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2012年12月3日月曜日

ひとり兎園會 1-2 「虛舟」 二次會 / 齋藤幹夫

 ひとり兎園會 ―其之壹 虛舟― 二次會                       齋藤幹夫

  人間は到底絶對の虛妄を談じ得るものではないといふことが、もしこの「うつぼ舟」  から證明することになるやうなら、これもまた愉快なる一箇の發見と言はねばならぬ。                         「うつぼ舟の話」より  柳田國男
 口説「牡丹長者」は、柳田國男の「うつぼ舟の話」の中では熊本県の八代地方で歌われているとして引かれてあるが、他にも山口県宇部市、大分県佐伯市、由布市にも伝承されている。牡丹長者伝説は全国各地にあり、先の由布市の他に、福岡県三池郡高田町竹飯の満願寺には牡丹長者の墓と云われるものまで存在する。そもそも牡丹長者伝説とは、舟がとある場所に流れ着き中には女人がいると云う、馬琴の「虛舟の蠻女」のそれだが、うつろ舟に乗って来た女は異国の者ではない。

 京の都の御禁裡様で
 太政大臣八重関白の 一人娘の鶴姫君は
 お年重ねて十三歳よ 時の帝の十二の妃
 一の妃に供わりけれど 少し御身に落ち度が出来て
 出来た落ち度で言い訳立てた 少し落ち度を何かと言えば
 頃は三月は波の頃に 親の許さぬ下紐解いた
 それが御身の落ち度となりて うつろ舟にて島流さるる

 上、口説「牡丹長者」の一部。その後は以下のような内容である。うつぼ舟に乗せられた鶴姫君は鬼界が島(平家物語、能「俊寛」にある薩摩の国の「鬼界島きかいがしま」と同じくするのかは不明)に流れ着く。「虛舟の蠻女」と違って再び海に帰されることもなく、百合姫と名付けられその地で大事に育てられる。やがて「小野の小町か照手の姫か かぐや姫よりまだ美しく」との噂が奥州仙台の牡丹長者の耳に入り、是非ともうちの三男三郎の嫁に欲しいとの旨伝えるべく遣いの者が出向き、後にめでたく婚姻となる物語である。その美しさに兄嫁たちの嫉妬を買い、縫物くらべと琵琶、琴の弾きくらべを百合姫は持ちかけられるが、そこには、卑しい身分の出で出来るはずもなく、出来なければ牡丹長者の家柄に相応しくないから追い出してしまおうと云う兄嫁たちの企みが隠されていた。されど太政大臣八重関白を出自とする百合姫は、兄嫁たちを返り討ちにする。百合姫の縫物、琴弾きの技術、楽器の由来を語る知識の豊富さからその出自が明らかとなり、兄嫁たちは百合姫の前に平伏することになる。そして、夫と義兄の2人、兄嫁2人を家臣にし、「京の都に帰りゆく」と大団円になる。伝承地において奥州仙台が豊後の国に、鬼界が島が屋形の島に変化しているものもあるが、内容に変化は無い。私の現状の浅はかな知識では、その伝説が今もって、山口県以南の地に多く語り継がれているのか、それが国内の交易の結果に残ったものか、柳田國男も挙げているように「ペルヴァントとヷステラ」などの外国にもある「牡丹長者」に似たような話が大陸から九州に伝来し時代を経て、そこに住む者達が遠く離れた地を舞台とし夢物語を形成していったのかどうかは、恥ずかしながら結論を出すはおろか、推察も行うことができない。全国に流布していたものが交易により伝来し、山口県以南の都を遠くする僻地、流行の遅延や停滞が著しい地方にこそ残っているのでは、と独り思うだけである。
 私は宮崎県延岡市を故郷とする。その地には古くから伝わる「ばんば踊り」なる盆踊りがある。ばんば踊りの「ばんば」とは、馬場踊りが訛ったのだとか、交易のあった播州赤穂の播州が訛ったものだとか、激しい、賑やかを「ばんばん」と云い「激しい踊り」すなわち「ばんばん踊り」からだとか諸説あるようだが、口説が交易と共に伝わってきたと考えれば、「播州」の説が私には一番しっくりくる。現在その地で「ばんば踊り」と云われているものは、並岡龍司作詞作曲、村田英雄の唄による、昭和37年に作られた「新ばんば踊り」である。「新」と謳っているのだから、勿論「旧ばんば踊り」が存在する。それが本来のその地で踊られていた「ばんば踊り」であるが、地域ごとに踊られるものが異なる。例えば「奥州仙台炭焼小五郎」「源平一之谷合戦之段」「大黒天」「恋慕稗搗節」「団七踊り」などがそれであり、加えて先の「牡丹長者」も存在している。
 1987年に制作された映画『ラ★バンバ』で巷間に知れ渡るようになった「La Bamba」
と云う洋楽の、その題名を聞くと延岡に生まれ育った私なんかは、ばんば踊りの「ばんば」を思い浮かべるが、延岡に所縁の無い者は「ばんば踊り」と聞いて「La Bamba」のほう
を思い浮かべるのではあるまいか。この「La Bamba」は映画によって大ヒットなったが、元々はメキシコの民謡であるようだ。ウィキペディアにはBamba と云うのはスペイン語
の動詞bambolearの「ゆらめく」「よろめく」などの意によると考えられている、とある。これを意を知ると、海上をゆらめき、よろめきながら漂い辿り着いた「牡丹長者」のうつぼ舟を想起させられる。またbambaとはスペイン語で「まぐれ当たり」と云う意味だそうで、うつぼ舟に乗せられた女人が「まぐれ当たり」で何処かの陸に辿り着き助かるやもしれずと海に流されたと想像することもできる。そもそも歌詞の「Para bailar la Bamba」を和訳すると「バンバを踊るために」であり、そのまま「ばんば踊り」である。さらにウィキペディアには民謡「La Bamba」はスペインのベラクルスの結婚式で演奏されていた
と説明がされ「結婚式では、この演奏とともに、赤く長いリボンを用いた踊りが踊られていた」と書かれている。赤く長いリボンと云えば、馬琴の「虛舟の蠻女」にある「頭髮は化髮いれがみなるが、白く長くしてそびらに垂れた」のくだりを、色は違えども、思い出さずにはいられない。何よりも元がメキシコの民謡と云うのも興味深い。
 延岡の市の中心部から北東12㎞離れた日向灘の沖に島野浦と云う島がある。その島には「メキシコ女王の伝説」がある。江戸の末期、漁師がカツオ漁からの帰港の途中に海上を漂う大きな木箱を見つけた。木箱の中には赤や青に輝く宝石を鏤めた黄金の冠に金髪の白骨死体と、外国語で書かれ誰も読むことの出来ない革表紙の本が一冊入っていた。船上では、宝だけ持ち帰り死体は箱に入れたまま海に帰そうだとか、祟りが恐ろしいから島に埋めようなどと意見が出たが結論が出ず、そのまま島に引き上げられ、結局箱は島のどこかに埋める事になり、この事は口外しないと皆が誓ったと云う。大正時代には島の者に調査を依頼された大学教授が、流れ着いた当時メキシコに内乱があった事と結び付け、メキシコから流れ着いたと推測し、以来「メキシコの女王」のと云われるようになり、後に警察の調査も行われ、昭和の戦時中には軍の調査が入ったが何れも発見には至っていない。この一件に関わった人物は昭和初期まで存命しており、家人にはこの事をよく語っていたらしいが、埋めた場所は一切口に出さぬまま天寿を全うされたようだ。
 島野浦のメキシコの女王伝説では箱の中の女人は白骨化し、箱は海に流されることなく島に埋められる等の相違はあるが、馬琴の「虛舟の蠻女」といかに類似していることだろう。また「牡丹長者」が延岡で「ばんば踊り」として受け継がれていたこと。そしてメキシコ民謡「La Bamba」の意味などを考えると、虚舟はメキシコから延岡に流れ着いたと
しか――。
 ――などと莫迦馬鹿しい。以上は私が牽強こじつけたものにすぎない。誰かがこのようなことを心から信じ切って云いだす前に先手を打っておいた。否もう時すでに遅しかも知れない。それならばこれを皮肉として捧げよう。

                ひとり兎園會 ――其之壹 虛舟―― 二次會 閉會

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