マンホール 風花千里 人生には一度や二度大きな決断をしなければならない時がある。だが心を決めたからといって、それが未来の幸福に続いているとは限らない。 もののはずみで俺は人を殺した。夜の繁華街、通報を受けすぐに警察がきた。 捕まりたくなかった。仕事も色恋も順風満帆の三十年、出会い頭に衝突したようなアクシデントで、この先何年も棒に振るのは絶対に嫌だった。 俺は逃げた。しかし警察は執拗に追ってくる。もうだめだと観念したとき、足下に月光に照らされたマンホールが浮かび上がった。8の字を横にしたようなマークがついている。蓋に手をかけると案外簡単にずらすことができた。 目をつぶって飛び込んだ。滞空時間は思いの外長く、落ちながら蓋を閉め忘れたことを思い出した。 柔らかな土の上に尻から落ちた。どこにも怪我をしていないようだ。天を仰いでみたが警官が落ちてくる様子もない。 立ち上がってあたりを見渡すと、ほの暗いがかなり大きな空間が広がっている。そして何かが蠢く気配。 「お前、逃げてきたのか」 目の前が明るくなった。やけに垢じみた男がランタンを手にしている。俺は現れたのが人間であったことに安堵した。水道局か何かの作業員かもしれない。 「追われているんだ。ここから出るにはどうすればいい」 「そんな方法はねえよ」 男のそっけない言葉に俺は絶句した。マンホールどうしが中で繋がっているんじゃないのか。 「いや、一つだけ方法はある」 明かりの輪の外から別の声が響いた。 「お前のように一人落ちてくれば、一人外に出られる」 「そうか、次に誰か落ちてきたら出られるのか」 「いいや、順番待ちだ」 「順番待ち? どのくらい待つんだ?」 「最高齢は103歳って話だが」 「そのじいさんは、あんたが落ちてきた時に出たらしい」 また違う声がする。気がつけば周囲に数え切れないほどの人間がいる。 「まあ気長に待つこった。その間ここで穴掘りをする。そうしないと食い物をもらえんぞ」 「食い物って誰から?」 「知らん。上から降ってくる」 「そんな……」 「働かざるもの食うべからずだ。じゃ、鶴嘴渡しとくぞ」 垢じみた男が俺に鶴嘴を投げた。すでにカキン、カキンと土を掘る音がする。俺は落ちてきた穴から這い上がろうとしたが、滑りやすい土の表面に一メートルも上ることはできなかった。 「はっはっは、無駄だ無駄だ。いつかお迎えがくるまで穴掘りするしかないんだよ」 地中にこだまする嘲笑に、俺は頭を抱えその場に頽れた。
2017年12月11日月曜日
短編小説「マンホール」/ 風花千里
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