曼荼羅風 齋藤幹夫
――其之肆 二十四孝―― 「おっしゃりやがったねえ。 唐国 のばばあてえものは、どうしてそう食い意地がはってんだい? 鯉が食いてえ、たけのこが食いてえなんて……そんなばばあは、とてもめんどうみきれねえからしめ殺せ」古典落語「二十四孝」より 曼荼羅風に入ろうとした時に、高齢でいて矍鑠とした白頭翁と搗ち合った。白頭翁は無言で、掌をすうと差し出し先を即した。私は「お先です」と頭だけの会釈をして引戸を滑らせ中に入る。大将の「いらっしゃい」が終わらぬうちに、框を陣取っていた熊さん八つぁんがその場に直立し「こんばんは」と頭を下げてきた。私にわざわざ直立してまで挨拶をするわけがないから、どうやら私の後に続いて入って来た白頭翁に向けてのようだ。その白頭翁も大将に向かって軽く手を挙げ、熊さん八つぁんに「来とったのか」と云った。 「これは大家さん、暫くです」 この店 の大家のようだ。熊さん八つぁんとは何らかの知り合いなのだろう。私が長卓の一席に腰掛けようとした時、視界の端に熊さんと八つぁんが動いている。顔をそちらに向けると、二人とも声を出さずに口をぱくぱくさせ私に向かって手招きをしている。呼ばれるがまま框の通路側に腰掛けると「随分遅かったじゃねぇか。大将、こいつに麦酒をやってくれ」と恰も約束をしていたような口振りで世話まで焼いてくれる。白頭翁は長卓の一席に腰掛け、冷酒に甘海老と間八の刺身を頼んでいた。二人に目をやると、座卓に両肘を乗っけて肩を竦めて前屈み、おまけに正座までしている。何やら私を盾にして長卓の白頭翁から隠れているようにも見える。届いた麦酒のジョッキを持ち、乾杯の意で二人の前に差し出すと、猪口を鼻の前に掲げ、何とも小さい仕草で応える。 「何かあの大家さんとやらに、気拙いことでもあるんですか。店賃を払ってないとか、それこそ落語であるような話じゃないでしょうに」 私も自然小声となっていた。 「あれは俺らの大家じゃねぇよ。ありゃあ俺らの恩師よ。中学の時のよぉ」 熊さんはぐうっと顔を近づけて精一杯の囁き声で云った。八つぁんも頬を擦り付けんばかりに顔を近づけて囁く。二人の囁きによると、白頭翁は曼荼羅風の大家さんであると同時に熊さん八つぁんの中学時代の担任教師なのだとか。以前、八つぁんの悪餓鬼振りは聞いていたが、熊さんのほうはどうやら、かなりの乱暴者でここいら辺りを牛耳っていたようだ。そんな二人だから白頭翁には特に目を付けられて、褒められたことは一度も無いが殴られたことは数知れず。殴られてそれで終 いではなく、正座させられ延々と説教を食らうのが流れ。悪さをしている暇があるなら勉学に励めとは云わず、親孝行の一つでもしろと云い、先ずは陸積 、次は田眞兄弟と「二十四孝」の孝行譚を聞かされる。名は権藤と云うのだが、拳骨と孝行で「拳孝 」と渾名されていた。曼荼羅風には忘れた頃に顔を出し、かち合ったが最後、昔のように、流石に殴られぬはせぬが説教が始まる。聞き流しておけばと思うものの、条件反射か心 的 外 傷 か、二人とも頭を垂れてしまうのだと云う。 「さて、八つ田、熊澤。時に――」 ほら始まった、と熊さん八つぁん声を揃えて小さく云う。 「そこに一緒におられるのは、どちらかの倅かなにかか」 どうやら私のことを訊いているようだ。 「いえいえ、その、此奴 は曼 荼羅風 の常連、知り合いでして、その、まぁ、今日は珍しく三人の都合があったんで、何だか、曼 荼羅風 で待ち合わせをしておりましてね――」 熊さん、死泥 喪泥 に応えるが、嘘である。私がここの暖簾を潜ると大概二人はいるし、互いに連絡先も知らないし、待ち合わせをしているのに「何だか」はない。 「お若いの、こう云っちゃあなんだが、そこの与太者達と付き合っておるとあなたの身代が危ぶまれる。そのような暇があったら親孝行の一つでもするのが宜しい。ご出身はこの辺かな。ご両親は御健在か」 「出 は九州のほうでして、父は五年前に亡くしておりまして、母は九州でひとり暮 らしております。父の三回忌以降、帰郷もしていませんが、元気にやっているようです」 何故か矛先が私に向いている。助け舟を求めようと熊さん八つぁんに目をやると、この二人、にやにやとした笑みを浮かべて悪餓鬼の顔での知らん振り。わが身に火の粉が降りかからねば、勿怪の幸いなのだろう。いまだに説教される理由が解ったような気がした。 「それはいかん。『二十四孝』の老莱子 の話は御存知かな。知らぬか。老莱――」 「大家さんの口から『二十四孝』なんて出ると、落語の『二十四孝』そのままですね」 大将のほうが、この「拳孝先生」を遮り、助け船を出してくれた。 「落語の『二十四孝』と云うのは、どのような噺でげすか」 私は藁をも掴む思いである。言葉尻が妙な具合になったことも構いはしない。 「噺の出だしのほうは『天災』のそれと被るんですがね――」 毎日夫婦喧嘩をし、自分の母親に手をあげる乱暴者の男がある日、住まう長屋の大家から、お前のような奴には貸してはおけぬ、明け渡せと云われる。それは困ると大家に侘びを入れると、今まで通り置いてやるが、その代わり心を入れ変え親孝行をしろと云われる。しかしこの男、親孝行の仕方が解らない。そこで大家は唐の国の『二十四孝』の話をする。真冬、鯉を食べたいと云う母親のために池の氷を己が体温で溶かし、鯉を手に入れた王祥。またもや真冬、筍が食べたいと願う母親のために、竹藪に行くが何せ季節外れで筍などあろうはずもない。母親に孝を尽くすことが出来ないと天を仰いで泣いていると、突如筍が生え、手に入れることが出来た孟宗。貧しく蚊帳も吊れぬ暮らしで、母親には蚊に悩まされることなくゆっくり寝てもらおうと己が体に酒を塗って寝るが、母親はおろか自分自身も刺されることがなかった呉猛。これまた貧しい夫婦は、母親にはひもじい思いをさせまいと、自分達の食う分を回すが、母親は孫たちへ与える。夫婦は、子に代えはあるが母親に代えは無いと、わが子を生き埋めにすることにした。穴を掘っていると土中から金の釜が出て来て、以降裕福に暮らした郭巨。聞きながら、そんな話があるかといちいち反論するが、孝行の威徳を天が感ずるところと大家に諭され、天が感ぜずとも孝行をなせば大家が小遣いをくれると云うので孝行息子になることを決意。早速家に戻った男は母親に、鯉は食べたくないか、筍は要らないかと聞くが、川魚は生臭くて嫌い、筍は歯が悪くてどうもと云われ巧くいかない。ならば子供を生き埋めにすると云うが、男に子供は無いし女房には気でも違ったかと云われる始末。ならば蚊帳を吊れないのはわが家も同じと酒の用意をするが、塗るよりも腹の中に入れたほうが気が抜けないで持ちが良いだろうと呑んでしまい、自分が先に寝てしまった。翌日起きて自分の身体を見てみると、蚊に刺されてはいない。これぞ孝行の威徳を天が感ずるところだと云えば、母親が「なに云ってるんだよ。あたしが一晩中 あおいでいたんだ」 「てな噺なんですが、端折ったり、くっ付けたりして時間調整が出来るっつうんで繋ぎ噺として演 られることが多いんですが、なかなかどうして良く出来たものでしょう。この男や、福澤諭吉じゃないですが『二十四孝』ってのには、莫迦な、って話が多い訳でございますが、江戸時代の徳川さんは奨励したそうで、それを落語で揶揄 ったんですかねぇ。世の礼儀、常識なんてぇのは落語を聴いてれば身に付くなんて云われもしますから」 大将そこで話を止め、良かったらと茄子の香々を差し出した。孝行をなすと云うことか。 「確かに変梃な話ばかりではあるな、真似ようにも無理がある。王裒 の話は死後の親孝行譚だ。『孝行をしたい時分に親は無し』なる言葉も意味なさぬわな。まあ、生前にこそ孝行を、と云う意味であろうが」 拳孝先生、あっさり認めるが、そこで八つぁん余計なことを云う。 「なんでぇ、変梃りんて解っていながら、何十年も俺らに要らぬ説教くれてたのかい」 「莫迦者っ。常識外れの貴様らに、そんじょ其処らの喩話をしても、なんの効き目もあるまい。未だに己が身の丈もわからんかっ」 おそらく八つぁんは、軽はずみな物云いと行動でここまで生きてきたに違いない。 「孝行をしたい時分に親は無しと云うのは、いつの時代も云われ続けておるな。つまりは所詮全う出来ぬこと。それならばわが子を確りと育てよと云うておるのと同じ。親が確りしておらねば、子をきちんと育て上げることも出来ぬ。子が育てば即ち親は死ぬるのだ。確り育った子も然り、孝行をしたい時分に親は無し、と延々と続く」 八つぁんますます頭を垂れて、熊さんが穴埋めに入る。 「ええ、ええ、親としての心持、充分に承知しております。それはこの蛸八も同じで――」 「本当に解っておるのか知れたもんではないわ。特に八つ田は」 「な、何を仰いますやら、重々解っていますとも。だって実際親になったんだもの。そりゃあもう、子供が産まれてこのかた、いえ、今じゃ子供らは皆独立していますがね、お、俺がちゃんとしなくては子が半端になっちまうと云う心持で、その、他所様には任せておけぬが子育てと、まあ思っておりまして、しかしまあ、よく云ったものですな『子は貸せない』なんて。上手いこと突いてきやがる。そりゃあ貸せはしません、わが子だもの」 「云わぬわ。子は鎹だ。虚け者がっ」 どう転んでも説教をくらうようだ。自分から買って出ているようなもの。折角穴熊になった熊さんの苦労も水の泡である。 「大将、私はまだまだ龕箱 には入れませんな。確り育ってない「教え子」がまだここにいる。それは私の不徳のいたすところだわな」 「いやいや、落語の国じゃ、大家は親も同然って云いますし、お二方が教え子と云う子ならば、やはり親も同然でしょう。精々長生きして親孝行してもらっては如何です」 「いやはや、いつになったら孝行してくれるのやら。あと百年は生きねばなりませんな」 「ええ、まだ百年もお生きになさるおつもりで」 最早八つぁん、救いようがない。まだ解らぬかっ、と拳孝先生の説教がぶり返す。私はその場をこっそり離れ、遑 の旨を大将に告げた。 「お後が宜しいようで」註:文中の落語の引用部分は、興津要編『古典落語』講談社文庫に拠った。
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