蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章 風花千里
第七章 森田屋の苦悩 「これはこれは、花魁。旦那様がお待ちですよ」 引手茶屋、枡屋の女房のお久が、相好を崩して綾錦の一行を出迎えた。お久の背後には、これまた商売気たっぷりに顔を綻ばせた亭主の喜之助が控えている。 枡屋の入口の柱には、屋号が書かれた掛行灯が掛かっているが、まだ八つ半という時刻ゆえに灯は入っていなかった。入口の脇に吊られ、棒で内から外へ突き出した青簾が、折からの寒風にゆらゆらと揺れている。 「遅くなりいした」 お久に声を掛けられ、綾錦は《ますや》と染め抜いた軒暖簾をくぐって、茶屋の中に入った。菊乃、歌乃、初糸、八橋が綾錦の後に続く。 一行に付き添ってきた妓楼の若い衆 が、「それじゃ、あっしはこれで」と、茶屋を出ていった。花魁道中をしてきたわけではないから、今日はお滝もいないし、長柄傘を持った男も従っていなかった。 土間で履物を脱ぐと、一行はお久の案内で二階の座敷に導かれた。一階にも座敷はあったが、二階のほうがより静かで落ち着けるからだった。 お久が二階へ通ずる階段を二、三段上り、振り返った。綾錦に手を差し伸べている。 「今日はもう一人お客様がお見えになるそうです。ささっ、早くお二階へ」 急き立てるお久に対し、綾錦は、公家の姫君のごとく瞼を閉じただけで肯定の意を示した。それから、急いては事を仕損じるとばかりに、ゆったりとした足取りで階段を上っていった。 二階にある二十畳ほどの座敷の襖が、開けっ放しになっている。 「おお、寒い中、よう来たな」 その襖の陰から顔を覗かせたのは、ほかでもない、西村屋喜八。 古渡唐桟の小袖に千歳茶の羽織は、還暦間近とは思えぬ若々しい出で立ちだ。 さすがに鬢は白く、顔には深い皺が刻まれているが、益軒先生の言う「気を減らす」ことを努めて避けているから、高僧のごとく晴れやかで柔和な容貌であった。 「あれ、旦那様、お出迎えありがとうございんす」 座敷へ入ると、綾錦は、優々と小首を傾げて挨拶をした。 今日の綾錦の衣裳は、一見したところは、地味である。濃藍の仕掛けには、降りしきる雪のように細かい銀糸の刺繡。何枚か重ねた小袖も、茶の細い縞柄や薄柿の飛柄模様で、ようやく一番下に小豆色の総鹿の子絞りがわずかに見えるだけ。 だが、表着が控えめであるからこそ、裏着が引き立って見えるわけで、ほんの少し覗かせただけの鹿の子絞りの小豆色と帯揚げの紅柄色が、ひときわ人の目を引いているのは間違いなかった。 近頃はお上の規制もあり、何事につけても質素にという風潮がある。町なかでは当然のこと、遊里であるここ吉原にも、少しずつだが倹約の波は押し寄せていた。 綾錦も、今日のような昼からの宴の場合や普段着として着る着物などは、表向きだけでも控えめな装いを心がけていた。 しばらく綾錦に見惚れていた西村屋は、花魁の小袖に自分と同じ古渡唐桟の縞模様を見つけ、嬉しそうに顔を綻ばせた。 西村屋の好みそうな小袖の柄を選んで着ているのは、もちろん綾錦の手管の一つで、馴染の客への愛想だった。 「旦那様、美しい花魁をたんと眺めるのも長生きには必要なことかもしれませんが、ここは風が吹き込んで寒いです。花魁に、ひとまず中に入ってもらったらいかがでしょう」 と、西村屋に一声を掛けたのが、番頭新造の八橋。綾錦に風邪でも引かせたら後で内所からお小言を食らう。番新たるもの、花魁の体調管理に一切ぬかりはない。 西村屋は照れくさそうに顔を手でひと撫ですると、綾錦を上座へと誘った。菊乃や歌乃もついていって、姉女郎のそばに座る。 「あら? もう一人お客様が見えると聞きいしたけど」 綾錦の後ろに控えた白梅が、広々とした座敷を見渡す。そういえば、宴の席だというのに、客人はおろか芸者も幇間もいない。 「ああ、そろそろやって来る頃だが……、お久、まだ見えないか?」 廊下で座敷に入る花魁を見守っていたお久を、西村屋が振り返る。 「そうでございますね。八つ半にはお着きになるという話でしたが……、あっ、階下で話し声がしております。わちきが見てまいりましょう」 お久は慌てて立ち上がると、急ぎ足で階段を下りていく。大切な贔屓の招いた客人である。とにもかくにも、粗相のないように扱わねばならない。 そもそも引手茶屋は、客と女郎との間を取り持つ場所で、綾錦のような呼出しを指名する際、客は引手茶屋を通さねば会うことさえもかなわない。茶屋の若い者が妓楼との間を往復し、都合がつけば、道中をして花魁が茶屋へやって来る。引手茶屋で宴を催した後、再び花魁と一緒に道中をしてようやく妓楼へたどり着けるという具合だ。 ところが、今日の西村屋の座敷は少し勝手が違うらしい。妓楼にやってきた枡屋の使いの話では、西村屋は綾錦に何か大切な話があるという。そのために、今日一日綾錦を買い切っていた。 道理で御膳が出てないと思った。 二階の静けさに首を傾げながら、菊乃は呟いた。 普段なら、花魁が到着すると同時に店の者が蝶足膳を掲げ、宴の用意を始める。だが、今日は、銚子の一本も運んでくる気配がない。おそらく人払いがなされているのだ。 階下で、お久が話す声がする。 一座が聞き耳を立てていると、そのうち階段を上ってくる複数の足音がした。 襖が開いて、お久が顔を覗かせた。 「お客様がお見えになりました」 お久は座敷の面々に挨拶をすると、背後を見遣った。誘ってきた客人を座敷へと促しているらしい。 お久の後ろから、小柄な男が姿を現した。紺地に赤の唐桟の着物に、湊鼠の羽織を着込んでいる。 西村屋が、如才ない調子で男を迎えた。 「これは、森田屋の旦那、ようこそおいでなすった」 森田屋又兵衛。芙蓉と馴染んでいた、神田青物問屋の主人である 綾錦以外の女たちは、男の姿を見て、はっと息を吞んだ。まだ芙蓉が死んで数日しか経っていないのに、なぜ、綾錦の座敷に現れたのか。皆の視線が森田屋に集まったのも、当然のなりゆきだった。 「今日は西村屋さんのご好意で、お呼びいただきまして」 森田屋が、恐縮したように頭を下げた。実直そうだが、廓慣れしている西村屋と比べると、少しばかり野暮ったい感は否めない。 森田屋は、年の頃、四十に少し足りないくらいか。店は、神田の青物問屋の中でも一、二を争う大店 。森田屋は一代で莫大な身代を築いていた。 先年、妻を亡くし、その寂しさを紛らわすために、廓へ通うようになったと聞く。ここ一年は芙蓉のもとに通い詰め、羽振りの良いお大尽として、妓楼内外の評判となっていた。 だが、女たちが驚いたのは、森田屋の登場が突然だったという理由だけではない。綾錦を除く女たちの視線が、どこで留まれば角が立たないかを計っているかのように、宙をうろうろ彷徨っている。 芙蓉さんの自害のわけは、案外、森田屋さんの顔にあったりして。 菊乃もまた、視線をあっちこっちに泳がせながら、不埒なことを考えていた。 森田屋の顔には、一面にあばたが残っている。 菊乃は一度、森田屋と妓楼の廊下ですれ違ったことがある。だが、取り巻き衆の賑やかさに目を奪われていたので、森田屋の顔に、こんなにひどいあばたがあるとは、まったく気づかなかった。 「あばたもえくぼ」と言うけれど、それにしても森田屋ほど大量で大粒になると、とてもえくぼには見えない。 森田屋は芙蓉の身請けを考えていたらしいが、いくら最上位の花魁といえど、おいそれと断ることはできなかった。だから、改めて森田屋の容姿をとくと見ると、身請けを望まぬ芙蓉が世をはかなみ、自ら命を断ったとしても、あながち不思議な話ではないと、菊乃は思った。 「あの、少し早すぎたでしょうか」 場のぎこちない雰囲気に気圧されたか、森田屋が小さな声で西村屋に訊ねた。外見に似合わず、森田屋の声は千両役者のように玲瓏として艶っぽい。 「いやいや、決して、そんなことはないぞよ」 西村屋が、森田屋の緊張をほぐすような軽い調子で答えた。 すると、森田屋は安堵の表情を浮かべ、部屋の隅で折っていた膝をずいっと進めた。 「西村屋さんには、このような場を設けていただき、かたじけない。実は、芙蓉のことで、こちらの花魁にお訊ねしたいことがあるんです。だが、敵娼 が死んだばかりなのに、のこのこと丁子屋に登楼するわけにもいかず、ほとほと困っていたところを、旦那に声を掛けてもらいまして」 お安いご用とでもいうように、西村屋が鷹揚に頷いた。 「人づてに森田屋さんが困っていることを聞いて、枡屋なら花魁に引き合わせることができると思ったんじゃ」 「して、わっちに話したいこととは、なんですかえ?」 綾錦が、引き締まった面差しを、真正面に座る森田屋へと向けた。 森田屋は話し始めようとして、「けほっ」と軽く咳払いをした。全盛の花魁に正面から見つめられて、息と一緒に唾を飲み込んでしまったと見える。 綾錦は芙蓉とともに、廓で一、二を争う花魁である。芙蓉とは容姿も性格も異なるが、どちらも男の心を魅了してやまない女であることは、間違いない。 森田屋は自らの気を落ち着かせようと、しばらく俯いていた。が、やがて意を決したのか、ぱっと顔を上げた。 「私が初めて丁子屋に登楼したのは、昨夏のことです。八朔の際に、仲之町 で芙蓉の道中を見たことがきっかけでした」 森田屋は、当時を思い出しているのか、うっとりと、夢見心地の表情だ。 吉原では、八月朔日に、まばゆいばかりの白無垢の小袖を着て、花魁が道中をする習慣がある。暦の上では秋といえ、まだ暑い盛りに、白い涼しげな衣裳で仲之町を練り歩く花魁たちの姿は、いやがおうでも大勢の人目を引いた。 「白無垢を着た芙蓉はまさしく天女のようでした。そのはかなげな美しさが忘れられず、一刻も早く芙蓉に会いたくなった私は、つてを頼って、登楼する手はずをつけたんです」 芙蓉ほどの呼出しになると、見初めたが即登楼というわけにはいかない。それでなくても、芙蓉には多くの馴染がいた。馴染との約束を後回しにさせてまで花魁と会うには、煩雑な手続きと莫大な金が要っただろう。 「丁子屋の引付座敷で、初めて芙蓉を前にした時の私の胸の高鳴りときたら、もう十七、八の青年のようでした。凛として上座に座っている芙蓉が、時折、私をふっと見遣る流し目の可憐なこと。盃を傾けながら、私の手が小刻みに震えていたのを、今でもはっきり覚えています。正直に申し上げると、死んだ妻にだって、そんなときめきを覚えたことは一切ありません」 頬を上気させながら打ち明ける森田屋を前に、西村屋は、我が身にも覚えありといった風情で、にやついている。 綾錦は、年は行っているが心はまったくうぶな森田屋を、いたわるような調子で訊ねた。 「旦那様が、芙蓉さんを身請けするという話を、ちらりと聞きいしたが……」 「ええ、そうです。いえね、私は、この容貌でしょう? 花魁に袖にされたあばた面が、廓の人間を斬りまくった大昔の事件じゃないが、袖にされるのも覚悟のうちだったんですよ。それに、初めのうちは芙蓉も、とんと冷たかった。一晩中、床の中で悶々と待っていることだってありましたよ。ですがね、驚いたことに、しばらく通ううちに、少しずつ私に馴染んでくれるようになったんですよ。しかも、近頃は、芙蓉のほうから、旦那様にずっと添いたいなどと言い出した。惚れた女にそこまで言われちゃ、男たるもの、捨て置くわけにはいきません」 森田屋は、きっぱりと言い切った。小柄で優しげな男だが、案外きっぱりと芯の強いところがあるようだ。 「それじゃ、芙蓉さんは、もう身請けされるつもりでいたんじゃな」 西村屋が確認するように、森田屋の目を覗き込んだ。 「はい。身請けは、女郎の一存で断ることはできないと聞いています。だから、芙蓉が自害をしたと聞いた時、やはり私の、この醜い器量が嫌で死んだに違いないと思いました」 森田屋は、込み上げてくる苦いものを飲み下すかのようなくぐもった声で言った。と同時に、視線をそっと畳に落とす。 「ところが、芙蓉さんの死骸を検 めた西村屋さんからの手紙で、芙蓉の体には一面に斑点が出ていたことを知りました。石見銀山を飲まされていたそうですね」 森田屋の強い視線に、座の女たちは一斉に頷いた。 「西村屋さんから斑点の話を聞いて、私には思い当たるところがありました」 森田屋は、昔の記憶をたどるような面持ちで話を続けた。 「三月ほど前からでしょうか。行灯の火を消して、部屋を真っ暗にしないと、芙蓉は床入りを拒むようになったんです。考えてみれば、変でしょう? 初会で床入りが恥ずかしいという、女郎になりたてならともかく、ですよ。私との馴染だって一年近くある上に、芙蓉は呼出しの花魁です。恥ずかしいなんてことはありえないでしょう?」 「おや。では、森田屋さんは、芙蓉さんの頼みを聞き入れなかったのか」 西村屋が、ひょいと首を傾げた。 商売人と客とでは、普通に考えれば、金を払っている客のほうが立場は上。だが、これが女郎と客という関係に限っては、断然、女郎のほうが上である。 また、呼出しの花魁ともなると、相当にわがままな女郎も多い。怒らせたら、次からは袖にされて、会ってもらえなくなる。だから、いくら金子をばらまくお大尽といえど、呼出しに逆らえるほどのつわものは、ほとんどいないと言ってよかった。 「私は、二人きりになった時に見せる芙蓉の表情が好きだったので、暗闇で花魁の顔が見られないのは嫌だと、いったんは文句を言いました。ですが、どうしても、と強く迫られると、そこは惚れた弱みというやつで……。結局、芙蓉の頼みを承諾しました。でもね、灯を消してからのほうが、芙蓉の情が深くなった気がするんですよ。こう、すがりついてくるような仕草がたまらないほど愛しくて。やっぱり闇の中で私のあばた面が見えないほうがいいんだろうな、と自嘲したくらいなんですが、今にして思えば、その頃から、芙蓉の体には斑点が出ていたんでしょうな」 森田屋は唇を嚙み締めて下を向き、悔やんでいるような、嘆いているような、深い深い溜め息をついた。 「ああ、体がまだらになろうが、腕が一本なかろうが、芙蓉が、終生、私のそばにいてくれれば、何も要らなかったのに。かわいそうな芙蓉……私がもっと早く異変に気づいてやれれば、死ななくてよかったものを」 がっくりと落とした森田屋の肩が、小刻みに揺れているのがわかる。堪えきれず、ぽたぽたと零 れた涙が、畳の上にいくつもの染みを残している。 西村屋は、いたわるように森田屋の肩に手を置いた。 「話を聞いて、儂 は、やはり芙蓉さんの客だった知人に訊ねてみたのじゃ。芙蓉さんは、このところ灯を消さなければ客の相手をしなかったと、その知人も言っておった。ところで、森田屋さんは、花魁に毒を盛ったやつが誰だか、見当はついているのかな」 「いや、だからこそ花魁に訊きたいんです。花魁、生前の芙蓉を恨んでいた者はいなかったんですか?」 森田屋は、いまだ湿り気を帯びた声で綾錦に問うた。 森田屋のしっとりと涙に濡れた眼で見据えられ、綾錦は動揺したような表情を浮かべた。 綾錦の心の内を察したかのように、森田屋は慌てて言い添えた。 「どうか、私に気を使わないでください。これから花魁が仰ることは、おそらく私にとって心地よい話ではありますまい。ですが、私は、知らぬ間に毒を盛られて体を蝕まれ、自害せざるをえなくなった芙蓉の仇を取ってやりたい。それには、なぜ、芙蓉が毒を盛られるまでに憎まれたのかを、知る必要があるんです」 綾錦は、しばらく自分の考えに耽っているようだったが、やがて「わかりいした」と小さく頷いた。 「芙蓉さんは、才気に溢れたお方でありいした。わっちは、新造時代からしか存じんせんが、芙蓉さんは、芸事によく励んでいて、目端がよく利くたちでありいした。妓楼の覚えも、とても良かったように思いいす。ただ、望みのためには手段を選ばないお人で、座敷持ちになってからは、ちとお変わりあそばした。目の上のたんこぶと言うんでありんしょうか。出世の邪魔になりそうな花魁たちには、策を弄して嫌がらせをしていたと聞いた覚えがありいす」 綾錦は着物の襟を直す振りをしながら、目立たぬよう、新造や禿 に目配せをした。犯人の特定はできなかったが、実際に綾錦自身も何者かの嫌がらせを受けている。その嫌がらせの件は、この場で漏らすな、と綾錦は釘を刺したいらしい。 菊乃も歌乃も、さりげなく首を縦に振った。 「それは、どんな嫌がらせだったんですか?」 森田屋が、顔を強張らせて訊ねた。本音を言えば、耳を塞ぎたいくらいの心境なのであろう。なのに、両の拳を握り締め、気丈に振舞っている。 「わっちも、人づてに聞いただけでありいす。それでも、よろしいでありいすか」 森田屋が無言で頷くのを見て、綾錦は話を続けた。 「ほかの花魁がお馴染から頂戴した櫛や簪を、こっそり盗み出しては、そのお馴染が登楼した時に、わざと手水場のあたりに落としておくのでありいす。おそらく、手飼いの禿を丸め込んで、やらせたのでありんしょう」 敵娼に贈った豪華な櫛や簪が妓楼の厠に落ちていれば、いくらのん気なお大尽でも、いい気はしない。それも、一回ならず二回、三回と続けば、客は敵娼をだらしのない女と思うのも無理はなかった。 芙蓉が実行したと噂される嫌がらせで、花魁と客との仲がしっくりいかなくなった例は、枚挙に暇がなかった。 新造時代には、姉女郎の名代で出た座敷で、芙蓉は、ちょっと聞いただけでは謗りとわからぬように、朋輩の悪口を客に吹き込んだ。同時に、自分がその客にどれほど好意を持っているかを、さまざまな手練手管を用いて訴えたらしい。 芙蓉の仕打ちで何人もの客に振られ、失望のあまり気を病んでしまった花魁も、一人や二人ではなかった。 打ち明けにくい話であるからか、綾錦は、初糸に煙草の火をつけさせると、気を紛らわすように喫い、ふうっと煙を吐き出した。 綾錦が手にしているのは、妓楼で使う長煙管ではなく、細くて短い女物の煙管だった。羅宇には瀟洒な蒔絵が施され、季節の花である石蕗が、控えめに金色の花弁を見せていた。 「そういえば、あの女郎はなんといったか? おう、そうそう、葵という呼出しが丁子屋には、おったじゃろ」 健康のために煙草を嗜まぬ西村屋が、手持ち無沙汰を紛らわすように腕を組んだ。 「葵さんという花魁がいたという話は、聞いたことがありいす。ただ、葵さんが呼出しであったのは、おそらく、わっちが丁子屋に入る少し前。わっちが妓楼に来た時には、すでに年季が明けていたか、あるいは落 籍 されていたかで、もういなかったでありいす」 綾錦が、丁子屋へ売られてきたのは十二歳。禿になるには、ぎりぎりの年齢であった。 綾錦の説明を聞き、西村屋は、得心した様子で「そうか」と呟いた。 「もう十年も前の話だからな。では、その葵が、妓楼の二階の廊下で転んだ事件は、もちろん知らぬな。儂は、たまたまその場に居合わせておったので、よく覚えている。あの夜、葵が宴席から部屋に戻ってきた時、自分の部屋の前で足を滑らせた。廊下には、一面にべったりと蠟が塗り込められていて、葵は、蠟に足を取られて転倒したのじゃな。もちろん、転んだのは葵だけじゃなく、お付きの新造や禿も一緒だった。だが、不運なことに、葵はその時、相当に酔うておったのじゃ。とっさに体の自由が利かず、激しく腰を打った。葵は、もともと蒲柳 の質で、年がら年中、廓と下谷にある丁子屋の寮とを行ったり来たりしていたくらいだから、転倒の一件で、すっかり体を悪くしてしまったようじゃ。事件以後、儂は、廓で葵の姿を見かけたことはない」 「では、廊下に蠟を塗ったのは、芙蓉さんだったと仰るのでありいすか?」 「はっきりとは、わからん。ただ、当時、芙蓉が疑われたことだけは確かだ。その事件の際、芙蓉は引込禿だったが、引込になる前は、葵付きの禿。芙蓉には、葵にいじめられていたという動機に加えて、おいそれとは手に入らない、高価な蠟燭を持っていた、という証拠があったのじゃ」 よほど強い印象があったと見えて、西村屋の話には、まったく淀みがなかった。 ただ廓遊びをしているだけでは、まず絶対に窺い知ることのできぬ、女郎たちの陰湿な舞台裏の攻防を聞き知って、森田屋の顔は蒼白になっていた。 「証拠があったのでは、芙蓉さんも、しらを切るわけにはいかなかったでありんしょう」 綾錦が、西村屋の目をじっと覗き込んだ。 「それがな、芙蓉は、蠟燭は自分のところにあってしかるべきもの、と堂々と言ってのけたのじゃ。引込禿は芸事に忙しい。芙蓉は書道が得意だったが、よく聞いてみれば、深夜、好きな書の稽古をするのに、内儀から蠟燭を使ってよいと許しを得ていたらしい。すると、それまで、悪戯は芙蓉の仕業に違いないと息巻いていた内儀が、掌を返したように『そういえば、忘れていたが、確かに許した覚えがある』などと言い出したのじゃ」 ゆくゆくは葵を陥れるために、蠟燭の使用許可を得ていたのだとしたら、芙蓉は大した策士である。 「しかし、廊下に蠟を塗ったのなら、蠟燭は不自然な減り方をしていたでありんしょう」 綾錦は、池に小石を放るごとく座の中に疑問を投げかけた。 「それが、芙蓉の近辺にあったのは真新しい蠟燭ばかりで、使いかけの蠟燭は、ただの一本もなかったのじゃ」 西村屋の話は、漣のように座の連中に染み渡った。 廊下に蠟を塗るのなら、使った蠟燭には表面にこすったような跡が付くはずだ。 だが、証拠となりそうな跡を消したいと思えば、それは容易 いこと。塗った後、わずかに残った蠟燭を、すべて燃やしてしまえばいい。 「では、証拠不十分ということで、芙蓉は咎めを受けることはなかったんですね」 今の今まで、動揺を抑え込んで森田屋が、ほっと解放されたように重い口を開いた。 「そういうことじゃ。しかしそれでも、葵の転倒事件を知っている者は、誰でも蠟を塗ったのは芙蓉だと思ったことだろう。まだ幼くはあったが、出世のためならば手を汚すことも厭わない、という意志の強さが、あの女にはあったのじゃ。もちろん、嫌がらせは褒められたものではない。だが、そこはほれ、女子 ばかりの廓のこと、どこの妓楼でも、女郎同士の諍いは絶えぬでな。呼出しとはいえ、すでに葵は薹が立っていた。丁子屋側としては、芙蓉の悪事には目をつぶって、役に立たなくなった葵を追い出し、将来の呼出し候補として芙蓉を仕込む決心を、その時いよいよ固めたのかもしれん」 複雑な廓の損得勘定は、長く通っている西村屋だからこそわかる話であった。 「禿の頃から人の恨みを買っていたとすると、わっちが知っている以上に、芙蓉さんを快く思わない人が、いるかもしれないでありいすね」 綾錦が、浮かぬ顔をして西村屋に訊ねる。西村屋は、白いものの目立つ太い眉を、大げさに上下させて答えた。 「まあ、葵の件は大昔のことだ。とはいえ、芙蓉が花魁になった後も、人の目の届かぬところで、ちょこちょこと謀 を巡らしていたとしたら、そりゃ、事と次第によっては、丁子屋の女郎のほとんどを敵に回していたかもしれんな」 「そうですか……、芙蓉が死んでからこの方、正直言って、私の耳には悪い噂しか入ってきませんでした。私と芙蓉を知る者は、皆口を揃えて、あんな性悪女のことは忘れて気立てのいい女を迎えろと言う。芙蓉の手練手管で醜男 がいいように操られていただけだってね。ですがね、性悪女だとしても、死ぬ間際の芙蓉は間違いなく私を求めていたと思うんです。はは、そんな考え、おかしいですか? でもね、このままでは何も知らずに命を絶った芙蓉が、私にゃあんまりに哀れで……」 森田屋は、今度は涙を流さなかった。それどころか、奥歯をぎっと嚙み締め、芙蓉を窮地に陥れた犯人を、必ずや捕まえてやる、といった決意に満ちていた。 不祥事を聞かされてもなお惚れた女の仇を取りたいという森田屋のあばた面を、綾錦はしばらくの間、穴の開くほど見つめていた。やがて腹を決めたという表情で口を開いた。 「たとえ、誰かが芙蓉さんの茶や飯に毒を盛っていたとしても、もう毒を入れた痕跡はどこを探してもありいせん。芙蓉さんの部屋から、石見銀山が見つかった話も聞きいせん。それでも犯人を捜したいと言うなら、わっちが力をお貸しするざんす。あちこちでそれとなく訊いてみんしょう。何かわかることがあるかもしれんせん。いや、わっちだけじゃない、ここにいるのは気働きができる者たちばかり、おそらく一肌も、二肌も脱いでくれるはずでありいす」 綾錦に目で合図されて、菊乃は急いで肯定の意を示した。 これは、急に面白くなってきたじゃないの。 菊乃は、胸の奥で暴れ回る期待という名の衝動を、抑えるのに苦労していた。 「花魁、ありがとうございます。これで犯人を明るみに出すことができれば、芙蓉も浮かばれることでしょう」 森田屋は微かに笑みを浮かべると、しんみりとした調子で礼を述べた。 「よおし、芙蓉さんの冥福を祈って宴にするとしようか。森田屋さんも塞いでばかりじゃ、あの世で花魁が心配するわい。今日は何もかも忘れて楽しく騒ぎましょうや」 森田屋の肩を抱くようにして、西村屋が宴の開始を告げた。 (続く)
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