曼荼羅風 齋藤幹夫
――其之弐 火事むすこ―― 「おとっつあんとおまえのうわさばかりし てるんだよ……『こうやって身代はのびる ばかりだが、これをゆずるものもない。ど うかあれがまともになってくれれば、この 身代はすっかりゆずってやるんだが……ま あ、どうしているのか? かわったことは ないか? それとも死んじまったか?』と、 いって、いつもおとっつあんとうわさばか り……おまえが火事が好きだから、どうか 世間に大火事があってくれれば会えるんだ がと……」 古典落語「火事むすこ」より 鱸の刺身をつまみながら、八つぁん、こと八つ田さんの「火事は冬の風物詩だ。この梅雨が明けたばかりの時節にゃあ暇を持て余しちまって、消防士も干上がっちまうだろうに」と云う大声が、曼荼羅風の暖簾を潜ると同時に私の耳に飛び込んできた。 「お前はいつまでたっても莫迦が治んねぇな。いつまで莫迦をこじらせてんだ。火事なんざ年がら年中起きてらい。消防の連中は夏場、冷房の効いた部屋で鼻糞ほじってるわけじゃねぇぞ。来る日も来る日も、うぅうぅ、うぅうぅ云いながら赤 ぇ車が走ってるじゃねぇか。出動の無ぇ時は訓練やら色々とあんだよ。この蛸八が」 そう云う熊さんこと熊澤さんの右隣に腰を下し、取り敢えずの麦酒を頼む。普段は上がり框に陣取っている二人だが付場の前にくっ付いた長卓に二人並んで坐っているところを見ると、そちらには先客がいたに違いない。麦酒で咽喉を潤し、突き出しの赤貝煮をつまみ、暑くなって来たとかの大将のお愛想に相槌を打ちながらも、私の耳は熊さん八つぁんの二人の会話のほうに釘付けである。 「うぅ、うぅなんて産気づいたような消防車なんか生まれてこのかた見たこたぁねぇよ。要は手前ぇん家 の甚六が陸 でもねぇってこった。そんな倅に代を譲る手前ぇが悪 ぃ。代表取締役会長って面 か手前ぇが。大企業じゃあるめぇし、たかだか町の工務店じゃねぇか。社長の座を倅に譲ったんなら、つべこべ云わず潔くしやがれ」 「なにをこのぉ。大 かろうが小さかろうが社長の上が会長だ。俺の眼の黒いうちは、倅の好きなようにはさせねぇ。俺が立ち上げた店だい。信用がた落ちだ。危うく店ぇ潰されるところだった」 大将がこっそり経緯 を教えてくれた。熊さんはこの町で昔から工務店を営んでおり、代表取締役会長だそうだ。現社長と云うのは熊さんの長男で数年前に代替わりをした。長男の社長は若い時からこの町の消防団に入っており、今でも世話役をやっている。先週、その消防団が、地元の消防署から長年の協力と功績を表彰され、その夜は当然のように寄合いがもたれ大宴会となった。翌日社長は御多分に漏れず宿酔 。全身が澱のような状態で仕事には出たが、部材の寸法が誤っているのに気付かず発注する始末。本日それが現場にて発覚し勿論工事は中止。改めて部材の発注をし直すので工期は延長。施主は近所の老夫婦で施工個所は風呂場。工期は延長となったから当然その間風呂場は使えない。熊さんはお詫びの品をぶら下げて、近所のスーパー銭湯の回数券とお車代、おまけにスーパー銭湯で使えるお食事券も持参して頭を下げに行った。至れり尽くせりの熊さんに却って恐縮した老夫婦に「頂き物ですが、二人では食べきれませんので」と白桃を土産に持たされ、恐縮のお返しになったと云う。工期延長となれば当然次の現場にも影響が出る。そこの依頼は端 から無かった事にして、知り合いの同業に頭を下げ、請けてくれと頼み込んだ。先方も熊澤さんには世話になっているから下請けとしてやらせて頂くと、面目無い借りまでつくってしまったとか。熊さんは今日一日、事後処理に追われ、曼荼羅風に寄って漸く一息ついたらしい。そう云えばいつもの軽装ではなく、上着は脱いでいるが背広姿である。そこに後から来た八つぁんが合流し、このような状況と相成った次第。上がり框に先客がいたと云うのは私の一人合点であった。 「消防団と若社長。火消しと若旦那と云えば『火事息子』ですねぇ。ああ『火事息子』と云う噺はですね――」 大将、きょとんとしている私に粗筋を語り出した。 神田の質屋、伊勢屋の若旦那藤三郎は無類の火事好き。本人は町火消しの鳶になりたいのだが、若旦那という立場があり、本職達も、親父さんからの御触れ、廻状もあって相手にしないときている。それでも藤三郎は、背中一面に唐獅子牡丹の刺青 までほどこして鳶職気取。近所の店 の同じ年頃の若旦那は世事も礼節を弁えているのに、藤三郎は火事を求めて家に寄りつかず、臥煙の仲間入りしようと云う噂まである。世間体もあり、勘当同様、家への出入り差し止め。本人はこれ幸いとばかりにどこかへ行方をくらました。ある年の十一月の深夜、伊勢屋の近所で火事が起こる。こんな時に人様の品を預かる質屋の蔵が目塗りもしてないと云うのは暖簾にかかわるから「ちょいと目塗りをしておくれでないか」と親父さんは番頭に頼む。当の番頭は算盤弾くのが仕事。いきなり左官の真似事などできるはずもない。そこへ「体中彫りものだらけで、法被一枚というこしらえで、猿 のようにぴょいぴょいと屋根から屋根へとんでまい」った男が上手い具合の指示を出し、無事に目塗りを終わらせる。その男こそ勘当息子の藤三郎。番頭も心得たもので、世話になったお礼を是非とも旦那様から、と家の中へと招き入れる。久しぶりに勘当したわが子と対面した親父さん、刺青を、親の顔に泥を、などと咎めながら、無事で何よりと親心は隠せない。されどそこは男親。礼は申し上げたからおひきとりを、と云う意地の張り様。藤三郎は腰を上げようとするが、そこへ店の者に呼ばれたお袋さんが出て来る。藤三郎と会えたのを手放しで喜び、十一月の寒空に藤三郎の法被一枚の服 装 を見て風邪をひきはしまいかと体の心配をするほどで、自分の腹を痛めた女親は下手な意地など張りもせぬ。蔵の中には藤三郎の物をまだ仕舞ってあるとも云う。それを聞いた親父さんは「汚らわしいから、往来へ捨てちまいな」と云い放つ。頑固者、と諫めるお袋さんだが、それは、両親 は捨てたことにして息子 は着物でも小遣いでも拾ったことにすればいいと云う、親父さんの頑固者ながらの親心。真意の解ったお袋さん、では箪笥ごと、小遣いも千両ほど捨てましょうと云う親馬鹿振り。さらには紋付袴を着せて小僧も付けてやりたいと云うお袋さん。勘当したやくざな倅にそこまでしてどう云う気だと問う親父さんに、お袋さんの下げの一言。 「わたしゃあ、火事のおかげで会えましたから、火元へ礼にやりとうございます」 そんな人情噺でして、六代目圓生師匠の一席には泣かされましたねぇ、と云いながら「これよかったらどうぞ。生 搗 布 を酢醤油で味付けしたものですが」と、いつの間にか「火事息子」の粗筋に聞き入っていた熊さん八つぁん共々に洒落の一品を差し出してくれた。 「その施主さんの老夫婦も、ご同業のかたも人情、暖かいじゃありませんか。若社長も反省しているでしょうに。それに結果は別として発端は人様、世間様のためにやって来たことが表彰されたんですから。それに『売り家と唐様で書く三代目』って訳じゃありません。立派なものですよ熊澤さんの息子さんは。私なんか昭和二十九年、六つの時に大森で海苔屋をやってた親父を亡くしちまってるんで、一緒に仕事できるってぇのは羨ましいですよ。と云っても生きてたら海苔屋を継いだか解りゃしませんが」 「そうなんだろうけどなぁ――」と熊さんは小声でぶつぶつ云っている。そこへ八つぁんも口を出す。 「うじうじ云ってんじゃねぇよ、いつまでもよぉ。大将の云う通りだ。子を持てど七十五日って云うだろう」 「云わねぇよ。縁起でもねぇ。それを云うなら『子を持てば七十五度泣く』だろうが。ああそうか。どうもすっきりしねぇと思ったら、お前の所為だ。お前が横で火事は冬の風物詩だの、産気づいた消防車だのと莫迦を拗 らせてっからだい。本当に餓鬼の頃から莫迦だよなぁ。お前の親が泣いたのは七十五度じゃきかねぇぞ。同情するぜ全く」 こいつは餓鬼の時から大莫迦で、と熊さんは私のほうを向き、九つの時に、猫は高い所から落ちても大丈夫だとか云いながら、火の見櫓から飼い猫を放り投げ半殺しにし、親父さんから半殺しの目にあわされただの、十一の時は氏神様に忍び込み、神輿の大鳥 をもぎ取って屑鉄屋に売っ払おうとしたところをふん捕まり死ぬほど殴られ、無くなっても魂が入って飛んでいったと思うに違いない、なんて考えていた大間抜けだなどと、数々の逸話を話し始めた。八つぁんは、若気の至りだ、それは違う隣町の照坊だ、だのと反論していたが、そのうちに、もう止めねぇか、から、止めてくれよう、と弱気になっていく。莫迦だの間抜けだの、違うだの俺じゃねぇだのと繰り返す二人のやり取りを耳にしながら、私は親を何度泣かしたのだろうか。わが子に何度泣かされるのだろうかと、子を持てば七十五度泣く、と云う諺を噛みしめていた。かみさんの小言は煩いが、家に帰ればわが子がいる。毎日顔をあわせているのに、無性に今すぐ会いたくなってきた。とうに寝ている時刻だが、その寝顔が見たくなってきて大将に勘定をお願いする。と同時に突然八つぁんが大声を上げた。 「思い出した。お前、いつだったか家 の台所に棚を拵えてくれって頼んだ時、寸足らずのやつを付けやがったなぁ。こりゃぁ血筋だな血筋。全部が全部倅が悪 ぃんじゃねぇやっ。お前も片棒担いでやがる」 「煩 ぇなぁ。あん時はお陰で新しく買った冷蔵庫がすっぽり入る、って手前の嬶も喜んでたじゃねぇか。それによぉ、過ぎたことをいつまでもぐちぐち云ってんじゃねぇよ。早く忘れちまいやがれ、この野郎」 「おう、云いやがったな。だったら手前も俺の幼少の砌 の話は止めろぃ。ついでに今回の倅のことも忘れろ。過ぎちまったことだ」 八つぁん、偶には好いことを云う。そして大将が絶妙の間で後を引き継いだ。 「お後がよろしいようで」 註:文中の落語の引用部分は、興津要編 『古典落語』講談社文庫に拠った。また、 平仮名を漢字表記に改めている箇所、省 略している箇所、及び三点リーダーを省 略した箇所がある事をお断りしておく。
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