蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章 風花千里
第十章 手跡指南所 手跡指南所の玄関先に、盛りを過ぎた犬鬼灯の白い花が、風に吹かれてちらちらと揺れている。 姉女郎に連れられ、菊乃は歌乃とともに、山村峰春 の指南所の前に立っていた。 本来の稽古日でもないのに出向いてきたのは、峰春に菊乃のだらしのない行状を報告し、戒めてもらうのが目的だった。 部屋を出る前は、小生意気な千鳥が指南所に来て鉢合わせしないかと案じていた菊乃だったが、妓楼の暖簾をくぐる際、常磐津を唸る少女の声が漏れ聞こえた。 たぶん、今日のところは、千鳥が指南所に来る気遣いはない。菊乃は、やれやれよかったと、密かに胸を撫で下ろしていた。 綾錦は戸に手を掛けて少し開けると、その隙間から「お邪魔しいす」と声を掛けた。 すぐに「お入り」という声が、家の奥から返ってきた。 綾錦は土間で下駄を脱ぎ、框を上がった。菊乃と歌乃も、後れをとらぬよう、急いで姉女郎の後に続いた。 長屋であるのに、峰春の住まいは案外に広い。 おそらく割り長屋の中で一番広い部屋を借りているのであろう。土間から見えている部屋の隣に、もう一部屋あるのが、開いた襖の先に見てとれる。 峰春は、襖の向こうの部屋で何か書き物をしていた。 「峰春先生、今日は突然お邪魔をして申し訳ありいせん」 綾錦は峰春のいる部屋に入ると、しとやかに畳に手をついた。 「おや、花魁、いらっしゃい」 峰春が眩しそうに目を細めながら、綾錦の挨拶を受けた。 綾錦はともすれば堅気の女にも見えそうな、地味な縹色の鮫小紋に黒繻子の帯を締めている。峰春を前に、少しはにかんだような様子は、花魁道中の際の煌びやかな美しさとはまた違い、朝露を含んだ野の花のごとく可憐に見えた。 菊乃は、姉女郎の後ろから峰春をしみじみと眺めた。 峰春は璃寛茶の合わせを着流しにして、献上博多の角帯を片ばさみに締めていた。ひと目で洒落者といった拵えである。また、五分下げの本多髷は色白で優男の峰春によく似合っていた。三十五歳だと聞いたけれども、どう見ても三十より下にしか見えない。 姉女郎の想い人だが、菊乃は峰春が苦手だった。姿は良いし、言葉つきも優しいけれど、峰春はどこか廓の人間と一線を画しているようなところがあって、菊乃はどうしても心を開くことができない。筆より重いものを持たない峰春の繊細な手も、何か生身でない人形の手のようで好きになれなかった。 しかし、恋の何たるかも知らぬ菊乃と異なり、姉女郎のほうは峰春にぞっこんのようだ。峰春の書き物が終わるまでの間、持ってきた風呂敷包みを膝の上に置いたほかは、ぽおっと峰春の顔を見つめたまま身じろぎもしなかった。 「ところで、芙蓉に毒を盛った輩は見つかったのか?」 書き物を終えた峰春が持っていた筆を置いた。 菊乃は峰春の前に置かれた大きな文机に目を遣った。弟子に渡す手本なのか、文机の上の紙に、流麗な仮名文字が躍っていた。 「いいえ、わっちらも探ってみたものの、いまだに手がかりは見つけられずにおりいす」 綾錦は相手の顔色を窺うように、上目遣いに峰春を見た。 芙蓉の事件は、丁子屋の全使用人に口止めがなされたが、秘密などどこから漏れるか知れたものではない。峰春は、すでにどこからか情報を仕入れているようだった。 それでなければ綾錦から直接聞いて知ったのか。いや、それはあるまい。せっかくの逢瀬に、芙蓉の名を出すような無粋な真似を、綾錦がするはずがないからだ。 「うむ、そうか……、今さら犯人がわかったからといって、芙蓉が戻ってくるわけではないが。それにしても吉原でも一、二を争う名妓と称えられ、類稀な書の才を持っていた芙蓉が、どうして自害なんかしたんだろう。もったいないったらありゃしないよ」 峰春は、一番弟子の身に起こった変事がひどくこたえたと見える。峰春の目の下は隈取を施したように黒ずみ、傍目には、すっかり面やつれしているように映った。 「先生のお気持ちは、よくわかりいす」 師匠の不可解な悲嘆ぶりを目の当たりにした綾錦が、沈痛な面持ちでとりなした。 いくら死人の話だからといって、元情婦の話題を持ち出されては、綾錦も気分が悪かろう。しかし、さすがは丁子屋一の花魁である。不快な心持ちなどおくびにも出さず、文机の上に置かれた峰春の白い手をじっと見つめながら、綾錦はそっと訊ねた。 「芙蓉さんの自害に、先生は心当たりがありいすか?」 峰春はおずおずと顔を上げて、力なく「いいや」と首を振った。 「芙蓉という女は、お前様と同様に、毎日お客の前に出ながら新造を一人立ちさせ、禿 の面倒も見なければならない身だった。しかも、能書家としての名声も勝ち得ていた。自害する理由なんて考えられない」 芙蓉の思い出を、これでもかと綾錦の前で平然と語ってのける。姉女郎に対する心配りに欠けていると、子供の菊乃でさえ思わずにはいられなかった。 「芙蓉さんは、体の具合が悪いと言っていんしたか?」 綾錦は、表情を読み取ろうとするかのごとく、峰春の細めの眉を凝視した。 「ああ、調子が思わしくない、とは言っていた」 綾錦の視線を受け止め、峰春は深く頷いた。 綾錦に情婦の座を奪われても、芙蓉は、書家として峰春のもとに通っていたようだ。恋と芸の道は別物という心積もりだったのだろう。 「近頃、体が重くてだるいとこぼしてたな。勤めが辛いと珍しく弱音を吐いていたのを、よく覚えている。だけど、体の不調が自害の原因だとは思えなかった。お前様も耳にしているでしょう。芙蓉には、大店 の主人からの身請け話があった。その話を受けるつもりだと言っていたからね。私は、芙蓉の自害の話を聞いた時、即座に噓だ、芙蓉が自ら死ぬわけはない、と思ったんだ。そうしたら、回りまわってきた噂で、芙蓉が毒を飲まされていたと聞いた。なるほど、それならわかる。しかし、私は悔しくて腸 が煮えくり返りそうなんだ。書家としては前途有望な芙蓉が、なぜ死ななければならないのか、とね」 峰春は、思い詰めた表情で、きっぱりと言い切った。 菊乃は、綾錦の隣で峰春の話をやきもきしながら聞いていた。 峰春先生は、今、姉様がどんな気持ちでいるか、推し量ったりしないんだろうか。 指南所に来てからこの方ずっと芙蓉の話題が座を占めている。 菊乃は次第に焦 れてきた。しかし、菊乃がいくら苛々したとしても、子供の分際で、話の最中に口を挟むわけにはいかない。 菊乃は、退屈しのぎのつもりで、整頓の行き届いた峰春の部屋の中を、きょろきょろと見回し始めた。 峰春の指南所はかなり狭い。弟子によって稽古時間が決まっているから、師匠が一人に、弟子が一人、多い時でも菊乃たちのような三人連れ。つまり、多く見積もって四人の人間が座れる場所があればいいわけである。 ところが、人が座る場所は狭くても、ものを置く空間には、それなりの広さがあった。 峰春が座す背後の壁には違い棚が設えてあり、さまざまな大きさの硯がきちんと揃えて置かれていた。さらに、棚の下には、実用に適した木製の小さな簞笥が二棹も据えてあった。 また、左右の壁際には、大きな桐箱が置かれている。おそらく中には、半紙や料紙など、種々の紙が入っていると思われた。 「さあて、それじゃ花魁の話を聞こうかね」 峰春はやっと話題を換える気になったようだ。 「その前にちょいと失礼して……」 峰春がさっきまで使っていた文机の上の小筆を指し示した。 「あい、小筆は放っておくと、すぐに穂先が固まって筆の命毛 が駄目になってしまいいす。どうぞ、筆の始末をお先になさってくださいまし」 綾錦は即座に頷き、師匠に筆の手入れを勧めた。 「まあ、話しながらでもできるから」 峰春は文机の下から、子供が稽古に使うような粗悪な半紙を引っ張り出した。 峰春が筆の手入れを始めたのを確認して、すかさず綾錦は膝を進めた。 「先生ったら、聞いてくんなまし。この菊乃ときたら半紙を無駄遣いするのみならず、一度も筆を洗ったことがなかったんでありいす。見てくんなまし、書家の命とも言うべき筆をこないにしてしまって」 と、綾錦が膝に置いた風呂敷包みから取り出したのは、先ほど菊乃が初めて洗った小筆だった。すでに乾いてはいたが、美しく穂先が揃うわけもなく、相変わらず、ぼろぼろでかさかさの様相を呈していた。 「ああ、菊乃と歌乃はいつも先に帰ってしまうから、使った筆を綺麗にするところを見ていないんだな」 峰春はやれやれと苦笑いを浮かべると、手にしていた安物の半紙に顔を近づけた。おもむろに舌をちろりと出すと、紙面を遠慮がちにぺろりと舐めた。 菊乃は、峰春の振舞いを見て、目をしばたたいた。羊羹をくるんだ竹の皮を舐めた経験はあるが、半紙を舐めるなど考えたこともない。 菊乃の視線に気づき、峰春はきまりが悪そうに笑った。 「小筆の先を紙で拭く時には、唾を少し付けるくらいが最も具合がいいんだ。水も悪かないけど、紙の上に水を付けると、どうしても付けすぎて濡れてしまう。あまり水気が多いと筆先が傷むからね」 何かにつけて几帳面な峰春は、筆の扱いにも細心の注意を払っているようだった。 硯箱の中に置かれた小筆を持つと、峰春は唾を付けたあたりに、すっと筆先を滑らせた。 「姉様は筆を拭く時、峰春先生と同じようになさらないのね」 菊乃はちょんと首を傾げて訊いた。峰春とは師弟の間柄であり、恋仲でもあるのだから、同じように筆を扱うのが道理であるような気がしたのだ。 「峰春先生にもよく言われるんでありいす。水より唾のほうがいいよって。だけど、わっちは紙のざらつきが舌先に当たる、あの感じがたまらなく嫌なんでありいす。だから仕方なく、紙に少しだけ水を含ませて、筆の始末をすることにしたざんすよ」 綾錦は、かわいらしく小さく舌を出して訴えた。峰春も手にした半紙と綾錦とを見比べながら、なるほどと頷いている。 その時である。さっき菊乃たちが入ってきた戸口が、がらがらと開く音がした。 「ごめんくださいまし」 戸の開く音に続いて、かん高い女の声がした。 菊乃は、反射的に自分の顔が引きつるのを感じた。やけに気取った挨拶は、紛うことなき千鳥の声だ。 そういや、常磐津の後は書の稽古だっけか。 千鳥は常磐津の稽古だから、顔を合わす心配はない、と菊乃はのん気に構えていた。 だが、先日、千鳥を追いかけた経緯を思い起こせば、自分たちと鉢合わせになる展開くらいは予想がつきそうなものだ。 自らの思慮の浅さを思うと、菊乃は腹立たしい気分だった。 千鳥は、峰春のいる部屋の入口まで来ると、当惑した表情で立ち止まった。菊乃たちが、揃って振り返ったからである。 千鳥が戸惑うのも当然だろう。本来はこの時間に指南所にいるはずのない女たちが、千鳥が座るべき位置に居続けているのだから。 しかし、千鳥が戸惑いの素振りを見せたのはほんの一瞬だった。すぐに峰春と綾錦に会釈をすると、二人の話が終わるのを待つつもりか、控えて隣の間の隅に座った。 綾錦は千鳥の来訪に動揺していた。今日は不時の訪問だったが、まさか千鳥がこんなに早く稽古に来るとは予想していなかったと見える。 しかし、峰春は慌てるふうもない。半紙をちょいと舐めては丹念に筆の墨を取っていた。 隣室に控えた千鳥の存在を疎ましく感じながらも、菊乃は、もやもやとした得体の知れない気分を持て余していた。 何だろう、このもどかしさは。 菊乃は、胸のうちで自問した。菊乃の意識は行き場を探しているかのように、ふらふらと部屋の内部を彷徨っている。 はっ……と、菊乃の視線が一点で止まった。峰春の手だ。いや、違う。正確には、峰春の手にした半紙だ。 半紙には、霧雨のように細かい線が無数に付いている。峰春が筆先の墨を取った跡だ。 綾錦が菊乃の筆の後始末をした際も、反古紙に似たような模様が付いていた。しかし、その時は、始末に水を使ったからか、無数に付いた線はもっと太く、また滲んでもいた。 「せ、先生……、ひとつお訊きしいす。うちの姉様は半紙を舐めるのがお嫌いで水を使っていらっしゃるけど、芙蓉さんはどうやって筆の始末をしていたんでありいすか?」 唐突な菊乃の問いに、峰春は一瞬、呆気にとられたような表情を見せた。 「芙蓉さんは、私と同じように始末していましたよ。それがどうかしたかい?」 菊乃は峰春に礼を言って、再び懸命に記憶をたぐる。 もっと前に、先生の持っている半紙と同じような模様を見たことがある…… にわかに、目の前に情景が蘇った。妓楼の裏口、白い猫、振袖を着た手が持っているのは、一枚の半紙。 菊乃は頭を一振りすると、猛然と立ち上がった。 傍らの綾錦が、虚を衝かれたように、菊乃を振り仰ぐ。 「菊乃! 急に立ち上がるなんて、はしたない。どうしいした」 綾錦が顔色を変え、菊乃を諫めようとしたが、ゆっくりお小言を聞いている暇はない。菊乃は手を振りかざして、姉女郎を制した。 「姉様、今わかりました。芙蓉さんが飲まされた毒は、飯や茶や、鉄 漿 に入っていたんじゃない。この半紙に塗ってあったんです」 菊乃は一気にまくし立てた。綾錦は顔こそ青ざめていたが、咎めもせず、目で話の続きを促した。 「芙蓉さんは文を書いた後、筆に付いた墨を半紙で拭き取っていた。芙蓉さんが自害した翌日、湯殿で部屋持ちの姉さんが話していたのを、姉様も聞きませんでしたか?」 綾錦は、声を吞み込んでしまったかのように押し黙っている。 「部屋持ちの姉さんは『行灯の油を舐めるように、べろんべろん』と言ってました。芙蓉さんは峰春先生と同じように、墨を拭き取る目的で、半紙を舐めて唾を付けていたんです」 「仮にそうだったとして……それじゃ、いったい誰が半紙に毒を塗ったと言うんだい」 ようやく聞こえた綾錦の声は、驚きのためか妙にしゃがれていた。 「姉様、覚えていませんか。部屋持ちは『花魁の近くに、禿がいた』と、確かに言いました。わっちは、今、峰春先生が手にしているような模様の付いた反古紙を、その禿が持っているのを見たんです」 菊乃が言い切った刹那、隣室から、畳を蹴るような、ざっという音がした。 隣室の気配に気づき、菊乃は身を翻して、隣の間に飛び込んだ。 「千鳥!」 名を呼ばれた禿は、すでに土間に下り、引き戸に手を掛けていた。 「芙蓉さんに毒を盛っていたのは、あんた、だね」 菊乃の声に、千鳥がやおら振り向いた。いつものように、こってりと白粉を塗った千鳥は、かっと目を瞠き、挑むように菊乃を睨んでいる。 「妓楼の勝手口の外で会った時、あんたは、墨の線が付いた反古紙を持ってた。綺麗好きの芙蓉さんが嫌うから紙くずを捨てに来た、と弁解していたけど、実際は、そうじゃなかった。毒を塗った紙を、いつまでも部屋に置いておくわけにいかない。だから、こまめに捨てに来ていたんだ」 菊乃に指摘され、千鳥の形相が見る見るうちに変わった。目をひん剥 き、唇を強く嚙み締めている。 怒りなのか、恨みなのか。はたまた、諦めや哀しみの色なのか。さまざまな感情が、血走った千鳥の目に浮かんでは消えていく。 土間に下りようとして、菊乃が一歩踏み出す。その途端、千鳥は引き戸を開けて、外に飛び出した。 「どこに行くのさ!」 慌てて下駄を履いて、菊乃は戸口を出る。あたりを見回すと、千鳥が路地の奥へと走っていくのが見えた。 「菊乃、わっちも行くわ」 歌乃も、下駄を履いて戸口に現れた。 「わっちが千鳥を追いかけて路地を行くから、歌乃は表通りを行って。二人で、千鳥を挟み撃ちにしよう」 歌乃は足の速いほうではないから、挟み撃ちにできるか心もとなかった。とはいえ、この際、四の五の言っている場合ではない。 「わかったわ」 歌乃が、着物の裾を摑んで走り出した。急いで、菊乃も千鳥の後を追う。揚屋町 の路地は、裏茶屋と呼ばれる密会専門の茶屋が点在するくらいだから、かなり入り組んでいる。 菊乃も、細い路地に踏み込んだ瞬間、裏茶屋から出てきた芸者と客に、危うくぶつかりそうになった。蹈鞴 を踏んだところで、ぶっつり下駄の鼻緒を切ってしまった。 思わずしゃがみ込んだ菊乃の背後から、ひたひたと足音が近づいてきた。 「菊乃、どうした」と、姉女郎の声が飛んできた。 「あっ、姉様、鼻緒が……」と菊乃は、恨めしく呟いた。 「下駄なんて、脱いじまいな」と言う綾錦はと見ると、すでに下駄を履いていない。どうやら、峰春の家からここまで裸足で走ってきたらしい。 「千鳥を追いかけるんだろう? さあ、行くよ」 綾錦は、躊躇なく細い路地に入っていく。菊乃も下駄を脱ぎ捨て、姉女郎に従った。 姉様ったら、はっ、速い。 菊乃も全速力で走っているつもりだが、前を行く綾錦に、追いつこうとしても追いつけない。廓の中で、自分以外にこんなに速く走る女子 を、菊乃は見たことがなかった。 さすが、毎夜毎夜、道中で八文字を繰り出しているだけのことはある。綾錦の足腰は、外八文字のおかげで、見事に鍛えられているのだ。 菊乃たちが進む細い路地は、先が三つ辻になっていた。どん詰まりまで来て左右を見ると、右手遠くに千鳥の赤い振袖を認めることができた。 「千鳥は、木戸を出るんじゃないのかえ」 心持ち荒い息荒で、せわしなく綾錦が訊く。 「大丈夫。歌乃が、揚屋町の表通りを河岸の方向に行きました。もし、千鳥が河岸側の木戸を通るなら、歌乃と出くわすはず」 しかし、予測どおりにいかないのは、世の常。菊乃と綾錦が河岸側の木戸に着いたと同時に、歌乃はようやく木戸に姿を見せたのだった。 「ともかく、木戸を通ってみよう」 綾錦の一声で、三人は揃って西河岸へ出た。 だが、昼日中から切見世の女郎を買おうという男伊達は、ちらほら見かけるものの、千鳥の赤い振袖は、どっちを向いても目に入らない。 河岸見世を闊歩する下卑た男たちの視線が、一斉に綾錦に集まり出す。饐えた臭いのするこの猥雑な一画で、綾錦の美貌はまさに掃き溜めに鶴であった。 「姉様、帰りましょうよ」 歌乃が、いの一番に音を上げた。男たちの視線もさることながら、歌乃には、河岸沿いの強烈な臭いが我慢ならないようだ。 「菊乃、千鳥の行きそうなところを知らんのかえ?」 自分を眺める下品な視線もどこ吹く風、綾錦は、千鳥の探索を諦めていないと見える。 「あっ、まさか!」 菊乃の頭のうちに、三間ほど先から入る路地が浮かんだ。 「うちのゆきをこの近くで見かけたことがあります。千鳥はゆきをかわいがってたから、もしかしたら、そこにいるのかも」 と叫ぶやいなや、菊乃は、綾錦の手を引いて走り出した。 後ろで、野郎どもが、げたげたと卑しい笑い声を立てているのが聞こえた。 菊乃たち三人は再び別の路地へ踏み込むと、大きな傷の付いた戸口の前にやって来た。 「この家なのかい?」 綾錦が、訝しそうに問うた。綾錦の顔つきは、なぜ、菊乃がこんな物騒な場所を知っているのか、という極めて強い疑念に満ちている。 菊乃は、綾錦の咎めるような視線を避けて、「あい」とだけ答える。正直に話せば、大目玉を食らうだろう。 とにかく、正直に話すにしろ、口を噤むにしろ、すべては妓楼に帰ってからだ。今は、逃げた千鳥を捜すのが先決だった。 傷の付いた、染みだらけの戸が五寸ほど開いている。 礼を失しているとは思ったが、菊乃は戸の隙間から、こっそりと家の中を覗いた。 雨戸を閉めたままなのか、薄暗い家の中は、土間との境に、ところどころ破れのある障子が見えるだけで、中の様子はほとんどわからない。 その時だ。菊乃は、障子の前を横切る人影を見た。 「あっ、千鳥!」 菊乃は、大きく音を立てて戸を開いた。 「千鳥! やっぱり、あんた、ここにいたんだね」 迷うことなく、菊乃は土間へと踏み込んでいく。 土間の隅で顔を強張らせて立っているのは、紛れもなく千鳥だった。 千鳥は抑揚のない乾いた声で「帰ってよ」と呟いた。 「帰ってほしかったら、なんで芙蓉さんに毒を盛ったのか、そのわけを白状しなよ。峰春先生のところから逃げたってのは、自分の罪を認めたって証だろう?」 菊乃は怒気を込めて言い放った。千鳥が毒を盛り続けたせいで、全盛の花魁が命を絶ったのだ。年端もいかぬ子供の仕業とはいえ、どうしたって、うやむやにはしておけない。 「うるさいわねっ。あんたなんかに何がわかるっていうの!」 千鳥が、悲鳴とも叫びともつかぬ声を上げた直後だった。誰かが千鳥を呼んだ。 千鳥は、いったん戸の中に顔を引っ込め、何やら中にいる人間と言い合いをしている。 が、やがて、菊乃たちに向き直ると、あからさまに不承不承の顔つきながら、一行を家の中に迎え入れた。 土間に入ると、障子の奥に布団が敷いてあり、誰かが臥せっているのが見えた。 「むさ苦しいところへ、よくぞ来てくれんした」 うめくような苦しげな声がして、布団の上に、人が起き直る気配がした。 (続く)
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