蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章 風花千里
第四章 疑惑 綾錦の部屋に戻ると、菊乃は携えてきた竹村伊勢の菓子箱を開けた。 わあっ、と小さな歓声。部屋にいた連中の顔が綻んだ。女郎に限らず、女はいつだって、甘い物に目がない。 「あら、今日は最中饅頭なのね」 初糸が目を輝かせて、箱の中を見ている。 《最中の月》で有名な竹村伊勢だが、近年、二枚の煎餅の間に餡を挟んだ、最中饅頭なる菓子を売り出した。 といっても、最中饅頭は竹村伊勢の発案ではない。日本橋の菓子屋で出したのが始まりだが、そこは抜け目のない吉原の菓子屋のこと、良質な材料を使って本家より格段に旨い菓子を作り出した。今では《最中の月》や巻き煎餅と並び、最中饅頭は竹村伊勢の看板商品となっていた。 「西村屋の旦那が、お前たちにお菓子でもと、今朝ご祝儀をくれたんだよ」 綾錦は、菓子に手を伸ばした女たちに告げた。 西村屋は、芙蓉の一件の後、夜明けを待たずに帰った。その際、綾錦にたんまりと祝儀を置いていったようだ。 「姉様も、お一つ」と、菊乃は懐紙の上に最中饅頭を一つ載せ、綾錦に勧めた。 「あい、おかたじけ。だけど、わっちは後でよいわ。お茶だけおくれ」 綾錦が白絹のように繊細な手を振って、やんわりと断る。 「甘い物より、姉様は、そろそろ、こっちのほうが……」 初糸が、親指と人差し指で、盃を摑み飲み干す真似をした。 「ほっほっ、確かに、揚屋町 山屋の豆腐が食べたい時分だねえ」 妹女郎の戯れに、綾錦は、にんわり微笑んで応じた。 その直後、血相を変えた八橋が部屋に入ってきた。 「あっ、八橋姉さん、お菓子がありますよ」 歌乃が声を掛けるそばから、八橋は綾錦に近寄った。 「花魁、ふっ、芙蓉さんが死んだのは……」 八橋は階段を駆け上ってきたのか、息が上がっている。 「芙蓉さん? 自害したんじゃなかったのかえ?」 綾錦が、弓張形の眉を微かに寄せた。 「ええ、自害は自害ですが、なんでも、体中に、まだら犬みたいな斑点が出ていたとか」 「斑点? いやっ、気持ち悪い」 震えながら、初糸が我が身を搔き抱いた。 女郎は肌の美しさに気を使うから、吹き出物一つでも大騒ぎをする。ましてや全身に斑点が出るなど、想像するだけでも総毛立つのだろう。 八橋は、階下の内所で、芙蓉の死に様について聞き込んできたらしい。 さっき内所がざわついていたけど、そういえば町名主のおじさんたちの顔も見えたっけ。 菓子屋へのお使いを済ませて妓楼に戻った際、内所の奥で、数人の大人が額を寄せ合って何やら相談しているのを、菊乃は目にしていた。 吉原では、表沙汰にしたくない揉め事や事件が起こると、役人を通さず、内々で始末をつけてしまう場合が多い。 芙蓉という名高い花魁の自害は、それだけでも人の耳目を属 すような事件であり、しかも裏にはまだ曰く因縁がありそうな状況である。客商売の廓にとっては、あまり公にしたくないに違いない。どうしたら事件を穏便に始末できるか、今頃、階下で秘策を練っているのではなかろうか。 「ああ、やっぱり……」 得心がいったというふうに、綾錦が頷いた。 「花魁、何か心当たりがおありで?」 ようやく息の整った八橋が心配そうに訊く。綾錦がなぜ芙蓉の変事を知っているのか、合点がいかない様子だ。 「いえね、昨晩、西村屋の旦那が芙蓉さんの傷を検 めた時、胸元の白粉を塗っていない部分に痣のような斑 が見えたそうだ。して、その斑というのは、梅毒か何かの病によるものなのかえ?」 真剣な眼差しで、綾錦は八橋の言葉を待つ。 不特定多数の客を取らねばならない商売柄、女郎に性病の恐ろしさは常について回った。それは、序列が上の花魁とて同じ。決して他 人 事 で済まされる問題ではない。子供の菊乃でさえ、人情の機微はわからなくても、病の知識だけは早くから身についていた。 しかし、たとえ梅毒を患ったとしても、全身の皮膚がまだらになるまで周囲が気づかないという事態が起こりうるのか。廓というどこにいても人目にさらされる環境で、下働きならともかく、筆頭の花魁の異変に誰も気づかなかったとは考えにくい。 以前、梅毒に冒され、全身の皮膚がぼこぼこになった部屋持ちがいたが、店の者が感づいて、すぐさま廓外にある妓楼の寮に連れ出した。 それとも、病を得た本人がひた隠せば、案外、人に知られずに済むんだろうか。 変わり果てた新造の顔を思い出し、菊乃は首を捻った。 八橋が、堰を切ったように一気にまくし立てる。 「いいえ。梅毒は紅い斑でしょう。芙蓉さんのは黒っぽい斑だったそうです。わちきには詳しい事情はわかりません。でも、お医者の見立てでは、芙蓉さん誰かに毒を盛られていたんじゃないかと」 八橋の言葉に気圧されたように、皆が押し黙った。 「自害なのに、毒を盛られていたとは、どういうことかえ?」 しばらくの間を置き、綾錦が口を開いた。八橋へ向けた眼差しに、不審の色がありありと見える。 「いえ、毒を盛られて死んだんじゃないんです。芙蓉さんは長きにわたって少しずつ毒を飲まされていたようで、肌がまだらになったのを苦にして、自ら死を選んだんじゃないかと」 八橋は体をのけぞらし、刃物で喉を突く真似をした。 「で、その毒というのは?」 「どうやら、石見銀山のようです」 石見銀山は、その名を知らぬ者のないほど有名な殺鼠剤だ。猛毒の石見銀山の粉を水で溶き、餌に混ぜた物がよく妓楼の台所に仕掛けられている。 花魁がそれを誤って食したとは、到底考えられない。やはり、芙蓉の存在をよく思わない輩が、長期にわたって微量の毒を密かに飲ませ続けたのだろう。 「それじゃ、毒を盛ったのは廓の者ということになるね」 しばし沈黙した後、綾錦は、あたりを気遣うように声を低めて言った。 一同は、無言で頷く。行き当たりばったりの毒殺ならともかく、頻繁に毒を飲ませる行為は、芙蓉の近くにいる人間にしかできない。 「いったい、誰が……」 初糸が顔を強張らせ、震えている。 「綾錦、ちょっといいか?」 襖の外で声がした。しゃがれているが太く張りのある声。妓楼の主、丁子屋源右衛門である。 「お入りくんなまし」 襖が開き、ずいっと源右衛門が入ってきた。大柄な体に、岩井茶の羽織がよく似合う。 源右衛門は腰を下ろすなり、煙草入れに付いた煙管を取り出した。煙草入れは黒の桟留革。特別の誂え品のようで、地味だが、よく見ると意匠を凝らした作りになっていた。 八橋が、すかさず源右衛門の前に煙草盆を置いた。 「花魁、昨晩は遅くまでご苦労なことだったな」 目を細めて煙草を燻らせながら、源右衛門は綾錦をねぎらった。 「いいえ、親仁さんこそ、お疲れさまでありいした」 綾錦は、芙蓉の亡骸が座敷から運び出される様子を、西村屋と一緒にずっと見ていたらしい。菊乃が部屋に帰り、寝入ってしまった後の話だ。 店には泊まりの客も数多くいた。それゆえに亡骸の始末は粛々と進められ、すでに弔いが執り行われているかのごとき様相だったそうだ。 「芙蓉は、どうも体の具合が優れなかったらしい。かわいそうに、それで気が塞ぎ、いきなり自害に及んだようだ」 源右衛門はふくよかな顔を曇らせた。芙蓉の死に動揺したせいなのか、たるんだ下瞼が、いつにも増して黒ずんでいた。 通常、楼主は忘八 と呼ばれ、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八徳を忘れなければ務まらないと言われる。 源右衛門とて、平素は煙草入れの前金具に彫られた大黒天のように、福々しい顔つきで妓楼を仕切っているが、ひとたび揉め事や事件が起これば、冷酷非情に采配を振るった。 逃亡を企てた女郎を折檻させたり、間 夫 と心中しそこなった花魁を切り見世に売り飛ばしたりするのは日常茶飯事。楼主にとって大事なのは、あくまで店であり、客であった。 親仁さん、疲れてるみたい。 菊乃は、しげしげと源右衛門の顔を眺めた。面やつれしたのか、今日は垂れ気味の頬が、口元のあたりに陰気な翳をつくっていた。疲労の色が濃いのは、やはり芙蓉が誰かの恨みを買っていた形跡があるからだろう。 いつの時代も、妓楼の頂点にいる花魁には、媚びへつらい、おべんちゃらを言う連中が取り巻いている。実意のない連中のこと、裏を返せば、嫉妬や憎しみの感情を肚の底に隠し持っていたとしても、まったく不思議はなかった。 芙蓉に魔の手を伸ばした人物は店の内にいる。源右衛門は、楼主として、稼ぎ頭の女郎を台なしにした人間を野放しにしておくわけにはいかないはずだった。 綾錦は、伏し目がちに一点を見つめたまま黙っていた。源右衛門が芙蓉の死因について、どこまで話す気があるのか、量っているようでもある。 綾錦の目を覗き込むようにして、源右衛門が訊ねた。 「芙蓉が何か隠し事をしていたのを、お前は知っていたか?」 「斑点のことですかえ? それは昨夜、旦那様から聞きいした。でも、それより前は知りいせん」 綾錦は、ゆっくりと首を振った。芙蓉が部屋を出る時は、常に化粧を施し、仕掛けをまとっていたから、湯殿で出くわさない限りわかるはずがなかった。 「やはり西村屋さんは見ていたか。そうなのだ。芙蓉は何者かに毒を盛られていた。石見銀山だ。それも一気に殺すつもりではなく、じわじわと苦しめるのが目的だったようだ」 込み上げてくる怒りを抑えきれぬように、源右衛門は表情を歪めた。 「お医者様が、そう、おっしゃったざんすか」 「ああ。初めは、気分が悪い、というくらいのもんだったろうが、斑点が出ているのを見ると、かれこれ一年は毒を飲まされていたようだ」 「一年も! そんなに長い間、白梅や千鳥が気づかなかったんでありいすか」 膝に重ねた綾錦の両手に、ぐっと力が籠る。白梅とは、芙蓉に付いていた振袖新造だ。 「芙蓉も毒のせいだとは思わなかったのだろう。養生に出されては、せっかく持ち上がった身請け話も立ち消えになる。だから、よほどうまく体の不調を隠していたらしい」 「昨日の枡屋で隠しきれなくなったんでありいすね。で、望みが潰えて、自害を……」 綾錦の声が、糸を引くようにして消える。 そういえば、と菊乃は首を傾げた。綾錦の供をして入る湯殿で、しばらく芙蓉の姿を見ていなかった。 女郎は起床してすぐに湯殿へ行くから、だいたい入浴の時間は一緒になる。だから内湯は知った顔で一杯なのだ。だが、その中に芙蓉がいた記憶はなかった。朋輩にまだらになった体を見られたくなかったか、あるいは風呂にも入れないほど体調が優れなかったか。 「毒を盛ったのは、誰かわかるか?」 源右衛門が話の核心を衝いてきた。 「わかりいせん。けれど、芙蓉さんに毒を盛りたいお方は、山といるかと思いいす」 「ほう。それは、お前もかね?」 源右衛門の問いに、場の空気が一瞬で凍りついた。 あのことだ。菊乃は、初糸と目配せをする。 菊乃が、禿 として綾錦のもとへ来たばかりの二年前、一つの事件があった。 お座敷が引け、部屋に戻ってきた綾錦が襖を開けた途端に、ばったりと倒れた。襖の内側に、箏の絃が一本、ぴんと張られていた。暗がりで絃に足を引っ掛けたのが、転倒の原因。部屋の主が不在の間に、何者かが細工をしたのだ。 綾錦の周囲では、芙蓉の仕業に違いない、と誰もが思った。綾錦の部屋の前は芙蓉の座敷だし、その日、芙蓉は身揚がりで、部屋に籠っていたからだった。 幸い、綾錦は手首を挫いただけで済んだが、夜のこととて、下手をすれば大怪我を負ったかもしれない。そうなると収まらないのは周りのほうだ。 新造になったばかりの初糸は、内儀のもとを訪れ、芙蓉を詮議するよう掛け合った。八橋も口添えしたはずだ。だが、内儀はどこかの禿の悪戯だろうと取り合ってくれなかった。 花魁同士の確執など、少々のことなら見て見ぬ振りをするのが店の方針。 結局、陰湿な小細工をした者の正体は不明のまま、事件は、うやむやにされてしまった。 一方の芙蓉も、あらぬ疑いをかけられたと源右衛門に訴え出たため、初糸は叱られ、綾錦は、芙蓉に謝罪することを余儀なくされた。 綾錦は初糸をかばい、一応は、芙蓉に妹女郎の非礼を詫びた。けれども芙蓉は、すべての非は綾錦にあるとばかりに、自分の馴染客にあることないことを吹聴したのだった。 それ以来、廓内では、芙蓉と綾錦の不仲が噂されるようになり、峰春 が綾錦に心変わりしたのを境に、二人の確執は決定的になっていた。 親仁さんは、姉様を疑っているんだ。 菊乃は、むかついてならなかった。 芙蓉は底意地が悪く、あちこちで朋輩と悶着を起こしていた。 しかし、諍いがあったにもかかわらず、綾錦は芙蓉を立てこそすれ、楯突くことはしなかった。芙蓉と不和になれば、初糸や禿たちにまで迷惑が及ぶ、と考えていたからだろう。 そんな妹思いの姉女郎が、露見することも恐れず芙蓉に魔手を伸ばすわけがない。 「わっちが芙蓉さんに毒を盛ったとして、何か得になる話がありんしょうか?」 綾錦は、源右衛門を真正面から見据えた。 馴染の数こそ芙蓉に及ばないものの、綾錦には羽振りのいい客が多く付いていた。実質、丁子屋の稼ぎ頭である。近頃、客足の遠のいてきた芙蓉から妬まれる局面はあっても、綾錦が芙蓉を羨む事情はないに等しかった。 さらに、峰春の心は完全に綾錦に傾いている。嫉妬に狂った芙蓉に毒を盛られるならともかく、綾錦が芙蓉を殺めようとする理由など考えられない。 「そうか、わかった。芙蓉の話は、これで終わりにしよう」 綾錦の迫力に、何か感じ入るところがあったのか、源右衛門がぎこちなく咳払いをし、「ところで」と話題を変えた。 「綾錦、お前は今日から呼出しの筆頭になるから、そのつもりでいなさい」 「わあ、姉様」 「花魁、おめでとうございんす」 初糸と八橋が笑顔で手を取り合っている。菊乃は、歌乃に向かってにんまりと微笑んだ。 今まで丁子屋の呼出しは、芙蓉と綾錦の二人だけだったから、芙蓉亡き後、綾錦が筆頭呼出しに引き上げられるのは当然の処遇だった。 けれど、こうして改めて楼主から直々に告げられると、周囲の喜びもひとしおだった。 「喜んで勤めさせてもらいんす」 綾錦は、初めて微かな笑みを見せた。 「いずれ、もう一人呼出しを仕立てなけりゃいかんのだが、まだほかは、帯に短し襷に長しだ。しばらくはお前一人で務めてくれ。それと、わかっているだろうが……」 周囲の注意を引くつもりか、源右衛門は一瞬の間を置いた。 「筆頭になればなったで、身に覚えのない妬みを買うかもしれぬ。せいぜいお前も気をつけるんだぞ」 源右衛門が内所に戻っていくと、菊乃をはじめ、部屋にいた全員が綾錦を取り囲んだ。 「花魁、親仁さんの話を聞いたところでは、芙蓉さんは殺されたようなもんですね」 八橋が緊張した面持ちで、綾錦に擦り寄った。 番頭新造は客を取らないから、ほとんど化粧もしない。しかし、八橋は三十を過ぎているのに今なお色艶が良く、目鼻立ちも整っていた。さすが元昼三 だっただけのことはある。 八橋が妓楼の廊下を歩く時、年増の色気に惹かれてか、思わず振り返る客がいることを、菊乃もよく知っていた。 「ああ、たとえ自害しなかったとしても、早晩、毒中りで、いけなくなっていたことだろうね」 綾錦はわずかに唇を嚙んだ。きっと見えない毒殺魔に憤りを覚えているのだ。 「その上、親仁さんったら、花魁を疑うような口ぶり。もう、わちきゃ、腸 が煮えくり返りそうでしたわ」 八橋は語気を強めた。源右衛門に腹を立てていたのは、菊乃だけではなかったようだ。 「筆頭になったら、今度は姉様に魔の手が忍び寄るんじゃないかと、わっちは、そっちのほうが心配で……」 初糸が、おろおろ声で訴える。根が優しい性質だから、姉女郎に異変があったら、かえって初糸のほうが参ってしまうかもしれない。 菊乃は、隣の歌乃に、そっと耳打ちした。 歌乃が「何?」と、のっそりと菊乃の顔を仰ぐ。周囲が慌てようが騒ごうが、いつでものんびりした調子を崩さない。 「ねっ、わっちたちで、こっそり犯人を捕まえてやろうじゃないの」 「え? 捕まえるって、菊乃は犯人がわかっているの?」 袂で口元を隠し、歌乃が囁く。歌乃の口は割合大きめなので、うまく隠しおおせているとは、お世辞にも言えなかった。 「ばかだね、それをこれから探るんじゃないのさ」 芙蓉を死に追い込んだ犯人が、いまだ捕まらずにのうのうと過ごしていると思うと、怒りのために菊乃は居ても立ってもいられなかった。 それだけではない。本音を言えば、来る日も来る日も代わり映えのしない、輪廻のような廓の生活に、菊乃は飽いて、退屈し切っていた。 たとえ、芙蓉を殺そうとした犯人が危険極まりない人物で、自分が窮地に陥る状況になったとしても、指をくわえて事態を静観しているよりははるかにまし。吉原という閉じられた世界に心が押し潰されるくらいなら、退屈しのぎに犯人捜しへ首を突っ込むのも悪くない、と菊乃は密かに思っていた。 「えー! そんなの、怖いよ。敵は毒を持ってるんだからね」 周りの目に気づき、菊乃は「しっ」と歌乃を遮ったが、時すでに遅し。 「そこで何をこそこそ話してるんだい?」 切れ長の涼やかな眼に咎めるような色を含んで、綾錦が菊乃たちを睨んでいた。 「えっ、あの、その」 菊乃は、気の利いた返事で場を取り繕おうとするが、言葉がつかえてうまく出なかった。 どぎまぎする菊乃を尻目に、歌乃が平然と答えた。 「菊乃が、二人で犯人を捕まえようって言うんです」 新造二人が「まあ」と呆気に取られる中で、綾錦が声を上げて笑った。 「面白いことを言うじゃないか。でも、子供二人で捜すのは大変だし、危険だよ。一年も露見せずに毒を盛っていたところを見ると、相手は相当、奸智に長けている」 綾錦があまりにゆったりと構えているので、菊乃は焦 れったくなった。 「だけど、姉様。そんな悪賢いやつが近くにいるのに、放っておいていいの?」 ここで引くわけにはいかない。菊乃の中で好奇心という虫が抑えきれぬほど暴れていた。 「いいわけないだろう。だけど、お前たち二人で何ができる? 親仁さんたちだって、手をこまぬいているはずがない。八方に手を尽くして犯人を捜すに決まってるさ」 綾錦が渋面をつくり、駄々っ子をあやすような口調で諭した。 「でも……」 菊乃は反論しようとして、言い淀んだ。 今まで同心や岡っ引の来た形跡がないのを見ると、おそらく芙蓉の毒中りは町方の知るところではない。だから源右衛門は、仲間内で制裁を加えるためだけに犯人捜しをするはずだ。それでもし犯人がわからずじまいだったとしても、芙蓉が死んだ以上、妓楼にとってはさしたる損失ではない。 だとすれば、つまるところ箏の絃の事件のように、曖昧模糊とした幕切れになってしまうのではなかろうか。 「そんなの駄目!」気がつくと、菊乃は声高く叫んでいた。 「何が駄目なんだい? ひとたび犯人捜しをするとなったら、ここのやつらは、草の根を分けてでも捜し出すさ」 「本当に、店は気を入れて捜してくれるの? 姉様の事件のように、うやむやにされてしまったら、芙蓉さんは浮かばれない……」 生前の芙蓉に義理があるわけではないが、知らずに毒を盛られ、その挙句に自刃せざるをえなくなった女の無念を思うと、子供の菊乃でさえ、悔しさで癪の虫が治まらない。 菊乃の訴えを聞きながら、綾錦は、唇を軽く嚙んで考え込んでいた。 「わかったよ。確かに、このままうやむやになったら芙蓉さんが気の毒だ。ただね、お前たち二人で、この件に首を突っ込むのは許さないよ」 「どうして?」 「子供だけじゃ危ないからさ。大人と一緒にやんな」 「大人って?……」 姉女郎の意図がはっきり読めず、菊乃は、混乱したまま声を漏らした。 綾錦は、悪戯っぽい笑みを浮かべて首を縦に振った。 「ふふん、ちょうど退屈していたところ。わっちも、なぜ芙蓉さんが毒を盛られたのか、真実を知りたいのさ」 綾錦は、まだ見ぬ敵に挑むように虚空を見つめた。 「なあんだ。姉様も、わっちと同じこと考えてたんだ」 菊乃は、拍子抜けして息をついた。綾錦の反撃は、菊乃の真意を量る手段だったようだ。 にゃあ。 火鉢のそばで丸くなっていたゆきが、菊乃を激励するかのように、尻尾を振った。今日はおとなしく部屋で遊んでいる。 「花魁、わちきも、方々で話を聞き込んでまいります」 「わっちは、白梅さんに、それとなく芙蓉さんのことを訊ねてみます」 八橋と初糸も、交互に申し出た。二人とも急に活気づいてきたところを見ると、菊乃ほどでないにしろ、かなり事件に関心があるのかもしれない。 「それじゃ、菊乃と歌乃は、千鳥と波路に訊いてみておくれ」 綾錦は事もなげに命じた。子供に何か訊ねる際は、同じ子供が適任と考えているらしい。 だが、命じられたほうは気が重い。昨晩、芙蓉の死を伝えた後、千鳥も波路も気の毒なほど憔悴していた。気の弱い波路は、しばらく泣き暮らす羽目になるかもしれないから、芙蓉の話を聞くなら、千鳥のほうだろう。しかし、ゆきを介して少しは親しみを抱いたものの、菊乃にとって高慢ちきな千鳥は、依然扱いにくい相手だった。 「えー、あの化粧お化けに? 嫌だなあ」 「これ、菊乃、ほんにお前ときたら口が悪い」 綾錦が手を伸ばし、菊乃の口を軽くつねった。 「いたたた……あい、姉様、わかりました。ちゃんと千鳥に話を聞きますってば」 菊乃が大げさに痛がるそばで、歌乃がぷっと吹き出した。 「菊乃も、そろそろ自分でお化粧をしてみたらいいのよ」 悔しいが、菊乃は、いまだ他人の手を借りなければ化粧ができない。 「やなこった」 憎まれ口とともに、菊乃は歌乃の広い額を小突いた。 「花魁」と妓夫 の呼ぶ声がする。引手茶屋から、綾錦に呼出しがかかったらしい。 「みんな、道中の用意をしなんし」 綾錦が音吐朗々たる声で指示を出す。花魁道中の始まりだ。 ちりりりん…… 黒塗りのぽっくり下駄を履いて、菊乃は妓楼の外へ出た。歩みを進めるたびに、ぽっくりの台に仕込まれた鈴の音が、軽やかに響く。 んもう、歩きにくいったらありゃしない。 高さが三寸もあるぽっくりを履くと、足の捌きが難しい。普段履きの下駄や草履なら、思いきり駆けることもできようが、ぽっくりで思いのままに動けば、間違いなくつんのめって転ぶ。菊乃は、体の自由を奪うこの履物が大嫌いだった。 だが綾錦は、お使いや用足しに下駄や草履を履くことを認めても、道中では必ずぽっくりで歩かせた。おそらく、ゆうるりと進む花魁道中にいらつき、禿、特に菊乃が走り出したりしないよう、先手を打っての配慮だろう。 菊乃と違って、歌乃は嬉々としてぽっくりを履く。もともと物静かな性質で、妓楼の内でも外でも走ることは滅多にないので、さして不都合はないのだ。 それより歌乃は、高下駄を履いて、容姿がすらりと見えることのほうが嬉しいようだ。時折小さく鈴を鳴らしながら、しゃなりしゃなり、と澄まし顔で歩いている。 夕方、通り雨があったせいで、路面がしっとりと濡れていた。 禿はともかく、廓の習いとして女郎は冬でも足袋を履かない。だから、時雨に濡れるとかなり冷たい。 素足で下駄を履く綾錦や初糸のことを考えると、菊乃は、道中までに雨がやんでよかった、と思った。 「行きいすよ」綾錦が合図をすると、行列が静かに進み出した。 若い衆 が丁子屋の定紋入りの箱提灯を持ち、綾錦の行く手を照らす。綾錦の背後では、妓夫が長柄の傘を差しかけた。その後ろに、初糸と八橋が続いた。 昨今の世情から、かつての吉原にあったような、大人数の派手な道中は影を潜め、どこの妓楼でも、花魁に付く新造の数は大幅に減っている。 もっとも、綾錦の場合は、気の合わない新造は要らぬとばかり、もとから初糸と八橋以外の新造を抱えていない。だから、綾錦の道中は、常に同じ顔触れで練り歩いていた。 また、昨日まで芙蓉の道中に付き添っていた遣手のお滝が、今日から綾錦の道中へついた。それ以外にも、花魁専用の煙草盆などを抱え、若い衆が何人か従っている。 菊乃と歌乃は、それぞれ綾錦の傍らに控え、同じ速度で歩いた。菊乃は守刀の入った錦の袋、歌乃は縮緬の振袖を着せた市松人形を携えている。 今日の綾錦の出で立ちは、白地の仕掛け。威風堂々とした虎が、左の肩口から身を乗り出している、大胆な意匠である。 前帯は鮮やかな高麗納戸で、竹の葉模様の縫い取りが垢抜けている。一見すると、地味に見える衣裳だが、仕掛けの内に重ねた小袖の緋色の階調が、夕闇にぼうっと浮かび上がり、悩ましいほどだ。菊乃と歌乃の振袖も、綾錦の帯と同じ竹の葉の模様だった。 かっつ、かっつ 綾錦が見事な外八文字を踏み、悠然と道中を導いていく。 隣に並ばせた、小柄だががっしりとした若い衆の肩に片手を添え、綾錦は脇目も振らずに歩を進める。手を懐に入れ、肘を張って歩く様子は、大国の殿様と相対しても見劣りしないほどの貫禄があった。江 戸町 二丁目の木戸を越え、仲之町 の通りに出ると、一夜の興を求めて来た男たちの視線が、綾錦に集中した。 見ろよ、八文字を踏むあの腰つき、たまんねえな。 ばーか、女と言えば肌の艶だよ。ほれ、綾錦の肌は、滑らかで吸い付くようだぜ。あーあ、一度でいいから、あんな女を抱いてみてえもんだ。 かしましい吉原雀が、涎を垂らさんばかりに、好き勝手なことをほざいている。 菊乃は、隣を歩く綾錦の足元に、素早く目を走らせた。 外八文字は、片足を外に大きく回し込んだのち、地面に着いた足を、ちょいと後ろに引く、という歩行の作法。黒塗りの三枚刃の駒下駄を履いて歩く姿は、花魁の意気を感じさせるが、これがどうして、一朝一夕に会得できる歩き方ではない。 何せ、駒下駄の高さは七寸近い。腰の位置をぴしっと決め、ふらつかずに歩くには、筋の力と体の釣り合いを必要とした。綾錦とて、妓楼の廊下で二年近くも稽古をしたのだ。 ぽっくりではあったが、菊乃も外八文字の真似をしてみる。かこっ、かこっ。綾錦の駒下駄が奏でる凛々しい音とは、比べものにならぬほど情けない貧弱な音が出た。 「菊乃、ふざけないで真っ直ぐ歩きなんし」 菊乃の後ろにいた初糸が、小声で注意した。 綾錦は八文字に集中している。「余計な戯れで、姉女郎の気を乱すな」と言いたいのだ。 わっちったら、なんで八文字なんか踏んでみたんだろう。 廓のしきたりになんか染まるものか、と強く心に決めていた菊乃だったが、近頃は無意識のうちに姉女郎の真似をしていることがある。 廓のしきたりとは、化粧、衣裳、廓言葉、それに、手練手管など。 手練手管は、言葉に聞き覚えがあるだけで、その実情はよくわからぬ。八橋によると、助平な男を虜にするための技巧だという。 ただでさえ廓の淫蕩な空気に馴染めない菊乃は、手管なんて要らないよ、と八橋に食ってかかる。しかしながら、八橋は取り合ってくれない。それどころか、大きくなったら、花魁がきっと手ほどきをしてくれるから大丈夫、と頓珍漢な返事をする始末。女郎たちは皆、長い年月を廓で過ごすうち、疑いもなくしきたりを受け入れてしまうらしい。 いや、女郎だけではない。菊乃自身にも覚えがある。 たとえば、昼夜のべつまくなしに、閨中から漏れ聞こえる嬌声。初めは反吐が出るほど嫌でたまらなかったのに、盛りがついてとち狂った蛙の鳴き声と思えば、大して気にならなくなった。今まで考えてもみなかったけれど、三年も廓に押し込められているうちに、菊乃の中で、何かが変化しているのかもしれなかった。 次第にやる瀬ない気分が募り、菊乃は空を仰いだ。 薄く懸かっていた雲の切れ間から、皓々たる月が顔を覗かせている。 綺麗だなあ。父さんと一緒に見た、洲崎の浜の月みたいだ。 ほぼ真円に近い月の美しさに感心して、菊乃は大きく息をついた。しかし、初糸に背を小突かれ、すぐさま行列を乱さぬよう、しっかと前を向く。 菊乃を産んですぐみまかった母に代わり、父は一人で菊乃を育てた。 浪人者だった父は、菊乃が幼いうちは剣術の指南をしたり、町内の子供に読み書きを教えたりして生計を立てていた。 だが、江戸の町では、すでに剣術指南所の数が飽和状態で、寺子屋も町内に何軒も存在していた頃である。幼い子供を抱えた生活の中での指導は、時間の融通が利かないことが多く、父の指南所は弟子の数を大幅に減らしてしまった。 生活に窮した父は考え抜いた末、新たな仕事を求めて、蔵前のさる札差の用心棒となった。菊乃が七歳の時だった。 洲崎は、その頃、父と出かけた思い出の場所だった。 洲崎では、父の知人が漁師をしていた。父と同じく、俸禄を失って浪人になった男で、流れ流れて洲崎にたどり着いた。漁の手伝いをしているうちに、漁師の娘とねんごろになり、そのまま居ついてしまったのだそうだ。 用心棒の職を得て家を空けがちになった父は、普段は構ってやれない娘への罪滅ぼしのつもりだったのだろう。泊りがけで知人を訪ねるついでに、潮干狩りとしゃれ込んだ。 菊乃は、初めて見る大海原に目を瞠いた。どこまでも続く、だだっ広い遠浅の海。沖に、何艘かの帆掛け舟が点在している情景が、手に取るばかりに見えた。 右手に広がるは、緩やかに続く海岸線。一方、遠く東の方角に連なるは、うっすらと霞む山並み。 海の上になぜ山があるの? 不思議に思い、菊乃は父に訊ねた。娘の突飛な思いつきがよほどおかしかったのか、父はひとしきり大笑いをしたのち、優しく説明した。 あれは上総の国さ、洲崎は、西は芝浦から高輪、品川、東は、房総の国々まで見渡せる場所。初日や月を拝みにくる人が後を絶たない、江戸の名所なんだよ。 耳を澄まして、寄せては返す波の音を聞く。穏やかではあるが、このとてつもなく大きな自然の前で、人は本当にちっぽけな生き物なんだなと、菊乃はつくづく思った。綿々と続く時の流れに抗って生きることなど、しょせん無理な話。波間を漂う夜光虫のごとく、人は流れの赴くままに身を任せる以外、なんの手立てもないのだ。 昼間、潮干狩りに興じた菊乃と父は、夕方、弁財天を祀る洲崎神社へと出向いた。 お参りを済ませ、境内から出たところで、少し前まで浅蜊を掘っていた砂浜を眺めた。 遅い春とはいえ、海辺の宵はまだ肌寒い。浜風に身を震わせながら菊乃が目にしたのは、月光に照らされた黄金の千畳敷だった。 人っ子一人いない、どこまでも続く砂浜は、まばゆいばかりの光に照らされ、まるで神々の御殿のように見える。壮大な自然の造形に、菊乃は深い感動を呼び覚まされ、しばらくの間は声も出せず、父と一緒にその場に立ち尽くしていた。 漁師の家で歓待にあずかり、夜、父と床を並べて横になっても、菊乃の興奮は収まらず、金色の砂浜が目の奥にちらついて、いつまでも眠れなかった。 翌日、帰宅した菊乃は、食べきれぬほどの浅蜊の裾分けを考えている父に向かい、洲崎へまた連れて行ってくれろと、ねだった。父は「容易 いことよ」と笑って請け合った。 だが、その約束は、とうとう果たされることはなかった。二年後、父は、雇い主を襲った剣客と斬り合いになり、命を落としてしまった。 父さんと母さんは、あの月のように、わっちのことを空から見てるんだろうか。 菊乃は、思わずぎゅっと目をつぶった。鼻の奥がつんと痛くなる。今さら考えてもどうにもならぬ運命 なのに、月夜は、寂しさが、満たされない思いがひときわ募る。 今宵の席が近づいてきた。江戸町一丁目、駿河屋。大門近くの名だたる引手茶屋だ。店の前には、すでに女将が出ていて、花魁の到着を今か今かと待ち構えていた。 大門の脇に、菊乃は知った顔を見つけた。 銀次さんだ。 駕籠舁きの銀次が、客待ちに飽きたのか、相棒と雑談をしていた。 丁子屋の提灯を持った若い衆に気づくと、銀次は、道中のほうへ視線を寄越した。 銀次の目は、ひとりでに綾錦に吸い寄せられていく。 嫌だ、姉様ばかり見ないでよ。 綾錦に張り合っても無駄なことは重々承知しつつも、菊乃はなんだか面白くなかった。 自分も美しく、行儀良く見えるよう、菊乃は精一杯しゃんと背筋を伸ばし、しとやかな足取りで歩く。簪に付いた銀の飾り短冊がきらきらと煌くように、小首を傾げてみる。 短冊の光に誘われるように、銀次の目が綾錦から菊乃へと注がれた。一瞬、銀次と菊乃の視線が絡まり合った。 菊乃はその場に立ち止まり、銀次に向かってたおやかに微笑んだ。銀次は口をぽっかりと開け、菊乃に見入ったままだ。 ざまあ見ろ、だ。わっちだって、このくらいの手練は心得てるんだからね。 菊乃は笑みを浮かべたまま、綾錦に従い、できるだけ優雅に駿河屋の暖簾をくぐった。 (続く)
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