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2012年10月10日水曜日

蟲雙紙 004 「三月三日…」/ 風花銀次

 蟲雙紙〈四〉        風花銀次

三月三日、うらうらとのどかに照りて、いま咲きはじめたる桃の花に蜜蜂など、いとをかしきこそさらなれ。根方の土のなかにまゆごもりたる天蛾すずめが、翅の廣ごりたるおのがすがたをゆめにみて身じろくこそをかしけれ。
さくらの花おもしろう咲きたるといへど葉のなかりけるはわろし。やまざくらなど葉がくれにすこしく咲きたるこそ、いみじうをかしけれ。「あ、あれにひときはおほいなる花が」と家人のおどろきゆびさすかたを見れば、翅をやすむる羽化したばかりなる大水靑蛾おほみづあを、いとをかし。
 三月三日ったって太陰太陽暦、いわゆる旧暦でなくちゃここに書いたようなことはなかなかなかろうと思われるわけで、たとえば二〇一三年なら新暦四月一二日が旧暦三月三日にあたるから、ちょうど桃の花が咲く頃になります。
 花が終わっても日本蜜蜂は桃の木を訪れ葉の付け根を舐めまわしたりいたしますが、これは葉柄に外蜜腺がいみつせんてのがあって甘い蜜が分泌されているから。
 桃に言わせると(言わないけど)受粉のお手伝いをしたご褒美の後払い分てわけではないそうです。蟻を呼んで害虫を追っ払ってもらおうという魂胆だとも漏れ伝わりますが、果樹農家の方々のご苦労を拝見していると、そんなに簡単なもんでもなさそうだけど。
 だってね、烏野豌豆からすのえんどうなんかにも花外蜜腺があるんですが蚜虫あぶらむしがぎょうさんたかって枯らしちまい、かつ蟻と蚜虫はとても親密そうなんだよね。
 はい、天蛾は繭を作らない、なんてことは承知してますが、「まゆごもり」は本来の意味から転じて「少女が深窓にこもっていること」なんて古語辞典に見えますから(少女でなくちゃだめなのか、はしらないが、美少女希望)、 もう一回転んじまって虫が繭ならぬ蛹室にこもっていることを述べたとしても、まあ問題ないんじゃなかろうかと思います。
 桃を食樹とする天蛾には桃天蛾ももすずめ大霜降天蛾おおしもふりすずめなどがいて、いずれも美しい翅を持っていて、ビロードの漢字表記は天鵞絨よりも天蛾絨にしたほうがいいんじゃないかと思うくらいです。
 ああ、なにも染井吉野がいけないてんじゃないんですがね、ばかみたいにどこもかしこも染井吉野だらけにして、染井吉野にあらざれば桜にあらず、てな感じになると、ちょいとお待ちよ、と言いたくもなろうってもんじゃございませんか。
 桜は薔薇目薔薇科桜属の植物の総称で、日本では野生種が九種あり、交配等改良した園芸品種を含めると六百種以上にのぼるとのこと。うち半分の三百種が江戸時代までに存在していた、つまり作出されていたとのことだから、あたしら日本人てものは、ほんとに桜を好いてるんですね。しかし野生種はほとんど見向きもされず、他の園芸品種もぞんざいにあつかわれ、江戸末期に作出の染井吉野が日本中を覆い尽くしてるってのは、なんだかなあ、と。こんなことでも多様性なんてしょせんお題目にすぎないと思っちまうんですね。
 山繭蛾科の大水青蛾は妖精とも称えられる美しい蛾で、学名の種小名には月の女神アルテミスの名が与えられてます。成虫の出現期は四月から八月頃で二化性。
 そんで、ずいぶん昔のことだけれども、大水青蛾を累代飼育している女の子が近所にいるらしいと聞いて、うっかり惚れそうになっちまったんですが、はてさて、どこのどんな子やらはついぞわからずじまいでした。

1 件のコメント:

  1. 【現代語訳】
    三月三日はお天気もよくて、咲きはじめたばかりの桃の花にミツバチがきたりして楽しいのは言うまでもないけど、桃の木の根元の土のなかで蛹になっているスズメガが、美しい翅を広げた自分の姿を夢みて身じろぐのもおもしろいわ。
    桜の花は美しいけど、葉がないのはいただけないわね。山桜みたく葉にかくれておくゆかしく咲いているほうがずっとステキ。「あ、一段と大きな花が」なんていってウチの人が指さすから見てみたら、羽化したばかりのオオミズアオが翅をやすめていて、とても美しかったの。

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