曼荼羅風 齋藤幹夫
――其之伍 もう半分―― 「いやに正直だねえ…正直めッ!…… 何 でもいいようゥ、そのお金ねえ、あたしに預けておきよ、ねッ……さあ、お出しよ、こっちィ預かっとくから……ええ? いいよいいよ」古典落語「もう半分」より 今朝、出掛けに、子供は実家で晩御飯を食べさせて貰い、そのまま泊まるから、あなたは何処かで済ませて来て頂戴、と女房に云われ、きょとんとしていると、ほらまた忘れてる、今夜は今度のクラス会の打ち合わせで皆と食事をしてくると云っておいたでしょう、と来た。忘れていたのではない。端から聞いていないのだ。女房は確かに云ったのであろうが、私の方が聞いていないという意味である。そんな事を言い返せば要らぬ騒動が始まるから、ああ、とだけ答え、家を後にした。それにしても「クラス会の打ち合わせで皆と食事」とは如何なることだ。クラス会なんぞは参加者の把握と会場予約をすれば事足りるのではなかろうか。どうせ、クラス会の計画が持ち上がった時に「じゃあ、一度皆で会って、食事でもしながら打ち合わせをしましょうか。久し振りだし」ってな具合に話が進んだのに違いない。そもそも久し振りに会う場こそがクラス会であろうに。そんなことを曼荼羅風の大将と話しながら、秋刀魚の腸のほろ苦さに温燗などをやっていると、入口の引き戸の心地よい音が聞こえ、すぐさまそれを打ち消す騒々しい声が店内に侵入して来た。声の後に続いて入って来たのは熊さん八つぁんの二人組。入って来たなり熊さんが、お決まりの御挨拶(大将から聞いたところによる)をする。 「はい、こんばんは。大将、瓶麦酒ね、じゃんじゃん一本」 普段なら框の方に坐る二人だが、今夜は付場の前の長卓に、それも私を挟んで右に熊さん、左に八つぁんが腰を下ろした。なんだか厭だ。出された瓶麦酒を八つぁんが持ち、熊さんに「ほい」と傾け、熊さんは麦酒会社の商標が入ったビアタンを差し出す。八つぁんが注ぎ終わると、今度は熊さんが瓶ビールを、八つぁんに傾ける。「おっ、とととと。ほいお疲れさん」と八つぁんがビアタンを軽く持ち上げ、熊さんも、お疲れさん、と応える。これが二人に挟まれた私の顔の前で行われたのである。何だか鬱陶しい。 「今日はお二人、距離を置くように坐って。何ですか、喧嘩でもされたんですか」 「喧嘩なんかしてねえよ。熊がよ、そこに坐ったから、その奥の向こう側へわざわざ行って坐るのも面倒だから俺がここに腰掛けただけの話よ」 私は右の熊さんに聞いてみたのだが、左の八つぁんが私の後頭部に向かって答えた。 「お疲れ様でした。すんなり進みましたか、打ち合わせ」 大将が労いの言葉を熊さん八つぁんに掛ける。普段のこの時分なら、この二人組はこの店で、すでに御気分宜しくなっているのだが、たった今の御登場、それも素面だったのは、なにやら「打ち合わせ」なるものを行っていたようだ。 「すんなりは行かねえなあ。なんやらかんやらと必ず茶茶入れて来る奴がいるからよ。まあ、終わったからもういいや。大将もありがとさんで。祭の日にゃ、『曼荼羅風』って入った提灯が眩しいくらいだ」 熊さんは続けて私に「今日はよぉ――」と「打ち合わせ」とやらの詳細を教えてくれた。来月にここらの氏神様の祭があり、商店街は献灯会というものを立ち上げて献灯料を集めた。曼荼羅風も献灯料を出したようだ。献灯料は神社に寄付し、境内に社名店名の入った提灯がずらりと並ぶ献灯提灯台が設置される。その集計と報告会、祭の日の商店街の行事の打ち合わせが行われ、献灯会の会長が熊さんで、八つぁんが会計を任されているとか。 「ほんとに四の五の煩せえ奴が多いよな。だいたい打ち合わせなんか、軽くこう一杯やりながら、ちゃんちゃん、で終わらせてよ、はいお疲れさんでまた一杯ぐらいが丁度いいんだ。ごたごたと長えんだよ。茶じゃ間がもたねえし、茶茶は多いし」 女房は食事しながら打ち合わせ、八つぁんは飲みながら打ち合わせと来た。どうして「打ち合わせ」に付加価値を付けたがるのだろう。女連中はお喋り、男連中は単に飲みたいだけか。否近頃は「女子会」なんていうのもあるらしいから、一概には云えない。 「飲んじまったら蛸八、お前も喋り出すだろうが。それこそ纏まらねえよ。酒飲まねえで、お前が黙 りでいるからあの時間で終われるんじゃねえか。それはそうとよ、今夜はあんまし飲むんじゃねえぞ。大金預かってんだからな。酔うとどうなるか解らねえ」 八つぁんは献灯料の現金を風呂敷に包み、持って来ているらしい。熊さんにそう云われ、そうだそうだ、と云いながら風呂敷包みを胸に抱え込む。そしてすかさず「大将、熱燗頂戴」と云っている。解ってるんだか、解ってないんだか、解ったもんじゃない。 「本当に気を付けて、八つ田さん。まあ店に忘れて行く分には、落語の『もう半分』みたいなことはしませんので大丈夫ですが、外に出られた後ではね――。はい、お待ちどう」 大将は一合徳利と猪口を八つぁんに前に置いた。熊さんが大将に向かって「何だよ、その『もう半分』ってえのは」と訊いた。私も気になっていた。 「もう半分」という噺はですね――。 宿酔で今日はもう飲まないなんて云っておきながら、頃合いになるとついつい飲んでしまうのが酒飲みの性で、隅田川のそばの居酒屋に訪れた爺さんもその枠の内。江戸時代の居酒屋は一合ずつの計り売りなのだが、この爺さんは「これを一杯ッつ三杯飲むのを、半分ッつ六杯飲むと、それァまた…余計飲めるような心持がしましてねえ、へえ…それで、半分つつ飲むんですよ」と五勺ずつ頼む。相当酔いも回って来た爺さんは持って来た風呂敷包みを忘れて店を後に。風呂敷の中は金子五十両。居酒屋の旦那は後を追っかけて返そうとするが、そこへ身重の女房が現れて引き止め、爺さんが戻って来ても知らぬ存ぜぬで通して、猫ばばしてしまおうと企む。先の爺さん程無くして居酒屋へ戻り、風呂敷包みは無かったかと尋ねる。居酒屋の女房は、無い、知らぬの一点張りで、旦那も女房の押しに負けて、知らないとついつい云ってしまう。その金子五十両は娘が吉原へ身を売って借りてくれた金。爺さんは、その娘に「今夜ばかりは、お酒を飲まないでおくれ」と云われていたのに、飲んでしまってこの始末と己を悔いて、肩を落とし居酒屋を出て行った。一度は白を切った旦那だが、その経緯 を聞き、やっぱり猫ばばは出来ないと後を追うが一足遅く、爺さんは橋の上から身を投げてしまった。落胆しながら旦那が店へ帰ると女房が産気付き、出産。生まれた赤ん坊はすでに歯が生え揃い、白髪が生え、顔が先程の川に身を投げた爺さんそっくりで、それがぎろりと睨みつける。女房はあまりの出来事に卒倒しそのままあの世へ行ってしまった。残された旦那は女房の野辺送りを済ませ、爺さんの五十両を元に店を直し、女中を置いて、皮肉にも店を繁盛させた。赤ん坊には乳母を付けるが、どの乳母もすぐに「お暇を頂きたい」と云って来て長くは続かない。これは変だと、暇を求めて来た何人目かの乳母に辞める理由を問うと、この赤ん坊、夜な夜な床をそおっと抜け出し、行灯の油を舐め、寝ている乳母のほうをじろっと睨 め付けると云う。旦那は自分の目で確かめようと、その頃合いに赤ん坊の寝ている部屋の襖をそっと開けて覗き込む。その先には床を抜け出し行灯の油を舐める赤ん坊がいる。旦那が持っていた六尺棒で打ちつけようとした時、赤ん坊はひょいと振り向き、油皿をつき出し「もう半分ください」 「怪談ですね。怪談ですけど、志ん生師匠が演るっていいますと、ぞぞっていう背筋に虫が走ったような怖さはありませんが、味わい深いものです。今輔師匠ですと、先に笑わせておいて、後から地獄の底に引きずり込むような鬼気迫るものがありますね」 大将は話し終わり「これ、よかったら摘んでください」と軽く炙った栃尾の油揚げに刻んだ葱を乗っけて、その横に大根おろしを添えた一品を出してきた。 「こいつぁ、旨えなぁ」 「御代りが欲しいくらいですね。もう半分ぐらい」 熊さんの声に私が応えるが、いつも煩い八つぁんの声が聞こえない。様子を窺うと目を見開いたまま固まっている。こいつぁ、この手の話にゃ滅法弱くってなぁと熊さんが云う。 「大将、そりゃあ、ほんとうの話かい」 八つぁん、生唾を飲み込みながら間の抜けたことを訊く。 「落語ですよ、本当にあった話じゃありません。圓朝師匠は、怪しい物は神経病だなんて云っておったそうですが、『神経病』って云うのが当時の流行りみたいなもんだったんでしょう。ですが八つ田さん、そう気になさらずに。怖いと思えば、怖くない物まで怖い」 「でもよう、『幽霊の正体見たり旦那だな』って云うだろう。女の幽霊なら粋で別嬪の奴もいるかもしんねえが、旦那と来ちゃあ男だよ。色気も糞も無けりゃあ、怖えだけじゃねえか。それによ、俺がこの銭を失くしちまってよ、責任感じて気落ちして、身ぃ投げちまって、俺の孫かなんかに、そんなのが産まれた日にゃあ、どうすんだ。ああ、おっかねえ」 「化けて出んのはお前だ、蛸八。化け物が鏡見て驚いてるようなもんじゃねえか。それになんで身内に祟ってんだ。そもそもよ、身投げするような玉かよ。表六玉のくせしやがって。なんだ『旦那だな』ってのは。なにからなにまで間違ってるよ」 熊さん、一気呵成に叩き込むが、八つぁんには何処吹く風。臆病風のみ吹きまくる。 「厭だなぁ、今夜ひとりで便所行きたかねえなぁ。嬶について来てくれなんて云えねえし、この歳で寝小便もなぁ――。枕元に一升瓶置いとくってのも、入り切んなかったら、それこそ大 事 だ。もう半分足りません、なんてな――。――そうか、ここで出してっちまえばいいんだな。そんでもって小便の元になる酒 を飲まなきゃいい」 顔こそ此方に向けているが、八つぁんは私達に話しているのではない。どうも独り言のようである。本人は頭の中で思っているだけのつもりだが、全て口から出てしまっている。 「ちょいと便所行ってくら。そして、小便が済んだらお勘定だ。今夜はもう飲まねえ。訳は云えねえし、訊かねえでくれ。万が一の用心のためだと思ってくれ」 大将も熊さんもあんぐりと口を開けて、トイレに駆け込む八つぁんを見つめている。皆から預かった献灯料に不始末があってはならない。だから酒を飲むのも途中で切り上げて帰るとは、流石八つぁん見上げたものだと、思ったことを口に出していなければ皆がそう思ったものを、これでは台無しである。トイレから戻った八つぁんはそそくさと勘定を済ませ「ばたばたして申し訳ねえ」と風呂敷包みを確り抱えてさっさと店の外へ出て行った。 「救いようのねえ、臆病者の大莫迦だぜ」 熊さんが大きな溜息とともに呟いた。その時、曼荼羅風の引戸がからからと音を立てて開いた。そこには八つぁんが顔を覗かせていた。 「どうした。早速風呂敷を失くしちまったか」 熊さんは半ば立ち上がりながらそう云うと、八つぁんは「いや――」 「誰か一緒に帰らねえかな、と思って」 「手 前 ひとりで帰りやがれ。この表六玉がっ」 熊さんが怒鳴りつけると、八つぁんは幽かに音を立てながら引戸をゆっくりと閉め、閉まり切るまで幽霊のような恨めしそうな目付きで此方を見ていた。 「お後がよろしいようで」註:文中の落語の引用部分は、飯島友治編『古典落語 志ん生集』ちくま文庫に拠った。
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