身代わり狂騒曲 風花千里
第五章 連 一 「あー、まどろこしくて敵わねえ。何でだらだらした喋り方しかできねえんだ」 佐助は二階の文机の前で身悶えした。 「また源内さんの十八番が始まりましたね。その台詞は、何年も前から耳に胼 胝 ができるほど聞かされてます。これは私の癖なんだから、仕方ないじゃありませんか」 向かい側で、南畝が重ねた腕へ顎を載せて寛いでいた。 「歯切れが悪いってんなら黙ってりゃいいものを、ちんたらちんたら、よく喋ること。この調子で聞いてたら、あっという間に夜が明けちまわあ」 しばらく前から、漢詩や俳諧、戯作の指南をしに南畝が通ってきていた。 初めのうちは、南畝の後に続いて漢詩を読んだり、二人して戯れに発句を詠んでみたりした。しかし南畝はすぐに気が散り、半刻もすると世間話に興じ始める。 「そんな注意散漫な性分で、よく戯作なんか物せるな」 「家に帰ると、母が口煩いんで、独り部屋に籠ることが多いんです。たっぷり時間があるんで、戯作はその時に書きます」 南畝がふくよかな頬に苦笑いを刻んだ。新進気鋭の戯作者も母親には勝てないらしい。 「ところで、『根 南 志 具 佐 』と『風流志道軒伝』は読み終わりました?」 『根南志具佐』と『風流志道軒伝』は、先年、源内が著した談義本である。 「ああ。もっと小難しい本かと思ったら、さくさく読めちまった」 佐助は大工の修業に出される前に、二年間、寺子屋に通った経験もある。一通りの読み書きは身に付けていた。 「あの二冊は源内さんの諷刺の心がよく表れてます。一字一句余さずに諳んじることができれば、自ずと源内さんの心意気を会得できるでしょう。さて、話は変わって」 南畝は脂の浮いた鼻先を擦った。 「今日は、これから外へ出ましょう」 「どこへ行くんだ。湯屋なら、もう一人で行けるぞ」 佐助は湯屋の二階にも出入りできるようになっていた。 「知ってます。お仙ちゃんの奮闘によって眉の形を大きく変え、まつ毛も短くしたから、顔形も源内さんらしくなったし、何より家に籠もっていたおかげで、肥えて頬がふくよかになりましたからね。もうどこへ出しても源内さんで通るでしょう」 「遠くへ行くのか?」 「面白い集まりがあるんです。詩文の世界に新風を吹き込む画期的な集まりがね。そんな趣向に、時代の寵児、源内さんが参加しないわけにはいきますまい」 文机の面に両手をつき、南畝は大儀そうに立ち上がった。 二 「はあぁ、疲れた。源内さーん、この辺から駕籠に乗りましょうよ」 南畝が肩で息をしながら、弱音を吐いた。 佐助と南畝は九段を抜け、四谷へ出向く途中だった。まだ飯田町にすら差しかかっていないのに、南畝は息が上がり、道の傍らにしゃがみ込んでしまった。 「馬鹿ぁ抜かせ。こんなお屋敷ばかりの場所で、辻駕籠なんか通りかかるもんか」 神田も三河町を過ぎれば、武家屋敷の高い塀が続くばかり。人通りも多くないので、都合よく辻駕籠が通りかかる見込みは少なかった。 「源内さんは歩くのが速すぎる。私は息は切れるし脚は攣るしで、このままじゃ、どっかのお屋敷の前で動けなくなって、地蔵にでもなってしまうかもしれない」 南畝は情けなく眉尻を下げた。 「世話のかかる野郎だな。飲んだり食ったりばかりで動かねえから、ぶくぶく太るんだ。気ぃつけねえと、若いうちから脚気か痛風になるぞ。もう少しゆっくり歩いてやるから、気張ってついてきな」 佐助は手を差し出した。 その手につかまり、南畝はやっとのことで立ち上がった。 「で、これから四谷のどこへ行くんだ」 「忍原 横町です。私の俳諧仲間に唐 衣 橘 洲 って男がいるんです。橘洲は狂歌に凝っていて、来月、仲間を集めて自邸で狂歌の会をやろうと目論んでいる。その打ち合わせをしようと、俳諧連の人たちに召集がかかってるってわけです」 「狂歌たあ、何だ」 「五・七・五・七・七の形式の中に、皮肉や滑稽味を盛り込んで詠む歌です。古典を踏まえた和歌に、世の中への苦言や自嘲なんかを滲ませつつ、からっと笑い飛ばしちまおうって趣向ですね」 「言葉遊びみたいなもんか」 「端的に言えば、そうです。これからの時代は、必ず狂歌が流行ります。一緒に四谷に行って、場の空気を感じ取ってください」 疲れてへばっていたくせに、詩文の話になると、南畝は表情が豊かになる。心なしか、よたよたしていた歩調にも力強さが出てきた。 狂歌という名は初耳だった。 新味のある趣向と聞き、興味が湧いた。春信から世間の流行や最新の風俗を教えられ、大いに刺激を受けている。知らないことは何でも吸収する気になっていた。 「そんなに言うなら、一つ、狂歌の面白さってのを、見せてもらおうじゃねえか」 佐助は足元の小石をぽーんと蹴る。 石は浮かれたように大きく弧を描くと、旗本屋敷の塀にぶつかって落ちた。 三 すぐに道端に座り込もうとする南畝を宥めすかし、ようやく四谷に辿り着いた。 「立派な家だな」 傍らの南畝に囁く。目の前に小さいながらも冠木 門 が建っていた。 「橘洲さんは、田安様の家臣なんです」 「た、田安様ぁ」 南畝が慌てて、佐助の口に手を被せた。 「声が大きい。中に聞こえたら、『胡乱者!』と警固の輩が飛び出してきますよ」 周りは武家屋敷が立ち並んでいる。大声を出し、万が一不審者として捕えられたら、一刻や二刻は解放されないだろう。 田安家は、尾張・紀伊・水戸の御三家に次ぐ御三卿の家柄。八代将軍吉宗の次男宗武 を家祖とし、将軍家に後継ぎがない時は、他の御三卿とともに継嗣を出す資格を有していた。 「橘洲さんは、和学、漢学を修め、和歌の造詣も深い。田安のお殿様も国学を学び、和歌をよくされる方だから、橘洲さんの才を高く買われているんです」 「そんな身分の高い才人と、烏賊野郎……、いや、御徒の職にあるおめえが、何で知り合いなんだ」 「烏賊野郎で悪うござんしたね」 南畝は思いきり顔を顰めた。 「橘洲さんと私は、同じ内山 賀邸 先生の門人だったんです。俳諧連は身分の違いなんか、露ほども気にかけない。大名家に仕えるお侍から女郎屋の亭主まで、生まれも方便 も違う人々が集まり、分け隔てなく詩歌の世界に遊ぶ。それが〈連〉のいいところなんです」 南畝も重三郎も口を開けば〈連〉の話だ。単なる同好の士の集まりだと思っていたが、事情は違うらしい。身分の上下がはっきり線引きされた江戸の町で、〈連〉とは、どんな人々が、どのような思惑で、何をしているのか。佐助には、まだ想像がつかなかった。 「どうしました? まさか怖気づいたわけではないでしょうね。今日は、あなたの知らない人々が、たくさん来てますから」 南畝が毒気を滲ませながら冷かした。 「うるせえ! 集まってる奴らは源内とは顔見知りだったんだろう? だとしたら、俺は平賀源内として振る舞うだけだ」 佐助は痩せ我慢に見えぬよう威張って宣言すると、黒光りする冠木門を潜った。 四 南畝と共に通された橘洲宅の座敷は、広さ二十畳ほど。その広間に十人以上の人間が集まっていた。 「ようやく来たか。みんな首を長くして待ってたんだ」 座敷の中程にいた男が、南畝に向かって穏やかな笑みを見せた。 「遅れて申し訳ない。源内さんの家を出るのが遅くなりまして」 南畝が何食わぬ顔で謝罪する。己の歩みが鈍 いせいだとは、断固として言わぬつもりだ。 「源内さんも、お久し振りです。秩父からはいつお帰りで」 目の前の男が橘洲なのだろう。いきなり水を向けられ、佐助は体を固くした。 「五日前に帰ってきたばかりだ」 「今回の秩父行きで、向こうの鉱山を閉めてきたそうです」 南畝が横から口を出した。 佐助は驚いて、南畝の間のびした顔を凝視した。鉱山閉鎖の話など聞いた覚えはない。 「橘洲さんは身代わりの件を承知してますが、中には事情を知らない奴もいるんです。私が、いいように繕っときます」 南畝が耳打ちした。 「閉山の話は本当なのか」 「採算が合わなくなり、現場から休山の申し出があったんです。この話はまた後で」 南畝は話を打ち切った。 「源内さんは忙しい身だからね。秩父への行き来だけでも大変だったろう。時間ができたら再開すればいい。さ、こちらへどうぞ」 橘洲が訳知り顔で頷き、座敷の奥へと誘う。 分不相応にも、二人は床の間を背にした上座へ導かれた。 「連衆 が揃ったところで、来月に催す狂歌会について……」 よく通る声で橘洲が話し始めるのを耳の端で捉えながら、佐助はそっと周囲を見回した。 ──げっ、あれは親方。 座の末席近くで、治郎兵衛が頻りに目配せをしている。 俳諧に熱を上げる治郎兵衛だが、流行り物には敏感なたちだ。これから狂歌が流行ると聞けば顔を出さずにはおれないのだろう。 軽く会釈をしていると、佐助は左頬に妙な熱さを感じた。何気なく左へ目を転じる。 座の中程、橘洲と相対す場所に男振りの際立つ輩がいて、抉るような視線を向けていた。 「平角が来てるぞ」 佐助は肘で南畝の脇腹を突つく。 「平角さんも狂歌に興味を移しているんです」 「皮を剥ぐような目つきで、俺を見てるんだが」 「知りませんよ。気さくなようで平角さんは気難しい人ですから。そんなことより……」 南畝が区切りをつけるように、佐助の前に片手を翳した。 「来月の狂歌会の準備として歌会の真似事をするんです。手筈を説明しますから、聞いていてください」 寺子屋の師匠が小僧っ子を諭すような口調だ。歌会の場は自分が取り仕切るとばかりに、張り切っている。 南畝は、狂歌とは何ぞや、という説明から始めたが、ここに来る間に聞かされた話だった。念押しされねばならぬほど難しい内容でもない。 佐助は真剣に聞いている風を装うと、視線を再び平角へと戻した。 平角も南畝の説明を聞かずに、右にいる男と談笑している。 ──見れば見るほど、いい男だな。 面長ですっと通った鼻筋。眉は太すぎず細すぎず、しなやかで粋な感じに上がっている。ふっくらとした頬の辺りには、何とも言えない愛嬌があった。これほどの美丈夫がひとたび廓に足を踏み入れれば、四方八方から熱い秋波を送られるのは当然だ。 平角の目玉が素早く動いた。再び視界に佐助を捉える。 佐助は小さく叫び声を上げた。 しばらく睨み合う。平角の視線に眉間を灼かれるような強さを感じる。二人の間にきな臭い気配がたちこめた。 その時、口を歪め、平角が、にかーっと笑った。 不意を突かれ、佐助は慌てた。人懐こそうな平角の笑顔は憎らしいほど艶っぽかった。 五 「源内さん、わかりましたか」 南畝の声が飛んだ。 「聞いてなかったんですか。これから四半刻の時間をあげますから、一首詠んでください」 「何ぃ?」 開いた口が塞がらない。佐助は狂歌どころか、俳諧すら嗜んだ経験がなかった。 「〈本歌取り〉といって、古今の詩歌を下敷きにすると、割と簡単に詠めます」 南畝が声を殺して助言する。 「先人の詩歌の用語や語句を取り入れて、全く違う内容の歌を詠むんです。初心者が取っつきやすいのは和歌でしょう。家にある『万葉集』とか『古今集』は読みましたか」 「拾い読み程度にはな」 「その中で覚えている歌を下敷きにするんです。たとえばね」 南畝は硯箱を引き寄せた。筆を執ると、細い短冊に何やら書き付ける。一枚書き終えると、もう一枚、同じような長さの文を認 めた。 初めに書いた短冊を読み上げる。 「[桜花 散りかひ曇れ 老いらくの 来むと言ふなる 道紛ふがに]『古今集』に載っている在原業平の歌です。桜花よ、散り乱れて曇れ。老いがやって来る道が紛れてしまうように、って意味ですね。でもって、これが……」 佐助の前へ、もう一枚の短冊を寄越した。 短冊に目を落とす。紙面には、のたくたした字で歌が記されていた。 [桜花 散りかひ曇れ おいらんの 来むと言ふなる 道紛ふがに] 「何でえ、今、おめえが読み上げた歌と同じじゃねえか」 一杯食わされた気がして、佐助は鼻白んだ。 「目ん玉を磨き直して、よく読んでください。ここ、[老いらく]じゃなくて[おいらん]になってるでしょ」 「本当だ。おめえの字が汚ねえから、うっかり読み過ごしちまった。だが、だからどうしたってんだ。業平の歌とたったの一字しか違わねえじゃねえか」 「一字違うと歌の意味は根本から違ってくる。二枚目の歌は、春、吉原の仲の町に植えられる桜の見事さを詠んだ歌です。出来のほうは、よくありませんがね」 佐助は「ぶっ」と吹き出した。 「こんな馬鹿馬鹿しい歌は聞いたことがねえや。これが狂歌ってもんなのか」 「馬鹿馬鹿しい? まさに、その通り! 言いたいことを笑いに紛らわして詠む。これが狂歌の神髄です。狂歌は俳諧の滑稽味を別の方向に深めたものなんです」 南畝の声が、ひとつ大きくなった。 二枚の短冊を見比べる。よくわからないが、古今の名歌をちらつかせつつ、五・七・五・七・七の調子に乗せて面白可笑しく詠めばいいらしい。 宙を見上げつつ、本歌になりそうな歌はないかと、佐助は記憶の糸を手繰った。 六 「[百敷 や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり]」 和歌一首が佐助の口をついて出た。 ──はて? どこで読んだ歌だったか。 源内の家には夥しい数の書物がある。佐助は暇に飽かせ、わかりやすい本から順に読み漁っていた。歌集も『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』等々、書物棚の一面を使って並べられている。そのうちの何冊かを、近頃、読み始めたばかりだった。 だが、今、口ずさんだ歌は家で読んだ記憶がない。 もっと胸の底から湧き出したような懐かしい調子…… ──百人一首だ。 合点がいった。仕事に明け暮れていた父親と違い、母は詩歌の類にたしなみがあった。佐助が母の口にする歌の意味を尋ねると、独自の解釈を交えて楽しそうに説明してくれた。特に小倉百人一首は、繰り返し聞かされたから深く身に沁みついていた。 ──この歌を元にして、何か捻り出してやれ。 佐助は世話人を呼ぶと、筆と硯を借りた。 筆を構え、短冊に思い浮かんだ言葉を書きしるす。 [ももしきや 古きを立てる忍原 は 馬鹿が集まる 今になりけり] ──これで、どうだ。 手に持った短冊を眺めた。 「ちょっと来てみろ」 連衆の間を挨拶して回る南畝を呼びつけた。 「何ですか? 人が旧交を温めてるってのに……」河 豚 のように頬を膨らませ、南畝が不承不承やって来る。 「歌ができたぜ」 ぶっきらぼうに短冊を突き出した。 「ただ詠めばいいってもんじゃないですよ。捻りを効かせなくちゃ。見せてごらんなさい。おかしいところは直してあげましょう」 南畝がそっくり返る。歌のことなら、すべて自分に聞けと言わんばかり。気取った手つきで短冊を受け取ると目を通した。 「どうだ」 出来の良し悪しを尋ねたのに何の返事もない。南畝の目は短冊の面 に留 まったままだ。 「けほん」 喉に絡んだ痰を切る音がした。 「まあまあの出来じゃないですか」 「変じゃねえのか」 酷評されると思っていたので、拍子抜けだった。 「順徳 天皇の歌が本歌ですね。へえー、百人一首まで覚えたとは、すごいですねえ」 心なしか南畝の声に棘がある。どこか苛ついているような印象を受けた。 「このままでいいのか」 「ただ文字はもう少し小さく。源内さんは意外と几帳面で、短冊に書く時は字がきれいに収まるよう目配りしていました。それと狂歌は狂名で発表するんで、何かいい名前を考えといてください」 ──きょうめい? 共鳴? 嬌名? 言葉の意味がわからず、佐助は首を捻った。 「女郎に振られた野暮天みたいな顔ですね」 南畝が小馬鹿にしたように笑った。 「狂名ってのは、狂歌を詠む時に使う名前のことです。源内さんだって、俳諧や戯作、薬品会の際に、いろいろな号を使ってるでしょうが」 「風来山人とかいう呼び名のことか」 源内の著書の扉や肉筆画、焼物の裏印には、様々な号が見受けられた。 「戯作は風来山人が多いかな。雅号は鳩渓。畑が違えば、名も使い分けるんです」 「狂歌詠みは狂名を用いるってんなら、おめえも持ってんのか」 「当たり前です。私のは『よものあから』」 南畝は新しい短冊に「四方赤良」と書いた。 「へんてこりんな名前だな。どういう意味なんだ」 「『四方のあか』という酒が好きなんで、そこから取りました。さっき引いた[おいらん]の歌の詠み手は平角さんだけど、狂名は『手柄 岡持 』といいます」 「たいそう立派な名がありながら、そんな珍奇な名前を」 「手柄岡持だけじゃありません。元杢網 、蛙 面 房 懸 水 、大屋 裏住 、今日は来てませんが、あっけらかん、の朱楽 菅江 なんてのもいます」 南畝が挙げたふざけた名前が、火男 踊りのように乱舞する。大の大人が雁首揃えて、変名で狂歌を詠む。どこが面白いのか、さっぱり理解できない。 「狂名を使って、なぜ、己の作であることを隠すんだ。言いてえことがあるなら、正々堂々、本名で言やあいいじゃねえか」 「今時そんな堅い考え方は流行らない。狂歌も滑稽、諧謔味を大事にします。真正面から真面目に歌い上げるのは粋じゃないんです。題材も自由、言葉遊びのように見せかけ、当意即妙に詠むものなんですよ」 真面目が粋じゃないとほざきながら、当の南畝は大真面目だ。初学の佐助に難癖をつけられたのが腹に据えかねたと見え、鼻の穴をふくふくさせながら、早口で捲し立てる。 「みんなが狂名で歌を詠んだら、一人一人の顔が見えねえじゃねえか」 「いいんだ、個々の顔なんか、欠片も見えなくていい。連衆の想いの山、江戸を中心として巻き起こる滑稽の風。それが狂歌の正体なんだ!」 自分の言葉に酔ったように、南畝が大きく体を揺らした。 「わかった、わかった。うるさいから、キンキン声を出すな」 佐助は手で耳を塞いだ。 狂名に興味はなかったが、これ以上、南畝にせっつかれるのも面倒臭い。しばらく目を瞑り、ぽっかり浮かんできた名をそのまま挙げた。 「では、俺は『雀野鈴鳴 』にする」 「ずいぶん可愛らしい名前ですね」 「俺の死んだお袋が『鈴』って名前だったから、それを一字、貰っただけだ」 佐助は素っ気なく言って、場を切り上げた。 七 座敷に重苦しい空気が漂う。 佐助の横で、南畝が腕を組み、むっつりと押し黙っていた。 歌会の世話役にひと言、ふた言耳打ちされた途端、南畝は目を閉じて長考し始めた。佐助が話し掛けても上の空。しまいには、うんともすんとも言わなくなってしまった。 佐助はとうに詠み終えている。同席した人々と言葉を交わそうとしても、近くに見知った顔はなかった。 治郎兵衛も短冊を睨みつけ、唸り声を上げている。狂歌は得意の俳諧ほど容易くは詠めないらしい。 元親方が苦吟する様子を上座から眺める自分に気づき、佐助は奇異な感じを抱いた。 治郎兵衛は礼儀にうるさい男だ。職人時代だったなら、不届き者と叱りとばされ、翌日足腰が立たぬくらいに殴られていたはずだった。 しかし今日は元弟子が上座にいても文句をつけず、苦々しい顔で睨みつけもしない。それどころか、佐助が事情を知らぬ客たちから源内として扱われているのが嬉しくて堪らないようなのだ。 治郎兵衛から笑みかけられるたび、佐助は体を洗わずに湯屋を出てきてしまったような気持ちの悪さを感じた。 南畝が動き出さねば歌会は始まらない。退屈凌ぎに佐助は座敷を出た。 連衆の集う座敷は離れになっている。母屋とは渡り廊下で繋がっていた。 渡り廊下をぶらぶら歩く。 両側には、趣味のいい庭が広がっていた。 瓢箪形をした池の中で、白や緋の錦鯉が物憂げに泳ぎ回る。 畔には柳の木が植えられ、風に揺れる黄緑色の若葉が水面 にたおやかな姿を映していた。 老いぼれ爺のような嗄 れた声で、懸巣 が一声、鳴いた。 離れの建物を振り返った。 瀟洒な庭が目に入っては気が散るからか、離れの窓は障子が閉まっていた。 閉ざされた部屋の中、武士から職人まで、さまざまな階層の人間が膝を交える。真剣に戯れ歌を詠むという、たった一つの目的のために、だ。 狂歌は一昔前に上方で流行り、貴族的な上品さ、微笑程度の笑いが特徴だったらしい。少数いた江戸の狂歌師も、上方風の詠み方を真似ていたという。 町としての実力を備えるに従い、文化の中心は上方から江戸へ移った。学問でも絵でも、江戸独自の文化が花開いた。狂歌の場でも、上方が微笑程度なら江戸では思いきり笑い飛ばしてやろう、という心づもりがあるに違いない。 ──馬鹿馬鹿しいが、確かにそれが江戸風なのかもしれねえな。 この馬鹿さ加減を、源内ならどう受け止めたか。源内は奇抜な言動で周囲の度肝を抜いた。今日の集まりに出席していれば、面白がって突拍子もない歌を詠んだかもしれない。 自分の代わりに土の中で眠る男に思いを馳せながら、佐助は次々と水面に顔を出す錦鯉の群れを眺めた。 背後に人の近づいてくる気配を感じた。 八 「平角さ……」と、呼ぼうとして佐助は慌てて語尾を濁した。 源内の弟分なのだから、「さん」づけはおかしい。 色男の出で立ちは鳶色の羽織に、黒地で細い縞柄の小袖だった。一見すると地味ななりだが、歌舞伎役者市川團十郎にちなんだ三 升 の文様が、襟元から品よく覗いていた。 近頃の洒落者は、豪奢を戒めるお上の目を欺き、見えないところで贅沢をする。 江戸御留守居役は他藩や幕府に関する情報の収集、出入りの商人や諸侯との交際が主な職務。自藩から交際費が支給され、暮らし向きはかなり豊かなはずだった。 「歌は詠み終わったんですかい」 佐助は挨拶代わりに、差し障りのない話題を持ち出した。 「この、役立たずが」 平角が喝した。 「おぬしは源内さんの身代わりなんだろう? ならば私の師匠らしく喋んなさいよ」 平角は悪戯っぽい笑みを浮かべた。佐助の動揺を愉しんでいるように見える。 「じゃ遠慮なく喋らせてもらおう。平角は身代わりに反対の立場だったんじゃねえのか」 「そう。私にとって源内さんは死んだ源内さんだけ。身代わりなんて認めはしない」 「だったらなぜ、俺がいるのを見て『偽者』だと暴かねえ」 「強いて与太に関わる気はないが、さりとて邪魔するつもりもないのだ。やりたい奴らは精魂傾けてやればいいと思っている」 「お前ら文人の考えることは、よくわからんな」 反対だと言いつつ、平角は与太話を容認している。分別のある大人なら、本来もっと有用な方面へ精魂を傾けるものではないか。 「それにしても、短い間でこんなに源内さんに似てくるとは驚きだな」 長身の平角が、佐助の全身に隈なく目を配った。 「春信と南畝に癖やら習慣やらを叩きこまれた。近頃は考え方まで似てきたみてえだ。自分は元から源内だったんじゃねえか、と思うことがある」 大工を活計としていた頃には考えつかないような発想が浮かぶ瞬間がある。しかし、それが己の頭から生み出されたものなのか、源内の思考をなぞったものなのか、自分では判断がつかなかった。 「源内さん、平角さん、歌会が始まりますよ」 離れの障子が開いて、世話人が叫んでいる。 「歌が出揃ったんだろう。そろそろ戻ろう」 平角が手を振って、世話人に合図を送った。 「何か困った事態になったら、私のところに来い。おぬしを源内さんとは認めぬが、友人としてなら付き合えそうだ」 柳の若葉のような清々しい笑顔を見せると、平角は離れに足を向けた。 九 連衆は思い思いの格好で寛ぎ、歌会の開始を待っていた。 最前のように筆を握り締めて唸っている輩はいない。皆、歌を詠み終えたようだ。 「お二人とも戻られたか。では、さっそく始めましょう」 真似事とはいえ、初の狂歌会で心弾むものがあるのだろう。橘洲が昂揚した声で告げた。 「会の進行は四方赤良に一任します。赤良さん、いいですか。おやっ、どうしました」 橘洲の声色が一変した。皆が橘洲の視線を辿る。 「あっ、痛ったたた……」 座敷の隅で、南畝が腹を押さえて蹲っていた。 座が色めき立つ。 下手にいた治郎兵衛が立ち上がった。南畝の傍まで来ると、心配そうに覗き込んだ。 「具合が悪そうだな」 「ううっ、ちぃと腹が差し込んで」 南畝が強く顔を顰めた。吐息が荒い。時折、鞠のように体を丸め、小さく肩を震わせる。 「弱ったな、どうするかい」 治郎兵衛が橘洲を振り返る。痛みで話もできぬ状態では進行役は務まらない。 その時、平角が南畝に歩み寄った。 「しっかりしろ」 と励ますと、南畝の背が、びくん、と動いた。 「幸い、近くに名医がいる。途轍もなく苦い薬を処する医者だが、効き目は早い。今、呼びに行ってやるから、少し辛抱しろ」 「い、医者を呼ぶほどじゃない」 南畝が腹を押さえたまま、平角を遮った。 「差し込みぐらいと侮ってると、命取りになるぞ。橘洲、戒行寺門前に庵を構える周斎先生へ使いをやってくれないか」 「差し込みはいつものこと。それより橘洲さん、済まないが、駕籠を呼んでください。今日は家に帰って休みます」 南畝は額に脂汗を滲ませながら、橘洲に請うた。 平角が橘洲に何か耳打ちする。 橘洲は合点がいったというように何度か頷いた。 「お集まりの皆さん。赤良がこの調子では会の進行はおぼつかない。詠んでもらった狂歌は一月後の本会で御披露いただくとして、今日はお開きにします」 連衆は一様に同意を示した。 女中が下男を二人、従えてくる。若くて恰幅のいい男たちで、目方が二十貫を超す南畝を介抱するにはうってつけの人選だった。 下男は両側から抱きかかえるようにして、南畝を隣室へと連れていった。 十 「途中まで一緒に帰ろうじゃないか」 帰り支度をしていた佐助に、平角が声を掛けた。 南畝は駕籠を呼んでもらい、一足先に牛込の自宅へ帰っていった。 「おめえも乗物で帰るんじゃねえのか」 佐助は平角の背後に控える供の小者らを顎で示した。 「たまには、ぶらぶら歩いて帰るのもよかろう」 平角は思わせぶりな笑いを浮かべた。 連れ立って橘洲宅を出る。平角と佐助が並んで歩き、その後ろを留守居駕籠が、乗客不在のまま従いてくる。供の小者らは、所在なさげに駕籠の両側に付き添っていた。 忍原横町を抜け、広い通りに突き当たった。右に折れて、四谷御門を目指す。 「南畝の奴、悪い病じゃねえといいがな」 烏賊野郎の苦しみようを思い出して呟いた。南畝は呆れるほど食い意地が張っている。おおかた食中 りにでも見舞われたのだろうと、佐助は勝手に診立てていた。 「あれは仮病よ」 平角が、眉一つ動かさず断じた。 「どうしてわかるんでえ」 「医者を呼ぶと聞いた途端、大慌てで遮ったろう。あいつは薬が大の苦手なのさ」 苦さに耐えられず、薬を飲むくらいなら死んだほうがまし、と言う薬嫌いは多い。 「何で仮病なんか使ったんだ」 南畝は進行役を任された。務め上げれば、狂歌師としての評判はさらに上がったはずだ。 「面白い歌が創れなかったのよ」 「えっ、歌が詠めなかったくらいで、あんな派手な騒ぎを」 「つまらん歌を披露したら、奴の評価は一気に下がる。『寝惚先生文集』が売れちまったおかげで、次はどんな面白可笑しい趣向を見せてくれるのか、と、南畝の一挙手一投足に世間の注目が集まっているのだ」 「周りの期待に応えられないと思ったから、仮病を……」 佐助は道端に植わった欅の木に目を移した。瑞々しい若葉の間を縫い、光が屈折しながら地面に届いているのが見える。 「物書きとして恥を掻くぐらいなら、仮病だろうが雲隠れだろうが、奴は何だってするさ」 「たかが歌一つ詠むのに、そんな苦労がいるのか」 軽口を叩く薄っぺらい男だと思っていたが、軽口を叩くにも頭を捻らねばならないとは。 南畝の意外な一面を知り、佐助は憐憫の情を催した。 「だから心配は無用だ。来月の本会には、家で練りに練った自信作を携えてくることだろうよ。ところで、今日の集まりは面白かったか」 「俳諧も狂歌も今まで縁がなかったから、小金持ちの道楽が、こんな大掛かりな催しになってるとは、ちっとも知らなかったぜ。だが、面白かったかと問われれば、面白かったと言うしかねえ。座の燥 ぎっぷりは尋常じゃなかった」 連衆の浮かれ模様は、佐助の中に強烈な印象を残した。 「平角は〈連〉に顔を出すようになって長いのか」 「俳諧は長いな。橘洲に誘われて狂歌を詠み出したのは最近だ。この先、狂歌の〈連〉も次々と出来ていくだろう」 「どこが面白えんだ」 「俳諧でも戯作でも、斜に構えてすかしている上方風が苦手なのだ。そこへ出てきた狂歌という〈吾妻育ちの和歌〉の潔さ。何でも冗談にして笑い飛ばすところに惹かれちまった」 「変梃な狂名なんかつけて、詠み手を隠すのが潔いのか」 非難でも嘲笑でも、詠みたい主題があるならば、表立って詠めばいいと佐助は思う。 「詠み手が誰かなんて瑣末なことはどうでもいいのだ。〈連〉の中では、湧き起こる様々なうねりが合わさって一つの大きな動きになる。その動きこそが江戸文化の正体だ。いい例が多色摺りの手法だ」 「多色摺り……源内と春信が編み出したって方法か」 木版画は絵師の他に、下絵通りに木版を彫る彫師、木版に色を載せて摺る摺師がいて、初めて出来上がる。従来の木版画は単色あるいは、せいぜい二色くらいしか使えなかった。 「俳諧の〈連〉には、旗本の御殿様や学者、文人などが集まっていた。そこで源内さんは、もっと多くの色を使って版画が摺れないかと問うたのだ。連衆から様々な妙案が出て、多色摺りの手法が完成されていった。だから正確に言えば、多色摺りは源内さんと春信さんだけで創り上げたのではない。〈連〉の総意で生み出された手法なのだ」 「なるほど。江戸発の文化か。そう言われると、何だか心が躍るな」 佐助も生粋の江戸っ子だ。生まれ故郷を愛 おしむ気持ちは人一倍強い。 「そうだろう。〈連〉の奴らも、皆、同じ昂りを持っているんだよ」 平角の声もまた、逸り立つような熱気を帯びていた。 四谷御門が見えてきた。 「私は下谷へ向かう。また会おう」 快活に別れを告げると、平角は待たせてあった駕籠に、颯爽と乗り込んだ。 佐助は、舁夫に担がれた駕籠が左手へ折れていくのを見送った。 御堀の方角から、湿気を含んだ強い風が吹いてくる。木々の梢が、ざわざわと胸騒ぎのように鳴る。 吹き寄せる風をまともに受けながら、佐助は独り歩き出した。 «第六章 工房
»序章 源内死す | »第1章 佐助の憂鬱 | »第2章 葬式 |
»第3章 修業の始まり | »第4章 重三郎の懸念 | »第5章 連 |
»第6章 工房 | »第7章 吉原詣 | »第8章 扇屋 |
»第9章 夢 | »第10章 狂乱 | »第11章 果たし合い |
»第12章 密談 | »第13章 甦る源内 | »終章 旅立ち |
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