ひとり兎園會 齋藤幹夫
――其之肆 幽霊―― 一生の間さまざまのたはふれせしを、おもひ出して觀念の窓より覗けば、蓮の葉笠を着るやうなる子共の面影、腰より下は血に染て、九十五六程も立ちならび、聲のあやぎれもなくおはりよおはりよと泣ぬ。是かや聞き傳へし 孕女 なるべしと氣を留めて見しうちに、むごいかゝさまと銘々に恨み申すにぞ、扨はむかし血荒をせし親なし子かとかなし。『好色一代女』巻六「夜發の付声」より 井原西鶴 他人様の家庭の、長男坊が誰某と喧嘩して怪我をしただの、長女が誰某に赫々云われて学校に行きたくないと云っているだの、奥さんがパート先で若造の主任から口煩く云われていて辞めたいと云っているなどの情報は、わが女房の口から聞いてもうんざりするほどだから、テレヴィの「大家族云々」とかいう番組など私は一切視聴しないが、どうやら世間様では好評を博し、また一方では不評を買い、どちらにせよ視聴する者が少なからずいるようである。貧乏子沢山とは云わないまでも「子沢山ゆえの生活苦」といった内容が多いと聞くが、昔「子沢山」は、食糧確保の口減らしを理由として「間引き」が行われる要因のひとつであった。貧乏子沢山の他にも、丙午生まれの女は七人の夫を食い、丑年の次男は兄を食うという俗信や、障碍をもって生まれた、双子であった、男でなかった、女でなかった、飢餓等を理由に「子殺し」が行われていた。「間引き」 の方法には窒息、首を捻る、圧殺、餓死などがあり、川や海へ流す、埋める(野山や畑、床下や土間、便所の傍と場所は様々)などして処理したと伝わる。宮崎県米良地方には〽ねんねんころりよ おころりよ ねんねしないと 川流す、なる歌詞を持つ子守唄があり、これは間引き歌と云われる。 堕胎もまた歴史浅からぬものではなく、間引きとともに行われていた。要因にはやはり「貧乏人の子沢山」をはじめ、不義密通、母体保護等があるとされる。その方法は水銀を飲んだり、枝や根を局部に挿入したり、腹部圧迫、高所から飛び降りる等の記録が残っているようで、母体保護の観点からは首を傾げたくなるものが多く、堕胎より間引きの方が母体には安全であったと云える。先の宮崎県米良地方の子守唄には〽ねんねんころりよ おころりよ ねんねしないと 墓建てる、と続きがあり、しかしながら、基本的には墓を建てるはおろか供養すらしなかったようで、「七歳までは神のうち」「七つから大人の葬式をするもの」という諺もあり、極端に云えば人間として見做されていなかった。 妊婦が産褥で死亡した際の埋葬方法には幾種類かの方法が取られ、基本的には腹を裂き胎児を取り出したり、赤ん坊の代わりに人形を抱かせるなどして「出産」をした形を取らせる。そうしないと死してなお無念さが残り、成仏しないと考えられていたのだ。「うぶめ」はその死んだ妊婦の無念さがこの世に残ったものだと云われている。夜 発 とは辻にて客を拾う娼婦のこと(旅行代理店の店頭の「夜発バスツアー」なるチラシを見て、何だかいかがわしいものを連想するのは私だけだろうか)。井原西鶴の「夜發の付聲」では一代女が九十五、六体の「孕女」を見る。その姿は蓮の葉を笠にして被り、下半身に血が滲みた子供。「おんぶして、おんぶして」と泣くこの子らは負ぶわれたことのない堕胎された子供ら。一般(?)に「うぶめ」は下半身を血で真っ赤に染め、子を抱き、さめざめと泣いている女で、これに声をかけて来た者に「この子を抱いてやってくれ」と云ってくるとされ、一代女の見た「うぶめ」とは違うものである。この件に関しては京極夏彦氏が『姑獲鳥の夏』のなかで見事な考察をしているので引用させて貰おう。「つまりね、男が見るウブメは女、女が見るウブメは赤ん坊、そして音だけのウブメは鳥なんだよ。そしてこれらは 同 じ も の として認識されていたのだ。当然、ウブメは今どきの人が謂う幽霊とはイクォールじゃない。お産で死んだ女の無念というより、もっと広い範囲で捕らえなければ理解できないものなんだ」『姑獲鳥の夏』より 京極夏彦 間引きされた子供の幽霊なんぞは、古くから伝わるものを私は聞いたことがない(ただの無知によるものかもしれないが)。 何せ人と見做されていなかったのだから、無念さなど残る筈もない、と生きている者が思っていた結果がそこにあるとしか思えない。賽ノ河原で延々と、なる言葉もあるが、これは寺の経営手段のひとつだと思っているし、座敷わらしは間引きされた子が云々というのも今ひとつ納得がいかない。愚息が「妖怪と幽霊はどう違うのか」と聞いてきた事があり、そこで井上圓了を引き合いに出し妖怪と呼ばれるまでの経緯とか、柳田國男の定義等を持ち出して、小学生を相手に説明するには些か面倒臭い事であるし、聞かれたのが風呂に浸かっている最中であったので湯当りの原因になり兼ねないから「そんなものどちらも化け物なんだから、いちいち分ける必要ない。ただ『あな恐ろしや』『おお怖い』『ああ面白い』で済ませておけばいい。楽しければいいんだ」と云っておいた。そのうちに少しずつ教えてやろう。幽霊なんかいない、脳が作り出すまやかしだと云うことを。そのうえでいずれ酒を酌み交わしながら「怪」を語り合うのも一興かも。 栓抜きは何処にあるのか、と女房に訊けば、突っ慳貪に「食器棚の上から二番目の抽斗」だと云う。云われた通りに抽斗を開けてみるが、無い。無いから再び訊く。「無い筈はない。よく見ろ」と此方を振り向きもせず女房は答える。よく見ても「無い」のだから此処じゃないと云えば、女房は億劫そうに立ち上がり、溜息交じりに寄って来て、私をぐいと横にやり抽斗の中を覗き込むなり「ほれ」と栓抜きを目の前に突き出した。眼で見た物は脳によって処理され認識することが出来るが、見る側の記憶、精神状態や視点、あらゆる内的・外的な要因に影響され、ひとつの対象物は複数の観察者の眼に均等に、寸分違わず同一の物として映り、脳によって認識されているとは限らない。有る物が見えず、見えない物が有ると云った矛盾した認識をする場合が間々ある。こと幽霊なんぞに関してはそんなものだ、と私は思う。死ねば全てが終わり全て無くなり、残るのは屍と遺品と生きている側の感情のみ。死んだ者には無念や、恨み悲しみといった感情など無い。その様な感情を抱くのは生きている者。幽霊を見るのも須く生きている者であり、生きている者の脳が幽霊を作り出し、見せる。幽霊同士がお互いを認識し、「お先に出させて貰います」「この度は成仏することが出来まして、その節は色々とお世話になりました」「柳田さんの幽霊、最近見かけないけどどこか具合でも悪いのかしら」「あら井上さん、御存知なくって。成仏されたってって話よ、柳田さんの幽霊」「そう云えばここ最近顔色が悪かったですものねえ」などとやり合うことはあり得ない。 数年前父を亡くしたとき、悲しみはあったにせよ、死んだらそれで何もかも終わりという思いのある私には、それよりも死にゆく父に宿る癌細胞、己が増殖するために宿主を死へと誘い、何れは己が住処を無くすモノの不条理さに想いを駆け巡らせていた。この世に未練を残した者が幽霊となって現れるのならば、意識不明、危篤状態の最中に孫の声には反応する(最期の言葉はその孫の名前であった)のだから、父はさぞ未練があるに違いないと思い、ならば幽霊となって現れてみせよ、と心に思っていたりもした。危篤状態が三日三晩続き、皆が皆、疲労困憊の体。妹弟は体調を崩し深夜の院内のベンチに横になり仮眠をとっていた。妹弟の様子を見に行こうとしてナースステーションの前を通る。そこには父の心電図モニターが置かれ二十四時間の監視がなされていた。ナースステーションには夜勤の看護士は誰一人いなかった。先程からナースコールが引切り無しに鳴っていたので、皆出払っていたのだろう。その時父の心電図モニターが目に入った。緑色の光の線が横に真直ぐに流れている。妹弟は一先ず置いておいてすぐに病室に引き返し父の様子を見れば、人工呼吸器で息をしながら眠っている。さっきの心電図モニターは見間違いか、と首を傾げるも、取り敢えず妹弟を病室に呼び戻そうとナースステーションの前を通る。再び心電図モニターを見たが、今度は一定の振幅を繰り返す波形が左から右へ流れていた。妹弟を病室へ戻らせ、私は先程の件がどうしても気になって、ナースステーションの前で三度足を止める。心電図モニターに目をやると、波形は無く直線の緑色の線が流れ、一定の電子音が鳴っていた。急いで病室に戻ろうとした時、視界の端に何かがいた。振り向くと深夜の病院の薄暗い廊下にパジャマ姿で微笑えむ父が立っていた。やがてそれは霞のように私の前から姿を消した。病室に戻ると父の呼吸は止まっており、しかし私以外の者はその事に気がついてはいない。私が父を抱かかえたのを機に漸く気付いて慌て出し、皆が「お父さん、お父さん」と呼びかける。父は私の腕の中で、はぁ、と最期の息を吐き出し、引き取った。そのようなモノを私自身が見てしまうと、そりゃあ、三日三晩寝てないんだもの、無いものが見えたってしょうがない、と思ってしまう。 ひとり兎園會 ――其之肆 幽霊―― 閉会
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