蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章 風花千里
第二章 ゆきに千鳥 「はい、お疲れさん」 綾錦がねぎらいの言葉を口にする。 丁子屋の居室に着いた綾錦の一行は、皆、一様にほっとした表情を浮かべていた。 他店の花魁と己が店の花魁との競演という、ただでさえ緊張を強いられる舞台。そこで主役の一人が倒れるというあの騒動。枡屋の座敷で、綾錦は朋輩を気遣い、芙蓉につきっきりだった。 それゆえ、綾錦についてきた振袖新造の初糸や、番頭新造の八橋の気の揉みようは、ひと通りではなかった。丁子屋に帰り着いた途端、どっと気が緩んだのは仕方のない話でもある。 二人の新造に比べると、菊乃はいたって元気だった。 常日頃、廓内に閉じ込められた窮屈な生活を送っている。今日のような催しは好奇心を刺激しこそすれ、疲れなど微塵も感じさせなかった。芙蓉のせいで催しが途中でお開きになり、正直、がっかりしたくらいだ。 「菊乃、帯がほどけかかっているから、こっちへおいで」 綾錦が、菊乃を呼んだ。こうして自室でくつろぐ時、綾錦は廓言葉を使わない。 廓言葉は遊廓内で使われる独特の言葉。語尾を「ありんす」「ありいす」「ざんす」などという特殊な言い方に変える習慣は、あちこちから連れてこられた女たちの野卑な訛りを隠し、客に悟られないようにするための方便だった。 田舎者だから江戸の言葉が喋れぬとは、人を馬鹿にするにもほどがある。 綾錦はきっぱりと言って、陰で廓言葉を蔑んだ。 昔はいつまでも訛りの抜けない花魁がいたかもしれないが、話し言葉など慣れさえすれば意のままに操ることができる。つまり、廓言葉に頼らなければ話せないのは女郎の怠慢だ、というのが綾錦の言い分だった。 とはいえ、まったく使わないとなると、内所の連中や遣手はいい顔をしない。だから、自室を一歩でも出たら「綾錦と申しいす」となり、禿 や新造もそれにならった。 おかげで、菊乃は慣れない廓言葉に翻弄されずに済んだ。丁子屋に来た当初は、うっとうしい言い回しに、吐き気を催すほどの嫌悪を抱いていた。しかし「廓言葉など南蛮語と思えばよい」と言ってのける綾錦のもとに来てからは、気が楽になり、今ではすっかり使い分けが身についている。 ここにいる時が一番気楽だ。 綾錦に帯を結び直してもらいながら、菊乃は胸の内で呟いた。 綾錦の居室は広い。ざっと十畳はあろうか。塗りの簞笥が二棹、鏡台に文机、部屋の隅には、花魁道中で用いる長い柄の傘が立てかけてある。ここはまったくの私室で、綾錦は、この部屋以外にあと二間、客を招くための座敷をもらっていた。 廊下を隔てた向かいには、芙蓉の居室がある。 序列によると、芙蓉は筆頭の呼出しなので、同じく三間続きの座敷でも、妓楼の表側に位置している。今はまだ主が戻っていないから、ひっそりと静まり返っていた。 枡屋では相当に具合が悪そうだったから、芙蓉はしばらく帰れないかもしれない。 芙蓉の青白い顔が、菊乃の頭の中をよぎった。 「はい、これでいい」 帯をヤの字に結び終えた綾錦が、菊乃の背中をぽんと押した。 「ありがとうございました」 「菊乃は元気がよすぎるから、すぐに帯が崩れる。大見世の禿が帯をだらしなく締めているなんて、もってのほかだよ」 「あい、気をつけます」 「花魁、わちきゃ、ちょっと内所へ行ってきます」 八橋が、ことわりを入れて立ち上がった。少し休んだせいか、顔に生気が漲っている。 番頭新造は、花魁の身辺の世話から金銭の管理までを引き受け、なかなかに忙しい。すでに綾錦の勤めの段取りで頭の中が一杯なのであろう。八橋は早足に部屋を出てゆく。 「菊乃や。西村屋の旦那は、こっちに見えるんだね」 綾錦には、枡屋からの帰り道、西村屋からのことづけを伝えた。 「あい、芙蓉さんの様子を見届けて、枡屋に挨拶をしてから見えるそうです」 「それじゃ、まだ少し時間がかかるかもしれないね。着替えも済んでいることだし、歌乃も菊乃も、暮六つまではゆっくりしていていいよ」 顔合わせが早く終わってしまったので、夜の店の営業には、まだ間があった。 「わっちは、ゆきと遊ぼうかな」 ゆきは、綾錦の部屋で飼っている猫だ。今は部屋の隅で、丸くなってすやすや寝ていた。 「気持ちよさそうに寝ているじゃないか。何もわざわざ起こすこともあるまい」 綾錦が、菊乃の願望をやんわりと制した。 「ちぇっ、つまんないの」 菊乃は思わず舌打ちした。そろそろ初雪も舞おうかという季節、猫は徐々に動きが鈍くなっている。 「わっちは、三味線の稽古でもしてます」 歌乃が、早々と三味線を取り出した。常磐津の師匠である母譲りなのか、歌乃は音曲の類いが得意だった。三味線は、そのへんの芸者よりずっとうまい。 「あっ、それじゃ、わっちはちょっと厠へ」 菊乃は腰を浮かせた。 「お前は、早く戻ってくるんだよ」 綾錦が、意味ありげな視線を送って寄越した。 ふう。 厠で用を足し終え、菊乃は安堵の息をついた。 厠の中にまで、歌乃の三味線の音が聞こえてくる。 しめしめ、まんまと逃げおおせたぞ――と菊乃は含み笑いをする。 歌乃と違い、菊乃は三味線が苦手だ。三味線だけではない。箏も胡弓もうまく弾けない。勘所が悪いせいなのか、師匠に教えられたとおり弦を押さえたつもりでも、奏でた音が微妙にずれてしまう。 一音、二音だったら大した瑕にはならぬ。だが、一曲を通してその塩梅だから、菊乃の三味線は調子が外れっぱなしになった。 そうなると、聴かされるほうは、たまったものではない。不協和音に頭の中が混乱し、ついには手で両の耳を塞ぐという有様になる。 真面目にやんなきゃいけないとは思ってるんだけどね。 歌乃の達者な撥捌きに耳を傾け、菊乃は我が身の不甲斐なさを嘆いた。 苦手なのは、音曲に関することだけ。綾錦の身の回りの世話はそつなくこなしているし、女郎に必要な読み書きは相当の成果を挙げていた。特に本が好きで、難しい読本の類いも、綾錦に漢字を教わりながら読めるようになっていた。 まっ、人には得手・不得手があるんだし、ぼちぼち稽古していけばいいや。 菊乃は屈託を払うように、勢いよく厠の戸を開けた。 いつもの倍の時間をかけ、ゆっくり部屋の近くまで戻ってくると、何やら、階下から人が大勢どかどか上がってくる気配がする。 階段の上に、芙蓉付きの振袖新造である白梅の頭が見えた。芙蓉の一行が戻ってきたらしい。意外と帰楼が早かったのには驚いたが、このまま菊乃が歩を進めると、ちょうど部屋の前で一行と鉢合わせする展開になる。 面倒だな、と菊乃は思った。ざわついた廊下で、綾錦の部屋の戸を開けるのが、なんとなく憚られる。 菊乃は踵を返すと、もと来た廊下をたどった。芙蓉が部屋に落ち着くまで、二階を一回りしてくるつもりだった。 菊乃がいる丁子屋は、江 戸 町 二丁目にある大見世。大見世とは商店でいう大店 のことだ。 四角い敷地の中に造られた吉原は、仲之 町 という通りを真ん中に、左右三つずつ六つの町に区切られていた。 入口の大門から左側は、奥へ向かって江戸町一丁目、揚屋 町 、京町 一丁目。同じく右側は、江戸町二丁目、角町 、京町二丁目。それぞれの町に、大・中・小と三通りに格付けされた女郎屋が軒を連ねていた。 また、大きな妓楼は、ほとんどが二階建てである。 丁子屋の一階には、台所や内風呂、内所という楼主の座敷があった。以前は、大籬という格子で囲まれた部屋が妓楼の入口にあり、張見世と呼ばれる女郎の顔見せに使われていた。 しかし、種々の事情で大見世が張見世をしなくなって久しい。必然的に、一階は生活の場と化していた。 登楼すると、客は一階の入口から延びる大階段を上がり、二階に通された。この二階が、妓楼の妓楼たる場所。引付座敷と呼ばれる初会の客を女郎と引き合わす場や、座敷持ちの居室が、回廊に沿ってずらりと並んでいた。 廊下をうろついていた菊乃は、昼間いた物干し場の前を通りかかった。 まさか、もう蜚蠊 はいないよね。 菊乃は好奇心に誘われて、物干し場を覗いてみた。 すでに日が落ちている。もし蜚蠊がいたとしても、闇に溶けて見えるはずがなかった。 たくさん干してあった洗濯物もすべて取り込まれ、竹の物干し竿が残るばかりである。 あれほど強かった風はだいぶ収まっていたが、その代わり、首筋に忍び込む空気が、やけに冷たくなっていた。 ふみぃ…… どこかで妙な声がする。微かな、しかし、心をくすぐる可愛らしい声。猫の声だ。 どこだろう。菊乃は物干し場に足を踏み入れた。目を凝らしてあたりを見渡す。暗くてよくわからないが、大きな生き物のいる気配はなかった。 みぃみぃ…… 下だ! 干し場を囲う木製の柵から、菊乃は身を乗り出した。眼下に白いものが蠢いている。台所の勝手口のあたりにいるようだ。 あっ、ゆき! あいつったら、また外に出たな。 菊乃は物干し場を飛び出した。着物の裾を踏みそうになるのを堪え、懸命に走る。開店前の拭き掃除を終えた若い衆 が、脇をすり抜けていく菊乃を見て目を丸くした。 綾錦の部屋に面した廊下を避け、回廊を一周した菊乃は、踏面 を鳴らし、大階段を駆け下りた。 台所は、暮六つの開店を控え、殺気立っていた。 入口を背にし、大擂鉢で胡麻を擂っている男。片肌脱ぎで、頭に汗を光らせている。 その先には、何か煮ているのか、大鍋の上に湯気がもうもうと立ち込めている。使用人の晩飯なのか、飯を炊く匂いも漂ってきていた。 客に供する料理は仕出しに頼ることが多いとはいえ、酒の席だから、肴の一つ二つは出さねばならない。だから、この時間、妓楼の料理人は下拵えに余念がなかった。 菊乃は、料理人たちの邪魔にならぬよう息を潜めて台所を通り抜けようとしていた。勝手口は台所の奥。通路は一本しかないから、どうしても調理場の横を通らざるをえない。 「こらっ、こんな時間に、子供がなんの用だ!」 肩越しから、胴間声が降りかかってきた。 ひょえっ、と息を吞み、菊乃は身を縮めた。恐る恐る振り返ると、襷がけをした料理人が包丁を握ったまま、菊乃を睨んでいた。口の肥えた客が登楼する予定なのか、料理人の前には見事な鯛が捌かれるのを待っている。 「えっと、あの……二階の物干しから、落とし物をしいした」 菊乃は口ごもりながら、大階段を指さした。 「何? 落とし物だと? 紙くずを捨てに来ただの、落とし物をしただの、まったく近頃の子供ときたら、大人の邪魔をすることしか考えちゃいねぇ。今日は煮炊きの姉さんが一人、具合が悪くて休んでんだ。こちとら、忙しくって目ぇ回りそうなんだよ」 料理人が、持っていた包丁をぎらつかせてまくし立てた。 ちょいとばかり間が悪かったな。 菊乃は小さく舌打ちした。いつもは余った飯を小さく握って、こっそり禿たちに配ってくれるような気のいい男だ。 だが、今日は人手不足で気が立っているらしい。 「おじさん、堪忍してくんなまし。姉様の大事なものを落としてしまいんした。なくしたら、叱られるかもしれんせん……」 菊乃は、目を伏せ、いかにも困った素振りをした。 「花魁の大事なものだぁ?」 料理人の声の調子が、ぐんと下がる。 花魁によっては、禿が粗相をすると厳しく折檻することもある。失せ物をしたかもと、しょげ返る菊乃の様子を見て、料理人は気の毒に思ったようだ。 「うーん、それじゃ、仕方ねぇな。とっとと拾って、早いとこ上に行きな」 料理人は照れくさいのか、ぶっきらぼうに言って、まな板に向き直った。 「おじさん、ありがと」 菊乃は満面に笑みを湛え、料理人にひょこっと頭を下げた。 勝手口の木戸を開けた。 一歩踏み出した菊乃の目に飛び込んできたのは、白い猫ではなく、うずくまった人形 だった。 人形は振袖をまとっていた。淡い鴇 色の地に飛ぶ鳥の模様は、つい今しがた目にしたばかりのような気がする。 「何をしに来んした」 人形が振り返った。千鳥だった。薄闇の中に浮かび上がった険しい顔が、菊乃をじいっと見据えている。 「そっちこそ、何してんのさ」 菊乃は怯むことなく言い返した。 と同時に、木戸を閉めた。声が漏れると、いつまた料理人に咎められるかわからない。 「紙くずを捨てに来んした」 千鳥の手には、手習いの稽古に使ったものか、反古になった半紙が握られていた。 それにしても、千鳥の言い方は愛想もへったくれもない。厚化粧をしているので表情が読みにくく、まるで、小面 の面が喋っているようだ。 「紙くずは、まとめておいて、屑屋に出すんだよ。あんた、生まれた時から廓にいるくせに、そんなことも知らないの?」 「うちの姉様は綺麗好きでありいす。だから紙くずのたまるのが我慢できいせん。それより、あんたこそ、ここに来てずいぶん経つのに、まだ廓の言葉を覚えられないの?」 うっ。菊乃は言葉に詰まった。部屋の外へ出たら言葉遣いには十分に注意するように、綾錦から申し渡されていたのに……。禿同士だと思って油断していたのがいけなかった。千鳥から一本取られた格好である。 「ふん、子供同士なんだから、いいじゃないさ。廓言葉は、まだるっこしくていけない。ほかの禿たちだって、子供だけで遊ぶ時は使わないよ」 菊乃は、歯切れのいい口調で言い立てた。 菊乃は江戸生まれのせいか気が短い。その上、面倒なことが嫌いだった。ここで廓言葉をひけらかすのは容易 いが、だらだらした廓言葉では、思いのたけを吐き出す気が失せる。 菊乃の反撃に、再び突っかかってくると思いきや、千鳥の声音が急に弱々しくなった。 「あんたんとこの綾錦さんは度量が広くていらっしゃるけど、うちの姉様はね……」 俯く千鳥の横顔を見ながら、菊乃は複雑な気持ちになった。 位の高い花魁は、身辺の雑用係として、妓楼から新造や禿を付けられる。 だが、そういう新造や禿の衣裳や芸事の費用などはすべて花魁持ちで、莫大な経費がかかった。 花魁は総じて気位が高いから、どうせ費用が嵩むなら、部屋の禿が他より劣らぬようにと考える。それゆえ、禿を飾り立てるだけでなく、厳しく躾けることが多かった。 丁子屋の花魁として、頂点に上り詰めた自負からか、特に芙蓉は、新造や禿の教育に厳しいようだ。廓言葉に慣れぬ禿が、ちょっと言い違いをしただけで、長煙管で何度も脛を打ち据え、夕飯を抜くという噂があった。 とすると、蓮っ葉な物言いをしたのはいいが、もし芙蓉の耳に入ったらひどい折檻が待っている。千鳥が馬鹿丁寧な話し方をするのもやむをえない話なのだ、と菊乃は思った。 みゅう、みゅう…… 近くで猫の鳴き声がする。 菊乃が目を凝らすと、暗闇から小さな白い塊が近づいてきて、菊乃の足元に擦り寄った。 「やっぱり……。こら、ゆき! また、お前、外に出てきちゃったのかい?」 菊乃はその場にしゃがみ込んで、猫の頭をぽんと軽く叩いた。さっきはあんなにぐっすりと寝ていたくせに、起きた途端、部屋から抜け出してきたのか。 「この猫、ゆきっていうのね?」 千鳥もつられてしゃがみ込んだ。 どうやら、千鳥はゆきと初対面ではないようだ。その証拠に、ゆきは千鳥のほうにも近づき、手の匂いをくんくんと嗅いでいる。 「そう。白いから『ゆき』」 菊乃は素っ気なく答えた。ゆきが、いけ好かない千鳥にもなついているのが、どうにも我慢ならない。 ゆきは、菊乃がお使いの途中で拾ってきた捨て猫だった。 女郎の中には猫好きが多いから、ゆきが美形でおとなしい猫なら、引き取り手は大勢いただろう。 だが、ゆきは痩せこけて色艶が悪く、後ろ足を引きずっていた。見てくれの恐ろしく悪い猫だったのだ。おまけに、向こう意気が強くて、気まぐれときている。だから菊乃は、ゆきを拾ったことを誰にも話せずにいた。 といって、ゆきを部屋へ上げるわけにもいかない。仕方なく、菊乃は妓楼の片隅でゆきをこっそり飼っていた。 ところが、運悪く、一番うるさい遣手のお滝に見つかってしまったのだ。菊乃はひどい折檻を受け、ゆきもろとも叩き出されそうになった。 その時、お滝をとりなしてくれたのは、姉女郎の綾錦だった。 綾錦は、まずお滝に一分かそこらを握らせてその場を収めた。それから、外に出さないという約束で、ゆきを部屋で飼うことを許可してくれた。 朋輩の歌乃の手を借りて、行水をさせ、台所でくすねてきた出し殻の煮干をやるうちに、ゆきの色艶は見る見るうちに良くなった。拾ってきてから一年近く経った今では、足を引きずる以外は、ほかの花魁たちに飼われている猫と寸分も違わない。 それにしても、ゆきは、どこをほっつき歩いてきたのだろう。背中と尻尾に土くれが付いている。近頃、ちょくちょく、ゆきの姿が見えないことがあると思っていたら、どうやら外遊びを思い出してしまったらしい。 「まったく、ちょっと目を離すとこれだ」 菊乃は、勝手気ままな行状に呆れて、ゆきをじろりと睨んだ。 菊乃の視線など、ゆきはどこ吹く風。千鳥に喉元をさすられて、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。 「かわいい。ところでこの猫、菊乃の姉様の?」 「うーん、ていうか、姉様の部屋で飼ってる猫。芙蓉さんは動物を飼ってないの?」 座敷持ち以上の女郎は、猫に限らず、犬や鳥、金魚などを飼っている女が多かった。 「うちの姉様は生き物が嫌いなの。部屋が汚れるから嫌なんだって」 千鳥が残念そうに呟いた。 「そう、うちは、お客さんの座敷は綺麗にするけど、姉様の部屋は少しくらい散らかってても文句は言われない」 「ふうん、お気楽でいいわねえ」 嫌みまじりに呟くと、千鳥は立ち上がって、二、三歩ささっと動いた。 ゆきが千鳥の後を追う。右の後ろ足を引きずっているゆきだが、歩くぶんにはほとんど支障がない。 千鳥とゆきは、そのまま歩き回っている。まるで鬼ごっこをして遊んでいるようだ。 菊乃は、はたと気づいた。 ははーん、さては、紙くずは、ゆきと遊ぶ口実だったんだな。 ごみ捨てにかこつければ、猫を構える。千鳥は、おそらく前から、外をうろつくゆきに気づいていたのだろう。 しかし、花魁付きの禿は雑用が多いし、生き物嫌いの姉女郎では猫を構うことなど許してはくれない。千鳥がゆきと遊ぶには、何か用事をこさえなければならなかったのだ。 菊乃も生き物が大好きだから、その気持ちがよくわかった。生き物と遊べるとなれば、菊乃だって毎日ぽいぽい二階から物を落としかねない。 年の割にませた、嫌みったらしい子供だと思っていたが、意外にかわいい一面を知って、菊乃は千鳥を見直していた。 「そういえば、芙蓉さんの具合はどうなの?」 菊乃は、芙蓉の容態が気になっていた。枡屋での様子は、女にありがちな癪の類いでもないように見えた。蠟のように白い不自然な顔色は、重病を疑わせる。芙蓉が妓楼の勤めを無事に果たせるのか、菊乃のような子供でも心配せずにはいられなかった。 「枡屋で休ませてもらって、だいぶ良くなったみたい」 なんとなく打ち解けたつもりなのか、千鳥も廓言葉を使わなくなった。 「そりゃあ、よかった」 菊乃は思わず声を上げた。自分の姉女郎ではないが、具合が悪いとなると、やはり同情してしまう。 「でも、さすがに今日はお馴染がいらしても断って、勤めはお休みになるって。もう、夜具を敷いて臥せっていらっしゃるわ」 当たり前だと言わんばかりに、千鳥は左手をひらひらと振る。その拍子に、右手に持っていた半紙が地面に落ちた。霧雨のように細かな墨の線が紙のそこかしこに見える。 ゆきが食べ物と勘違いしたのか、しきりに鼻を近づけているのに気づき、千鳥は慌てて半紙を拾い上げた。髪に付けた花簪の飾りが夜目にちらちらと揺れた。 身揚がりか。 菊乃は頭の中で、素早く勘定をしていた。 女郎は、年二回の妓楼の休日以外、勝手に休みを取ることはできなかった。 客が女郎に支払う金が揚代。体調不良で休むことになれば、その日の揚代は、身揚がりといって女郎の借金に加算される仕組みになっていた。 芙蓉のような最上級の花魁の揚代は、一晩泊まって一両二分。客が重なれば人数分の揚代が入る。 しかし、その計算は、女郎がその日の勤めを全うした場合だった。 勤めを休めば、人数分だけ借金が嵩む。休みが長くなればなるほど、年季開けに借金が残る勘定だった。 骨の髄まで疲れ果てた年季明けの女郎が、無一文で妓楼を叩き出されていくのを、菊乃は何度も見かけたことがあった。 「そう、早くすっきり良くなるといいね」 菊乃が、芙蓉の快方を念じつつ、わざと快活に言った時だった。 隣家と接する小路から足音がした。菊乃の胸が、びくんと跳ね上がる。聞こえてきたのは、山道を踏み迷っているかのような心もとない足音。 「そんなところで、何してるのかえ」 「ぎゃっ」 地の底から立ちのぼってくるような、陰気臭い声に、菊乃は腰を抜かしそうになった。 江戸町二丁目の奥には、明石稲荷がある。神社に祀られた御狐様か、はたまた、神様に追い払われた妖怪か。 姿を現した声の主を見た菊乃は、もう一度、金切り声で叫んだ。 「お化けぇ!」 しかしよく見ると、三尺先の暗がりに立っていたのは、お宮という妓楼の下働きだった。 お宮は、朝飯の時にご飯をよそってくれることがあるから、菊乃も顔に覚えがあった。 年の頃はまったくわからない。化粧っけのない肌は、かさついて皺だらけ。常に前屈みの姿勢でいるので、菊乃ほどの背丈にしか見えなかった。 「何が、お化けじゃ。それよか、二人とも、こんなところで油を売っていていいのかえ。お滝婆に見つかったら、ただじゃ済まんよ」 お宮は、ひっひっと意地悪く笑った。 お宮は朝から昼頃まで働いているが、住み込みの雇い人ではない。人づてに聞いた話によると、切見世と呼ばれる時間遊びの店が立ち並ぶ、西河岸の長屋から通ってきているらしい。 「わっちは、紙くずを捨てに来ただけざんす」 一人だけ、いい子ぶる魂胆なのだろう。千鳥が、さっと反古を差し出した。 菊乃は、善人ぶった千鳥に対する嫌悪が、またぞろ頭をもたげてくるのを感じた。 「ご苦労さん」と、お宮が色艶の悪い顔に薄笑いを滲ませ、千鳥から紙くずを受け取った。 色褪せた仕着せを着たお宮の表情に、菊乃は奉公人にあるまじきうさん臭さを感じた。 紙くずは、まとめておいて屑屋に売れば、いくばくかの銭になる。本来なら反古を売って妓楼が得るはずの上前を、お宮が撥ねているのかもしれなかった。 まっ、告げ口するつもりはないけどね。 菊乃は、千鳥とお宮の契約を見て見ぬ振りをすることに決めた。子供の駄賃程度の銭をかすめたからといって、それを内所に言いつけるほど、妓楼に義理はない。 「ほら、お前もこんなところにいると、気の立った台所のやつらに蹴飛ばされるよ」 先刻から千鳥の足元に控えていたゆきの前に、お宮は手を出した。 お宮の手には、煮干が三つ、四つ載っている。 「この猫は、菊乃の部屋で飼われているんですって」 千鳥が、ゆきを指しながらお宮に告げた。ゆきは、あれよあれよという間に、煮干を全部おなかの中へ収めてしまっていた。 「ああ、そうかい。それなら猫を一緒に連れ帰っておくれ。ほら、手を出しな」 お宮はゆきの首根っこを摑むと、菊乃の差し出した両手の上に載せた。 「二人とも、さっさと二階へお戻り。ここにいると綺麗なおべべが汚れちまうよ」 勝手口の木戸を開け、お宮は、菊乃と千鳥を中へ押し込んだ。 針の筵に座っている、というのは、今の菊乃のような状況を指すのだろう。綾錦の居室に戻った菊乃は、小さくなって部屋の隅に座っていた。 綾錦をはじめ、歌乃、初糸、八橋までもが、菊乃が逃げ出せないように周りを取り囲んでいた。 皆、一様に口を真一文字に結び、険しい表情で菊乃を見つめている。 「菊乃、この店の厠には、足でも生えているのかい?」 綾錦が、感情を抑えた低い声で、話の口火を切った。 菊乃は「えっ?」と、話の筋が読めずにぽかんと口を開けた。 厠に足があったら、あっちへふらふら、こっちへふらふら、人は落ち着いて用が足せない。 「お前の帰りがあんまり遅いから、足が生えて逃げ出した厠を追って、大門あたりまで行ったかと思ったのさ」 綾錦は、持っていた長煙管で煙草盆の縁をとんっと叩きながら、乙に絡んできた。羅宇に施された意匠の龍が、ざまあみろ、と菊乃をあざ笑っているように見える。 やられた。 菊乃は、思わず額に手を当てた。 すぐ戻ると言い置いて遊んでいた菊乃に対し、綾錦は厳しく叱るより、菊乃の自省を促すつもりらしい。 「そんなことないわ。厠がいつもの場所にちゃんとあったのを、今さっき、わっちは見てきたもの」 歌乃が、ぶりぶりしながら一気に言った。普段は、鈍いのかと思うくらいおっとりと構えている歌乃だが、相当怒っている。おそらく、いつまでも戻らぬ菊乃を探して、何度も様子を窺いに行かされたのだ。 「ごめんなさい!」 菊乃は、潔く謝った。 何か適当な理由をつけて弁解しようかとも思ったが、綾錦の鋭い眼力の前には、どんな言い訳を並べ立てても無駄なことだとわかっている。 「もう、菊乃ったら、ずるいわよ。ちょんの間でもあれば、すぐどっかに行っちゃうんだから。まったく油断も隙もありゃしない」 歌乃が、ひょっとこのように口を尖らせた。目がうっすらと潤み、べそをかいている。どうやら怒りの原因は、菊乃に置いてけぼりを食わされたせいらしい。 歌乃が三味線の稽古なんか始めるからだよ。 菊乃は、歌乃に嫌みの一つも言ってやりたかった。が、やめておいた。今の状況では、明らかに菊乃のほうが分が悪い。 歌乃は菊乃より年上だが、元来、あまり気の回るたちではない。ただ、三味線を弾きたいから弾いただけなのだ。 厠で用を足した後、部屋に戻らずにいたのは、まったくもって菊乃の不届きな所業というほかない。部屋の連中が怒るのも、至極もっともな話だった。 「早く戻れと言うたのに、菊乃は、ほんに鉄砲玉のようだよ」 綾錦が、呆れ果てたように呟いた。それが引き金となって、堪えきれずに皆が笑い出した。なんのことはない、菊乃を懲らしめようと、揃ってしかめ面をつくっていたのだ。 「さっ、そろそろ暮六つ。今日は、西村屋の旦那様が仕舞をつけてくださいましたよ」 八橋が朗らかに声を張り上げた。仕舞とは、客が目当ての女郎を一晩買い切ることだ。 「旦那は、もう間もなく見えるはず。お前たちも身繕いをしておおき」 綾錦は立ち上がると、優雅に仕掛けの裾を捌いた。 還暦を間近に控えた西村屋だが、一向に廓通いをやめる気配がない。月に二度、三度と綾錦のもとに通ってくるから、巷では相当の好き者と噂されていた。 もちろん、吉原に隠居や老人が足繁く通うのは、さして珍しいことではない。回春の妙薬とばかりに、孫のような若い新造相手に戯れているのを、菊乃はしょっちゅう目にしていた。 だが、西村屋の場合は、どうやら色恋沙汰だけが目的ではないようだ。 西村屋の店は書物だけでなく、浮世絵、しかも美人画を大々的に扱っている。 かなり前から美人画は、お上の達しで遊女や芸者などの玄人女しか描けなくなっていた。 そうなると、評判になりそうな美人画を売り出すには、商売敵に先んじて、まだ人の口に上っていない玄人の美女を探し出し、画の雛形になってもらわねばならない。 西村屋の廓通いの目的は、贔屓の女郎と遊ぶだけでなく、浮世絵の雛形になる女を見つけるためでもあった。 「歌乃、菊乃、お前たちは、座敷が散らかってないか見てきておくれ。お客様の座敷には、塵一つ落ちてちゃいけないよ」 「あい」 綾錦の指図に従い、菊乃は歌乃とともに廊下へ出た。綾錦が持つ三間の中で、最も広い座敷へ向かう。 菊乃は廊下を歩きながら、歌乃に耳打ちした。 「さっきはごめんよ。ゆきが、外へ出ちゃってたんだ。勝手口の外にいたのに気づいて捕まえに行ってたら遅くなっちゃってさ」 「それで、なかなか戻ってこなかったのね」 歌乃が、得心したとばかりに深く頷いた。 「そうそう、千鳥も来ていて、ゆきと遊んでた。ゆきが、わっちらの部屋の猫だと知らなかったみたいだ」 「千鳥が?」 歌乃が座敷の襖を開けた。 座敷はきちんと片付いていた。すでに火鉢に火が熾っており、手を翳すとじんわり暖かさが伝わってきた。 菊乃は、おざなりに部屋の中を一回りした。 昼間、喜助と呼ばれる二階専任の若い衆が、丁寧に掃除をしていた。だから、散らかるといっても、小さな塵が落ちているくらいだろう。 「うん、反古を捨てる振りして、ゆきに会いに来たみたい」 菊乃は、金の蒔絵を散らした黒塗りの長持ちの上に、米粒ほどの塵が付いているのを見つけ、指でつまみ取った。 「そういえば、わっちも、千鳥が紙くずを持ってうろうろしているのを見かけたことがある。あれって、ゆきと遊ぶためだったんだね」 「そうみたい。でも、あんまりゆきを野放しにしとくと、意地悪なお滝婆に捨てられないとも限らないから、ゆきが部屋から出ないように見張っていないとね」 塵を懐紙に包み、菊乃は歌乃を振り返った。 歌乃も真面目な顔をして「そうだね」と同意した。 「西村屋様のご到着だよ」 襖の外で、妓楼の内儀が叫ぶ声が聞こえた。 (続く)
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