蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章 風花千里
第一章 顔合わせ 初冬の空高く、蝶々雲が乱れ飛んでいる。 蝶々雲は強風の兆しというように、今日は風が強い。 妓楼、丁子屋の二階に干された手拭いや緋色の湯文字は、竿から逃れようとあちらこちらへ翻っていた。 しかし、洗濯物はきっちりと竿に留められている。逃散の望みがかなう見込みは、どう考えても薄かった。 菊乃は物干し場の隅に座り込み、ぼんやりと空を眺めていた。 この場所はいつも人気 がない。朝夕に洗濯物を抱えた下働きが出入りするくらいだ。時は昼の九つ半。花魁の朝飯の世話やお使いを終え、禿 の仕事が一段落したところだった。 物干し場は、菊乃のお気に入りの場所だ。 とはいえ、何があるわけでもない。妓楼の裏手にあたるから、背伸びをしても隣の店の窓しか見えないし、そこに知った顔があるわけでもない。ただ、静けさがあるだけだ。 女ばかりの妓楼の中で、菊乃は、たった一人で過ごせる場所を欲していた。このところ心に巣くう、もやもやした思いを持て余していたからだ。 ここに来て、もう三年になるんだ。 菊乃はひとりごちた。 長かったようで、瞬く間に過ぎた年月。背丈が伸び、体つきは確かに少女らしくなった。三年前はおかっぱだった髪も、今では禿島田を結えるほど長くなった。 けれど、果たして器に見合うだけの心が育ったかどうか。近頃、たまにふさぎ込んでしまうのは、心と体の釣り合いがうまく取れていないせいなのかもしれない。 あっ、蜚蠊 。 物干し場に敷かれた簀子の上に、黒い虫が這っている。風が強いとはいえ、陽射しはわりに暖かい。日向ぼっこをしに出てきたのか。あるいは、台所で追い回され、ちょうど真上にある物干し場に逃げてきたのか。 時季を外して姿を現したにしては、横柄な動きである。てらてらした黒い翅を見せつけるように、悠然と這っていく。 いっちょ、遊んでやるか。 菊乃は、静かに立ち上がった。あたりを見回すと、着物の裾を端折る。 「やっ」 一歩を踏み出し、蜚蠊がいるぎりぎりのところに足を下ろす。蜚蠊は菊乃の存在に気づいていなかったとみえ、慌てたように走り出した。 「よっ、よっと」 一歩、また一歩。蜚蠊の尻を狙うように、片足ずつ交互に板敷きを踏む。まちがっても蜚蠊そのものは踏まない。蜚蠊が潰れれば、自分の素足は虫の体液で汚れることになる。 菊乃にしつこく追いかけられ、蜚蠊も必死だった。長い触角であちこち探りながら逃げ場を探している。菊乃に物干し場の真ん中へ追い込まれたので、自らの身を隠すところが見当たらず戸惑っているようだ。 菊乃は、蜚蠊を追う間に気持ちが浮き立ってくるのを感じていた。幼い頃は蜻蛉や蝶を相手に、剣術もどきの立回りをして遊んだものだ。おそらく体を動かすことで心まで弾んでくるたちなのだろう。 さあて、もう逃げられないぞ。 菊乃はしてやったりと微笑んだ。最初の尊大な様子はどこへやら、黒光りした虫は身を縮め、迫りくる追っ手を待っている。菊乃は手を伸ばし、蜚蠊を摑もうとした。 あっ! 蜚蠊が飛んだ。ほんのわずかな距離だったが、菊乃のいる場所とは反対のほうへ低く一直線に飛び、あっという間に簀子の隙間に潜り込んでしまった。 蜚蠊に飛ぶ力が残っていようとは思いもしなかった。夏の盛りだったらともかく、すでに紅葉も色づいた葉を落とそうかという季節である。虫けらだって、身の危険を感じれば火事場の馬鹿力を出すものなのだと、菊乃は妙に感心していた。 「菊乃ぉぉ!」 かん高くガラガラと濁った声が、背後から降ってきた。振り返った菊乃の目に映ったのは、遣手婆のお滝だった。 まずい。 菊乃は何食わぬ顔をして、素早く端折っていた裾を下ろした。 「やけに二階がうるさいと思ったら。お前、あんな格好で何してた」 やっぱり見られたか。お滝に問い詰められた菊乃は、心の中で舌打ちした。 遣手婆は、女郎や禿のお目付け役の年増。女郎が勤めに精を出しているか、禿が用事を怠けて遊び呆けていないか、お滝は注意をおこたらない。 監督責任があるから、口うるさいのはどこの遣手でも同じだが、菊乃は特別に目をつけられている節があった。今までお滝と顔を合わせて、小言を食らわなかったためしはない。 「手拭いが風で飛んだのを見て、追いかけておりいした」 菊乃は廓言葉で言い訳し、物干し竿を指さした。 何枚も並べて干された手拭いの間に、ちょうど一枚分の隙間ができていた。本当にそこにあった手拭いが風で飛ばされたのか、下女がそこだけ空けて干したのかはわからない。しかし、お滝に声を掛けられた直後にあたりを見回し、菊乃はとうに隙間に気づいていた。 お滝は物干し場へ出てくると、大股で歩き回った。大柄だがすらりとした姿で、四十近い年には見えないほど背筋がしゃんとしている。さすが、昔、吉原のどこかの店で花魁をしていたというだけのことはある。立居振舞いは堂々として、威厳すら感じられた。 「手拭い? そんなもの、どこにも落ちてないじゃないか」 お滝は物干し場の端まで行き、階下を覗いてから、訝しそうに首を捻った。 「あれ、風が強いから、もう遠くへ飛んでいったかもしれんせん」 菊乃はもっともらしく呟いた。 手拭いは、十枚以上干してある。下女は何枚あったかなど、いちいち気に留めていないはずだ。一枚くらい菊乃の裁量であるなしを決めても、文句を言われることはないだろう。 「ふん、本当に風で飛んだんだか。お前の怠け癖はよおく知ってる。いいかい、仕事は真面目にやるんだ。綾錦は大目に見ているかもしれないが、わたいは甘やかしはしないよ」 お滝が、眼光鋭く睨 めつけた。小皺の目立つ細い目が、ぎりりと吊り上がって怖い。これ以上お滝の機嫌を損ねるとただでは済まないことを、菊乃は経験からよく知っていた。 「あい、わかりいした」 と、素直に返事をする。 「じゃ、とっと行きな。今日は顔合わせの日だろう。花魁がお前を探してたぞえ」 「しまった!」 菊乃は、弾かれたように顔を上げた。 当代きっての浮世絵師、英笑 が吉原の名妓五人の絵を描くという企画のために、顔合わせの席が設けられる手はずになっていた。菊乃の姉女郎、綾錦もその五人の中に入っている。 夕七つまでに綾錦の支度を調え、会場の引手茶屋まで付き添わなければいけないのを、菊乃はすっかり忘れていたのだ。 兎のように飛び跳ね、回れ右をする。仁王立ちしたお滝を振り返りもせず、菊乃は一目散に物干し場から走り出た。 吉原の引手茶屋、枡屋の座敷は、花見と菊見の季節が一度に巡ってきたような華やぎに満ちていた。 緋毛氈の上にずらりと座った花魁を眺め、菊乃は思わず「うわあ」と感嘆の声を上げた。 綾錦につき従って枡屋にやってきたものの、座敷に入ってしまえば、菊乃の出番は当面ない。同じ綾錦付きの禿、歌乃と一緒に、座敷の端でおとなしく控えていればいい。 「綺麗!」 歌乃も花魁たちの美しさに圧倒されて、二の句が継げないでいるようだ。 今日の顔合わせのために選ばれた花魁は五人。松葉屋の立花、玉屋花紫、大黒屋小波、それと丁子屋から芙蓉、綾錦の二人が出ることになっていた。 菊乃の周りでは、やはりほかの花魁についてきた新造や禿が囁き合っている。花魁の装いは流行を左右するから、皆、着物や髪型の品定めに余念がないのだ。 「黒地に黄の橘の仕掛け、あれは立花さんざんすか。面長の顔立ちに、よくお似合いで」 仕掛けとは、何枚も重ねた小袖の上に、さらに羽織る絹の打掛けのこと。煌びやかな模様が織り込まれたり、豪華な刺繡がほどされたりしている。 「まあ、小波さんの帯、変わった結び方でおす」 「花紫さんの簪を見なんし。飾りが仕掛けの刺繡と同じ。わざわざ作らせたのかしら」 それぞれの妓楼に特有の言葉で、あちこちがさんざめいている。 しかし、なんやかんや言いながら、皆の視線は、結局、綾錦のもとに戻る。綾錦の出で立ちは神々しいまでに艶やかで、座の人々の目を引き付けずにはおかなかった。 仕掛けは、黒の地に金糸、銀糸で大きな鳳凰の縫い取り。鳳凰は仕掛けや小袖によく使われる柄だから、特段これといって珍しくはない。 綾錦の仕掛けが人目を引いた理由は、裾に散らした小さな盃の刺繡だ。その盃をあおった鳳凰の顔が、ほんのりと赤く染まっている。 ほろ酔い加減の鳳凰が空を舞っている図。悪戯好きの綾錦らしい人を食った誂えだ。帯は、変わり亀甲模様を、小さめの文庫に締めて粋であった。 また、豊かな漆黒の髪は「つぶし島田」と呼ばれる低い髷に結い、二枚差しの蒔絵の櫛には、今が盛りの紅葉があしらわれている。それに加えて前後十六本にもなる鼈甲の簪。たぶん鳳凰の羽に見立てているのであろう。簪の飾りは鳥の羽をかたどっていた。 これが今をときめく女郎の輝きなのか。緋毛氈に座している綾錦からは、後光が差しているようでさえあった。 うーん、やっぱり、わっちの姉様が吉原一の花魁だよね。 どこから見ても隙のない姉女郎に感心して、菊乃は溜め息を漏らした。 「英笑先生、いかがかな」 西村屋喜八が、隣にいる英笑に話しかけていた。西村屋は、日本橋にある書物地本問屋の主人。綾錦が新造時代からの馴染で、客と敵娼 としてのつき合いはすでに六年になる。 「この世のものとは思われぬ素晴らしい眺め。早く絵筆を執りたくて腕がむずむずしております」 英笑は白い歯を見せ、腕を撫でさすった。今や押しも押されもせぬ人気絵師。美人画を得意としているから、素人から玄人まで、今まであまたの美女を見る機会に恵まれてきたはずだ。 だが、いずれ劣らぬ名妓が五人も揃うとなると、さすがの英笑も勝手が違うらしい。そばで見ていても、心が急いている様子が伝わってくる。 「そうじゃろ。あんたが綾錦一人を描いた大錦絵も見事じゃったが、今度は五人じゃ。歌麿師に『青楼七小町 』という画があるが、あれは七人を別々に描いたもの。五人いっぺんに描くとなっちゃ、こりゃ屛風絵にでも仕立てなさるつもりかな」 三十近くも年下の英笑をからかうように、西村屋が軽口をたたいた。 西村屋は御年五十八。老いてますます意気軒昂。還暦近くになったというのに、変わらず家業に精を出していた。貝原益軒の『養生訓』を座右の書とし、日々たゆまず実践しているから、体に無駄な贅肉はなく、背筋もぴんと伸びている。 二人の縁は、三年前、西村屋から出た戯作本の挿絵を英笑が描いたところから始まった。男と女の恋の駆け引きを書いた人情本であったが、話の面白さもさることながら、表情豊かで粋な英笑の絵が評判を呼び、本は売れに売れた。 もともと、確かな技法の持ち主と定評のあった英笑である。西村屋がものは試しと売り出し中の花魁、綾錦を描かせたところ、これまた巷の華やかな話題になった。 かくなる上は、廓中の名花を一堂に集めて描いてみよう、という企画で、今日の顔合わせと相成ったわけだ。 「屛風は大げさですが、皆さんをあっと仰天させるような趣向を考えております。ただ……」何事か思案するように、英笑は着物の襟元に顎をうずめた。 「どうした、先生。歯切れが悪いな」 「いえ、別になんでもありませぬ」英笑は、目先をつくろうように空咳をした。「それはそうと、芙蓉さんはどうしたんでしょうね」 二人は、合図があったかのように揃って正面を見た。 花魁が居並ぶ毛氈の中央だけが、ぽっかりと空いている。丁子屋の筆頭呼出し、芙蓉だけがまだ到着していなかった。 西村屋と英笑が言葉を交わしているのを、菊乃は間近で聞いていた。綾錦付きという理由で、菊乃は歌乃と一緒に西村屋のそばに呼ばれていたからだ。 「あそこが空いているなら、ぜひ綾錦さんを真ん中にしてほしいのです」 英笑が、あたりを憚るように小声で言った。どうやら先ほど言い淀んでいたのは、この望みが理由らしい。 西村屋は眉を曇らせた。西村屋は平素から鷹揚なたちだ。だから少しでも表情が曇ると、心底つくづく困っているように見えた。 綾錦を図の真ん中に据えたいという英笑の気持ちは、菊乃にもよくわかった。 芙蓉も美しい。が、綾錦の堂々とした佇まいと比べると、少し線の細いところがあった。 しかも、綾錦の仕掛けの鳳凰は英笑の下絵によるもの。絵師としての宣伝になるから、自分が手掛けた衣裳をまとった花魁を、画面の中央に置きたいと考えるのも無理はなかった。 ところが、芙蓉を五人の真ん中にすることにこだわったのは、ほかならぬ綾錦だった。 西村屋に強く直訴していたやり取りを、菊乃は聞いている。自分が控えることで年上の朋輩を立てる。廓内で無用な軋轢を生まないようにという聡明な綾錦の気遣いだった。 「いけませぬか」 英笑は西村屋の顔色を窺っている。この顔合わせは西村屋の計らいで実現したものだから、西村屋が首を縦に振れば、事は済むと思っているのかもしれない。 「実はな……」と西村屋が言いかけたところで襖が開いて、枡屋の女房が姿を見せた。 「芙蓉さんのお着きでございます」 女房の声に促されるように、新造に手を引かれた芙蓉がゆっくりと座敷に入ってきた。 それまでざわついていた座敷が、さっと静まり返った。 芙蓉の一挙手一投足に、皆の熱い目が一斉に注がれる。だらしなく口をぽかんと開いたまま見入っている、どこぞの新造までいる。 空いていた中央の席まで来ると、芙蓉は正面を切った。 「遅くなりいした」 芙蓉の威風を払う姿に、観客から羨望の溜め息が漏れた。仕掛けは純白の繻子の地に、淡い鴇 色の芙蓉の花。左の肩口にのみ、あしらわれている気配りが心憎い。 帯は銀糸一色で、複雑な模様に織り上げられている。髷の部分を高く結った立兵庫は、長身の芙蓉をさらにすらりと見せていた。 雪の精、と誰かが呟いた。花魁に色黒がいないのは当たり前だが、芙蓉はもともと抜けるように肌が白い。今日の芙蓉の美しさは、しんしんと積もる雪のように冷ややかだった。 「綺麗だけど、お化粧が濃すぎじゃない」 菊乃は堪えきれずに、すぐ横にいた歌乃に耳打ちした。 「しっ、菊乃ったら声が大きい」歌乃は、たしなめるように人差し指を自分の唇に当てた。 「でも、確かに厚塗りだわね」 周囲の様子を窺いながらも、歌乃はひそひそ声で菊乃に同調した。 化粧は、極力、薄化粧にして「素肌の美しさを競うのが粋」という時代になっていた。綾錦も客の前に出る時こそ化粧をしたが、部屋でくつろぐ際は、ほとんど素のままで通す。 昔から「流行の発信は吉原から」と謳われるように、女郎は時代の流れに敏感である。それなのに芙蓉の厚化粧は時代に逆らっているようで、どこか異質なものを感じさせた。 菊乃と歌乃の囁く声に我に返ったか、西村屋がおもむろに口を開いた。 「これで、みんな揃いましたな。さっ、芙蓉さん、そこへお座りなされ」 西村屋は相好を崩し、芙蓉に席を勧めた。隣で英笑が不服そうな顔で見上げているが、お構いなしといった風情だ。 「さて、先生、これからどうなされるかな」 これ以上は問答無用とばかり、西村屋は目をぎょろつかせ、英笑の返答を待っている。 「あっ、いや、その……。こうやって皆さんのお姿を目の奥に焼き付けられれば、私はそれで結構なんですがね。だけど、せっかくですから、下絵の、そのまた下絵くらい、描かせていただくことにしましょうか」 蛇に睨まれた蛙のように西村屋の前で縮こまった英笑だったが、やがて不承不承に筆を執った。墨一色で、画帖に女郎たちを描き始める。 四半刻ほど経っただろうか。今度は綾錦の悲鳴で静寂が破られた。 「あれ、芙蓉さん!」 綾錦が叫んだ途端、それまで微動だにしなかった芙蓉が、崩れ落ちるごとく毛氈の上に突っ伏した。 「きゃあ」 綾錦を除いた花魁たちが、左右にばっと散る。すでに座敷の隅まで退 った者もいた。 綾錦が、すかさず芙蓉を抱き起こす。芙蓉の顔は白を通り越し、蒼くなっていた。抗う気力もないのか、綾錦の腕の中で、されるがままになっている。 菊乃は、綾錦のとった行動に、つくづく舌を巻いた。 芙蓉が嘔吐するかもしれず、そうなれば近くにいる者たちの衣裳に吐瀉物が掛かる。だから各妓楼で一、二を争う花魁たちは自分の衣裳を汚されるのを恐れて、倒れた芙蓉を放置し、こぞって遠巻きに眺めているだけだった。 しかし、綾錦は違った。迷うことなく、さっと芙蓉ににじり寄り、髷の髪油が仕掛けの袖に付くのも気にせず芙蓉を抱きかかえた。胆の据わった大した姉女郎だと、今さらながら菊乃は思う。 「どうしなんした、芙蓉さん!」 「はあ、はあっ、なっなんでも……ないざんす」 芙蓉は、声を振り絞るように答えた。息が苦しいのか、胸を両の手で押さえたままだ。時折、おほっ、おほっ、と痰が絡んだような咳も出ている。 「こんなに苦しそうなのに、なんでもないわけが、ないでありんしょう」 綾錦が、芙蓉の手に自分の手を重ねた。 すると、それまでぐったりしていた芙蓉が、かっと目を瞠き、綾錦の手を払いのけた。 「少し休めば治るざんす。放っておいてくんなまし」 芙蓉の威圧的な態度に、綾錦は怯み、手を引っ込めた。すかさず西村屋の声が飛んだ。 「女将、芙蓉さんはお疲れのようだ。どこか空いている部屋で休ませてやりなさい」 座敷にいた見物人は動くに動けず、固唾を吞んで事のなりゆきを見守っていた。だが、西村屋の一声で、皆、一斉に動き出す。 茶屋の女房は空いた部屋があるかを確かめに行き、芙蓉についてきた番頭新造が丁子屋へ若い衆 を呼びに行く。 さすがは大店 の主。西村屋は書物問屋と地本問屋を兼ねているから、使用人の数も多い。迅速に指示を出さなければ、商いが立ち行かないのだ。 菊乃は、西村屋の的確な采配を頼もしげに見つめた。 西村屋は、近くにいた芙蓉付きの禿に手招きをした。 「あい、なんでござんしょう」 こってりと化粧を施した禿がやってきた。名前は千鳥。同じ妓楼の禿だから、菊乃もよく知っている。年は確か菊乃より一つ上、歌乃と同い年の十三歳だったはずだ。 「芙蓉さんは、どこか具合でも悪いのかね」 西村屋が、孫に対するように優しく訊ねた。 「朝から臥せっておりいしたが、大事な顔合わせだから、どうしても行くと仰って」 千鳥はませた口調で言い、大げさに眉根に皺を寄せた。 ふんだ、かわい子ぶっちゃって。 子供のくせに、いつもこましゃくれた振舞いをする千鳥に対して、菊乃はあまりいい感情を持っていなかった。 「それで無理して来たわけか。芙蓉さんとて、丁子屋筆頭の花魁。少々具合が悪くとも、大事な席に出てくるくらいの意気地はあろう。しかし、それにしては、顔色が悪すぎるし、咳き込んでもいるようじゃ」 西村屋は、傍らの英笑を振り返った。 「のう、英笑先生。今日のところは、いったんお開きにして、また日を改めて集まってもらうことにしてはいかがかな?」 「はい、それじゃ、そういうことにいたしましょう」 綾錦を座の中央に据えるという意見を無視され、もとより下描きする気の失せていた英笑である。二つ返事で西村屋の申し出を了承した。 菊乃は、つんと澄ました英笑の顔を盗み見た。表面はともかく、内心ではほくそ笑んでいるに違いない。これだけの騒ぎを引き起こした芙蓉だ。いくら西村屋が意固地でも、次回も芙蓉を絵の主役に、とまでは注文をつけまい。 西村屋は頷くと、居並ぶ女郎たち一同に向き直り、よく通る声で言った。 「では、花魁の皆さん方、せっかくご足労いただいたのに相済まんが、今日のところは、これでお引き取りくだされ」 今が潮時とばかり、一座の者はそれぞれ従ってきた花魁のもとへ駆け寄り、次々と座敷を出てゆく。菊乃の横にいた歌乃も、いつの間にか綾錦のそばに控えていた。 「菊乃、綾錦と一緒に、お前も早く帰るのじゃ」 西村屋は、てきぱきと菊乃に言いつけた。綾錦は、ちょうど駆けつけた丁子屋の妓夫 と呼ばれる若い衆に、芙蓉の介抱を任せたところだった。 「あい、でも、旦那様は?」 「儂 か。こうなったら、乗りかかった船じゃ。枡屋には迷惑を掛けたから、ちょっと挨拶してこなけりゃならんし、芙蓉さんのことも心配じゃ。もう少しここにいるとするよ。綾錦には、後で丁子屋へ行くからと伝えておいておくれ」 「わかりいした」 菊乃は元気よく返事をすると、歌乃を追って綾錦のもとへ急いだ。 (続く)
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