蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章 風花千里
第三章 花魁の死 「うわぁー!」 どこかで、獣の咆哮のごとき、狂おしげなわめき声がした。 はっ。 髪を摑んで引きずり出されるように、菊乃は深い眠りから覚めた。 今、何時なのか。あたりは、まだ真っ暗だ。 「菊乃ぉ」 隣で寝ていた歌乃が、心細げな声を出す。歌乃はすでに布団の上に起き直っていた。 「なんだろ、今の? 喜助の声みたいだったけど」 喜助は行灯に油を差すために、深夜、各部屋を回っていた。 菊乃も掛布団を蹴飛ばし、起き上がった。そばに置いてある衣桁から、自分の小袖を取って羽織った。 「おっ、花魁が大変だあー」 喜助が廊下を、ばたばたと乱れた足取りで走っていく。 「花魁って、うちの姉様のことかしら……。わっち、なんだか怖い」 歌乃は、両手で自らの肩を搔き抱く。少し体が震えているようだ。 薄暗がりの中、菊乃は部屋の中を確かめた。 ここは綾錦の居室だが、今は歌乃と二人だけ。初糸と八橋は、階下の部屋で寝ていた。 昨夜、綾錦に仕舞をつけた西村屋は、そのまま丁子屋に泊まった。だから、綾錦は、西村屋と共に、別の部屋で休んでいるはずだった。 喜助の言う「花魁」が綾錦のことだとすれば、急に癪でも起こしたか。いや、さしこみが起きたとしても、西村屋が一緒ならば、あれほど喜助が慌てることはない。 しかし、外の廊下を挟んであるのは、芙蓉と綾錦の持つ座敷だけだ。すると、やはり「花魁」とは、芙蓉のことを指しているのだろうか。 「ちょっと様子を見てくる。歌乃は、ここで待ってて」 菊乃は勇んで襖を開けた。歌乃と違い、菊乃の中では恐怖より好奇の心情が勝っていた。 廊下に滑り出た。板張りの氷のような冷たさが、素足を通して伝わってくる。 目の前の襖が開け放たれていた。芙蓉が客を招く座敷である。 芙蓉が持っている中では、一番広い部屋だが、今日の芙蓉は勤めを休んだはずだ。使ってない部屋に喜助が油を差しにくるのは、すこぶるおかしい。 ん? 菊乃は座敷を覗いて、懸命に目を凝らした。 喜助が忘れたのだろう。室内に、油差しと蠟燭立ての載った盆が置かれていた。小さな蠟燭の炎が、菊乃を誘うように、ゆらり、ゆらありと揺らめいている。 喜助は階下に人を呼びに行ったのか、どこにも姿が見えなかった。 座敷に人が臥せっていた。新雪のように真っ白な仕掛け。昨日、枡屋の顔合わせで見た、芙蓉の仕掛けに違いない。 菊乃は「花魁」と小声で芙蓉に呼びかけた。でも、返事はない。 恐る恐る、室内へ足を踏み入れ、芙蓉のそばに近づいた。 「ひいっ」 菊乃の口から、虎落笛のような、引きつった声が漏れた。 と同時に、へなへなと脱力し、その場にへたり込む。腰が抜けた。 白い仕掛けの肩口に縫い取られた芙蓉の花が、紅檜皮色にべったりと染まっている。 すぐ傍らに、まだ血の跡も生々しい短刀が、存在を誇示するかのように鈍く光って転がっていた。 「菊乃!」 名を呼ばれ、菊乃はおずおずと振り返った。 菊乃の視界に飛び込んできたのは、廊下の暗がりに立っている人影。綾錦だった。 綾錦は居室から二間離れた座敷に寝ていたはずだが、やはり喜助の声で目を覚ましたのかもしれない。綾錦の隣に寄り添う人物は、その姿勢の良さから判断して西村屋であろう。 「姉様……」とうめいたきり、菊乃は絶句した。言葉を続けようにも、舌が麻痺したかのように動かない。 「こんな夜中に、何をしているざんす」 綾錦が、ぴしりと言い放つ。薄暗いので表情まではわからない。でも、かなり厳しい顔をしているのは間違いない。 「花魁が……、芙蓉さんが、血を流して倒れていんす」 綾錦の声でひとまず落ち着いた菊乃は、淀みそうになりながらも座敷の惨状を明かした。 「何え、芙蓉さんが血を?」 肩で闇を搔き分けるようにして、綾錦が座敷に入ってくる。長襦袢の上から小袖を羽織り、細帯を結んだだけの姿だった。 倒れた芙蓉の前まで来た綾錦は、すうっと息を吞んだ。 「菊乃、お前は部屋に戻っていなんし」 「でも……」 「これは、子供が見るものではないざんす」 悪さをした子を咎めるような眼差し。それに、口答えは許さないということだろう。綾錦の物言いには、反論する隙などまったく見出せなかった。 座り込んで芙蓉の身を検 めていた西村屋は、畳の上の短刀に気づくと力なく首を振った。 「もう、事切れている。医者の見立てを待たなければならないが、どうやら芙蓉さんは、自害したようじゃ」 「自害? なぜ……」 綾錦の声が心持ち震え、闇に解けていく。 階下から、複数の人間が上ってくる気配がした。楼主と内儀、それと若い衆 か。騒ぎ立てて、まだ大勢いるほかの客の迷惑にならぬよう、皆、無言で二階に向かってくる。 妓楼の人々が、燭台を手に座敷へ雪崩れ込んできた。芙蓉付きの振袖新造や番頭新造の顔も見える。皆が皆、強張った面持ちで、次々と芙蓉の死体を囲んだ。 大人たちの勢いに押し出される格好で、菊乃はしぶしぶ廊下に出た。 歌乃が待つ部屋からは、物音一つしない。綾錦とのやり取りは小声で行われたから、歌乃に事の仔細はわからないだろう。 しかし、何か並々ならぬ事態が起きたことは察したはずだ。今頃、布団を引っかぶって震えているかもしれない。早く部屋に戻って、安心させてやらなくては。 菊乃は、銀箔が貼られた襖の引手に手を掛けた。 あれっ? 千鳥と波路は、どうしたんだろう? 菊乃は唐突に、芙蓉につき従っていた二人の禿 を思い出した。二人は花魁の部屋で寝起きしているはずだった。芙蓉がいないのに気づき、心細がっているのではないだろうか。 菊乃は、歌乃が待つ部屋に戻るのを後回しにし、芙蓉の居室へと歩き出した。千鳥たちが起き臥しする居室は、先ほどまで綾錦と西村屋が共寝していた部屋と相対していた。 ん! 芙蓉の部屋の前に立った菊乃は、たまげて目を剥 いた。 金箔を散らした部屋の襖が細めに開き、まん丸い目玉二つが、縦に並んでいる。 引手に両の手を掛けると、菊乃は「えいっ!」と、力任せに襖を開けた。 「ぎゃっ」「おへ」蝦 蟇 が潰れたような声がしたと思ったら、折り重なって人が倒れてきた。 「千鳥に波路!」 菊乃は跪いて、親亀と子亀のごとく重なった二人の禿を助け起こした。 「あんたたち、何やってんのさ?」 「外が騒がしいから、なんかあったのか、と思って」 波路が、いとものんびりと答えた。外の騒ぎなど他 人 事 という風情である。 「芙蓉さんが向こうの部屋で倒れているんだよ。なぜ、あんたたちが気づかないのさ」 菊乃の容赦ない指摘に、千鳥が怒りを露 にした。 「今夜、姉様は隣の部屋に床をのべて休んでいたの。わっちらは、この部屋から出ちゃいけないときつく言い渡されていたんだもの、気づかなくて当たり前でしょ!」 芙蓉は別の座敷で臥していたので、二人は姉女郎の行動に気づかなかったらしい。 「芙蓉さん、死んでたよ」 菊乃は目を伏せて、真実を伝えた。 「な、なぜ? 姉様、そんなに具合が悪かったの?」 千鳥が両手を口元に当て、目を瞠いた。細い指先が小刻みに震えている。 波路のほうは、何を言われたか皆目わからないというように、視線が宙を彷徨うばかりだった。 「とにかく、今、芙蓉さんのもとに大人がわんさか集まってる。あんたたちは、ここで静かに待ってるしかないと思うよ」 「菊乃は……どうするの?」 鼻が詰まったような声で、千鳥が訊いた。 「わっちも部屋に戻る。こんな時、子供がいてもなんの役にも立たないようだからね」 菊乃は大げさに肩をすくめた。たぶん、禿が束になって押し掛けようが、すぐさま現場から追い出されるに決まっている。 千鳥と波路は、うなだれて襖の奥に引っ込んだ。菊乃の目の前で襖がぴしゃりと閉まる。 あの子たちは先行き、どうなるのだろう。 禿の養育は姉女郎に任されている。その姉女郎が死んでしまったのだ。千鳥も波路もまだ十三だから、女郎として一本立ちするには、あと何年かかかる。 菊乃は固く閉ざされた襖を見つめながら、二人の禿の前途に思いを馳せた。 案の定、歌乃は布団に潜っていた。菊乃は小声で「歌乃」と呼びかけた。 だが、歌乃は、返事はもとより身動き一つしない。なかなか戻らない菊乃を待ちくたびれて眠ってしまったのだろうか。 菊乃は、掛布団の端を、そっとめくった。 巣穴に籠った栗 鼠 のごとく、歌乃が手足を縮めて丸まっている。しかし、菊乃が布団の中に顔を突っ込むと、たちどころに非難めいた視線が向けられた。 「なんだ、起きてるんじゃないさ」 呼びかけを無視した歌乃に腹を立て、菊乃は勢いよく掛布団を剥いだ。 「やめてよ! 菊乃のばか!」 剥がされた布団を取り返そうと、歌乃が体を起こした。 菊乃は布団を摑んだまま、軽々と飛び退いた。 「やあだよ。ここまでおいで、っと……」 改めて正面を向いた菊乃は、歌乃の頬が濡れているのに気づいた。 「歌乃ったら、泣いてたの?」 「ふん、すぐ戻るって言ったのに、いつまで経っても帰ってこないんだもの。菊乃なんて大っ嫌い!」 歌乃は襦袢の袖で、目のあたりをごしごし拭った。 「ごめん。なんだか気になって、千鳥たちの様子を見に行ってたんだ」 「千鳥? そういえば、うちの姉様の声がしてたけど、芙蓉さんに何かあったの?」 涙で半ば潤んだ目をぱちぱちさせて、歌乃が訊く。 菊乃は、外に漏れぬよう声を潜めた。 「芙蓉さん、前の座敷で自害してた」 「噓!」ひび割れた玻璃に映したかのように、歌乃の表情が歪んだ。 「噓じゃないさ、この目で見たもの。血がたくさん流れてた」 「いやっ、怖い!」 だしぬけに、歌乃がすがりついてきた。 「大丈夫だよ。外に姉様と西村屋の旦那様がいるし、内所の衆も上がってきてるから。それより、もう寝よう」 「そんな話を聞かされたら、怖くて一人じゃ眠れやしない。お願い、一緒の布団で寝て」 おびえた顔で、歌乃が訴えた。 「いいよ。わっちもすっかり体が冷えちゃったから、一緒に寝よう」 菊乃は掛布団を元に戻し、歌乃の布団に潜り込んだ。続いて歌乃も滑り込んでくる。 「わぁ、あったかい」 布団には歌乃が寝ていた時の温もりが残っている。菊乃は腹這いになり、冷え切った体を押し付けた。 「ねえ、菊乃、手を繫いでもいい?」 歌乃が、おずおずと手を差し出す。歌乃は不安で仕方がないのだ。こんな時、菊乃は、自分のほうが年下であるにもかかわらず、歌乃を愛おしく思わずにはいられない。 歌乃が廓に来てから、まだ一年。歌乃は、浅草寺裏に住む常磐津の師匠の娘だが、あわよくば花魁に仕立てたいという母親の思惑で妓楼に預けられていた。 とはいえ、それは表向きの理由だ。実のところ、若い男を取っかえ引っかえ家に引っ張り込んでいる母親が歌乃を煙たがり、熨斗を付けて丁子屋に送り込んだというのが、もっぱらの噂だった。 母に邪慳にされ、家を追われた歌乃。満たされない思いを抱え、孤独を嫌うのは致し方ないことなのかもしれない。 菊乃は朋輩の心の痛みを少しでも推し量ろうと、歌乃の手をぎゅっと握った。 体をぴったりと寄せ合い横になっているうちに、歌乃は静かな寝息を立て始めた。 部屋の外では、依然として人の蠢く気配が伝わってくる。 芙蓉さんは、なぜ刃に伏したんだろう? 後輩の綾錦が台頭してきたとはいえ、丁子屋一の花魁という名声を、ほしいままにしてきた芙蓉である。いったい何の不足があって、自ら命を絶ったのか。 まだ人情の機微がなんたるかも知らぬ菊乃には、いくら考えても答えが出せそうにない。 突然、芙蓉の痛ましい有様が脳裏に蘇り、菊乃は総毛立った。完全に寝入ったらしくぴくりとも動かぬ歌乃に、思わず抱きつく。 歌乃の体温が、菊乃の体にじんわりと染み透った。 真綿に包まれたような心地に、菊乃は、ようやく夢の中へと落ちていった。 うーん。 両腕を高々と上げ、菊乃は力いっぱい伸びをした。体内に滞った血潮が一気に巡り出す。 昨晩は寝が足りなかったせいか、起きた直後は頭がぼんやりしていたが、伸びをしたおかげで、目がすっかり覚めた。 「これ、はしたない。菊乃、前くらい隠しなんし」 すかさず綾錦が、妓楼の内湯の入口でたしなめた。 菊乃は小さく舌を出すと、持っていた手拭いで裸の前を隠した。 洗い場の小桶の湯で、さっと体を流したのち、綾錦は湯船に身を沈めた。 菊乃と歌乃がその後に続く。銭湯と違い、石榴 口 のない開放的な内湯は、明るく広々として気持ちがいい。 「ほぅ、いい湯だこと」 綾錦が手拭いを湯に浸し、うなじから肩のあたりを撫でた。滴り落ちていく湯が、綾錦のふっくらと張りのある肌に弾き返され、丸くなって鎖骨の上に留まる。 綺麗だなあ、まるでびいどろの玉みたいだ。 菊乃は、吸い寄せられるごとく水の滴に見入る。水滴は、できることなら、そっとつまんで、宝物をしまってある小箱に収めたいほど美しかった。 「さて、体を洗おうっと」 菊乃は、洗い場に出ようとして、湯船をまたぎ越した。 子供にとっては、ちと湯が熱い。首まで浸かっていると、頭がのぼせてきそうだった。 すかさず、綾錦の小言が飛んだ。 「お待ち。それじゃ、烏の行水じゃありいせんか。もうわずか浸かっていなんし。よく温まってから肌を糠袋でこすると、白く美しゅうなりいす。湯が熱かったら、胸まででいいから、浸かっておきなんし」 綾錦に腕を摑まれ、菊乃は湯船の中に引き戻されてしまった。 昼の四つ過ぎ。昨晩、芙蓉の一件があったにもかかわらず、妓楼の内湯は起き抜けの女郎たちで賑わっていた。 まったく、槍が降ろうが、人が死のうが、廓の勤めは休みなし。客の来楼に備え、女郎はいつものように身支度を整えなくてはならない。 芙蓉が果てていた座敷は、今朝は襖が閉じられていた。すでに芙蓉の亡骸は運び出され、座敷の中は綺麗に掃除されているようだった。亡骸は土葬にし、芙蓉の故郷の越中から出てくる父親へ、遺髪を渡すと聞いている。 しかし、あれほど隠密裡に事の始末がなされたというのに、湯殿の中は芙蓉の自害の話で持ちきりだった。 人の口に戸は立てられぬというが、ただでさえ口さがない女ばかりの妓楼である。自害という人の耳目を引く話題に飛びつくなというのは、どう考えても無理な相談だった。 「ねえ、ご存知? 花魁には身請けの話があったみたい」 どこから聞き込んできたのか、洗い場の端で体を洗っていた部屋持ちの女郎が、得意げに団子鼻を蠢かした。 「噓でしょう? 身請けの話があるのに、自害なんか、するもんですか」 隣にいた、髷を島田に結った新造が、疑わしそうに部屋持ちの鼻を眺め回した。 「噓ではないわ。この耳で、親仁さんとお内儀さんが話しているのを聞きいした」 「まあ! 本当? それで、そのお方は、どこのどなたなの?」 新造が大声を出した。話の出所が確かだと踏んだのか、身を乗り出して聞いている。 「しいっ、声が高い。ほら、一年ほど前から通っていらっしゃる、神田青物問屋の……」 部屋持ちにたしなめられ、新造は、肩をすくめながら声を落とした。 「なーるほど、森田屋の又兵衛殿?」 「そう、それよ。ああ、わっちもあんなお大尽に身請けがされてみたい」 部屋持ちは、胸の前で揉み手をしながら、あらぬ方向を見つめた。夢を吸い込むかのように、団子鼻の穴が大きく膨らむ。 「でも、身請けの話があるのに喉を突くなんて、やっぱり間 夫 のせいかしら」 新造が、意味ありげな笑みを浮かべた。 「ああ、峰春 先生のこと?」 部屋持ちは、さらに声を潜めて囁いた。おそらく、洗い場に一番近い菊乃の耳にしか聞こえなかっただろう。綾錦は、湯船の奥のほうで、歌乃に何やら言い聞かせている。 「丁子屋の筆頭呼出しが袖にされたのよ、花魁、さぞかし悔しかったでありんしょう」 「だけど、袖にされたのはこの春のことでありいす。もう半年も経っているのだから、いいかげん、諦めもつく頃じゃないの。それより、花魁が自害したのは、又兵衛殿がお嫌いだったからじゃないかしら……」 部屋持ちと新造の話が途絶えた。二人とも体を洗い終えたのか、腰を屈めながら湯船へ向かってくる。 菊乃は耳を洗い場のほうへ向け、何食わぬ顔で部屋持ちと新造の会話を聞いていた。 菊乃にとって、芙蓉の身請け話は初耳だった。 だが「峰春先生」という名はよく知っている。揚屋町 に住む山村峰春なる高名な東江流の書家で、芙蓉や綾錦は峰春の弟子。菊乃も手ほどきを受けていた。 芙蓉が峰春に袖にされたのは、まだ梅の花が咲いていた今年の春のことである。峰春は長らく芙蓉の師であり、間夫でもあったのだが、その関係にひびが入った原因は、何を隠そう菊乃の姉女郎、綾錦だった。 峰春と綾錦、どちらが先に仕掛けたのかはわからぬが、いつの間にか相思相愛の仲になったらしいという下世話な話は、近頃、菊乃の耳にも入ってきていた。 そういえば、春めいてきた頃から、揚屋町の峰春の指南所に出向く際、綾錦は、菊乃と歌乃を先に帰すようになった。禿たちの手習いは短時間で済むからだが、今思えば、稽古にかこつけて、綾錦は峰春との逢瀬を重ねていたのかもしれない。 「菊乃、出なんし。のぼせてしまうよ」 湯に浸かっていた綾錦が、やおら立ち上がった。 菊乃は、心の中を見透かされたような気がして、胸がどきんとした。 しかし、綾錦はそれ以上菊乃に構うことなく、湯船から出る。知らぬ間に、歌乃はもう洗い場に陣取っていた。 「あい」 入ってきた部屋持ちと新造と入れ替わるように、菊乃も急いで湯船を出た。 観音様か、弁天様か。 洗い場に立つ綾錦の後ろ姿は、思わず拝みたくなるほどの威厳に満ちていた。 なだらかな肩に締まった腰。ほどよい肉 置き。それらの何にも増して、白く滑らかな肌。 二十二歳という女盛りの体が、朝陽を吸って、まばゆいばかりに照り輝いている。 はぁ、姉様みたいな体になる日が、いつか、わっちにも来るんだろうか。 遅れて湯船から上がった菊乃は、綾錦の裸身と我が身とを引き比べ、たいそうな嘆息を漏らした。 背丈は伸びたものの、長い手足はまだほっそりしていて、菊乃は蚊蜻蛉 のように華奢な体つきだ。 綾錦が、菊乃を振り返った。 「何を考えていんす」 振り向きざま、顎から首筋にかけての緩やかな丘が微かに翳り、綾錦の顔をいっそう神秘的に見せていた。腋の間からは、豊かで円やかな乳房が覗いている。 誇らしげにつんと上を向いた綾錦の薄紅の乳首から、菊乃は、つと目を逸らした。見慣れた姉女郎の裸なのに、なぜか恥ずかしさでいたたまれない。 「なんでもありいせん。留桶 を取ってまいりいす」 気恥ずかしさを隠して俯いたまま、菊乃は洗い場の隅に積まれた留桶を取りにいった。 留桶は小桶より大きく、一つ一つ、持ち主の名前が入っている。 菊乃は「あやにしき」「うたの」「きくの」と墨書された桶を重ねて持ってきた。 「持ってきいした」 それぞれの前に留桶を置く。 本来なら、先に湯船から出た者が取りに行ってしかるべきなのだが、歌乃は人待ち顔にしゃがんでいるだけで、自ら動こうとはしなかった。 「おかたじけ」綾錦は、非難めいた目で歌乃を一瞥してから、菊乃に礼を言った。 風呂番が、各々の留桶に湯を汲んでいく。 菊乃は持ってきた糠袋を湯に浸すと、ちゃっちゃっと体をこすった。 糠袋は綾錦の手製で、糠のほかに、小豆の粉や高価な鶯の糞を混ぜてある。糠だけのものより、肌の色艶を良くするという効能があるそうだ。 「菊乃、それではいけんせん。糠袋を貸してごらん」 綾錦が、菊乃の背に回った。 「体が温まっているから、そんなに力を入れずとも垢は落ちいす。その代わり、優しゅう、まんべんなくこするざんす」 糠袋を受け取ると、綾錦は菊乃の背中を控えめにこする。首の後ろから背中一面へ、菊乃の手が届かなかった部分まで入念に撫で上げた。 「次は、前を向きなんし」 綾錦に促され、菊乃はしゃがんだまま、狆 ころのようにくるんと回った。 たっぷりと湯を含んだ絹の糠袋が、綾錦の意のまま、菊乃の肌にひたと吸い付く。 首筋から腕、さらには胸から腹へ。すべすべした袋が乳の周囲に触れると、菊乃はくすぐったいような、せつないような気分になり、無意識に身をよじった。 「さっ、腕と足は自分でやってごらん」 綾錦は、菊乃に糠袋を返すと、自分の糠袋を手に取った。 姉女郎によっては禿や新造に体を洗わせる者もいたが、綾錦はすべて自らやらないと気の済まないたちだ。体が柔軟なので、手を回せば、背の真ん中まで楽々届いてしまう。他人の手を借りるまでもなかった。 菊乃は糠袋で手足をこすりながら、目は歌乃の胸乳に引き付けられていた。 毎日のように一緒に湯殿に来ているが、改めて見ると、菊乃の胸はまだ平らに近いのに、一つ違いの歌乃の乳は丸みを帯び、吸物椀の蓋ほどに大きくなっている。 あと一年も経てば、わっちも胸が膨らむのかな。 歌乃の胸の盛り上がりを見る限り、菊乃はあまり羨ましさを感じなかった。乳が大きくなると、重たくて動くたびに邪魔になりそうだと思ったくらいである。 しかし、いずれは、否でも応でも、菊乃の体には変化が訪れるはずだった。 なんだか、女子 って面倒臭いな。 もやもやした悩ましい気分を払拭すべく、菊乃は、躍起になって糠袋を足の甲にこすり付けてから、素早く立ち上がった。 「わっち、もう一度、湯船に浸かってきいす」 「外は寒いから、よおく温まりなんしょ」 ゆったりとした綾錦の声が、湯殿に明るく響いた。 菊乃は、再び湯船に体を沈めた。 「でもね、丁子屋一と謳われ、乙に澄ましていんしたが、死んだ花魁は、人目につかぬところでは、下卑た振舞いもあったざんす」 湯船の奥のほうで、こそこそと囁く声がする。菊乃と入れ替わりに湯船に浸かった部屋持ちだ。新造と共に、ずっとお喋りに興じていたらしい。 菊乃は会話の主に背を向けていたが、囁き声を聞き逃すまいと、一心不乱に耳を傾けた。 「まことに? それは、どんなことでありいすか」 聞き捨てならぬといった調子で、新造が訊く。芙蓉は禿や新造だけでなく、妓楼の使用人たちにも毅然とした態度で接していたから、部屋持ちの謗り口を根拠のないものと考えたのかもしれない。 「あのね……」 部屋持ちは、さも大事なことを告げるかのように、一呼吸を置いた。 「誰も見てないと思って、花魁が舌を出してたざんす」 「舌?」意図していた返答とは違っていたらしく、新造の声が裏返る。 「そっ、鍋島の化け猫じゃないけど、妖怪が行灯の油を舐めるみたいに、長ーい舌をべろんべろんって。わっちが花魁の部屋の前を通りかかった時、襖が少し開いていんして、その隙間から見えたざんす。もう、わっちはたまげてしまいんした」 部屋持ちの言い方が、次第にとげとげしくなってくる。 普段、上妓におもねってはいるが、部屋持ちは、大見世では最も地位が低い。気の悪い花魁に、端女郎のくせに、と侮蔑の目で見られることもあるから、芙蓉に対しても、以前からいい感情を持っていなかったのかもしれない。 「へえ、あの気位の高い花魁がかえ。一人で、そんなことしてたんでありいすか」 新造が大仰に驚く。すっかり部屋持ちの話に引き込まれていた。 「いや、近くに禿がいんした。ほっほ、禿がわっちに気づいて、花魁に目配せしたものだから、花魁ったら、ばつの悪そうな顔をして、わっちを睨みんした。ほんに、呼出しだと取り澄ましていても、しょせん、芙蓉さんは越中の百姓家の出。人の目がないと、お里が出るんでありいすねぇ」 自分の物言いに陶酔したのか、部屋持ちの声が、一段高くなった。 「お黙りなんし!」 いつの間にか、綾錦が湯船のそばまで来ていた。部屋持ちと新造を睥睨している。黒目がちの眼が怒りに燃えていた。 「お前たち、死屍に鞭打つような真似をして、恥ずかしくないのかえ」 「お、花魁」 新造が、熱い湯の中でがたがたと震えている。小声で喋っていたつもりが、綾錦に聞き咎められ、進退これ窮まる、といった様相だ。 話に夢中になっていた部屋持ちも、綾錦の近づく気配に気づかなかったと見える。綾錦に一喝され、口をあんぐり開けたまま、呪いがかかったように動かない。 「いいかげんにしなんし。お前たちは曲がりなりにも大見世の女郎。金棒曳きをする暇があったら、芸の一つも覚えなんし」 綾錦が、ぴしゃりと言い切った。金棒曳きとは、噂好きのことである。 「堪忍してくんなまし」 部屋持ちは、低い鼻づらが湯にくっつきそうなほど頭を下げると、そそくさと湯船を飛び出した。新造も身を屈めて、湯殿の出入口に突進する。 「ちょっと、前くらい隠しなんし」 菊乃は、新造のなりふりを目で追いながら茶々を入れた。すかさず綾錦が、小声で注意する。 「菊乃に歌乃、今ここで聞いた話は、他言無用でありいすよ」 もちろん、と菊乃は頷いた。どうせ、歌乃以外に親しく口を利く者はいない。 だが、思い返すと、先ほどの部屋持ちの話には、どうも腑に落ちないところがある。 「身請け話があったのに、芙蓉さん、どうして自害なんかしたんでありんしょう」 「あの二人、そんなことまで話していんしたか」 綾錦が急に鼻白んだ。やはり部屋持ちたちの会話をすべて聞いたわけではないらしい。 もちろん、綾錦には、部屋持ちと新造が峰春の話題を持ち出したことは言わない。菊乃とて、それくらいの分別はある。 「姉様は、身請けの話、ご存知でありんしたか」 「小耳には挟んでいんした。でもね、菊乃。わっちらがどんなに詮索したところで、まことの事情は芙蓉さんにしかわかりいせん。わっちらにできることは、芙蓉さんが迷わず成仏できるよう、こうして手を合わせるしかないんでありいす」 綾錦は、湯から両手を出し、胸の前で合わせた。 観音様だ。 目をつぶった綾錦の姿に、菊乃は我を忘れて見入る。 容姿端麗で思慮深く、本当に綾錦は非の打ち所がない。 風が吹き荒れた昨日の空模様とは打って変わり、今日はどんよりした雲が垂れ込め、今にも雨粒が落ちてきそうだった。 菊乃は、素足に下駄を突っかけて妓楼の外に出た。江戸町 二丁目入口の木戸まで歩き、ふと思案を巡らす。 菊乃は綾錦に言いつけられ、木戸から仲之町 へ出る角の菓子屋、竹村伊勢へお八つを買いに行くところだった。 竹村伊勢は、巻き煎餅と《最中の月》と名のついた蜜かけ煎餅が評判で、廓外にも有名な店である。 すでに夜の見世に備え、菊乃は髪を結ってもらい、袖と裾に青竹の模様を染めた振袖に着替えていた。 部屋に籠ってると、体が鈍って苛々してくる。せっかく外に出たんだもの、表を一回りしてくるくらい、いいよね。 菊乃は自分自身に言い訳をして、木戸を通った。 吉原の本通りである仲之町へ出ると、菊乃は、思いきり深呼吸をした。吉原には遊廓だけでなく、商いをする店があり、大工、左官などの職人も住んでいる。仲之町には、妓楼の中にはない、生活感に溢れた匂いがあった。 さて、どっちに行こうかな。木戸を抜けた場所で、菊乃は左右を見回した。 仲之町を右へ行くと、吉原唯一の出入口の、大門。左に行くと、吉原のどん詰まりである、水道尻に向かう。水道尻というのは水道の溜水のことだ。 水道尻へ至る道の右側に揚屋町、京町 一丁目、左側には角町 と京町二丁目があり、引手茶屋や妓楼に交じって、日用品を扱う商店や医者の看板が見える。 菊乃は、水道尻までの道すがら、路地をちょっと入り、小間物屋や絵双紙屋でも冷やかそうかと考えた。だが、帰りが遅くなると、また歌乃から恨まれそうだ。 それに、夜見世が始まるまで、綾錦が筝の稽古をつけてくれることになっていた。 だから、寄り道に費やせる時間は、多く見積もったとしても四半時くらい。菊乃は、あの手この手で女子供の気を引こうと待ち構えている店の前を、四半時で通り抜ける自信はなかった。 迷った末、菊乃は大門の方角へ足を踏み出した。 物見遊山にやってきた田舎武士や、夜見世まで時間を潰そうとぶらぶらしている遊冶郎がちらほら見受けられるものの、八つ半というこの時間、仲之町は、廓で働く人々がせわしなく動き回っていた。 引手茶屋の若い衆は、入口の周囲を丹念に掃き清めている。妓楼に出入りする裁縫女が、大きな風呂敷包みを手に、何やら急ぎ足で通り過ぎていく。 春は、仲之町通りの真ん中にたくさんの桜の木が植えられ、その時季限りの桜並木が出現するが、寒い今の時季は、ただ土埃が舞うのみだった。菊乃は、稲妻のように何度も左右に折れ曲がりながら、通行人の間を縫って走った。大門まではわずかの距離。少しでも長く体を動かしていたい。 元気を持て余している妹女郎を気に掛け、綾錦は、菊乃をよくお使いに出した。外に出れば気が紛れるという妹女郎の性質を知っているからだ。が、その一方で、お使いは禿の大切な仕事の一つでもある。 そもそも禿は、花魁の手足となって、日常生活を支えなければならない。 綾錦は一人でさっさと支度してしまうが、衣裳の着付けを手伝うことも、禿の仕事のうちだ。また、新造と手分けして、宿泊した遊客の世話もしなければならないし、廓内での買物は、禿が頼まれることが多い。言いつけられた用事をきちんとこなしていれば、自然と廓のしきたりや気働きを学べるというわけだった。 「あら、菊乃ちゃん」 「おや? 菊乃ったら、またよからぬことを考えているんじゃないかい」 大門までの道の両側には、名うての引手茶屋がずらりと軒を並べていた。その入口に立つ使用人たちが、蛇行しいしい走る菊乃の姿を認め、口々に声を掛ける。 丁子屋から大門にかけての店で働く人々は、皆、菊乃の顔を知っていた。一介の禿には珍しいことであるが、それにはわけがある。 菊乃は九歳の時、丁子屋へやって来た。 苦界と呼ばれる吉原に身を沈めることになったのは、浪人だった父が剣客に討たれて死んだからだ。 母はとうに亡く、身寄りのなくなった菊乃は遠い親戚だと称する男に引き取られた。それまで顔を合わせたことのない男だった。母の名前を知っていたから信用してしまったが、本当に親戚だったのかどうか、今となっては皆目わからない。 しばらくして、男は言葉巧みにいざない、菊乃を吉原の妓楼に売り飛ばした。 父と長屋で暮らしていた頃、菊乃は剣術の真似事をしていじめっ子を叩きのめし、近所の餓鬼どもを引き連れ、町じゅうを飛び回っていた。そんなお転婆娘にとって、狭く、白粉臭くて息詰まるような廓は、まさしく檻のようだった。 菊乃は、ちょくちょく妓楼を抜け出すようになった。 丁子屋の使用人の目をかすめて、大門までやってくる。だが、そこには四郎兵衛会所があった。女郎の脱廓を見張るところだ。 会所の番人は、通行のための切手を持つ者しか通さない。大門を突破しようとする菊乃はいとも簡単に捕まり、連れ戻された。その繰り返し。当然、戻った後には、お仕置きが待っていた。 仲之町通りで幾度となく繰り広げられた禿の脱廓騒ぎは、界隈の引手茶屋の使用人たちに、菊乃を印象付けるのに十分すぎるほどの役割を果たしたのだ。 「菊乃、もう逃げ出そうなんて考えるんじゃないぞ」 一軒の引手茶屋の前で、暇を潰していた幇間の福太郎が冷やかした。 「うるさい! べーだ」 振り向きざま、菊乃は福太郎にあかんべいをしてやった。背後で福太郎がげらげら笑う。 からかわれるのは癪だが、菊乃は、江戸町界隈の人々が、心の奥底では自分を気遣っているのだと知っていたから、不快な気分にはならなかった。 吉原に居ついた人間は、苦労人であったり、脛に疵持つ身であったりと、一筋縄ではいかない。しかし、世情に通じた者が多かった。 吉原は、曲輪 づくりの遊里の周りに、鉄漿溝 と呼ばれる堀が巡らされている。子供一人で逃げおおせられるわけがなく、脱走した菊乃を引き取りにきた若い衆に、考えの足りない子供だからと、とりなしをしてくれた者も何人かいた。だから、菊乃が綾錦付きになったことを一番に喜んでくれたのは、案外、仲之町界隈に働く人々だったかもしれない。 可能な限りゆっくり走ったつもりだったのに、菊乃は、あっという間に憎き大門の前に着いてしまった。 「ちぇっ、もう大門か」 忌々しさも手伝い、菊乃は門の前に立ち止まって呟いた。 大門は屋根が付いた板葺きの門で、大江戸一の遊廓、吉原のとば口にしては、ずいぶんと簡素なものだ。こんな貧相な門に行く手を阻まれているのが、菊乃には口惜しくてたまらない。 菊乃は、周りをそっと見渡した。左側には四郎兵衛会所があるが、どうやら顔馴染みの番人はいない。番人は交代制である。今、会所にいる番人は、門を出ようとする引手茶屋の下女たちを検めるのに忙しく、菊乃には気づいていなかった。 また、右には面番所が置かれていたが、おっかない役人の姿は近くに見えなかった。 菊乃は、着物の裾をちょいとつまんだ。 そのまま、ずんずんと大門に近づくと、片足を上げ、思いっきり門柱を蹴飛ばした。 「こらぁ! 何をしやがる」 後ろから叱声が飛んできた。 菊乃は、殻の中に引っ込んだ蝸牛のように、ひゅんと首をすくめた。 「あっはっは、相変わらずお転婆だな」 弾けるような高笑いが聞こえて、菊乃は首を伸ばして振り返った。 「なあんだ、銀次さんか。驚かせないでくんなまし」 怒鳴ったのが旧知の人間だとわかり、菊乃は、ほっと息をついた。 銀次は、吉原を仕事の足場にしている若い駕籠舁きだ。柄の悪い駕籠舁きが多い中、持ち前の快活さと足の速さで、夜は多くの贔屓が付いていると聞く。 大方今は、昼見世でいい目を見てきた田舎侍でも拾おうと、大門の付近に陣取っていたのだ。 「何が『くんなまし』だ。この先、花魁になろうってぇ禿が、脛むき出して武術の稽古かい?」 銀次は、大きな目をぐるんと回して呆れている。 当世の若者にありがちの斜に構えたところがなく、思ったことがすぐ表情に出る銀次を、巷では青二才といって馬鹿にする輩もいた。 だが、誰にでも愛想のいい顔を向けながら、裏では人の足元を掬うことばかり考えている腹黒い人間が、廓には多い。銀次の愚直なほど飾り気のない人柄を、菊乃はかえって好ましく思っていた。 「ふん。わっちは花魁になんか、なれないよ」 菊乃は断言する。自分は決して花魁の器ではない。 「じゃ、どうするんだ。ここは廓なんだぞ。切見世にでも行くつもりか?」 銀次は、じいっと菊乃の目を覗き込んだ。 銀次の澄んだ目に見つめられて、菊乃はうろたえた。歯切れのいい江戸弁を使ってはいるが、時折わずかに混じるどこぞの訛りにまで、銀次の人の好さが滲み出ていた。 銀次も、菊乃の脱廓騒ぎを知っている。そもそも銀次と親しく口を利くようになったのは、何度目かの脱走の時、妓夫 に引きずられて泣きわめいていた菊乃の耳元で、銀次が「今は我慢しな。いつか俺の駕籠でここから出してやるよ」と囁いたのがきっかけだった。 嬉しかった。たとえ、その場限りの慰めだったとしても、将来になんの希望も見出せないでいた自分に一筋の光明が差したかのようだった。 以来、菊乃は、ぴたりと脱廓を図らなくなった。計画もなしに、行き当たりばったりで廓を抜け出すのは不可能だと、子供ながらに理解したからだ。無駄な行動をいつまでも繰り返すほど菊乃は馬鹿じゃなかった。 それからすぐに、菊乃は綾錦の目に留まり、禿になった。今から二年前のことだ。 銀次が、今でも約束を覚えているかどうかはわからない。菊乃のほうとて、今では廓の暮らしにどっぷりと浸かっている。 「末は博士か、武術の師匠になるんだ」 菊乃は、腹にぐっと力を込めて宣言した。 「なんだってぇ、博士だと? こりゃあ大きく出たもんだな」 大げさに体を揺らして驚いたものの、銀次の目は笑っていた。菊乃の願望を、子供らしい、雲を摑むような夢だと思ったのかもしれない。 「噓じゃないさ。本だってたくさん読んでるもの」 「ほう、博士になろうってやつが、勉強を怠けて遊んでいていいのかい?」 銀次がにやっと笑う。菊乃がお使いの途中だと見抜いているのだ。 「今帰ろうと思ってたところだよ。銀次さんこそ、油を売ってると、いいお客を取られちゃうよ」 菊乃は、仲之町通りを顎でしゃくった。大小を差し、鼻の下を伸ばし切った田舎武士が、供を連れて歩いてくる。 「おっと、いけねえ、それじゃあな、菊乃」 銀次は上客をとっ捕まえようと、慌てて駕籠のある場所に戻る。 銀次のおどけたような走りっぷりを見て、菊乃は、おなかがよじれるほど笑った。 笑って、笑って、笑いすぎたか、気がつくと、目尻にうっすら涙がたまっていた。 (続く)
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