蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章 風花千里
第九章 姉女郎の秘密 「ひーっ、冷たかった」 息を吐きかけながら、菊乃は、真っ赤になってかじかんだ手をこすり合わせた。 菊乃は妓楼の勝手口の外で、盥に水を張り、書道用の筆を洗ってきたところだった。 今まで洗われることのなかった筆は、墨に含まれる膠の働きで穂先がかちかちに固まってしまい、枯れ枝のごとき有様になっていた。 部屋では、綾錦が一人で化粧をしていた。綾錦の前に据えられた置き鏡には、呆れるのを通り越して、諦めの念が漂う姉女郎の顔が映っている。 「これまでがだらしなくて一切洗ってなかったんだから、仕方ないね」 眉を引くのに忙しいからか、綾錦の反応は、にべもしゃしゃりもない。 芙蓉が自害してから、すでにひと月が過ぎようとしていた。 月は、神無月から霜月へと替わり、江戸の町もぐっと冷え込む日が多くなっていた。霜月は、吉原の裏手にある鷲 神社に酉の市が立つ。お酉様詣を口実に立ち寄る客で、廓もそこそこ賑わっていた。 芙蓉に毒を盛った犯人は、依然として判明しなかった。 毒殺魔は芙蓉の朝飯を運んでいた白梅という噂が広まり、一時は妓楼の私刑を受ける羽目になりそうだった。だが、同じ部屋の千鳥の証言で白梅は放免された。芙蓉は朝飯後に歯を磨く習慣があり、白梅が朝飯を運ぶ時、千鳥も水の入った耳盥を持って一緒に部屋へ帰っていた。つまり、白梅も千鳥もお互いに毒を盛る隙はないという見方だった。 「綺麗に洗えたかえ」 いつの間にやら、綾錦が眉を引き終えて、菊乃の横に来ていた。菊乃が洗ってきた筆を手に取り、汚れが落ちているかどうか、穂先を念入りに点検している。 「まったく。これまで稽古が済んだらお前たちを先に帰してたから、こんなに道具をぞんざいに扱ってるなんて気づかなかったよ。おや? 小筆まで水に浸けて洗ってしまったのかい? 小筆は先っぽだけ墨を落とせばいい。軸のところまで洗ってはいけないんだよ」 綾錦は、菊乃の小筆を示した。菊乃は、なんの考えもなしに、小筆の、墨を含んでいない白い部分まで水に浸けてほぐしてしまったのだ。生乾きの小筆は、大筆と同じく、庭箒のようにぼさぼさに乱れている。 「えっ? それじゃ、小筆は、どうやって洗うの?」 綾錦に指摘された菊乃は、姉女郎の顔と小筆の先を交互に見比べた。 そもそも筆を洗った経験自体が皆無だから、特有の洗い方なんて知っているわけがない。 綾錦は「今まで知らなかったのかえ?」と苦笑しながら、それでも身振り手振りを交えて、詳しく説明してくれた。 「小筆は洗うというより拭くんだ。要らない布や紙に水を含ませて、その上で筆の先の墨を取る」 綾錦は、手近にあったぼろ布に水差しの水を少量垂らした。その上へ筆で縦線を引く。布の上には若い柳のような細い線が残った。 「ほら、こうやって墨が付かなくなるまで線を引くと、筆のほうは、知らぬ間に綺麗になってるって寸法さ。小筆は筆先しか使わないだろう? 膠で固めてある白い部分は絶対に洗っちゃいけない」 綾錦が手にしたぼろ布には、若い柳の葉のような、細い線が何本も残っていた。 「さっ、新しいのをやるから、これからは大切に扱うんだよ」 綾錦は立ち上がって、芸事の道具を入れた抽斗から真新しい小筆を取り出すと、菊乃に寄越した。 「あい、ありがとうございます」 殿様からの拝領品を前にしたごとく、細くて華奢な造りの新しい筆を、菊乃はありがたく押しいただいた。 「姉様……」と、頼りなげな声が聞こえたかと思うと、音もなく襖が開いた。 幽霊の浜風といった風情で、歌乃がのっそりと入ってきた。 「どうした?」 綾錦の視線が、すかさず、菊乃から歌乃へと移った。綾錦は、呆けたように突っ立っている歌乃を、心配そうに注視する。 尋常でない様子に、菊乃も姉女郎にならって、歌乃の全身を眺め回した。 「あれっ? 歌乃、あんた、怪我をしてるんじゃないの? 足に血が付いているよ」 腰を浮かせ、菊乃は、歌乃の足元を指さした。部屋着の裾から出た右足に、血を拭き取った跡がある。 歌乃のくるぶしのあたりを、綾錦はじっと見ていたが、やがて、ほっとしたようにひと息つくと、にんわりと微笑んだ。 「歌乃、お前、もしかして初花かい?」 初花とは、つまり初潮のことだ。 歌乃は、頷いたきりしばらく黙っていたが、すぐに、今にも泣きそうな顔をして「あねさまぁ」と駆け寄ってきた。 「おなかが痛かったから厠に行ったの。そしたら、血が出てきたから、わっち、驚いてしまって……、急いで、初糸姉さんを呼びに行ったんだけど、どこにもいないの」 突然の出血に、歌乃は相当取り乱していたのだろう。初糸が、階下の支度部屋で髪を結ってもらっているのを、すっかり忘れてしまったようだ。 「歌乃、初花は、女だったら皆、いつかは迎えることだからね。なーんにも怖がることなんかないよ。さあ、手当ての仕方を教えてあげるから、こっちへおいで」 歌乃の昂った気持ちを静めようとしているのか、綾錦は穏やかに言い聞かせると、歌乃を部屋の奥へと誘った。 歌乃のくるぶしに付いた血の跡に、いまだ菊乃の目は釘付けになっていた。 そういえば、歌乃は、胸もだいぶ膨らんでいたっけ。 菊乃は、湯殿で目にする歌乃の胸乳を思い出していた。さらに近頃、歌乃は乳房だけでなく、下腹の周辺にも変化が表れ、足の付け根にかけて色濃く陰翳がついていた。 綾錦が、重ね簞笥の、さらに上に載った用簞笥の抽斗から、上質の柔らかな御簾紙を一束、さっと取り出した。 「いいかい、これから月のものが来たら、このお馬に何枚か重ねた御簾紙を載せて、殿方が褌をするように腰に巻きつけるんだよ」 綾錦が「お馬」と呼ばれる布切れを、歌乃に見せている。長四角の白い布の四隅には紐が付いていて、どうやら、この紐を腰に巻くらしい。 「浅草紙を使う向きもあるようだが、あれは肌触りが悪いからね。この用簞笥の抽斗に入れておくから、御簾紙を使っていいよ」 歌乃は、もじもじしながら、綾錦からお馬を受け取った。 その時、歌乃の足の間から、また一滴の血がひたっと垂れた。畳の上に落ちた、ねろりとして、微かに粘り気を帯びた赤い滴は、窓越しに射し込む弱い日の光を受け、どことなく淫靡な様相を呈している。 畳に付いた血痕を凝視しているうちに、菊乃は、くらりと眩暈がした。少し黒みがかった赤い色は生を感じさせると同時に、体の奥底を揺さぶるような激しい衝動を与える。 嫌だ、嫌だ、嫌だ。 歌乃に先を越されたのが嫌なのか。それとも、いずれ自分にも初花が来るのが嫌なのか。 何が嫌なのかよくはわからないが、得体の知れない嫌悪の情が菊乃の脳裏を駆け巡った。 菊乃は、にわかにいたたまれない気持ちになって、顔を背けたまま静かに外へ出た。 歌乃ったら、なんだか遠い人になっちゃったみたい。 今日の歌乃は、昨日まで菊乃と戯れ合っていた歌乃とは、どこかが確実に違っていた。うまく説明できないが、たとえば、汲めども尽きぬ泉がしんしんと湧き出ているかのように、身の内から潤っていたとでも言えばいいか。 歌乃のこせこせしたところのない、のんびりとした顔しか、今まで菊乃は知らなかった。 だが、姉女郎から月経の処置の仕方を教わっていた歌乃は、はにかんだ表情を浮かべ、薄絹をまとったような、しっとりとした色気を漂わせていた。それに、ひと息に大人びた物腰までを身につけてしまったようにも見えた。 歌乃は、大人の女への階段を上り始めたが、自分は独り置いてけぼりを食っていると思うと、菊乃の心は、ますます沈んでいった。 憂さ晴らしのつもりで、菊乃は、突っかけていた内履きの草履を片方、ぽーんと勢いよく飛ばした。 草履は、菊乃が立っていた廊下から、二間ほど先に落ちて止まった。花魁の文を持って通りかかった紅葉という禿 が、裏返った菊乃の草履を見て目を剥 いた。 菊乃は近づいていって、裏返ったままの草履を再び蹴飛ばした。しゅっ、と草履の廊下を滑る音が響く。 行儀の悪さを咎めようとして口を開きかけた紅葉を尻目に、菊乃は、蹴鞠をするごとく草履を蹴飛ばしながら、二階の奥へと進んだ。 二階の奥まった一画は、普段、菊乃があまり立ち入らない場所だった。 部屋持ちの小部屋や、一人の女郎に客が重なった時に一時的に使う廻し部屋などが、入り組んだ廊下に沿ってずらりと並んでいた。 階下に髪結いが来ているので、髪を結う必要のある女たちは、皆、支度部屋にいるのか、ほとんど人影は見えない。はるか向こうの廊下で、拭き掃除をしている喜助の姿が、ちらちらと目に入るだけだった。 連なった小部屋が途切れたところに、出格子が造られている。菊乃は、出格子の前で立ち止まった。格子の隙間から、時折、ひゅううと吹き込んでくる北風が、むしゃくしゃした菊乃の気分を、ほんの一瞬だが醒ましてくれる。 「ふぐっ、んぐっ」 風の音にしては、やけにくぐもった音が廊下を流れてきた。声を出したいのに、口を塞がれている、といったような感じの内に籠った音である。 菊乃は、もう片方の草履も脱ぎ、足音を立てないようにして音の出所を探った。 耳を澄ますと、出格子の先にある行灯部屋から、断続して音が聞こえる。行灯部屋は、昼間は使わない行灯を集めてしまっておく部屋だった。 抜き足、差し足、忍び足で、行灯部屋の板戸の前に近づいた。 「はあぁ、ああぁ」 戸口に耳を寄せていた菊乃は、中から漏れてくる声を聞いて驚いた。紛れもない女の声が、苦しそうにあえいでいる。 菊乃は、慌てて戸口に手を掛けた。こんな狭い部屋の中で具合が悪くなっているのであれば、早く助け出してやらなくてはいけない。 「ああ、清さん。もっと強く抱いておくれよう」 板戸を開けようとした時、押し殺したような女の話し声が聞こえたので、菊乃は、ぎくりとして身を引いた。行灯部屋の中には、女のほかにも誰かいる。 客だろうか。行灯部屋は人の出入りが少ないせいで、寒くて湿っぽい、陰気な場所だ。居続けの客なら、いくら何でも行灯部屋で睦み合うなんて酔狂な真似はしないだろう。 ということは…… 菊乃の頭に「間 夫 」という語が閃いた。おそらく二階に人気 が少なくなったのをいいことに、どこかの部屋持ちが、客として登楼するほどの金がない情 人 を引っ張り込んだのだ。 自分の部屋では、すぐに見つかってしまう。だから、他人の目につきにくい行灯部屋で、一時の逢瀬を楽しんでいるというわけだ。 「ああん、わっちは、清さんこそが命。もうほかの客と寝るのは嫌なのさ」 女が、くどくどとかき口説いている。 べたべた甘ったるい女の嬌声に、菊乃は、鳩 尾 に不快なむかつきを覚えた。 荒々しい息遣いに交じって、男の忍び声が聞こえてきた。 「それじゃあ、俺とここから逃げるかい?」 「ほんと? 嬉しい。絶対だよ、指きりげんまん」 あたりを憚るのも忘れたのか、女は、大はしゃぎで男に抱きついた気配である。どさっと床に倒れ込むような音がしたかと思うと、あからさまに淫らなあえぎ声が、板戸を隔てた向こうから漏れてくる。 あん、ああん、ああん…… これまでは、さして気にならなかった、房中からの猥雑な声が、饐えた飯の臭いのごとく、菊乃の鳩尾をきりきりと締め上げる。胃袋の中で渦巻いていた酸っぱいものが、喉元に込み上げてきて、思わず吐きそうになる。 菊乃は、悲鳴まじりに、一声高く叫んだ。 「ああ、もう、たくさんだ!」 手で両の耳を痛いほどに覆い、菊乃は一目散に、その場から逃げ出した。 薄い紗のような雲を通して、お天道様がどんよりとした、生気のない顔を見せている。 物干し場の片隅で、菊乃は膝を抱えて座り込んでいた。先ほど出格子から吹き込んでいた風は、ひんやりと冷たかったが、お天道様の力というのは、やはり比類なく強い。 今日くらいの、やる気の皆目なさそうな営みであっても、肌に触れる冷ややかな寒風を和らげ、人のささくれ立った感情を穏やかにするくらいは、朝飯前のようだ。 「こんなところに、いたのかえ」 突然聞こえた人の声に驚いて、菊乃は振り向いた。綾錦が、物干し場の戸にもたれて立っていた。 床板をぎしぎしと踏み鳴らしながら、綾錦は、菊乃の横に来てゆっくりと腰を下ろした。 菊乃と同じ膝を抱えた格好で、綾錦も黙って空を見ている。殺風景な物干し場の中で、姉女郎の足の爪に塗られた紅が、咲き乱れる紅梅のように鮮やかだった。 「菊乃、大きくなったねえ」 綾錦が、しみじみと感慨深げに呟いた。 「二年前、わっちのところに来た頃は、日に焼けた、細っこい、目ばかりぎょろぎょろした子供だったのに、いつの間にやら、こんなにふっくらとしてきていたんだね」 綾錦は、目を細めながら、菊乃の頬を指で押した。 姉女郎の慈しむような視線にさらされ、菊乃はこそばゆい気分になって、思わず俯いた。 「菊乃は、大人になるのが嫌なのかい?」 垂れた菊乃の頭の上から、綾錦の案ずるような声が降ってきた。 大人になる? 菊乃は、姉女郎の言葉を反芻する。 大人になるって、体が大きくなって、胸が膨らんで、初花が来て、それから…… 廓の中で大人になるという意味は、苦界と呼ばれる稼業に足を踏み入れるということ。 だが、嫌だと言ってみたところで、どうなのだ。体は知らぬ間に丸みを帯びて成長する。大人として、女として成熟すれば、否応なしに客を取らねばならないのが廓の定めだった。 では、女郎の勤めが嫌なら、先ほどの行灯部屋の女のように、情人をつくって廓から逃げればいいのか。 いや。菊乃は、自分の経験から痛いほどわかっていた。逃げようと思っても、到底逃げ切れるものじゃない。その上、ほとんどの女たちは、仮に逃げ切れたところで、その先に行くあてもない。 まさに、八方塞がりなのだ。 廓に来たのは、お前の運命なのだと言うのなら仕方がない。けれど、正直なところ、大人にならなくてもいいものならば、菊乃はいつまでも十二歳のままで止まっていたいと思った。 「お前は、勉強が好きかえ?」 菊乃が下を向いたまま返事をしないからか、綾錦は、妹女郎の気を引き立てるように、話題を変えた。 意表を突いた綾錦の質問に、菊乃は、無意識のうちに「うん」と答えていた。 綾錦に読み書きを習ってからというもの、菊乃は暇さえあれば本を読んだ。草双紙、和歌集、それに、読本の類い。特に最近は、曲亭馬琴作の読本である『南総里見八犬伝』を読みたくて、漢字の勉強まで始めたほどだ。 自身も本をよく読むので、綾錦は、禿や新造の読書に関して無条件に奨励していた。だから、昼下がりの綾錦の部屋は、皆が揃っていても、それぞれが好みの本を読み耽っていて、水を打ったように静まり返っていることが多々あった。 「お前は、わっちの妹によく似ている」 顔を正面に戻した綾錦は、遠くを見つめるような目をして言った。 「姉様の妹?」 菊乃は、きょとんとして綾錦の横顔を見遣った。姉女郎が、自らの家族について語るのは初めてのことだ。 「わっちは、六人きょうだいの一番上なんだ。一つ下に妹がいてね。お転婆で、何にでも首を突っ込みたがるところは、お前とそっくりだった」 菊乃は江戸で生まれたから、地方の状況はよく知らぬ。だが、綾錦が生まれ育ったのは盛岡近くの小さな村だ、と聞いた覚えがあった。綾錦の妹は、江戸に出てきた姉に代わって、家で兄弟の面倒を見ているのだろうか。 「その姉様の妹って、今はどうしてるの?」 自分に似ているという姉女郎の妹に思いを馳せながら、菊乃は無邪気に訊ねた。 「死んだよ」 綾錦は、お天道様をじっと見据えると、なげやりな口調で言った。 「わっちが生まれた村は、とても貧しかった。海から来る『やませ』という風のせいで、しょっちゅう飢饉が起きていたんだ。だから、家族が食べていくために、わっちも妹も、小さいうちから働かされた。もちろん、勉強なんてする暇はない。二人とも、文字はおろか、数字だってろくに読めなかったよ。ところがね、ある日、村の庄屋様の屋敷の近くを通った時に、『消息往来』と『千字文』を拾ったんだ。たぶん、庄屋様の家の子供が落としたものだろう。わっちと妹は小躍りして、こっそりとその二冊の手引書を家に持ち帰った。それからというもの、朝、人より早く起きて、一所懸命に文字を覚えたのさ」 綾錦が、ふうっと息を継いだ。姉妹が揃って早起きし、頭をつき合わせて手引書を読んだ記憶が蘇っているのだろう。菊乃には、綾錦の固かった表情が、ほんの少し和らいだように見える。 「妹は、わっちよりずっと物覚えのいい子だった。おそらく家に余裕ができたら、勉強をしたいと夢見ていたと思う。だが、それも死病に取り憑かれてしまっては、はかない夢でしかなくなった。妹は父さんと一緒に、土砂降りの雨の中で働いた後、労咳にやられちまったんだ。妹が血を吐いて死ぬまでは、本当にあっという間だった。苦しい息の中から、『姉ちゃん、本が読みたい』と訴える妹の声が、今でも耳について離れないよ」 亡き妹の声を手繰り寄せるかのように、綾錦が目をつぶった。薄雲を隠れ蓑にしていたお天道様が、雲の切れ間からそっと顔を覗かせ、下界の様子を窺っている。 初めて耳にする姉女郎の家族の話は、菊乃の想像をはるかに超えて悲惨であった。大きな飢饉の話は、江戸にいても聞こえてきたが、実は、田舎は絶えず飢饉に見舞われ、長い間に村自体が疲弊し切っているらしい。 姉女郎の苦渋に満ちた横顔を脳裏に刻みながら、菊乃は、おずおずと訊ねた。 「それじゃ、姉様が廓に来たのは……」 「ああ、妹の後を追うように、父さんも死んじまってね。残された母さんと四人の弟妹を食わせるために江戸に来たってわけさ。まあ、おかげで弟妹たちは無事育って、一人は、今この江戸に出てきてるけどね」 ふと思いついて、菊乃は姉女郎に問うてみる。 「姉様は来てすぐに、廓の暮らしに慣れることができた?」 廓に押し込められて三年も経つのに、菊乃はいまだに窮屈な生活に辟易していた。 半ば騙されて連れてこられた菊乃と違って、家族のためとはいえ、綾錦は納得ずくで廓にやって来た。だから思いのほか楽に、廓の暮らしに馴染めたのではないかと思ったのだ。 「馬鹿をお言いでないよ。こんなところ、十年も経った今だって慣れるもんかえ」 菊乃の質問が気に障ったのか、綾錦は、不機嫌そうな面差しを菊乃に向けた。しかし、顔を強張らせていたのは、ほんの一瞬。何か思い出したことがあったと見え、綾錦はすぐに機嫌を直した。 「菊乃。女郎ってのは、年季が明けるのに長い年月がかかるだろう?」 菊乃は重々しく頷く。女郎として廓に閉じ込められる年月を考えると、菊乃とて、近頃は、やりきれない思いに煩わされることが多かった。 「あれは、わっちが初めて大門をくぐった日のことだ。道中の女衒のお喋りから、いくら子供のわっちでも、いったん大門をくぐれば、年季が明けるまで自由はないってことくらい重々わかっていた。吉原のしみったれた冠木門をくぐった時は、情けなさと先々への不安で涙が出そうだったよ」 菊乃は、思わず「そうそう」という相槌を打った。外界と自分をわかつのが、あの貧相な冠木門だと思うと、近くを通るたびに腹立たしくなる。それゆえ、情けないと泣きべそをかいた幼い綾錦の気持ちが、菊乃にはたいそうよくわかった。 「じゃ姉様は、十年も廓で過ごして呼出しにまでなったけど、途中で嫌になったり、自 棄 を起こしたことはなかった?」 菊乃は、重ねて訊ねた。姉女郎にしつこいと思われるかもしれないという懸念はあった。 だがこれまでは、姉女郎の昔話を聞こうにも、部屋には誰かしらほかにいて、綾錦と差し向かいで話をする機会はほとんどなかったのだ。 箏、俳諧はもとより、三味線、書、囲碁、将棋、茶の湯、生け花等々、綾錦にはひと通りの心得がある。昔日の吉原で全盛を誇った太夫に匹敵する教養を、綾錦は身につけていた。 ともすれば、客を取ることだけが生きている証、といった女郎が多い中で、十年の間に、綾錦の心が、気力が、挫けてしまった日はなかったのか。菊乃は以前から気になっていた。 「そりゃ、嫌になったことはあるさ。廓から逃げようと考えた時期だってある。一昔前のお前のようにね。でも、逃げたら家族に迷惑がかかるだろう。だから、逃げないで年季を全うしてやると決めた」 綾錦は、静かに、しかし、ぴしりと言い切った。おそらく、幼い時分に、たった独りで決心した時も、同様の気概を見せたに違いない。 「といっても、ただ年季を勤め上げるだけのつもりはなかった。人は皆、心のどこかに弱いところを持っている。年季の長さに嫌気が差せば、その弱い面が顔を出し、果ては何者かに付け込まれるやもしれぬ。そこで、わっちは、長い歳月を首尾よくやり過ごす手立てを考え、とうとうそれを見つけたのさ」 「やり過ごす手立て?」 綾錦の言葉の意味がわからず、菊乃は鸚鵡のように問い返した。 綾錦はゆっくりとした口調で、「遠くでもなく、近くでもなく、その間を見ながら生きるってことさ」と答えた。 えっ? 綾錦とのやり取りは、禅問答のようで、ますます意味がわからない。菊乃は、教えを請うように姉女郎を仰ぎ見た。 幼子に対するごとく、綾錦は菊乃の頭を優しく撫でた。 「たとえばさ、菊乃が学問の道に入ろうとしたとして、博士になるには二十年も三十年もかかる。二十年先を睨んで学び続けるのは、雲を摑むようでなかなか苦しいものなんだ」 綾錦は、きっと顔を上げて空に視線を移した。先ほどから風が吹き始め、空を覆っていた薄雲が少しずつ取れていく。紗の覆いを失ってどぎまぎしたのか、お天道様が慌てたように輝きを増した。 「勉強にしろ、芸事にしろ、人は、ともかく早く成果を挙げたいと願う。その一方で、なかなか成果が出ないと、みんな途中で飽きて嫌になってしまうんだ」 綾錦の話に、菊乃は感じうるところがあった。 菊乃は、博士になりたいという夢を抱いている。けれども、それは、あまりに漠然とした希望だ。日々、本を読んで知識を蓄えているからといって、それだけで博士になれるほど世間は甘くない。長い年月の間には、何かの拍子に自信を失って、勉強が嫌いになる可能性だって大いに考えられた。 「だから、嫌にならないよう、ちょっと先を目当てにするのさ。一年先までに『千字文』を全部覚えるとか、二年先までに碁を打てるようになるとか。『千字文』を覚えたら、その先の一年は『万葉集』を全部そらんじるというふうに、少し先へ先へと目標を置いていけば、十年なんてあっという間に経ってしまうんだよ」 綾錦にわかりやすく説き明かされ、菊乃は、一日一日の積み重ねが一年になり、一年一年の積み重ねが十年になることに、今さらながら気づいた。 苦手な三味線の稽古とて、歌乃のようにいっぺんに上手に弾こうとして、うまく弾けないから嫌になる。来春までに、とにもかくにも一曲だけ弾けるようになる、と目当てをつければ、さほど稽古は辛くない。 綾錦は、菊乃が納得したのを素早く見てとったようだ。菊乃の手を取り、声を強める。 「『仕方がない』って言い方が、わっちは一等、嫌い。いいかい、女郎だから『仕方がない』じゃなくて、女郎であっても『仕方はある』のさ」 女郎であっても仕方はある。女郎であっても仕方はある、仕方はある…… 菊乃の頭の中で、姉女郎の言葉がぐるぐると、廻り灯籠のように回っている。 今の今まで、自分は仕方なく廓にいるのだと、菊乃は思っていた。だが、綾錦の言い回しは、仕方なく女郎になっても、仕方次第で開ける道は変わる、というように聞こえる。 「菊乃、お前は、このまま子供でいたいと思っているだろう。だが、歌乃をごらん。黙っていたって、体はひとりでに大人になる」 綾錦は不意に菊乃の肩を抱き寄せた。姉女郎のしなやかな弾力のある腕に抱かれると、白粉や香とは違った、甘酸っぱい、心地よい匂いがする。 父の無骨な抱擁とは異なる、羽二重にくるむような姉女郎の柔らかい抱擁に、菊乃は戸惑いながらも、快く身を委ねていた。 これが、大人の女の人の匂いなのかな。 菊乃は母の腕を知らない。だから、もっともっと心地よさに満たされたくて、思う存分に息を吸い込んだ。 「のんべんだらりと流れに任せて生きているだけの人間が、運命を恨んでも、そりゃ筋違いってもんだろう。どうせ女郎にならなければいけないのなら、菊乃、俳諧でも三味線でもいい、一所懸命に稽古して、いくつもの武器を身につけておくんだよ」 綾錦は、菊乃の肩に回した腕に力を込めた。ひやりとした風に吹きさらされた物干し場にいるというのに、姉女郎の腕の内にある菊乃の体は、不思議なほどに温もっている。 「武器って?」 「お侍が肌身離さず帯びている刀のように、お前が培った才芸は、そのまま女郎としての武器になるんだ。そうなったら、お前は人並み以上の女郎になって、立派にここで生きていける」 綾錦の声は、どこまでも強く、また温かかった。江 戸町 二丁目の通りを売り歩いているのだろう。風に乗って、大福餅売りの「大福餅はあったかい、あったかい」というのどかな売り声が聞こえてきた。 大福餅は腹持ちが良くて安いから、禿や妓楼の下働きたちに人気がある。しかし、大福餅など食べなくても、菊乃の心の内は、ほっこりした気持ちの良い温もりに満ちていた。 「さあ、部屋へ戻ろうかね。歌乃が待っているよ」 綾錦に促され、菊乃は腰を上げた。 物干し場から廊下に出た。遠くに行灯部屋の戸口が見える。 菊乃は、先ほど、行灯部屋で睦み合っていた男女の話を思い出していた。 「姉様、間夫って、悪い人なの?」 菊乃には、間夫が悪人とはどうしても思えなかった。「色男、金と力はなかりけり」と揶揄されるがごとく、女郎を揚げる金もない優男かもしれないが、先の女は、男に逃げようとけしかけられ、心底、嬉しそうな様子だった。 脱廓し、二人して捕まったとしても、互いが互いを求めての結果だとしたら、女も男も後悔はしないのではなかろうか。 菊乃の質問に、綾錦はしばし考え込んだ。 ふっと顔を上げ、歯切れの悪い言い方で答える。 「悪い……かもしれないね。心中で思いを貫こうが、もてあそぶだけもてあそんだ後に裏切ろうが、男が間夫である限り、女郎は不幸にしかならない」 女が思いを貫き、男が女の思いを裏切る。確かに、女が裏切らない限り、どちらに転んでも、不幸になるのは女ばかりだ。 「それじゃ、不幸になるってわかっているのに、女はどうして間夫に惹かれるの?」 まるで、物覚えの悪い丁稚小僧みたいで嘆かわしいと、菊乃は思う。恋だの、情人だのという言葉を、耳から得て知っているだけで、恋の経験などあろうはずがない子供が、せつない恋の心持ちを推し量ろうとするのは、しょせん、無理な話なのかもしれない。 綾錦は、妓楼の廊下を素足でぺたぺたと歩きながら、ふっと笑う。 「どうしてだろうねえ。恋は闇って言うが、それだけじゃないと思うよ。たぶん、心が弱くなった女は、優しいだけの男でも、寄りかかり、頼りたくなるんだ」 菊乃は、姉様は……姉様はどうなの?と訊こうとして、口を噤んだ。 「でもね」前を歩く綾錦が、やにわに振り向いた。 「恋が、まるっきりいけないというわけじゃない」 菊乃は、黙って立ち止まった。 綾錦も歩を止め、ずらりと並んだ女郎たちの部屋を眺める。 「恋は、毒にも薬にもなるからね。恋に身を滅ぼす女もいれば、恋によって生きる力を得る女もいる。相手を想う心が、生きていく糧になることもあるし、想いが高じて嫉妬に変わり、身を持ち崩す場合もある」 綾錦の視線は、もう女郎部屋のあたりにはなかった。もっと、もっと遠くを見つめ、その表情はどことなく険しかった。 それって峰春 先生とのこと? どうしてそんな怖い顔をするの? 廓の噂によれば、綾錦は芙蓉から峰春を奪ったとされている。 「姉様……」 すべてにおいて出来すぎの姉女郎の顔が、にわかに凄みに満ちたのを見て、菊乃は声を失った。恐ろしさに、思わず綾錦の部屋着の袖を摑む。 「どうした?」 綾錦が、驚いたように自分の袖を見遣った。 「ううん、姉様が遠くに行ってしまったみたいで……」 菊乃は言葉を濁した。一点非の打ち所のない姉女郎にも綻びが生じる時があるのだ。しかし、それを口に出すことはさすがに憚られた。 綾錦は口に手を当てると、硬かった表情をぺろんと隠した。 「ふふっ、今の話は菊乃にはちと難しかったかね。わっちは遠くになんか行かないよ。別に身請けの話があるじゃなし、まだまだここで菊乃や歌乃に目を光らせて、お前たちを一人前にしなけりゃいけないからね」 そんな意味じゃないのにな。 さりげなく話をすり替えた綾錦に、菊乃は不満を覚え、胸の中で訴えた。 部屋の前では、歌乃がやきもきしながら、姉女郎と菊乃の帰りを待っていた。 「んもう、菊乃だけじゃなく、姉様までもが、どっかに行っちゃうんだから。これから、出かけるのでしょう?」 すでに、歌乃は、ちゃっかり身支度を整えていた。 「ああ、菊乃も早く支度をしな。揚屋町 の師匠の家へ行くよ」 峰春の稽古場に向かうのである。綾錦は、手早く気に入りの衣裳を選び出している。白梅と歌乃に手伝ってもらいながら着替えを済ませた。 「おや、もう鉄 漿 水 がないね、歌乃や、明日買ってきておくれ」 化粧直しをしようとして、鉄漿壺の中身が少なくなっているのに気づいた綾錦が、歌乃に申し付けた。 鉄漿をむらなく歯に染めるには、最低でも二日に一度は塗らなくてはならない。綾錦は、身だしなみに気を遣うたちだから、毎日鉄漿をする。自然と鉄漿の減りは他の女郎たちより早くなり、歌乃は鉄漿売りから頻繁に鉄漿を調達してこなければならなかった。 「あい」と頷いた歌乃は、綾錦の脱いだ部屋着を畳みながら、無意識にぽつんとぼやいた。 「あーあ、近頃、お宮さんが休んでるから鉄漿を買っといてもらえないわね……」 白梅に小菊模様の帯を締めてもらっていた菊乃は、歌乃のぼやきをぼんやりと聞いていた。そういえば近頃お宮の姿を見ていない。朝は必ず台所にいたお宮が、ここ、ひと月ほどちらりとも姿を現していなかった。 「歌乃!」 綾錦の不審に満ち満ちた声が響いた。 「お前、今、お宮に鉄漿を買っといてもらえないと言ったね? お前は、鉄漿売りからじかに買っているんじゃないのかえ?」 綾錦に咎められ「しまった!」と言わんばかりに歌乃の表情が変化した。 「えっと、あの……、姉様ごめんなさい! 鉄漿売りは六つの時刻に来るんです。廓の中で丁子屋に一番早く来るの。それでその、寝坊して間に合わないことがあって。そうしたら、お宮さんが部屋持ちの姉さん方に頼まれた分から少し分けてくれて」 歌乃はしどろもどろに姉女郎に弁解した。大 店 ゆえ注文の量が多いからだろうか、吉原に来る鉄漿売りは、なぜかいの一番に、江戸町二丁目にある丁子屋へ商売をしに来ていた。 「下女のお宮に分けてもらったのは一回きりかい?」 綾錦が、歌乃の目を覗き込んで訊ねた。これ以上の隠し事は許さないといった目つきである。しょぼんと肩を下げ、歌乃は観念したように目を伏せた。 俯いた歌乃の横顔をしみじみ眺めてみると、濃く長い睫毛が目のきわにうっすらと陰翳をつけ、驚くほど大人びた面立ちになる。歌乃とは四六時中一緒にいるというのに、菊乃は今までまったく気づいていなかった。 「……いいえ、もう長いことお宮さんから分けてもらってました。五つの鐘を合図にお宮さんのところに集まることになってたわ。ほかの部屋の禿たちも、みいんなお宮さんから買っていたから、お互い姉様には内緒にしとこうって約束になってて……」 五つの鐘が鳴る頃には菊乃も起床していたが、てっきり鉄漿の用意をする禿たちは、鉄漿売りから購入しているのだと思っていた。 「なるほど、女郎ほどじゃないが禿たちも夜は遅いからね。他人にまとめて買っといてもらえば、ゆっくり朝寝ができるってわけか。しかも、禿同士が口を噤んでしまえば、姉女郎たちにばれる心配もなしと」 「ごめんなさい……」 歌乃は、見るも気の毒なほどしょげ返っている。 菊乃は、綾錦と歌乃のやり取りを見ながら事のなりゆきを案じていた。綾錦は決して癇癪持ちではないが、妹女郎が噓をついたり、道理に外れた行動をしたりすれば、その場できっちりと叱りつけ、しかるべき罰を与えるからだった。 しかし、菊乃の心配は杞憂に終わったようだ。 しばし黙り込んだかと思うと、綾錦は仔細ありげな顔つきで歌乃のほうに向き直った。 「歌乃、今まで鉄漿を自分で買い求めていたと噓を言っていたのは許されないことだ」 綾錦の低く諭すような口調に、歌乃は小さく「あい」と答える。 「だけどね、お前が口を滑らせたおかげで、大事なことが明らかになったよ。お前たち、鉄漿は皆同じ壺から分けてもらっていたんだろう? だから、芙蓉さんに盛った毒は鉄漿に入っていたわけじゃない。もし鉄漿に仕込んであったら、わっちやほかの姉さんたちの体にも斑点が出ていたはずだ」 「あっ!」 菊乃は大声を発していた。 芙蓉に鉄漿水を運んでいたのは禿の波路だったが、菊乃は、子供が毒など盛るはずがないと高をくくって、鉄漿の可能性などついぞ忘れてしまっていた。 「そういえば、お宮さんから鉄漿を分けてもらい、めいめい自分の部屋へ運ぶ時、波路はいつもわっちと一緒だったわ。わっちは波路が嫌いだから話をするわけじゃないけど、急いで運ばないと姉様たちにばれてしまうから、みんなすぐに部屋へ戻るの。だから、その間に、鉄漿に毒を混ぜるのは、どう考えても無理な話だわね」 歌乃がきっぱりと断言した。 (続く)
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