tag:blogger.com,1999:blog-32515415064510808332024-02-21T02:11:06.376+09:00風々齋詩歌を中心とした総合文芸WEBマガジン。ドメインは岐散花序(=dichasia)から。faviconは数学記号の「虚部」。Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.comBlogger218125tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-2315438356857841192018-08-22T08:00:00.000+09:002018-08-24T22:54:34.816+09:00詞句窯變 ― trans haiku 011 / 風花銀次譯<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; clear: both; padding: 20px;">
<div style="text-align: center;">
<table>
<tbody>
<tr>
<td width="430" valign="top">
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="en" dir="ltr">Evening heat<br>two lizards, brown and tan<br>entwined<a href="https://twitter.com/hashtag/haiku?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#haiku</a></p>— Kris Lindbeck (@KrisLindbeck) <a href="https://twitter.com/KrisLindbeck/status/890717434314981377?ref_src=twsrc%5Etfw">2017年7月27日</a></blockquote>
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script></td>
<td width="120">
<pre class="lp-vertical lp-width-120 lp-height-280 lp-font-size-16">
いろちがひの蜥蜴つるめり夏の夜
</pre>
</td>
</tr><a name='more'></a>
<tr>
<td colspan="2">
<hr size="1" width="550" align="center" color="#cccccc"><br>
</td>
</tr>
<tr>
<td width="430" valign="top">
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="es" dir="ltr">Mi noche triste / las chispas de las brazas / son mis estrellas. <a href="https://twitter.com/hashtag/haiku?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#haiku</a> <a href="https://twitter.com/hashtag/poema?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#poema</a></p>— Mr. Lovegrove (@Suyo_Afectisimo) <a href="https://twitter.com/Suyo_Afectisimo/status/281281723390623745?ref_src=twsrc%5Etfw">2012年12月19日</a></blockquote>
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script></td>
<td width="120">
<pre class="lp-vertical lp-width-120 lp-height-260 lp-font-size-16">
燃えさしの星が地にある良夜かな</ruby>
</pre>
</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="2">
<hr size="1" width="550" align="center" color="#cccccc"><br>
</td>
</tr>
<tr>
<td width="430" valign="top">
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="en" dir="ltr">daydreaming / <br>a flower / <br>in my handful of snow<a href="https://twitter.com/hashtag/haiku?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#haiku</a></p>— Gene Myers (@myersgene) <a href="https://twitter.com/myersgene/status/285561003259867137?ref_src=twsrc%5Etfw">2012年12月31日</a></blockquote>
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script></td>
<td width="120">
<pre class="lp-vertical lp-width-120 lp-height-260 lp-font-size-16">
一握の雪は開花未遂の花
</pre>
</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="2">
<hr size="1" width="550" align="center" color="#cccccc"><br>
</td>
</tr>
<tr>
<td width="430" valign="top">
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="en" dir="ltr">During Winter / No need / To recall flower names ~~ <a href="https://twitter.com/hashtag/Haiku?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#Haiku</a></p>— Lothar M. Kirsch 祁建德 (@Rheumatologe) <a href="https://twitter.com/Rheumatologe/status/290452834766426112?ref_src=twsrc%5Etfw">2013年1月13日</a></blockquote>
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script></td>
<td width="120">
<pre class="lp-vertical lp-width-120 lp-height-260 lp-font-size-16">
花の名のあれなんだつけ冬籠る
</pre>
</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="2">
<hr size="1" width="550" align="center" color="#cccccc"><br>
</td>
</tr>
<tr>
<td width="430" valign="top">
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="en" dir="ltr">Old leaves and dust / On a mooring boat / How long till spring? ~~ <a href="https://twitter.com/hashtag/Haiku?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#Haiku</a></p>— Lothar M. Kirsch 祁建德 (@Rheumatologe) <a href="https://twitter.com/Rheumatologe/status/289616351486697472?ref_src=twsrc%5Etfw">2013年1月11日</a></blockquote>
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script></td>
<td width="120">
<pre class="lp-vertical lp-width-120 lp-height-275 lp-font-size-16">
春隣小舟に溜まる木の葉屑
</pre>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
</div>
</div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-63788334717027618782018-08-19T08:00:00.000+09:002018-08-20T12:49:37.056+09:00小説「蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章」10 / 風花千里<pre class="nehan3-pagerize" style="display: none;"> <h4><b>蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章
風花千里</b></h4>
<b>第十章 手跡指南所</b>
手跡指南所の玄関先に、盛りを過ぎた犬鬼灯の白い花が、風に吹かれてちらちらと揺れている。
姉女郎に連れられ、菊乃は歌乃とともに、山村<ruby><rb>峰春</rb><rt>ほうしゅん</rt></ruby>の指南所の前に立っていた。
本来の稽古日でもないのに出向いてきたのは、峰春に菊乃のだらしのない行状を報告し、戒めてもらうのが目的だった。
部屋を出る前は、小生意気な千鳥が指南所に来て鉢合わせしないかと案じていた菊乃だったが、妓楼の暖簾をくぐる際、常磐津を唸る少女の声が漏れ聞こえた。
たぶん、今日のところは、千鳥が指南所に来る気遣いはない。菊乃は、やれやれよかったと、<a name='more'></a>密かに胸を撫で下ろしていた。
綾錦は戸に手を掛けて少し開けると、その隙間から「お邪魔しいす」と声を掛けた。
すぐに「お入り」という声が、家の奥から返ってきた。
綾錦は土間で下駄を脱ぎ、框を上がった。菊乃と歌乃も、後れをとらぬよう、急いで姉女郎の後に続いた。
長屋であるのに、峰春の住まいは案外に広い。
おそらく割り長屋の中で一番広い部屋を借りているのであろう。土間から見えている部屋の隣に、もう一部屋あるのが、開いた襖の先に見てとれる。
峰春は、襖の向こうの部屋で何か書き物をしていた。
「峰春先生、今日は突然お邪魔をして申し訳ありいせん」
綾錦は峰春のいる部屋に入ると、しとやかに畳に手をついた。
「おや、花魁、いらっしゃい」
峰春が眩しそうに目を細めながら、綾錦の挨拶を受けた。
綾錦はともすれば堅気の女にも見えそうな、地味な縹色の鮫小紋に黒繻子の帯を締めている。峰春を前に、少しはにかんだような様子は、花魁道中の際の煌びやかな美しさとはまた違い、朝露を含んだ野の花のごとく可憐に見えた。
菊乃は、姉女郎の後ろから峰春をしみじみと眺めた。
峰春は璃寛茶の合わせを着流しにして、献上博多の角帯を片ばさみに締めていた。ひと目で洒落者といった拵えである。また、五分下げの本多髷は色白で優男の峰春によく似合っていた。三十五歳だと聞いたけれども、どう見ても三十より下にしか見えない。
姉女郎の想い人だが、菊乃は峰春が苦手だった。姿は良いし、言葉つきも優しいけれど、峰春はどこか廓の人間と一線を画しているようなところがあって、菊乃はどうしても心を開くことができない。筆より重いものを持たない峰春の繊細な手も、何か生身でない人形の手のようで好きになれなかった。
しかし、恋の何たるかも知らぬ菊乃と異なり、姉女郎のほうは峰春にぞっこんのようだ。峰春の書き物が終わるまでの間、持ってきた風呂敷包みを膝の上に置いたほかは、ぽおっと峰春の顔を見つめたまま身じろぎもしなかった。
「ところで、芙蓉に毒を盛った輩は見つかったのか?」
書き物を終えた峰春が持っていた筆を置いた。
菊乃は峰春の前に置かれた大きな文机に目を遣った。弟子に渡す手本なのか、文机の上の紙に、流麗な仮名文字が躍っていた。
「いいえ、わっちらも探ってみたものの、いまだに手がかりは見つけられずにおりいす」
綾錦は相手の顔色を窺うように、上目遣いに峰春を見た。
芙蓉の事件は、丁子屋の全使用人に口止めがなされたが、秘密などどこから漏れるか知れたものではない。峰春は、すでにどこからか情報を仕入れているようだった。
それでなければ綾錦から直接聞いて知ったのか。いや、それはあるまい。せっかくの逢瀬に、芙蓉の名を出すような無粋な真似を、綾錦がするはずがないからだ。
「うむ、そうか……、今さら犯人がわかったからといって、芙蓉が戻ってくるわけではないが。それにしても吉原でも一、二を争う名妓と称えられ、類稀な書の才を持っていた芙蓉が、どうして自害なんかしたんだろう。もったいないったらありゃしないよ」
峰春は、一番弟子の身に起こった変事がひどくこたえたと見える。峰春の目の下は隈取を施したように黒ずみ、傍目には、すっかり面やつれしているように映った。
「先生のお気持ちは、よくわかりいす」
師匠の不可解な悲嘆ぶりを目の当たりにした綾錦が、沈痛な面持ちでとりなした。
いくら死人の話だからといって、元情婦の話題を持ち出されては、綾錦も気分が悪かろう。しかし、さすがは丁子屋一の花魁である。不快な心持ちなどおくびにも出さず、文机の上に置かれた峰春の白い手をじっと見つめながら、綾錦はそっと訊ねた。
「芙蓉さんの自害に、先生は心当たりがありいすか?」
峰春はおずおずと顔を上げて、力なく「いいや」と首を振った。
「芙蓉という女は、お前様と同様に、毎日お客の前に出ながら新造を一人立ちさせ、<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>の面倒も見なければならない身だった。しかも、能書家としての名声も勝ち得ていた。自害する理由なんて考えられない」
芙蓉の思い出を、これでもかと綾錦の前で平然と語ってのける。姉女郎に対する心配りに欠けていると、子供の菊乃でさえ思わずにはいられなかった。
「芙蓉さんは、体の具合が悪いと言っていんしたか?」
綾錦は、表情を読み取ろうとするかのごとく、峰春の細めの眉を凝視した。
「ああ、調子が思わしくない、とは言っていた」
綾錦の視線を受け止め、峰春は深く頷いた。
綾錦に情婦の座を奪われても、芙蓉は、書家として峰春のもとに通っていたようだ。恋と芸の道は別物という心積もりだったのだろう。
「近頃、体が重くてだるいとこぼしてたな。勤めが辛いと珍しく弱音を吐いていたのを、よく覚えている。だけど、体の不調が自害の原因だとは思えなかった。お前様も耳にしているでしょう。芙蓉には、<ruby><rb>大店</rb><rt>おおだな</rt></ruby>の主人からの身請け話があった。その話を受けるつもりだと言っていたからね。私は、芙蓉の自害の話を聞いた時、即座に噓だ、芙蓉が自ら死ぬわけはない、と思ったんだ。そうしたら、回りまわってきた噂で、芙蓉が毒を飲まされていたと聞いた。なるほど、それならわかる。しかし、私は悔しくて<ruby><rb> 腸 </rb><rt>はらわた</rt></ruby>が煮えくり返りそうなんだ。書家としては前途有望な芙蓉が、なぜ死ななければならないのか、とね」
峰春は、思い詰めた表情で、きっぱりと言い切った。
菊乃は、綾錦の隣で峰春の話をやきもきしながら聞いていた。
峰春先生は、今、姉様がどんな気持ちでいるか、推し量ったりしないんだろうか。
指南所に来てからこの方ずっと芙蓉の話題が座を占めている。
菊乃は次第に<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れてきた。しかし、菊乃がいくら苛々したとしても、子供の分際で、話の最中に口を挟むわけにはいかない。
菊乃は、退屈しのぎのつもりで、整頓の行き届いた峰春の部屋の中を、きょろきょろと見回し始めた。
峰春の指南所はかなり狭い。弟子によって稽古時間が決まっているから、師匠が一人に、弟子が一人、多い時でも菊乃たちのような三人連れ。つまり、多く見積もって四人の人間が座れる場所があればいいわけである。
ところが、人が座る場所は狭くても、ものを置く空間には、それなりの広さがあった。
峰春が座す背後の壁には違い棚が設えてあり、さまざまな大きさの硯がきちんと揃えて置かれていた。さらに、棚の下には、実用に適した木製の小さな簞笥が二棹も据えてあった。
また、左右の壁際には、大きな桐箱が置かれている。おそらく中には、半紙や料紙など、種々の紙が入っていると思われた。
「さあて、それじゃ花魁の話を聞こうかね」
峰春はやっと話題を換える気になったようだ。
「その前にちょいと失礼して……」
峰春がさっきまで使っていた文机の上の小筆を指し示した。
「あい、小筆は放っておくと、すぐに穂先が固まって筆の<ruby><rb>命毛</rb><rt>いのちげ</rt></ruby>が駄目になってしまいいす。どうぞ、筆の始末をお先になさってくださいまし」
綾錦は即座に頷き、師匠に筆の手入れを勧めた。
「まあ、話しながらでもできるから」
峰春は文机の下から、子供が稽古に使うような粗悪な半紙を引っ張り出した。
峰春が筆の手入れを始めたのを確認して、すかさず綾錦は膝を進めた。
「先生ったら、聞いてくんなまし。この菊乃ときたら半紙を無駄遣いするのみならず、一度も筆を洗ったことがなかったんでありいす。見てくんなまし、書家の命とも言うべき筆をこないにしてしまって」
と、綾錦が膝に置いた風呂敷包みから取り出したのは、先ほど菊乃が初めて洗った小筆だった。すでに乾いてはいたが、美しく穂先が揃うわけもなく、相変わらず、ぼろぼろでかさかさの様相を呈していた。
「ああ、菊乃と歌乃はいつも先に帰ってしまうから、使った筆を綺麗にするところを見ていないんだな」
峰春はやれやれと苦笑いを浮かべると、手にしていた安物の半紙に顔を近づけた。おもむろに舌をちろりと出すと、紙面を遠慮がちにぺろりと舐めた。
菊乃は、峰春の振舞いを見て、目をしばたたいた。羊羹をくるんだ竹の皮を舐めた経験はあるが、半紙を舐めるなど考えたこともない。
菊乃の視線に気づき、峰春はきまりが悪そうに笑った。
「小筆の先を紙で拭く時には、唾を少し付けるくらいが最も具合がいいんだ。水も悪かないけど、紙の上に水を付けると、どうしても付けすぎて濡れてしまう。あまり水気が多いと筆先が傷むからね」
何かにつけて几帳面な峰春は、筆の扱いにも細心の注意を払っているようだった。
硯箱の中に置かれた小筆を持つと、峰春は唾を付けたあたりに、すっと筆先を滑らせた。
「姉様は筆を拭く時、峰春先生と同じようになさらないのね」
菊乃はちょんと首を傾げて訊いた。峰春とは師弟の間柄であり、恋仲でもあるのだから、同じように筆を扱うのが道理であるような気がしたのだ。
「峰春先生にもよく言われるんでありいす。水より唾のほうがいいよって。だけど、わっちは紙のざらつきが舌先に当たる、あの感じがたまらなく嫌なんでありいす。だから仕方なく、紙に少しだけ水を含ませて、筆の始末をすることにしたざんすよ」
綾錦は、かわいらしく小さく舌を出して訴えた。峰春も手にした半紙と綾錦とを見比べながら、なるほどと頷いている。
その時である。さっき菊乃たちが入ってきた戸口が、がらがらと開く音がした。
「ごめんくださいまし」
戸の開く音に続いて、かん高い女の声がした。
菊乃は、反射的に自分の顔が引きつるのを感じた。やけに気取った挨拶は、紛うことなき千鳥の声だ。
そういや、常磐津の後は書の稽古だっけか。
千鳥は常磐津の稽古だから、顔を合わす心配はない、と菊乃はのん気に構えていた。
だが、先日、千鳥を追いかけた経緯を思い起こせば、自分たちと鉢合わせになる展開くらいは予想がつきそうなものだ。
自らの思慮の浅さを思うと、菊乃は腹立たしい気分だった。
千鳥は、峰春のいる部屋の入口まで来ると、当惑した表情で立ち止まった。菊乃たちが、揃って振り返ったからである。
千鳥が戸惑うのも当然だろう。本来はこの時間に指南所にいるはずのない女たちが、千鳥が座るべき位置に居続けているのだから。
しかし、千鳥が戸惑いの素振りを見せたのはほんの一瞬だった。すぐに峰春と綾錦に会釈をすると、二人の話が終わるのを待つつもりか、控えて隣の間の隅に座った。
綾錦は千鳥の来訪に動揺していた。今日は不時の訪問だったが、まさか千鳥がこんなに早く稽古に来るとは予想していなかったと見える。
しかし、峰春は慌てるふうもない。半紙をちょいと舐めては丹念に筆の墨を取っていた。
隣室に控えた千鳥の存在を疎ましく感じながらも、菊乃は、もやもやとした得体の知れない気分を持て余していた。
何だろう、このもどかしさは。
菊乃は、胸のうちで自問した。菊乃の意識は行き場を探しているかのように、ふらふらと部屋の内部を彷徨っている。
はっ……と、菊乃の視線が一点で止まった。峰春の手だ。いや、違う。正確には、峰春の手にした半紙だ。
半紙には、霧雨のように細かい線が無数に付いている。峰春が筆先の墨を取った跡だ。
綾錦が菊乃の筆の後始末をした際も、反古紙に似たような模様が付いていた。しかし、その時は、始末に水を使ったからか、無数に付いた線はもっと太く、また滲んでもいた。
「せ、先生……、ひとつお訊きしいす。うちの姉様は半紙を舐めるのがお嫌いで水を使っていらっしゃるけど、芙蓉さんはどうやって筆の始末をしていたんでありいすか?」
唐突な菊乃の問いに、峰春は一瞬、呆気にとられたような表情を見せた。
「芙蓉さんは、私と同じように始末していましたよ。それがどうかしたかい?」
菊乃は峰春に礼を言って、再び懸命に記憶をたぐる。
もっと前に、先生の持っている半紙と同じような模様を見たことがある……
にわかに、目の前に情景が蘇った。妓楼の裏口、白い猫、振袖を着た手が持っているのは、一枚の半紙。
菊乃は頭を一振りすると、猛然と立ち上がった。
傍らの綾錦が、虚を衝かれたように、菊乃を振り仰ぐ。
「菊乃! 急に立ち上がるなんて、はしたない。どうしいした」
綾錦が顔色を変え、菊乃を諫めようとしたが、ゆっくりお小言を聞いている暇はない。菊乃は手を振りかざして、姉女郎を制した。
「姉様、今わかりました。芙蓉さんが飲まされた毒は、飯や茶や、<ruby><rb>鉄</rb><rt>か</rt></ruby><ruby><rb>漿</rb><rt>ね</rt></ruby>に入っていたんじゃない。この半紙に塗ってあったんです」
菊乃は一気にまくし立てた。綾錦は顔こそ青ざめていたが、咎めもせず、目で話の続きを促した。
「芙蓉さんは文を書いた後、筆に付いた墨を半紙で拭き取っていた。芙蓉さんが自害した翌日、湯殿で部屋持ちの姉さんが話していたのを、姉様も聞きませんでしたか?」
綾錦は、声を吞み込んでしまったかのように押し黙っている。
「部屋持ちの姉さんは『行灯の油を舐めるように、べろんべろん』と言ってました。芙蓉さんは峰春先生と同じように、墨を拭き取る目的で、半紙を舐めて唾を付けていたんです」
「仮にそうだったとして……それじゃ、いったい誰が半紙に毒を塗ったと言うんだい」
ようやく聞こえた綾錦の声は、驚きのためか妙にしゃがれていた。
「姉様、覚えていませんか。部屋持ちは『花魁の近くに、禿がいた』と、確かに言いました。わっちは、今、峰春先生が手にしているような模様の付いた反古紙を、その禿が持っているのを見たんです」
菊乃が言い切った刹那、隣室から、畳を蹴るような、ざっという音がした。
隣室の気配に気づき、菊乃は身を翻して、隣の間に飛び込んだ。
「千鳥!」
名を呼ばれた禿は、すでに土間に下り、引き戸に手を掛けていた。
「芙蓉さんに毒を盛っていたのは、あんた、だね」
菊乃の声に、千鳥がやおら振り向いた。いつものように、こってりと白粉を塗った千鳥は、かっと目を瞠き、挑むように菊乃を睨んでいる。
「妓楼の勝手口の外で会った時、あんたは、墨の線が付いた反古紙を持ってた。綺麗好きの芙蓉さんが嫌うから紙くずを捨てに来た、と弁解していたけど、実際は、そうじゃなかった。毒を塗った紙を、いつまでも部屋に置いておくわけにいかない。だから、こまめに捨てに来ていたんだ」
菊乃に指摘され、千鳥の形相が見る見るうちに変わった。目をひん<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>き、唇を強く嚙み締めている。
怒りなのか、恨みなのか。はたまた、諦めや哀しみの色なのか。さまざまな感情が、血走った千鳥の目に浮かんでは消えていく。
土間に下りようとして、菊乃が一歩踏み出す。その途端、千鳥は引き戸を開けて、外に飛び出した。
「どこに行くのさ!」
慌てて下駄を履いて、菊乃は戸口を出る。あたりを見回すと、千鳥が路地の奥へと走っていくのが見えた。
「菊乃、わっちも行くわ」
歌乃も、下駄を履いて戸口に現れた。
「わっちが千鳥を追いかけて路地を行くから、歌乃は表通りを行って。二人で、千鳥を挟み撃ちにしよう」
歌乃は足の速いほうではないから、挟み撃ちにできるか心もとなかった。とはいえ、この際、四の五の言っている場合ではない。
「わかったわ」
歌乃が、着物の裾を摑んで走り出した。急いで、菊乃も千鳥の後を追う。
<ruby><rb>揚屋町</rb><rt>あげやちょう</rt></ruby>の路地は、裏茶屋と呼ばれる密会専門の茶屋が点在するくらいだから、かなり入り組んでいる。
菊乃も、細い路地に踏み込んだ瞬間、裏茶屋から出てきた芸者と客に、危うくぶつかりそうになった。<ruby><rb>蹈鞴</rb><rt>たたら</rt></ruby>を踏んだところで、ぶっつり下駄の鼻緒を切ってしまった。
思わずしゃがみ込んだ菊乃の背後から、ひたひたと足音が近づいてきた。
「菊乃、どうした」と、姉女郎の声が飛んできた。
「あっ、姉様、鼻緒が……」と菊乃は、恨めしく呟いた。
「下駄なんて、脱いじまいな」と言う綾錦はと見ると、すでに下駄を履いていない。どうやら、峰春の家からここまで裸足で走ってきたらしい。
「千鳥を追いかけるんだろう? さあ、行くよ」
綾錦は、躊躇なく細い路地に入っていく。菊乃も下駄を脱ぎ捨て、姉女郎に従った。
姉様ったら、はっ、速い。
菊乃も全速力で走っているつもりだが、前を行く綾錦に、追いつこうとしても追いつけない。廓の中で、自分以外にこんなに速く走る<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>を、菊乃は見たことがなかった。
さすが、毎夜毎夜、道中で八文字を繰り出しているだけのことはある。綾錦の足腰は、外八文字のおかげで、見事に鍛えられているのだ。
菊乃たちが進む細い路地は、先が三つ辻になっていた。どん詰まりまで来て左右を見ると、右手遠くに千鳥の赤い振袖を認めることができた。
「千鳥は、木戸を出るんじゃないのかえ」
心持ち荒い息荒で、せわしなく綾錦が訊く。
「大丈夫。歌乃が、揚屋町の表通りを河岸の方向に行きました。もし、千鳥が河岸側の木戸を通るなら、歌乃と出くわすはず」
しかし、予測どおりにいかないのは、世の常。菊乃と綾錦が河岸側の木戸に着いたと同時に、歌乃はようやく木戸に姿を見せたのだった。
「ともかく、木戸を通ってみよう」
綾錦の一声で、三人は揃って西河岸へ出た。
だが、昼日中から切見世の女郎を買おうという男伊達は、ちらほら見かけるものの、千鳥の赤い振袖は、どっちを向いても目に入らない。
河岸見世を闊歩する下卑た男たちの視線が、一斉に綾錦に集まり出す。饐えた臭いのするこの猥雑な一画で、綾錦の美貌はまさに掃き溜めに鶴であった。
「姉様、帰りましょうよ」
歌乃が、いの一番に音を上げた。男たちの視線もさることながら、歌乃には、河岸沿いの強烈な臭いが我慢ならないようだ。
「菊乃、千鳥の行きそうなところを知らんのかえ?」
自分を眺める下品な視線もどこ吹く風、綾錦は、千鳥の探索を諦めていないと見える。
「あっ、まさか!」
菊乃の頭のうちに、三間ほど先から入る路地が浮かんだ。
「うちのゆきをこの近くで見かけたことがあります。千鳥はゆきをかわいがってたから、もしかしたら、そこにいるのかも」
と叫ぶやいなや、菊乃は、綾錦の手を引いて走り出した。
後ろで、野郎どもが、げたげたと卑しい笑い声を立てているのが聞こえた。
菊乃たち三人は再び別の路地へ踏み込むと、大きな傷の付いた戸口の前にやって来た。
「この家なのかい?」
綾錦が、訝しそうに問うた。綾錦の顔つきは、なぜ、菊乃がこんな物騒な場所を知っているのか、という極めて強い疑念に満ちている。
菊乃は、綾錦の咎めるような視線を避けて、「あい」とだけ答える。正直に話せば、大目玉を食らうだろう。
とにかく、正直に話すにしろ、口を噤むにしろ、すべては妓楼に帰ってからだ。今は、逃げた千鳥を捜すのが先決だった。
傷の付いた、染みだらけの戸が五寸ほど開いている。
礼を失しているとは思ったが、菊乃は戸の隙間から、こっそりと家の中を覗いた。
雨戸を閉めたままなのか、薄暗い家の中は、土間との境に、ところどころ破れのある障子が見えるだけで、中の様子はほとんどわからない。
その時だ。菊乃は、障子の前を横切る人影を見た。
「あっ、千鳥!」
菊乃は、大きく音を立てて戸を開いた。
「千鳥! やっぱり、あんた、ここにいたんだね」
迷うことなく、菊乃は土間へと踏み込んでいく。
土間の隅で顔を強張らせて立っているのは、紛れもなく千鳥だった。
千鳥は抑揚のない乾いた声で「帰ってよ」と呟いた。
「帰ってほしかったら、なんで芙蓉さんに毒を盛ったのか、そのわけを白状しなよ。峰春先生のところから逃げたってのは、自分の罪を認めたって証だろう?」
菊乃は怒気を込めて言い放った。千鳥が毒を盛り続けたせいで、全盛の花魁が命を絶ったのだ。年端もいかぬ子供の仕業とはいえ、どうしたって、うやむやにはしておけない。
「うるさいわねっ。あんたなんかに何がわかるっていうの!」
千鳥が、悲鳴とも叫びともつかぬ声を上げた直後だった。誰かが千鳥を呼んだ。
千鳥は、いったん戸の中に顔を引っ込め、何やら中にいる人間と言い合いをしている。
が、やがて、菊乃たちに向き直ると、あからさまに不承不承の顔つきながら、一行を家の中に迎え入れた。
土間に入ると、障子の奥に布団が敷いてあり、誰かが臥せっているのが見えた。
「むさ苦しいところへ、よくぞ来てくれんした」
うめくような苦しげな声がして、布団の上に、人が起き直る気配がした。
(続く)</pre>
<br />
<div style="text-align: right;">
<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; clear: both; padding: 20px;">
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://amzn.to/2HwzcTD" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 2em;" target="_blank"><img border="0" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/61md80nnlUL.jpg" width="150" data-original-width="353" data-original-height="500" /></a>
</div>
<div style="text-align: left; font-size:13px;"><b>『蝶々雲──かむろ菊乃の廓文章』風花千里<br />
《第1~13章まで全編収録したペーパーバックと電子書籍を発売中》</b><br />
吉原の妓楼、丁子屋の禿(かむろ)菊乃は、花魁の綾錦に従い、引手茶屋に来た。当代きっての絵師が、吉原の名花五人の美人画を描く企画で、丁子屋からは綾錦と芙蓉が選ばれていた。遅れて来た花魁の芙蓉は、四半時もせぬうちに具合が悪くなり退出する。その夜、芙蓉が自害。芙蓉には身請けの話があり、望まぬ身請けを苦にしての自害だと噂されたが……。
</div><br /><br /><br />
<a href="https://amzn.to/2qntHiF" target="_blank"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiSxVX7OrpUv35vRvibhUWXnBYNJ7OzTZr-tkMeJACuztiuknKqFEYD61w23Dn8RRZqA9E5qjmi1QxEemf2wVvymBI5qN_8jL0LU4pG81GFZFk4KdiWQ41zJ9p_WIDuF15nPR9xuDTmNF6g/s320/amazon.jpg" height="22"></a> <a href="https://amzn.to/2HcLsut" target="_blank"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhu7liVFpBh-MTNLbUlEZ5esGEvVdsbwcbJaHxbmkWDJyH4ftPyTd8SwaPw8ivZdMIaHayYWZgpGYT3RRAgqZMBtJMwmQZqegfgpt4tJLj0Ea7gCwzaIc_MB6VzIciBHbhWIQrW-hpvVH-i/s320/kindle.jpg" height="22"></a></div>
</div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-42614914715960768332018-08-15T07:00:00.000+09:002018-08-15T07:00:04.933+09:00写真「変化朝顔Ⅱ」/ 細身 撓<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; background: #000000; padding: 5px 0px 0px;">
<iframe style="border:none" src="https://s3.amazonaws.com/files.photosnack.com/iframejs/widget.html?hash=ptnq1w463&t=1534054509" width="608" height="460" allowfullscreen="true" mozallowfullscreen="true" webkitallowfullscreen="true" ></iframe></div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-201373201324476352018-08-12T08:00:00.000+09:002018-08-12T16:23:11.432+09:00短編小説「毛抜き」/ 風花千里<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; clear: both; padding: 20px;">
<pre class="lp-vertical lp-width-580 lp-height-350 lp-font-size-16">
<b>毛抜き 風花千里</b>
イラついているのは残暑のせいばかりではない。
胃の奥にむかつきを感じながら、鏡台の引き出しから毛抜きを取り出す。ステンレス製のエロティックなまでに美しいラインを持つ毛抜き。それが、窓越しに入ってくる陽光を受けて妖しく光っている。
イライラするときは毛を抜くに限る。眉、腕、脇……全身の毛が私の心を鎮めようとおとなしく待っている。穿いていたジーンズの裾をめくり上げる。今日は脛にしよう。毛抜きの先で脛の毛の根元をはさみ、毛の流れに逆らわずに引っぱる。ぷつ。わずかな手ごたえがある。毛抜きの先端部分に毛が一本、しっぽを掴まれたネズミのように捕らわれている。ぷつ。ぷつ……一本また一本。直径5センチほどの円上にある毛を抜き終えると、むかつきが少し収まった気がする。<a name='more'></a>
目を転じると、リビングの隅にプラスチックのケースが横倒しになっているのが見えた。息子がクワガタを飼っていたケースだ。
雅也ったら、あれほど片付けなさいって言ったのに。
怒りでまたむかむかする上腹部を押さえ、片手でケースを起こす。蓋を開けると、中には腐葉土と産卵用の朽木しか入っていなかった。少し前、次々と死んでしまったつがいのクワガタは、雅也が庭に埋めたらしい。しかし、そこで彼のクワガタ飼育は完結してしまった。片付けだけのことじゃない。帰宅時間は守らない、帰ってきたら寝転がってテレビを見ているだけ。何度注意したって私の言うことなんて聞きゃしない。そういうところ、夫とそっくりだ。
私はまた毛抜きを取ろうとして、妙なものに気づいた。ケース内の朽木の表面がどこか変だ。顔を近づけてみる。小さな緑色のつぶつぶがびっしりとついている。一瞬にして全身が総毛立った。なんだろう、何かの卵?。けれどもクワガタの卵でないことは確かだ。クワガタは朽木に穴を開けてそこに産卵するはず。表面に産みつけるなんてことはない。私は息子の部屋に行き、ルーペを持って戻ってきた。
ルーペの面に大きく浮かび上がったのは、緑の待ち針のような形をしたえたいのしれないシロモノだった。木の表面から細い軸のようなものが伸び、丸い傘がついている。私は長さ2ミリほどの軸を毛抜きでつまむと、ぴっと引っ張った。全部つまみ取ったら、私のイラつきも消え、爽快な気分になれるんじゃないかと思ったのだ。
しかし結局、つまむのは一本でやめた。私自身ちっとも気持ちよくならなかったし、この丸っこい形のシロモノにどこか愛嬌があって、すぐに捨ててしまう気にもならなかったからだ。私はケースに蓋をすると、しばらく考えてから自分の寝室に運んだ。
その夜、物音を聞きつけ、私はベッドの中で目を覚ました。夫が帰ってきたのか? ライトをつけ、枕元の時計を見る。午前2時。相変わらずの午前様だ。私が何度文句を言ってもこの調子。穏やかで満ち足りた家庭などすでに諦めているけれど、こうやってわずかな物音で起こされる妻の身にはなってほしい。一度覚醒してしまえば、すぐに入眠することは難しい。だからずっと寝不足のまま。イライラだけが増幅され、無為に時間が過ぎていく。夫はまだ階下にいるのか。
私たち夫婦は同じ職場に勤めていた。それが、12年前に雅也が生まれた時、夫は私に退職を促した。社内では同等の立場にあったはずなのに、私だけが子育てを押し付けられた。すでに子どもは親の手を離れつつあるが、12年のブランクを経て復職するには、年を取りすぎていた。この先、毛を抜くことで自分をごまかしながら生きていくのかと思うと、気分はますます滅入る。
外は雨が降っているようだった。私はベッドサイドの引き出しを開け、毛抜きを取り出した。毛抜きは家中のありとあらゆるところにしまってある。気を静めたうえでもう一度眠りにつきたかった。
はっ
私は思わず投げ出していた足を引いた。足首に生温かい感触がある。それはゆっくりと上に向かって這い上がってくるようだ。半身を起こした私は、タオルケットをどけた。そして目を疑った。ぬるぬるした巨大なアメーバのような生き物が、膝から太股にかけてへばりついていた。大声を上げようとして、あわてて自分の口を手でふさいだ。そして後ろを振り返る。窓際に置かれたプラスチックケースの蓋がはずれている。やっぱりそうだ。あれは変形菌なのだ。
昼間調べたところでは、朽木の表面についていたシロモノはキノコでもカビでもなく、変形菌と呼ばれる生物らしかった。普段は胞子を持った子実体として一ヵ所にとどまっているが、湿度が高くなると胞子を出して変形体というアメーバのようになって自由に移動できるようになる。朽木のシロモノは、形は「ツヤエリホコリ」という変形菌によく似ているが、色は黒ではない。だから確証が持てなかったのだ。
そうこうしている間にも、変形菌は私の体の上を這ってくる。初めは見えなかったが、大きさは1メートル近くあるようだ。ぬめっとしたゼリー状の物体が両脚の交点に向かって進んでくる。恐怖のあまり、私はその場に固まった。
お、犯される
ぬめぬめとした感触が内股を撫でていく時、突拍子もない考えが頭をかすめた。しかし、私の妄想を嘲るかのように、変形菌は交点を避けて、さらに上を目指す。どうしよう、この大きさの変形菌に口を塞がれたら、私は間違いなく息の根を止められてしまう。ようやく我に返り、私は変形菌から逃れようとする。けれども思いのほか変形菌は重く、ずるずると胸の上に覆いかぶさってきた。いやだ、いやだ。私は、頭を振って、体を思いきりねじった。
変形菌の動きが止まった。ぬくもりが私の体をすっぽりと覆う。まるで、母親が赤ん坊をそっと抱きしめるようだ。私の手から毛抜きが離れ、フローリングの床の上に落ちた。
私は怖いのも忘れ、目を閉じた。そして変形菌と密着した肌からじんわりと染み通ってくる温かな感触を味わっていた。目の奥が熱くなる。知らず知らずのうちに私は泣いていた。涙が後から後からあふれてきて、頬を伝って落ちていく。こんなに感情をさらけ出したのは初めてかもしれない。他人に気持ちをさらけ出すには、逆に気を使わなくてはいけない。けれども、今なら無条件に受け止めてくれる、そんな安心感のようなものがあった。
私は森のような匂いに包まれながら、あまりの心地よさに意識を失っていった。
翌朝、目を覚ました私は、真っ先に窓辺に駆け寄った。
あれは夢だったのか。朽木は木肌がむき出しになり、変形菌はどこにも見当たらなかった。窓がほんの少し開いている。それとも、私のような鬱屈をかかえた人間のところへ移っていくのか。
ベッドから下りようとして、床に落ちていた毛抜きに気づいた。あんなに心のよりどころになっていた毛抜きなのに、なぜか冷たく、無機質なただの道具にしか見えない。
かすかな寝息が聞こえた。となりで夫が眠っていた。少し髭ののびた邪気のないその顔を眺めているうちに、巣くっていたもやもやがいつの間にか消えたのに気づいた。</pre></div>
<br>
<SCRIPT charset="utf-8" type="text/javascript" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?rt=tf_cw&ServiceVersion=20070822&MarketPlace=JP&ID=V20070822%2FJP%2Fdichasia-22%2F8010%2F49b0a455-2bb1-41c0-93e4-ddb501ffce17&Operation=GetScriptTemplate"> </SCRIPT> <NOSCRIPT><A rel="nofollow" HREF="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?rt=tf_cw&ServiceVersion=20070822&MarketPlace=JP&ID=V20070822%2FJP%2Fdichasia-22%2F8010%2F49b0a455-2bb1-41c0-93e4-ddb501ffce17&Operation=NoScript">Amazon.co.jp ウィジェット</A></NOSCRIPT>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-80792191324844773572018-08-09T08:00:00.000+09:002018-08-10T00:19:17.232+09:00一文字小説 008 / 風花銀次<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; clear: both; padding: 20px;">
<div style="text-align: center;">
<table>
<tbody>
<tr>
<td width="430" valign="top">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhDFCD87pClltFxh9bIVgo3ElGXpamFL_Yg2BIyXgahIE6q8NiH5W_GGp-9bZILpNP74PYf3MHxqLnWMOlbktefVc1ZSiX9r7-ADehGEj1bNMwvEoGVHBd98yhmeppfk7wqjtY8QExxQ0QG/s1600/%25E4%25B8%2580%25E6%2596%2587%25E5%25AD%2597%25E5%25B0%258F%25E8%25AA%25AC.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhDFCD87pClltFxh9bIVgo3ElGXpamFL_Yg2BIyXgahIE6q8NiH5W_GGp-9bZILpNP74PYf3MHxqLnWMOlbktefVc1ZSiX9r7-ADehGEj1bNMwvEoGVHBd98yhmeppfk7wqjtY8QExxQ0QG/s1600/%25E4%25B8%2580%25E6%2596%2587%25E5%25AD%2597%25E5%25B0%258F%25E8%25AA%25AC.jpg" width="350" /></a>
</td>
<td width="120">
<pre class="lp-vertical lp-width-120 lp-height-350 lp-font-size-20">
<b>一文字小説 其ノ八 風花銀次</b>
</pre>
</td>
</tr>
</tbody>
</table><a name='more'></a>
<pre class="lp-vertical lp-width-580 lp-height-350 lp-font-size-18">
【解説】
漢名で「毛蛤」という結構なお名前の貝があります。和名は猿頬貝で、藻貝や弥勒貝などと地方名も多く、広く親しまれており、赤貝の近縁種。あたしが子供の時分は潮干狩りでよく採れ、母が佃煮や炊き込みご飯にしてくれました。赤貝と同様血液にヘモグロビンを含み剥き身にしちゃえば見た目に区別はつかず、缶詰などでは「赤貝実は猿頬貝」と歌舞伎狂言の<ruby><rb>役名</rb><rt>やくな</rt></ruby>のようになることも。とはいえ島根の中海や宍道湖あたりでは地方名が赤貝だったりするので嘘ともいえずでややこしい。そこで妙案、赤貝よか小ぶりな猿頬貝の別名なら「毛蜆」とかよくね?と提案しつつ、一文字で「毛が薄い」なんて悪く洒落た次第です。はい。
宍道湖のみちひきは真実かなし
しゞみごときが汐をふきけり</pre>
</div>
</div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-54255144037661594422018-08-04T08:00:00.000+09:002018-08-04T08:00:05.843+09:00小説「蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章」09 / 風花千里<pre class="nehan3-pagerize" style="display: none;"> <h4><b>蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章
風花千里</b></h4>
<b>第九章 姉女郎の秘密</b>
「ひーっ、冷たかった」
息を吐きかけながら、菊乃は、真っ赤になってかじかんだ手をこすり合わせた。
菊乃は妓楼の勝手口の外で、盥に水を張り、書道用の筆を洗ってきたところだった。
今まで洗われることのなかった筆は、墨に含まれる膠の働きで穂先がかちかちに固まってしまい、枯れ枝のごとき有様になっていた。
部屋では、綾錦が一人で化粧をしていた。綾錦の前に据えられた置き鏡には、呆れるのを通り越して、諦めの念が漂う姉女郎の顔が映っている。
「これまでがだらしなくて一切洗ってなかったんだから、仕方ないね」<a name='more'></a>
眉を引くのに忙しいからか、綾錦の反応は、にべもしゃしゃりもない。
芙蓉が自害してから、すでにひと月が過ぎようとしていた。
月は、神無月から霜月へと替わり、江戸の町もぐっと冷え込む日が多くなっていた。霜月は、吉原の裏手にある<ruby><rb> 鷲 </rb><rt>おおとり</rt></ruby>神社に酉の市が立つ。お酉様詣を口実に立ち寄る客で、廓もそこそこ賑わっていた。
芙蓉に毒を盛った犯人は、依然として判明しなかった。
毒殺魔は芙蓉の朝飯を運んでいた白梅という噂が広まり、一時は妓楼の私刑を受ける羽目になりそうだった。だが、同じ部屋の千鳥の証言で白梅は放免された。芙蓉は朝飯後に歯を磨く習慣があり、白梅が朝飯を運ぶ時、千鳥も水の入った耳盥を持って一緒に部屋へ帰っていた。つまり、白梅も千鳥もお互いに毒を盛る隙はないという見方だった。
「綺麗に洗えたかえ」
いつの間にやら、綾錦が眉を引き終えて、菊乃の横に来ていた。菊乃が洗ってきた筆を手に取り、汚れが落ちているかどうか、穂先を念入りに点検している。
「まったく。これまで稽古が済んだらお前たちを先に帰してたから、こんなに道具をぞんざいに扱ってるなんて気づかなかったよ。おや? 小筆まで水に浸けて洗ってしまったのかい? 小筆は先っぽだけ墨を落とせばいい。軸のところまで洗ってはいけないんだよ」
綾錦は、菊乃の小筆を示した。菊乃は、なんの考えもなしに、小筆の、墨を含んでいない白い部分まで水に浸けてほぐしてしまったのだ。生乾きの小筆は、大筆と同じく、庭箒のようにぼさぼさに乱れている。
「えっ? それじゃ、小筆は、どうやって洗うの?」
綾錦に指摘された菊乃は、姉女郎の顔と小筆の先を交互に見比べた。
そもそも筆を洗った経験自体が皆無だから、特有の洗い方なんて知っているわけがない。
綾錦は「今まで知らなかったのかえ?」と苦笑しながら、それでも身振り手振りを交えて、詳しく説明してくれた。
「小筆は洗うというより拭くんだ。要らない布や紙に水を含ませて、その上で筆の先の墨を取る」
綾錦は、手近にあったぼろ布に水差しの水を少量垂らした。その上へ筆で縦線を引く。布の上には若い柳のような細い線が残った。
「ほら、こうやって墨が付かなくなるまで線を引くと、筆のほうは、知らぬ間に綺麗になってるって寸法さ。小筆は筆先しか使わないだろう? 膠で固めてある白い部分は絶対に洗っちゃいけない」
綾錦が手にしたぼろ布には、若い柳の葉のような、細い線が何本も残っていた。
「さっ、新しいのをやるから、これからは大切に扱うんだよ」
綾錦は立ち上がって、芸事の道具を入れた抽斗から真新しい小筆を取り出すと、菊乃に寄越した。
「あい、ありがとうございます」
殿様からの拝領品を前にしたごとく、細くて華奢な造りの新しい筆を、菊乃はありがたく押しいただいた。
「姉様……」と、頼りなげな声が聞こえたかと思うと、音もなく襖が開いた。
幽霊の浜風といった風情で、歌乃がのっそりと入ってきた。
「どうした?」
綾錦の視線が、すかさず、菊乃から歌乃へと移った。綾錦は、呆けたように突っ立っている歌乃を、心配そうに注視する。
尋常でない様子に、菊乃も姉女郎にならって、歌乃の全身を眺め回した。
「あれっ? 歌乃、あんた、怪我をしてるんじゃないの? 足に血が付いているよ」
腰を浮かせ、菊乃は、歌乃の足元を指さした。部屋着の裾から出た右足に、血を拭き取った跡がある。
歌乃のくるぶしのあたりを、綾錦はじっと見ていたが、やがて、ほっとしたようにひと息つくと、にんわりと微笑んだ。
「歌乃、お前、もしかして初花かい?」
初花とは、つまり初潮のことだ。
歌乃は、頷いたきりしばらく黙っていたが、すぐに、今にも泣きそうな顔をして「あねさまぁ」と駆け寄ってきた。
「おなかが痛かったから厠に行ったの。そしたら、血が出てきたから、わっち、驚いてしまって……、急いで、初糸姉さんを呼びに行ったんだけど、どこにもいないの」
突然の出血に、歌乃は相当取り乱していたのだろう。初糸が、階下の支度部屋で髪を結ってもらっているのを、すっかり忘れてしまったようだ。
「歌乃、初花は、女だったら皆、いつかは迎えることだからね。なーんにも怖がることなんかないよ。さあ、手当ての仕方を教えてあげるから、こっちへおいで」
歌乃の昂った気持ちを静めようとしているのか、綾錦は穏やかに言い聞かせると、歌乃を部屋の奥へと誘った。
歌乃のくるぶしに付いた血の跡に、いまだ菊乃の目は釘付けになっていた。
そういえば、歌乃は、胸もだいぶ膨らんでいたっけ。
菊乃は、湯殿で目にする歌乃の胸乳を思い出していた。さらに近頃、歌乃は乳房だけでなく、下腹の周辺にも変化が表れ、足の付け根にかけて色濃く陰翳がついていた。
綾錦が、重ね簞笥の、さらに上に載った用簞笥の抽斗から、上質の柔らかな御簾紙を一束、さっと取り出した。
「いいかい、これから月のものが来たら、このお馬に何枚か重ねた御簾紙を載せて、殿方が褌をするように腰に巻きつけるんだよ」
綾錦が「お馬」と呼ばれる布切れを、歌乃に見せている。長四角の白い布の四隅には紐が付いていて、どうやら、この紐を腰に巻くらしい。
「浅草紙を使う向きもあるようだが、あれは肌触りが悪いからね。この用簞笥の抽斗に入れておくから、御簾紙を使っていいよ」
歌乃は、もじもじしながら、綾錦からお馬を受け取った。
その時、歌乃の足の間から、また一滴の血がひたっと垂れた。畳の上に落ちた、ねろりとして、微かに粘り気を帯びた赤い滴は、窓越しに射し込む弱い日の光を受け、どことなく淫靡な様相を呈している。
畳に付いた血痕を凝視しているうちに、菊乃は、くらりと眩暈がした。少し黒みがかった赤い色は生を感じさせると同時に、体の奥底を揺さぶるような激しい衝動を与える。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
歌乃に先を越されたのが嫌なのか。それとも、いずれ自分にも初花が来るのが嫌なのか。
何が嫌なのかよくはわからないが、得体の知れない嫌悪の情が菊乃の脳裏を駆け巡った。
菊乃は、にわかにいたたまれない気持ちになって、顔を背けたまま静かに外へ出た。
歌乃ったら、なんだか遠い人になっちゃったみたい。
今日の歌乃は、昨日まで菊乃と戯れ合っていた歌乃とは、どこかが確実に違っていた。うまく説明できないが、たとえば、汲めども尽きぬ泉がしんしんと湧き出ているかのように、身の内から潤っていたとでも言えばいいか。
歌乃のこせこせしたところのない、のんびりとした顔しか、今まで菊乃は知らなかった。
だが、姉女郎から月経の処置の仕方を教わっていた歌乃は、はにかんだ表情を浮かべ、薄絹をまとったような、しっとりとした色気を漂わせていた。それに、ひと息に大人びた物腰までを身につけてしまったようにも見えた。
歌乃は、大人の女への階段を上り始めたが、自分は独り置いてけぼりを食っていると思うと、菊乃の心は、ますます沈んでいった。
憂さ晴らしのつもりで、菊乃は、突っかけていた内履きの草履を片方、ぽーんと勢いよく飛ばした。
草履は、菊乃が立っていた廊下から、二間ほど先に落ちて止まった。花魁の文を持って通りかかった紅葉という<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>が、裏返った菊乃の草履を見て目を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いた。
菊乃は近づいていって、裏返ったままの草履を再び蹴飛ばした。しゅっ、と草履の廊下を滑る音が響く。
行儀の悪さを咎めようとして口を開きかけた紅葉を尻目に、菊乃は、蹴鞠をするごとく草履を蹴飛ばしながら、二階の奥へと進んだ。
二階の奥まった一画は、普段、菊乃があまり立ち入らない場所だった。
部屋持ちの小部屋や、一人の女郎に客が重なった時に一時的に使う廻し部屋などが、入り組んだ廊下に沿ってずらりと並んでいた。
階下に髪結いが来ているので、髪を結う必要のある女たちは、皆、支度部屋にいるのか、ほとんど人影は見えない。はるか向こうの廊下で、拭き掃除をしている喜助の姿が、ちらちらと目に入るだけだった。
連なった小部屋が途切れたところに、出格子が造られている。菊乃は、出格子の前で立ち止まった。格子の隙間から、時折、ひゅううと吹き込んでくる北風が、むしゃくしゃした菊乃の気分を、ほんの一瞬だが醒ましてくれる。
「ふぐっ、んぐっ」
風の音にしては、やけにくぐもった音が廊下を流れてきた。声を出したいのに、口を塞がれている、といったような感じの内に籠った音である。
菊乃は、もう片方の草履も脱ぎ、足音を立てないようにして音の出所を探った。
耳を澄ますと、出格子の先にある行灯部屋から、断続して音が聞こえる。行灯部屋は、昼間は使わない行灯を集めてしまっておく部屋だった。
抜き足、差し足、忍び足で、行灯部屋の板戸の前に近づいた。
「はあぁ、ああぁ」
戸口に耳を寄せていた菊乃は、中から漏れてくる声を聞いて驚いた。紛れもない女の声が、苦しそうにあえいでいる。
菊乃は、慌てて戸口に手を掛けた。こんな狭い部屋の中で具合が悪くなっているのであれば、早く助け出してやらなくてはいけない。
「ああ、清さん。もっと強く抱いておくれよう」
板戸を開けようとした時、押し殺したような女の話し声が聞こえたので、菊乃は、ぎくりとして身を引いた。行灯部屋の中には、女のほかにも誰かいる。
客だろうか。行灯部屋は人の出入りが少ないせいで、寒くて湿っぽい、陰気な場所だ。居続けの客なら、いくら何でも行灯部屋で睦み合うなんて酔狂な真似はしないだろう。
ということは……
菊乃の頭に「<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby><ruby><rb>夫</rb><rt>ぶ</rt></ruby>」という語が閃いた。おそらく二階に<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>が少なくなったのをいいことに、どこかの部屋持ちが、客として登楼するほどの金がない<ruby><rb>情</rb><rt>い</rt></ruby><ruby><rb>人</rb><rt>ろ</rt></ruby>を引っ張り込んだのだ。
自分の部屋では、すぐに見つかってしまう。だから、他人の目につきにくい行灯部屋で、一時の逢瀬を楽しんでいるというわけだ。
「ああん、わっちは、清さんこそが命。もうほかの客と寝るのは嫌なのさ」
女が、くどくどとかき口説いている。
べたべた甘ったるい女の嬌声に、菊乃は、<ruby><rb>鳩</rb><rt>みず</rt></ruby><ruby><rb>尾</rb><rt>おち</rt></ruby>に不快なむかつきを覚えた。
荒々しい息遣いに交じって、男の忍び声が聞こえてきた。
「それじゃあ、俺とここから逃げるかい?」
「ほんと? 嬉しい。絶対だよ、指きりげんまん」
あたりを憚るのも忘れたのか、女は、大はしゃぎで男に抱きついた気配である。どさっと床に倒れ込むような音がしたかと思うと、あからさまに淫らなあえぎ声が、板戸を隔てた向こうから漏れてくる。
あん、ああん、ああん……
これまでは、さして気にならなかった、房中からの猥雑な声が、饐えた飯の臭いのごとく、菊乃の鳩尾をきりきりと締め上げる。胃袋の中で渦巻いていた酸っぱいものが、喉元に込み上げてきて、思わず吐きそうになる。
菊乃は、悲鳴まじりに、一声高く叫んだ。
「ああ、もう、たくさんだ!」
手で両の耳を痛いほどに覆い、菊乃は一目散に、その場から逃げ出した。
薄い紗のような雲を通して、お天道様がどんよりとした、生気のない顔を見せている。
物干し場の片隅で、菊乃は膝を抱えて座り込んでいた。先ほど出格子から吹き込んでいた風は、ひんやりと冷たかったが、お天道様の力というのは、やはり比類なく強い。
今日くらいの、やる気の皆目なさそうな営みであっても、肌に触れる冷ややかな寒風を和らげ、人のささくれ立った感情を穏やかにするくらいは、朝飯前のようだ。
「こんなところに、いたのかえ」
突然聞こえた人の声に驚いて、菊乃は振り向いた。綾錦が、物干し場の戸にもたれて立っていた。
床板をぎしぎしと踏み鳴らしながら、綾錦は、菊乃の横に来てゆっくりと腰を下ろした。
菊乃と同じ膝を抱えた格好で、綾錦も黙って空を見ている。殺風景な物干し場の中で、姉女郎の足の爪に塗られた紅が、咲き乱れる紅梅のように鮮やかだった。
「菊乃、大きくなったねえ」
綾錦が、しみじみと感慨深げに呟いた。
「二年前、わっちのところに来た頃は、日に焼けた、細っこい、目ばかりぎょろぎょろした子供だったのに、いつの間にやら、こんなにふっくらとしてきていたんだね」
綾錦は、目を細めながら、菊乃の頬を指で押した。
姉女郎の慈しむような視線にさらされ、菊乃はこそばゆい気分になって、思わず俯いた。
「菊乃は、大人になるのが嫌なのかい?」
垂れた菊乃の頭の上から、綾錦の案ずるような声が降ってきた。
大人になる? 菊乃は、姉女郎の言葉を反芻する。
大人になるって、体が大きくなって、胸が膨らんで、初花が来て、それから……
廓の中で大人になるという意味は、苦界と呼ばれる稼業に足を踏み入れるということ。
だが、嫌だと言ってみたところで、どうなのだ。体は知らぬ間に丸みを帯びて成長する。大人として、女として成熟すれば、否応なしに客を取らねばならないのが廓の定めだった。
では、女郎の勤めが嫌なら、先ほどの行灯部屋の女のように、情人をつくって廓から逃げればいいのか。
いや。菊乃は、自分の経験から痛いほどわかっていた。逃げようと思っても、到底逃げ切れるものじゃない。その上、ほとんどの女たちは、仮に逃げ切れたところで、その先に行くあてもない。
まさに、八方塞がりなのだ。
廓に来たのは、お前の運命なのだと言うのなら仕方がない。けれど、正直なところ、大人にならなくてもいいものならば、菊乃はいつまでも十二歳のままで止まっていたいと思った。
「お前は、勉強が好きかえ?」
菊乃が下を向いたまま返事をしないからか、綾錦は、妹女郎の気を引き立てるように、話題を変えた。
意表を突いた綾錦の質問に、菊乃は、無意識のうちに「うん」と答えていた。
綾錦に読み書きを習ってからというもの、菊乃は暇さえあれば本を読んだ。草双紙、和歌集、それに、読本の類い。特に最近は、曲亭馬琴作の読本である『南総里見八犬伝』を読みたくて、漢字の勉強まで始めたほどだ。
自身も本をよく読むので、綾錦は、禿や新造の読書に関して無条件に奨励していた。だから、昼下がりの綾錦の部屋は、皆が揃っていても、それぞれが好みの本を読み耽っていて、水を打ったように静まり返っていることが多々あった。
「お前は、わっちの妹によく似ている」
顔を正面に戻した綾錦は、遠くを見つめるような目をして言った。
「姉様の妹?」
菊乃は、きょとんとして綾錦の横顔を見遣った。姉女郎が、自らの家族について語るのは初めてのことだ。
「わっちは、六人きょうだいの一番上なんだ。一つ下に妹がいてね。お転婆で、何にでも首を突っ込みたがるところは、お前とそっくりだった」
菊乃は江戸で生まれたから、地方の状況はよく知らぬ。だが、綾錦が生まれ育ったのは盛岡近くの小さな村だ、と聞いた覚えがあった。綾錦の妹は、江戸に出てきた姉に代わって、家で兄弟の面倒を見ているのだろうか。
「その姉様の妹って、今はどうしてるの?」
自分に似ているという姉女郎の妹に思いを馳せながら、菊乃は無邪気に訊ねた。
「死んだよ」
綾錦は、お天道様をじっと見据えると、なげやりな口調で言った。
「わっちが生まれた村は、とても貧しかった。海から来る『やませ』という風のせいで、しょっちゅう飢饉が起きていたんだ。だから、家族が食べていくために、わっちも妹も、小さいうちから働かされた。もちろん、勉強なんてする暇はない。二人とも、文字はおろか、数字だってろくに読めなかったよ。ところがね、ある日、村の庄屋様の屋敷の近くを通った時に、『消息往来』と『千字文』を拾ったんだ。たぶん、庄屋様の家の子供が落としたものだろう。わっちと妹は小躍りして、こっそりとその二冊の手引書を家に持ち帰った。それからというもの、朝、人より早く起きて、一所懸命に文字を覚えたのさ」
綾錦が、ふうっと息を継いだ。姉妹が揃って早起きし、頭をつき合わせて手引書を読んだ記憶が蘇っているのだろう。菊乃には、綾錦の固かった表情が、ほんの少し和らいだように見える。
「妹は、わっちよりずっと物覚えのいい子だった。おそらく家に余裕ができたら、勉強をしたいと夢見ていたと思う。だが、それも死病に取り憑かれてしまっては、はかない夢でしかなくなった。妹は父さんと一緒に、土砂降りの雨の中で働いた後、労咳にやられちまったんだ。妹が血を吐いて死ぬまでは、本当にあっという間だった。苦しい息の中から、『姉ちゃん、本が読みたい』と訴える妹の声が、今でも耳について離れないよ」
亡き妹の声を手繰り寄せるかのように、綾錦が目をつぶった。薄雲を隠れ蓑にしていたお天道様が、雲の切れ間からそっと顔を覗かせ、下界の様子を窺っている。
初めて耳にする姉女郎の家族の話は、菊乃の想像をはるかに超えて悲惨であった。大きな飢饉の話は、江戸にいても聞こえてきたが、実は、田舎は絶えず飢饉に見舞われ、長い間に村自体が疲弊し切っているらしい。
姉女郎の苦渋に満ちた横顔を脳裏に刻みながら、菊乃は、おずおずと訊ねた。
「それじゃ、姉様が廓に来たのは……」
「ああ、妹の後を追うように、父さんも死んじまってね。残された母さんと四人の弟妹を食わせるために江戸に来たってわけさ。まあ、おかげで弟妹たちは無事育って、一人は、今この江戸に出てきてるけどね」
ふと思いついて、菊乃は姉女郎に問うてみる。
「姉様は来てすぐに、廓の暮らしに慣れることができた?」
廓に押し込められて三年も経つのに、菊乃はいまだに窮屈な生活に辟易していた。
半ば騙されて連れてこられた菊乃と違って、家族のためとはいえ、綾錦は納得ずくで廓にやって来た。だから思いのほか楽に、廓の暮らしに馴染めたのではないかと思ったのだ。
「馬鹿をお言いでないよ。こんなところ、十年も経った今だって慣れるもんかえ」
菊乃の質問が気に障ったのか、綾錦は、不機嫌そうな面差しを菊乃に向けた。しかし、顔を強張らせていたのは、ほんの一瞬。何か思い出したことがあったと見え、綾錦はすぐに機嫌を直した。
「菊乃。女郎ってのは、年季が明けるのに長い年月がかかるだろう?」
菊乃は重々しく頷く。女郎として廓に閉じ込められる年月を考えると、菊乃とて、近頃は、やりきれない思いに煩わされることが多かった。
「あれは、わっちが初めて大門をくぐった日のことだ。道中の女衒のお喋りから、いくら子供のわっちでも、いったん大門をくぐれば、年季が明けるまで自由はないってことくらい重々わかっていた。吉原のしみったれた冠木門をくぐった時は、情けなさと先々への不安で涙が出そうだったよ」
菊乃は、思わず「そうそう」という相槌を打った。外界と自分をわかつのが、あの貧相な冠木門だと思うと、近くを通るたびに腹立たしくなる。それゆえ、情けないと泣きべそをかいた幼い綾錦の気持ちが、菊乃にはたいそうよくわかった。
「じゃ姉様は、十年も廓で過ごして呼出しにまでなったけど、途中で嫌になったり、<ruby><rb>自</rb><rt>や</rt></ruby><ruby><rb>棄</rb><rt>け</rt></ruby>を起こしたことはなかった?」
菊乃は、重ねて訊ねた。姉女郎にしつこいと思われるかもしれないという懸念はあった。
だがこれまでは、姉女郎の昔話を聞こうにも、部屋には誰かしらほかにいて、綾錦と差し向かいで話をする機会はほとんどなかったのだ。
箏、俳諧はもとより、三味線、書、囲碁、将棋、茶の湯、生け花等々、綾錦にはひと通りの心得がある。昔日の吉原で全盛を誇った太夫に匹敵する教養を、綾錦は身につけていた。
ともすれば、客を取ることだけが生きている証、といった女郎が多い中で、十年の間に、綾錦の心が、気力が、挫けてしまった日はなかったのか。菊乃は以前から気になっていた。
「そりゃ、嫌になったことはあるさ。廓から逃げようと考えた時期だってある。一昔前のお前のようにね。でも、逃げたら家族に迷惑がかかるだろう。だから、逃げないで年季を全うしてやると決めた」
綾錦は、静かに、しかし、ぴしりと言い切った。おそらく、幼い時分に、たった独りで決心した時も、同様の気概を見せたに違いない。
「といっても、ただ年季を勤め上げるだけのつもりはなかった。人は皆、心のどこかに弱いところを持っている。年季の長さに嫌気が差せば、その弱い面が顔を出し、果ては何者かに付け込まれるやもしれぬ。そこで、わっちは、長い歳月を首尾よくやり過ごす手立てを考え、とうとうそれを見つけたのさ」
「やり過ごす手立て?」
綾錦の言葉の意味がわからず、菊乃は鸚鵡のように問い返した。
綾錦はゆっくりとした口調で、「遠くでもなく、近くでもなく、その間を見ながら生きるってことさ」と答えた。
えっ?
綾錦とのやり取りは、禅問答のようで、ますます意味がわからない。菊乃は、教えを請うように姉女郎を仰ぎ見た。
幼子に対するごとく、綾錦は菊乃の頭を優しく撫でた。
「たとえばさ、菊乃が学問の道に入ろうとしたとして、博士になるには二十年も三十年もかかる。二十年先を睨んで学び続けるのは、雲を摑むようでなかなか苦しいものなんだ」
綾錦は、きっと顔を上げて空に視線を移した。先ほどから風が吹き始め、空を覆っていた薄雲が少しずつ取れていく。紗の覆いを失ってどぎまぎしたのか、お天道様が慌てたように輝きを増した。
「勉強にしろ、芸事にしろ、人は、ともかく早く成果を挙げたいと願う。その一方で、なかなか成果が出ないと、みんな途中で飽きて嫌になってしまうんだ」
綾錦の話に、菊乃は感じうるところがあった。
菊乃は、博士になりたいという夢を抱いている。けれども、それは、あまりに漠然とした希望だ。日々、本を読んで知識を蓄えているからといって、それだけで博士になれるほど世間は甘くない。長い年月の間には、何かの拍子に自信を失って、勉強が嫌いになる可能性だって大いに考えられた。
「だから、嫌にならないよう、ちょっと先を目当てにするのさ。一年先までに『千字文』を全部覚えるとか、二年先までに碁を打てるようになるとか。『千字文』を覚えたら、その先の一年は『万葉集』を全部そらんじるというふうに、少し先へ先へと目標を置いていけば、十年なんてあっという間に経ってしまうんだよ」
綾錦にわかりやすく説き明かされ、菊乃は、一日一日の積み重ねが一年になり、一年一年の積み重ねが十年になることに、今さらながら気づいた。
苦手な三味線の稽古とて、歌乃のようにいっぺんに上手に弾こうとして、うまく弾けないから嫌になる。来春までに、とにもかくにも一曲だけ弾けるようになる、と目当てをつければ、さほど稽古は辛くない。
綾錦は、菊乃が納得したのを素早く見てとったようだ。菊乃の手を取り、声を強める。
「『仕方がない』って言い方が、わっちは一等、嫌い。いいかい、女郎だから『仕方がない』じゃなくて、女郎であっても『仕方はある』のさ」
女郎であっても仕方はある。女郎であっても仕方はある、仕方はある……
菊乃の頭の中で、姉女郎の言葉がぐるぐると、廻り灯籠のように回っている。
今の今まで、自分は仕方なく廓にいるのだと、菊乃は思っていた。だが、綾錦の言い回しは、仕方なく女郎になっても、仕方次第で開ける道は変わる、というように聞こえる。
「菊乃、お前は、このまま子供でいたいと思っているだろう。だが、歌乃をごらん。黙っていたって、体はひとりでに大人になる」
綾錦は不意に菊乃の肩を抱き寄せた。姉女郎のしなやかな弾力のある腕に抱かれると、白粉や香とは違った、甘酸っぱい、心地よい匂いがする。
父の無骨な抱擁とは異なる、羽二重にくるむような姉女郎の柔らかい抱擁に、菊乃は戸惑いながらも、快く身を委ねていた。
これが、大人の女の人の匂いなのかな。
菊乃は母の腕を知らない。だから、もっともっと心地よさに満たされたくて、思う存分に息を吸い込んだ。
「のんべんだらりと流れに任せて生きているだけの人間が、運命を恨んでも、そりゃ筋違いってもんだろう。どうせ女郎にならなければいけないのなら、菊乃、俳諧でも三味線でもいい、一所懸命に稽古して、いくつもの武器を身につけておくんだよ」
綾錦は、菊乃の肩に回した腕に力を込めた。ひやりとした風に吹きさらされた物干し場にいるというのに、姉女郎の腕の内にある菊乃の体は、不思議なほどに温もっている。
「武器って?」
「お侍が肌身離さず帯びている刀のように、お前が培った才芸は、そのまま女郎としての武器になるんだ。そうなったら、お前は人並み以上の女郎になって、立派にここで生きていける」
綾錦の声は、どこまでも強く、また温かかった。
<ruby><rb>江</rb><rt>え</rt></ruby><ruby><rb>戸町</rb><rt>どちょう</rt></ruby>二丁目の通りを売り歩いているのだろう。風に乗って、大福餅売りの「大福餅はあったかい、あったかい」というのどかな売り声が聞こえてきた。
大福餅は腹持ちが良くて安いから、禿や妓楼の下働きたちに人気がある。しかし、大福餅など食べなくても、菊乃の心の内は、ほっこりした気持ちの良い温もりに満ちていた。
「さあ、部屋へ戻ろうかね。歌乃が待っているよ」
綾錦に促され、菊乃は腰を上げた。
物干し場から廊下に出た。遠くに行灯部屋の戸口が見える。
菊乃は、先ほど、行灯部屋で睦み合っていた男女の話を思い出していた。
「姉様、間夫って、悪い人なの?」
菊乃には、間夫が悪人とはどうしても思えなかった。「色男、金と力はなかりけり」と揶揄されるがごとく、女郎を揚げる金もない優男かもしれないが、先の女は、男に逃げようとけしかけられ、心底、嬉しそうな様子だった。
脱廓し、二人して捕まったとしても、互いが互いを求めての結果だとしたら、女も男も後悔はしないのではなかろうか。
菊乃の質問に、綾錦はしばし考え込んだ。
ふっと顔を上げ、歯切れの悪い言い方で答える。
「悪い……かもしれないね。心中で思いを貫こうが、もてあそぶだけもてあそんだ後に裏切ろうが、男が間夫である限り、女郎は不幸にしかならない」
女が思いを貫き、男が女の思いを裏切る。確かに、女が裏切らない限り、どちらに転んでも、不幸になるのは女ばかりだ。
「それじゃ、不幸になるってわかっているのに、女はどうして間夫に惹かれるの?」
まるで、物覚えの悪い丁稚小僧みたいで嘆かわしいと、菊乃は思う。恋だの、情人だのという言葉を、耳から得て知っているだけで、恋の経験などあろうはずがない子供が、せつない恋の心持ちを推し量ろうとするのは、しょせん、無理な話なのかもしれない。
綾錦は、妓楼の廊下を素足でぺたぺたと歩きながら、ふっと笑う。
「どうしてだろうねえ。恋は闇って言うが、それだけじゃないと思うよ。たぶん、心が弱くなった女は、優しいだけの男でも、寄りかかり、頼りたくなるんだ」
菊乃は、姉様は……姉様はどうなの?と訊こうとして、口を噤んだ。
「でもね」前を歩く綾錦が、やにわに振り向いた。
「恋が、まるっきりいけないというわけじゃない」
菊乃は、黙って立ち止まった。
綾錦も歩を止め、ずらりと並んだ女郎たちの部屋を眺める。
「恋は、毒にも薬にもなるからね。恋に身を滅ぼす女もいれば、恋によって生きる力を得る女もいる。相手を想う心が、生きていく糧になることもあるし、想いが高じて嫉妬に変わり、身を持ち崩す場合もある」
綾錦の視線は、もう女郎部屋のあたりにはなかった。もっと、もっと遠くを見つめ、その表情はどことなく険しかった。
それって<ruby><rb>峰春</rb><rt>ほうしゅん</rt></ruby>先生とのこと? どうしてそんな怖い顔をするの?
廓の噂によれば、綾錦は芙蓉から峰春を奪ったとされている。
「姉様……」
すべてにおいて出来すぎの姉女郎の顔が、にわかに凄みに満ちたのを見て、菊乃は声を失った。恐ろしさに、思わず綾錦の部屋着の袖を摑む。
「どうした?」
綾錦が、驚いたように自分の袖を見遣った。
「ううん、姉様が遠くに行ってしまったみたいで……」
菊乃は言葉を濁した。一点非の打ち所のない姉女郎にも綻びが生じる時があるのだ。しかし、それを口に出すことはさすがに憚られた。
綾錦は口に手を当てると、硬かった表情をぺろんと隠した。
「ふふっ、今の話は菊乃にはちと難しかったかね。わっちは遠くになんか行かないよ。別に身請けの話があるじゃなし、まだまだここで菊乃や歌乃に目を光らせて、お前たちを一人前にしなけりゃいけないからね」
そんな意味じゃないのにな。
さりげなく話をすり替えた綾錦に、菊乃は不満を覚え、胸の中で訴えた。
部屋の前では、歌乃がやきもきしながら、姉女郎と菊乃の帰りを待っていた。
「んもう、菊乃だけじゃなく、姉様までもが、どっかに行っちゃうんだから。これから、出かけるのでしょう?」
すでに、歌乃は、ちゃっかり身支度を整えていた。
「ああ、菊乃も早く支度をしな。<ruby><rb>揚屋町</rb><rt>あげやちょう</rt></ruby>の師匠の家へ行くよ」
峰春の稽古場に向かうのである。綾錦は、手早く気に入りの衣裳を選び出している。白梅と歌乃に手伝ってもらいながら着替えを済ませた。
「おや、もう<ruby><rb>鉄</rb><rt>か</rt></ruby><ruby><rb>漿</rb><rt>ね</rt></ruby><ruby><rb>水</rb><rt>みず</rt></ruby>がないね、歌乃や、明日買ってきておくれ」
化粧直しをしようとして、鉄漿壺の中身が少なくなっているのに気づいた綾錦が、歌乃に申し付けた。
鉄漿をむらなく歯に染めるには、最低でも二日に一度は塗らなくてはならない。綾錦は、身だしなみに気を遣うたちだから、毎日鉄漿をする。自然と鉄漿の減りは他の女郎たちより早くなり、歌乃は鉄漿売りから頻繁に鉄漿を調達してこなければならなかった。
「あい」と頷いた歌乃は、綾錦の脱いだ部屋着を畳みながら、無意識にぽつんとぼやいた。
「あーあ、近頃、お宮さんが休んでるから鉄漿を買っといてもらえないわね……」
白梅に小菊模様の帯を締めてもらっていた菊乃は、歌乃のぼやきをぼんやりと聞いていた。そういえば近頃お宮の姿を見ていない。朝は必ず台所にいたお宮が、ここ、ひと月ほどちらりとも姿を現していなかった。
「歌乃!」
綾錦の不審に満ち満ちた声が響いた。
「お前、今、お宮に鉄漿を買っといてもらえないと言ったね? お前は、鉄漿売りからじかに買っているんじゃないのかえ?」
綾錦に咎められ「しまった!」と言わんばかりに歌乃の表情が変化した。
「えっと、あの……、姉様ごめんなさい! 鉄漿売りは六つの時刻に来るんです。廓の中で丁子屋に一番早く来るの。それでその、寝坊して間に合わないことがあって。そうしたら、お宮さんが部屋持ちの姉さん方に頼まれた分から少し分けてくれて」
歌乃はしどろもどろに姉女郎に弁解した。<ruby><rb>大</rb><rt>おお</rt></ruby><ruby><rb>店</rb><rt>だな</rt></ruby>ゆえ注文の量が多いからだろうか、吉原に来る鉄漿売りは、なぜかいの一番に、江戸町二丁目にある丁子屋へ商売をしに来ていた。
「下女のお宮に分けてもらったのは一回きりかい?」
綾錦が、歌乃の目を覗き込んで訊ねた。これ以上の隠し事は許さないといった目つきである。しょぼんと肩を下げ、歌乃は観念したように目を伏せた。
俯いた歌乃の横顔をしみじみ眺めてみると、濃く長い睫毛が目のきわにうっすらと陰翳をつけ、驚くほど大人びた面立ちになる。歌乃とは四六時中一緒にいるというのに、菊乃は今までまったく気づいていなかった。
「……いいえ、もう長いことお宮さんから分けてもらってました。五つの鐘を合図にお宮さんのところに集まることになってたわ。ほかの部屋の禿たちも、みいんなお宮さんから買っていたから、お互い姉様には内緒にしとこうって約束になってて……」
五つの鐘が鳴る頃には菊乃も起床していたが、てっきり鉄漿の用意をする禿たちは、鉄漿売りから購入しているのだと思っていた。
「なるほど、女郎ほどじゃないが禿たちも夜は遅いからね。他人にまとめて買っといてもらえば、ゆっくり朝寝ができるってわけか。しかも、禿同士が口を噤んでしまえば、姉女郎たちにばれる心配もなしと」
「ごめんなさい……」
歌乃は、見るも気の毒なほどしょげ返っている。
菊乃は、綾錦と歌乃のやり取りを見ながら事のなりゆきを案じていた。綾錦は決して癇癪持ちではないが、妹女郎が噓をついたり、道理に外れた行動をしたりすれば、その場できっちりと叱りつけ、しかるべき罰を与えるからだった。
しかし、菊乃の心配は杞憂に終わったようだ。
しばし黙り込んだかと思うと、綾錦は仔細ありげな顔つきで歌乃のほうに向き直った。
「歌乃、今まで鉄漿を自分で買い求めていたと噓を言っていたのは許されないことだ」
綾錦の低く諭すような口調に、歌乃は小さく「あい」と答える。
「だけどね、お前が口を滑らせたおかげで、大事なことが明らかになったよ。お前たち、鉄漿は皆同じ壺から分けてもらっていたんだろう? だから、芙蓉さんに盛った毒は鉄漿に入っていたわけじゃない。もし鉄漿に仕込んであったら、わっちやほかの姉さんたちの体にも斑点が出ていたはずだ」
「あっ!」
菊乃は大声を発していた。
芙蓉に鉄漿水を運んでいたのは禿の波路だったが、菊乃は、子供が毒など盛るはずがないと高をくくって、鉄漿の可能性などついぞ忘れてしまっていた。
「そういえば、お宮さんから鉄漿を分けてもらい、めいめい自分の部屋へ運ぶ時、波路はいつもわっちと一緒だったわ。わっちは波路が嫌いだから話をするわけじゃないけど、急いで運ばないと姉様たちにばれてしまうから、みんなすぐに部屋へ戻るの。だから、その間に、鉄漿に毒を混ぜるのは、どう考えても無理な話だわね」
歌乃がきっぱりと断言した。
(続く)</pre>
<br />
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<div style="width:582px; margin:0 auto 0 auto;">
<pre class="lp-vertical lp-width-580 lp-height-370 lp-font-size-20">
<b>羽化不全 風花銀次</b>
『朝顏の露の宮』讀み了へていざ出でむとするに猛暑警報
かかりあはざらむ、かかはりあらざらむ、戀人もひからびる街角
いきさつはともあれ雨後の<ruby><rb>舖道</rb><rt>しきみち</rt></ruby>にみみず千匹のたうちまはる
颱風が近づくさなか雨音に負けじと蟬が鳴きつのるなり
羽化不全のをみなを悼みうたひけるひぐらしはかなかなかなかなし</pre></div></div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-58533936108081505062018-07-31T20:00:00.000+09:002018-08-09T17:39:22.649+09:00写真「夜のお花畑 秋」/ 細見 撓<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; background: #000000; padding: 5px 0px 0px;">
<iframe style="border:none" src="https://s3.amazonaws.com/files.photosnack.com/iframejs/widget.html?hash=pdxc51th2&t=1532775208" width="608" height="460" allowfullscreen="true" mozallowfullscreen="true" webkitallowfullscreen="true" ></iframe></div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-90921903912254737332018-07-27T08:00:00.000+09:002018-07-27T08:00:02.124+09:00短歌十首「夏の痕」/ 風花千里<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; clear: both; padding: 20px;">
<div style="width:582px; margin:0 auto 0 auto;">
<pre class="lp-vertical lp-width-580 lp-height-350 lp-font-size-20">
<b>夏の痕 風花千里</b>
牛乳とほんの少しのいらだちが炭化してをり鍋のそこひに
猛毒が乳を介して溶けてゆくらし いかづちに傾ぐ樫の木
洗濯槽のぞきこむうち湧きあがる耳鳴りのどこかなつかしきかな
わたくしと初夏の風にくるまれて汗ばむきみは野芹のにほひ
わが唄ふわらべうたとらへむとして小さき耳は開くひるがほ
行水ののちに裸で転ぶ子に球根植物植ゑる日近し
瞬きのあはひに夜のほころびを見つけて泣いてゐる子のありき<a name='more'></a>
寝言にて子をあやししを羞ぢてゐる夫に潮の香りが潜む
彗星の尾が夜に滲んでゆくやうに子のぬくもりを受けとめてゐる
二の腕がたくましくなる夏の痕を残してくすむ扇風機のはね</pre></div></div>
<br>
<SCRIPT charset="utf-8" type="text/javascript" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?rt=tf_cw&ServiceVersion=20070822&MarketPlace=JP&ID=V20070822%2FJP%2Fdichasia-22%2F8010%2F49b0a455-2bb1-41c0-93e4-ddb501ffce17&Operation=GetScriptTemplate"> </SCRIPT> <NOSCRIPT><A rel="nofollow" HREF="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?rt=tf_cw&ServiceVersion=20070822&MarketPlace=JP&ID=V20070822%2FJP%2Fdichasia-22%2F8010%2F49b0a455-2bb1-41c0-93e4-ddb501ffce17&Operation=NoScript">Amazon.co.jp ウィジェット</A></NOSCRIPT>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-34735512638512833852018-07-23T08:00:00.000+09:002018-07-23T08:00:08.593+09:00短歌十首「酷暑見舞」/ 風花銀次<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; clear: both; padding: 20px;">
<div style="width:582px; margin:0 auto 0 auto;">
<pre class="lp-vertical lp-width-580 lp-height-370 lp-font-size-20">
<b>酷暑見舞 風花銀次</b>
夜涼みに出れば川面をわたりくる風なまぐさし うつつの川の
くさい、うるさい、うるさい、くらい新月の夜の電車が家路を急ぐ
繁華街拔けむとするにをとこらが蒸れてこのうへもなく見苦し
エアーコンディショナーあはれビルヂングせなかあはせの路地裏をゆく
熱中症にて地上には出ざるまま死したる油蟬<ruby><rb>數</rb><rt>す</rt></ruby><ruby><rb>萬</rb><rt>まん</rt></ruby>匹
遺棄された危險在來生物が、ほら、わたくしのなかの暗渠に
東京大虐殺あらむ 元號は知らねど庚子文月末とか<a name='more'></a>
庚子葉月立秋の候極熱の酷暑見舞はせ<ruby><rb>候</rb><rt>そろ</rt></ruby>。御自愛を。
はづかしながら五輪ののちもながらへて黃色いバスで<ruby><rb>中 心 街</rb><rt>グラウンド・ゼロ</rt></ruby>へ
ちはやふるかみかぜはそよそよとふくばかり につぽんちんぼつの日も</pre></div></div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-67000988912714446972018-07-21T08:00:00.000+09:002018-07-21T08:00:02.694+09:00小説「蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章」08 / 風花千里<pre class="nehan3-pagerize" style="display: none;"> <h4><b>蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章
風花千里</b></h4>
<b>第八章 徘徊する猫</b>
絹布に天鵞絨の縁取りを施した三つ布団の上で、綾錦が「うーん」とうめいている。
光沢のある豪華な布団の上で、うつ伏せになって、だらしなく伸びている姉女郎の姿を前に、菊乃は当惑した気持ちを隠せなかった。菊乃は、歌乃と初糸とともに、湯殿から戻ってきたところであった。
「花魁、お加減はいかがですか?」
綾錦と一緒に部屋に残っていた八橋が、心配そうに呼びかけた。
「あぃたたたたっ。八橋、そう大きな声で話すでない。うるさくて頭が割れそうだ」
綾錦は、ほつれた鬢のあたりに手をやると、大仰そうに顔をしかめた。綾錦の枕元には、小<a name='more'></a>さな盥が置かれている。
なあんだ。姉様は二日酔いか。
菊乃は、秋草の模様の付いた塗りの盥を見て、合点がいった。
姉女郎が酒を過ごし、二日酔いに至ることが年に数回はある。
秋草の盥は、西村屋が化粧道具として綾錦に贈った品だが、近頃では、もっぱら二日酔いで気分が悪い時に、枕元に置くのが通例になっていた。
「でも、昨晩は、二日酔いになるほどお酒を召し上がりましたっけ?」
初糸が、不思議そうに訊ねた。森田屋を同伴した西村屋の宴があった昨夜、確かに、部屋に帰り着くまで、綾錦はさほど酔っ払った様子は見せなかった。いつものごとく、<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>、新造を引き連れ、上機嫌で妓楼に戻ってきたのだ。
「芙蓉さんの話が聞くに忍びない内容だったから、昨晩は同じ量を飲んでも、普段より酒の回りが速くなってしまったのかもしれないわね」
八橋は廓の先達らしく、もっともらしい口調で説明した。
周囲の心配をよそに、綾錦は、時折「うー」とか「うっぷ」とか唸り声を上げながら、布団に臥したままだ。
八橋は腕組みをして「困ったわねえ」と考え込んでいる。
「今夜は、高松藩の御留守居の座敷に呼ばれているというのに。果たして、花魁は夜までにお支度ができるかしら」
すると綾錦は、わずかに片手を上げ、ひらひらと振った。
「大丈夫。頭が痛いだけで、気分はそれほど悪くない。夜までには治るから、しばらく静かに寝かしておいてちょうだいな」
「わかりました。歌乃、お前は台所に行って、盥に冷たい水を汲んでおいで」
綾錦のどこか甘えたような口調に、八橋は苦笑しながら、歌乃に用事を言いつけた。
「それから、初糸はここに居て、誰も入ってこないように見張っているんだよ。花魁は、湯殿の開いている時間には行けそうもないから、わちきは下に行って、夕方、行水の用意をしておくように、若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>に話をつけてくる」
八橋は、初糸にも、てきぱきと指図をした。
「きくの……」
か細い声で綾錦に呼ばれ、菊乃は「あい」と、そばににじり寄った。脇へ退けられていた掛布団を、姉女郎の上に、そーっと掛けてやる。
綾錦は仰向けになり、掛布団を首元まで引き上げた。
「お前、ひとっ走り行って、みなと屋で《袖の梅》を買ってきておくれ」
みなと屋は、廓内の薬種商。《袖の梅》は、酔い覚ましの妙薬と言われており、吉原名物ともなっていた。
「《袖の梅》なら、ここに入っているはず……、あれ? ないや」
菊乃は、綾錦が使っている小簞笥の抽斗を開けた。だが、どこにも《袖の梅》の袋は見当たらなかった。
「《袖の梅》も二日酔いには大して効くと思えないんだけど、ないよりましだからねえ」
悪酔いして体に力が入らないせいか、綾錦は、気の抜けたような声で嘆いた。平素は、お上の高官や大商人を相手にして、一歩も引くことのない胆の太い姉女郎であるが、二日酔いの辛さには勝てぬと見える。
「わかりました。すぐ行ってきます」
菊乃は、素早く腰を上げた。傍らに八橋が来て、菊乃に耳打ちをする。
「ついでに、花魁がおなかが空いた時に食べられるよう、山屋の豆腐も買っておいで」
「あい! 承知したでやんす」
菊乃は、おどけた口調で八橋を煙に巻くと、くるりと向きを変えた。
部屋の入口で、つと、綾錦を振り返る。掛布団を頭から引っかぶった姉女郎の有様を見て、菊乃は、ついつい口元が緩んでくるのを感じていた。
まったく、姉様ったら、しようがないお人だね。だけど、普段の毅然とした様子と違って、今日の姉様は、なんだかやけにかわいらしいな。
その時、布団の中でへたばっていたはずの綾錦がむっくり起き直り、襖の前でにやついていた菊乃に向かって怒声を浴びせた。
「これ、菊乃! 余計なことを考えてないで、とっとと買物に行っておいで」
やれやれ、うちの姉様は、どこまで鋭いんだか。
寝ていたはずの綾錦に、あっさり考え事をしていたのを見抜かれ、菊乃はすっかり胆を冷やしてしまった。
下駄を突っかけて妓楼の外に出ると、昨日ほどは寒くなかった。その代わり、薄墨を流したような陰気な雲が空一面に垂れ込めている。
こりゃ、ひと雨ざーっと来るかな。
空模様を窺いながら、菊乃は、からころと下駄を鳴らして先を急いだ。
<ruby><rb>江</rb><rt>え</rt></ruby><ruby><rb>戸町</rb><rt>どちょう</rt></ruby>二丁目の木戸を通り、<ruby><rb>仲之町</rb><rt>なかのちょう</rt></ruby>へ出た。まだ昼の四つだから、妓楼の奉公人や棒手振りなどの商売人以外に、人通りはまばらである。
みなと屋は、仲之町の通りから<ruby><rb>揚屋町</rb><rt>あげやちょう</rt></ruby>に入ってすぐにある、吉原で一番大きな薬種店だ。
《袖の梅》を買うだけなら、本家の「めうがや」も近くにあった。しかし、菊乃をはじめ、綾錦の部屋の連中は、どちらかといえば、みなと屋を贔屓にしていた。種々の薬の品揃えが良いためだ。
菊乃は、薄暗い店内へ駆け込むなり「《袖の梅》を頂戴」と声を掛けた。
「へい、いらっしゃい」
手代が用足しにでも行ってしまったのか、店の奥で何やら書き物をしていた番頭が、ぬっそりと出てきて応対する。
番頭は、扁平な顔に大きな口の目立つ四十過ぎの男。色の黒い肌が妙にぬらぬらとして脂っぽいところが、鯰によく似ている。菊乃は、密かに番頭を「鯰おやじ」と呼んでいた。
「買い置きがなくなってしまったから、少し多めにね」
店先に並んだ、色とりどりの袋に入った諸国の有名売薬を眺めながら、菊乃は鯰おやじに依頼した。
「《袖の梅》なら、お前さんの目の前の籠にたくさんあるよ」
鯰おやじは、顎をしゃくって、上がり框に腰掛けた菊乃の膝元を差した。
「あっ、ほんとだ」
菊乃が視線を落とした先には、小振りの籠が置かれていて、よく見知った《袖の梅》の外袋が、いくつも重ねて入れてあった。外袋の中には、薬包紙に包まれた頓服薬が、四包だか五包だか入っていたはずだ。
「三袋くらいでよいかな」
鯰おやじは、奇っ怪な風貌に似合わない細くて器用そうな指で、籠の中の袋をつまんだ。
菊乃は素早く、入用な数を勘定した。
「えっと、十袋ももらっておこうかな」
小さな目を見開き、鯰おやじが驚いたような声を出した。
「ほう。十袋も。お前さんの姉女郎のお馴染は、皆、なかなかの酒豪と見えるな」
本当は、姉様が一番たくさん使うんだけどね。菊乃は、胸の内でこっそり反論する。
今日ほどひどくはないにしても、翌日に酒が残ってしまった時、綾錦は必ず《袖の梅》を服用した。
さらに、綾錦は、自分だけでなく、酒を過ごしてしまった客にも飲ませた。
だから《袖の梅》は、せいぜいふた月<ruby><rb>保</rb><rt>も</rt></ruby>つか保たぬかという早さで消費されてしまう。
とはいえ、廓内の商人に、姉女郎の酒豪ぶりをことさらに喧伝するいわれもない。菊乃は、曖昧な愛想笑いを浮かべて、その場をやり過ごした。
《袖の梅》を十袋と、これも部屋で切らしていた小菊紙を一束ついでに買う。
勘定をしてもらう間、菊乃は、店の中を見回していた。薬屋というところは、普段は目にすることのない物珍しい品物で溢れている。
番頭が座っていた店の奥には、小さな抽斗がたくさん付いた簞笥が据えられていた。おそらく、高価な生薬や漢方薬などが収められ、客の求めに応じて処方するのだろう。
「はいよ、落とさないようにお帰り」
粘りつくような鯰おやじの声で、菊乃は我に返った。
勘定を支払って、みなと屋を出た。
さて、豆腐を買って帰るか。
菊乃は、そのまま揚屋町の通りをぶらぶらと歩き出した。しばらく歩けば「味わい軽ろくして世に並びなし」と謳われる豆腐の山屋がある。
吉原は、どの町でも、通りの裏に入り組んだ路地が見られる。菊乃は、気の向くままに路地へ入っていくのが好きだった。
路地を歩けば、長屋の猫の額ほどの庭に、鉄線が二藍の見事な花を咲かせているのを見つけたり、夏の最中に、どこかの家の軒に下がっている風鈴が、ちりりんと涼しげな音を立てるのを聞いたりできる。
けれども、今日は、二日酔いの重い頭を持て余した綾錦が待っているので、あまり寄り道をするわけにもいかなかった。菊乃は、歩きながら、通りから延びている路地の奥をいちいち覗くだけで我慢していた。
山屋の店先には、かなり手前からでもわかるほどに客が並んでいた。さすが吉原名物と言われるだけあって、遠方から、わざわざ豆腐だけを買いに来る客もいると聞く。
通りを挟んで、山屋の向かいにある小間物屋の軒下に何やら白い塊が落ちている。誰かが、せっかく買ったばかりの豆腐を落としてしまったと見える。
そのままにしておくと、小間物屋の商売の邪魔になるかもしれない。
菊乃が、小間物屋の店番に注進に行こうとした、まさにその時だった。
動くはずのない豆腐に手足が生え、不恰好な足取りで、よろよろと動き出したのだ。
「あっ! ゆき」
てっきり、落として崩れてしまった豆腐だと思っていた白い塊は、綾錦の部屋で飼っている白猫だった。二日酔いの綾錦の介抱に人手が必要だった。ゆきが部屋から出ていったのに誰も気づいていなかった。
菊乃は「ゆき、こっちにおいで」と、手を差し出しながら、猫に近づいた。
近づいてくる菊乃に寄っていくと見せかけて、ゆきは、さっと身を翻すと逆の方向へ走り出した。どうやらまだ外遊びが足りないらしい。
「待てえ」
菊乃は、薬の包みを落とさぬよう、しっかり小脇に抱え、地面を蹴って駆け出した。
相手はびっこの猫だから、難なく追いつくはずだと高をくくっていたら、意外や意外、ゆきは予想だにしない速さで、菊乃が入ってきたのとは反対側に位置する木戸から出ていってしまった。菊乃も負けじと足を速める。
ゆきのやつ、どこへ行くんだろう。
ゆきがこんなに遠くまで遊びに来ているとは、菊乃は想像もしていなかった。
菊乃が木戸を抜けた時、はるか前方の路地を走っていたゆきが、忽然と姿を消した。慌てて、ゆきが通った、人がすれ違えば一杯になってしまいそうな細い路地に入る。
ぜいぜい、はあはあ、息を切らして走り、菊乃は、ゆきが消えた付近までようやくたどり着いた。
おやまあ、ずいぶんと、まずいところに来ちゃったね。
猫を捜すのに夢中で、どこを走っているのか思い及ばなかったが、菊乃がやって来たのは、西河岸の一角だった。
<ruby><rb>鉄漿溝</rb><rt>おはぐろどぶ</rt></ruby>沿いにある西河岸は、小見世や切見世が軒を連ねて営業する場所だ。
五丁町を挟んで向こう側の東河岸で「いったん客の腕を摑んだら、斬られたって離さない」と言われる、通称、羅生門河岸ほど乱暴な客引きは、西河岸にはいない。
とはいえ、路地の奥では、一棟をいくつもの部屋に仕切った長屋に、最下級の女郎がひしめいて、一ト切、百文で客を取っていた。
河岸見世の、特に、切見世の女郎は、容色が衰えて中見世や小見世に出られなくなったり、病気に罹っていたりする女が多かった。
また、客層も、柄の悪い職人や、博徒、与太者などが主で、河岸見世の周辺は殺伐として、荒んだ雰囲気に満ちていた。だから菊乃は、姉女郎から、河岸見世には絶対に足を踏み入れてはいけないと、きつく言い渡されていた。
それにしても、丁子屋の周りしかうろついていなかったゆきが、何ゆえに、こんな廓の端っこに潜んでいたのか。
揚屋町の周辺は商いをする店も多い。もしかすると、魚の骨などのお<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れにありつくことができて、お高くとまった江戸町よりは過ごしやすいのかもしれない。
さて、どうしたものか。
せっかく捜していたゆきを見つけたのに、見失ったまま、すごすごと妓楼に戻るのは、なんだかとても悔しい。
菊乃は、姉女郎の忠告を思い出さなかったことにして、周囲の様子に気を配りながら、さらに路地の奥を目指して歩を進めた。
「何をしてるんだい」
どこからか声を掛けられ、菊乃は、襟首を摑んで引き戻されたように立ち止まった。
声のする方角を振り返ると、路地に面した長屋の、間口四尺ほどの部屋の戸口が開いていた。その戸口の内の上がり框に、安っぽい簪を挿した女が、爪楊枝をくわえた姿でぺったりと座っていた。
女は、色褪せた四菱模様の小袖を着て、襟元をだらしなくはだけていた。化粧っけのない顔は黒ずみ、肌もかさかさしているので、三十を相当に過ぎた年増に見えるが、実際はもっと若いのかもしれない。
まさか、初めて足を踏み入れた場所で呼び止められるとは予想もしていなかったので、菊乃はしばらくその場に立ち尽くし、声を掛けた女を、ぼーっと見ていた。
「あんた、ここで働きたいのかい?」
身の程以上の重荷を背負っているような気だるい口調で、女が、再び菊乃に問いかけた。菊乃の風体から、自分と違う匂いを嗅ぎ取ったのだろう。菊乃の頭のてっぺんから足の爪先までを無遠慮に眺め回し、ふふん、と鼻でせせら笑った。
「あっ、いや、そういうわけじゃ」
菊乃は、慌てふためいて、女の質問に否定の意を示した。
切見世が並ぶ路地は、蛇がうじゃうじゃ巣くっているような、生臭さと湿っぽさに満ちている。
自分の住むところからさほど離れていないのに、西河岸と江戸町二丁目とでは、景色も、そこに暮らす住人も、まったく異なっていた。
菊乃は、今さらながら、狭い廓の中にも歴然とした身分差があることに気づき、愕然とした思いに囚われていた。
「ひっひっ、いいおべべだねえ。その綺麗な顔でここに座ってたら、そりゃあ、お客は引きも切らないだろうよ。ねえ、ちょっとこっちへお入りよ」
女が、気味の悪い猫なで声で、へらあへらあと手招きをする。
菊乃は、ぞよぞよと総毛立つのを感じながら「いや、結構です」と後ずさりをした。女が框から下りてきて腕を引っ張るんじゃないかと、懸念で胸の鼓動が速くなる。
だが、女は足が不自由と見えて、それ以上、深追いはしてこなかった。
相手が素早く動けないと知ると、菊乃は俄然、勇気を取り戻した。女が、ずっと上がり框から外の様子を窺っていたとしたら、ゆきの消息を知っているかもしれない。
「白い猫がこの道を通ったのを、姉さんは見た?」
菊乃はできるだけ戸口に近づき、いくばくかの銭を土間に置くと、恐る恐る女に訊ねた。
女は上半身を伸ばし、目にも留まらぬ速さで土間の銭を摑むと、へへっと卑屈な笑いを浮かべた。
「猫? ああ、わちきみたいに足の悪い、あの不細工な猫のことかい。それなら三つ先の家に入っていったよ」
女の家を後にし、菊乃は、教えられたとおりに三つ先の家の前に立った。
戸が閉まったままだったが、切見世ではなく、ただの住居のようだった。共同の厠が近くにあるのか、肥の臭いがあたり一面に漂っている。
「ゆき、ゆき」
菊乃は何度も猫の名を呼んだが、周囲に生き物の気配は感じられない。住人が在宅しているかと、思いきって戸を叩いてもみたが、うんともすんとも返事はなかった。
猫も人も不在ならば、致し方ない。ほっつき歩くゆきをまた探しに来られるように、菊乃は戸口の板戸に付いた大きな傷と周囲の景色をしっかりと目に焼き付けた。
額に、ぽつん、と雨粒が当たった。見上げれば、空はいよいよ顔を曇らせ、今にも泣き出しそうになっていた。
(続く)</pre>
<br />
<div style="text-align: right;">
<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; clear: both; padding: 20px;">
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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</div>
<div style="text-align: left; font-size:13px;"><b>『蝶々雲──かむろ菊乃の廓文章』風花千里<br />
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吉原の妓楼、丁子屋の禿(かむろ)菊乃は、花魁の綾錦に従い、引手茶屋に来た。当代きっての絵師が、吉原の名花五人の美人画を描く企画で、丁子屋からは綾錦と芙蓉が選ばれていた。遅れて来た花魁の芙蓉は、四半時もせぬうちに具合が悪くなり退出する。その夜、芙蓉が自害。芙蓉には身請けの話があり、望まぬ身請けを苦にしての自害だと噂されたが……。
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</div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-88762724000427881072018-07-18T08:00:00.000+09:002018-07-20T22:34:58.885+09:00一文字小説 007 / 風花銀次<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; clear: both; padding: 20px;">
<div style="text-align: center;">
<table>
<tbody>
<tr>
<td width="430" valign="top">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEga7aK0peAzChbW7WqbhWLwVbzsmZd-eVPewsYOQaLIRwuI1JkhJLLkZINckujOkCN1nTa99jp4Z9KaKdvMSd5V_iT72nIgtrVK1ARvIYNGA8l-F8i2t02Q4E7lxh48ZUEY_zc4nHN8sED_/s1600/takokai.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEga7aK0peAzChbW7WqbhWLwVbzsmZd-eVPewsYOQaLIRwuI1JkhJLLkZINckujOkCN1nTa99jp4Z9KaKdvMSd5V_iT72nIgtrVK1ARvIYNGA8l-F8i2t02Q4E7lxh48ZUEY_zc4nHN8sED_/s1600/takokai.jpg" width="350" /></a>
</td>
<td width="120">
<pre class="lp-vertical lp-width-120 lp-height-350 lp-font-size-20">
<b>一文字小説 其ノ七 風花銀次</b>
</pre>
</td>
</tr>
</tbody>
</table><a name='more'></a>
<pre class="lp-vertical lp-width-580 lp-height-350 lp-font-size-18">
【解説】
はい、「蛸」の偏と<ruby><rb> 旁 </rb><rt>つくり</rt></ruby>が開いているということで「蛸開」てえ地口です。「たこつび」と読みます。江戸の昔に<ruby><rb>好色漢</rb><rt>すきもの</rt></ruby>たちのあいだでいわれた<ruby><rb> 上 品開</rb><rt>じようひんかい</rt></ruby>のうちのひとつで、巾着<ruby><rb>開</rb><rt>ぼぼ</rt></ruby>と並び称されました。「開」と書いて、つび、かい、ぼぼ、エトセトラと訓は様々でも指し示すところはひとつで、なんのことかなんてことは説明の要もないわけですが、それはそれとして「おしい事壺は蛸だか<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>は芋」なんて柳句をうっかり紹介いたしますと、昨今ではルッキズムの譏りをまぬがれないところで、あたしだって「そりゃ、もっともだ」と思う次第ではあるのだけれど、でもね、蛸と芋てものは実にけっこうな取り合わせでして、はい、たいへん美味である、なんてことを述べてフォローする次第でございます。</pre>
</div>
</div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-622548083252238752018-07-14T08:00:00.000+09:002018-07-14T08:00:05.392+09:00写真「変化朝顔」/ 細身 撓<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; background: #000000; padding: 5px 0px 0px;">
<iframe style="border:none" src="https://s3.amazonaws.com/files.photosnack.com/iframejs/widget.html?hash=pd1p0uck6&t=1531372641" width="608" height="480" allowfullscreen="true" mozallowfullscreen="true" webkitallowfullscreen="true" ></iframe>
</div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-9254849916467259252018-07-12T08:00:00.000+09:002018-07-12T08:00:01.825+09:00童話「かぶと森」/ 志野 樹<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; clear: both; padding: 20px;">
<pre class="lp-vertical lp-width-580 lp-height-370 lp-font-size-20">
<b>かぶと森 志野 樹</b>
幼稚園の夏休みです。シンはじいじの家に一人で泊まっていました。ママが乳がんという、おっぱいにおできのようなものができる病気で手術することになったからです。パパは会社が遠くなってしまうので、じいじの家には泊まれません。
じいじは一人で暮らしていて、洗たく、そうじ、料理となんでもできました。
「森へ行ってみよう」
じいじがそう言ったのは、シンが来た翌日のことでした。夜、ママを恋しがって泣いたシンは目がはれて真っ赤になっていました。
森の中を歩くと、まだ日も高くないの<a name='more'></a>に、セミたちが自慢の歌を聞かせています。
「この木を見てごらん」
じいじが指さすほうを見ると、緑色に光るカナブンがとまっています。その隣にはオオムラサキが羽を休めています。シンは目を輝かせました。昆虫が大好きなのですが、シンの住んでいる街にはあまりいません。
「じいじ、何してるの」
じいじがカナブンのいる木に、金色のテープを貼っています。少し歩き回ってほかの木にもテープを貼りました。
「これでよし。いつまでもいると、スズメバチがやってくる。あとでまた来よう」
シンはもう少し遊んでいたかったのですが、スズメバチに刺されたらたいへんなことになります。二人は近くの川で泳ぎ、午後はたっぷりと昼寝をしました。
夕方、目を覚ましたシンに、じいじが「もう一度森へ行くぞ」と言いました。
夜の森なんて初めてです。森への道はさびしく、大きなマントを広げて空から闇が覆いかぶさってくるようでした。
シンはじいじの手をにぎりしめていました。
「さあ、ここだ」
暗い中に何か光っています。近づいてみると、朝貼った金のテープです。じいじは懐中電灯でテープのあたりを照らしました。
「あっ、カブトムシ!」
幹にカブトムシのオスとメスが仲良くとまっています。木のしるを飲んでいるのです。
「スズメバチは昼間だが、カブトムシは夜出てくるんだ」
じいじは、肩にかけていたバッグから小さな虫かごを取り出しました。
「ほれ、取ってみろ」
じいじに声をかけられてもシンは足がすくんで動けません。昆虫博物館やペットショップで見たことはありますが、生きているカブトムシに触ったことがないのです。
「なんだ、こわいのか。じゃ、見てろ」
じいじは木のしるをなめるのに夢中だったオスを難なくつかまえ、続いてメスもかごに入れました。
「ここは、かぶと森とも呼ばれていて、カブトムシがたくさんとれる場所なんだ」
「生きているカブトムシ飼うの初めてだよ」
シンは、じいじにしがみつきました。
「オレはこんなことしか知らないからな」
じいじは照れくさそうに言いました。それからほかの木を回って、さらに何匹かのカブトムシをつかまえました。
「上手に飼えば、夏の終わりに卵をたくさんうむぞ。シンが世話をしてやらなきゃな」
「ぼくにできるかな」
「教えてやるからやってみろ」
シンは大事そうに虫かごを抱えました。
「じいじ、カブトムシは卵を育てないの?」
「オスもメスも卵がかえるころには死んでしまうんだ」
「かわいそう。ぼくにはママがいてよかった」
「カブトムシは自分の力で大きくなるんだ」
じいじの言葉に、シンは何かを考えているようでした。
「ママも病気が治らないと死んじゃうの?」
じいじはシンの顔を見ました。シンは両親の話から何かを感じていたのかもしれません。
「だいじょうぶ、ママは死なない。病院で悪いところを取ってもらえば元気になる」
「ほんと? ほんとに死なない?」
「ああ、死ぬんだったらじいじのほうが先だ」
「えっ」
「じいじのほうがママより年寄りだからな。カブトムシだってそうだろう。卵をうんで、親が死んで、かえったカブトムシがまた卵をうんでって、そのくり返しなんだ」
「でも、じいじが死んじゃうのはいやだ」
「じいじはまだまだ死なないさ。シンに虫の取り方やら教えることがあるからな」
じいじは、シンの頭をガシガシなでました。
「シンも泣いてばかりいてはだめだぞ。お前に元気がないとママが帰ってきて心配する」
「うん、ぼくもう泣かない」
「よし、そろそろ帰ろう。早く寝て、明日はカブトムシのすみかを作ってやらなくちゃ」
「ふぁ~い」
シンは返事のかわりに大あくび。それを見たじいじは、シンの肩に虫かごをかけると、くるりと後ろを向いてしゃがみました。「ほれ、おんぶしてやるから、背中に乗れ」
帰り道、真夏の夜だというのに涼しい風が通り抜けていく森の中、じいじの背中に揺られながら、シンは夢の国へと下りていくのでした。</pre></div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-50015037938771406002018-07-10T08:00:00.000+09:002018-07-10T13:29:52.793+09:00俳句十五句「琱蟲篆刻」/ 風花銀次<div class="separator" style="clear: both; padding:20px; border:1px solid #888; border-radius:5px; -moz-border-radius:5px; -webkit-border-radius:5px;">
<pre class="lp-vertical lp-width-550 lp-height-325 lp-font-size-18"><b>琱蟲篆刻 風花銀次</b>
訃報屆くさきがけて初蝶來たり
蟻穴を出て<ruby><rb>人間</rb><rt>じんかん</rt></ruby>に入りにけり
しみ〴〵と鼻高きかなしゞみ蝶
一蝶雄辯にてふ〳〵てふ〳〵と
<ruby><rb>豆 娘 </rb><rt>いとゝんぼ</rt></ruby>生まれてはねのありどころ
草に花粉こぼして虻の聲<ruby><rb>小</rb><rt>ち</rt></ruby>さし
死刑実況聞かさる蠅に見られつゝ
蜉蝣や動詞的形容詞的
ぬきあしさしあし<ruby><rb>踵 行 蟲</rb><rt>かゝとあるき</rt></ruby>かな
不完全變態少女夏深し
昏きより山繭蛾科の女かな
なゝふし死すといへど擬態しつぱなし
<ruby><rb>琱 蟲 </rb><rt>てうちゆう</rt></ruby>は蟲に如かざり秋隣る
失戀未遂して鳴く蟲にいひおよぶ
<ruby><rb>深々</rb><rt>しん〳〵</rt></ruby>と火蟻眠れり凍港</pre></div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-33298596623238312692018-07-07T08:00:00.000+09:002018-07-07T08:00:06.941+09:00小説「蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章」07 / 風花千里<pre class="nehan3-pagerize" style="display: none;"> <h4><b>蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章
風花千里</b></h4>
<b>第七章 森田屋の苦悩</b>
「これはこれは、花魁。旦那様がお待ちですよ」
引手茶屋、枡屋の女房のお久が、相好を崩して綾錦の一行を出迎えた。お久の背後には、これまた商売気たっぷりに顔を綻ばせた亭主の喜之助が控えている。
枡屋の入口の柱には、屋号が書かれた掛行灯が掛かっているが、まだ八つ半という時刻ゆえに灯は入っていなかった。入口の脇に吊られ、棒で内から外へ突き出した青簾が、折からの寒風にゆらゆらと揺れている。
「遅くなりいした」
お久に声を掛けられ、綾錦は《ますや》と染め抜いた軒暖簾をくぐって、茶屋の中に入った。菊乃、歌乃、初糸、八橋が綾錦の後に続く。<a name='more'></a>
一行に付き添ってきた妓楼の若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>が、「それじゃ、あっしはこれで」と、茶屋を出ていった。花魁道中をしてきたわけではないから、今日はお滝もいないし、長柄傘を持った男も従っていなかった。
土間で履物を脱ぐと、一行はお久の案内で二階の座敷に導かれた。一階にも座敷はあったが、二階のほうがより静かで落ち着けるからだった。
お久が二階へ通ずる階段を二、三段上り、振り返った。綾錦に手を差し伸べている。
「今日はもう一人お客様がお見えになるそうです。ささっ、早くお二階へ」
急き立てるお久に対し、綾錦は、公家の姫君のごとく瞼を閉じただけで肯定の意を示した。それから、急いては事を仕損じるとばかりに、ゆったりとした足取りで階段を上っていった。
二階にある二十畳ほどの座敷の襖が、開けっ放しになっている。
「おお、寒い中、よう来たな」
その襖の陰から顔を覗かせたのは、ほかでもない、西村屋喜八。
古渡唐桟の小袖に千歳茶の羽織は、還暦間近とは思えぬ若々しい出で立ちだ。
さすがに鬢は白く、顔には深い皺が刻まれているが、益軒先生の言う「気を減らす」ことを努めて避けているから、高僧のごとく晴れやかで柔和な容貌であった。
「あれ、旦那様、お出迎えありがとうございんす」
座敷へ入ると、綾錦は、優々と小首を傾げて挨拶をした。
今日の綾錦の衣裳は、一見したところは、地味である。濃藍の仕掛けには、降りしきる雪のように細かい銀糸の刺繡。何枚か重ねた小袖も、茶の細い縞柄や薄柿の飛柄模様で、ようやく一番下に小豆色の総鹿の子絞りがわずかに見えるだけ。
だが、表着が控えめであるからこそ、裏着が引き立って見えるわけで、ほんの少し覗かせただけの鹿の子絞りの小豆色と帯揚げの紅柄色が、ひときわ人の目を引いているのは間違いなかった。
近頃はお上の規制もあり、何事につけても質素にという風潮がある。町なかでは当然のこと、遊里であるここ吉原にも、少しずつだが倹約の波は押し寄せていた。
綾錦も、今日のような昼からの宴の場合や普段着として着る着物などは、表向きだけでも控えめな装いを心がけていた。
しばらく綾錦に見惚れていた西村屋は、花魁の小袖に自分と同じ古渡唐桟の縞模様を見つけ、嬉しそうに顔を綻ばせた。
西村屋の好みそうな小袖の柄を選んで着ているのは、もちろん綾錦の手管の一つで、馴染の客への愛想だった。
「旦那様、美しい花魁をたんと眺めるのも長生きには必要なことかもしれませんが、ここは風が吹き込んで寒いです。花魁に、ひとまず中に入ってもらったらいかがでしょう」
と、西村屋に一声を掛けたのが、番頭新造の八橋。綾錦に風邪でも引かせたら後で内所からお小言を食らう。番新たるもの、花魁の体調管理に一切ぬかりはない。
西村屋は照れくさそうに顔を手でひと撫ですると、綾錦を上座へと誘った。菊乃や歌乃もついていって、姉女郎のそばに座る。
「あら? もう一人お客様が見えると聞きいしたけど」
綾錦の後ろに控えた白梅が、広々とした座敷を見渡す。そういえば、宴の席だというのに、客人はおろか芸者も幇間もいない。
「ああ、そろそろやって来る頃だが……、お久、まだ見えないか?」
廊下で座敷に入る花魁を見守っていたお久を、西村屋が振り返る。
「そうでございますね。八つ半にはお着きになるという話でしたが……、あっ、階下で話し声がしております。わちきが見てまいりましょう」
お久は慌てて立ち上がると、急ぎ足で階段を下りていく。大切な贔屓の招いた客人である。とにもかくにも、粗相のないように扱わねばならない。
そもそも引手茶屋は、客と女郎との間を取り持つ場所で、綾錦のような呼出しを指名する際、客は引手茶屋を通さねば会うことさえもかなわない。茶屋の若い者が妓楼との間を往復し、都合がつけば、道中をして花魁が茶屋へやって来る。引手茶屋で宴を催した後、再び花魁と一緒に道中をしてようやく妓楼へたどり着けるという具合だ。
ところが、今日の西村屋の座敷は少し勝手が違うらしい。妓楼にやってきた枡屋の使いの話では、西村屋は綾錦に何か大切な話があるという。そのために、今日一日綾錦を買い切っていた。
道理で御膳が出てないと思った。
二階の静けさに首を傾げながら、菊乃は呟いた。
普段なら、花魁が到着すると同時に店の者が蝶足膳を掲げ、宴の用意を始める。だが、今日は、銚子の一本も運んでくる気配がない。おそらく人払いがなされているのだ。
階下で、お久が話す声がする。
一座が聞き耳を立てていると、そのうち階段を上ってくる複数の足音がした。
襖が開いて、お久が顔を覗かせた。
「お客様がお見えになりました」
お久は座敷の面々に挨拶をすると、背後を見遣った。誘ってきた客人を座敷へと促しているらしい。
お久の後ろから、小柄な男が姿を現した。紺地に赤の唐桟の着物に、湊鼠の羽織を着込んでいる。
西村屋が、如才ない調子で男を迎えた。
「これは、森田屋の旦那、ようこそおいでなすった」
森田屋又兵衛。芙蓉と馴染んでいた、神田青物問屋の主人である
綾錦以外の女たちは、男の姿を見て、はっと息を吞んだ。まだ芙蓉が死んで数日しか経っていないのに、なぜ、綾錦の座敷に現れたのか。皆の視線が森田屋に集まったのも、当然のなりゆきだった。
「今日は西村屋さんのご好意で、お呼びいただきまして」
森田屋が、恐縮したように頭を下げた。実直そうだが、廓慣れしている西村屋と比べると、少しばかり野暮ったい感は否めない。
森田屋は、年の頃、四十に少し足りないくらいか。店は、神田の青物問屋の中でも一、二を争う<ruby><rb>大店</rb><rt>おおだな</rt></ruby>。森田屋は一代で莫大な身代を築いていた。
先年、妻を亡くし、その寂しさを紛らわすために、廓へ通うようになったと聞く。ここ一年は芙蓉のもとに通い詰め、羽振りの良いお大尽として、妓楼内外の評判となっていた。
だが、女たちが驚いたのは、森田屋の登場が突然だったという理由だけではない。綾錦を除く女たちの視線が、どこで留まれば角が立たないかを計っているかのように、宙をうろうろ彷徨っている。
芙蓉さんの自害のわけは、案外、森田屋さんの顔にあったりして。
菊乃もまた、視線をあっちこっちに泳がせながら、不埒なことを考えていた。
森田屋の顔には、一面にあばたが残っている。
菊乃は一度、森田屋と妓楼の廊下ですれ違ったことがある。だが、取り巻き衆の賑やかさに目を奪われていたので、森田屋の顔に、こんなにひどいあばたがあるとは、まったく気づかなかった。
「あばたもえくぼ」と言うけれど、それにしても森田屋ほど大量で大粒になると、とてもえくぼには見えない。
森田屋は芙蓉の身請けを考えていたらしいが、いくら最上位の花魁といえど、おいそれと断ることはできなかった。だから、改めて森田屋の容姿をとくと見ると、身請けを望まぬ芙蓉が世をはかなみ、自ら命を断ったとしても、あながち不思議な話ではないと、菊乃は思った。
「あの、少し早すぎたでしょうか」
場のぎこちない雰囲気に気圧されたか、森田屋が小さな声で西村屋に訊ねた。外見に似合わず、森田屋の声は千両役者のように玲瓏として艶っぽい。
「いやいや、決して、そんなことはないぞよ」
西村屋が、森田屋の緊張をほぐすような軽い調子で答えた。
すると、森田屋は安堵の表情を浮かべ、部屋の隅で折っていた膝をずいっと進めた。
「西村屋さんには、このような場を設けていただき、かたじけない。実は、芙蓉のことで、こちらの花魁にお訊ねしたいことがあるんです。だが、<ruby><rb>敵娼</rb><rt>あいかた</rt></ruby>が死んだばかりなのに、のこのこと丁子屋に登楼するわけにもいかず、ほとほと困っていたところを、旦那に声を掛けてもらいまして」
お安いご用とでもいうように、西村屋が鷹揚に頷いた。
「人づてに森田屋さんが困っていることを聞いて、枡屋なら花魁に引き合わせることができると思ったんじゃ」
「して、わっちに話したいこととは、なんですかえ?」
綾錦が、引き締まった面差しを、真正面に座る森田屋へと向けた。
森田屋は話し始めようとして、「けほっ」と軽く咳払いをした。全盛の花魁に正面から見つめられて、息と一緒に唾を飲み込んでしまったと見える。
綾錦は芙蓉とともに、廓で一、二を争う花魁である。芙蓉とは容姿も性格も異なるが、どちらも男の心を魅了してやまない女であることは、間違いない。
森田屋は自らの気を落ち着かせようと、しばらく俯いていた。が、やがて意を決したのか、ぱっと顔を上げた。
「私が初めて丁子屋に登楼したのは、昨夏のことです。八朔の際に、<ruby><rb>仲之町</rb><rt>なかのちょう</rt></ruby>で芙蓉の道中を見たことがきっかけでした」
森田屋は、当時を思い出しているのか、うっとりと、夢見心地の表情だ。
吉原では、八月朔日に、まばゆいばかりの白無垢の小袖を着て、花魁が道中をする習慣がある。暦の上では秋といえ、まだ暑い盛りに、白い涼しげな衣裳で仲之町を練り歩く花魁たちの姿は、いやがおうでも大勢の人目を引いた。
「白無垢を着た芙蓉はまさしく天女のようでした。そのはかなげな美しさが忘れられず、一刻も早く芙蓉に会いたくなった私は、つてを頼って、登楼する手はずをつけたんです」
芙蓉ほどの呼出しになると、見初めたが即登楼というわけにはいかない。それでなくても、芙蓉には多くの馴染がいた。馴染との約束を後回しにさせてまで花魁と会うには、煩雑な手続きと莫大な金が要っただろう。
「丁子屋の引付座敷で、初めて芙蓉を前にした時の私の胸の高鳴りときたら、もう十七、八の青年のようでした。凛として上座に座っている芙蓉が、時折、私をふっと見遣る流し目の可憐なこと。盃を傾けながら、私の手が小刻みに震えていたのを、今でもはっきり覚えています。正直に申し上げると、死んだ妻にだって、そんなときめきを覚えたことは一切ありません」
頬を上気させながら打ち明ける森田屋を前に、西村屋は、我が身にも覚えありといった風情で、にやついている。
綾錦は、年は行っているが心はまったくうぶな森田屋を、いたわるような調子で訊ねた。
「旦那様が、芙蓉さんを身請けするという話を、ちらりと聞きいしたが……」
「ええ、そうです。いえね、私は、この容貌でしょう? 花魁に袖にされたあばた面が、廓の人間を斬りまくった大昔の事件じゃないが、袖にされるのも覚悟のうちだったんですよ。それに、初めのうちは芙蓉も、とんと冷たかった。一晩中、床の中で悶々と待っていることだってありましたよ。ですがね、驚いたことに、しばらく通ううちに、少しずつ私に馴染んでくれるようになったんですよ。しかも、近頃は、芙蓉のほうから、旦那様にずっと添いたいなどと言い出した。惚れた女にそこまで言われちゃ、男たるもの、捨て置くわけにはいきません」
森田屋は、きっぱりと言い切った。小柄で優しげな男だが、案外きっぱりと芯の強いところがあるようだ。
「それじゃ、芙蓉さんは、もう身請けされるつもりでいたんじゃな」
西村屋が確認するように、森田屋の目を覗き込んだ。
「はい。身請けは、女郎の一存で断ることはできないと聞いています。だから、芙蓉が自害をしたと聞いた時、やはり私の、この醜い器量が嫌で死んだに違いないと思いました」
森田屋は、込み上げてくる苦いものを飲み下すかのようなくぐもった声で言った。と同時に、視線をそっと畳に落とす。
「ところが、芙蓉さんの死骸を<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めた西村屋さんからの手紙で、芙蓉の体には一面に斑点が出ていたことを知りました。石見銀山を飲まされていたそうですね」
森田屋の強い視線に、座の女たちは一斉に頷いた。
「西村屋さんから斑点の話を聞いて、私には思い当たるところがありました」
森田屋は、昔の記憶をたどるような面持ちで話を続けた。
「三月ほど前からでしょうか。行灯の火を消して、部屋を真っ暗にしないと、芙蓉は床入りを拒むようになったんです。考えてみれば、変でしょう? 初会で床入りが恥ずかしいという、女郎になりたてならともかく、ですよ。私との馴染だって一年近くある上に、芙蓉は呼出しの花魁です。恥ずかしいなんてことはありえないでしょう?」
「おや。では、森田屋さんは、芙蓉さんの頼みを聞き入れなかったのか」
西村屋が、ひょいと首を傾げた。
商売人と客とでは、普通に考えれば、金を払っている客のほうが立場は上。だが、これが女郎と客という関係に限っては、断然、女郎のほうが上である。
また、呼出しの花魁ともなると、相当にわがままな女郎も多い。怒らせたら、次からは袖にされて、会ってもらえなくなる。だから、いくら金子をばらまくお大尽といえど、呼出しに逆らえるほどのつわものは、ほとんどいないと言ってよかった。
「私は、二人きりになった時に見せる芙蓉の表情が好きだったので、暗闇で花魁の顔が見られないのは嫌だと、いったんは文句を言いました。ですが、どうしても、と強く迫られると、そこは惚れた弱みというやつで……。結局、芙蓉の頼みを承諾しました。でもね、灯を消してからのほうが、芙蓉の情が深くなった気がするんですよ。こう、すがりついてくるような仕草がたまらないほど愛しくて。やっぱり闇の中で私のあばた面が見えないほうがいいんだろうな、と自嘲したくらいなんですが、今にして思えば、その頃から、芙蓉の体には斑点が出ていたんでしょうな」
森田屋は唇を嚙み締めて下を向き、悔やんでいるような、嘆いているような、深い深い溜め息をついた。
「ああ、体がまだらになろうが、腕が一本なかろうが、芙蓉が、終生、私のそばにいてくれれば、何も要らなかったのに。かわいそうな芙蓉……私がもっと早く異変に気づいてやれれば、死ななくてよかったものを」
がっくりと落とした森田屋の肩が、小刻みに揺れているのがわかる。堪えきれず、ぽたぽたと<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れた涙が、畳の上にいくつもの染みを残している。
西村屋は、いたわるように森田屋の肩に手を置いた。
「話を聞いて、<ruby><rb>儂</rb><rt>わし</rt></ruby>は、やはり芙蓉さんの客だった知人に訊ねてみたのじゃ。芙蓉さんは、このところ灯を消さなければ客の相手をしなかったと、その知人も言っておった。ところで、森田屋さんは、花魁に毒を盛ったやつが誰だか、見当はついているのかな」
「いや、だからこそ花魁に訊きたいんです。花魁、生前の芙蓉を恨んでいた者はいなかったんですか?」
森田屋は、いまだ湿り気を帯びた声で綾錦に問うた。
森田屋のしっとりと涙に濡れた眼で見据えられ、綾錦は動揺したような表情を浮かべた。
綾錦の心の内を察したかのように、森田屋は慌てて言い添えた。
「どうか、私に気を使わないでください。これから花魁が仰ることは、おそらく私にとって心地よい話ではありますまい。ですが、私は、知らぬ間に毒を盛られて体を蝕まれ、自害せざるをえなくなった芙蓉の仇を取ってやりたい。それには、なぜ、芙蓉が毒を盛られるまでに憎まれたのかを、知る必要があるんです」
綾錦は、しばらく自分の考えに耽っているようだったが、やがて「わかりいした」と小さく頷いた。
「芙蓉さんは、才気に溢れたお方でありいした。わっちは、新造時代からしか存じんせんが、芙蓉さんは、芸事によく励んでいて、目端がよく利くたちでありいした。妓楼の覚えも、とても良かったように思いいす。ただ、望みのためには手段を選ばないお人で、座敷持ちになってからは、ちとお変わりあそばした。目の上のたんこぶと言うんでありんしょうか。出世の邪魔になりそうな花魁たちには、策を弄して嫌がらせをしていたと聞いた覚えがありいす」
綾錦は着物の襟を直す振りをしながら、目立たぬよう、新造や<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>に目配せをした。犯人の特定はできなかったが、実際に綾錦自身も何者かの嫌がらせを受けている。その嫌がらせの件は、この場で漏らすな、と綾錦は釘を刺したいらしい。
菊乃も歌乃も、さりげなく首を縦に振った。
「それは、どんな嫌がらせだったんですか?」
森田屋が、顔を強張らせて訊ねた。本音を言えば、耳を塞ぎたいくらいの心境なのであろう。なのに、両の拳を握り締め、気丈に振舞っている。
「わっちも、人づてに聞いただけでありいす。それでも、よろしいでありいすか」
森田屋が無言で頷くのを見て、綾錦は話を続けた。
「ほかの花魁がお馴染から頂戴した櫛や簪を、こっそり盗み出しては、そのお馴染が登楼した時に、わざと手水場のあたりに落としておくのでありいす。おそらく、手飼いの禿を丸め込んで、やらせたのでありんしょう」
敵娼に贈った豪華な櫛や簪が妓楼の厠に落ちていれば、いくらのん気なお大尽でも、いい気はしない。それも、一回ならず二回、三回と続けば、客は敵娼をだらしのない女と思うのも無理はなかった。
芙蓉が実行したと噂される嫌がらせで、花魁と客との仲がしっくりいかなくなった例は、枚挙に暇がなかった。
新造時代には、姉女郎の名代で出た座敷で、芙蓉は、ちょっと聞いただけでは謗りとわからぬように、朋輩の悪口を客に吹き込んだ。同時に、自分がその客にどれほど好意を持っているかを、さまざまな手練手管を用いて訴えたらしい。
芙蓉の仕打ちで何人もの客に振られ、失望のあまり気を病んでしまった花魁も、一人や二人ではなかった。
打ち明けにくい話であるからか、綾錦は、初糸に煙草の火をつけさせると、気を紛らわすように喫い、ふうっと煙を吐き出した。
綾錦が手にしているのは、妓楼で使う長煙管ではなく、細くて短い女物の煙管だった。羅宇には瀟洒な蒔絵が施され、季節の花である石蕗が、控えめに金色の花弁を見せていた。
「そういえば、あの女郎はなんといったか? おう、そうそう、葵という呼出しが丁子屋には、おったじゃろ」
健康のために煙草を嗜まぬ西村屋が、手持ち無沙汰を紛らわすように腕を組んだ。
「葵さんという花魁がいたという話は、聞いたことがありいす。ただ、葵さんが呼出しであったのは、おそらく、わっちが丁子屋に入る少し前。わっちが妓楼に来た時には、すでに年季が明けていたか、あるいは<ruby><rb>落</rb><rt>ひ</rt></ruby><ruby><rb>籍</rb><rt>か</rt></ruby>されていたかで、もういなかったでありいす」
綾錦が、丁子屋へ売られてきたのは十二歳。禿になるには、ぎりぎりの年齢であった。
綾錦の説明を聞き、西村屋は、得心した様子で「そうか」と呟いた。
「もう十年も前の話だからな。では、その葵が、妓楼の二階の廊下で転んだ事件は、もちろん知らぬな。儂は、たまたまその場に居合わせておったので、よく覚えている。あの夜、葵が宴席から部屋に戻ってきた時、自分の部屋の前で足を滑らせた。廊下には、一面にべったりと蠟が塗り込められていて、葵は、蠟に足を取られて転倒したのじゃな。もちろん、転んだのは葵だけじゃなく、お付きの新造や禿も一緒だった。だが、不運なことに、葵はその時、相当に酔うておったのじゃ。とっさに体の自由が利かず、激しく腰を打った。葵は、もともと<ruby><rb>蒲柳</rb><rt>ほりゅう</rt></ruby>の質で、年がら年中、廓と下谷にある丁子屋の寮とを行ったり来たりしていたくらいだから、転倒の一件で、すっかり体を悪くしてしまったようじゃ。事件以後、儂は、廓で葵の姿を見かけたことはない」
「では、廊下に蠟を塗ったのは、芙蓉さんだったと仰るのでありいすか?」
「はっきりとは、わからん。ただ、当時、芙蓉が疑われたことだけは確かだ。その事件の際、芙蓉は引込禿だったが、引込になる前は、葵付きの禿。芙蓉には、葵にいじめられていたという動機に加えて、おいそれとは手に入らない、高価な蠟燭を持っていた、という証拠があったのじゃ」
よほど強い印象があったと見えて、西村屋の話には、まったく淀みがなかった。
ただ廓遊びをしているだけでは、まず絶対に窺い知ることのできぬ、女郎たちの陰湿な舞台裏の攻防を聞き知って、森田屋の顔は蒼白になっていた。
「証拠があったのでは、芙蓉さんも、しらを切るわけにはいかなかったでありんしょう」
綾錦が、西村屋の目をじっと覗き込んだ。
「それがな、芙蓉は、蠟燭は自分のところにあってしかるべきもの、と堂々と言ってのけたのじゃ。引込禿は芸事に忙しい。芙蓉は書道が得意だったが、よく聞いてみれば、深夜、好きな書の稽古をするのに、内儀から蠟燭を使ってよいと許しを得ていたらしい。すると、それまで、悪戯は芙蓉の仕業に違いないと息巻いていた内儀が、掌を返したように『そういえば、忘れていたが、確かに許した覚えがある』などと言い出したのじゃ」
ゆくゆくは葵を陥れるために、蠟燭の使用許可を得ていたのだとしたら、芙蓉は大した策士である。
「しかし、廊下に蠟を塗ったのなら、蠟燭は不自然な減り方をしていたでありんしょう」
綾錦は、池に小石を放るごとく座の中に疑問を投げかけた。
「それが、芙蓉の近辺にあったのは真新しい蠟燭ばかりで、使いかけの蠟燭は、ただの一本もなかったのじゃ」
西村屋の話は、漣のように座の連中に染み渡った。
廊下に蠟を塗るのなら、使った蠟燭には表面にこすったような跡が付くはずだ。
だが、証拠となりそうな跡を消したいと思えば、それは<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>いこと。塗った後、わずかに残った蠟燭を、すべて燃やしてしまえばいい。
「では、証拠不十分ということで、芙蓉は咎めを受けることはなかったんですね」
今の今まで、動揺を抑え込んで森田屋が、ほっと解放されたように重い口を開いた。
「そういうことじゃ。しかしそれでも、葵の転倒事件を知っている者は、誰でも蠟を塗ったのは芙蓉だと思ったことだろう。まだ幼くはあったが、出世のためならば手を汚すことも厭わない、という意志の強さが、あの女にはあったのじゃ。もちろん、嫌がらせは褒められたものではない。だが、そこはほれ、<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>ばかりの廓のこと、どこの妓楼でも、女郎同士の諍いは絶えぬでな。呼出しとはいえ、すでに葵は薹が立っていた。丁子屋側としては、芙蓉の悪事には目をつぶって、役に立たなくなった葵を追い出し、将来の呼出し候補として芙蓉を仕込む決心を、その時いよいよ固めたのかもしれん」
複雑な廓の損得勘定は、長く通っている西村屋だからこそわかる話であった。
「禿の頃から人の恨みを買っていたとすると、わっちが知っている以上に、芙蓉さんを快く思わない人が、いるかもしれないでありいすね」
綾錦が、浮かぬ顔をして西村屋に訊ねる。西村屋は、白いものの目立つ太い眉を、大げさに上下させて答えた。
「まあ、葵の件は大昔のことだ。とはいえ、芙蓉が花魁になった後も、人の目の届かぬところで、ちょこちょこと<ruby><rb> 謀 </rb><rt>はかりごと</rt></ruby>を巡らしていたとしたら、そりゃ、事と次第によっては、丁子屋の女郎のほとんどを敵に回していたかもしれんな」
「そうですか……、芙蓉が死んでからこの方、正直言って、私の耳には悪い噂しか入ってきませんでした。私と芙蓉を知る者は、皆口を揃えて、あんな性悪女のことは忘れて気立てのいい女を迎えろと言う。芙蓉の手練手管で<ruby><rb>醜男</rb><rt>しこお</rt></ruby>がいいように操られていただけだってね。ですがね、性悪女だとしても、死ぬ間際の芙蓉は間違いなく私を求めていたと思うんです。はは、そんな考え、おかしいですか? でもね、このままでは何も知らずに命を絶った芙蓉が、私にゃあんまりに哀れで……」
森田屋は、今度は涙を流さなかった。それどころか、奥歯をぎっと嚙み締め、芙蓉を窮地に陥れた犯人を、必ずや捕まえてやる、といった決意に満ちていた。
不祥事を聞かされてもなお惚れた女の仇を取りたいという森田屋のあばた面を、綾錦はしばらくの間、穴の開くほど見つめていた。やがて腹を決めたという表情で口を開いた。
「たとえ、誰かが芙蓉さんの茶や飯に毒を盛っていたとしても、もう毒を入れた痕跡はどこを探してもありいせん。芙蓉さんの部屋から、石見銀山が見つかった話も聞きいせん。それでも犯人を捜したいと言うなら、わっちが力をお貸しするざんす。あちこちでそれとなく訊いてみんしょう。何かわかることがあるかもしれんせん。いや、わっちだけじゃない、ここにいるのは気働きができる者たちばかり、おそらく一肌も、二肌も脱いでくれるはずでありいす」
綾錦に目で合図されて、菊乃は急いで肯定の意を示した。
これは、急に面白くなってきたじゃないの。
菊乃は、胸の奥で暴れ回る期待という名の衝動を、抑えるのに苦労していた。
「花魁、ありがとうございます。これで犯人を明るみに出すことができれば、芙蓉も浮かばれることでしょう」
森田屋は微かに笑みを浮かべると、しんみりとした調子で礼を述べた。
「よおし、芙蓉さんの冥福を祈って宴にするとしようか。森田屋さんも塞いでばかりじゃ、あの世で花魁が心配するわい。今日は何もかも忘れて楽しく騒ぎましょうや」
森田屋の肩を抱くようにして、西村屋が宴の開始を告げた。
(続く)</pre>
<br />
<div style="text-align: right;">
<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; clear: both; padding: 20px;">
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</div>
<div style="text-align: left; font-size:13px;"><b>『蝶々雲──かむろ菊乃の廓文章』風花千里<br />
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吉原の妓楼、丁子屋の禿(かむろ)菊乃は、花魁の綾錦に従い、引手茶屋に来た。当代きっての絵師が、吉原の名花五人の美人画を描く企画で、丁子屋からは綾錦と芙蓉が選ばれていた。遅れて来た花魁の芙蓉は、四半時もせぬうちに具合が悪くなり退出する。その夜、芙蓉が自害。芙蓉には身請けの話があり、望まぬ身請けを苦にしての自害だと噂されたが……。
</div><br /><br /><br />
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</div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-77697889364284845542018-07-04T08:00:00.000+09:002018-07-04T08:00:14.014+09:00一文字小説 006 / 風花銀次<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; clear: both; padding: 20px;">
<div style="text-align: center;">
<table>
<tbody>
<tr>
<td width="430" valign="top">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhAyMfk9Z6H_pTwHKJ9laloIrxj6b8Rlesp5aKJt1YE3m8xNTO2dPedTrqYQy9VTdEleAViYlag9N3_FhWtXMNUKeRO0dUPmFPfUecil7dsVYbYKbk5m7Acio_8hWUkRTP7dxcvBbM8eDZb/s1600/hamaguri.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhAyMfk9Z6H_pTwHKJ9laloIrxj6b8Rlesp5aKJt1YE3m8xNTO2dPedTrqYQy9VTdEleAViYlag9N3_FhWtXMNUKeRO0dUPmFPfUecil7dsVYbYKbk5m7Acio_8hWUkRTP7dxcvBbM8eDZb/s1600/hamaguri.jpg" width="350" /></a>
</td>
<td width="120">
<pre class="lp-vertical lp-width-120 lp-height-350 lp-font-size-20">
<b>一文字小説 其ノ六 風花銀次</b>
</pre>
</td>
</tr>
</tbody>
</table><a name='more'></a>
<pre class="lp-vertical lp-width-580 lp-height-350 lp-font-size-18">
【解説】
さる年の霜月廿二日、浅草の今戸神社を詣でし折り、或人より「家内安全〳〵」に付句せよと請はれければ「はまぐりにたつ心こそめでたけれ」と書いつけて遣はしぬ、なんてでっちあげを申し述べます。はい、穴冠に嫁で「はまぐり」てのは、前回お目にかけた「しじみ」と好一対でございますが、さりとて同様に「はまぐりにしたごころ」とやらかしちまうと、うーん、そんな夫婦関係てものは、なんだか殺伐としてないかしら、と思ったので「立つ心」とした次第でして、ナニはともあれ心が大事ってことです。立てる「心」は篆書体でなくたってかまやあしません。ところで「嫁の下に穴」だと「ぐりはま」になるんでしょうね。だって「月夜に釜を抜く」てな訓ずほぐれつは、文字通り穿ち過ぎでしょうから。</pre>
</div>
</div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-77713740492039602742018-06-30T20:00:00.000+09:002018-06-30T20:00:00.956+09:00写真「noctuary」/ 細身 撓<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; background: #000000; padding: 5px 0px 0px;">
<iframe style="border:none" src="https://s3.amazonaws.com/files.photosnack.com/iframejs/widget.html?hash=ptuja1th2&t=1530312131" width="608" height="480" allowfullscreen="true" mozallowfullscreen="true" webkitallowfullscreen="true" ></iframe>
</div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-83837788377760034752018-06-27T07:00:00.000+09:002018-06-29T23:10:55.292+09:00狂歌十首「新作かぶき『HINOMARU』序幕 奉安殿の場」/ 風花銀次<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; clear: both; padding: 20px;">
<div style="width:582px; margin:0 auto 0 auto;">
<pre class="lp-vertical lp-width-580 lp-height-385 lp-font-size-20">
<b>新作かぶき「HINOMARU」
序幕 奉安殿の場 風花銀次</b>
晝間だが<ruby><rb> 蜩 </rb><rt>かなかな</rt></ruby>の聲、<ruby><rb>下手</rb><rt>しもて</rt></ruby>より男らがばらばらと<ruby><rb>登場</rb><rt>あらはる</rt></ruby>
やや遠く切れ切れに玉音放送、日の本の<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby><ruby><rb>方</rb><rt>ち</rt></ruby><ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby><ruby><rb>方</rb><rt>ち</rt></ruby>で<ruby><rb>暗挑</rb><rt>だんまり</rt></ruby>
國民服の男其の一「日ッ本を<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby><ruby><rb>體</rb><rt>たい</rt></ruby>崩しに致し候」
唄。〽千代に八千代になどと、<ruby><rb>契情</rb><rt>けいせい</rt></ruby>の誠のはうが<ruby><rb> 信 </rb><rt>まこと</rt></ruby>らしうて……
蟬の聲、鳴物<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>みて三人の國民服<ruby><rb>齊</rb><rt>ひと</rt></ruby>しく思ひ入れ
「翼贊の歌詠まざるは幸運に過ぎぬ」如何にもと宜しく<ruby><rb> 科 </rb><rt>こなし</rt></ruby><a name='more'></a>
「靈に貴賤はありやあしねえ、英靈と云ふがごときは<ruby><rb>樗蒲一</rb><rt>ちよぼいち</rt></ruby>だらう」
「ぼく<ruby><rb>除</rb><rt>よ</rt></ruby>けに<ruby><rb>御靈</rb><rt>ごりやう</rt></ruby>の<ruby><rb>名</rb><rt>な</rt></ruby><ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>を取つ替へた二つ名のある<ruby><rb>御</rb><rt>み</rt></ruby><ruby><rb>靈</rb><rt>たま</rt></ruby>だなア」
ト、思ひ入れあつて氣を變へ振り仰ぎ「空に吸はれし銃後の心」
意味もなくはためく旗を無言にて皆皆見やりつつ<ruby><rb>柝</rb><rt>き</rt></ruby>の<ruby><rb> 頭 </rb><rt>かしら</rt></ruby>
(未完)</pre></div></div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-55558612504852129832018-06-23T08:00:00.000+09:002018-06-23T08:00:14.068+09:00小説「蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章」06 / 風花千里<pre class="nehan3-pagerize" style="display: none;"> <h4><b>蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章
風花千里</b></h4>
<b>第六章 四人の禿</b>
「歌乃、行くよ」
まさに阿吽の呼吸とでも言おうか。菊乃の呼びかけに、歌乃が間髪を入れず「うん!」と頷いた。
「千鳥と波路に話を聞きに行くのね」
歌乃の瞳がいつになく強い光を湛えている。
波路と同様、千鳥も、おっとり構えた歌乃を陰で小馬鹿にしている。歌乃も、千鳥らの陰湿な言動を肌で感じているはずだった。
姉女郎のお墨付きを得て、菊乃とともに話を聞きに行くとなれば、いつもいじめられている鬱憤を晴らせる絶好機だと思っているのかもしれない。
いつもと違う歌乃の積極的な様子に、菊乃は<a name='more'></a>少々面食らった。
昼も、九つ半になろうという時刻。化粧も終わり、綾錦は馴染客に文を書くというので、菊乃たちに、ほんの四半時だが暇が与えられた。
二人して、勇んで部屋を出たまではよかったが、襖を閉めてから、はたと当惑する。
芙蓉が死んで主のいなくなった向かいの三つの座敷は、綺麗に掃除がなされ、襖が開け放たれていた。人の気配は、まるでない。
朝、湯殿に出向いた時には襖が閉じられていたから、芙蓉付きだった<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>や新造は、まだ居るものだと思っていた。けれども、どうやらすでに散り散りになって、どこかの部屋に移ったようだ。
丁子屋は大見世ゆえ、女郎だけでも二十人を超えた。
芙蓉の自害から二日。対の禿が、どの花魁に付いたかという情報は、いまだ菊乃たちの耳に届いていなかった。
「どうするの? 千鳥も波路もどこ行ったか、全然わからないよ」
芙蓉の座敷の前に立った途端、歌乃は、早くも逃げ腰である。
自害の現場を見ているわけでもないのに、人一倍おろおろと怖がる歌乃は、事件からこの方、一人では絶対に部屋を出ない。湯殿はおろか、厠に至るまで、菊乃と一緒でなければ用を足せないのだ。
畳が替えられ、自害の痕跡などまるっきり見出せない整然とした座敷を、菊乃は端から端まで見渡した。
おや?
何か引っ掛かった。菊乃は、左から右へと、ゆっくり移動させていた視線を慌てて中央に戻す。床の間の上部に、縦五尺くらいの掛け軸が提げられている。
「歌乃、あれって、芙蓉さんが書いたんじゃなかったっけ?」
歌乃は、穢れのあった部屋を避けるように、そっぽを向いていたが、菊乃に促されて、しぶりしぶり、おずおずと座敷を覗いた。
「うん。そうよ。あの『芙蓉』っていう字に、見覚えがあるもの」
「やっぱり、そうか。部屋を掃除したおじさんたち、元からこの部屋にある掛け軸だと勘違いして、掛けっぱなしにしておいたんだね」
菊乃は座敷に入り、しげしげと掛け軸を眺めた。
芙蓉が、自分の名が詠み込まれた漢詩を揮毫して、客を招く座敷に飾っているという話は聞いた覚えがあった。
先年、柳橋の河内屋で開かれた書画会に、芙蓉は、吉原の女郎として初めて招かれた。その席で芙蓉が揮毫した書は、普段は吉原でしか目にできない貴重な作品という理由で、大変な高値がついたという噂だった。
一向に書が上達しない菊乃ではあるが、芙蓉の書の見事さは、はっきりと実感できた。
女郎は、登楼の誘いから金の無心まで、日に何通も馴染客に文を書く。特に芙蓉は、一日十通以上の文をしたためることもあるという。芙蓉が呼出しの地位にまで上り詰めた理由は、案外、そのまめな部分にあるのかもしれなかった。
芙蓉の書の流麗な線と、己の房楊枝で書きなぐったような、がさがさの線とを引き比べ、菊乃は天を仰いで盛大に嘆息した。
菊乃のあまりに大げさな呼気に、歌乃が、んくっ、と笑いを嚙み殺している。
「何、溜め息ついてるの?」
「わっちと芙蓉さん、同じように紙と筆を使って書いているのに、どうしてこんなに出来栄えが違うのかなあって……。まっ、そんなことはいいや。それより下へ行ってみよう。誰か千鳥と波路の行方を知っている人がいるかもしれない」
菊乃は、歌乃の手をむんずと摑むと、廊下を走り出した。
遅い朝飯の片付けを終え、まだ開店の準備には間があるからか、内所には、人っ子一人、見当たらなかった。
常に内所から女郎や雇い人に目を光らせている楼主と内儀も、所用で席を外しているのか、どこにも姿が見えない。
内所の奥の座敷から、常磐津の節回しが聞こえる。ことによると、<ruby><rb>角町</rb><rt>すみちょう</rt></ruby>に住む常磐津の師匠が来て、内儀に稽古をつけている最中なのかもしれない。
菊乃と歌乃は、内所には入らず台所に向かった。
「ここも、誰もいないね」
菊乃につき合い、階下まで走ってきたせいで、歌乃の息が荒く弾んでいる。
「一回りして誰もいなかったらほかを探そう」
菊乃は、歌乃の手を離した。二人とも懸命に駆けてきたから、掌が少し汗ばんでいた。
人がいないせいか、やけに広く見える台所を通り抜ける。途中で菊乃は、調理場の隅に置かれた鉢に、朝飯の菜の残りの沢庵を見つけ、素早く一つ頂戴して、ひょいっと口に放り込んだ。平気でつまみ食いをする菊乃を見咎め、歌乃は、めっと睨む真似をした。
外に通じる木戸の前にたどり着いた。
そっと木戸を開けると、凩が吹きすさび、肌に触れる風が身を切るように冷たかった。
「この間、ゆきはここで遊んでいたんだよ」
菊乃は木戸の外を指さした。
さすがに、この身を切るような寒さの中、ゆきの姿は見えなかった。
「まあ、ゆきったら、こんなところまで来てたのね。遣手のお滝婆は猫嫌いだから、見つかったらいじめられるわ。あんまり外をうろつかないよう気をつけてやらないと」
初めは生き物に興味のなかった歌乃も、部屋でゆきを飼うようになってから、すっかり猫好きになっていた。
しばし戸を開けたまま、誰か通りかからないか窺っていたが、歌乃が、耐えかねたように「寒いねえ」と口を開いた。手をこすり合わせ、寒さに身をよじっている。
振袖を三枚も重ねているといっても、まだ部屋着のままである。襟元や身八つ口から忍び込む冷気は、華奢な子供の体を震え上がらせるに十分だった。このまま外にいると風邪を引きそうだ。
菊乃は音を立てないようにして木戸を閉めた。
再び、台所を通る時、内所の近くで何やら人の蠢く気配がした。
菊乃は、歌乃と顔を見合わせ、目配せをする。腰を屈め、土間を忍び足で進み、内所に近づいた。
先を行く歌乃の歩みが止まった。二人で土間に膝をつき、台所の板の間越しに顔を覗かせる。
板の間と内所を仕切る丈の低い屛風の陰に、妓楼の粗末な仕着せをまとった子供が潜んでいた。内所の、さらに奥に続いている座敷の様子を窺っているらしい。どうやら下働きの子供のようだ。
「あの子、何を企んでいるんだろう」
菊乃が歌乃の耳に囁きかけた途端、当の子供が振り向いた。
「あっ!」「えっ!」
菊乃と歌乃が、交互に叫んだ。
煤けたような顔をした波路が、爛々と燃えるような目で二人を見据えていた。
菊乃は急いで波路のもとへ駆け寄ると、ぺたりと座った波路の頭のてっぺんから足の先まで視線を走らせた。
「どうしたの? その格好」
少し前まで、菊乃や歌乃と同じく艶やかな振袖を着ていた波路が、藍天鵞絨の真岡木綿の地味な布子に、細帯を締めただけの姿でうずくまっているのだ。もちろん化粧もしておらず、髪には質素な簪を一本しか挿していない。
波路は、奥の座敷を憚るように声を潜めた。
「しっ、声が高い。ご覧のとおり、姉様が死んでほかに行くところがないから、内所の手伝いをしてんのよ」
菊乃たちの着物を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけると、波路はふてくされた顔をして言った。
「行くとこないって、どういうこと?」
菊乃は思わず聞き返した。歌乃も事情がよく吞み込めていないと見え、目を見張ったまま呆然としている。
花魁の中で、小間使いとして禿を付けられる資格があるのは、呼出しと、<ruby><rb>昼三</rb><rt>ちゆうさん</rt></ruby>。つまり、揚代が昼夜共で三分という上妓である。昼三はさらに、道中をし、引手茶屋で<ruby><rb>仲之町</rb><rt>なかのちょう</rt></ruby>張りをする者と、妓楼で客を待つ見世昼三とに分かれていた。
芙蓉が死んで、呼出しは綾錦一人となった。しかし、昼三は五人ほどいるはずで、菊乃は、波路と千鳥が、他の昼三の下に付くと思っていた。
波路は、菊乃の吞み込みの悪さに腹を立てたか、忌々しそうに、ちっ、と舌を鳴らす。
「要するに、今は、どの花魁にも二人ずつ禿が付いているんで、わっちを世話してくれる姉さんが全然いないってことよ」
菊乃は、丁子屋の昼三の顔を頭に描いてみる。三芳野、桜葉、花鳥、玉川、薫。確かに、この五人の花魁は、すでに対の禿の面倒を見ていた。
「そう。じゃ、千鳥も一緒に内所の手伝いをしているんだ」
と、菊乃が何気なく呟いた刹那、波路の手が菊乃の肘を思いきり摑み、強い力で引っ張った。
「いっ、痛い! 何すんだよ!」
「うるさい! 黙ってここから見てごらん」
波路が屛風の陰で体をずらし、菊乃に場所を譲った。
菊乃は屛風の脇からそっと顔を出し、奥の座敷を覗いた。
「千鳥、引込になったんだ……」
菊乃が目にしたのは、目の覚めるような<ruby><rb>韓紅花</rb><rt>からくれない</rt></ruby>の小袖を着て、常磐津の師匠に稽古をつけてもらっている千鳥の姿だった。千鳥の横には内儀が控えており、にこやかに稽古の進み具合を眺めていた。
禿の中で、器量が良く、将来、全盛の花魁になれそうな素質を持つ子供は、引込禿として、内所で育て上げた。店にも出さず、雑用もさせず、ひたすら芸事と行儀を仕込まれる。引込禿は、禿の中でも選り抜かれた子供しかなれぬゆえ、妓楼に一人いるかいないか、といった存在だった。
それにしても、芙蓉の死によって生じた、禿の境遇の差はどうしたことだろう。片や煌びやかな着物を身にまとい、芸事三昧。片や垢じみた仕着せで、台所の下働きである。
波路が烈しい嫉妬の感情を抱きつつ、屛風の陰で朋輩の様子を窺っていたであろうことは容易に想像がついた。
「波路……」
菊乃は波路が気の毒で、掛ける言葉が見つからなかった。
波路は、話の接ぎ穂を失って口ごもる菊乃を、苦々しい顔つきで見遣っていたが、唐突に、くっくっ、と忍び笑いを漏らした。
「何がおかしいのさ」
菊乃は、波路の小生意気な態度に、かちんと来た。
「へん、ちゃんちゃら、おかしいわよ。あんた、柄にもなくわっちに同情しているつもりなんだろうけど、そんなの無用よ。今に見てなさい。わっちとあんたは、いずれ綾錦さんの部屋で一緒になるはずだから」
波路は、肩肘を張り、傲慢なくらいにそっくり返った。そばかすの浮いた顔は奇妙にねじくれて、歌舞伎『助六』の意休さながらの悪意に満ちていた。
歌乃の指摘どおり、波路は相当にひねくれて陰湿な性格のようだ。
それまで唇をぎゅっと嚙んで黙っていた歌乃が、すっと背筋を伸ばし、挑むように波路に食ってかかった。
「は? 波路ったら、おつむが変になったんじゃないの? 姉様のところには、菊乃とわっち、もう禿は二人いるわよ」
波路は目を転じ、歌乃の硬く突っ張ったような顔を、まじまじと見つめた。二人の視線が絡まり合い、火花が散りそうなほどの緊張が走る。
「あら、お内儀さんが、歌乃を家に帰して芸者にしたほうがいいだろう、って仰っているのを知らないの?」
「えっ、それって、どういうこと……」
歌乃が言葉を詰まらせた。語尾がかすれ、わずかに声が震えている。
ふふん、と波路は鼻で笑うと、追い討ちをかけるように毒言を吐いた。
「あんたは器量も良くないし、何かにつけてとろいし、その上、気働きもできないから、女郎には向かないんだってさ」
「噓だ! いいかげんなこと言うな」
歌乃をいじめるやつは許さない。菊乃は、波路と歌乃の間へ割って入った。あまりに腹が立って、全身が、かっと熱くなる。
「この耳でお内儀さんから聞いたんだもの、本当のことよ。だから、歌乃がお払い箱になったら、わっちが絶対に後釜に座ってやる!」
妬みという感情は、これほどまでに人の形相を変えてしまうのか。
波路は、どちらかといえば人好きのするかわいらしい顔立ちだったが、今は、その面持ちがとげとげしく、醜いほどに歪んでいた。
「ひっ、ひどい」
歌乃は、顔を袖で覆って立ち上がった。菊乃が止める間もなく、その場から走り去る。
「あっ、歌乃!」
「うふふ、相変わらずの泣き虫だねえ。とっとと母ちゃんのところへ帰ればいいのに」
「なんだと!」と言い放つのと、菊乃の手がびしゃっと波路の頬を張るのとは、まったく同時だった。
「うちの姉様は、歌乃を手放したりしない」
菊乃は、きっぱりと言い切った。綾錦が歌乃の意向も聞かずに、折り合いの悪い母親のもとへ帰すなど、絶対にあるはずがない。
波路は張られた頬を手で押さえ、しばらく憎々しげな目つきで菊乃を見ていた。
だが、菊乃を敵に回すのは得策ではないと踏んだのだろう。にわかに、声がおもねるような調子に変わる。
「どうだかね。花魁なんて、みんな同じよ。禿は体のいい小間使いとしか思ってないわ。養ってやっているんだからと、禿の使い勝手が悪ければ、怒るし、叩くし、揚げ句の果てに暇を出す。うちの死んじゃった姉様だって、そう。ほうら、見て」
波路が着物の袖をまくって差し出した二の腕には、煙管で打たれた跡だろうか。紫色に変色した痣がいくつも残っていた。
波路は、無理に唇の端を捻じ曲げたように、引きつった笑いを見せた。
「ねっ、ひどいもんでしょう?」
「そんなに折檻されてたのか……。それじゃ、波路は、芙蓉さんを恨んでいたのかい?」
菊乃は、突如として、馴れ馴れしい振舞いに及ぶ波路を警戒しながらも、大事な話を聞くことを忘れなかった。
波路には、芙蓉に毒を盛る機会があったのだ。以前から、折檻を受けていたのであれば、毒を盛る立派な動機となる。
しかし、波路は、力なく首を振った。
「折檻はつらかったし、逃げ出したいと思ったこともある。だけどそれとて、姉様がいないよりか、よっぽどまし。ここじゃ姉女郎を持たない子供は惨めなもんよ。行く末は、どんなに出世したって昼夜金二分の部屋持ち止まり。店のおめがねに適わなければ、小見世に売られることだってある。姉女郎がいるだけで、どんなにありがたいことか、姉様が死んで、ようくわかったわ」
波路の話に、菊乃は頷くところがあった。
菊乃は、今や丁子屋一となった綾錦の世話になっている。特定の花魁に付けず下働きをさせられている子供とは、食事、衣裳等、待遇に雲泥の差があった。その上、菊乃と歌乃が習う、三味線、手習いの費用はすべて綾錦が負担してくれている。
「ああ、姉様が自害なんかしなければ」
波路が、両手で額を押さえ、悲痛な声でうめいた。
ひと口に禿といえども、妓楼における出世の終着点は、本人が置かれた状況によって大きく変わってしまうのだ。ことほどかように、禿にとって姉女郎の存在は大きい。
だが、時を置かず、まるで見えない力によって奮い立たされたように、波路はしゃんと頭を上げた。
「だけど、わっちは絶対に諦めない。今に、千鳥や菊乃より、うんとうーんと立派な花魁になって、わっちをこき使ってきた大人たちを見返してやる」
真っ赤に熾った火鉢の炭のように、波路の眼は烈しい闘志を宿していた。
「こら、お前たち! そんなところで何をごちゃごちゃ騒いでる。稽古中だってのに、お師匠さんの声が聞こえないじゃないか」
頭上で、内儀の険しい声がした。
屛風の向こうから見下ろしている内儀の姿に気づき、波路が慌てふためいた。
「波路、そんなところで無駄話をしおって。内所の棚の拭き掃除は済んだのか?」
屛風のそばに、絞ったままの雑巾が捨て置かれている。おそらく、まだ命じられた用事は済んでいないのだ。
「菊乃が……、菊乃が、わっちの仕事の邪魔をするんです」
こっそり覗き見をしていたにもかかわらず、波路は芝居気たっぷりに内儀に泣きついた。油を売っていた責任を菊乃に押し付ける気らしい。すがりつかんばかりに、苦情を訴える波路の横顔には、追従の色がありありと現れていた。
何をか言わんやである。菊乃はあんぐり口を開けたまま、波路と内儀を代わる代わる見比べた。波路は、これ幸いと、内儀の怒りの矛先を菊乃に向けるつもりのようだった。
案の定、内儀は鬼神のごとく、目も口もくわっと開け、菊乃のほうへ<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を向けた。
「菊乃! お滝から聞いてはいたけど、お前はあちこちで油を売ってるそうじゃないか」
「いえいえ、そんなことありいせん」
菊乃は、えへらえへらと愛想笑いを浮かべながら、内心「こいつは、ちょいとまずい状況になったもんだ」と焦っていた。
お滝婆には、つい先日、物干し場で遭遇した時、ねちねちと小言を食らったばかりだった。どうやら、菊乃の軽率な行動を目にしては、内儀に報告しているようである。
しょせんは雇い人だから、お滝婆は怖くない。だが、内儀に睨まれると、ちと厄介だ。廓内の会合や揉め事の始末で留守がちの楼主に代わり、妓楼を仕切っているのは、実質的に内儀である。禿が粗相をしがちで、内儀の覚えがめでたくないと、姉女郎まで飛ばっちりを食う事態になりかねない。
他人に着せられた身に覚えのない疑いは、晴らさねばならない。菊乃は、濡れ衣を着せた波路に詰め寄ろうとした。
あれ?
だが、波路の立っていた場所には、雑巾が転がっているだけだった。当の本人は、内儀の注意が菊乃に行っている間に、さっさと遁走したらしい。はるか向こうの廊下を勢いよく駆けていく足音が、菊乃の耳にも届いた。
内儀は、いなくなった波路の存在など、この際どうでもよくなったようだ。ここぞとばかりに、菊乃に対して執拗に非難を浴びせかける。
「まったく、お前ときたら、せっかく綾錦が拾ってくれたのに、その恩も忘れて怠けてばかり。どうしたもんだろうね。こんな役立たずじゃ、綾錦にとっても足手まといになっているに違いないよ。姉女郎に誠意を尽くせない禿は、花魁付きにはしておけないんだ。こうなったら、こんななまくらもんは、切見世にでも売り飛ばすしかないかね。お前のように痩せっぽちで貧相な<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>でも、もてあそびたい好き者はいつの世にもいるからねえ」
内儀は、意味深長な薄笑いを浮かべて脅しにかかった。
まずい……、ここはひとつ、しおらしくしとくか。
菊乃は面を伏せて、自らの非を悔い改めている態を見せた。
脱走を企てた過去はともあれ、今は禿として、綾錦の下でする修業のあれこれが、ほんの少し楽しくなってきたところだ。
菊乃は行くあてのない身だから、内儀の機嫌を損ねて妓楼を追い出されれば、二度と学ぶ機会は訪れないだろう。ここは、内儀の怒りの嵐が静まるのをじっと待つしかなかった。
そこへ、相変わらず一分の隙もなく化粧を施した千鳥が顔を出した。
「お内儀さん、お師匠様がお待ちでございんす」
禿島田に結った千鳥の髪は、流行りの木の葉の花簪で飾られ、香を焚きしめた小袖からは、ほのかに白檀の香りが立っている。もし、この場に波路が居残っていたら、羨望のあまり朋輩に絡み、ひと悶着を起こしたかもしれない。
千鳥に声を掛けられ、内儀は気勢を削がれたようだ。しきりに、内所の奥にある座敷の様子を気にしている。
「菊乃」
内儀は、いまだ腹に据えかねるといった尖った調子で、菊乃の名を呼んだ。
菊乃は「あい」と間髪を入れず、努めて素直に返事をする。
「今日のところは、これで勘弁してやるが、次にお前の不精な振舞いを耳にしたら、ただじゃおかないよ。よく覚えておおき」
内儀が言い捨て、波路が置き忘れていった雑巾を忌々しそうに蹴飛ばした。
「わっちは常磐津の稽古が終わりいした。続けて、<ruby><rb>揚屋町</rb><rt>あげやちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>峰春</rb><rt>ほうしゅん</rt></ruby>先生のところへ、手習いの稽古に参ってもいいざんすか」
千鳥は、やけに取り澄ました表情で内儀に伺いを立てた。菊乃を<ruby><rb>木</rb><rt>で</rt></ruby><ruby><rb>偶</rb><rt>く</rt></ruby>とでも思っているのか、目をくれようともしない。
「ああ、それがいい。このなまくらもんに邪魔立てされないうちに、早くお行き」
内儀は機嫌よく千鳥を追い立てると、自分もさっさと踵を返し、奥の座敷へと消えた。
菊乃は、ぽつんと一人、板の間に取り残された。
内所の縁起棚に掛かるお多福面の、人を小馬鹿にしたような薄ら笑いが癪に障る。男の一物をかたどった<ruby><rb>金精</rb><rt>こんせい</rt></ruby>大明神が、不恰好な姿を縁起棚から突き出し、やんややんやと、囃し立てているように見えるのにも腹が立つ。
菊乃は内所へ入り、縁起棚の前に陣取った。背伸びをし、片手でがしっと金精大明神を摑むと、逆さにして棚に立て掛けた。
この罰当たりが、という向きもあろう。だが、今は、神無月。どうせ神様は、出雲の国に出かけて、のん気に酒盛りでもして浮かれているに違いない。
このまま、黙って引き下がれるかい。
菊乃は、ぱぱっ、と周囲を見渡す。二階へ続く大階段に目を留めると、素早く階段下へ身を隠した。
千鳥は、揚屋町の手習いの師匠の家へ行く、と言っていた。それなら、千鳥が暮らす楼主の部屋から、内所を抜け、大階段の脇を通って外へ出るはずだ。
菊乃が階段の下でじっと息を凝らしていると、ほどなく、千鳥が手習いの道具を包んだ風呂敷を抱えてやってきた。妓楼の入口で下駄を履き、暖簾をくぐる。
千鳥が表に出たのを見定め、菊乃も階段下から走り出た。
急いで下駄を突っかける。入口で所用から戻ってきた番頭と鉢合わせしたが、構わず外に飛び出した。
十間ほど先に、派手な振袖が翻っているのが見える。相手も下駄を履いている。同じ下駄履きなら、追いつけぬわけはない。
「千鳥、ちょいと、待った」
菊乃は全速力で走り、<ruby><rb>江</rb><rt>え</rt></ruby><ruby><rb>戸町</rb><rt>どちょう</rt></ruby>二丁目の木戸の手前で、千鳥の前に回り込んだ。
行く手を塞がれ、千鳥は憎々しげな面差しを隠さない。
「何さ。あんたとは関わり合いになりたくないの。稽古に遅れるから、邪魔しないでよ」
「ところが、どっこい。こちとら用事があるのさ」
菊乃は、千鳥に逃げられないよう、べったり脇に張り付いて歩を進めた。一緒に木戸をくぐり、待合の辻を左に折れる。
「死んだ芙蓉さんのことを教えてほしいのさ。ねえ、どんな人だったの? 厳しかった? それとも、意地悪だった?」
「姉様のこと? そうねえ……」
うるさくつきまとわれて観念したか、千鳥は、意外なほどあっさり菊乃の誘いに乗った。
「そりゃ、厳しいお方だったわよ。言いつけられた仕事をしくじれば怒られる。姉様に恥をかかせるような失態をすれば、飯を抜かれる。でも、それは、どこの姉様も同じじゃないのかしら? わっちは今じゃ、厳しい姉様で、かえってよかったと思ってる。あの厳しさに耐えられれば、どこへ出ても、恥をかくことはないもの。それに、芸事の修業は、引込になった今のほうが厳しいしね」
千鳥は早口で芙蓉の恩を強調したが、菊乃はまったく頷けなかった。
「ああ、わっちの姉様が芙蓉さんじゃなくてよかった。ところでさ、千鳥は、その芙蓉さんの小間使いをしてたの?」
「そう。姉様の化粧や、衣裳の着付けの手伝いをしてた。何であれ、きちんとしなきゃ、虫の居所の悪くなるお人だったから、わっちも白梅姉さんもつくづく気を使ったけどね」
やはり千鳥は芙蓉の身支度を手伝っていた。しかし、白梅も一緒だったなら、石見銀山を仕込むには無理があったかもしれない。綾錦と異なり、芙蓉は身の回りの世話をすべて新造や禿に任せ、自分はほとんど部屋から出なかった。そんな中で化粧道具に毒を仕込む隙はほとんどないに等しい。
「そうそう、それからお馴染さんへの文を言いつけるのに、便り屋までよく行かされたわ」
菊乃の意識が、自分の話からすっかり逸れているのも露知らず、千鳥は、律儀にずっと質問に対する答えを探していたようだ。
揚屋町への木戸が見えてきた。
吉原の町は狭い。花魁道中の際は、一町を四半時もかけて進むが、こうして早足に歩くと、南北一三五間しかない仲之町の通りは、行き止まりの水道尻まで、あっという間に行き着いてしまう。千鳥への訊き込みもさることながら、菊乃は、先ほど出くわした波路の話も聞いてみたいと思った。
「ところで、千鳥んとこでは、<ruby><rb>鉄</rb><rt>か</rt></ruby><ruby><rb>漿</rb><rt>ね</rt></ruby>を用意していたのはいつも波路だったんだろう? たとえば、鉄漿の中に何かを混ぜるとか、怪しい素振りをしたことはなかったのかい?」
怪しまれぬよう、菊乃は、努めてさりげなく訊いたつもりだった。
しかし、千鳥は通りの真ん中で立ち止まると、菊乃に詰め寄った。
「それ、どういう意味? あんた、何か知ってるの? 昨日、姉様の部屋に親仁さんが来て、篝火姉さんや白梅姉さんに、きつく何かを訊ねてらした。やれ、花魁にお茶を出していたのは誰だ、飯を運んでいたのは誰だと、そりゃあ、怖いものの言い方だった。ねえ、姉様が喉を突いたのと、飯を運ぶのと、いったいなんの関係があるっていうのよ?」
千鳥が血相を変えている。果たして事の次第を話していいものか。菊乃の心に迷いが生じた。
芙蓉が毒を盛られていた事実に、本当に気づかなかったのか、それとも、気づいていたのにしらを切っているのか。
「芙蓉さんは、死んだ時には、体中に斑点が出ていたって。お医者の見立てじゃ、自害する前から毒を盛られていたそうだよ」
揚屋町の木戸をくぐり抜けながら、一か八か、菊乃は、八橋から聞いた事の経緯を、千鳥に明かした。
「毒を盛られた?」
千鳥は、ようやく合点がいったというふうに、大げさに頷いた。
「ああ、だから姉さんたちが疑われたのね。でも、鉄漿のことはわからないわ。波路が一手に引き受けていたから」
「そうか。うちの姉様は、鉄漿に毒を仕込むという手口があるかもしれないって言うんで、波路のことを訊いてみたのさ」
菊乃は、わざと化粧品の可能性については黙っておいた。
「ところで、千鳥は、芙蓉さんの斑点に気づかなかったのかい?」
路地へ入り、千鳥は歩きながらじっと考え込んでいる。
「わからない……、近頃、姉様は湯殿にも朝遅くに一人で出向いていたし、お化粧もお手伝いをしようとすると、結構、と撥ねつけられた。そういえば、夜見世の前に着替える時、胸元に痣のようなものが見えたことがあったけど、あれがそうだったのかしら」
胸元の痣というのは、自害した夜、西村屋が気づいたのと同じ箇所かもしれない。
「芙蓉さんが毒を飲まされていたのは、少なくとも一年くらい前からだって言うからね」
白塗りの顔から目だけが<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れ落ちてしまいそうなほど、千鳥が瞠目した。
「千鳥、どうしたの? 何か覚えでもあるのかい?」
千鳥の静かな、しかし、深い驚きを目の前にして、菊乃は訊ねずにはいられなかった。
「ううん、わっちが知るわけないじゃない」
口を開いた時には、千鳥はすでに元の表情のない顔に戻っていた。
「だけど毒を盛られたと聞いて、無理もないと思ったの。うちの姉様はこれまであくどい嫌がらせを仕掛けて、ほかの姉さんたちの恨みを買ってきたからね。姉さんたちが意趣返しをしたとしても少しもおかしくないわ。たとえば、あんたんとこの姉様とかね」
「なんだって! うちの姉様は、わからないようにじわじわと毒を盛るなんて卑怯な真似はしないさ」
腹が立って、路地の左右に民家がひしめいているにもかかわらず、菊乃は大声を出した。
「わかったわよ。恥ずかしいから、そんな物売りみたいな大声を張り上げないで。でも、あんたが姉女郎をかばうのなら、わっちだって同じよ。うちの姉さんたちだって、姉様に毒を盛るようなお人じゃない。もちろん、波路もね。それはわっちが請け合うわ」
挙動が怪しいと気づいた上で、千鳥が篝火や白梅をかばっているのか、もう一枚の皮膚を重ねたような厚化粧の上からでは、到底、窺い知ることはできなかった。
「さっ、もういいでしょ。わっちはお稽古に行かなくちゃ」
つきまとってくる蠅を追い払うような仕草で手を振ると、千鳥は小綺麗な造りの長屋の前で立ち止まった。
《東江流手跡指南所 山村峰春》
何戸かあるうちの一戸に黒々と墨書された看板は、菊乃も、もちろん見知っていた。
死んだ芙蓉は峰春の一番弟子と言われていた。だから、姉女郎の亡き後も、千鳥はそのまま峰春に教えを請うのが筋なのだろう。
千鳥は指南所の戸を開け、峰春先生、と一声掛けた。中から低い声で応答があり、それを合図に千鳥は中へ入っていく。
「あっ、千鳥」
菊乃は、千鳥の後ろ姿に思わず声を掛けた。千鳥がしとやかに振り返る。
しかし千鳥は、菊乃と一切目を合わすことなく、ぴしゃりと素早く戸を閉めた。
相変わらず、失礼で嫌なやつ!
菊乃は苦々しい思いで指南所の戸を睨むと、諦めてその場を後にした。
(続く)</pre>
<br />
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<div style="width:582px; margin:0 auto 0 auto;">
<pre class="lp-vertical lp-width-580 lp-height-350 lp-font-size-20">
<b>半分、赤い 風花銀次</b>
いはずもがなけふもたれかの忌日にて半分赤い墓域ありけり
茶房太白地階の奧で差し向かふ<ruby><rb>可塑的</rb><rt>プラスチック</rt></ruby>な女友達
鞭ふるふときにもつとも美しき騎手が大映しのテレヴィジョン
實は曾我五郞ならねど助六といへる<ruby><rb>魚</rb><rt>とと</rt></ruby>屋の閉店セール
みだりがはしくも付箋のあまたなる記紀 亡き父の書架にまします</pre></div></div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-38180467508870351662018-06-09T08:00:00.000+09:002018-06-09T08:00:02.456+09:00小説「蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章」05 / 風花千里<pre class="nehan3-pagerize" style="display: none;"> <h4><b>蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章
風花千里</b></h4>
<b>第五章 化粧う女たち</b>
「歌乃ぉ、あんたの《江戸の水》さ、ちょっと貸してよ」
菊乃は、湯上がりで火照った頬をぺちぺちと叩きながら、歌乃に請うた。
《江戸の水》とは、近年、江戸で流行している化粧水。今は亡き、式亭三馬とかいう戯作者が、副業で始めた生薬屋から売り出した代物だった。
《江戸の水》は、綺麗な硝子瓶に入っている。菊乃も歌乃も初糸も、綾錦からこの化粧水を一瓶ずつもらっていた。
「やあよ。菊乃に貸すと、一気に中身が減るんだもの」
歌乃は、口をむうっと尖らせて拒んだ。
「わっちの瓶の中身は、もうなくなっちゃった<a name='more'></a>んだ。ねっ、少しくらい、いいじゃない」
菊乃は、掌を合わせ、拝まんばかりにして歌乃に言い寄った。歌乃の瓶は、まだ中ほどまで化粧水で満たされていた。《江戸の水》は、少量を左手に取り、それを右手に持った刷毛で薄く顔に伸ばしていくのがよいとされている。
だが、菊乃の場合、刷毛の捌きが恐ろしく下手で、刷毛で伸ばせば少量で済むところを、<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れるほど手に取った化粧水を、洗顔の要領でばしゃばしゃと顔にはたきつける。
結果、化粧水は、あれよあれよという間になくなってしまうのだった。
「嫌ったら、嫌。今朝、貸してあげた歯磨き粉だって、ずいぶん減っていたもの」
歌乃は頑固に言い張った。
菊乃が、朝、起き抜けに借りた歯磨き粉とは、本郷かねやすの《乳香散》。妓楼の客に供するのは松葉塩と決まっているが、綾錦は妹女郎のために《乳香散》を、わざわざ出入りの小間物屋から買い求めていた。
あの歯磨き粉、房楊枝に付けて磨くと、ふんわりといい匂いがするから、つい、使いすぎちゃうんだよね。
菊乃は俯き、歌乃に見つからないよう、こっそり舌を出した。《乳香散》の甘く柔らかな香りが好きで、やはり、とうに自分の分は使い切っていた。
それにしても、ものを大切にするのはいい習慣だとはいえ、歌乃は、なんでもかんでも、がっちり溜め込みすぎる。
市松模様の千代紙を菓子箱に貼っただけの歌乃の宝箱には、姉女郎がくれた櫛や鞠が、ただの一度も使われずにしまってあった。
綾錦の贔屓からもらった飴玉の袋も、一つ、二つ食べただけで後生大事に箱に入れてしまう。そのせいで真夏の暑さに飴が溶け出し、袋の内側がべたべたになったこともあった。
菊乃が借りた歯磨き粉は、宝箱の中に封を切ってない袋が二つも残っている。使いかけを多めにいただいたくらいで、ここまで目くじらを立てることはないと、菊乃は思うのだ。
「ふんだ、歌乃のけちんぼ、しみったれ」
菊乃は、わざと囃し立てるように毒づいた。歌乃は憤慨した面持ちで菊乃を睨んだが、やがて怒りを含んだ眼に、うるうると涙が浮かんだ。
またあ、歌乃ったら、すぐ泣くんだから。
歌乃の目の縁がじんわり滲んでいるのを見て、菊乃はうっとうしくなった。まったく、目の奥に、自由自在に開閉できる堰が設えてあるみたいだ。何か自分の気にそぐわぬ事態が起こると、堰を切って、涙という武器を、どっと流す。
とはいえ、菊乃は歌乃の涙に弱い。歌乃の愛嬌のある垂れ気味の眼がしっとりと濡れてくると、菊乃の胸にたとえようもない慈しみの情が湧き上がり、歌乃はわっちが守ってあげなくちゃと、強い使命感に駆られるのが常なのだった。
菊乃が歌乃の涙に困惑していたところへ、湯殿からの帰りに、内所に寄っていた綾錦が戻ってきた。
「これ、やかましい。声が部屋の外まで漏れているじゃないか。いったい、二人とも、何を言い争っているのかえ」
瑠璃紺の絞りの浴衣をゆったり着付け、細帯をきりりと締めただけの綾錦の立ち姿は、五月に<ruby><rb>仲之町</rb><rt>なかのちょう</rt></ruby>に植えられる花菖蒲の清々しさに通ずるものがあった。
「いえね、どうしても《江戸の水》を分けてくれないと言って、菊乃が歌乃に絡んでいるんですよ」
綾錦が戻ると知るや、初糸が盆に茶を載せて持ってきた。綾錦に事の次第を告げる口調は、どこか非難めいている。
「菊乃、お前の化粧水は、どうしたのかえ」
綾錦は、旨そうに茶を啜ると、じろんと菊乃に視線を据えた。
「一滴残らず使ってしまいました」
菊乃は仕方なく、正直に白状した。
「ついこの間、買ってやったばかりなのに、もうなくなったのかい」
呆気にとられた表情で、綾錦は傍らの初糸を振り返った。
「そうなんですよ。菊乃は刷毛を使わずに、そのままべたべた顔に塗るから、化粧水の減りが早い」
初糸が両手で顔を叩く仕草をして、姉女郎に訴えた。
「菊乃」綾錦が、肚の底に石でも沈めているような重々しい声で呼んだ。こういう時の姉女郎は、決して愉快な気分ではないはずだ。
菊乃は、上目遣いで綾錦の機嫌を窺いながら、そろそろと返事をする。
「あい……」
「お前は、何でも無駄遣いしすぎるね。化粧水もそうだが、手習いの半紙だってそうだよ。ちょっと字をまちがえたくらいで、半紙をすぐ反古にしてしまう」
「……」
菊乃は何も反論できない。確かに、手習いの師匠のところから持ち帰る反古紙は、菊乃のほうが歌乃に比べて圧倒的に多かった。歌乃は、書き損じた紙の余白にまで几帳面に練習するから、多くの半紙は必要としないのだ。
しかも、こまめに反古紙を捨てている芙蓉の部屋の<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>とは反対に、菊乃はおっくうがって反古紙を部屋に溜め込んでいた。抽斗の中から、おびただしい菊乃の書き損じを見つけた姉女郎が怒るのはもっともだった。
綾錦は、たん、と音を立てて茶碗を盆に戻し、菊乃を威圧する。
「自分で無駄遣いをしたくせに、歌乃が分けてくれないと騒ぐのは、お門違いもはなはだしいんじゃないかえ」
じろりと横目で睨む様子は、大見得を切る役者さながらの迫力だった。
あいぃぃ。姉様の仰るとおりでございますぅ。菊乃は、首をすくめて縮こまった。
化粧は手数がかかって煩わしい。手習いも、書き損じの余白にちまちま練習するのは面倒臭い。
廓のしきたりや芸事を厭う気持ちが膨らんだ結果、常日頃の大ざっぱな振舞いに至っていることに、菊乃は薄々ながら気づいていた。
だが、気づいたからといって、すぐに改められるかといえば、そう簡単にはいかない。何しろ、三味線、箏、化粧と、不器用な菊乃には、不得手がたくさんある。たくさんあるから、つまるところ、やることなすこと、すべておざなりになっているのだ。
「まあ、姉様。今日のところは、わっちが化粧水を分けてやります」
初糸が哀れむように菊乃を見ながら申し出た。すでに《江戸の水》の瓶を手にしている。
「ええ。だけど、ただ分けてやるだけじゃ駄目だよ。この際だから、菊乃にはきっちり、お化粧の仕方を覚えてもらうとしよう」
綾錦は、縮こまったままの菊乃の頬を、ちょんと、その細く上品な指で突いた。
ひょえぇぇ。菊乃は冷んやりとした綾錦の指先に驚きつつも、予期しないなりゆきに、なすすべがない。
「あっ、それなら、わっちもお手伝いする」
歌乃がにんまりと笑いながら、菊乃に近寄ってきた。<ruby><rb>他</rb><rt>ひ</rt></ruby><ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby><ruby><rb>事</rb><rt>ごと</rt></ruby>だと思って、今さっき泣いた烏が、もう笑っている。
「まずは、白粉をはたく前の下塗りからだね」
綾錦は、牡丹の意匠を施した見事な鏡箱を菊乃の前に置き、揃いの鏡を据えつけた。
「さっ、《江戸の水》を、手に少し取って」
初糸が菊乃の左手を返し、掌の窪みにほんのり白く色づいた《江戸の水》を垂らした。
「この刷毛を使って、零さないよう、さっさと顔に塗るんだよ」
綾錦は菊乃の右手に刷毛を握らせ、てきぱきと指示を出した。
菊乃は化粧水を含ませた刷毛で、しぶしぶ両頬を撫でる。あまりいいかげんにやっているとお小言を食らいそうなので、「の」の字を書くように、しっかり塗り付けた。
「困った子だねえ。それで白粉を付けたら<ruby><rb>、斑</rb><rt> はだれ</rt></ruby><ruby><rb>雪</rb><rt>ゆき</rt></ruby>のように、むらになってしまうよ。ほっぺただけじゃなく、額や顎の周りとまんべんなく塗らなきゃ」
だが、綾錦は言葉とは裏腹に、ちっとも困ったふうではない。おかしくてたまらないといった風情だ。
「ほら、こうやって」綾錦が、菊乃の右手に自分の手を添え、額の生え際や瞼の窪みまで、素早くかつ丁寧に化粧水を付けていく。
菊乃は、自らの意思と関係なく動いていく刷毛の動きを、ぼんやりと感じていた。湯上がりでぽっぽと熱くなっていた肌に、ひんやりした冷たい水の感触が心地よい。
《江戸の水》を付けた後、顔を手で触ってみる。肌は繻子織のように滑らかで、しっとりしていた。たかが化粧水なのに、塗り方ひとつでこうも肌の具合が変わるものかと、菊乃は、心底、驚いた。
「次は白粉だね」
綾錦は、唐草文様をあしらった三段重の容器のうち、二つの器にそれぞれ別の白粉を載せ、玉にならぬよう、水で丹念に溶いた。
片や《兵部卿》という名の赤みのある白粉。もう一方は京橋坂本屋の《仙女香》という高価な白粉。《仙女》という名称は、一昔前に名女形として一世を風靡した、三世の瀬川菊之丞の俳名から取っているそうだ。
「鬢付け油も塗らなくちゃね」
いつの間にそばに来ていたのか、八橋までが、昼下がりの化粧講習会に顔を見せていた。白粉の用意をしている綾錦の横で、八橋は髪結い用の鬢付け油を手に取り、菊乃の顔に薄くなすり付ける。
小鼻の脇や目尻の際まで、指先で念入りに馴染ませると、八橋は満足そうな顔で退いた。
「さあ、やってごらん」
兵部卿を含ませ、ほのかに赤みを帯びた白粉用の刷毛を、綾錦は、守刀でも手渡すがごとく、物々しく突き出した。
憚りながら、菊乃は、こわごわ刷毛を受け取った。
贅を尽くした姉女郎の鏡を覗くと、頬を上気させた、やけに目ん玉の大きい、幼い顔が映っている。
「むらにならないよう、気をつけて塗るんだよ」
綾錦の注意を受けた菊乃は、意を決して、恐る恐る刷毛を鼻の脇に当てた。
すうっと真一文字に刷毛を動かす。白い素肌に《兵部卿》の石竹色が乗った。
うん、なかなかの出来栄え。手習いの稽古より面白いじゃない。
菊乃は調子づき、べたべたと《兵部卿》を塗りたくる。姉女郎に言われなくても、目の際や口元は、細い刷毛に持ち替え、色が均一になるよう念入りに塗り込めた。
菊乃は、自信満々に綾錦を振り返った。鏡でざっと確かめた印象では、塗り残しはないはずだ。
「どう、姉様」
「ちょっと厚塗りだけどまあまあだね。それじゃ、この濡れ手拭いで、一度拭き取って」
綾錦は、菊乃の顔を一瞥し、事もなげに、水で絞った手拭いを渡して寄越した。
「えぇっ? 拭き取るぅ? せっかく、こんなに綺麗に塗れたのに、どうして」
無慈悲な姉女郎の命令に、菊乃は驚いて目を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いた。どうせ《兵部卿》は下塗りなのだから、少しくらい厚塗りになったとしても、上に塗る《仙女香》で調節すれば、それでよいことではないか。
「白粉はね、塗って拭き取るを繰り返し、幾度も重ねづけをすることで、落ちにくくなる。それに、お化粧のもちも良くなるんだ」
綾錦は、自分のきめ細かな肌を何度も撫で、塗り方の手本を示してみせた。
「お前は、初糸がやってくれるのを見ていなかったのかえ?」
綾錦が眉をひくっと吊り上げ、強い視線を菊乃に向けた。
無意識に目を合わせるのを避けたのだろう、菊乃は、自分の目玉が、うろうろと左右に彷徨っているのを感じた。
痛いところを突かれた、と菊乃は思った。
初糸は仕事の段取りが良く、普段から滑らかに淀みなく化粧を施してくれる。その間、菊乃はされるがまま、頭の中では化粧の手順ではなく、お使いの途中で見かけた雀の親子のことなどを考えていたのだ。
だから、こんなに塗ったり拭き取ったりを繰り返して化粧が仕上がっているとは、まったく気づかなかった。
「あーあ、もったいないなあ」
菊乃はしぶりながらも濡れた手拭いで顔を拭った。《兵部卿》が、桜の花びらのように、手拭いの表面に散っている。
歌乃が横から、ずいっと鏡を覗き込んだ。鏡面の上で、菊乃と目が合う。
「菊乃はいいなあ。色は白いし、鼻も高いし、口だって、おちょぼ口だもんね。それって、美人の相でしょう?」
歌乃は羨ましそうに溜め息をついた。
もう《仙女香》を塗り終えていたが、鏡の中に映る歌乃の顔は、輝くばかりの白さとはお世辞にも言えない。しかも、唇が厚い上に、かなり大きめであった。
歌乃は、笑うとえくぼができる、愛嬌のある顔立ちではある。だが、女郎の武器となる整った目鼻立ちからは、だいぶ遠かった。
容姿に自信のない歌乃は、しかし、手をこまぬいているわけではない。欠点を目立たなくする術を、しっかり心得ていた。
たとえば、口元を小さく見せたい時。唇の中ほどまで白粉を塗り込め、一回り小さくなった唇に紅を差す。がはは、と大口を開けて笑わぬ限り、これで、品のいいおちょぼ口に見せかけることができる。
肌の色も、新雪のごとき色白に見せるのは難しいが、白粉を几帳面に何度も塗り重ねることで、ふっくらとした艶のある肌を演出することができた。
自分の容姿をよく知り、日々の努力によって、欠点を美点に変える。歌乃が、年若くして化粧上手になるのは、当たり前の結果だった。
菊乃は、ぶんぶんと頭を振った。
「美人の相なんかじゃないってば。わっちの眉は太くて勇ましいし、顔だって、瓜実とは似ても似つかぬ、卵みたいな形だもの」
美人っていうのは、歌乃の隣に座る姉様みたいな人のことを言うんだよ。
面長で「ノ」の字のごとく緩やかに反った鼻筋。子供の菊乃でも惚れ惚れするような、見事な左右対称をなす美しい富士額。綾錦の顔かたちのどこを取り上げても、美人の条件にぴたりと合致する。綾錦に化粧など必要ないと、菊乃は常々思っているくらいだ。
「菊乃、まだお化粧は終わってないよ。もう一度、《兵部卿》を薄く塗ってごらん」
綾錦は、ぽんと手を一つ叩くと、二人の注意を引いた。
姉女郎に促され、菊乃は、再度、刷毛を取り上げた。
もたもたして、白粉が乾くと厚塗りになる。先刻より手早く塗ることを心がけると、意外なほど薄く綺麗に白粉を付けることができた。
菊乃はむやみに嬉しくなって、鏡に向かい、にぃっと笑ってみせた。
《兵部卿》の次は、いよいよ《仙女香》を塗る番である。
《仙女香》といえば、今や白粉の一大銘柄。美人画の隅や草双紙の余白、はたまた道標にまで名前が書き込まれ、さりげなく、場合によっては大胆に、人々の目に訴えかけていた。
もちろん、西村屋から出た綾錦の美人画の中にも、何気なく《仙女香》の文字が躍っている。この名うての白粉を使えば、吉原一の美女と謳われる花魁のように美しくなれますよ、という巧みな宣伝であった。
廓の女たちは、こぞって《仙女香》を愛用していた。
皆が皆、美人画の女のような美貌を手に入れられるとは、露ほどにも思っていない。とはいえ《仙女香》は、肌のきめを整えたり、にきびや吹き出物が治るという効能があるとされる。
勤め柄、女郎は化粧を毎日しなくてはならない。肌の衰えを少しでも遅らせるためには、薬効があると評判の化粧品に闇雲に飛びつくというわけだ。
《兵部卿》で練習した成果なのか、菊乃は、初糸の仕上げと遜色ないくらい上手に《仙女香》を塗ることができた。
「姉様、《兵部卿》みたいに、拭き取って、もう一回塗るの?」
菊乃は、びくびくしながら伺いを立てた。
綾錦が顎に手を当て、じいっと菊乃の顔を見つめた。
「ちょっと控えめだけど、お前は振袖だから、いいだろう」
綾錦の返事に、菊乃はほっと胸を撫で下ろした。あと何回くらい塗り拭きをさせられるものやら見当がつかず、戦々恐々としていたからである。
しかし、そこで、菊乃の胸に疑問が湧き上がる。
「ねえ、姉様。世の中は、倹約だの、贅沢の禁止だのと、年々お達しが厳しくなっているでしょ? お化粧だって薄く目立たないのが流行っているのに、どうして、こんなに時間をかけて丹念にお化粧をするの?」
菊乃は、廓の外を見てきたわけではない。だが、客や廓外からやってくる物売りたちの話から推測して、世間の様子や流行り物の情報は万事、何であれ仕入れることができた。
近年、何事にも質素にという風潮が、巷の常識となっていた。男も女も、老いも若きも華美な装いを慎み、高直の料理や菓子を食すことも控えているという噂は、籠の鳥である吉原の女たちの耳にも入ってきていた。
綾錦は「ああ」と納得したように頷き、謎掛けのように問い返した。
「菊乃のべべは、なんで、できてる?」
菊乃は、自分の着物をしげしげと眺めた。まだ部屋着ではあるが、麻の葉模様、鹿の子、菊唐草と三枚重ねた小袖は、すべて肌触りのいい絹織物である。
「えっと、縮緬かな」
「そう、わっちら女郎の着るべべは、縮緬、羽二重、繻子、緞子と、値の張る高級な着物ばかり。では、廓の女だけがこないに豪華な衣裳をまとうのは、なぜだか、わかるかえ?」
綾錦は、傍らの衣桁に掛かる、菊乃と歌乃の真新しい振袖を見遣った。
濃紺の繻子の地に手鞠の縫い取り。裾のあちこちには、鞠に子猫がじゃれつく様子が刺繡されている。今まで着ていた真朱や薄紅色の振袖から比べると、紺地の振袖はずっと大人っぽかった。
自分がこの濃紺の振袖を着た姿を、顔馴染みが見たら、なんと言うだろう。
いつも、菊乃を実の孫娘のようにかわいがってくれる西村屋の旦那は「どこの新造かと思った」などと、大げさに褒めてくれるかもしれない。
それじゃ、たとえば、銀次さんは?
菊乃は、普段と違う自分の装いに、大門脇の駕籠舁きがどういう反応を示すかを思い描いてみた。
ことによると、銀次は仰天して、お客の乗った駕籠を取り落としてしまうかもしれない。馴染の女郎とよろしくやってご機嫌だった客は、頭から湯気を立てて怒り出すだろう。
だが、もしかすると、駕籠の客だって、わっちの大人びた姿に見惚れて、その場に釘付けになるかもしれない。
なんら根拠のない妄想ににやつきながら、菊乃は思いつくまま謎掛けの答えを口にした。
「お客さんのため?」
振袖のように、袖が長くて邪魔くさい着物を、菊乃は好きになれない。着る本人が望まないのに、身にまとわなければならないとしたら、懐に山吹を携えて、いそいそとやって来る遊廓の客のために決まっている。吉原というところは、客が来てくれなければ、夜も日も明けないのだ。
「よく、わかったね。浮世の憂さを晴らしに来るお客が、町の女みたいに、地味な木綿の縞柄を着ている女を求めるはずがない。わっちらの商売は、竜宮に連れられた太郎のように、お馴染さんに俗世間を忘れさせ、夢見心地にさせてあげることなんだよ」
歌乃が、たん、と膝を打った。
「そっか。薄いお化粧だと、豪華な着物に合わない。それじゃ、お客さんも興醒めよね。だから、着物に負けないよう、しっかりお化粧するのね」
歌乃の目が生き生きと輝いた。もとより、器用で化粧上手な歌乃のことだ。美しく、人目を引く女郎を目指し、さらに化粧に精を出すつもりなのだろう。
しかし、菊乃の受け止め方は違った。
ふうん。豪華なべべと、きっちり仕上げた化粧で、男を夢見心地にさせられるのなら、女郎は、皆が皆、花魁になれそうなもんだけど。
菊乃は、廓にあまたひしめく女郎たちを思い浮かべた。
現実に、女郎の待遇には天と地ほどの差がある。ということは、花魁という天を目指すために、何かほかに必要な条件があるに違いない。
幸か不幸か、菊乃はまだそれを知らなかった。いまだ廓という閉ざされた世界を受け入れたわけではないが、この世界より行き場がないなら、いつかは廓で生き抜くための条件を揃えなければいけない時が来るかもしれない。
「じゃ、菊乃、顔に薄紙を載せるわよ」
綾錦が、菊乃の顔面に化粧紙を載せた。急に視界が遮られ、菊乃は慌てた。
「姉様、まっ、前が見えない」
「薄目を開けてごらん。微かに、あたりが見えるだろう。さあ、この水を含ませた刷毛で、紙の上を<ruby><rb>刷</rb><rt>は</rt></ruby>いてみなさい」
菊乃は、渡された刷毛で紙の上をなぞった。時を置かずに、綾錦がゆっくりと紙を剥ぐ。
「これで、白粉がぴったり肌に付いて、もちが良くなる。さて、お次は、首に《ぱっちり》を塗るよ」
綾錦が、おどけた仕草で、菊乃の首を撫でた。
「えー! まだ塗るの?」
ようやく白粉塗りが終わったと思った菊乃は、失望のあまり、ばったんと突っ伏した。
菊乃の唐突な振舞いに、部屋の中が、どっと沸いた。
「姉様。もう、そのへんで勘弁してやったらどうです?」
初糸が、おかしさを必死に堪えているような顔で、助け舟を出した。
柔和な笑みを湛えながらも、綾錦は思案顔である。
「そうだねえ、あまりいっぺんに教えると、化粧が嫌になるかねえ。だけど、あと《ぱっちり》くらいなら……」
菊乃は、一縷の望みをかけて、がばっと起き直る。正直、白粉の手順の煩雑さには、ほとほと疲れた。今日のところは、顔塗りだけで堪忍してもらいたい。
菊乃は、姉女郎が言い淀んだ一瞬の隙を逃さなかった。
「姉様! 今日ここで教わった手順は、ちゃんと覚えました。明日から、白粉は一人で絶対できます」
必死の思いで、菊乃は言い募る。重ね塗りで、綺麗な桜色に仕上がった頬が、紅潮して一段と濃くなったかもしれないが、構うこっちゃない。
「仕方ないねえ。まあ、今日のところは、ここまででいいだろう」
綾錦の情け深い決断に、菊乃は「ばんざーい!」と、諸手を挙げて叫んでいた。
「ふん、現金な子だねえ。その代わり、この先の手順も忘れずに覚えておくんだよ。初糸、菊乃に化粧の続きをしてやっておくれ」
姉女郎の命を受け、初糸が、菊乃の前に回り込んだ。
初糸は、菊乃の諸肌を脱がせた。《ぱっちり》と呼ばれる首筋専用の白粉を、菊乃の喉から胸元へ、大きめの刷毛で塗っていく。
鏡に映る、真っ白に塗り込められた鎖骨のあたりは、浅草田圃に飛来する白鷺のように、えらく華奢だった。
「さっ、襟足を塗るから、後ろを向いて」
初糸が菊乃の肩を押し、向きを変えるよう促した。
襟足に刷毛のひやりとした感触が襲う。菊乃は「ひゃあ」と声を上げ、首を引っ込めた。
「後ろに目がないのに、一人で塗る時は、どうやって仕上がり具合を見るの?」
一人で《ぱっちり》を使った経験のない菊乃の素朴な疑問だった。闇雲に塗ったら、それこそ襟足のそこかしこに塗りむらができそうだ。
「合わせ鏡で見るのよ」
初糸が、菊乃の背後から大きめの手鏡を翳す。「前の鏡を覗いてごらん」
菊乃が自分の前に置かれた鏡を見る。鏡面に映った、初糸の翳す手鏡の中には、菊乃の襟足がくっきりと見えていた。
「わあ、ほんとだ。よく見える」
菊乃は感嘆の声を発した。手鏡の角度を変え、何度も背後を眺める。
このぶんなら、合わせ鏡をすれば《ぱっちり》もなんとか使いこなせそうだった。
「それにしても、昨夜のお客は、情けなかったわね」
化粧をしないので手持ち無沙汰なのか、八橋が初糸に話しかけた。
「ああ、佐々木様ね。まったく、ようやく待ち望んだ花魁と会えたというのに、あないに酔っ払ってはね」
要領のいい初糸は、言葉を掛けられたくらいで仕事が滞ることはない。気安く、八橋の話を引き取った。
菊乃は、初糸に眉を整えてもらいながら、黙って二人の新造の話を聞いていた。
昨晩出向いた駿河屋で、綾錦は初めて旗本の次男坊、佐々木久馬の座敷に出た。
久馬は三十くらいか。遊び慣れた風情で、逸る心を抑えながら陽気に酒など飲んでいたが、間近で対した綾錦の美貌に度肝を抜かれたらしい。
久馬は、内心の動揺を隠すべく、次から次へと運ばれてきた銚子を空にし、引手茶屋での宴の時点で、すでに相当な酔い加減だった。
その後、駿河屋を出て、丁子屋の座敷にたどり着いた頃には、久馬、すっかり酩酊し、ぐでんぐでんの体たらくと相成っていた。
「高級女郎は、初会で帯を解かない。初会は裏を返して、三度目にようやくお床入り」大昔の吉原では、当然のこととして罷り通ってきたしきたりである。
だが、時が経つにつれ、吉原も、初会だの裏だのと、悠長かつ偉そうな贅沢は言っていられなくなった。江戸市中のあちこちに雨後の筍のごとく出現する岡場所に、官許の遊所である吉原が、その座を脅かされるようになったからである。
だから、近年、大方の見世が初会から客を馴染扱いし、花魁を床入りさせるようになったのは、時代の趨勢と言ってよかった。
けれども丁子屋の場合、楼主の源右衛門が川柳を嗜む粋人ゆえに、他の大見世とは一線を画すところがあった。
初会の客に対して、妓楼が馴染として接するのは、時代の流れから、やむをえない。しかし、せめて丁子屋だけでも、岡場所との違いを明確にしたい。そう考えた源右衛門は、抱えの女郎に、教養を身につけ諸芸をものにすることを奨励した。
丁子屋は、数々の太夫を売り出してきた、古くからの妓楼である。現在の主である源右衛門自身が往時を偲び、在りし日の太夫のような名妓を育てたいという願いを持っているのかもしれなかった。
その結果、吉原全体が「高級な岡場所」と化す中で、行き場をなくしたひと握りの通人、粋人たちは、ほとんどが丁子屋へ揚がるようになった。夢を与え、俗世を忘れさせてくれる女は、もはや丁子屋にしかいない、というのが通人の合言葉になっていた。
ところが、丁子屋の座敷に落ち着いた久馬は、まだ宴はこれからという時に酔った勢いで綾錦に挑みかかり、若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>に止められた。粋にはほど遠い、無様な振舞いだった。
「だいたい、酒を飲ませて花魁を酔わせた挙句、自分の好き勝手にしようという浅ましい魂胆が情けない」
久馬の行状を思い出し、八橋は、我が身に災難が降りかかったかのごとく憤っている。
「ええ、姉様を酔わせようなんて、樽船一艘を買い切りでもしない限り、無理な話よね」
初糸が、細い眉掃きで菊乃の眉をぼかしながら、なんとも豪快な冗談を飛ばした。
樽船とは、上方の上等な酒を江戸へ運ぶ船のこと。酒に強い綾錦を酔わすには、樽船一艘分の下り酒を用意するくらいでなければ難しい、と言いたいのだ。
妓楼側は、供の者に言いつけ、丁重に久馬を帰そうとした。だが、当の久馬が承知しない。金払いの良さそうな上客だったので、妓楼も無理強いはできかねた。酔って常軌を逸した酔客の始末をどうするか、宴の裏では、皆が額を集めていたらしい。
「でも、そこでまさか、姉様が佐々木様をお床に誘うとは、夢にも思いませんでしたよ」
記憶をたどっているのか、初糸が、ぐっと宙を仰いだ。
狼藉を受けても泰然自若としていた綾錦だったが、座が少し落ち着いたところで、「久馬様」とにじり寄り、なんと久馬の手を取った。しかも「無粋な者どもは放っておいて、ささっ、あちらへ」とかなんとか囁くと、閨へと誘った。これには、部屋の一同が、おおっ、と仰天したのも無理はなかった。
事の意外ななりゆきに、遣手のお滝が、床入りの際の常套句「おしげりなんし」を言い忘れたのはご愛嬌。その時、座敷にいた誰もが、客と花魁が出てゆく姿を、ぽかんと口を開けて見送った。
へべれけになった久馬は、こうして、酔わせて自分の思うがままにするつもりだった綾錦に付き添われ、なんとかめでたく床入りを果たしたのだった。
しかし、その後どういう経緯となったのか。菊乃は眠気に勝てず、歌乃とともに寝込んでしまったので、詳しい事情は知らなかった。
「並みの花魁が、あんな酒癖の悪い客の<ruby><rb>敵娼</rb><rt>あいかた</rt></ruby>だったら張り手を食らわすか、袖にして、さっさと一人で寝てしまうところ。でも、姉様は、さすがだわ。佐々木様が、お床でずいぶん反吐を吐きなすったそうだけど、背中をさすったり、反吐の後始末も恥をかかせぬよう、こっそり喜助を呼んだり。ご自分よりずいぶん年上のお客なのに、まるで出来の悪い弟に接するみたいに世話を焼いてらしたとか」
昨夜の綾錦の行動に深く感じ入ったがごとく、初糸は、姉女郎を手放しで称えた。
初糸の向かいでは、八橋も大きく頷いている。
「佐々木様は、花魁の優しさに安心して、暁七つまでお休みになり、すっかり素面に返ったようで。世話になったと、下働きにまで結構な祝儀を弾んでいったとか。お滝さんが、さっき内所で言っておりましたよ」
もちろん、八橋も初糸もたんまり心づけをもらったはずだが、下々の雇い人たちにまで祝儀を配ったとは。耳聡い番頭新造は、いつもいち早く店に流れる噂話を聞き込んできた。
綾錦は《兵部卿》を薄く肌に馴染ませながら、意味ありげな表情で「ふふっ」と笑う。
「酒の上のしくじりなんて、よくあること。久馬様も、根は悪いお方じゃあるまい。わっちの到着を待ちわびて、つい飲みすぎてしまっただけなんだろう。その証拠に、七つ時に目覚めた時の、あのばつの悪そうな顔といったら……、まるで、うっかり寝小便を垂れてしまった小僧のようだったよ」
余裕綽々。見てくれだけの通人にすぎない旗本のお坊ちゃまは、綾錦にかかると、商店で働く丁稚小僧と大差なくなってしまうらしい。
「穴があったら、さぞかし入りたかったことでしょうね。でも、佐々木様、これに懲りて、もう丁子屋には見えないかしら」
初糸が眉根に皺を寄せて、懸念を口にした。
久馬が、単に初会の緊張から狼藉を働いただけなら、次から上客になる見込みはある。身なりや贅沢な装飾品からして、久馬の家はかなり内証が豊かに違いない。一度きりの縁にしてしまうのは惜しい客であった。
「ご心配なく。佐々木様は近いうちに必ず裏を返しに来ると、駿河屋に言い置いていったそうよ。よっぽど花魁がお気に召したんですわねえ」
八橋は、濡れたようなあだっぽい目つきで、綾錦に視線を移した。
「おや? わっちは、ただ、添い寝していただけなんだけどねえ」
事実なのか、はたまた、空とぼけているのか。すでに《仙女香》を塗り始めた綾錦の顔からは、何も窺い知ることはできなかった。
「ともかく、これで、お馴染がまた一人、増えたことになりますわ。ほんに、姉様のお客は増えるばかりで、ふふ、よろしゅうございますこと」
初糸が羨望の入り混じった目つきで、綾錦の横顔をうっとりと凝視した。
姉女郎が全盛の花魁であれば、妹女郎にも、なんやかんやと実入りがある。あまたの客を摑んでいる花魁の下におれば、その縁で妹女郎も引き立ててもらえた。
しかし、吉原で高級女郎として生き残っていくには、姉女郎からの恩恵を受けるといった他力本願だけでは不可能。自らがその才を発揮し、知恵を絞って、客の心を手繰り寄せなければならない。
初糸も年明けには初見世が控えていて、いよいよ客を取ることになる。いくらおっとりした性格の初糸でも、そのような廓の現実は熟知しているはずだった。近頃、目に見えて綺麗になったのは、初糸に自覚が芽生えてきたしるしだと、もっぱら評判になっていた。
菊乃の化粧も、後は唇に紅を差すだけになった。
菊乃は、紅猪口に施された赤絵のかわいい兎に目を奪われていたが、すでに化粧を終えている初糸の唇に気づくと、ふと、興味をそそられた。
「ねっ、紅だけ、わっちも塗ってみようかな」
菊乃は初糸に、それとなくねだった。
近来は笹色紅といって、下唇に何度も紅を重ね塗りし、玉虫色に光らせる化粧法が流行していた。初糸の唇も、もちろん黒っぽい濃い玉虫色に輝いている。
「へえ、菊乃が自分から紅を塗りたいだなんて、今日は雪でも降るんじゃないかい」と、口ではからかいながら、初糸は、いともあっさり紅筆を寄越した。
まずは、上唇から、っと。
紅猪口の裏に塗り付けられた艶めく紅を、菊乃は、水を含ませた筆で溶いた。
菊乃は睨めっこをするごとく、鏡面を覗き込む。
唇をすぼめたり、引き伸ばしたり、はたまた大口を開けたりしながら、注意深く紅を塗っていく。
菊乃の口は小さめなので、口元が際立つよう、やや濃いめに仕上げてみた。山型に美しい稜線を描く上唇は、下谷正燈寺の紅葉のように鮮やかな色を放っている。
してやったり。思わぬ出来栄えに、菊乃は、鏡に向かって、にやりと笑いかけた。
続いては、下唇だ。上唇と同じく紅筆で唇の輪郭をとり、中を塗り込める。
さて、玉虫色にするには、確か何度も塗り重ねなきゃいけないんだよね。
菊乃は筆に少しだけ紅を取り、塗ったばかりの下唇に、再度そーっと紅を重ねた。
何度くらい塗れば目的が達成できるのか、定かではない。いずれにせよ、とにかく唇が黒ずみ、七色に輝き出すまで、ひたすら重ねていけばいいはずだった。
猪口の中の紅が、見る見るうちに減っていく。
紅は、紅花の花を搾って製する。猪口一つ分の紅をつくるには、何百との花が必要で、でき上がった紅粉は金と同等の価値があると言われた。
紅は高価な品ゆえ、笹色紅は、裕福な女たちだけの化粧法かといえば、そういうわけでもなかった。町の女などは、口を笹色に彩りたい時、紅の節約するために、下に墨を塗布し、その上から紅を塗るそうである。すると、玉虫色まではいかぬが、真鍮色くらいには唇を光らすことができるらしい。
しかし、町家の女の苦心などどこ吹く風と、廓の上妓たちは、惜しげもなく紅を使った。しかも、本人だけでなく、面倒を見ている新造や禿も、姉女郎にならい湯水のごとく紅を消費した。その費用だけで、たかが化粧品とは侮れぬ額になるはずだった。
綾錦から真新しい紅猪口をもらうたびに、菊乃は改めて、姉女郎の羽振りの良さを実感していた。
〈恋の手習つい見習ひて、誰に見しよとて<ruby><rb>紅鉄</rb><rt>べにか</rt></ruby><ruby><rb>漿</rb><rt>ね</rt></ruby>付けうぞ、みんな主への<ruby><rb>心中</rb><rt>しんじゆ</rt></ruby>立て……〉
宴の席で綾錦が唄う『京鹿子娘道成寺』の一節が、菊乃の脳裏をかすめた。
『京鹿子娘道成寺』は初代の中村富十郎が江戸中村座で演じたのが始まりと言われ、近年では三代目・坂東三津五郎の再演が評判となっていた。綾錦はこの長唄が得意で、姉女郎の伸びやか、かつ情感たっぷりな唄を目当てに通ってくる贔屓客も多々いるほどだった。
菊乃は、心の中で呟く。
この唄の娘さんは、好いたお人のためにお化粧をするんだ――と。
これまで菊乃は、歌詞の示す内容も考えずに、綾錦の唄に聞き入っていた。が、よくよく歌詞を味わってみると、女郎にとっては日常茶飯である化粧も、大方の世間の女にとっては、特別な意味を持つ行為のようだ。
先刻、化粧の意味を問うた時、姉女郎は「すべては客のため」と答えたのに、この唄の主人公は、恋焦がれてやまぬ男のために、美しく丹念に顔を装っている。
恋。恋しい。愛しい。最近、初糸からこっそり拝借した柳亭種彦の人情本などを読んでいると、たびたび目にする言葉である。
人情本を読んでいる最中、菊乃は胸の内が、何やらぽおっと熱くなる時があった。
だが、本の中に登場する女たちが、たった一人の男の目に少しでも綺麗に見えるよう、拵えに工夫を凝らし、また、たった一人の男を巡って惚れた腫れたを繰り返す有様に共感できるかというと、正直、まだよくわからない。
ただ、廓の女郎がする装いと、恋情に身を焼かれ、その男なしでは生きていけなくなった女たちの装いとでは、その意味に雲泥の差があることは、どうにか理解できた。
廓のうっとうしい習慣や、芸事について、綾錦はその都度、懇切丁寧に教えてくれる。
けれども、姉女郎の口に、恋に関する話題が上ったことは、菊乃の記憶の中に一度たりともなかった。
本人から聞いたわけではないが、綾錦には山村<ruby><rb>峰春</rb><rt>ほうしゅん</rt></ruby>という想い人がいるはずだ。なのに、恋が何たるかを教えてくれないのは、菊乃がまだ子供すぎるからか。あるいは、菊乃が知らないだけで、初糸あたりにはそれとなく話題を提供しているのか。
頭の中で、ぐるぐると想像を巡らすだけで、菊乃には、姉女郎の真意を突き止めることはできない。
やはり唇に紅を差している綾錦を、菊乃は、気づかれぬよう流し目に見た。
綾錦は、常日頃から、からくりのような正確さで、段取りよく容儀を調えた。そこには恋情はおろか、なんの感情も見出せないように見える。
でも、手習いの稽古に行く時は、念入りに、おめかししていくよね。
綾錦が禿たちを連れて峰春の指南所へ出向く場面を、菊乃は思い出していた。
書の稽古がある日、綾錦は肌の手入れや着物選びに余念がなく、入念に身支度を調えた姉女郎の姿は、花魁道中よりも人目を引くほどだった。
仕方ないか。姉様はわっちを子供としか見てないもんね。
大人になりたくない。廓では、〈大人になる〉は〈女郎になる〉と等しいからだ。心の底では子供のままでいたいと考えているくせに、大好きな姉女郎に子供扱いされると、菊乃は、自分だけ除け者にされているような途方もない寂しさを感じた。
「そういえば、姉様……」
菊乃の化粧をし終え、お役御免となった初糸が、八橋の隣に移動し、お喋りに本腰を入れ出した。
綾錦が紅筆を持つ手を休めて「なんだい?」と声を掛ける。
「わっち、今朝、湯殿で白梅さんに話を聞いたんですよ」
何度目かの紅を塗り重ねていた菊乃は、思わず初糸を振り返った。
えっ! もう、白梅さんに、芙蓉さんのこと訊いてきたの?
昨夜は、芙蓉に毒を盛った犯人を絶対に捜し出すと、あれほど息巻いていたのに、一晩ぐっすり寝たら、菊乃はその決意を、ころっと忘れていた。
しまった、初糸姉さんに先を越された!
菊乃は慌てて、化粧道具を片付けていた歌乃に向き直る。歌乃も鳩に豆鉄砲といった面持ちで、菊乃の顔を穴が開きそうなほど眺めていた。
「菊乃、口……紅が、はみ出してる」
「えっ?」
<ruby><rb>蚯蚓</rb><rt>みみず</rt></ruby>のぬたくったような赤々とした線が一本、鏡に映った菊乃の頬に、確かに見えている。菊乃は、手にした紅筆と鏡の中の蚯蚓を見比べて「ありゃあ」と一声発した。
「菊乃、化粧は最後まで気を抜いちゃいかんぞえ」
綾錦の低く、くぐもった小言が飛ぶ。菊乃は、また叱られるかと、こわごわ姉女郎の表情を窺った。声とは裏腹に、綾錦は奇妙に顔を歪め、必死で笑いを堪えている。
「はあ、最初からやり直しか」
菊乃は、見苦しい顔に心底がっかりした。面倒な手順を踏んで、ようやく化粧が仕上がるところだったのに、一瞬にして台なしになってしまった。
「紅が薄いから、やり直さなくてもいいよ。白粉で上から押さえれば大丈夫」
綾錦が菊乃の頬を<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>め、白粉で蚯蚓を塗り隠す。その上で、菊乃の笹色紅に目を留めて「今日の振袖には、よく似合うよ」と褒めてくれた。
姉女郎の手を幾度も煩わしたことで、菊乃はうなだれつつも、とりあえず今日の御作りはこれにて終了となりそうな気配なので、ほっと安堵の胸を撫で下ろした。このぶんでは、愛しい男のために装うなんて、まだまだ先の話に違いない。
菊乃は、急に身軽になったような気がして、いそいそと化粧道具をしまった。
「菊乃も気になっているようだから、初糸、続きを話してごらん」
綾錦が、黙って控えていた初糸を促した。
待ってましたとばかりに膝を打ち、初糸は滔々と話し始めた。
「いえね、今朝は、たまたま湯殿にわっちと白梅さんしかいなかったんで、ゆっくり話を聞くことができたんです。あそこは芙蓉さんと番頭新造の仲があまり良くなかったでしょう? それでまず、番新の篝火さんが疑われたようです」
昨夜は一晩中ずっと久馬の介抱に明け暮れた綾錦が、今朝は寝坊し、起床が遅くなった。初糸は一人で先に湯殿に出向き、そこで白梅とばったり鉢合わせしたのだ。
姉女郎を失い、白梅は近々、部屋持ちの新造になるそうだが、心中は懸念で一杯なのだろう。初糸が芙蓉の生前の様子を訊こうと、それとなく誘い水を向けると、芙蓉の傲慢な振舞いや、白梅がそれまで抑え込んでいた不平不満、後ろ盾を失った不安に至るまで、四半時にわたり、延々と喋り続けたそうである。
「芙蓉さんと篝火の仲が悪かったのは、やはり銭のせいかえ?」
八橋から刻みを詰めた煙管を受け取りながら、綾錦が訊ねた。
「ええ。芙蓉さん、客の筋はあまり良くないが、数だけはお馴染がたくさんいたでしょう? 番新は、花魁の稼いだ金子のやり繰りを任されていますが、篝火さんは、芙蓉さんの財布を握っているのをいいことに、その金をこっそり手元不如意の座敷持ちや部屋持ちに貸し付けていたんです」
初糸があたりを憚り、声を低めた。向かいの座敷には主がいなくなったとはいえ、廊下で誰かが聞いているとも限らない。
おのずと皆が、初糸を囲むように、にじり寄った。
「廊下を通る時、芙蓉さんが篝火をなじっている声を幾度か耳にしたことがあったんだ。でも、まさか篝火が金貸しをしていたとは」
綾錦が、苦々しい顔で煙管を吹かした。ぽってりとした綾錦の口から立ちのぼった紫煙が、行き場をなくして戸惑っているように、もやもやと女たちの周囲に留まった。
「篝火さんは高い利子を取ってお金を貸し付け、利子のいくばくかを自分の懐に入れていた。芙蓉さんは、自分に付く新造たちに対しては<ruby><rb>吝</rb><rt>しわ</rt></ruby>いという話ですからね。篝火さんとしては、花魁の銭も増えるし、その上で自分の懐も潤うんだからいいだろう、という腹積もりだったんでしょう。しかし、篝火さんが自分に内緒で金貸しをしていたことを知って、芙蓉さんは烈火のごとく怒った。もう番新なんて要らない、とまで言ったそうです」
綾錦以外の女は、初糸の話をむっつりと黙ったまま聞いていた。特に八橋は、同じ番頭新造として許せない気持ちなのだろう。瓦版の粗悪な紙のように顔を強張らせ、今にも篝火を怒鳴りつけに駆け出しそうな気配だった。
番頭新造は、陰になり日向になり、担当した花魁を盛り立てていく役回り。勝手に番新が高利で金貸しなどすれば、花魁の面目は丸潰れになる。芙蓉が怒り心頭に発したのも当然だった。
菊乃は、篝火の風貌を思い返していた。
篝火は、細く尖った顎の目立つ険のある顔立ちで、吊り上がったきつい眼差しが、どことなく狐を思わせる。常に、己の利益になる話が転がっていないか、内所の機嫌を窺っているような女だった。
実際、篝火は、こーん、とは鳴かずに、金、金と口走っているのではなかろうか。
ひと息ついた初糸は、先を急ぐように再び話し出した。
「でも、芙蓉さんのように何でも他人任せにする花魁は、番頭新造なしでは勤めが立ち行きません。結局、芙蓉さんが折れて、金貸しを金輪際しないことを条件に、篝火さんを番新のままにしたそうです。だけど、その後も金の使い道を巡って、二人の間には、ちょこちょこ諍いがあったとか」
綾錦は階下の内所を指し示すように、顎をしゃくった。
「それで、親仁さんは、いの一番に篝火を疑ったんだね」
「一応、話は聞いたようですが、ただ、篝火さんが、頻繁に毒を飲ませることができたかというと、そうとは断言できない事情があるようで」
初糸が、寒気を感じたのか、ぶるっと体を震わせる。今日の風は北寄りの風と見え、閉めた障子の隙間から、遠慮なく冷たい息を吹き込んでくる。
八橋に促され、菊乃は、綾錦の背後に置かれた獅子嚙火鉢に近寄ると、火箸で新しい炭を足した。
「番新なら、朝飯の膳を運んでくるついでに、ほい、と芙蓉さんの椀の中に、毒を放り込むこともできたんじゃないのかい」
綾錦が、鍋に塩をひとつまみ入れるような手つきをした。朝飯は、新造や禿は階下の台所で食べるが、上妓たちは膳を運ばせ、自分の部屋で食べる特権を与えられていた。
「姉様が言うように、毒を盛るなら、食事か飲み物に入れるのが手っ取り早い方法です。この部屋は、わっちだけじゃなく、八橋さんでも菊乃でも、誰か手の空いている者がお膳を運ぶことになっていますが、芙蓉さんのところは、きっちり役割分担がなされている。篝火さんは、銭の管理と花魁の勤めの段取りがうまくいくよう差配するのみ。配膳だの、着付けの手伝いだの、細かな雑用には、一切かかわっていなかったそうなんです」
何かにつけて神経質な芙蓉の考えそうなやり方である。部屋の女たちそれぞれに仕事を割り振り、各々の専業にさせる。専業にすれば、人によって出来不出来に差がつくことはないし、仕事も日々円滑に進む。
しかし、専業とは使うほうはいいかもしれないが、使われるほうはどうなのか。特に、廓の習慣を学ぶ必要のある振袖新造や禿は、大事な修業の時期に、決まりきった雑事だけを黙々と毎日こなさなければならない。花魁の下から離れ、振新が一本立ちした時に、廓の複雑なしきたりが身についているか、はなはだ怪しいことになりはしまいか。
綾錦の世話になっている自らの境遇を、菊乃は幸運と思わずにはいられなかった。
しばらく間を置いたのち、八橋がようやく口を開いた。
「それじゃ、誰が配膳していたというんだい?」
「手が離せない時を除いて、飯も茶もすべて、白梅さんが用意していたそうです」
初糸は、ここが肝要、とばかりに身を乗り出し、強い視線で周囲を圧した。
「白梅が、まさか……」
八橋が声を震わせ、両手で口元を覆った。八橋だけでなく、そこにいた全員が白梅の顔を思い浮かべて「いくら何でも」と思ったはずだ。
白梅はその名のとおり、楚々とした様子の、おとなしいといえば聞こえはいいが、どちらかといえば気の弱そうな女である。優しそうな風情に惹かれ、通ってくる客も増えているらしいが、まかり間違っても、姉女郎に毒を盛る度胸があるようには見えない。
綾錦は、定紋蒔絵の簞笥の金具をじっと見つめ、口をきりりと結んで考え込んでいた。
やがて綾錦は、ふっと何か思い当たったように表情を崩した。
「白梅は、もう初見世が済んでいたっけね」
「ええ、この五月に」
白梅は、廓に来た時期も、初見世の日も、初糸より半年ほど早い。
「確か、白梅の初見世のお客さんは魚問屋のご隠居だったと思ったが。とすると、芙蓉さんが生きていようが死んでいようが、五月も前に、白梅は初見世の道中を終えたわけだ」
魚問屋のご隠居とは、日本橋の<ruby><rb>大店</rb><rt>おおだな</rt></ruby>の隠居。還暦をとうに過ぎても元気で、無類の若草好きだ。新造の初見世と聞けば、ぜひ<ruby><rb>儂</rb><rt>わし</rt></ruby>に、と名乗りを挙げることでも有名な御仁だった。
綾錦は平素、廓の噂話に頓着していないふうに見える。だが、女郎の動向や客の見極めなど、必要な情報は、きちんと把握していた。
そこで初糸が、事の真相が読めたといった調子で「あっ!」と、かん高い声を発した。
「つまり、もう姉女郎の後ろ盾もあてにできぬようになるし、白梅さん、日頃の鬱憤を晴らすべく毒を盛ったと」
綾錦は、妹分が逸り立つ様子を呆気に取られて眺めていたが、やがて、ゆっくりと首を左右に振った。
「なんぼなんでも、それはないだろう。白梅が、芙蓉さんに対して不満を持っていたのは間違いなかろう。だが、毒を盛り始めたのは、少なくとも一年前から。まだ初見世も済んでない妹分が、姉女郎に毒を盛ったりするかい?」
綾錦は、初糸以外の女にも訊ねるように、あたりを見回した。
呼出しの花魁に付く新造は、道中の衣裳や小間物、廓内、茶屋、船宿にする贈り物など、初見世にかかる費用の一切を、姉分に出してもらうのが慣わしになっていた。
呼出し付きの新造の初見世ともなると、二百両から五百両の物入りだった。
しかし、我が世の春を喧伝したい花魁たちは、競って抱えの新造や禿のなりに贅を尽くすため、金子を惜しげもなしにばらまく。
だから、その道中たるや絢爛の一言に尽きた。菊乃も、初糸が禿から新造になる際の道中を見ているが、筆舌に尽くしがたいほど、豪華で煌びやかな行列だった。
初見世前に芙蓉が死んだら、白梅の初見世の費用は妓楼持ちになる。そうなれば贅沢など、とても望めない。おそらくずいぶんと見栄えのしない、貧弱な道中になったはずだ。
白梅にとって、初見世は一世一代の晴れ舞台である。つまるところ晴れ舞台を棒に振ってまで、白梅が姉女郎を殺めるとは思えないと、綾錦は言いたいのだ。
「なるほど。だけど、親仁さんも、わっちと同じことを考えたのかもしれません。篝火さんの後に、白梅さんが話を訊かれたそうなんですが、お前は花魁に恨みがあったはずだ、花魁の食い物に毒を入れることができたのはお前だけだ――と、すでに犯人扱い。一時もの間、ねちねちとしつこく、痛くもない腹を探られたようです。わっちに話しながら、白梅さんは、悔しい、と湯船の中で涙ぐんでおりました」
初糸が、湯殿での白梅の様子を思い返しているのか、しんみりとして言った。
「毒は口から入ったのだから、親仁さんも、飯を運んでいた白梅を疑わざるをえなかったんだろう。だけど、わっちはやっぱり、犯人は白梅じゃないと思う。せっかく道中の突出しをさせてもらったんだ。芙蓉さんが生きていれば、座敷持ちにはなれたはずなのに、結局、白梅は部屋持ちにしかなれなかった。いくら疎ましくても、姉女郎という後ろ盾があるとないでは、女郎の格に差が出るというもの。自分の行く先を考えたら、姉女郎を殺す気になんか、まず、ならないよ」
綾錦の言葉に、初糸は得心がいったというふうに、こっくりと頷いた。
「それにしても、芙蓉さんに毒を盛る方法ってのは、ほかにないもんだろうかね」
綾錦が、自分の唇に手を当てながら、しきりに首を捻っている。すると傍らから、八橋が口を挟んだ。
「毎日、決まって食べるお菓子のようなものに、毒を仕込んで送りつける、とか?」
上妓の部屋ともなれば、甘いものには事欠かない。客の土産は引きも切らず、花魁が自分で菓子屋に注文することも、ままあった。
「うーん、芙蓉さんは甘味が好きだから、菓子に入れれば自然と口に入るかもしれない。だけど、送りつけるなら廓外の人間の仕業ってことだろう? 毎日毎日、菓子を送ってきたら、かえって目立つと思うんだけど」
「そう言われれば確かに、そうですけど……」
八橋は、せっかくの思いつきに異議を差し挟まれて、しょげている。
「しかも、頂き物の菓子なら、芙蓉さんだけでなく部屋の者もお相伴で口に入れるんじゃないか? それなら、篝火や白梅、禿たちにも斑点が出てよさそうなものだが。八橋、念のため、芙蓉さんに同じ人間から頻繁に届け物がないか、内所で訊いておいておくれ」
沈みかけた八橋の気分を引き立てるように、綾錦は明るい調子で命じた。
「さっき、菊乃のしくじりを見ていて気がついたんですけど、紅はどうでしょう? 食べ物じゃないが、塗っていると少しずつ融けて体の中に入っていくんじゃ……」
初糸が、綺麗に塗り直された菊乃の紅に視線を寄越す。
「なるほど、紅か。こっそり毒を練り込んでおけば、ありえない話ではないけど……」
綾錦も菊乃の唇に目を転じた。
「ただね、女郎はむやみに紅を付けた後の唇を舐めるような真似はしないものさ。それに、よほどのお馴染の前でなければ、宴でも、ものを飲んだり食べたりしないだろう。紅に毒を仕込んだからといって、間違いなく口の中に毒が入るだろうか。だったらほかに口に入るもの……そうだ、鉄漿はどうだろう。初糸、芙蓉さんの鉄漿を用意していたのは、誰か知っているかえ?」
綾錦の脳裏に、また何事か閃いたらしい。
姉様ったら、次から次へと、よく考えつくなあ。姉様の頭を開けて、一度脳味噌をこっそり覗き見してみたいもんだ。
姉女郎の頭の回転の速さに、菊乃は舌を巻いた。
鉄漿は、鉄漿汁で歯を黒く染める既婚女性の習慣であるが、吉原では、新造が初見世をするにあたり、鉄漿初めをする風習になっていた。
町屋では、個々の家で鉄漿汁を作り、保存する。しかし、作る時間的余裕のない女郎たちは、鉄漿売りから鉄漿を買った。買い求めた鉄漿は鉄製の鉄漿壺に入れ、台所の竈の火で温めてから歯に塗った。
菊乃はまだ鉄漿を口にした経験がなかった。だが、酸っぱくてたいそうまずいと聞く。
ということは、もし毒を混ぜたとしても、そのひどい味わいゆえに、歯を染める当人には、まったく判別がつかないかもしれない。
すると、火鉢に手を翳して暖を取っていた歌乃が「知ってる!」と、顔を上げた。
「芙蓉さんの鉄漿を運んでいたのは、波路だよ」
鉄漿売りは早朝に商売をしに来るので、鉄漿を求めるのは、早起きの禿が多かった。
綾錦の部屋では、役割分担を特に決めてはいなかったが、鉄漿の準備だけは歌乃に割り振られていた。
芙蓉の部屋では、鉄漿の準備は、対の禿のうちの一人、波路の役目だったという。
綾錦は、いくらか拍子抜けしたように、ぼそりと呟いた。
「いくら何でも、子供が毒を盛るなんて悪事を考えつくはずがないか。とすると、鉄漿が原因ではないのかもしれないね」
「それはどうかしら」歌乃が、きんきんと苛立ちを抑えられぬような声でまくし立てる。
「芙蓉さんは千鳥ばっかりかわいがっていた。千鳥は、おべっかが上手だからね。波路は、いつも千鳥と比べられて怒られていたらしいわ。その腹いせに、ことづかったお客への文をこっそり捨てたり、お馴染から贈られた芙蓉さんの大事な簪を隠したりしたみたい。ぼーっとしているように見えるけど、あれで陰険なのよ。わっち、ああいう子、嫌いだわ」
歌乃は「嫌い」というところで、いっそう声を強めた。普段、好き嫌いをあまり表に出さない歌乃にしては珍しい。
千鳥の陰に隠れ、自分とは滅多に口を利いてくれないからか、菊乃は、波路に対して特別な印象を持っていなかった。
顔はそこそこ綺麗だが、どちらかといえば頭の働きの鈍そうな、薄ぼんやりした風情の子。その程度にしか波路の印象を思い描けなかった。
商家の下働きだったら、たぶん使い物にならないだろう。しかし、歌乃は、その波路が案外な性悪で、ねじけた性質だ、と主張する。
秩序を失った頭の中を整理するように、綾錦がゆっくりと目を閉じた。障子越しに射し込む弱い日の光を受け、髪に挿した玳瑁の簪が鈍く光る。
菊乃を含めた全員が、姉女郎にならい、だんまりを決め込んだ。
二階のどこからか、女郎相手に持参の草双紙の荒筋を面白おかしく説明する、貸本屋の淀みない声が聞こえてくる。
目を開くと同時に、綾錦が困惑したように、ふう、と息を長く吐いた。
「歌乃の言い分が正しいとすれば、要するに、芙蓉さんの部屋の女には、そのほとんどが、疑われてしかるべき理由があるわけだね」
そう、姉女郎の言うとおり、理由はあった。しかし、確実に毒を盛ったという証拠は、今のところ、どこにもなかった。
(続く)</pre>
<br />
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</div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-43564198074853497792018-06-04T13:59:00.000+09:002018-07-03T09:57:50.017+09:00一文字小説 005 / 風花銀次<div class="separator" style="-moz-border-radius: 5px; -webkit-border-radius: 5px; border-radius: 5px; border: 1px solid #888; clear: both; padding: 20px;">
<div style="text-align: center;">
<table>
<tbody>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjmHYDe4uO9tOn_N2gm0BSTrPfcLah5AWZkaIhyphenhyphen2WFVmY0g0M_Q0iqpPb_y6TeaWnAgKIA_315I1ivk3niK9qIOAOMhndFW2A3WALQXFE9wLuCqGujvtCe1FRMMLflqj1i_sEXVf6iA9oHa/s1600/shijimi_sitagokoro.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjmHYDe4uO9tOn_N2gm0BSTrPfcLah5AWZkaIhyphenhyphen2WFVmY0g0M_Q0iqpPb_y6TeaWnAgKIA_315I1ivk3niK9qIOAOMhndFW2A3WALQXFE9wLuCqGujvtCe1FRMMLflqj1i_sEXVf6iA9oHa/s1600/shijimi_sitagokoro.jpg" width="350" /></a>
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<pre class="lp-vertical lp-width-120 lp-height-350 lp-font-size-20">
<b>一文字小説 其ノ五 風花銀次</b>
</pre>
</td>
</tr>
</tbody>
</table><a name='more'></a>
<pre class="lp-vertical lp-width-580 lp-height-350 lp-font-size-18">
【解説】
えー『小野徒玉茎嘘字尽』には穴冠に娘なんて嘘字がございまして「しじみ」と訓じてます。そんで「しじみにしたごころ」となるわけですが、恥ずかしながら、こんなのは極東の島国ではちっとも珍しくなく、そのような下心を包み隠さず開陳する人が多いんでいやになっちまいます。ところで、あそこにおけけがないのをお江戸のスラングで「<ruby><rb>土器</rb><rt>かわらけ</rt></ruby>」などと申し、インターネッツでは、この土器が滅法好きでたまらないて方を非常にしばしばお見かけいたしますが、なかでネトウヨとやらが好むのは縄文土器だったりします、はい。てなことはさておき、極東の島国で御著書のタイトルがバズワード化し、てんででたらめに使われていることについてナボコフ先生が泣いてたって、草葉の陰で<ruby><rb>小灰蝶</rb><rt>ゼフィルス</rt></ruby>の幼虫が言ってた。</pre>
</div>
</div>Ginji Kazahanahttp://www.blogger.com/profile/05446223425695193878noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3251541506451080833.post-63635922534132571012018-05-26T08:00:00.000+09:002018-06-01T09:18:17.986+09:00小説「蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章」04 / 風花千里<pre class="nehan3-pagerize" style="display: none;"> <h4><b>蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章
風花千里</b></h4>
<b>第四章 疑惑</b>
綾錦の部屋に戻ると、菊乃は携えてきた竹村伊勢の菓子箱を開けた。
わあっ、と小さな歓声。部屋にいた連中の顔が綻んだ。女郎に限らず、女はいつだって、甘い物に目がない。
「あら、今日は最中饅頭なのね」
初糸が目を輝かせて、箱の中を見ている。
《最中の月》で有名な竹村伊勢だが、近年、二枚の煎餅の間に餡を挟んだ、最中饅頭なる菓子を売り出した。
といっても、最中饅頭は竹村伊勢の発案ではない。日本橋の菓子屋で出したのが始まりだが、そこは抜け目のない吉原の菓子屋のこと、良質な材料を使って本家より格段に旨い菓子を作り<a name='more'></a>出した。今では《最中の月》や巻き煎餅と並び、最中饅頭は竹村伊勢の看板商品となっていた。
「西村屋の旦那が、お前たちにお菓子でもと、今朝ご祝儀をくれたんだよ」
綾錦は、菓子に手を伸ばした女たちに告げた。
西村屋は、芙蓉の一件の後、夜明けを待たずに帰った。その際、綾錦にたんまりと祝儀を置いていったようだ。
「姉様も、お一つ」と、菊乃は懐紙の上に最中饅頭を一つ載せ、綾錦に勧めた。
「あい、おかたじけ。だけど、わっちは後でよいわ。お茶だけおくれ」
綾錦が白絹のように繊細な手を振って、やんわりと断る。
「甘い物より、姉様は、そろそろ、こっちのほうが……」
初糸が、親指と人差し指で、盃を摑み飲み干す真似をした。
「ほっほっ、確かに、<ruby><rb>揚屋町</rb><rt>あげやちょう</rt></ruby>山屋の豆腐が食べたい時分だねえ」
妹女郎の戯れに、綾錦は、にんわり微笑んで応じた。
その直後、血相を変えた八橋が部屋に入ってきた。
「あっ、八橋姉さん、お菓子がありますよ」
歌乃が声を掛けるそばから、八橋は綾錦に近寄った。
「花魁、ふっ、芙蓉さんが死んだのは……」
八橋は階段を駆け上ってきたのか、息が上がっている。
「芙蓉さん? 自害したんじゃなかったのかえ?」
綾錦が、弓張形の眉を微かに寄せた。
「ええ、自害は自害ですが、なんでも、体中に、まだら犬みたいな斑点が出ていたとか」
「斑点? いやっ、気持ち悪い」
震えながら、初糸が我が身を搔き抱いた。
女郎は肌の美しさに気を使うから、吹き出物一つでも大騒ぎをする。ましてや全身に斑点が出るなど、想像するだけでも総毛立つのだろう。
八橋は、階下の内所で、芙蓉の死に様について聞き込んできたらしい。
さっき内所がざわついていたけど、そういえば町名主のおじさんたちの顔も見えたっけ。
菓子屋へのお使いを済ませて妓楼に戻った際、内所の奥で、数人の大人が額を寄せ合って何やら相談しているのを、菊乃は目にしていた。
吉原では、表沙汰にしたくない揉め事や事件が起こると、役人を通さず、内々で始末をつけてしまう場合が多い。
芙蓉という名高い花魁の自害は、それだけでも人の耳目を<ruby><rb>属</rb><rt>しょく</rt></ruby>すような事件であり、しかも裏にはまだ曰く因縁がありそうな状況である。客商売の廓にとっては、あまり公にしたくないに違いない。どうしたら事件を穏便に始末できるか、今頃、階下で秘策を練っているのではなかろうか。
「ああ、やっぱり……」
得心がいったというふうに、綾錦が頷いた。
「花魁、何か心当たりがおありで?」
ようやく息の整った八橋が心配そうに訊く。綾錦がなぜ芙蓉の変事を知っているのか、合点がいかない様子だ。
「いえね、昨晩、西村屋の旦那が芙蓉さんの傷を<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めた時、胸元の白粉を塗っていない部分に痣のような<ruby><rb>斑</rb><rt>ぶち</rt></ruby>が見えたそうだ。して、その斑というのは、梅毒か何かの病によるものなのかえ?」
真剣な眼差しで、綾錦は八橋の言葉を待つ。
不特定多数の客を取らねばならない商売柄、女郎に性病の恐ろしさは常について回った。それは、序列が上の花魁とて同じ。決して<ruby><rb>他</rb><rt>ひ</rt></ruby><ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby><ruby><rb>事</rb><rt>ごと</rt></ruby>で済まされる問題ではない。子供の菊乃でさえ、人情の機微はわからなくても、病の知識だけは早くから身についていた。
しかし、たとえ梅毒を患ったとしても、全身の皮膚がまだらになるまで周囲が気づかないという事態が起こりうるのか。廓というどこにいても人目にさらされる環境で、下働きならともかく、筆頭の花魁の異変に誰も気づかなかったとは考えにくい。
以前、梅毒に冒され、全身の皮膚がぼこぼこになった部屋持ちがいたが、店の者が感づいて、すぐさま廓外にある妓楼の寮に連れ出した。
それとも、病を得た本人がひた隠せば、案外、人に知られずに済むんだろうか。
変わり果てた新造の顔を思い出し、菊乃は首を捻った。
八橋が、堰を切ったように一気にまくし立てる。
「いいえ。梅毒は紅い斑でしょう。芙蓉さんのは黒っぽい斑だったそうです。わちきには詳しい事情はわかりません。でも、お医者の見立てでは、芙蓉さん誰かに毒を盛られていたんじゃないかと」
八橋の言葉に気圧されたように、皆が押し黙った。
「自害なのに、毒を盛られていたとは、どういうことかえ?」
しばらくの間を置き、綾錦が口を開いた。八橋へ向けた眼差しに、不審の色がありありと見える。
「いえ、毒を盛られて死んだんじゃないんです。芙蓉さんは長きにわたって少しずつ毒を飲まされていたようで、肌がまだらになったのを苦にして、自ら死を選んだんじゃないかと」
八橋は体をのけぞらし、刃物で喉を突く真似をした。
「で、その毒というのは?」
「どうやら、石見銀山のようです」
石見銀山は、その名を知らぬ者のないほど有名な殺鼠剤だ。猛毒の石見銀山の粉を水で溶き、餌に混ぜた物がよく妓楼の台所に仕掛けられている。
花魁がそれを誤って食したとは、到底考えられない。やはり、芙蓉の存在をよく思わない輩が、長期にわたって微量の毒を密かに飲ませ続けたのだろう。
「それじゃ、毒を盛ったのは廓の者ということになるね」
しばし沈黙した後、綾錦は、あたりを気遣うように声を低めて言った。
一同は、無言で頷く。行き当たりばったりの毒殺ならともかく、頻繁に毒を飲ませる行為は、芙蓉の近くにいる人間にしかできない。
「いったい、誰が……」
初糸が顔を強張らせ、震えている。
「綾錦、ちょっといいか?」
襖の外で声がした。しゃがれているが太く張りのある声。妓楼の主、丁子屋源右衛門である。
「お入りくんなまし」
襖が開き、ずいっと源右衛門が入ってきた。大柄な体に、岩井茶の羽織がよく似合う。
源右衛門は腰を下ろすなり、煙草入れに付いた煙管を取り出した。煙草入れは黒の桟留革。特別の誂え品のようで、地味だが、よく見ると意匠を凝らした作りになっていた。
八橋が、すかさず源右衛門の前に煙草盆を置いた。
「花魁、昨晩は遅くまでご苦労なことだったな」
目を細めて煙草を燻らせながら、源右衛門は綾錦をねぎらった。
「いいえ、親仁さんこそ、お疲れさまでありいした」
綾錦は、芙蓉の亡骸が座敷から運び出される様子を、西村屋と一緒にずっと見ていたらしい。菊乃が部屋に帰り、寝入ってしまった後の話だ。
店には泊まりの客も数多くいた。それゆえに亡骸の始末は粛々と進められ、すでに弔いが執り行われているかのごとき様相だったそうだ。
「芙蓉は、どうも体の具合が優れなかったらしい。かわいそうに、それで気が塞ぎ、いきなり自害に及んだようだ」
源右衛門はふくよかな顔を曇らせた。芙蓉の死に動揺したせいなのか、たるんだ下瞼が、いつにも増して黒ずんでいた。
通常、楼主は<ruby><rb>忘八</rb><rt>ぼうはち</rt></ruby>と呼ばれ、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八徳を忘れなければ務まらないと言われる。
源右衛門とて、平素は煙草入れの前金具に彫られた大黒天のように、福々しい顔つきで妓楼を仕切っているが、ひとたび揉め事や事件が起これば、冷酷非情に采配を振るった。
逃亡を企てた女郎を折檻させたり、<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby><ruby><rb>夫</rb><rt>ぶ</rt></ruby>と心中しそこなった花魁を切り見世に売り飛ばしたりするのは日常茶飯事。楼主にとって大事なのは、あくまで店であり、客であった。
親仁さん、疲れてるみたい。
菊乃は、しげしげと源右衛門の顔を眺めた。面やつれしたのか、今日は垂れ気味の頬が、口元のあたりに陰気な翳をつくっていた。疲労の色が濃いのは、やはり芙蓉が誰かの恨みを買っていた形跡があるからだろう。
いつの時代も、妓楼の頂点にいる花魁には、媚びへつらい、おべんちゃらを言う連中が取り巻いている。実意のない連中のこと、裏を返せば、嫉妬や憎しみの感情を肚の底に隠し持っていたとしても、まったく不思議はなかった。
芙蓉に魔の手を伸ばした人物は店の内にいる。源右衛門は、楼主として、稼ぎ頭の女郎を台なしにした人間を野放しにしておくわけにはいかないはずだった。
綾錦は、伏し目がちに一点を見つめたまま黙っていた。源右衛門が芙蓉の死因について、どこまで話す気があるのか、量っているようでもある。
綾錦の目を覗き込むようにして、源右衛門が訊ねた。
「芙蓉が何か隠し事をしていたのを、お前は知っていたか?」
「斑点のことですかえ? それは昨夜、旦那様から聞きいした。でも、それより前は知りいせん」
綾錦は、ゆっくりと首を振った。芙蓉が部屋を出る時は、常に化粧を施し、仕掛けをまとっていたから、湯殿で出くわさない限りわかるはずがなかった。
「やはり西村屋さんは見ていたか。そうなのだ。芙蓉は何者かに毒を盛られていた。石見銀山だ。それも一気に殺すつもりではなく、じわじわと苦しめるのが目的だったようだ」
込み上げてくる怒りを抑えきれぬように、源右衛門は表情を歪めた。
「お医者様が、そう、おっしゃったざんすか」
「ああ。初めは、気分が悪い、というくらいのもんだったろうが、斑点が出ているのを見ると、かれこれ一年は毒を飲まされていたようだ」
「一年も! そんなに長い間、白梅や千鳥が気づかなかったんでありいすか」
膝に重ねた綾錦の両手に、ぐっと力が籠る。白梅とは、芙蓉に付いていた振袖新造だ。
「芙蓉も毒のせいだとは思わなかったのだろう。養生に出されては、せっかく持ち上がった身請け話も立ち消えになる。だから、よほどうまく体の不調を隠していたらしい」
「昨日の枡屋で隠しきれなくなったんでありいすね。で、望みが潰えて、自害を……」
綾錦の声が、糸を引くようにして消える。
そういえば、と菊乃は首を傾げた。綾錦の供をして入る湯殿で、しばらく芙蓉の姿を見ていなかった。
女郎は起床してすぐに湯殿へ行くから、だいたい入浴の時間は一緒になる。だから内湯は知った顔で一杯なのだ。だが、その中に芙蓉がいた記憶はなかった。朋輩にまだらになった体を見られたくなかったか、あるいは風呂にも入れないほど体調が優れなかったか。
「毒を盛ったのは、誰かわかるか?」
源右衛門が話の核心を衝いてきた。
「わかりいせん。けれど、芙蓉さんに毒を盛りたいお方は、山といるかと思いいす」
「ほう。それは、お前もかね?」
源右衛門の問いに、場の空気が一瞬で凍りついた。
あのことだ。菊乃は、初糸と目配せをする。
菊乃が、<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>として綾錦のもとへ来たばかりの二年前、一つの事件があった。
お座敷が引け、部屋に戻ってきた綾錦が襖を開けた途端に、ばったりと倒れた。襖の内側に、箏の絃が一本、ぴんと張られていた。暗がりで絃に足を引っ掛けたのが、転倒の原因。部屋の主が不在の間に、何者かが細工をしたのだ。
綾錦の周囲では、芙蓉の仕業に違いない、と誰もが思った。綾錦の部屋の前は芙蓉の座敷だし、その日、芙蓉は身揚がりで、部屋に籠っていたからだった。
幸い、綾錦は手首を挫いただけで済んだが、夜のこととて、下手をすれば大怪我を負ったかもしれない。そうなると収まらないのは周りのほうだ。
新造になったばかりの初糸は、内儀のもとを訪れ、芙蓉を詮議するよう掛け合った。八橋も口添えしたはずだ。だが、内儀はどこかの禿の悪戯だろうと取り合ってくれなかった。
花魁同士の確執など、少々のことなら見て見ぬ振りをするのが店の方針。
結局、陰湿な小細工をした者の正体は不明のまま、事件は、うやむやにされてしまった。
一方の芙蓉も、あらぬ疑いをかけられたと源右衛門に訴え出たため、初糸は叱られ、綾錦は、芙蓉に謝罪することを余儀なくされた。
綾錦は初糸をかばい、一応は、芙蓉に妹女郎の非礼を詫びた。けれども芙蓉は、すべての非は綾錦にあるとばかりに、自分の馴染客にあることないことを吹聴したのだった。
それ以来、廓内では、芙蓉と綾錦の不仲が噂されるようになり、<ruby><rb>峰春</rb><rt>ほうしゅん</rt></ruby>が綾錦に心変わりしたのを境に、二人の確執は決定的になっていた。
親仁さんは、姉様を疑っているんだ。
菊乃は、むかついてならなかった。
芙蓉は底意地が悪く、あちこちで朋輩と悶着を起こしていた。
しかし、諍いがあったにもかかわらず、綾錦は芙蓉を立てこそすれ、楯突くことはしなかった。芙蓉と不和になれば、初糸や禿たちにまで迷惑が及ぶ、と考えていたからだろう。
そんな妹思いの姉女郎が、露見することも恐れず芙蓉に魔手を伸ばすわけがない。
「わっちが芙蓉さんに毒を盛ったとして、何か得になる話がありんしょうか?」
綾錦は、源右衛門を真正面から見据えた。
馴染の数こそ芙蓉に及ばないものの、綾錦には羽振りのいい客が多く付いていた。実質、丁子屋の稼ぎ頭である。近頃、客足の遠のいてきた芙蓉から妬まれる局面はあっても、綾錦が芙蓉を羨む事情はないに等しかった。
さらに、峰春の心は完全に綾錦に傾いている。嫉妬に狂った芙蓉に毒を盛られるならともかく、綾錦が芙蓉を殺めようとする理由など考えられない。
「そうか、わかった。芙蓉の話は、これで終わりにしよう」
綾錦の迫力に、何か感じ入るところがあったのか、源右衛門がぎこちなく咳払いをし、「ところで」と話題を変えた。
「綾錦、お前は今日から呼出しの筆頭になるから、そのつもりでいなさい」
「わあ、姉様」
「花魁、おめでとうございんす」
初糸と八橋が笑顔で手を取り合っている。菊乃は、歌乃に向かってにんまりと微笑んだ。
今まで丁子屋の呼出しは、芙蓉と綾錦の二人だけだったから、芙蓉亡き後、綾錦が筆頭呼出しに引き上げられるのは当然の処遇だった。
けれど、こうして改めて楼主から直々に告げられると、周囲の喜びもひとしおだった。
「喜んで勤めさせてもらいんす」
綾錦は、初めて微かな笑みを見せた。
「いずれ、もう一人呼出しを仕立てなけりゃいかんのだが、まだほかは、帯に短し襷に長しだ。しばらくはお前一人で務めてくれ。それと、わかっているだろうが……」
周囲の注意を引くつもりか、源右衛門は一瞬の間を置いた。
「筆頭になればなったで、身に覚えのない妬みを買うかもしれぬ。せいぜいお前も気をつけるんだぞ」
源右衛門が内所に戻っていくと、菊乃をはじめ、部屋にいた全員が綾錦を取り囲んだ。
「花魁、親仁さんの話を聞いたところでは、芙蓉さんは殺されたようなもんですね」
八橋が緊張した面持ちで、綾錦に擦り寄った。
番頭新造は客を取らないから、ほとんど化粧もしない。しかし、八橋は三十を過ぎているのに今なお色艶が良く、目鼻立ちも整っていた。さすが元<ruby><rb>昼三</rb><rt>ちゅうさん</rt></ruby>だっただけのことはある。
八橋が妓楼の廊下を歩く時、年増の色気に惹かれてか、思わず振り返る客がいることを、菊乃もよく知っていた。
「ああ、たとえ自害しなかったとしても、早晩、毒中りで、いけなくなっていたことだろうね」
綾錦はわずかに唇を嚙んだ。きっと見えない毒殺魔に憤りを覚えているのだ。
「その上、親仁さんったら、花魁を疑うような口ぶり。もう、わちきゃ、<ruby><rb> 腸 </rb><rt>はらわた</rt></ruby>が煮えくり返りそうでしたわ」
八橋は語気を強めた。源右衛門に腹を立てていたのは、菊乃だけではなかったようだ。
「筆頭になったら、今度は姉様に魔の手が忍び寄るんじゃないかと、わっちは、そっちのほうが心配で……」
初糸が、おろおろ声で訴える。根が優しい性質だから、姉女郎に異変があったら、かえって初糸のほうが参ってしまうかもしれない。
菊乃は、隣の歌乃に、そっと耳打ちした。
歌乃が「何?」と、のっそりと菊乃の顔を仰ぐ。周囲が慌てようが騒ごうが、いつでものんびりした調子を崩さない。
「ねっ、わっちたちで、こっそり犯人を捕まえてやろうじゃないの」
「え? 捕まえるって、菊乃は犯人がわかっているの?」
袂で口元を隠し、歌乃が囁く。歌乃の口は割合大きめなので、うまく隠しおおせているとは、お世辞にも言えなかった。
「ばかだね、それをこれから探るんじゃないのさ」
芙蓉を死に追い込んだ犯人が、いまだ捕まらずにのうのうと過ごしていると思うと、怒りのために菊乃は居ても立ってもいられなかった。
それだけではない。本音を言えば、来る日も来る日も代わり映えのしない、輪廻のような廓の生活に、菊乃は飽いて、退屈し切っていた。
たとえ、芙蓉を殺そうとした犯人が危険極まりない人物で、自分が窮地に陥る状況になったとしても、指をくわえて事態を静観しているよりははるかにまし。吉原という閉じられた世界に心が押し潰されるくらいなら、退屈しのぎに犯人捜しへ首を突っ込むのも悪くない、と菊乃は密かに思っていた。
「えー! そんなの、怖いよ。敵は毒を持ってるんだからね」
周りの目に気づき、菊乃は「しっ」と歌乃を遮ったが、時すでに遅し。
「そこで何をこそこそ話してるんだい?」
切れ長の涼やかな眼に咎めるような色を含んで、綾錦が菊乃たちを睨んでいた。
「えっ、あの、その」
菊乃は、気の利いた返事で場を取り繕おうとするが、言葉がつかえてうまく出なかった。
どぎまぎする菊乃を尻目に、歌乃が平然と答えた。
「菊乃が、二人で犯人を捕まえようって言うんです」
新造二人が「まあ」と呆気に取られる中で、綾錦が声を上げて笑った。
「面白いことを言うじゃないか。でも、子供二人で捜すのは大変だし、危険だよ。一年も露見せずに毒を盛っていたところを見ると、相手は相当、奸智に長けている」
綾錦があまりにゆったりと構えているので、菊乃は<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れったくなった。
「だけど、姉様。そんな悪賢いやつが近くにいるのに、放っておいていいの?」
ここで引くわけにはいかない。菊乃の中で好奇心という虫が抑えきれぬほど暴れていた。
「いいわけないだろう。だけど、お前たち二人で何ができる? 親仁さんたちだって、手をこまぬいているはずがない。八方に手を尽くして犯人を捜すに決まってるさ」
綾錦が渋面をつくり、駄々っ子をあやすような口調で諭した。
「でも……」
菊乃は反論しようとして、言い淀んだ。
今まで同心や岡っ引の来た形跡がないのを見ると、おそらく芙蓉の毒中りは町方の知るところではない。だから源右衛門は、仲間内で制裁を加えるためだけに犯人捜しをするはずだ。それでもし犯人がわからずじまいだったとしても、芙蓉が死んだ以上、妓楼にとってはさしたる損失ではない。
だとすれば、つまるところ箏の絃の事件のように、曖昧模糊とした幕切れになってしまうのではなかろうか。
「そんなの駄目!」気がつくと、菊乃は声高く叫んでいた。
「何が駄目なんだい? ひとたび犯人捜しをするとなったら、ここのやつらは、草の根を分けてでも捜し出すさ」
「本当に、店は気を入れて捜してくれるの? 姉様の事件のように、うやむやにされてしまったら、芙蓉さんは浮かばれない……」
生前の芙蓉に義理があるわけではないが、知らずに毒を盛られ、その挙句に自刃せざるをえなくなった女の無念を思うと、子供の菊乃でさえ、悔しさで癪の虫が治まらない。
菊乃の訴えを聞きながら、綾錦は、唇を軽く嚙んで考え込んでいた。
「わかったよ。確かに、このままうやむやになったら芙蓉さんが気の毒だ。ただね、お前たち二人で、この件に首を突っ込むのは許さないよ」
「どうして?」
「子供だけじゃ危ないからさ。大人と一緒にやんな」
「大人って?……」
姉女郎の意図がはっきり読めず、菊乃は、混乱したまま声を漏らした。
綾錦は、悪戯っぽい笑みを浮かべて首を縦に振った。
「ふふん、ちょうど退屈していたところ。わっちも、なぜ芙蓉さんが毒を盛られたのか、真実を知りたいのさ」
綾錦は、まだ見ぬ敵に挑むように虚空を見つめた。
「なあんだ。姉様も、わっちと同じこと考えてたんだ」
菊乃は、拍子抜けして息をついた。綾錦の反撃は、菊乃の真意を量る手段だったようだ。
にゃあ。
火鉢のそばで丸くなっていたゆきが、菊乃を激励するかのように、尻尾を振った。今日はおとなしく部屋で遊んでいる。
「花魁、わちきも、方々で話を聞き込んでまいります」
「わっちは、白梅さんに、それとなく芙蓉さんのことを訊ねてみます」
八橋と初糸も、交互に申し出た。二人とも急に活気づいてきたところを見ると、菊乃ほどでないにしろ、かなり事件に関心があるのかもしれない。
「それじゃ、菊乃と歌乃は、千鳥と波路に訊いてみておくれ」
綾錦は事もなげに命じた。子供に何か訊ねる際は、同じ子供が適任と考えているらしい。
だが、命じられたほうは気が重い。昨晩、芙蓉の死を伝えた後、千鳥も波路も気の毒なほど憔悴していた。気の弱い波路は、しばらく泣き暮らす羽目になるかもしれないから、芙蓉の話を聞くなら、千鳥のほうだろう。しかし、ゆきを介して少しは親しみを抱いたものの、菊乃にとって高慢ちきな千鳥は、依然扱いにくい相手だった。
「えー、あの化粧お化けに? 嫌だなあ」
「これ、菊乃、ほんにお前ときたら口が悪い」
綾錦が手を伸ばし、菊乃の口を軽くつねった。
「いたたた……あい、姉様、わかりました。ちゃんと千鳥に話を聞きますってば」
菊乃が大げさに痛がるそばで、歌乃がぷっと吹き出した。
「菊乃も、そろそろ自分でお化粧をしてみたらいいのよ」
悔しいが、菊乃は、いまだ他人の手を借りなければ化粧ができない。
「やなこった」
憎まれ口とともに、菊乃は歌乃の広い額を小突いた。
「花魁」と<ruby><rb>妓夫</rb><rt>ぎゆう</rt></ruby>の呼ぶ声がする。引手茶屋から、綾錦に呼出しがかかったらしい。
「みんな、道中の用意をしなんし」
綾錦が音吐朗々たる声で指示を出す。花魁道中の始まりだ。
ちりりりん……
黒塗りのぽっくり下駄を履いて、菊乃は妓楼の外へ出た。歩みを進めるたびに、ぽっくりの台に仕込まれた鈴の音が、軽やかに響く。
んもう、歩きにくいったらありゃしない。
高さが三寸もあるぽっくりを履くと、足の捌きが難しい。普段履きの下駄や草履なら、思いきり駆けることもできようが、ぽっくりで思いのままに動けば、間違いなくつんのめって転ぶ。菊乃は、体の自由を奪うこの履物が大嫌いだった。
だが綾錦は、お使いや用足しに下駄や草履を履くことを認めても、道中では必ずぽっくりで歩かせた。おそらく、ゆうるりと進む花魁道中にいらつき、禿、特に菊乃が走り出したりしないよう、先手を打っての配慮だろう。
菊乃と違って、歌乃は嬉々としてぽっくりを履く。もともと物静かな性質で、妓楼の内でも外でも走ることは滅多にないので、さして不都合はないのだ。
それより歌乃は、高下駄を履いて、容姿がすらりと見えることのほうが嬉しいようだ。時折小さく鈴を鳴らしながら、しゃなりしゃなり、と澄まし顔で歩いている。
夕方、通り雨があったせいで、路面がしっとりと濡れていた。
禿はともかく、廓の習いとして女郎は冬でも足袋を履かない。だから、時雨に濡れるとかなり冷たい。
素足で下駄を履く綾錦や初糸のことを考えると、菊乃は、道中までに雨がやんでよかった、と思った。
「行きいすよ」綾錦が合図をすると、行列が静かに進み出した。
若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>が丁子屋の定紋入りの箱提灯を持ち、綾錦の行く手を照らす。綾錦の背後では、妓夫が長柄の傘を差しかけた。その後ろに、初糸と八橋が続いた。
昨今の世情から、かつての吉原にあったような、大人数の派手な道中は影を潜め、どこの妓楼でも、花魁に付く新造の数は大幅に減っている。
もっとも、綾錦の場合は、気の合わない新造は要らぬとばかり、もとから初糸と八橋以外の新造を抱えていない。だから、綾錦の道中は、常に同じ顔触れで練り歩いていた。
また、昨日まで芙蓉の道中に付き添っていた遣手のお滝が、今日から綾錦の道中へついた。それ以外にも、花魁専用の煙草盆などを抱え、若い衆が何人か従っている。
菊乃と歌乃は、それぞれ綾錦の傍らに控え、同じ速度で歩いた。菊乃は守刀の入った錦の袋、歌乃は縮緬の振袖を着せた市松人形を携えている。
今日の綾錦の出で立ちは、白地の仕掛け。威風堂々とした虎が、左の肩口から身を乗り出している、大胆な意匠である。
前帯は鮮やかな高麗納戸で、竹の葉模様の縫い取りが垢抜けている。一見すると、地味に見える衣裳だが、仕掛けの内に重ねた小袖の緋色の階調が、夕闇にぼうっと浮かび上がり、悩ましいほどだ。菊乃と歌乃の振袖も、綾錦の帯と同じ竹の葉の模様だった。
かっつ、かっつ
綾錦が見事な外八文字を踏み、悠然と道中を導いていく。
隣に並ばせた、小柄だががっしりとした若い衆の肩に片手を添え、綾錦は脇目も振らずに歩を進める。手を懐に入れ、肘を張って歩く様子は、大国の殿様と相対しても見劣りしないほどの貫禄があった。
<ruby><rb>江</rb><rt>え</rt></ruby><ruby><rb>戸町</rb><rt>どちょう</rt></ruby>二丁目の木戸を越え、<ruby><rb>仲之町</rb><rt>なかのちょう</rt></ruby>の通りに出ると、一夜の興を求めて来た男たちの視線が、綾錦に集中した。
見ろよ、八文字を踏むあの腰つき、たまんねえな。
ばーか、女と言えば肌の艶だよ。ほれ、綾錦の肌は、滑らかで吸い付くようだぜ。あーあ、一度でいいから、あんな女を抱いてみてえもんだ。
かしましい吉原雀が、涎を垂らさんばかりに、好き勝手なことをほざいている。
菊乃は、隣を歩く綾錦の足元に、素早く目を走らせた。
外八文字は、片足を外に大きく回し込んだのち、地面に着いた足を、ちょいと後ろに引く、という歩行の作法。黒塗りの三枚刃の駒下駄を履いて歩く姿は、花魁の意気を感じさせるが、これがどうして、一朝一夕に会得できる歩き方ではない。
何せ、駒下駄の高さは七寸近い。腰の位置をぴしっと決め、ふらつかずに歩くには、筋の力と体の釣り合いを必要とした。綾錦とて、妓楼の廊下で二年近くも稽古をしたのだ。
ぽっくりではあったが、菊乃も外八文字の真似をしてみる。かこっ、かこっ。綾錦の駒下駄が奏でる凛々しい音とは、比べものにならぬほど情けない貧弱な音が出た。
「菊乃、ふざけないで真っ直ぐ歩きなんし」
菊乃の後ろにいた初糸が、小声で注意した。
綾錦は八文字に集中している。「余計な戯れで、姉女郎の気を乱すな」と言いたいのだ。
わっちったら、なんで八文字なんか踏んでみたんだろう。
廓のしきたりになんか染まるものか、と強く心に決めていた菊乃だったが、近頃は無意識のうちに姉女郎の真似をしていることがある。
廓のしきたりとは、化粧、衣裳、廓言葉、それに、手練手管など。
手練手管は、言葉に聞き覚えがあるだけで、その実情はよくわからぬ。八橋によると、助平な男を虜にするための技巧だという。
ただでさえ廓の淫蕩な空気に馴染めない菊乃は、手管なんて要らないよ、と八橋に食ってかかる。しかしながら、八橋は取り合ってくれない。それどころか、大きくなったら、花魁がきっと手ほどきをしてくれるから大丈夫、と頓珍漢な返事をする始末。女郎たちは皆、長い年月を廓で過ごすうち、疑いもなくしきたりを受け入れてしまうらしい。
いや、女郎だけではない。菊乃自身にも覚えがある。
たとえば、昼夜のべつまくなしに、閨中から漏れ聞こえる嬌声。初めは反吐が出るほど嫌でたまらなかったのに、盛りがついてとち狂った蛙の鳴き声と思えば、大して気にならなくなった。今まで考えてもみなかったけれど、三年も廓に押し込められているうちに、菊乃の中で、何かが変化しているのかもしれなかった。
次第にやる瀬ない気分が募り、菊乃は空を仰いだ。
薄く懸かっていた雲の切れ間から、皓々たる月が顔を覗かせている。
綺麗だなあ。父さんと一緒に見た、洲崎の浜の月みたいだ。
ほぼ真円に近い月の美しさに感心して、菊乃は大きく息をついた。しかし、初糸に背を小突かれ、すぐさま行列を乱さぬよう、しっかと前を向く。
菊乃を産んですぐみまかった母に代わり、父は一人で菊乃を育てた。
浪人者だった父は、菊乃が幼いうちは剣術の指南をしたり、町内の子供に読み書きを教えたりして生計を立てていた。
だが、江戸の町では、すでに剣術指南所の数が飽和状態で、寺子屋も町内に何軒も存在していた頃である。幼い子供を抱えた生活の中での指導は、時間の融通が利かないことが多く、父の指南所は弟子の数を大幅に減らしてしまった。
生活に窮した父は考え抜いた末、新たな仕事を求めて、蔵前のさる札差の用心棒となった。菊乃が七歳の時だった。
洲崎は、その頃、父と出かけた思い出の場所だった。
洲崎では、父の知人が漁師をしていた。父と同じく、俸禄を失って浪人になった男で、流れ流れて洲崎にたどり着いた。漁の手伝いをしているうちに、漁師の娘とねんごろになり、そのまま居ついてしまったのだそうだ。
用心棒の職を得て家を空けがちになった父は、普段は構ってやれない娘への罪滅ぼしのつもりだったのだろう。泊りがけで知人を訪ねるついでに、潮干狩りとしゃれ込んだ。
菊乃は、初めて見る大海原に目を瞠いた。どこまでも続く、だだっ広い遠浅の海。沖に、何艘かの帆掛け舟が点在している情景が、手に取るばかりに見えた。
右手に広がるは、緩やかに続く海岸線。一方、遠く東の方角に連なるは、うっすらと霞む山並み。
海の上になぜ山があるの? 不思議に思い、菊乃は父に訊ねた。娘の突飛な思いつきがよほどおかしかったのか、父はひとしきり大笑いをしたのち、優しく説明した。
あれは上総の国さ、洲崎は、西は芝浦から高輪、品川、東は、房総の国々まで見渡せる場所。初日や月を拝みにくる人が後を絶たない、江戸の名所なんだよ。
耳を澄まして、寄せては返す波の音を聞く。穏やかではあるが、このとてつもなく大きな自然の前で、人は本当にちっぽけな生き物なんだなと、菊乃はつくづく思った。綿々と続く時の流れに抗って生きることなど、しょせん無理な話。波間を漂う夜光虫のごとく、人は流れの赴くままに身を任せる以外、なんの手立てもないのだ。
昼間、潮干狩りに興じた菊乃と父は、夕方、弁財天を祀る洲崎神社へと出向いた。
お参りを済ませ、境内から出たところで、少し前まで浅蜊を掘っていた砂浜を眺めた。
遅い春とはいえ、海辺の宵はまだ肌寒い。浜風に身を震わせながら菊乃が目にしたのは、月光に照らされた黄金の千畳敷だった。
人っ子一人いない、どこまでも続く砂浜は、まばゆいばかりの光に照らされ、まるで神々の御殿のように見える。壮大な自然の造形に、菊乃は深い感動を呼び覚まされ、しばらくの間は声も出せず、父と一緒にその場に立ち尽くしていた。
漁師の家で歓待にあずかり、夜、父と床を並べて横になっても、菊乃の興奮は収まらず、金色の砂浜が目の奥にちらついて、いつまでも眠れなかった。
翌日、帰宅した菊乃は、食べきれぬほどの浅蜊の裾分けを考えている父に向かい、洲崎へまた連れて行ってくれろと、ねだった。父は「<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>いことよ」と笑って請け合った。
だが、その約束は、とうとう果たされることはなかった。二年後、父は、雇い主を襲った剣客と斬り合いになり、命を落としてしまった。
父さんと母さんは、あの月のように、わっちのことを空から見てるんだろうか。
菊乃は、思わずぎゅっと目をつぶった。鼻の奥がつんと痛くなる。今さら考えてもどうにもならぬ<ruby><rb>運命</rb><rt>さだめ</rt></ruby>なのに、月夜は、寂しさが、満たされない思いがひときわ募る。
今宵の席が近づいてきた。江戸町一丁目、駿河屋。大門近くの名だたる引手茶屋だ。店の前には、すでに女将が出ていて、花魁の到着を今か今かと待ち構えていた。
大門の脇に、菊乃は知った顔を見つけた。
銀次さんだ。
駕籠舁きの銀次が、客待ちに飽きたのか、相棒と雑談をしていた。
丁子屋の提灯を持った若い衆に気づくと、銀次は、道中のほうへ視線を寄越した。
銀次の目は、ひとりでに綾錦に吸い寄せられていく。
嫌だ、姉様ばかり見ないでよ。
綾錦に張り合っても無駄なことは重々承知しつつも、菊乃はなんだか面白くなかった。
自分も美しく、行儀良く見えるよう、菊乃は精一杯しゃんと背筋を伸ばし、しとやかな足取りで歩く。簪に付いた銀の飾り短冊がきらきらと煌くように、小首を傾げてみる。
短冊の光に誘われるように、銀次の目が綾錦から菊乃へと注がれた。一瞬、銀次と菊乃の視線が絡まり合った。
菊乃はその場に立ち止まり、銀次に向かってたおやかに微笑んだ。銀次は口をぽっかりと開け、菊乃に見入ったままだ。
ざまあ見ろ、だ。わっちだって、このくらいの手練は心得てるんだからね。
菊乃は笑みを浮かべたまま、綾錦に従い、できるだけ優雅に駿河屋の暖簾をくぐった。
(続く)</pre>
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吉原の妓楼、丁子屋の禿(かむろ)菊乃は、花魁の綾錦に従い、引手茶屋に来た。当代きっての絵師が、吉原の名花五人の美人画を描く企画で、丁子屋からは綾錦と芙蓉が選ばれていた。遅れて来た花魁の芙蓉は、四半時もせぬうちに具合が悪くなり退出する。その夜、芙蓉が自害。芙蓉には身請けの話があり、望まぬ身請けを苦にしての自害だと噂されたが……。
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