身代わり狂騒曲 風花千里
第八章 扇屋 一 吉原大門は、板葺き屋根付きの平凡な冠木門だ。 門の外から中を覗くと左手に辻行燈が見える。客待ちの駕 籠 舁 きが暇そうに時間を潰していた。 時刻は六つ前。駕籠で大門を出る客はほとんどいなかった。吉原の賑わいは、これから始まるのだ。 門を潜って左には面番所、右には四郎兵衛会所が設けられ、不審者や遊女の逃亡を監視している。さらに進むと、軒先に鬼簾を掛けた引手茶屋が両側に並んでいた。 「おんや、重坊 じゃねえか。この間は、いいお客を紹介してくれて、ありがとよ」 一軒の引手茶屋の前に出ていた若い衆 が、威勢よく重三郎に声を掛けた。掛行燈には〈山本屋〉と屋号が入っている。 「あの御仁は丁子屋の若紫さんを気に入ったそうだ。よろしく頼むよ」 重三郎が気安く答えた。廓の人間で重三郎を知らない者はいないのだろう。若い衆と話している最中なのに、年のいった女が横から話しかけた。 「蔦重 。近頃、うちの妓 楼 にはご無沙汰じゃないの。花魁たちが草双紙を読みたいって言ってたわよ」 女はどこかの妓楼の使用人らしかった。 重三郎は社交辞令にも律儀に返答した。義理堅さは生まれ持った性質というよりは、商売で培った世渡りの術という印象だ。 ──先に行くか。 待ちくたびれた佐助は、吉原の中央を通る仲の町の通りを歩き始めた。以前通っていた小見世のある、京町二丁目へ行くつもりだった。 吉原には、遊女屋の集まる町が五つある。江戸町一丁目、江戸町二丁目、角町、京町一丁目、京町二丁目だ。京町二丁目は仲の町のどん詰まり。通りの右側にある。その辺りは、遊女の揚代が手頃な中見世、小見世が多かった。 「源内さん、どこへ行くんです」 重三郎が息せき切って追いかけてきた。 「おめえが遅いから先に歩いてただけよ。この辺は大見世ばかりで俺には用無しだからな」 引手茶屋が並ぶ界隈を抜けると、両側は江戸町一、二丁目。両町とも、数多の遊女を抱える大見世が犇めく一帯だった。 佐助も素見目的で江戸町の木戸を潜ったことはある。 だが、大見世が集まる一帯は、懐具合の寂しい客はお呼びでなかった。うろちょろ徘徊すると妓楼の若い衆に鼻であしらわれるか、下手をすると難癖をつけられ、ど突かれる。 「相変わらず、せっかちですね。南畝と待ち合わせしているのを忘れたんですか。あいつは〈山本屋〉で待ってるんです」 重三郎は佐助の腕を掴んで引き戻すと、引手茶屋のほうへ誘った。 二 引手茶屋〈山本屋〉の軒先に、体格のいい大年増が出ていた。茶屋の女将のようだ。 「二階へどうぞ。お二方ともお揃いでございますよ」 女将が満面の笑みで迎えた。 ──お二方? 女将の言葉尻を捉え、佐助は首を傾げた。待ち合わせているのは南畝一人と聞いていた。 その時、仲の町の通りが騒 めき出した。 通りをうろつく男たちの視線が、一斉に江戸町一丁目の木戸へ吸い寄せられる。 トッテン、シャラン、ツルチリリ…… あちこちの引手茶屋から、三味線の清 掻 の音が漏れてきた。 重三郎は女将と喋っている。その隙に、くだんの木戸に目を据えた。 定紋入りの箱提灯を手にした男が出てきた。 男は扇模様の袢纏 を着て、後に続く者の足元を照らしている。 仰々しく出てきた行列は、吉原名物、花魁道中だった。花魁が馴染客を茶屋へ迎えに行き、妓楼まで連れて来るという一種の儀式である。 周囲に、おおー、という響 動 めきが起こった。道中の主役、花魁のお出ましだった。 両脇に禿 を従えている。後ろには若い衆が従 き、花魁に長柄の傘を差し掛けていた。 「来たぞ、来たぞ。扇屋の八 重 咲 だ。うひゃあ、ぽってりした唇。震い付きたいほど色っぺえじゃねえか」 「立ち姿の粋なことといったら、どうだ。八重咲に太刀打ちできるとしたら、浜村屋ぐらいしかいねえよ」 鼻の下をだらしなく伸ばした吉原雀たちが、思い思いに囀っている。花魁は八重咲という名だった。 八重咲は外八文字と呼ばれる足捌きを見せて進んでくる。 女の衣裳はよくわからぬが、橘の花を縫い取りした打ち掛けを纏い、髪には簪を四本挿していた。髷の真ん中に、大きな櫛が見える。足元は黒塗りの吉原下駄だった。贅を尽くした装飾品に身を固め、八重咲は提灯の光がかすんでしまうほどの目映さだった。 ──さすがに別嬪だな。 周りの助平と変わらない目を向けた。佐助とて三十になったばかりの男盛り。しかも独り者だ。女子に対する興味は掃いて捨てるほどある。 細見によると、八重咲は扇屋の筆頭遊女ではなかったが、序列はかなり上のほうだった。 ──ちと派手過ぎだな。俺はもう少し控えめな女子のほうがいい。 全容を現した道中を眺め、独り呟いた。心身共に成熟した大人の女より、少女らしさを残した女子により魅力を感じる。 佐助が行列を注視しているのに気づき、重三郎が振り返った。 「おっと、立ち話をしている場合じゃなかった。ひとまず二階へ上がりましょう」 と、急かされ、佐助は〈山本屋〉の暖簾を潜った。 三 「遅いじゃないか」 広い座敷に入るなり、南畝の焦 れたような声がした。真ん丸な顔が、ぽわんと赤い。すでに酒が回っているようだ。 「おぬしと違って、このお二人さんは、いろいろ忙しいんだよ」 南畝を宥めたのは平角だ。全身が黒ずくめ。脇息に凭れて盃を嘗めている。 重三郎は南畝の隣に座り、佐助は勧められるままに平角の脇へ座を占めた。 引手茶屋は遊客を妓楼に案内する場所。格の高い遊女屋に上がりたければ、客は引手茶屋を通さねばならない。今まで小見世にしか用のなかった佐助にとって、引手茶屋は勝手の違うところだった。 「まあ、一杯」 平角が、機嫌よく銚子を掲げた。 佐助が盃を取ると、酒を注いでくれる。 一気に飲み干した酒は喉のどこにも引っ掛からず、すっと胃の腑に染みた。おそらく高価な下り酒だ。 佐助は下り酒を飲んだ経験がなかった。飲むのは「下らねえ」安酒ばかり。座の真ん中に置かれた酒肴も豪勢で、唐墨だの初茸だのと、山海の珍味が揃っていた。 佐助の空いた盃に、平角が酒を注ぎ足した。 ──危ねえ。いい気になって飲み過ぎると、いつかみてえに前後不覚に陥っちまう。 重三郎も南畝も酒が強い。平角も酒豪に違いなかった。 「花魁のお着きでございます」 唐紙が静かに開く。 黒地の打ち掛けを纏い、山吹色の帯を前に締めた花魁が姿を現した。八重咲だった。 八重咲は年嵩の番頭新造に手を取られ、つんと澄ました表情で、当たり前のように上座へ座った。 揃いの振袖を着た二人の禿、二人の振袖新造も入ってくる。 最後に、大きな腹を揺すりながら小男が舞い込んできた。 「これはこれは、旦那様、皆々様、お揃いで。遅くなって申し訳ございません。幇間の松助でございます。ものの格にも『松・竹・梅』とありますが、あたしは正真正銘、『松』の太鼓持ち。と申し上げても、へへっ、芸のほうは大したこともできませぬが、お名指しいただければいつでも飛んで参ります。どうぞ可愛がってやってくださいまし」 松助は揉み手をして、へらーりと笑顔を見せた。 ──何だ、この大層な宴 は。 大見世の妓が来て、幇間が座を取り持つ酒宴に初めて加わった佐助は、急に尻が落ち着かなくなった。 「お前、初めて見る顔だね」 南畝が珍しそうに松助を眺めた。廓のことなら何でもござれと嘯く南畝だが、引手茶屋から妓楼へ上がるという状況が頻繁にあるわけではない。遊女には詳しくとも、幇間の顔までは覚えきれないのであろう。 ──今日は平角持ちってわけか。 重三郎が大きく構えていた理由がわかった。莫大な金のかかる廓遊びも、佐竹藩江戸留守居役の平角がついていれば心強い。 「こやつの百面相は、やたらめったら面白えのよ。なあ、八重咲」 平角が流し目を呉れたが、八重咲は微かに頷くのみ。敵娼 の愛想のない反応には慣れているのか、平角は気にも留めぬ様子だった。 四 〈山本屋〉での軽い酒宴の後、一同は〈扇屋〉へ向かった。 八重咲は来た時と同様、道中をして帰る。 平角率いる男連中は、二人の禿に挟まれ、道中の前を歩いた。 仲の町を行き交う遊客の目が、まず八重咲、次いで佐助たち一行に注がれる。 佐助は妙な汗が首筋を伝うのを感じた。 〈山本屋〉から〈扇屋〉までの距離は、ほんの僅かだ。 しかし、道中の歩みは亀の歩みよりもまだ鈍 かった。 佐助以外の男は、この状況に慣れている。なごやかに談笑しつつ、歩みを進めていた。 平角は幇間のおべんちゃらを聞き流し、悠然と構えている。値が張る黒羽二重の羽織に、同じ生地の袷。ほんの少し文様を違えているところが心憎い。 だが佐助のほうは恥ずかしくてたまらなかった。 小見世に通っていた頃は、佐助も花魁道中を見て冷やかした口であるが、今日は見物される側。他人に遊ばせてもらう身には周囲の目が気になってしようがなかった。 「どうです、八重咲さんの感じは」 出し抜けに重三郎が囁いた。 「別嬪だが、乙に澄ましたところが気に食わねえな」 「平角さんほどの兵 になると、すぐに靡くような妓は面白くないんです。口説き甲斐がないですから」 佐助は目だけ動かして背後を見る。八重咲は前を向き、毅然と歩いていた。 「平角さんの馴染みの妓は一風変わったのが多い。学問が好きだとか、怪力の持ち主だとか、武術に秀でたのもいました。八重咲さんも俳諧をよくするし、とんでもない酒豪 です」 平角のごとき遊び人になると、馴染みの妓を選ぶ決め手は容姿の優劣ではないようだ。 ゆるゆると進んでいた行列が、江戸町一丁目の木戸を通り抜ける。 佐助の目に〈扇屋〉の掛行燈が見えてきた。 五 〈扇屋〉に着くと、張見世を素見していた連中が振り返った。 張見世は妓楼が抱えの遊女をお披露目する場。道に面した部屋に遊女が並ぶ。客は格子越しに妓を物色し、気にいれば指名した。 六つを過ぎたばかりで、多くの妓が遊客に買われるのを待っていた。 内と外を仕切る格子は籬 と呼ばれ、店の格によって総籬、半籬、総半籬に分かれていた。〈扇屋〉は総籬。一際広い張見世が、妓楼の格を見せつけていた。 「平角さんには先に上がってもらって、私らはここで張見世を眺めていきましょうか」 重三郎が擦り寄ってきた。 平角は若い衆に迎えられ、店の中へ入るところだった。 佐助はもう一度籬の中を覗いた。 大見世らしく〈扇屋〉の遊女は、華やかで煌びやかな妓ばかりだった。 序列によると〈扇屋〉には花 扇 という筆頭遊女がいるが、筆頭遊女は馴染客からの指名を、自分の座敷で待った。 座の真ん中に座るのは昼三の花吹雪であろう。昼三とは、昼夜で揚代が三分という高級遊女。髷を左右に分けた眼鏡のような髪形が面長でほっそりした顔立ちに映え、知的な雰囲気を醸し出している。 花吹雪の右には、やはり昼三の玉川。細見では八重咲より序列が一つ下の遊女だった。こちらは小柄で肉付きのよい妓。韓紅花 の打ち掛けが艶やかだった。 籬のあちこちに走らせていた佐助の目が、ある一点で止まった。鴇色 の打ち掛けを羽織った若い妓が、ちらちらと外へ視線を投げ掛けていた。端に近い位置にいるところを見ると、かなり格下だ。 だが、遊客から品定めされるはずの鴇色の妓は、逆に客の品定めをしているようでもある。冷たく気取って前を向く妓が多い中で、特に佐助の目を引いた。 ──お仙ちゃんに似てるな。 いつの間にか籬に手を掛け、鴇色の妓を見つめていた。妓の白い肌と細い首さしが、お仙の印象とよく似ているような気がした。 「熱心に見てますけど、いい妓はいましたか」 頬がくっつきそうなほどの距離で、重三郎が訊く。 佐助は「別に」と、素っ気なく返した。 源内として来ているのだ。物欲しそうな態度を見せるわけにはいかなかった。 「それは残念です。でも、妓は中にいくらでもいる。そろそろ行きましょう」 重三郎は、佐助の見ていた方を一瞥すると、〈扇屋〉の入口へ向かった。 六 「源内さん、久方ぶりの廓はどうだい?」 ほろ酔い加減の平角が、快活に尋ねた。 〈扇屋〉の引付 座敷。松助の酌を受けながら、皆、好きなように寛いでいる。八重咲など妓楼の連中は、いったん自分の部屋へ戻り、改めて来る段取りだった。 「相変わらず騒がしい所だ。俺は好かねえ」 佐助は興味のない風を装う。白粉の匂いに満ちた女の園に源内の執着があるはずはない。 「あなた様が女嫌いで有名な、平賀源内先生? 失礼しました。あたしだって廓の生活は短かないんですが、道理でわからなかったはずだ」 松助がしきりに頷いている。 「廓で句会を催しても、源内さんは終わるとすぐに帰っちまうからな」 平角が苦笑した。 「ところが、こうやって嘯いてるけど、源内さんは、近頃、女子にもご執心らしいんだ」 南畝が冷やかし気味に口を挟んだ。酒には強いが色に出る南畝の顔は、茹で蛸のように真っ赤だ。 ──おいおい、そんなこと言っちまっていいのか。 佐助は仰天した。確かに女子には興味がある。いや、大いに心をそそられると言っていい。といって、源内として生きる男が、女好きを公言してもいいのだろうか。 重三郎と平角の顔色を交互に窺った。二人とも慌てる様子もなく話を聞いている。 「へええー、女子にも食指が動き出したんですな。そりゃあ、一大事だ。先生、浜村屋と喧嘩でもなすったんですか。あわわ、相済みませぬ、ちょいと口が滑りました」 松助は口を噤むと、禿げ上がった額をつるんと撫でた。 「源内さんも男だ。たまには女子に心を移すこともあろう。今日は綺麗どころを集めて、ぱーっと騒ぐぞ。松助、源内さんの盃が空だ。酌をして差し上げろ」 平角が松助をあしらう。 「気づきませんで申し訳ありませぬ。あんまり魂消たもんで、幇間の本分を忘れてしまいました」 松助は恐縮しながら、追従笑いを浮かべた。 刺身や煮物など、台の上に肴を盛り付けた〈台の物〉が運ばれてくる。 三味線を携えた芸者が、二人連れ立って入ってきた。 芸者の後から、松助の仲間だという幇間も顔を見せて、座が一気に活気づく。 「すぐに妓たちも来るだろう、それまで賑やかにやっていよう。松助、何か踊れ」 平角が浮かれた調子で告げた。 七 ちちれ、ちれちれ、ちれちちちん…… 煽り立てるような三味線の音が、座敷いっぱいに響く。芸者や幇間の達者な芸のおかげで、平角の座敷は遊女がいなくても明るく華やいだ雰囲気を保っていた。 「うわっはっはは、おめえ、上にも下にも顔が付いてんだな」 松助の腹芸に、佐助は顎が痛くなるほど笑った。 松助はもろ肌を脱ぎ、太鼓腹を剥き出しにしている。その腹に、墨で黒々と達磨の顔が描かれていた。動くたびに腹の達磨が、笑い顔、泣き顔、怒り顔と、様々に表情を変える。 「はいっ、廓名物、吉原雀っ!」 と、松助が一声、甲高く叫んだ。 途端、腹の達磨が助平ったらしい顔になる。 あちこちで笑いが起こる。皆、酔っているから笑い出したら止まらない。三味線を弾いている芸者までもが、笑いを堪えようとして「ぶーっ」と吹き出した。 騒ぎ始めてどれほどの時が経ったろうか。金銀の箔で彩られた豪華な唐紙が開き、遣手婆に手を引かれた八重咲が入ってきた。 喧噪が一気に静まる。 松助は肌を隠し、身繕いをした。三味線の音はいつの間にか止んでいた。 八重咲は上座へと進み、平角と向き合う形で座った。続いて、緋色の派手な打ち掛けを翻し、妓が入ってきた。さらに、その後ろから鴇色の打ち掛け。 佐助は周囲に動揺を悟られぬように、静かに息を呑んだ。三番目に入ってきたのは、先ほど籬の中にいた妓だった。 二十畳の引付座敷は、文字通り、初会の客と遊女を引き合わせる場所。 「あなた様が、こなた様。こなた様が、あなた様」と、遣手婆が客に遊女を引き合わせる。 平角の敵娼は馴染みの八重咲と決まっているが、〈扇屋〉は初めてという南畝の前には、緋色の打ち掛けが座った。 佐助の前には、例の鴇色がいる。 「白糸さんでございます」 遣手婆が遊女の名を口にした。 籬の中で見せた強い視線はなく、白糸は他の遊女に倣って無表情に佐助と盃の遣り取りをした。 佐助は重三郎の顔を盗み見た。 白糸が来た理由は九分九厘、重三郎の差し金だ。佐助が籬で白糸を見染めた気配を察していたのだろう。油断も隙もなかった。重三郎の前では雌猫にも目を向けられぬ。 ──おや、やつの敵娼は? 重三郎の前には妓がいない。 「私は商いがあるんで、早々に帰ります」 重三郎がにんわりと笑った。 佐助は、なるほど、と得心した。酒を過ごしているから、今さら商いでもない。要するに、吉原で商売をしている重三郎にとって遊女買いは御法度なのだ。 色を求めて外から訪れる世の男と違い、重三郎は廓の内の人間。遊女とはいわば同志、いや家族同様の付き合いなのだろう。 「妓も決まったし、今宵は騒ぐぞ」 平角の指示で芸者が三味線を弾き始める。 松助がまた踊り出した。今度は腹と一緒に、顔でも百面相を披露する。 座は再び笑いの渦に包まれた。 八重咲は酒豪と謳われるだけあって、なみなみと酒が入った盃を、立て続けに空けた。酒気で目の縁が薄紅に染まり、ぞっとするほど色っぽい。 平角は敵娼の飲みっぷりを面白そうに眺め、自らも同じ早さで盃を呷った。平角の肝は鋼でできているのか、酔ったふうを微塵も見せなかった。 座の華やぎに引き寄せられ、他の遊女や幇間も賑やかしに来た。 飲めや、唄えや、の大宴会。盛り上がりは最高潮に達した。 八 周囲に調子を合わせながらも、佐助は白糸が気になっていた。 白糸は百面相に笑い転げている。 ──ああやって無邪気に笑っているところは、お仙ちゃんとそっくりだ。 お仙の面影が頭に浮かぶ。 その途端、全身が焼け火箸になったかのように熱くなった。体の奥底で血が脈打っている。黙って酒を飲んでいても治まりそうもないので、仕方なく踊りの輪に加わった。 松助が近寄ってきた。 「踊りがお上手でございますねえ」 松助も頭に手拭いを被り、芸者と一緒になって踊っていた。 「その踊っている時の腰つき。花魁たちが、ぽーっとした顔で眺めておいでだ」 松助の追従に周りの芸人も同調する。別の座敷を抜け出してきた新造たちも、口々に佐助を褒めそやした。 世辞だとわかっていても、褒められて悪い気はしない。佐助は願人坊主にでもなったような気分で、我を忘れて踊り狂った。 馬鹿騒ぎをし尽くした頃。喜助と呼ばれる二階廻しの若い衆が「お召し換えー」と声を張り上げた。 声を合図に妓が座敷を出て行く。妓楼からあてがわれた自室に戻り、客を迎える準備をするためだ。 引付座敷に来た時と同じく、白糸は他の二人の遊女の後から出て行った。その際、振り返りざまに佐助へ目を呉れ、口の端にうっすらと微笑を滲ませた。 〈扇屋〉のような格式の高い店ならば、初会は引付座敷で顔を合わせるのみ。遊女は客に肌を許すことはなかった。二、三日後、再度登楼し、同じ妓を指名する。それでもまだ同衾は叶わない。三度目にして初めて床を共にし、晴れて馴染になることができた。 ところが今日は仕来たり通りではなかった。平角が鼻薬を効かせて〈扇屋〉に言い含めたのだろう。妓楼の連中は、宴の後も佐助と南畝を追い立てたりはしなかった。 「私は一足先に失礼します」 重三郎が暇乞いをした。 「ご苦労だったな。また頼むぜ」 平角がまるきり素面のような形相で労った。 「旦那様、どうぞこちらへ」 若い衆が部屋の移動を促す。 佐助は誘 われるまま後に従った。 九 佐助は白糸の部屋に案内された。 大見世では全ての妓が専用の部屋を持っている。 八重咲は自室と客を招く座敷の両方を持つが、白糸は格下なので一部屋だけ。日々生活する部屋で客も取っていた。 佐助は浴衣に着替え、床に入っていた。 「おしげりなんし」 佐助の世話をやいていた遣手が、お決まりの一声を掛けて出ていく。 部屋には佐助と白糸の二人だけになった。 こざっぱりと片付いてはいたが、部屋のそこここに、白糸の持ち物が置かれている。 佐助は小さな箪笥の上に目を留めた。 「戯作が好きなのか」 箪笥の上に、何冊か本が重ねてある。中に『根南志具佐』も入っていた。 白糸が帯を解き、長襦袢一枚の姿になって床に滑り込んできた。 「〈扇屋〉には平角様のような通人が、たくさんお越しになるのでありんす。戯作を読んだり、俳諧を齧ったりしておかないと、いざ、白糸を、とお名指しになった時、話の一つもできんせん。暇を見つけては読むようにしてるのでありんす」 と、当たり前だと言わんばかりの顔をする。読みたいから読むのではなく、客と話を合わせるための教養として読む。大見世の遊女は勉強熱心でなければ務まらなかった。 その昔、高級遊女である太夫は大名道具と称され、和歌・俳諧、書画、華道・茶道、囲碁・将棋、筝・三味線など、ありとあらゆる教養を身につけていた。 しかし、吉原の客が武士から裕福な町人に取って代わったあたりから、知的で気位の高い太夫は敬遠されるようになり、宝暦の頃には完全に姿を消してしまった。 それでも廓には、学者、医者、役者などの文人墨客が登楼する。〈扇屋〉のような大見世は妓たちに芸事を習わせ、知識人を接待できるだけの教養を身につけさせていた。 ──色気のねえやり取りだな。 佐助は可笑しさを噛みころした。 客と遊女が床に入ったら「わっちの体って冷たいざんしょ」「俺が暖めてやるさ」等々、他愛もないやり取りが延々と続くもの。佐助が足繁く通っていた小見世の妓など、毎度毎度、同じ話しかしないので、しまいには諳んじてしまったほどだ。 だが白糸は、お門違いの質問にも恬として応じられる度量を備えていた。 「俺の戯作もあるじゃねえか。もう読んだのか」 『根南志具佐』の背を目で示した。 「蔦重が持ってきて、すぐに読みんした。地獄の閻魔様が瀬川菊之丞にぞっこん惚れてしまうくだりが、特に面白かったでありんす」 ──あれは重三郎が持ってきたのか。 佐助の眼裏で重三郎が会心の笑みを浮かべた。敵娼が白糸に決まったのは偶然の産物ではなかった。重三郎は用意周到に根回しをし、今宵の出会いを画策していた。 重三郎は、お仙に惹かれる佐助の気持ちに気づいている。お仙に似た遊女を物色し、妓には平賀源内の来遊を匂わせていたに違いない。 重三郎の目論見通りに事が運んでいく次第を目の当たりにし、佐助は肌が粟立つのを感じた。 「何を考えているのでありんす」 白糸が寄り添ってくる。 角行燈の光の中で見る白糸は、やはりお仙と似ていた。春信の一枚絵に描かれるほどだから美しさはお仙に軍配が上がる。しかし白糸も、いずれは廓の話題を攫えるほどの美貌を有していた。 「何も考えてねえよ」 野暮な田舎侍ではあるまいし、遊女を前にして素人女を思い浮かべていた、とは口が裂けても言えなかった。 「源内先生って、うんと年寄りだと思ってたのに、実はお若いのね」 白糸が佐助の胸に頬を寄せた。 しばらく治まっていた胸の高鳴りがぶり返す。拍子の乱れた鼓動が、白糸の耳にも届いているはずだった。 白糸が着ていた襦袢を脱いだ。 佐助は驚きのあまり体を固くした。 床入りの際、遊女は裸にならない。上に襦袢、下に湯文字を着けて事を行うのが常で、客の前で肌を曝す行為は極めて稀だった。 白糸はさらに緋色の湯文字も外した。 遊女が男の前で肌を曝すのは情 人 に抱かれる時だ。「卵の四角と女郎の誠 」はありえぬと言われるが、惚れ抜いた男に対しては、遊女も己の全てをさらけ出した。 妓が一糸纏わぬ姿で己の腕の中にいる。いやでも「女郎の誠」を意識させられた。自分が特別扱いされたのを知り、佐助の内で情欲の炎が立ち上る。 白糸の細くしなやかな腕が、佐助の首に巻きついた。 佐助も力一杯、妓の体を抱き締めた。 若い肢体が妖しく撓った。滑らかな肌の火照りが佐助の四肢に伝わってくる。 堪らなくなって、白糸の細い体に似合わぬ豊かな胸に顔を埋めた。 白糸が溜め息のような甘い喘ぎ声を洩らす。 止めようにも止まらない。気づくと、二つの体は一点でしっかりと結ばれていた。 「源内さま……」 お仙そっくりの顔が、切なげな声を上げる。 佐助の下であられもなく乱れる女子が誰なのか、のぼせ上がった佐助には判断がつかなかった。 ──お仙…… 心の奥で愛しい名を呟く。 その瞬間、体の中で何かが大きく爆ぜた。 十 部屋の外で、人の行き交う音がする。 佐助は無理やり目をこじ開けた。頭の芯がぼーっとして、しばらくの間、自分がどこにいるのか掴めなかった。 ようやく昨夜白糸と契りを結んだことを思い出した。 妓楼の朝は始まっている。忙しなく行き来する喜助の足音。後朝の客を見送りに出る遊女の声もする。 白糸と引ける時、「朝は居たいだけ居てよい」と平角から耳打ちされた。 白糸のような部屋持ちは、昼夜を通して揚代が一分。夜だけなら二朱で済む。二朱で済ませたい吝 嗇 な客は、日が暮れるとすぐにやって来て、朝は陽の上る前に帰った。 佐助が夜明け前に起こされず、朝寝を決め込むことができたのは、平角が前金で昼夜の揚代を払ったからだった。 隣を見ると、白糸がまだ寝ていた。 昨夜の首尾を思い出し、こそばゆいような気分になった。 白糸は、遊女とは思えぬ情のこもった床あしらいを見せた。様々な手練手管を用いて佐助を悦ばせた。佐助も季節外れの野分のごとく猛りに猛り狂った。 ──いい妓だな。 白糸の頬にそっと触れる。お仙のことは別にして、白糸を愛しく思うようになっていた。 「遊びの費用は心配せず、白糸を馴染にすればよい」と、平角は言った。 小さな唸り声がして、白糸が目を覚ました。 「あれ、お早いお目覚めでありんすね」 白糸は慌てて唐紙を開け、喜助を呼びつける。格下の身分では、身の回りの世話をさせる禿や新造を使えなかった。 暗い室内に、ほんの少し光が差し込んだ。 寝化粧を施した白糸の顔が見える。遊女にしては控えめな妓だと思っていたが、朝陽の中で眺めると、玄人女らしいきつい顔立ちだった。 白糸が茶碗に湯桶の水を注いだ。 「房楊枝を使いなんし」 楊枝に塩を付けて歯を磨いた。茶碗の水で口を漱ぐ。口の中の水は耳盥 と呼ばれる小さな器に吐き出した。 もう一杯水を貰って、顔を濡らす。後は浴衣を脱いで着物に着替えるだけだ。 「必ず、裏を返しに来てくんなまし」 羽織を着せかけようと、白糸が背後に寄り添った。 妓のほうから懇願されると、満更ではない。 「近いうちに必ず来る」 「嬉しいっ!」 白糸が佐助の背に抱きついた。息が大きく弾んでいる。 「そんなに俺のことが好きか……」 背中に手を伸ばし、白糸の手を握った。胸がわんわんと躍る。もう平角の懐をあてにして、白糸を馴染にするしかあるまい。 「あい」 妓の小さく冷たい手に力がこもった。 「女嫌いのぬしが、初めて抱いたのが、このわっち。嬉しゅうて、嬉しゅうて、廓中に触れ回りたいくらいでありんす」 白糸は華奢な身をくねらせた。 «第九章 夢
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