しばしお待ちを...

2013年3月4日月曜日

ひとり兎園會 5 「蜘蛛」/ 齋藤幹夫

 ひとり兎園會 ―其之伍 蜘蛛―                 齋藤幹夫

文化元子年、吟味方改役西村鐵四郞、御用有レ之、駿州原宿の本陣に止宿せしが、人少にて廣き家に泊まり、夜中にふと目覺めて、牀の閒の方を見やれば、鏡の小さきごとき光あるもの見えける故、驚きて、(中畧)燈火など附けんと周章せし。右の(その)もの音に、亭主も燈火を持出て、彼の光ものを見しに、一尺あまれるくもにてぞありける。打寄りて打殺し、早々外へ掃出しけるに、程なく湯どのの方にて、恐ろしきもの音せし故、かの處に至り見れば、戸を打倒して、外へ出しやうの樣子にて、貮寸四方程の蜘のからびたるありける。臥所へ出しも湯殿に殘りしも同物ならん。いかなる譯にやと語りぬ。           「耳嚢」巻之五より(文中括弧は引用者)
 羅馬教皇ベネディクト16世が「自らの意思で退位」することを表明し、1294年のケレスティヌス5世以来719年振りであると、 全世界の加持力カトリック教徒のみならず、世間を騒がせたのは記憶に新しいが、ベネディクト16世のひとつ前の羅馬教皇ヨハネ・パウロ2世が1996年10月23日に教皇庁科学翰林院 アカデミ—に対して公式に述べた声明よりは、 私にとって衝撃 ショックは少なかった。
'Aujourd'hui, pres d'un demi-siecle apres la parution de l'encyclique, de nouvelles connaisances condesuisent a reconnaitre dans la theorie de l'evolution plus qu'*une* hypothese.'
 上記、 仏蘭西語の声明文。 簡単に云えば「1950年8月12日に公布された回勅『Humani Generis(人類の起源)』 から半世紀経っ
て、新たな知識を得たわれら羅馬加持力ロ—マ・カトリック教会でも所謂科学の云うところの『進化論』をひとつの仮説として認めよう」と云った要旨の声明である。ガリレオの「地動説」から端を発し、あくまでも「太初に聖書ありき」の教義を覆させ得るものに対しては断固阻止、時には弾圧をも辞さぬ立場をとり、ダーウィンの「種の起源」発表の際にも、そんなこと発表されたんじゃあ、私らの存在自体が根本から覆されてしまうではないか、と云わんばかりに「神の創造物としての人間」という教義を頑なに守り通そうとしてきた歴史から見ても、この声明は驚くべきものであった。ただ、「そこには神の御意志が関わり給うのは動かざる真理」と言わずもがなの部分があったうえでの認識であると私は思うが、さてどうだろう。
 ダーウィンの進化論は問題点が多くあるが、その礎を築いたことは偉大なる功績である。後のグレゴール・ヨハン・メンデルの遺伝子の法則の発見により、後年の遺伝子学は更なる躍進を見せ、現在では遺伝子レヴェルでの進化の研究がなされるようになった。それまで昆虫や蜘蛛、百足、蠍、蟹、海老等の節足動物の進化系統は謎とされていたが、 2010年に亜米利加の研究チームが遺伝子解析の結果、その謎を解明したとする。その発表によると昆虫などの六脚亜門の出現が最も新しく、兜蟹や蜘蛛、蠍といった鋏角亜門が最も古いという。これまでに蜘蛛の化石も数多く発見され、最古の化石は英 蘭 威爾斯イングランドウェ—ルズ地方で発見された4億2千年前のもので体長は1.35ミリで非常に小さい。Megarachneと呼ばれる60  センチ程もある蜘蛛の化
石が発見されたこともあるが、現在ではこれは海蠍の類の化石であると解った。因みに現代に於いての世界最大の蜘蛛はゴライアス・バードイーターともゴライアス・ピンクフット・バードイーターともサントメ・ジャイアント・オリーブ・ブラウン・バブーン・スパイダーとも云われ脚を広げると30糎程にもなり、何れも大土蜘蛛科。徘徊性の蜘蛛に於いて国内では、南西諸島固有の大走蜘蛛を別にすれば脚高蜘蛛が最大となり、 大きいものでは13糎(CDの直径が12
糎)を超えるものも。
 実を云うと私はこの脚高蜘蛛が怖い。ここまで中中本題に入らずに長長と前置きをしていたのも話題に触れるのに逃げていたのに他ならない。ならば書かねばいいのではと云う御意見もあろうが、謂わば「怖い物見たさ」であり、書くということは「怖いもの触れたさ」といったところで、恐れを抱く物に対しての業であると捉えて貰いたい。その業には映画鑑賞も含まれ、古いところではクリント・イーストウッドも出演した『世紀の怪物タランチュラの襲撃』('56)から所謂「お馬鹿映画」と云われる『ジャイアント・スパイダー大襲撃』('75)、そしてスティーヴン・スピルバーグ製作総指揮の(Arachnophobia=蜘蛛恐怖症という言葉を知った)『アラクノフォビア』('90)。『スパイダーパニック』('02)では大量の大蜘蛛に鳥肌を立てながら観てしまうくらい。映画ばかりではなく、スティーヴン・キング(彼も大の蜘蛛嫌い)の『IT』や、先の『耳嚢』における大蜘蛛の怪異や『平家物語』の「剣巻」等、読み物にも目を通さねば気が済まないのも私に課せられた業のひとつ。『耳嚢』の蜘蛛は一尺、『平家物語』の蜘蛛ときたら四尺、それを想像しながら読むにあたっては、全身総毛立たせ、読み終わった後も暫くは眠りにつけない。そういえば『ゲゲゲの鬼太郎』のテレヴィ・シリーズ第2期('71)15話の「牛鬼」(実際には蜘蛛の妖怪ではないが、その形状から私には蜘蛛を連想させられてしまった)はこれ以上に無い程に蜘蛛の恐怖を植え付けさせたものとなっている。
 昔の図鑑には日本全国に分布と書かれていて、子供ながらに、安住の地はこの国には無い、と途方に暮れていた時期もあった。今では、関東以南の太平洋側に生息とか福島県や茨城県以南であるとか云われており、私の住処も生息域に入っているが幸いにも出たことはないし、近隣の知人に聞いても見たことがないと皆一様に答えるので一先ず安心している。しかし神奈川県在住の知人によればそこには生息しているらしい。平成10年には石川県で発見されたと新聞に載り、温暖化が影響なんて事も云われているから、夜通し蝉が鳴いている地域にあるわが家に出現する日が明日にでも迫っているのではないかと、心落ち着かぬ日々を過ごしているのは正直なところ、なのだが、生態学ではない方の「Ecology」と云うものに身を捧げるつもりは毛頭無い(生態学者でもないのだけども)。
 目を背けるには一旦はその対象物を目に捉えねばならず、そうでなければ気が付いていないというだけ。しかしながら人は嫌いなものや不快なものにこそよく目が行くもので、私の場合は脚高蜘蛛がそれであるが、目を背けることは出来ない。それどころかそいつを見据えたまま、身動きひとつ出来なくなる。奴らは、夏の、それも雨が降ったじめじめとした夜によく出没する。部屋に入り電灯を点けると、天井と壁の境辺りにその禍々しい姿をへばりつけている。母には「蜚蠊ごきぶりを捕ってくれるから、殺すな」と云われていたが、冗談じゃない、益虫というのは解ってはいるし蜚蠊も不快だが、脚高蜘蛛は怖いのだ。殺すなり、外に放り出すなりしなければ、その部屋にいるどころか家にすらいたくはない。ドラえもんが鼠一匹のために地球破壊爆弾を使おうとした気持ちも解る。極真空手を多少なりとも齧り、毛も生え揃った頃の私は脚高蜘蛛を目にすると、普段は出ない、恐怖から来る震えによるビブラートを加えたアルト辺りの声で「お父さん!」と叫んでいたものだ。その声を聞いた父は、何の為に呼ばれたのかを既に了解済みで、無言のまますたすたと部屋に入ってきて立ち竦む私の視線を追い、奴を見付けるなりむんずと手掴みにし、窓を開け外に放り投げ、ものも云わず部屋から出て行く。その後姿は広く大きく威厳に満ち、恐怖と安堵で目に涙を溜めていた私の目には光り輝いて見えた。
 昆虫地球外生命体説というものがあるらしく、一笑に付しながらも結構楽しんでしまう私だが、これを、口角泡を飛ばしながら力説する輩等には、脚高蜘蛛とは違い俄然強くなるので御注意願いたい。でも、蜘蛛が地球外生命体と云われたら「ああそうなのかも知れない。だってあんなに怖いんだもの」とすんなり納得してしまいそうな自分が心底情けないやら、悲しいやら、愛おしいやら。

          ひとり兎園會 ――其之伍 蜘蛛―― 閉會

0 件のコメント:

コメントを投稿