仁丹塔 齋藤幹夫
浅草にまた十二階が建つらしい。夕涼みがてらに見に行こうと、その日突然祖父の惣吉は当時七歳の父惣一郎に云ったという。十二階とはかつて明治大正期に同じ浅草に隆隆と聳え立ち、江戸川乱歩も『押繪と旅する男』の中で、 あれは一體、どこの魔法使ひが建てましたも のか、實に途方もない變てこれんな代物でご ざいましたよ。 と語り、大正十二年九月一日の関東大震災で崩壊した凌雲閣の通称である。惣一郎が見に行こうと云ったのはそれを模して建設途中の、後に「仁丹塔」と呼ばれる広告塔で、昭和七年にも一度建てられたのだが、戦時中、昭和十六年の「金属類回収令」の発令により翌年に解体された。それが戦後の今日に再建されると云うのである。出来上がっても無いものを見に行ったって何が面白いものかと祖母は云ったが、惣吉は「女っつうもんはてんで浪漫ってぇものが無ぇ」と聞く耳を持たず、子供であった父にしてみれば黄昏時からの外出と云う高揚感と、惣吉の「晩飯は要らん。浅草で天麩羅でも食ってくる」の一言で凌雲閣でも仁丹塔でも建設途中であろうが無かろうが如何でもよかった。然しながら祖母にしてみれば浪漫云々ではなく、「こんな時に外出なんて控えたらどうです」とその後に続いて出た言葉の方が真意であったようだ。 後に仁丹塔と呼ばれる建設中の物は足場が組んであるだけで、確かに面白いものではなかったが、路上の香具師の啖呵がいよいよ大音声となる夕闇が迫り、忍び寄る夜闇に抗う浅草六区の極彩色の看板を見ているだけでも心が躍る。鍔広の帽子を被った洋服の女や、開襟シャツで扇子片手に歩く男、それについて行く着物の歩幅狭く歩く婦人など、その通りに行き交う人々を見ているだけでも浮立ち、着流しに何故かシャッポーを被った者とすれ違った時は、何度も振り返り堪らず声を出して笑ってしまった。更にはこの先にあるという安達ケ原が、それが吉原花街に子供達を近づけさせまいがための大人達の誤魔化しであると当時の惣一郎にしてみれば知る由もないが、恐ろしくも魅力的な想像を掻き立てた。 惣吉は畳屋を生業とする家の長男として生まれた。本好きの少年で、曾祖父に「本を読んでても飯は食えねえ。暇があるんなら包丁の一つでも研ぎやがれ」と何時も怒鳴られ、内心不満たらたらだが口にすればすぐさま鉄拳が飛んでくるので不承不承手伝ってはいた。暇さえあれば畳屋の仕事を覚えさせる曾祖父ではあったが、一度だけ件の凌雲閣へ連れて行ってくれた事があったと云う。普段は仕事一本やりの曾祖父が連れて行ってくれた凌雲閣のその時の嬉しさときたら堪らなかったらしく、惣一郎が物心ついた時から理解していなかろう事もお構い無しに、高村碎雨の「にほひ」や啄木の『一握の砂』にも出てくるのだとかと、併せて聞かされていた。惣吉がその時の嬉しさをわが息子にも同じように味あわせてやりたいと思ったのか知らないが、今建てている十二階が出来たらまた連れてきてやると、天麩羅を肴に呑む一級酒に赤らませた顔を近づけて語った。おそらくは無理やりやらされる家業の手伝い、そして戦争と、喜びの希薄な少青年期を過ごしてきたのだろう。青年になった惣吉は曾祖父と二人で畳屋を切盛りするようになる。やがて戦争が勃こり、兵隊となったが幸いにも生きて敗戦を迎える。戦後の混乱の中で出来る事と云えば畳作りだけで、最初は鉄拳が厭で覚えさせられたものであったが、結局それが身を助ける事になり上野に畳屋を開いたのだと昔話に一区切りをつけた。戦後の復興と相俟って畳の注文も少なからず、この時もどこぞの屋敷の仕事が上がり御祝儀も弾んでくれたらしく、やっと明るい時代がやって来たんだ、こんな時くらい楽しまねぇとなと呵呵大笑した。 天麩羅屋と云っても大衆食堂がうちは天麩羅しか置いてないよ、と謳っているような店である。畏まるような店ではないが、それでも普段から外食などに慣れていない、それも七歳の子供には妙な緊張感を与える。そんな事など惣吉には解ろう筈もなく、海老をもっと取ってやろうかと云いながら、返事も待たず自分の銚子も併せて注文し、「お待ちどう」と運んで来た女中に「この辺も開けてない店が結構あるね」と声を掛ける。 「ええ私もね旦那さんにお店開けるんですか、って聞いたんですよ。でも、うちのような店は開けてなんぼだ、大丈夫だって。私ぁ怖くって怖くって。今日の夕方には品川や大田の海っ縁に避難命令が出されたってラジオの臨時ニュースで云ってたって、さっき来たお客さんが」 「そりゃぁ昨日の今日だ、用心に越した事ぁ無ぇって事だろうよ。なにせ品川辺りはB29が通った後より酷いなんて云ってるからね。でも旦那さんの云う事に間違いは無ぇさ。今の兵隊も戦争中の兵隊とは力が違うさ」 「そうでしょうけど、万が一って事があるでしょう。何とか団とか云う破落戸も出回っているって云うし、一人で銭湯に行くのもおっかないですよぅ」 「うん、ご婦人がたにとっちゃおっかねぇやなぁ。昔イギリスに出たって云う切り裂きジャックも目じゃ無ぇくらい怖ぇなぁ。」 切り裂きジャックが何の事だか解らなかったのか女中は「はあ」とだけ応え、次上がったよ、とおそらくはその旦那さんに呼ばれ奥に行ってしまった。大人達の会話がひと段落したところで惣一郎は、追加の海老天と天丼の露の滲みた白米をさも旨そうに頬張りながら、今頃母親は一人留守番をしている事を惣吉に云ってみた。 「気に掛ける事は無ぇ。奴さんは嬶連中と明日だか明後日だかに芝居に行くんだとよ。そん時皆して洋食を食ってくるってよ。ビフテキでも食ってくんじゃねぇのか」 惣吉の云う十二階の眺めが見られないにしても、惣一郎には惣吉とのこの外出が楽しくて仕方がなかった。楽しすぎるから一人家に残してきた自分の母に何か申し訳ないやら、妙な罪悪感さえ覚えてしまっていたのだが、今の惣吉の一言で随分と楽になり、その時はビフテキとやらも食べたいと思ったらしい。 「満腹か。何かまだ食べたいものがあるか。無ければ帰るぞ」 とまたも返事も聞かず先程の女中を呼び勘定を済ませる。 「ゆっくり湯に浸かってそれこそ命の洗濯だ。これで風呂上がりにサイダーでも飲みな」 と受け取った釣銭の中の小銭を幾枚か女中に握らせた。さてのんびり涼みながら歩いて帰るかと云われたが、その日は夕方から靄が立ちこめ蒸し暑く夕涼みにはならない晩であった。御馳走さん、と店の奥に向かって声を掛け、暖簾を潜り天麩羅屋を出ると、幽かに揺らめく靄の中から、惣吉にしてみれば魂を悪鬼に持って行かれそうな、惣一郎にしてみれば初めて耳にするがそれでいて尋常な状況で無い事が伝わる、空襲警報にも似たサイレンが突如として響いた。 「お姉さん。ラジオ、ラジオ」 再び店の中へ暖簾を潜りなおした惣吉は大声を上げる。女中の耳にもサイレンの音は届いていたらしく、盆を胸に抱えたまま真っ青の顔で立ち尽くしていたが、惣吉の大声でわれに返りラジオの許へと走った。 「ああもう、ここは近所のネオンサインやらで入りが悪いんですよ」 と恐怖と苛立ちをラジオに八つ当たりするかの如くつまみを右へ左へと回す。 「*戒指令部発表、警戒**部発*――二十時***警戒警報発令――目下、***は文京*を北北東にむ****模様――台東***川区、足*区、墨****飾区、江戸川区、江**には完*退避*令が発***ました。もう一*繰り返**す。警戒警報発令*」 途切れ途切れだが緊急の報がラジオから店にいる者に伝わり、ほらぁ云わんこっちゃない、と女中の甲高い声を合図に店の客達は箸や猪口を放り投げて暖簾の外へと雪崩れ出た。当の女中はおろおろと右往左往しているが、ラジオの前から一向に離れていない事にも、雪崩れ出た客達が勘定を済ませていない事にも気付かない。店の主は女中の名を呼び、先に避難しろと厨房から顔を覗かせ大声を上げた。 「すまんがこの子を一緒に避難所まで頼んます。私ぁ上野の方を見てくる。これがうちの店の住所なんで」 と惣吉はいつの間にかに上野の畳屋の住所を書き殴った紙切れを女中に渡すと、先の客の後を追って店の外へと飛び出して行った。避難所っ、と再び甲高い声を上げたが未だその場から動けずにいた女中の横で惣一郎は「家に帰らなければ」と思い、惣吉の背中を追って店の外へ飛び出してしまった。女中は咄嗟に惣一郎を捕まえようとしたが叶わず、それが切っ掛けでラジオの前から動く事が出来、避難って何処、と叫びながら店の外へ飛び出す事が出来た。 天麩羅屋の並ぶ通りの蕎麦屋や飲み屋、あらゆる建物からの出てくる人々が巣の中から湧き出る雀蜂のようであった。警報のサイレンが響く中、消防車やパトカーのサイレンも絡み、怒号や悲鳴、警笛が耳を聾し、すでに行李を背負っている者、赤ん坊を背に手を引いている小さな子に何やら怒鳴っている母親や、浴衣の前がはだけて喚きながら走っていく者に混じって消防団の若者達が走り乱衆行動然としていた。布団や箪笥、果ては人間までも詰め込んでいるオート三輪の脇を通り抜け、仏壇通りまで出た処で惣一郎は惣吉の背中を見付けた。近付くと、上野はどうなっている、未だ燃えちゃいないがこのまま行ったら危ねぇ等と上野の方から逃げて来たと思しい男と話しており、そこへ声を掛けると驚いた顔で振り向き、そして邪魔者でも見るような眼で睨み付け、ちっと舌打ちをして付いて来ちまったもんは仕方ねぇ、絶対手を離すなよと惣一郎の手を握りしめた。 「東京の東側は軒並み完全退避発令が出ちまって、何処に逃げりゃ良いのか見当も付かねぇよ。兎に角じっとしてねぇこった。でも上野に向かうのは止しねぇ。」 と惣吉と話していた男は「すまねぇが行くぜ」と上野から遠ざかって行った。そうは云うが行かねばなるめぇ、とぼそっと口にした惣吉は惣一郎の手を引き引き上野の方へ向って駆け出した。暫く行くと上野方面から来る人の波で先に進むのが儘ならなくなり、通りの端へと寄って身を交わしながら上野の方を見るとその上空の靄が橙色に染まっていた。そして今度は青白く照らされすぐに橙色に戻り、戻ったかと思うと急速に紅く染まり始め地上からは紅蓮の炎も覗き始めた。上野の方から此方へ流れてくる人波は勢いを増し、消防車も燃えている方とは逆に逃げて来ている。人波の後方から大声で「上野は駄目だ。やられちまった」と誰かが叫んだのを皮切りに悲鳴や怒号が一際大きくなり、流れは一瞬にして怒涛となって惣吉と惣一郎を飲み込み、終には繋いだ手も外されてしまった。惣一郎が惣吉を呼ぶ声は乱衆行動の、否最早動物の暴発行動とも云える状況下では、発した自分の耳にも聞こえぬ有様で、小さな体躯は流されるのみが唯一の術であった。脚が棒のようになっても自分の意志では止まる事も、かと云って人波を掻き分ける事も出来ない。倒されて踏み潰されまいと思うのが精一杯である。次第に流れにも乗る事が出来ぬようになり、到頭通りから外れる路地の方へ押し出されてしまい、それ以上歩く事も立っている事も出来ずその場に坐り込んだ。大荷物を持たない身軽な者たちが坐り込んでいる子供なんぞに目もくれず通り過ぎて行き、逸れた父の事、上野に残った母の事を思うと涙が溢れて来た。膝を抱え突っ伏し、膝頭に眼を押しつけても涙は次から次へ溢れて来て、他に如何する事も出来ない。長い時間涙は止まる事を知らず、歯を食い縛っても嗚咽は漏れ頭の中に鳴り響き、「坊」と消防団の若者が声を掛けて来たのにも気が付かなかった。消防団の若者は繰り返し、声を大にしながら呼び掛け三四度目にやっと顔を上げた少年に向かって云った。 「逸れたのか。ここいらももういけねぇ。早く、こっちだ」 惣一郎は手を取られ無理矢理立ち上がらされると路地の奥へと引っ張って行かれた。暫く走ったが、若者には子供の手を引いているのが足枷となり、業を煮やし一旦立ち止まりると惣一郎を右手に抱きかかえ再び走り出す。惣一郎は振り落とされまいと首にしがみ付き、若者の荒い息遣いを耳にしていた。路地を抜け、先程とは違う通りに出るとそこは逃げる人波も引いており、怪我をして倒れこんでいる者や坐り込んでいる者しかいない。その光景を前に若者は立ち止まり呼吸を整えていたが、惣一郎は若者の呼吸音に紛れて聞こえる地響きを、それが此方に近付いているのを感じた。若者もそれを感じたのか「拙いな」と呟き、三度駆け出した。地響きは最早耳ばかりでなく骨の髄にまで響くようになり、金属音とも獣の咆哮とも違う、発する物の憤怒としか言いようのない大音響が空気を引き裂いた。惣一郎は若者の背後に流れる地面から、視線を上へ上へとやる。天空を覆い隠すほどの巨きなモノを見止め、そこで記憶がふつりと途絶えてしまった。 気が付くと惣一郎は何処かの校庭に敷かれた茣蓙の上に寝ていた。傍らには膝を付き、身を乗り出して覗き込む惣吉と寄った天麩羅屋の女中がいた。 「あら気が付いた。良かった、良かった。お父ちゃんとは逸れちまったんだねぇ。ここに消防団の人があんたを抱えて来たのに丁度出くわしてね、驚いたのなんのって。急に飛び出すもんだからもう、あんたのお父ちゃんに頼むって云われてたのにあたし、心配してたんだよぉ。ああ、でも本当に良かった」 と一気呵成に喋り、惣一郎の方から父を見なかったかと訊くまでもなかった。周りを見渡すと避難して来た人々が大勢いて、途方に暮れた体である者は坐り込み、ある者は倒れ込み、東の空が白々と明るくなりゆくなか、夜の暗さが残る西の空に地上の炎に照らされながら広がってゆく煙を見つめていた。 その日の昼過ぎに惣一郎は女中に連れられ、上野にある自宅の畳屋へ向かうべく避難所を後にした。一夜のうちに周りは見ず知らずの町に一変し、異様な臭いが立ち込め、倒壊した建物や燃え続ける家屋、散乱した瓦礫が道、辻を塞いでいる。誰かの名を叫びながら彷徨う者や瓦礫の山を撤去する者、怪我人を救助している者や消火作業をしている者達に混じり、黒焦げとなった者、地面に倒れたまま二度と動けぬ者が彼方此方に転がり、中には人の型を無くした塊が落ちていた。女中は、何が好物かとかどんな遊びが好きか、坊ちゃん見るなとか喋っていたが、惣一郎の耳には全く聞えず、聞えたのは、一寸立ち止り周りを見渡しながら「またやり直しだぁ」と呟いた一言だけであった。この辺だ、この辺だと女中が再び立ち止り辺りをきょろきょろとしていたが、一町程先の半壊した家屋に、見覚えのある畳屋の看板が斜めってぶら下がっているのが惣一郎の眼には飛び込んできた。かつて店先であった処に坐り込んだ母親を見付けると女中の手を解き、母の胸に飛び込み大声を上げて泣いた。母も惣一郎の無事を喜んで涙を流して喜んだが、ここにも惣吉は戻って来てはいなかった。そのうち戻ってくる、怪我をして救護所に運ばれているのかもと惣一郎に言い聞かせる母の言葉も空しく、あの夜から二日後、倒壊した勝鬨橋に半ば堰き止められた隅田川の、瓦礫や死体が流れつき澱みとなっていたその中に発見された。 仁丹塔はその年の初冬に完成し、昭和六十一年に老朽化を理由に解体されるまで、浅草の景観の一部となり皆の目に馴染んでいたが、父惣一郎には仁丹塔はおろか浅草にも連れて行って貰った事が無い。二度と近寄りたくない町だったのだろう。その父も昨年の夏に甲状腺癌がもとで鬼籍に入った。これは昔話など口にした事の無かった父が、闘病中に臥した床の中で唯一私に語った昭和二十九年の己が父との思い出、東京に巨大生物が上陸した時のものである。 (畢)
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