身代わり狂騒曲 風花千里
第七章 吉原詣 一 とん、とん、とんとんとんとん…… 金槌を使う音が小気味よく響く。 佐助は軒先についた雨樋の修繕に取り掛かっていた。 四月も半ばになると、日によってはかなり気温が上がる。今日は朝から快晴で、午後は汗ばむほどの陽気だった。 首に巻いていた手拭いで、額に浮き出る汗を拭う。佐助は着古した薄手の着物の袖を襷がけにし、裾を尻端折 りにしていた。 裏長屋に住む男が、通りがかりに話し掛けてきた。 「ご精が出ますねえ」 「いつ壊れたんだか知らねえが、途中から樋が折れていたんだ。雨が降る前に直しておこうと思ってな」 樋の端を取り付けていた手を止め、佐助は上機嫌で返事をした。 男が軒を見上げた。 「あれ、前の雨樋は、竹を縦に割っただけでしたけど」 「手頃な竹が見当たらなかったんで、新しく設えてみたのよ」 壊れた樋は竹製の簡素な作りだったが、どこを探しても竹が見つからない。その代わり、源内が工作物を製作する時に出た廃材がたくさん残っていた。 家の外壁に沿って置かれていた長い木材を三本運び出し、鋸で樋に合う長さに切った。ところどころに鉄釘を打ち、凹形の樋を作り上げた。 「立派な雨樋ですねえ。さすがは発明家の源内先生だ」 男が目を見張った。 作事の腕を褒められ、佐助は満更でもない気分だった。 先程から近くを通る人々が、例外なく挨拶をしていく。源内は奇想、奇行で知られたが、神田白壁町の住人からは慕われていたようだ。 表通りへ出ようとする男に向かい、愛想よく呼び掛ける。 「おめえんとこで作事が必要になったら、直してやるからな」 「ありがとうごぜえやす!」 男は嬉しそうに破顔すると、また歩き出した。 男が視界から消えるまで見送ってから、佐助は軒先へ向き直った。雨樋は、あと数か所を釘で打ち付ければ使えるようになる。 ──ああ、お天道様の下は気持ちがいい。 初夏の爽やかな陽射しを全身に受け、ひとりごちた。 戸外は体を動かし、滅入った気分を発散できる場。近頃、家に籠っていることが多かったのだが、作事に勤しんだおかげで、怠くて重かった体もすっきりと軽くなった。気づけば体中に生気が漲っている。 「かなり退屈が高じてますね」 背後から、また声がした。最後の釘を打ち付けてから、ゆっくり振り返る。 重三郎が含み笑いをしながら立っていた。 二 佐助は梯子から下りた。 「身代わりも板に付いて退屈しているんじゃないかと、遊びの誘いに来ました」 重三郎が曰くありげな視線を送ってきた。 佐助は顔を曇らせる。 「遊びって、まさか、お稚児さんか」 生前、源内は色子を買っていた。近頃、町を歩くと、佐助の周りにも華やかな振袖を着た色子が纏わりついてくる。 「陰間茶屋じゃありません」 「岡場所へでも繰り出すのか」 岡場所は、お上の許可を得ずに営業する私娼屋が集まるところ。白壁町界隈にも、大小取り混ぜて幾つか存在していた。 「そのようなもんです。今日は、吉原へ行きましょう」 「馬鹿ぁ言うな。俺は廓で遊べるほどの金なんか持ってねえ」 佐助も吉原で遊んだ経験はある。大工をしていた頃は給金が出ると、仲間同士で張見世の妓 を素見 したり、切見世で性の捌け口を求めたりした。博打で儲けた時は、小見世の妓を馴染みにして通い詰めたこともある。 しかし今の持ち金では、小見世どころか切見世でさえも遊べなかった。家には全然と言っていいほど銭金がない。 「源内さんは近年、高額な紅毛の書を収集していました。手持ちがないと、借金してまで手に入れていたんです」 ──二階に置いてある、仰々しい本のことだな。 佐助は自然と二階の窓を見上げる体勢になった。 陶器や鉱物が並ぶ棚の脇に立派な書棚がある。戯作や漢詩などの書物は階下の座敷にも堆く積まれていたが、二階に納められているのは、色とりどりの挿絵の入った豪華な図鑑類だった。挿絵には紅毛の文字で、ぎっしりと注釈がついている。 「道理で手元不如意のわけだ。実はあまりに銭がねえんで、一番立派な二冊組のやつを、質屋に持ち込んじまおうかと考えてたんだ」 「まさか、もう質草に?」 重三郎が目を剥いた。 「誘惑には駆られたが、実行には移してねえ」 「よかった」 重三郎が肩の力を抜いた。 「二冊の分厚い書は、『動物図譜』といいます。源内さんが本草学を極める上での大切な資料だったんです。入手するのに、どんなに苦労したことか。だから二冊揃えて残してほしいんです。金子のことは、近いうちに何とかしますから」 「貴重な図鑑だってことは俺にだって想像がつく。わかった、手を付けずに残しておくよ」 手を付けずにというのは、嘘だった。『動物図譜』の挿絵が並外れて美しかったので、頻繁に手に取って眺めている。 「しかし、戯作が大評判だったってえのに、何で金に困るんだ」 「戯作は売れても大した金にはならない。源内さんは鉱山開発にも手を出していたでしょう。その元手も掛かっていた」 戯作で生計を立てられる作者は、ほとんどいないという。懐に入る金が「雀の涙」なのに、出ていく金が「牛の寝た程」では家に蓄えなどあるはずがなかった。 「南畝が今〈福内 鬼 外 〉の名で浄瑠璃本を書いてます。〈福内鬼外〉すなわち平賀源内という触れ込みです。いい浄瑠璃は引く手数多ですから、近いうちに纏まった金が入ってくるはず。金の心配は忘れて、今日は派手に遊びましょう」 重三郎は声を励まし、大きく両腕を広げた。 三 外出用の袷の中から、佐助は路考茶の無地を身に着けた。羽織も同色のものを選び出す。源内はお洒落には無頓着だったらしく、着物は無地か縞柄。路考茶が多い理由は、やはり菊之丞の贔屓だからだろう。 部屋の隅に置いた籠の中に、洗濯物を入れた。汗に塗 れた体を拭いた手拭いも一緒に投げ込む。 春信の差し金で、一月前から手伝いの老女が通ってきていた。老女は朝のうちに来て、煮炊きや簡単な掃除をする。洗濯物は纏めておけば持ち帰って洗ってきた。 ──そういえば、しばらくお仙ちゃんが来ねえな。 老女が来るようになり、それまで頻繁に訪ねてきたお仙が来なくなってしまった。女手が必要なくなったせいかもしれない。最後に顔を見せてから、十日が経っている。 煙草入れを腰に着け、隣室の襖を開けた。 座敷では重三郎が源内の蔵書を読んでいた。書物を扱う職業だけあり、重三郎も本の虫だった。戯作や句集以外に、漢籍なども読みこなすという話だ。 「待たせたな」 重三郎は読みかけの本を置き、佐助の恰好に目を走らせた。廓遊びに相応しい風体か確認しているらしい。やがて及第点をつけたのか、小さく頷いた。 外へ出た。時刻は八つ半には早いという頃で、陽はかなり高い。 「天気もいいし、両国橋から舟に乗って行きます」 木戸を出たところで、重三郎が両国橋の方角へ足を向ける。 佐助は立ち止まった。 「わざわざ贅沢するこたあねえだろ」 「舟で行けば船宿と繋がりができる。そうすれば廓にも顔が利くようになるんですよ」 「銭がないんだから、顔なんか利くわけねえよ。それより歩かないと体が鈍っちまう。俺は、南畝みてえな、ぶよぶよの体になりたくねえんだ。で、ものは相談だが……」 先を続けようとして佐助は言い淀む。勘繰られぬよう説明するには、どう言えばいいか。 「まだ明るいだろ。久しぶりに神社に詣でてみてえんだ」 「神社? 舟で行けば、浅草寺も近いですけど……、ああ、なるほど」 重三郎は薄く笑うと、先を続けた。 「では、遠回りをしていきましょう。下谷から上野を抜け、谷中へ行ってみますか。笠森神社で、どうです」 ──相変わらず勘の鋭い奴だ。俺の考えを読んでいやがる。 佐助は顔を顰めた。上野寛永寺まで行き、ついでに笠森神社にも寄るという筋書きを考えていたのに、いきなり笠森神社ときた。 「ついでに〈鍵屋〉に寄って一休み。名案でしょう」 重三郎が淡々と提案する。いっそ茶化してくれたほうが気が楽なのだが、落ち着き払った物言いに気恥かしさが先に立つ。 佐助は「じゃ、そうするか」と返すのが精一杯だった。 五 谷中・笠森神社は、感応寺の塔頭 ・福泉院境内にある小さな神社だ。その慎ましい社とは対照的に、参詣客の多さは浅草寺の御縁日かと紛うほどだった。 笠森神社は瘡除 け稲荷として名高い。また感応寺は富籤を扱う官許の寺である。しかしそれを踏まえても、人出の多さは半端ではなかった。 佐助と重三郎は人混みを掻き分け、参拝を済ませた。 「吉原までは、まだ道のりがあります。〈鍵屋〉で一服していきましょう」 重三郎が佐助の背を、とん、と押した。 「若いくせにもう草臥 れちまったのか。仕様がねえ、付き合ってやるか」 佐助は嫌々ながらの風を装う。 だが実は、笠森神社に着いた時から門前が気になって落ち着けなかった。特に茶屋の並ぶ一角に人が集まっているのが見えると、気もそぞろ。社の前で拍手 を打ったが、何を拝んだのか、さっぱり覚えていなかった。 〈鍵屋〉の前で、重三郎は困惑したような声を上げた。 「満席ですね」 水茶屋は葦簀 張りの小屋の中に縁台を置き、湯茶や菓子を供す。〈鍵屋〉は小屋の外にも腰掛けを並べていたが、席はすべて埋まっていた。 「空いてねえんじゃ、諦めるしかあるめえ」 佐助は適当に相槌を打った。だが、目は重三郎など見てはいなかった。 茶屋の中では、腰掛けの間を縫うように、お仙が忙しく立ち働いていた。縦縞の着物に前垂れを掛け、黒塗りの塗 木 履 を履いている。 きりりと涼しげな目元、緩やかに弧を描く優美な眉、色白の顔を華やかに彩る紅い唇。〈美人〉の名を冠するのに、これほど相応しい女子 はいるまい。 春信が一枚絵に描いたおかげで、お仙の出で立ちは、今や江戸の女たちの手本となった。中でも鬢付け油を付けて髱 と鬢を大きく張り出した髪形は、生え際や襟足の美しさを引き立たせ、顔が華やいで見えると大評判になっていた。 お仙が動くたび、客の視線も一斉に動く。 客のほとんどが野郎だった。もちろん、神社ではなく、お仙の姿を拝みに来た不届き者たちだ。皆、にやけた顔をして、お仙の一挙一動を見守っている。 向こう横丁の、お稲荷さんへ 一文あげて、ざっと拝んで、お仙の茶屋へ 腰を掛けたら、渋茶を出して 渋茶よこよこ横目で見たらば 米の団子か土の団子か、お団子団子 この団子を、犬にやろうか、猫にやろうか とうとう鳶に、攫われた 近頃、町中で聴く手鞠唄だ。唄の詞に出てくるほどだから、お仙の人気もさぞかし高かろうと予想はしていた。が、実際は佐助の想像を遥かに超えていた。 ──遠くから眺めるだけで充分と思ってたが、客の頭が邪魔でお仙の顔すら見られねえ。 こめかみが震え出す。佐助の中で癇癪の虫が暴れ始めたようだった。 六 「親仁さん、ちょっといいか」 何か含みがあるような重三郎の声が、店の中を通り抜けた。 呼ばれた男が振り返る。 「重三郎じゃねえか。おっ、源内先生もご一緒ですかい」 男は四十がらみの温厚そうな風貌。重三郎が「親仁」と呼ぶところからみて〈鍵屋〉の店主なのだろう。佐助に気づき、感じのいい笑みを零した。 「神田から歩いてきたんだ。ちょいと休ませてもらえないか」 「生憎 と席は一杯なんだが……」 男は店内をぐるりと見回す。 「あそこしか空いてねえな。いつもの一番奥へ、先生をお連れしてくれ」 「わかった、遠慮なく使わせてもらうよ」 重三郎は頷くと、佐助を促し、葦簀の奥へ進んでいく。 店の一番隅に、目立たぬように縁台が一つ置かれていた。 「〈鍵屋〉の親仁と知り合いなのか」 佐助は重三郎の腕を引っ張った。 「親仁は五兵衛といって、お仙ちゃんの父親なんです」 「お仙ちゃんのお父っつぁんなのか。あんまり似てねえな」 店の表で愛想よく振る舞う五兵衛を再度見直す。きりっと整った顔立ちのお仙に比べ、五兵衛は豆腐のように白くて四角い顔だった。 「お仙ちゃんは母親似なんでしょう。私は南畝や春信さんと、始終この店に立ち寄ってた時期がある。その時に親仁と顔見知りになったんです」 佐助に縁台を示しながら、重三郎は自分も腰を掛けた。〈鍵屋〉は他の茶屋に比べて格段に広かった。縁台には絵筵が掛けられ、上に座布団が並ぶ。 「ここは、手が空いた時にお仙ちゃんや手伝いの娘たちが休む場所だったんです。でも、店がご覧の通りの繁盛ぶりで、ゆっくり休憩を取る暇がない。常に誰もいないので、特別な客が来た時に案内する臨時の席になったんです」 二人の席は竈 の陰になっていて、他 人 目 につきにくい。特別な客をもてなすには、うってつけの場所だった。 外からはわかりにくいが、佐助からは店内の様子がよく見える。少し薹 の立った年増女が、愛嬌たっぷりに客の注文を聞いていた。近辺に寺が多いせいか、坊主の姿もちらほら見受けられた。 ぼんやりと人の動きを追っていた視界が、にわかに明るくなった。 「源内先生、いらっしゃい!」 春先に囀 る繍 眼 児 のごとき、お仙の元気な声が耳に届いた。 七 「ご無沙汰してて、ごめんなさい」 お仙に謝られると、佐助の癇癪の虫はぴたりと動きを止めた。 「商売繁盛のようで結構だね」 重三郎が如才なく挨拶をする。 「この頃お天気続きだから、お客さんが多いの。重三郎さんこそ、こんな日の高いうちから、ふらふらしてていいの? 商売でしくじっても知らないわよ」 お仙は手にした盆から茶碗を取って、縁台の上に置いた。 「お稲荷さんにお参りだなんて、どういう風の吹き回し? 疱瘡除けの祈願じゃないだろうし……。わかった、これからどこかに寄るつもりなんでしょう」 お仙は二人の男を交互に見比べた。強い視線を受け、息が詰まりそうになる。情けないが、質問に答えたくても気の利いた台詞が浮かばなかった。 「源内さんが書く浄瑠璃本の打ち合わせをしに、南畝と会うんだ」 重三郎がうまい答えを返した。廓通いは恥ずべき行為ではないが、女子の前では提供してほしくない話題である。 「面白そう! あたしも一緒に行きたいなあ」 お仙が佐助に向かって恨めしげな目をくれた。 佐助の胸が高鳴った。 高鳴りは治まる様子もなく、喉から音が漏れそうなほど強くなる。 ──俺だって一緒に連れていきたい。だが、今日ばかりは無理な相談だ。 佐助は天を仰いだ。 浅草奥山へ見世物巡りに繰り出すのなら、さらってでも連れていく。しかし、今宵の行き先は別名「悪所」とも呼ばれる色街。うら若き娘を付き合わせるわけにはいかなかった。 「でも今日は駄目ね。この混みっぷりじゃ、おとっつぁんが行かせてくれないわ」 話している間も、入れ替わり立ち替わり、客が店に入って来る。 「こっちも頼むよ」 店の中程で五兵衛が呼んでいる。お仙を間近で見たいと、客が駄々を捏ねていた。 お仙は「はーい」の返事の後に続けて、「あっかんべー」と、下瞼を下げて見せた。 八 「人気者がそんな行儀の悪いことして、いいのか。どこで誰が見てるかわからねえぞ」 佐助はお仙を窘めた。居るだけで他人目を引く時代の寵児。あっという間に良い評判が立つかと思えば、悪い噂も瞬時に広まる。 「お仙ちゃんは江戸の華。世間の注目の的なんだからさ」 重三郎も渋面をつくって同意した。 顔に笑いを含みながら、お仙はいやいやをするように首を振った。 「あたしは『見られる』より『見たい』たちなの。絵師の工房だろうが、廓だろうが、自分の目で見たい。だから次の機会には是非とも連れてってちょうだいね」 と続けると、着物の裾を翻し、五兵衛のほうへ戻っていく。 「結局、行き先がばれてるじゃねえか」 佐助は肩を竦めた。 重三郎も苦笑いをする。 「ところで、妙な奴がいるのに気づいたか」 佐助は顎をしゃくった。 茶屋の外に置かれた縁台に腰掛け、厳つい体をした武士が辺りを睥睨していた。店の看板であるお仙には見向きもせず、客の男たちに目を配っている。 「ああ……、あの人は倉地政之助様と申すお方で、代々御休息御庭の者支配を任されている家の御長男です」 重三郎が武士の素性を教えてくれる。奥歯に物の挟まった口振りだった。 「御庭番か。用心棒みてえにあそこへ陣取って、市井の様子を探ってるわけだな」 「この辺一帯は領地ですし、倉地家は、昔、笠森神社を勧請している。御役目と称して、この界隈をうろついているんです」 再び政之助という侍に目を遣った。下駄のような角張った顔に、青々とした髭の剃り跡が目立つ男だった。 視線に気づき、政之助が目を剥いて佐助に目を転じた。 ──おっと、市井に蔓延る胡乱者と、いちゃもんをつけられちゃ適わねえ。 咎められる前に、佐助はそっぽを向いた。 九 上野寛永寺の裏を抜け、吉原へ向かった。 三ノ輪町の先を右に折れる。 すると後は見渡す限り田圃だった。餌を探す白鷺が泥の中に首を突っ込んでいる。 木立越しに、今宵の目的地、吉原の妓楼の屋根が見下ろせた。 歩いているのは日本堤と呼ばれる土手。堤の真ん中あたりに、吉原の入口、大門がある。 吉原への道は大別して四つある。 舟で隅田川を遡り、山谷堀の船宿に上がって日本堤を歩く道。 二つ目は、駒形から「馬道」を隅田川沿いに歩いて日本堤に出る道。 三つ目は、浅草寺裏門から北へ向かい、日本堤に出る道。 四つ目が、上野の東側を北へ進み、三ノ輪へ出る道である。 佐助は廓通いに舟を使った経験はない。駕籠や舟を使うのは小金を持った商人が多く、佐助が過去に訪れた際は、二つ目の道を徒歩で行った。 「早々と〈鍵屋〉を出てきましたが、本当によかったんですか」 重三郎が黙って歩く佐助の様子を窺う。 「お参りをするのが目的だったから、いいんだ。休憩は添え物。長居をせずに、とっとと遊里へしゃれ込んだほうが粋だと思ったのよ」 佐助は嘯いた。 お仙は客のあしらいで大忙しだったので、茶を運んで来た時に話したきりだった。 きびきびと働くお仙を、初めは好もしく見ていた。 だが、次第にむしゃくしゃしてくる。 〈鍵屋〉の客はほとんどがお仙目当て。お仙が脇を通れば必ず声を掛け、話をしたがった。 五兵衛に言い含められているのか、お仙は客の一人一人に愛嬌を振りまいた。 佐助は、お仙に笑み掛けられている客の全てに嫉妬した。 妬き過ぎて癇癪の虫が肚の内にもわき出し、治まらなくなった。 癇癪を起こしては〈鍵屋〉にも迷惑がかかる。 佐助は茶を啜っていた重三郎を急き立て、仕方なく〈鍵屋〉を後にしたのだった。 田圃ばかりだった堤の両側に、葦簀を張った掛茶屋が見え始めた。 「今さら必要ないかもしれませんが、差し上げます」 重三郎が懐から小形の竪本を取り出した。 「細見か」 佐助は本を受け取り、ぱらり、と捲る。 「私の店で扱っている細見です。わかりにくいのが難点ですが」 細見は妓楼や遊女の名などを記した吉原の案内書。初めて廓で遊ぼうと目論む男たちは、細見を手に大門を潜った。 〈見返り柳〉の角を右に曲がって、衣紋坂を下る。ゆるやかな坂を下っていく三曲がりの道が五十間道。左右は二十軒ほどの茶屋が軒を連ねていた。 行く手に黒塗りの吉原大門が見える。 佐助は、ぐっと唾を呑み込んだ。 «第八章 扇屋
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