身代わり狂騒曲 風花千里
第十一章 果たし合い 一 昨日、春信の家から戻ってきた佐助は、自宅の惨状を見て腰を抜かした。 湯呑み茶碗が砕け、破片が飛び散っていた。窓枠から外れた障子が部屋の真ん中に倒れ、気づかず足を突っ込んでしまったのか、障子紙があちこち破れていた。 茶碗の欠片を拾い集め、障子も窓枠へ嵌め直した。だが、部屋中に散乱した数多の書物は、手をつける気にならなかった。 一時にいろいろな出来事が起こりすぎ、疲労困憊していた。散らかった本で足の踏み場もないとわかると、二階に上がり、そのまま寝てしまった。眠っている間に幾度となく嫌な夢を見た。 目が覚めた時は、昼の四つ近くになっていた。 階下で異様な音がした。 窓から身を乗り出し、下を覗いてみる。 戸口の前で、男が一人、前のめりになって戸を叩いていた。 ふと、男が身を引き、二階を見上げた。 「おお、おぬし、家におったか」 四角い顔に、ぎょろりと飛び出した目。男は谷中の〈鍵屋〉で見かけた倉地政之助という侍だった。 「おぬしに訊きたいことがある。高いところでふん反り返ってないで下りて参れ」 政之助は、振りかざした鉈のごとき凶暴な視線を投げてきた。 佐助は身の危険を感じ、急いで階下へ向かった。 外に出ると、政之助が待ち構えていた。 「四十を過ぎておると聞いたが、ずいぶん若く見えるな。さすが稀代の女っ誑 しだけある」 政之助が嫌味たっぷりに言い捨てた。 「女っ誑しだと? 貴様、何の用か知らぬが、人の家に来て主人を色師呼ばわりするとは何事だ!」 小十人格御庭番なるお上の僕 に、佐助は食ってかかった。何の取り柄もない人間だが、根も葉もない言いがかりをつけられて、黙っていられるほど、お人好しではなかった。 「女っ誑しを女っ誑しと称して、何が悪い。おぬし、拙者の許婚にちょっかいを出しおったであろうが」 「へっ?」 「しらばっくれるのもいい加減にせよ。拙者の許婚は〈鍵屋〉のお仙だ」 政之助が誇らしげに宣言した。 ──この直情丸出しの垢ぬけねえ男が、お仙ちゃんの許婚だと? 嘘だろう。 佐助は驚き余って、目の玉が飛び出しそうになった。 美女と野獣の組み合わせは、古今、枚挙に暇がない。けれども、江戸三美人の一人に数えられるお仙と、目の前の厳つい〈下駄面野郎〉が許婚同士とは。どんなに想像を巡らしても、思いつく取り合わせではなかった。 「ほーら、見ろ。その狼狽した顔が何よりの証拠だ。おぬしはお仙に横恋慕しておるのだろう。どうだ、違うか」 政之助が、面を真っ赤にして佐助に詰め寄った。髷のてっぺんから、湯気が噴き出しそうなほど上気している。 佐助は黙っていた。 ちょっかいを出すも出さぬも、お仙には振られたのだ。 お仙にとって、佐助はあくまでも源内の身代わり。役を降りれば、お仙との繋がりも一切なくなるはずだった。 ならば、この失礼な下駄面に言い訳する必要もあるまい。 だが政之助は、佐助の無言を肯定の意味に取ったらしい。 「お仙が優しい顔をするのをいいことに、いい歳して、粉なんぞ掛けやがって」 と、佐助の左肩を掴むと、力いっぱい揺さぶった。 「ええい、このままでは腹の虫が治まらぬ。果たし合いだ! おぬしが二度とお仙に手を出せぬよう、こてんぱんに痛めつけてくれる」 「果たし合い?」 鸚鵡返しに言う佐助の前で、四角い顔が上下に動いた。 二 「そうだ。浪人の身分とはいえ、おぬしだって武士のはしくれ。大小くらい持っておろう」 佐助が逃げ出せぬよう、政之助は大きな体で出口を塞いだ。すぐさま抜刀しそうなほど血気に逸っている。 ──こいつ、妬いてるのか。 ようやく状況が呑み込めた。今までのやり取りからすると、初対面の相手に果たし合いを申し込むほどの原因は、度を超した嫉妬ぐらいしか考えつかなかった。 ──〈鍵屋〉で客を吟味していたのは、お仙ちゃんに悪い虫がつかねえよう見張ってたのか。 政之助は、佐助だけでなく〈鍵屋〉に来るすべての客に目を光らせていたに違いない。 「どうした、怖気づいたか」 政之助が野太い声で挑発する。 相手を見下した口ぶりだった。 勝手にいきり立つ相手と真面目に向き合うのは馬鹿らしい。だが、佐助は元々挑発に弱かった。決闘を挑まれて、黙ってはいられない。 「面白え、受けて立とうじゃねえか」 言ってしまってから、臍をかんだ。 太刀と脇差は二階にある。洋書購入で手元不如意になっていた源内だが、武士の証である大小だけは、さすがに残してあった。 だが、根が町人の佐助に使いこなせるわけがない。真剣勝負では、どうあがいても負け戦になるに決まっていた。 「望むところだ。外へ出ろ!」 政之助が身を翻して外へ出ようとする。 「ちょ、ちょっと待て」 大慌てで政之助を制した。このまま勝負をすれば、間違いなく鱠 に切り刻まれる。 「刀は質草に出しちまって、今は、ねえ」 咄嗟に嘘をついた。 「武士の魂である大小も持たぬのか」 政之助は侮蔑の目を向けた。 「武士の風上にも置けぬ奴だが、仕方あるまい。では、刀を捨て、組討 で勝負するとしよう。それならば異論はあるまい」 佐助は素早く相手を観察した。体格では及ばないが、自分も仕事で鍛えた体がある。丸腰の喧嘩なら負けない自信があった。 「むしゃくしゃしていたところだ。相手になってやろうじゃねえか」 体中に沸々と血が滾り出す。徐々に力が漲ってくる。 乗りかかった船とは、まさにこのこと。 相手の仕立ててきた船に、佐助は乗り込んでしまった。 三 本気で組討となると、軒先の狭い空間で戦う訳にもいかぬ。やむを得ず、歩いて僅かの距離にある紺屋稲荷の境内に向かった。 途中で近くに住むお米という老婆とすれ違う。厳めしい武士と並んで歩く佐助を見て、お喋りで噂好きの老婆は好奇心を剥き出しにして近寄ってきた。 佐助はいい加減にあしらい、歩みを止めはしなかった。 「ここで、どうだ」 紺屋稲荷の境内に立ち入り、政之助を振り返った。 境内はさほど広くないが、男二人が取っ組み合うには十分な広さだった。 夏を迎え、生い茂る木々のせいで日当たりが悪く、地面は連日の雨で泥濘んでいる。そのためか人影は見えなかった。 政之助は周囲を眺め渡していたが、やがて「よかろう」と頷いた。 「おぬしが負けたら、二度とお仙に近づくなよ」 「大した自信じゃねえか。いいだろう。その代わり俺が勝ったら、貴様がお仙ちゃんの前から身を引くんだぞ」 交換条件を提示され、下駄面が強張った。 「拙者がおぬしのような腰抜けに負けるはずがない」 「そうか? 俺に勝てそうにないから、約束できねえんじゃねえのか」 「失敬な! よーし、わかった。万が一拙者が負けたら、潔くお仙の前から消えてやる」 政之助は、佐助の仕掛けにあっさり乗った。 「さあ、どこからでも懸かってこい!」 政之助が大きな体を前傾させて身構えた。 佐助は地面を蹴って、政之助に組みついた。 政之助のほうが、頭一つ分背が高い。横幅もある。がっぷり四つに組んだつもりが、気づくと政之助の腹の辺りを掴む格好になっていた。 力任せに政之助の体を押した。押して押して、ひたすら押しまくる。 だが、政之助の壁のような体躯は、一寸たりとも動かなかった。 上方から政之助の太い腕が伸びてきた。腕は佐助の両脇を掴むと、思いきり横に投げようとする。普通だったら、足を踏ん張って持ちこたえられる状況だった。 ところが、地面が泥濘んでいたせいで、堪えていた足がずるりと滑る。 刹那、したたか地面に叩きつけられた。着ていた単が湿った土で汚れた。 間を置かず、獣の咆哮のような叫び声を上げて、政之助が圧し掛かってきた。 組み敷かれ、身動きができない。政之助の右の拳が、佐助の左顎に命中した。 続いて左の拳。今度は右頬に衝撃が走った。 自ら提案してきただけあって、相手は組討にも慣れていた。 「ちっくしょう!」 佐助は吠えた。足を滑らせなければ、こんな屈辱的な体勢になりはしなかった。 政之助は拳を繰り出し、佐助の顔面を強打する。相手の拳は石のように硬く、胸板は岩盤のように厚かった。 激しく殴られながらも、佐助は一枚岩のような相手の体を撥ね除ける方法を探していた。 ──待てよ、もしかして…… 政之助の動きに微かな違和を感じた。政之助は腰から上は盤石だが、それに比べると、下半身の坐りが悪い。 佐助の直感が〈相手の足を狙え〉と告げていた。 のるかそるかの戦法を採る。 比較的自由の利く両脚を体に引き付けた。 勢いをつけて押し出し、両側から政之助の胴を挟み込む。 内腿に力を入れ、相手の胴を締め付けた。撥 條 仕掛けの絡繰のごとく、反動をつけて上半身を起こす。相手の鼻っ柱に頭突きを喰らわせる。 「うわっ」 不意を衝かれ、政之助が仰け反った。 その隙に再び顎へ頭突き。少し上方に外れたが、衝撃で政之助の下唇が切れた。 体の均衡が保てなくなり、政之助は地べたに手を着いた。 佐助は立ち上がって、体勢を整えた。戦いの主導権は握り返した。 「いいように殴ってくれたじゃねえか、だがな、このままじゃ済まさねえぜ」 凄みを利かせ、反撃の態勢に入った。 四 仰向けになった政之助の胸倉を取り、佐助は続けざまに拳骨を見舞った。 一発目の頭突きが効いたか、政之助の反応は鈍く、頬に顎に、面白いように拳が入る。 辛そうに呻き声を上げ、政之助が顔を上げようとした。行き掛けの駄賃とばかりに、振り上げていた拳骨を、相手の下顎へ力一杯ぶち込んだ。 今度は声も出せず、政之助は大の字にひっくり返った。 ──しまった! やりすぎたか。 佐助は焦った。 政之助はぐったりとして、息をしている様子がなかった。相手の鼻っ柱をへし折るくらいは許容範囲のうちだが、息の根まで止めてしまっては洒落にならない。 「おい、大丈夫か」 心配になって、相手の上に屈み込んだ。 いきなり政之助が目を見開いた。 佐助の胸に痛烈な肘打ちを繰り出す。 「わっ!」 体が後ろに飛んだ。 しかし、同じ過ちを繰り返すわけにはいかぬ。着地するや否や、立ち上がって身構えた。 「卑怯者、死んだ真似をしていたな」 政之助は、息を詰めて佐助が油断するのを待っていた。 「ぬわっはっは。油断は不覚の基と申すであろう。さあ、来い。今度こそ、ぐうの音も出せぬほどに痛めつけてやる」 二人は、再度がっつりと組み合った。 「いい加減に、やめなさい!」 甲高い声が、耳を打ち破った。 佐助と政之助は、声のする方角を見遣ったまま、棒立ちになった。 「お仙ちゃん!」 「お仙……」 紺の矢絣を着たお仙が、背筋を反らせた勇ましい姿で立っていた。 「こんなところで取っ組み合いなんかして。いったいどういうつもり? それに、その格好は何なの! 二人とも泥の中でのたくる蚯蚓 みたいよ」 お仙は血相を変えて詰問する。弓張月のような美しい眉がぎりりと吊り上がっている。 佐助はお仙の形相に気圧された。醜女 は怒っても大して形相は変わらないが、美人が怒ると、その豹変ぶりは凄まじい。 しばらく身じろがなかった政之助が、こわごわ口を開いた。 「な、なぜ、ここがわかったのだ」 「お父っつぁんが、政之助さんがいきり立って神田へ向かった、って言うから、嫌な予感がして来てみたの。そしたら、先生の家は蛻の殻。お米さんが、紺屋稲荷の近くであなた方とすれ違ったって教えてくれたのよ」 「そうだったのか……」 佐助に喧嘩を吹っ掛けた勢いはどこへやら、政之助は青菜に塩のていである。 「政之助さん!」 お仙が声を張り上げた。 五 「はい!」 政之助が直立不動の姿勢をとった。 「お父っつぁんは、先生の様子がおかしいって話しただけでしょ。それなのに、また妙な邪推をして。どうしてこう、いつもいつも悶着ばっかり起こすのよ!」 お仙は細い肩を大きく聳やかし、政之助を詰問する。 「源内がお仙に言い寄った、と五兵衛殿が申すから……つい、かっとなって」 お仙に追及され、政之助は、しどろもどろの有様だった。 「あたしが先生のお手伝いをしていたのは、知ってるはずでしょう? あたしは単なる助手。なのに政之助さんは、あることないこと勝手に勘繰って、一人で騒ぎ立ててるだけじゃないの。確かこの前は、南畝さんにも果たし合いを挑んでいたわよね」 「南畝にも喧嘩を売ったのか」 佐助は呆れて政之助を見た。しかし目は合わなかった。政之助は、お仙の視線を避けるように下を向いていた。 「戯作にあたしのことを書いたのは怪しからん、と言ってね」 「もしかして、茶屋でお仙ちゃんに色目を使った奴らにも吹っ掛けてんじゃねえのか」 「そうなの! その通りなのよ」 我が意を得たりとばかり、お仙の声が大きくなった。政之助は俯いたまま弁解を試みる。 「いや、それはその、拙者はお仙の身に何かあったらと心配で……」 「子供じゃあるまいし、そんなに纏わりついて見張ってもらわなくても大丈夫です」 お仙は濡れ布巾を投げつけるように言い放った。 「しかし、茶屋に来る男らは、皆、お仙に話し掛けるではないか」 「話し掛けるには、座ってお茶を飲まなければならないんだから、商売繁盛でありがたいことじゃないの」 「その……お仙も下司野郎どもと仲良く喋っておるじゃないか」 「あたしは鍵屋の看板娘よ。あたしの仕事は、お客さんに気持ちよく休んでいってもらうことなの。そのために愛想よくするのは当たり前でしょ。なのに政之助さんったら、男のくせに焼き餅なんか焼いちゃって、いつ会っても、ぐじゃぐじゃ、ぐちぐち文句ばっかり。あなたは、あたしが信用できないわけ?」 お仙は飛礫の早撃ちのように次から次へと言葉を繰り出し、政之助は萎れた向日葵のごとく大きな体を縮こまらせた。 佐助は二人のやり取りを眺めていた。いや、眺めているしかなかった。ぽんぽんと取り交わされる会話に、口を挟む余地は見い出せなかった。 ──お仙ちゃんが、こんなに男勝りの女性 だったとは。 複雑な心境だった。 少々お侠 なところはあるが、お仙は清楚で可愛らしい女子だと勝手に思っていた。けれど、目の前で許婚を問い詰めているお仙は、相当の烈婦である。 ──印象が変わっちまったな。 平謝りに謝る政之助を見ながら、佐助はぼんやりと考えていた。 「源内先生もよ!」 突然お仙が振り返って、一喝した。 「鉱山が休山して、やることがなくなったからって、うじうじといじけちゃってさ。それで女子に慰めてもらおうなんて、ちょいとばっかし考えが甘いんじゃないの」 攻撃の矛先が佐助に転じた。 「何だと」 佐助は声に不快感を滲ませて受け止めたものの、今一つ、迫力が出なかった。 お仙の非難は至極もっともだった。己の意気地のなさを弁明する言葉を佐助は一つも持っていない。 「秩父が休山したんだったら、他の山を調べに出掛ければいいじゃないのさ。家に篭って安酒を呑んだくれてたって、宝の山は永遠に見つからないわよ」 お仙は、けらけらと笑った。 六 佐助は放心していた。 生い茂る木々の間を抜け、心地よい風が吹く。取っ組み合いでかいた汗が、風に当たって、すーっと引いた。なぜだか驚くほど素直な気持ちになっていた。 身代わりとして暮らすうち、佐助は源内という男の虜になった。彼の魅力を知るにつれ、身代わりでなく、源内そのものになりたいとすら思った。 しかしそんな大それた望みが叶うはすがない。たった一人で引き受けるには、源内の才能は多岐にわたりすぎていた。 それではと、仕事の一部を引き継ごうとした。けれども、どの分野も佐助の出る幕はなかった。自 棄 になって酒に溺れた。酔いに身を任せていれば、世間の目も〈連〉の評価も気にならない。酒を飲んでいる間は、飼い殺しの身を疎まずに済んだ。 だが、それは大きな勘違いだった。今のお仙の言葉ではっきり目が覚めた。 本気で源内になりたいのだったら、他人のお膳立てを待っていたのでは遅い。自ら立ち上がって動かなければ、いつまで経っても埒は明かない。 源内になる。 胸の中に育った想いをようやく自覚した。 「泣き言を垂れて、済まなかったな」 佐助はお仙に謝った。 「山へ入ったからって、すぐに新しい鉱脈が見つかるほど世の中は甘くねえ。だが、何もしなかったら、事は動かねえよな」 目の端でお仙が頷くのが見えた。 「危なく宝の山を見つけられずに終わるところだった。このまま酒浸りの日々を送ってちゃ、平賀源内の名が廃る。俺は近々江戸を出て、もうひと山、当てに行くつもりだ」 佐助は決心を口にした。思い切って口に出すことで、不可能も可能になる気がした。 「それでこそ、源内先生よ。所詮、一所に落ち着いていられる性分じゃないんだから」 お仙が嬉しそうに声を弾ませた。 「ありがとよ。何だか急に気分が軽くなった気がするぜ」 本当に、身に取り付いた憑物が剥がれて落ちたようだった。 「ところで、政之助さんよ」 政之助が驚いて体を震わせた。ひと言も聞き漏らすまいと、佐助とお仙のやり取りに気を集中していたと見える。 「今の話でわかっただろう。俺とお仙ちゃんとの間には、疾しいところなんぞねえんだ。だから組討は御破算ってことでいいな」 政之助はお仙のほうを窺っていたが、やがて不承不承に「うむ」と頷いた。 「あたしは店に戻らなきゃ。でも、政之助さんは駄目だわ。その格好じゃ、他人目につきすぎる」 お仙が許婚の風体に目を走らせた。 着物についた土はすでに乾いている。よく叩 けば、汚れが目立たないほどには落ちるだろう。けれど、手や顔には汗と混じった土がこびり付いていた。水でしっかり洗わないと落ちそうにない。 「お旗本がその薄汚ねえ面で出歩いたんじゃ、天下に一大事が起こったかと、世間が騒ぎ出すぜ。俺も手を洗わなきゃ家へ入れねえ。政之助さんも井戸で汚れを落としていったらどうだい」 佐助は、武士の体面を気遣い、政之助に提案した。 七 「ああ、さっぱりした」 政之助は井戸端で顔と手を洗い、ついでに履いていた足袋まで洗濯した。 頭上で笑まうお天道様のおかげで、政之助の着物についた土は乾いて白っぽくなり、力任せに叩くと汚れはほとんど取れた。 「何とか道を歩ける様になったじゃねえか」 佐助も水を使いながら、政之助を冷やかした。 二人がやって来た井戸は、裏長屋のそばにあった。大きな井戸なので、佐助もよく利用している。 「これで他人目を気にせず、谷中へ帰れる。おぬしには、いろいろ世話になって済まぬな」 政之助は、佐助から借りた手拭いで首の後ろをごしごしと拭った。 井戸端の日当たりのいい場所に、政之助の大きな足袋が干してある。この一角だけは日がよく当たった。いつもなら長屋の住人の干し物が並ぶ場所も、朝のうち天気がぐずついていたせいか、手拭いの一枚も干されていなかった。 足袋が乾くまで少々時間がかかる。政之助は路地の隅に生えていた草を毟り取ると、笛にして吹き出した。聞き覚えのある音色は〈お仙の手鞠唄〉のようだ。 政之助は、お仙に惚れて、惚れて、惚れ抜いている。焼餅を焼き、許嫁の周りから男を遠ざけようとする涙ぐましい努力は、傍目にもいじらしかった。 ──見た目と違って、可愛い奴なんだな。 ひたむきに草笛を吹き鳴らす政之助の姿に仄かな好意を持った。 「政之助さんは嫉妬深えんだな」 家に乗り込んできた時の形相を思い出し、佐助はしみじみと言った。 草笛を吹くのをやめ、政之助が恥ずかしそうに小鬢を掻く。 「面目ない。嫉妬は見苦しいとわかってはおるのだが、誰某がお仙に色目を使ったと聞くと、居ても立ってもいられなくなるのだ」 「あれだけの別嬪が許嫁じゃ、先行きが大変だな」 「おお、源内先生、拙者の気持ちをわかってくれるのか」 政之助が両手で佐助の手を力強く握る。己の恋の理解者が現れたのが、よほど嬉しかったらしい。いつの間に呼び方まで「おぬし」から「源内先生」に変わっていた。 「お仙は看板娘だから、言いよる輩も並外れて多い。拙者はお仙の身が心配で心配で、御役目の最中も気が気じゃないのだ」 「どこまでもお仙ちゃんに惚れてるんだな。そんなに気が揉めるんなら、早いとこ、嫁に貰っちまえばいいじゃねえか」 佐助も昨日まで政之助と同じ心境だったが、お仙を諦めた今は、好敵手を応援する気になっていた。 「もちろん早く嫁いで来いと催促しておるのだが、なかなか首を縦に振ってくれぬのだ」 政之助は不満げに鼻の穴を膨らませた。 「〈鍵屋〉はお仙ちゃんで持ってる店だから、親仁さんが離さないのかもしれねえ」 茶屋で愛嬌を振り撒いていた五兵衛の顔を思い浮かべた。 「しつこく催促すると『政之助さんに御役目があるのと同様、あたしにも大事な勤めがある』と怒り出す始末。拙者は、もう、どう対処していいのか皆目わからぬのだ……」 政之助は、しょぼんと肩を落とした。 「そりゃ、蛇の生殺しみてえだな。だが、お仙ちゃんは怒るとあんなに怖い女子だぞ。それでも嫁に貰うというのかい」 政之助と佐助を正したお仙の迫力は凄まじかった。一瞬、お仙の顔が鬼女の面に見えたほどだ。 自慢ではないが、佐助は激しやすい。もしお仙と夫婦になって、始終怒られていたら、必ずや大喧嘩になるだろう。 ところが、佐助の感壊とは裏腹に、政之助は大きく首肯し、 「いいのだ。武家の妻はあのくらい気が強くなくては務まらぬ。お仙は、きっとこの先、倉地家を盛り立ててくれるであろう」 と、でれんと鼻の下を伸ばした。 と、政之助は、でれんと鼻の下を伸ばした。 «第十二章 密談
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