びた時、鈴は信吉にしがみ付き、自ら体を開いていた。 **** さわさわと衣擦れの音がする。 鈴は浅い眠りの縁を彷徨っていた。 きいーぃ 扉を開けたような軋んだ音。 鈴は眠りの縁から引き上げられ、「信吉ぃ」と呼びかけながら、隣に寝ている夫の方へ腕を伸ばす。いや、伸ばそうとした、といったほうが正しいかもしれない。意思と反して、鈴の腕はぴくりとも動かなかった。 「この、でれすけが! 何をぐずぐずしてるだ。音をおっ立てんなと言っただんべが!」 場にそぐわぬ嗄れた声が響き、鈴は今度こそはっきり目を覚ました。 辺りが妙に明るい。周囲に目をやると、松明がいくつも焚かれていた。 仰向けになった鈴の上に、幾つもの顔が覗き込んでいた。鈴の父親である惣兵衛、信吉の父、信左衛門、そして村の長老でもある眉根神社の神主。嗄れ声の主はこの長老だった。少し顔をずらすと、祠のそばに信吉の姿も見えた。 「何で父ちゃんたちがこごに!」 鈴は起きようとして、腕のみならず体までもが動かせない状況に気づいた。見れば、手も足も細い紐で祭壇と結び付けられていた。素肌の上には薄い布が掛けられているきりだ。 「やだっ! 何しるだ? この紐を解 いてよ」 鈴は大声で叫んだ。しかし誰も解いてくれようとはしない。 「信吉、はよ持ってこ」 長老が命じる。信吉は祠の開いた扉の中から、恭しく白い袱紗を取り出し、祭壇に向かって歩いてきた。その間、信吉は一切、鈴と目を合わそうとしない。 「な、何が始まるのけ?」 寒いわけでもないのに、歯の根が合わない。何か異様な空気が洞穴の中を覆っていた。 「目ぇ覚ましちまったんなら仕方がねえ、どうせ次に起きたときにゃ、覚えちゃいねえだんべ。だったら話して聞かせてやるわ」 長老は信吉から袱紗を受け取ると、酷薄な笑みを浮かべて鈴のほうへ向き直った。 「ほれ、これを見るべ」 長老が袱紗を開いて中身を見せる。袱紗の上には、鼠ほどの大きさの透き通った芋虫が、ぶよぶよとした体を曝していた。 「これは?」 鈴は驚いて目を見張った。野でも山でも、こんなへんちくりんな芋虫は見た経験がない。 「〈お珠さま〉だべ」 信左衛門が厳かに告げた。〈お珠さま〉、初めて聞く名だった。 「〈お珠さま〉はな、この村に宝を授けてくれる大事な神様 だべや」 長老は懐に手をやると、小さな信玄袋を出した。中身を掌にあけ、鈴の鼻面に突き出す。 「綺麗……」鈴はうっとりと長老の掌を眺めた。 皺だらけの掌には、深く澄んだ青碧色の勾玉 がいくつも載っていた。 「これは〈お珠さま〉の糞 だ。糞なのに、宝玉の翡翠と同 し、いや、それよりもっと高値で売れるんだわな。どこぞの御 殿 様 なんか一粒百両で買ってくれるんだっけれ」 長老の口から、虫の糞が一粒百両と聞いて、鈴は肝を潰した。 「糞? この虫は何を食べんのけ? いったいどこで飼ってんのけ?」 鈴は薄気味悪さも忘れて、矢継ぎ早に聞いた。宝を産む虫なら、鈴だって飼いたい。 「この洞穴の壁を見ろ」 信左衛門に言われた通り、視線を動かして周囲の壁を眺める。すると、勾玉と同じ青碧色の芋虫が、壁のそこかしこにへばりついていた。 「儂 の掌にある芋虫と色 が違うだんべ? この芋虫はな、人 の楽しかった思い出や心のゆとりを食うだ。腹一杯食うと、体の色が青碧に変わる。特に、祝言の日の女子の思い出がええ青碧に染まると言われとる」 信左衛門が強欲まるだしの表情で、鈴を眺め回した。 「まさか、女子しか働かねえって習いは、この〈お珠さま〉のせい……? 村の女は、みんな〈お珠さま〉に思い出を吸い取られてしまったのけ? っつうことは、わっちも…… 信吉! ほんじゃ二人で村の悪習を正そうって約束と違うじゃねえか!」 鈴は自由の利かぬ体をじたばたさせて、信吉を詰 った。 信吉は相変わらずそっぽを向いたまま、自分より小柄な鈴の父親に身を寄せた。 「なあに、別に命をもらうわげじゃねえし、いいじゃねえか。ほんの少 し寝てる間のこった。〈お珠さま〉は、いったん思い出を食らってしまえば、くたばるまで糞をし続けてくれる。そうしれば、うちも信吉ん家も安泰だ。そんでもって、わりゃは、明日から母ちゃんと一緒に精出して働けばええだんべ」 父親は、えへらえへら媚びるように笑った。 ああ、やっぱり……鈴は得心した。眉根村の女たちは、この不恰好な虫に楽しかった大切な記憶を吸い取られ、働くばかりでゆとりのない生活を強いられていたのだ。 布から出た鈴の細い肩に、長老が〈お珠さま〉を載せた。ぬめぬめとした感触がゆっくり動き出す様に、鈴は「ひいっ!」と引き攣れた声を上げた。 「あんたのは特上の勾玉になるんだ」信左衛門が、舌で唇を舐めながら鈴を見下ろした。 「なんで? っつう顔をしてるな。そりゃあ、あんたが〈みどりこ〉だからだべ。〈みどりこ〉はすなわち『見取り子』。村の外で見っけてきた子よ。あんたは遠い町の商人 の娘。乳母の目ぇ盗んで惣兵衛がうまくかどわかしてきた。金回りのええ家の子なら、ちっこい時分から楽しい思い出があるはずだかんな。それに引き換え、村の女は、つましい生活 が身に染み付いてっからよ、どうにも勾玉がくすんでしまうだ。だから、たまに町さ出向いては、こっそりガキを攫ってきてさ、村の子として育てるんだべ」 恐ろしい信左衛門の告白だった。この村では〈お珠さま〉により高く売れる上質の勾玉を放 り出させるために、恒常的に人攫いが行われていた。 「さっきの目合 を見ておってもな、この娘はやっぱり町の娘だわな。ひっ、ひっ、村の女じゃ、あんなん猥らに乱れねえだんべ」 長老が、下卑た笑いとともに茶化した。しかし、鈴は無神経な男どもに刃向かうどころではなかった。〈お珠さま〉が肩から鎖骨を伝い、顎のほうへ這い登ってきたのだ。 「信吉っ、わっち、あんたやお縫と過ごした思い出をなくしたくない!」 鈴は、声を限りに信吉の名を呼んだ。親の決めた相手と一緒になる他の夫婦と違い、鈴と信吉の仲は五年にもなる。信吉は鈴の気持ちを誰よりもわかってくれているはずだった。 だが、信吉は父の後ろで目を伏せたまま、ひと言、小さく「ごめんな」と呟いただけだった。代わりに長老が話を引き継いだ。 「信吉は金が欲しいんだべ。この前、足尾さ出かけた時に、別嬪の女郎に溺れちまったで。そうそう、今、おめえが着てる振袖もその女郎にやるんだとよ。女郎買いっつうのは金がかかる。ほんだから、特上の勾玉が欲しいんだんべ」 「信吉、嘘 だろ? 嘘だって言ってくんねえのけ?」 鈴の問い掛けが虚しく洞穴にこだまする。 信吉の返事がないということは……肯定の印なのだ。 〈お珠さま〉が右の頬を進んでいく。餌の在処を理解しているのか、右目の上を通り、一直線に額を目指している。 「やめて、やめてぐれー!」 欲に目が眩んだ四人の男の顔が、にわかに鈴と芋虫の周りを取り囲んだ。 〈お珠さま〉は、鈴の額の上をぬらりぬらありと進んでいく。 鈴の脳裏には青碧の霧が立ち込め、やがて一点を目指して集まり出した。 *1 こわい……疲れた
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