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2018年8月12日日曜日

短編小説「毛抜き」/ 風花千里

毛抜き                  風花千里

 イラついているのは残暑のせいばかりではない。
 胃の奥にむかつきを感じながら、鏡台の引き出しから毛抜きを取り出す。ステンレス製のエロティックなまでに美しいラインを持つ毛抜き。それが、窓越しに入ってくる陽光を受けて妖しく光っている。
 イライラするときは毛を抜くに限る。眉、腕、脇……全身の毛が私の心を鎮めようとおとなしく待っている。穿いていたジーンズの裾をめくり上げる。今日は脛にしよう。毛抜きの先で脛の毛の根元をはさみ、毛の流れに逆らわずに引っぱる。ぷつ。わずかな手ごたえがある。毛抜きの先端部分に毛が一本、しっぽを掴まれたネズミのように捕らわれている。ぷつ。ぷつ……一本また一本。直径5センチほどの円上にある毛を抜き終えると、むかつきが少し収まった気がする。
 目を転じると、リビングの隅にプラスチックのケースが横倒しになっているのが見えた。息子がクワガタを飼っていたケースだ。
 雅也ったら、あれほど片付けなさいって言ったのに。
 怒りでまたむかむかする上腹部を押さえ、片手でケースを起こす。蓋を開けると、中には腐葉土と産卵用の朽木しか入っていなかった。少し前、次々と死んでしまったつがいのクワガタは、雅也が庭に埋めたらしい。しかし、そこで彼のクワガタ飼育は完結してしまった。片付けだけのことじゃない。帰宅時間は守らない、帰ってきたら寝転がってテレビを見ているだけ。何度注意したって私の言うことなんて聞きゃしない。そういうところ、夫とそっくりだ。
 私はまた毛抜きを取ろうとして、妙なものに気づいた。ケース内の朽木の表面がどこか変だ。顔を近づけてみる。小さな緑色のつぶつぶがびっしりとついている。一瞬にして全身が総毛立った。なんだろう、何かの卵?。けれどもクワガタの卵でないことは確かだ。クワガタは朽木に穴を開けてそこに産卵するはず。表面に産みつけるなんてことはない。私は息子の部屋に行き、ルーペを持って戻ってきた。
 ルーペの面に大きく浮かび上がったのは、緑の待ち針のような形をしたえたいのしれないシロモノだった。木の表面から細い軸のようなものが伸び、丸い傘がついている。私は長さ2ミリほどの軸を毛抜きでつまむと、ぴっと引っ張った。全部つまみ取ったら、私のイラつきも消え、爽快な気分になれるんじゃないかと思ったのだ。
 しかし結局、つまむのは一本でやめた。私自身ちっとも気持ちよくならなかったし、この丸っこい形のシロモノにどこか愛嬌があって、すぐに捨ててしまう気にもならなかったからだ。私はケースに蓋をすると、しばらく考えてから自分の寝室に運んだ。
 その夜、物音を聞きつけ、私はベッドの中で目を覚ました。夫が帰ってきたのか? ライトをつけ、枕元の時計を見る。午前2時。相変わらずの午前様だ。私が何度文句を言ってもこの調子。穏やかで満ち足りた家庭などすでに諦めているけれど、こうやってわずかな物音で起こされる妻の身にはなってほしい。一度覚醒してしまえば、すぐに入眠することは難しい。だからずっと寝不足のまま。イライラだけが増幅され、無為に時間が過ぎていく。夫はまだ階下にいるのか。
 私たち夫婦は同じ職場に勤めていた。それが、12年前に雅也が生まれた時、夫は私に退職を促した。社内では同等の立場にあったはずなのに、私だけが子育てを押し付けられた。すでに子どもは親の手を離れつつあるが、12年のブランクを経て復職するには、年を取りすぎていた。この先、毛を抜くことで自分をごまかしながら生きていくのかと思うと、気分はますます滅入る。
 外は雨が降っているようだった。私はベッドサイドの引き出しを開け、毛抜きを取り出した。毛抜きは家中のありとあらゆるところにしまってある。気を静めたうえでもう一度眠りにつきたかった。
 はっ
 私は思わず投げ出していた足を引いた。足首に生温かい感触がある。それはゆっくりと上に向かって這い上がってくるようだ。半身を起こした私は、タオルケットをどけた。そして目を疑った。ぬるぬるした巨大なアメーバのような生き物が、膝から太股にかけてへばりついていた。大声を上げようとして、あわてて自分の口を手でふさいだ。そして後ろを振り返る。窓際に置かれたプラスチックケースの蓋がはずれている。やっぱりそうだ。あれは変形菌なのだ。
 昼間調べたところでは、朽木の表面についていたシロモノはキノコでもカビでもなく、変形菌と呼ばれる生物らしかった。普段は胞子を持った子実体として一ヵ所にとどまっているが、湿度が高くなると胞子を出して変形体というアメーバのようになって自由に移動できるようになる。朽木のシロモノは、形は「ツヤエリホコリ」という変形菌によく似ているが、色は黒ではない。だから確証が持てなかったのだ。
 そうこうしている間にも、変形菌は私の体の上を這ってくる。初めは見えなかったが、大きさは1メートル近くあるようだ。ぬめっとしたゼリー状の物体が両脚の交点に向かって進んでくる。恐怖のあまり、私はその場に固まった。
 お、犯される
 ぬめぬめとした感触が内股を撫でていく時、突拍子もない考えが頭をかすめた。しかし、私の妄想を嘲るかのように、変形菌は交点を避けて、さらに上を目指す。どうしよう、この大きさの変形菌に口を塞がれたら、私は間違いなく息の根を止められてしまう。ようやく我に返り、私は変形菌から逃れようとする。けれども思いのほか変形菌は重く、ずるずると胸の上に覆いかぶさってきた。いやだ、いやだ。私は、頭を振って、体を思いきりねじった。
 変形菌の動きが止まった。ぬくもりが私の体をすっぽりと覆う。まるで、母親が赤ん坊をそっと抱きしめるようだ。私の手から毛抜きが離れ、フローリングの床の上に落ちた。
 私は怖いのも忘れ、目を閉じた。そして変形菌と密着した肌からじんわりと染み通ってくる温かな感触を味わっていた。目の奥が熱くなる。知らず知らずのうちに私は泣いていた。涙が後から後からあふれてきて、頬を伝って落ちていく。こんなに感情をさらけ出したのは初めてかもしれない。他人に気持ちをさらけ出すには、逆に気を使わなくてはいけない。けれども、今なら無条件に受け止めてくれる、そんな安心感のようなものがあった。
 私は森のような匂いに包まれながら、あまりの心地よさに意識を失っていった。
 翌朝、目を覚ました私は、真っ先に窓辺に駆け寄った。
 あれは夢だったのか。朽木は木肌がむき出しになり、変形菌はどこにも見当たらなかった。窓がほんの少し開いている。それとも、私のような鬱屈をかかえた人間のところへ移っていくのか。
 ベッドから下りようとして、床に落ちていた毛抜きに気づいた。あんなに心のよりどころになっていた毛抜きなのに、なぜか冷たく、無機質なただの道具にしか見えない。
 かすかな寝息が聞こえた。となりで夫が眠っていた。少し髭ののびた邪気のないその顔を眺めているうちに、巣くっていたもやもやがいつの間にか消えたのに気づいた。

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