蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章 風花千里
第八章 徘徊する猫 絹布に天鵞絨の縁取りを施した三つ布団の上で、綾錦が「うーん」とうめいている。 光沢のある豪華な布団の上で、うつ伏せになって、だらしなく伸びている姉女郎の姿を前に、菊乃は当惑した気持ちを隠せなかった。菊乃は、歌乃と初糸とともに、湯殿から戻ってきたところであった。 「花魁、お加減はいかがですか?」 綾錦と一緒に部屋に残っていた八橋が、心配そうに呼びかけた。 「あぃたたたたっ。八橋、そう大きな声で話すでない。うるさくて頭が割れそうだ」 綾錦は、ほつれた鬢のあたりに手をやると、大仰そうに顔をしかめた。綾錦の枕元には、小さな盥が置かれている。 なあんだ。姉様は二日酔いか。 菊乃は、秋草の模様の付いた塗りの盥を見て、合点がいった。 姉女郎が酒を過ごし、二日酔いに至ることが年に数回はある。 秋草の盥は、西村屋が化粧道具として綾錦に贈った品だが、近頃では、もっぱら二日酔いで気分が悪い時に、枕元に置くのが通例になっていた。 「でも、昨晩は、二日酔いになるほどお酒を召し上がりましたっけ?」 初糸が、不思議そうに訊ねた。森田屋を同伴した西村屋の宴があった昨夜、確かに、部屋に帰り着くまで、綾錦はさほど酔っ払った様子は見せなかった。いつものごとく、禿 、新造を引き連れ、上機嫌で妓楼に戻ってきたのだ。 「芙蓉さんの話が聞くに忍びない内容だったから、昨晩は同じ量を飲んでも、普段より酒の回りが速くなってしまったのかもしれないわね」 八橋は廓の先達らしく、もっともらしい口調で説明した。 周囲の心配をよそに、綾錦は、時折「うー」とか「うっぷ」とか唸り声を上げながら、布団に臥したままだ。 八橋は腕組みをして「困ったわねえ」と考え込んでいる。 「今夜は、高松藩の御留守居の座敷に呼ばれているというのに。果たして、花魁は夜までにお支度ができるかしら」 すると綾錦は、わずかに片手を上げ、ひらひらと振った。 「大丈夫。頭が痛いだけで、気分はそれほど悪くない。夜までには治るから、しばらく静かに寝かしておいてちょうだいな」 「わかりました。歌乃、お前は台所に行って、盥に冷たい水を汲んでおいで」 綾錦のどこか甘えたような口調に、八橋は苦笑しながら、歌乃に用事を言いつけた。 「それから、初糸はここに居て、誰も入ってこないように見張っているんだよ。花魁は、湯殿の開いている時間には行けそうもないから、わちきは下に行って、夕方、行水の用意をしておくように、若い衆 に話をつけてくる」 八橋は、初糸にも、てきぱきと指図をした。 「きくの……」 か細い声で綾錦に呼ばれ、菊乃は「あい」と、そばににじり寄った。脇へ退けられていた掛布団を、姉女郎の上に、そーっと掛けてやる。 綾錦は仰向けになり、掛布団を首元まで引き上げた。 「お前、ひとっ走り行って、みなと屋で《袖の梅》を買ってきておくれ」 みなと屋は、廓内の薬種商。《袖の梅》は、酔い覚ましの妙薬と言われており、吉原名物ともなっていた。 「《袖の梅》なら、ここに入っているはず……、あれ? ないや」 菊乃は、綾錦が使っている小簞笥の抽斗を開けた。だが、どこにも《袖の梅》の袋は見当たらなかった。 「《袖の梅》も二日酔いには大して効くと思えないんだけど、ないよりましだからねえ」 悪酔いして体に力が入らないせいか、綾錦は、気の抜けたような声で嘆いた。平素は、お上の高官や大商人を相手にして、一歩も引くことのない胆の太い姉女郎であるが、二日酔いの辛さには勝てぬと見える。 「わかりました。すぐ行ってきます」 菊乃は、素早く腰を上げた。傍らに八橋が来て、菊乃に耳打ちをする。 「ついでに、花魁がおなかが空いた時に食べられるよう、山屋の豆腐も買っておいで」 「あい! 承知したでやんす」 菊乃は、おどけた口調で八橋を煙に巻くと、くるりと向きを変えた。 部屋の入口で、つと、綾錦を振り返る。掛布団を頭から引っかぶった姉女郎の有様を見て、菊乃は、ついつい口元が緩んでくるのを感じていた。 まったく、姉様ったら、しようがないお人だね。だけど、普段の毅然とした様子と違って、今日の姉様は、なんだかやけにかわいらしいな。 その時、布団の中でへたばっていたはずの綾錦がむっくり起き直り、襖の前でにやついていた菊乃に向かって怒声を浴びせた。 「これ、菊乃! 余計なことを考えてないで、とっとと買物に行っておいで」 やれやれ、うちの姉様は、どこまで鋭いんだか。 寝ていたはずの綾錦に、あっさり考え事をしていたのを見抜かれ、菊乃はすっかり胆を冷やしてしまった。 下駄を突っかけて妓楼の外に出ると、昨日ほどは寒くなかった。その代わり、薄墨を流したような陰気な雲が空一面に垂れ込めている。 こりゃ、ひと雨ざーっと来るかな。 空模様を窺いながら、菊乃は、からころと下駄を鳴らして先を急いだ。江 戸町 二丁目の木戸を通り、仲之町 へ出た。まだ昼の四つだから、妓楼の奉公人や棒手振りなどの商売人以外に、人通りはまばらである。 みなと屋は、仲之町の通りから揚屋町 に入ってすぐにある、吉原で一番大きな薬種店だ。 《袖の梅》を買うだけなら、本家の「めうがや」も近くにあった。しかし、菊乃をはじめ、綾錦の部屋の連中は、どちらかといえば、みなと屋を贔屓にしていた。種々の薬の品揃えが良いためだ。 菊乃は、薄暗い店内へ駆け込むなり「《袖の梅》を頂戴」と声を掛けた。 「へい、いらっしゃい」 手代が用足しにでも行ってしまったのか、店の奥で何やら書き物をしていた番頭が、ぬっそりと出てきて応対する。 番頭は、扁平な顔に大きな口の目立つ四十過ぎの男。色の黒い肌が妙にぬらぬらとして脂っぽいところが、鯰によく似ている。菊乃は、密かに番頭を「鯰おやじ」と呼んでいた。 「買い置きがなくなってしまったから、少し多めにね」 店先に並んだ、色とりどりの袋に入った諸国の有名売薬を眺めながら、菊乃は鯰おやじに依頼した。 「《袖の梅》なら、お前さんの目の前の籠にたくさんあるよ」 鯰おやじは、顎をしゃくって、上がり框に腰掛けた菊乃の膝元を差した。 「あっ、ほんとだ」 菊乃が視線を落とした先には、小振りの籠が置かれていて、よく見知った《袖の梅》の外袋が、いくつも重ねて入れてあった。外袋の中には、薬包紙に包まれた頓服薬が、四包だか五包だか入っていたはずだ。 「三袋くらいでよいかな」 鯰おやじは、奇っ怪な風貌に似合わない細くて器用そうな指で、籠の中の袋をつまんだ。 菊乃は素早く、入用な数を勘定した。 「えっと、十袋ももらっておこうかな」 小さな目を見開き、鯰おやじが驚いたような声を出した。 「ほう。十袋も。お前さんの姉女郎のお馴染は、皆、なかなかの酒豪と見えるな」 本当は、姉様が一番たくさん使うんだけどね。菊乃は、胸の内でこっそり反論する。 今日ほどひどくはないにしても、翌日に酒が残ってしまった時、綾錦は必ず《袖の梅》を服用した。 さらに、綾錦は、自分だけでなく、酒を過ごしてしまった客にも飲ませた。 だから《袖の梅》は、せいぜいふた月保 つか保たぬかという早さで消費されてしまう。 とはいえ、廓内の商人に、姉女郎の酒豪ぶりをことさらに喧伝するいわれもない。菊乃は、曖昧な愛想笑いを浮かべて、その場をやり過ごした。 《袖の梅》を十袋と、これも部屋で切らしていた小菊紙を一束ついでに買う。 勘定をしてもらう間、菊乃は、店の中を見回していた。薬屋というところは、普段は目にすることのない物珍しい品物で溢れている。 番頭が座っていた店の奥には、小さな抽斗がたくさん付いた簞笥が据えられていた。おそらく、高価な生薬や漢方薬などが収められ、客の求めに応じて処方するのだろう。 「はいよ、落とさないようにお帰り」 粘りつくような鯰おやじの声で、菊乃は我に返った。 勘定を支払って、みなと屋を出た。 さて、豆腐を買って帰るか。 菊乃は、そのまま揚屋町の通りをぶらぶらと歩き出した。しばらく歩けば「味わい軽ろくして世に並びなし」と謳われる豆腐の山屋がある。 吉原は、どの町でも、通りの裏に入り組んだ路地が見られる。菊乃は、気の向くままに路地へ入っていくのが好きだった。 路地を歩けば、長屋の猫の額ほどの庭に、鉄線が二藍の見事な花を咲かせているのを見つけたり、夏の最中に、どこかの家の軒に下がっている風鈴が、ちりりんと涼しげな音を立てるのを聞いたりできる。 けれども、今日は、二日酔いの重い頭を持て余した綾錦が待っているので、あまり寄り道をするわけにもいかなかった。菊乃は、歩きながら、通りから延びている路地の奥をいちいち覗くだけで我慢していた。 山屋の店先には、かなり手前からでもわかるほどに客が並んでいた。さすが吉原名物と言われるだけあって、遠方から、わざわざ豆腐だけを買いに来る客もいると聞く。 通りを挟んで、山屋の向かいにある小間物屋の軒下に何やら白い塊が落ちている。誰かが、せっかく買ったばかりの豆腐を落としてしまったと見える。 そのままにしておくと、小間物屋の商売の邪魔になるかもしれない。 菊乃が、小間物屋の店番に注進に行こうとした、まさにその時だった。 動くはずのない豆腐に手足が生え、不恰好な足取りで、よろよろと動き出したのだ。 「あっ! ゆき」 てっきり、落として崩れてしまった豆腐だと思っていた白い塊は、綾錦の部屋で飼っている白猫だった。二日酔いの綾錦の介抱に人手が必要だった。ゆきが部屋から出ていったのに誰も気づいていなかった。 菊乃は「ゆき、こっちにおいで」と、手を差し出しながら、猫に近づいた。 近づいてくる菊乃に寄っていくと見せかけて、ゆきは、さっと身を翻すと逆の方向へ走り出した。どうやらまだ外遊びが足りないらしい。 「待てえ」 菊乃は、薬の包みを落とさぬよう、しっかり小脇に抱え、地面を蹴って駆け出した。 相手はびっこの猫だから、難なく追いつくはずだと高をくくっていたら、意外や意外、ゆきは予想だにしない速さで、菊乃が入ってきたのとは反対側に位置する木戸から出ていってしまった。菊乃も負けじと足を速める。 ゆきのやつ、どこへ行くんだろう。 ゆきがこんなに遠くまで遊びに来ているとは、菊乃は想像もしていなかった。 菊乃が木戸を抜けた時、はるか前方の路地を走っていたゆきが、忽然と姿を消した。慌てて、ゆきが通った、人がすれ違えば一杯になってしまいそうな細い路地に入る。 ぜいぜい、はあはあ、息を切らして走り、菊乃は、ゆきが消えた付近までようやくたどり着いた。 おやまあ、ずいぶんと、まずいところに来ちゃったね。 猫を捜すのに夢中で、どこを走っているのか思い及ばなかったが、菊乃がやって来たのは、西河岸の一角だった。鉄漿溝 沿いにある西河岸は、小見世や切見世が軒を連ねて営業する場所だ。 五丁町を挟んで向こう側の東河岸で「いったん客の腕を摑んだら、斬られたって離さない」と言われる、通称、羅生門河岸ほど乱暴な客引きは、西河岸にはいない。 とはいえ、路地の奥では、一棟をいくつもの部屋に仕切った長屋に、最下級の女郎がひしめいて、一ト切、百文で客を取っていた。 河岸見世の、特に、切見世の女郎は、容色が衰えて中見世や小見世に出られなくなったり、病気に罹っていたりする女が多かった。 また、客層も、柄の悪い職人や、博徒、与太者などが主で、河岸見世の周辺は殺伐として、荒んだ雰囲気に満ちていた。だから菊乃は、姉女郎から、河岸見世には絶対に足を踏み入れてはいけないと、きつく言い渡されていた。 それにしても、丁子屋の周りしかうろついていなかったゆきが、何ゆえに、こんな廓の端っこに潜んでいたのか。 揚屋町の周辺は商いをする店も多い。もしかすると、魚の骨などのお零 れにありつくことができて、お高くとまった江戸町よりは過ごしやすいのかもしれない。 さて、どうしたものか。 せっかく捜していたゆきを見つけたのに、見失ったまま、すごすごと妓楼に戻るのは、なんだかとても悔しい。 菊乃は、姉女郎の忠告を思い出さなかったことにして、周囲の様子に気を配りながら、さらに路地の奥を目指して歩を進めた。 「何をしてるんだい」 どこからか声を掛けられ、菊乃は、襟首を摑んで引き戻されたように立ち止まった。 声のする方角を振り返ると、路地に面した長屋の、間口四尺ほどの部屋の戸口が開いていた。その戸口の内の上がり框に、安っぽい簪を挿した女が、爪楊枝をくわえた姿でぺったりと座っていた。 女は、色褪せた四菱模様の小袖を着て、襟元をだらしなくはだけていた。化粧っけのない顔は黒ずみ、肌もかさかさしているので、三十を相当に過ぎた年増に見えるが、実際はもっと若いのかもしれない。 まさか、初めて足を踏み入れた場所で呼び止められるとは予想もしていなかったので、菊乃はしばらくその場に立ち尽くし、声を掛けた女を、ぼーっと見ていた。 「あんた、ここで働きたいのかい?」 身の程以上の重荷を背負っているような気だるい口調で、女が、再び菊乃に問いかけた。菊乃の風体から、自分と違う匂いを嗅ぎ取ったのだろう。菊乃の頭のてっぺんから足の爪先までを無遠慮に眺め回し、ふふん、と鼻でせせら笑った。 「あっ、いや、そういうわけじゃ」 菊乃は、慌てふためいて、女の質問に否定の意を示した。 切見世が並ぶ路地は、蛇がうじゃうじゃ巣くっているような、生臭さと湿っぽさに満ちている。 自分の住むところからさほど離れていないのに、西河岸と江戸町二丁目とでは、景色も、そこに暮らす住人も、まったく異なっていた。 菊乃は、今さらながら、狭い廓の中にも歴然とした身分差があることに気づき、愕然とした思いに囚われていた。 「ひっひっ、いいおべべだねえ。その綺麗な顔でここに座ってたら、そりゃあ、お客は引きも切らないだろうよ。ねえ、ちょっとこっちへお入りよ」 女が、気味の悪い猫なで声で、へらあへらあと手招きをする。 菊乃は、ぞよぞよと総毛立つのを感じながら「いや、結構です」と後ずさりをした。女が框から下りてきて腕を引っ張るんじゃないかと、懸念で胸の鼓動が速くなる。 だが、女は足が不自由と見えて、それ以上、深追いはしてこなかった。 相手が素早く動けないと知ると、菊乃は俄然、勇気を取り戻した。女が、ずっと上がり框から外の様子を窺っていたとしたら、ゆきの消息を知っているかもしれない。 「白い猫がこの道を通ったのを、姉さんは見た?」 菊乃はできるだけ戸口に近づき、いくばくかの銭を土間に置くと、恐る恐る女に訊ねた。 女は上半身を伸ばし、目にも留まらぬ速さで土間の銭を摑むと、へへっと卑屈な笑いを浮かべた。 「猫? ああ、わちきみたいに足の悪い、あの不細工な猫のことかい。それなら三つ先の家に入っていったよ」 女の家を後にし、菊乃は、教えられたとおりに三つ先の家の前に立った。 戸が閉まったままだったが、切見世ではなく、ただの住居のようだった。共同の厠が近くにあるのか、肥の臭いがあたり一面に漂っている。 「ゆき、ゆき」 菊乃は何度も猫の名を呼んだが、周囲に生き物の気配は感じられない。住人が在宅しているかと、思いきって戸を叩いてもみたが、うんともすんとも返事はなかった。 猫も人も不在ならば、致し方ない。ほっつき歩くゆきをまた探しに来られるように、菊乃は戸口の板戸に付いた大きな傷と周囲の景色をしっかりと目に焼き付けた。 額に、ぽつん、と雨粒が当たった。見上げれば、空はいよいよ顔を曇らせ、今にも泣き出しそうになっていた。 (続く)
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