五月は薄闇の内に─耕書堂奇談 風花千里
第一話 歌麿の肉筆画(後) 二十 蔦重は半信半疑で京伝の顔を凝視した。 確かに顔の造作は本人のものだ。 だが、京伝の顔は暗闇の裂け目にぽっかりと浮かんでいて、首から下は手妻師が掻き消したように全然見えない。 「魚をちょろまかした泥棒猫みてえに、びくついているなよ」 おちょくるような口調で吐 かしながら、京伝が裏口から押し入ってくる。 「おめぇ、体に何を纏ってんだ」 蔦重は唖然とした。 座敷からの僅かな明かりに捉えられた京伝は、肩から大きな布を羽織っていた。どこかで見掛けたことのある布だ。 「それより帳場に手燭を置いてきちまったんだ。ちょっと取ってきてくれねえか」 「えっ、俺は足が……」 痛えんだ、と、蔦重が言おうとするところへ被せるように、京伝が「俺は座敷で待ってるから」と言い捨て、さっさと明かりのほうへ歩いていく。 (高慢ちきな奴め。取りつく島もありゃしねえ。幽霊に取り殺されたんじゃねえかと心配して損したぜ) と悪態をつけども、すでに座敷に収まったらしく、京伝の姿は見えない。 帳場の方角を窺うと、手燭の光が少し漏れていた。 真っ暗闇は嫌だが、明かりがついているのならば、忘れ物を取りに行くくらいの度胸は取り戻している。 足を引き摺りながら、なるべく早足で帳場へ向かった。 手燭は帳場と店との境にぽつんと置かれていた。 近づいていき、手燭の取っ手を掴もうとしたところ、あるはずのないものが目に入り、魂消て手を引っ込めた。 蝋燭の揺らめく炎の先に、黒い目玉が蔦重を睨んでいた。 一瞬、二瞬……睨み合っているうちに気づいた。目玉には生気がない。 気を取り直し、手燭の傍へ行く。 「何でえ、絵ん中の蛙か」 目玉の正体は、宿屋飯盛撰、歌麿画『画 本 虫 撰 』の挿絵の蛙だった。 本物と見紛うほど達者な筆とはいえ、絵の蛙に驚いた自分が恥ずかしくなる。もしこの場に京伝がいたら、どちらかが死ぬまで馬鹿にされ続けるところだ。 「だが、どうして一冊だけ、こんなところに出てるんだ」 耕書堂では、店先に浮世絵を貼ったり、薄板を斜めに置いて本の表紙を見せたりする客寄せの手段を一切とっていない。問屋らしく、浮世絵も本も重ねて置き、店内は整然としている。閉店後は昼間のうちに絵や本の上に積もった埃を手代が丁寧に払い、厚地の布切れを被せておくのが常だった。 蔦重は本を拾うと、棚の上に置き直した。 座敷へ戻ると、京伝は部屋の真ん中で蔦重を待っていた。相変わらず、黒い光沢のある布を身に纏っている。蔦重の意地悪は全く堪えてなかったのか、行灯は京伝の手で元の位置に戻されていた。 「ご苦労だったな」 蔦重の姿を見ると、京伝は労うような笑顔を見せた。 京伝の能天気な表情を見ていると、幽霊騒ぎに右往左往していた自分が、とんだ道化芝居を演じていたのではないかという気がしてくる。 「ご苦労、じゃねえだろ。いったいおめぇは今まで何をしていたんだ。母屋で誰かが助けを呼ぶ声を聞いただろう」 蔦重は畳み掛けるように問い掛けた。 「ああ、ようやく事の次第が呑み込めた。泣き声の主も、わかった」 京伝は鼻唄でも唄い出しそうな調子でさらりと言ってのけた。 「誰なんだ、そいつは」 「こいつ、だ」 京伝は肩から羽織っていた布を、さっと取り払った。 二十一 「何で、お前がここに……」 京伝の背後から顔を出していたのは、小僧の吉松だった。 「京伝、おめぇは今、泣いていたのが誰だか、わかったと言ったな。それが、この吉松だってぇのか」 座敷の中央へ躙 り寄り、蔦重は詰問した。 「そんなに怖い顔をして詰め寄ってくるなよ。吉松が怯えてるじゃねえか」 京伝がやんわりと蔦重の気勢を殺 ぐ。 「知ったことか。それより吉松、なぜ泣いていたんだ。昼間、誰かに叱られたのか」 蔦重は責めの矛先を吉松に向ける。吉松は、二つに割れた石の断面のごとく表情を険しくして、京伝の背に隠れてしまった。 「ほーら、見ろ。主人にそんなきつい調子で当たられたら、使用人は萎縮しちまうだろうが。吉松、お前は朝が早いんだよな。俺がこの業突く張りのこんこんちきに話をつけとくから、もう寝床へ戻って眠っていいぞ」 と、提案する京伝の口調は赤ん坊をあやしている声かと取り違えるほど優しかった。 「はい……」 吉松は、すっかり安堵した様子で、小さく返事をした。 「何で帰すんだ。まず、こいつの言い分を聞かなきゃ、話は始まるめえ」 蔦重は面白くない。確かに吉松はとっとと寝かせたほうがいいに決まっていた。 だが、耕書堂のあるじは蔦重であるのに、何かにつけて京伝が事の主導権を握っている状況が気にいらない。 「おつむのいい蔦重さんにも、もう事の真相はわかってんだろう。だったら、この子がいなくたって、話はできるじゃねえか」 鬚の薄い顎をつるんと撫で、京伝が、にたっ、と笑う。 蔦重は言葉に詰まった。 「事の真相」とは何か。泣いていたのは、吉松ではないのか。京伝は真相を看破しているような口振りだが、蔦重は何もわかっていない。 相手は鼠をいたぶる猫のような眼差しで、無言の蔦重を見据えている。 嗜虐的な視線に曝されると、蔦重の内に反発心が湧く。つい、心ない嘘が口をついて出た。 「当ったりめえだ。俺だって、すべてお見通しよ。もう吉松の出る幕は、ねえ」 と、胸を反らせた。すると京伝は、 「さすが、江戸一番の地本問屋・耕書堂の主人だけある。察しがいいねぇ。脳味噌の働きがこちとら戯作者なんかとは一味も二味も違う。もしかして蔦重は道真公の生まれ変わりなんじゃねえか」 と持ち上げるだけ持ち上げたかと思うと、くるりと後ろを振り返り、 「旦那様も、ああ言っていなさる。気の変わらぬうちに、早く行きな」 と、吉松を優しく追い立てた。 吉松は誰に向けるでもなくお辞儀をした。そして、蔦重に呼び止められる前に退散しようという心積もりか、一度も振り返らず座敷を出ていった。 「うちの雇い人だってのに、勝手に甘やかしおって」 「俺は女と子供には、努めて優しいんだよ」 京伝は腰に着けた煙草入れに愛用の煙管を仕舞い始めた。 「さてと、俺も休ませてもらおうか。お芳さんが母屋の客間に布団を用意してくれてるようだし」 「ちょっと待てよ」と、身を乗り出して、蔦重は呼び止めた。 「何だよ。これで一件落着。もう、薄ら寒い座敷で蔦重と顔を突き合わせる必要もなかろう。それとも、どこか腑に落ちねえ点でもあるのか」 すでに京伝は腰を上げかけている。ここで引き止めねばならない。 「いや、その、吉松がこの一件に関わっていたのは、よくわかった」 どこかどころか、腑に落ちない点だらけだ。だが、蔦重は前置きのつもりで、つい「わかった」と口を滑らせてしまった。 「ほう、よーくわかったんだ。どうわかったんだよ。道真公譲りの頭の働かせ方を、一つ、勿体ぶってねえで、俺にも教えてくれ」 と叫んだ京伝の面には、嫌らしい邪気がこれでもかと滲んでいた。 (しまった!) 蔦重は臍を噛んだ。 京伝は蔦重の法螺を見破った上で、カマを掛けていたのだ。 首筋に冷や汗と脂汗が一緒くたに浮かぶ。ここで嘘を認めれば、京伝は喜び勇んで蔦重をぼんくら扱いするだろう。 これ以上、侮蔑の言葉を水かけ祭りのごとく大量に浴びせられるのは、真っ平御免だった。 この場をどう切り抜けるべきか、思案し始めた矢先…… ひっ、ひっ 「泣き声だ」 蔦重は耳を澄ました。女と思しき泣き声が連続して聞こえる。 草木も眠る丑三つ時。耕書堂の中で起きているのは、たぶん三人。蔦重と京伝と、今しがた出ていったばかりの吉松だ。 「やっぱり吉松の泣き声だったんじゃねえか」 謎が解け、蔦重はあっさり結論づけた。 二十二 「相変わらず思慮の浅い男だな」 白いものが交じり始めた蔦重の頭を、京伝が指で小突いた。 「よく考えてみろよ。これから寝床に入って楽しい夢を見られる吉松が、何だって今頃、泣くんだ」 と問い質され、蔦重は口を尖らせた。 「だって、現に今、泣いてたじゃねえか」 「お前さんの頭は、ぼけた茄子みてえにスカスカなんじゃねえのか。それとも蓮根のごとく、あちこち穴だらけなのか」 京伝が切り返す。 蔦重は敗北を意識した。京伝は著作を得意としている男だ。悪意と軽蔑の言葉が数珠繋ぎになって果てしなく出てくるような輩を相手にして、本屋ごときが太刀打ちできるわけがなかった。 「すべてお見通しと言ったのは真っ赤な嘘だ。俺は真相なんぞ毛一筋ほどもわかっちゃいねえんだよ。もう焦らすのは勘弁してくれ。頼むから泣き声の謎を教えてくれよ」 とうとう京伝に泣きついた。 「どうするかな。夜も更けたことだし、仕方ねえ、教えてやるか」 京伝は荒塩をまぶすように、もったいをつけた。 「が、容易く教える気はねえよ。菅公 どころか、猿公 なみの蔦重の脳味噌を少し鍛えてやらなきゃ。今からあることを試みるから、頭を使って考えな」 と言い捨て、優雅な足取りで出ていく。 京伝の意地の悪さは今に始まった話ではない。しかし、今夜は蔦重への攻撃がとりわけ辛辣だった。 蔦重は心身共にへとへとに疲れていた。すべてを明らかにした上で、自分こそ早く寝床に転がり込みたかった。 それにしても、京伝は何をやってみせようというのか。 そこまで考えたところで妙な物音がした。 きいっこ、きいっこ、きいっこ 調子の悪い糸車を回すような音がする。これが悪戯 好きの京伝の試みなのか。静かな座敷に忍び入る奇妙な音は蔦重の心を掻き乱すのに充分な音量だった。 きいっ、きいっ、 怪音は次第に拍子が速くなり、途中から音の調子が変わった。 ひた、ひたと人の肌が板の間に吸いつくような気味の悪い音が、蔦重のいる座敷へ近づいてくる。もちろん足袋を履いた京伝の足音ではなかった。 嫌な予感がする。座敷を飛び出そうとした。 ところが、腰が抜けたのか、脚に力が入らない。やむなく坐したまま後ずさりをして、部屋の隅の暗がりに身を潜めた。 ひたっ やや間があって、音が止んだ。 襖の向こうに、何かがいる。五感を研ぎ澄まし、座敷内を窺っている様子だ。 「誰だ」 恐怖を払拭しようとして、蔦重は叫んだ。 二十三 「そんな暗がりで、いじけてるなよ」 襖の陰から現れ出たのは、京伝だ。何を思ったのか、履いていた足袋を脱いで手に持っている。 「お、驚かすんじゃねえよ。何だって裸足で歩くなんて真似をするんだ」 驚きで歯の根がうまく合わない蔦重を横目に、京伝は、ふん、と鼻息を漏らした。 「俺がわざわざ外へ出て実験してきたってのに、そのざまは何だ。当然、泣き声の謎は解けているんだろうな」 と座敷へ進み入り、仁王立ちになる。 「泣き声なんか一つもしなかったぞ。古ぼけた糸車が立てるみてえな耳障りな音しか聞こえなかったんだ」 蔦重は、ばつが悪くなって目を逸らした。奇妙な音に気を逸らされ、京伝の実験など、すっかり頭から吹き飛んでいた。 「わざと音なんか立ててねえよ。俺は、吉松と同じようにしただけだ」 「吉松と同じようにした、だと。だって、お前は今、泣いていたわけじゃねえんだろう」 「なんで泣く必要があるんだ。俺は、ただ渡り廊下を歩って往復しただけだ」 京伝は立ったまま歩く真似をしてみせる。 「違う。あれは断じて、足音なんかじゃねえ。もっと、こう、怖気立つような薄っ気味の悪い音だった」 「あんたって奴は、大飯を掻っ食らってる割に、ちっともおつむの身になっていねえようだな。いいかい、もう一度だけやるから、腐れ脳味噌の頭を働かせて、しっかりと聞いてろ」 腰を下ろそうとするのをやめ、京伝は叱りつけるように言い渡した。 その足で身軽に座敷外へ出ると、ぺたぺたと歩いて渡り廊下へ向かう。 京伝はなぜ裸足でいるのだろう。真夏でも白足袋をきちんと着ける洒落者にしては、ずいぶんとだらしのない格好だ。 ほどなく調子の外れた糸車の音が聞こえてくる。どう贔屓目に解釈しても、人の足音には聞こえない。 しかし、音の正体を掴もうと一心不乱に聞き耳を立てているうちに、妙な現象に気がついた。 京伝は渡り廊下を歩いていると言っていた。なのに、音は外から聞こえているわけではなかった。 (そんな、馬鹿な) 全身の毛穴という毛穴から体の熱が出ていくような心地がする。 蔦重が呆然としているところへ、京伝が急ぎ足で戻ってきた。 「家が、家が鳴いている」 京伝の顔を見た途端、口から情けない声が漏れる。 気を集中して聞くと、家自体が鳴いているように聞こえたのだ。 「ようやく謎に近づいてきたか。そうだ。泣いていたのは女なんかじゃねえ。この家だったんだ」 相手の狼狽など意に介した風もなく、京伝はあっさりと言った。 「そうか、吉松も渡り廊下を歩いていたのか。だが、何だって、こんな夜更けに」 蔦重は首を傾げた。七つの子供が起きている時間ではない。 「ぼんやりしてねえで考えろよ。渡り廊下には何がある」 「何がって……、あっ、厠か」 その途端、脳裡に四日前の出来事が蘇った。 吉松は寝小便の癖が抜けず、女中頭のお勝に怒られていたではないか。 「お勝に怒られるのが怖くて、小便をしに厠へ来たのか」 確認を得るように京伝を仰ぐ。 すると京伝は「その前に座らせてくれ」と苦笑いをしながら端坐した。 「よく考えてみれば、何の変哲もねえ話だろ。吉松は粗相を繰り返すようだったら、実家へ帰すと、お勝さんから脅かされたそうだ」 「お勝には若い奴らの躾を全部任せてあるからな。奉公人たちは密かに『通油町の遣手 婆 』と呼んでいるらしい」 遣手婆は遊廓で女郎の教育係を任される大年増。その厳しさ、陰険さときたら、八徳を忘れた「亡八」と称される情け知らずの妓楼の主人をも凌ぐほどだ。 京伝はさっそく煙管を使いながら、話を継ぐ。 「どうせ、あの子も口減らしのために奉公に出されたクチだろう。耕書堂を追い出されたら行き場はねえ。それで絶対に寝小便をするまいと念じていたら、尿意を感じた時に目が覚めるようになった」 吉松は気を張っていたに違いない。尿意を感じた時点で飛び起きて、すぐさま厠へ向かったのだ。 「吉松とお前の立てる音が違うのは、どうしてだ」 「鈍珍 め。俺と吉松では、どこがどう違う」 京伝が比べてみろと言わんばかりに胸を張る。 「決まってるじゃねえか。お前は大人で、吉松は子供だ。あっ、そうか。体の重さで、音が違ってくるんだな」 「人が歩くと、渡り廊下が揺れて、その振動が家に伝わるんだ。すると足音とは似ても似つかない音が出る。体重の軽い吉松だと音は高くなり、俺だと調子の外れた糸車だっけ。そんな音になる」 京伝の説明を聞くと、恐怖と不安で竦んでいた体が少しずつ緩む。真相がわかってみれば、実に他愛もない。 「笑い声の謎はどう説明する。お前だって気色の悪い笑いを、しかと聞いただろう」 けけけっけけ、けけ 薄闇に響く笑声を思い出すだけで、また動悸がしてくる。 ところが京伝は蔦重の胸中などお構いなし。手にした煙管で蔦重の髷を容赦なく叩いた。 「痛えな。少しは加減しろよ」 「尿意を感じて厠に行く時の吉松の気持ちになってみろ」 「夜、家人は母屋近くの厠を使うが、雇い人は遠い店のほうを使うんだ。真っ暗な中、一人で渡り廊下を通っていくのは、俺でも少し嫌だな」 実際は、大人の雇い人たちが真夜中に厠を使う機会は滅多になかった。 「母屋から店裏の厠までは、たとえ月明かりがあったとしても、かなり暗い。年端もゆかぬ子供の心は怖さが膨れ上がり、はち切れる寸前だっただろう。必ずや戦々恐々として厠に向かうはず。それが泣き声のように聞こえた。じゃ、用を足した後は」 「一刻も早く寝床に戻りてえ。俺なら走って戻る」 「だろ。それで、必死で走ると……」 「音が連なって……笑っているように聞こえるのか」 そういえば泣き声と笑い声は前後してはいたが、必ず対になって聞こえたではないか。 「まったく、ここまでわからせるのに、ずいぶんと労力を使わされたもんだよ。吉松の足と合わせるために裸足になったら、すっかり冷えちまったし」 京伝は先ほど肩から掛けていた大きな布を再び羽織った。 「その布は」 「店の様子を見に行った時、あんまり冷えるんで売り物に掛かっていた布を拝借した」 耕書堂では店を閉める際に、商品に掛かった埃を払い、大きな布を掛けている。京伝が羽織り、内側に吉松を匿っていた布は店の備品だった。 (畜生、さっき店の本が出しっぱなしになってたのは、こいつの仕業か) 布を取る時に閃いたのだろう。蔦重を驚かそうとして、蛙の目玉の箇所を開き、わざと手燭の傍に置いたに違いない。 蔦重は、ぎりり、と歯を軋ませながら、京伝を睨んだ。 「これで得心できただろう」 蔦重の怒りに対しては無視を決め込み、京伝は陽気な調子で念押しした。 「ちっ、おめぇには敵わねえな」 蔦重は兜を脱いだ。 京伝に弄されたのは悔しいが、次々と謎が解けていき、不思議な気持ちよさを感じてもいたからだ。 だが、まだ解けぬ謎もある。 「けどよ、子供の足音くれえで、どうして家が鳴くんだい」 気難し屋の京伝を刺激しないよう、蔦重はびくつきながら訊ねた。 二十四 「何だ、解けたのは泣き声の謎までか」 京伝は、きろりと黒目を動かした。 「悪かったな。だが、俺の脳味噌では、ここいらが限界だ」 蔦重は開き直って、白旗を掲げた。 「ほんの四日前までは家が鳴る音なんて聞こえた例 はなかったんだ」 そう、すべては、あの凄惨な敵討のあった日から始まっていた。 「いやに四日前を強調するな。どうせ吉原の事件の後から聞こえ出したから、家が鳴くのも花房の祟りだって方向へ持っていきてえんだろう。ったく、どうして四角ばったものの考え方しかできねえんだよ。あんたのその強張 った下駄みてえな面 と、そっくりだな」 京伝は蔦重への視線に、からかいの色を滲ませる。 「仕様がねえなあ。顔も脳味噌も、漬け物を怠けた糠味噌みてえに、四角張って固くなっちまってるんだな。どっちも、もっと丸く柔らかくしとかなきゃ、すぐに耄碌 して呆けちまうぞ」 と、さらなる駄目押しの嫌味を繰り出すと、京伝は文机に近寄った。右手で何かを抓み上げ、蔦重の傍へ戻ってくる。 京伝はものを抓んでいる手を畳に近づけた。行灯のゆらゆらと頼りない光を受けて、指の先が鈍く煌めいている。 「濁って腐りかけの目ん玉を引ん剥いて、よーく見ていろよ」 京伝がそっと右手を開いた。 畳の上には橙色のビードロ玉が一つ残っている。末娘のためにいくつか買ってやったものの一つだ。ほぼ球形に近い形が気に入り、蔦重の手元に置いておいた品だった。 ビードロ玉が置かれた途端、蔦重の視界に奇妙な光景が映った。 完全に静止していたはずの玉が、独りでに動き出す。火の玉のようなビードロ玉は、まるで命が吹き込まれたように、最初はそろそろと、次第にころころと速度を上げて、畳の上を軽快に滑っていく。 そのうちに、玉は光の届かない部屋の闇へ向かって一直線に転がっていき、徐々に姿を消した。 こっ、という微かな音がする。玉は入口に向かって右手後方の壁にぶつかったようだった。昼間、京伝が落とした玉が転がっていった方向と全く同じだ。 蔦重はビードロ玉が闇に吸い込まれた方角を、唖然として見つめていた。 「まさか……この家は傾いているのか」 「御明察の通り。といっても、蔦重ほどの抜け作じゃねえ限りは、とっくの昔に気づいているはずの結末だがな」 「ちょっと待てよ。この家を買った時に、傾いているなんていう悪評は聞かなかったぞ」 六年前、家を手に入れる際に仲介してくれた町名主は、購入する時に「こんなに条件のいい出物は滅多にない」と、家屋の価値に太鼓判を押してくれた。 「確かに買った時は非の打ちどころのねえ、良い物件だったかもしれねえ。だけど、その後に傾き出した可能性も、あるんじゃねえのか」 「縁起の悪ぃことをほざくんじゃねえよ。それじゃ、まるで商売が傾いたから、一緒に家まで傾 いでるみてえじゃねえか」 蔦重は鼻を鳴らして抗議した。商売人は「傾く」という語彙を絶対に口にしたくないものだ。 「頭の回りが並外れて遅い、真っ昼間の安物走馬燈のくせに、気だけはせっかちだな。早とちりするんじゃねえよ。あんたがこの家を買ってから、どこか修繕したところはねえか、って意味だ」 「手を入れたのは雨樋くらいかな。樋の途中で水が漏れ出したんで、大工に直してもらった」 「雨樋を直した程度じゃ、家は傾かねえな。他にはねえのか。例えば、外壁とか屋根とか」 「直したわけじゃねえが、一年と半年ばかり前に、屋根を板葺きから瓦に葺き替え……、そうか、わかったぞ」 瓦葺きの屋根は、昔は武家屋敷以外、御法度だった。しかし、防火対策のために次第に町人の家にも認められるようになった。 耕書堂は燃えやすい地本や絵を扱う店だ。屋根は初め板葺きだったが、藁や板だと類焼の恐れが格段に高まった。そこで貰い火の可能性を少しでも低くするため、商いに余裕が出てきた一年半前、思い切って瓦に葺き替えたのだった。 蔦重は頭に閃いた結論を口にした。 「板に比べて瓦は重量がある。だが、建物自体は瓦屋根を支えられるだけの造りになっていねえ。だから月日が経つにつれて傾いてきた」 「そう。泣き声みてえに聞こえた音は、渡り廊下を歩く揺れが家に伝わり、建物全体が軋む音だったのさ」 京伝が千両役者のごとく、自信満々に見得を切った。 二十五 「家が傾いていたなんて、ちっとも気づかなかった」 謎が解けてほっとした半面、蔦重は動揺を隠せなかった。 〈耕書堂〉は着実に江戸の地本問屋の中心になりつつあり、近年、日本橋通油町という身代に相応しい場所に居を構えた。その後も、どんな災難が降り掛かろうともびくともしない、堅牢な城のごとき住処に磨き上げてきたつもりだった。 「屋根の葺き替えだけじゃねえ。俺らの今いる座敷の上は、これから売り出す戯作本やら、摺り上がったばかりの浮世絵を置いてあるし、売れ残りの商品を一時取り置いてもいる。相当な重量があるはずだし、家の骨組みに掛かる負担は半端じゃなかったかもしれねえな」 蔦重の呟きに京伝は真顔で頷く。 「早いとこ筋交いを入れて補強しねえと、地震が起きた時、ひとたまりもなくこの家は潰れるぞ」 火事も怖いが、地震による家屋の倒壊は、人にも家にも甚大な損害を与える。 蔦重は明日にでも馴染みの大工を呼んで、耐震の策を練ろうと心に決めた。 ごぉん、ごぉん、ごぉん 時刻を告げる鐘が鳴り出した。 一つ、二つ、三つ、四つ…… 蔦重は心の中で数えた。 鐘の音は、全部で都合、八つ鳴った。 「ふぁーふ」京伝が欠伸を噛み殺している。目が落ち窪み、かなり眠たそうだ。 だが、まだ寝かすわけにはいかなかった。泣き声の話だけではないのだ。謎のすべてを解かなければ蔦重のほうが眠れない。 絵から抜け出た花房の幽霊、それから足の激痛、明かしたい謎は、まだある。 「女の泣き声が家の傾きによるものだとして、幽霊の件は、どう説明するんだ。あれこそこの世に怨みを残した花房の魂が、形になって現れたもんじゃねえのか」 「またぞろ、花房の話か」 京伝は露骨に顔を顰めた。 「その話は、明日の朝でいいじゃねえか」 「ここまで来たら、今夜中にすべての謎を明かしたいと思うのが人情ってもんだ」 蔦重も譲らない。すると京伝は、これ見よがしに手で目を擦り出した。 「俺は本当に眠いんだ」 「つれないこと言わねえでさ、どうせ今日はここに泊まるんだし、もうちょっと付き合ってくれよ。それともまさかおめぇ、幽霊については、ことごとく俺の話を信じているんじゃねえのか」 すげない素振りの京伝に業を煮やし、蔦重は声に毒を含ませた。 「目腐れ蔦重の見た幽霊の話を信じるだと。人を虚 仮 にするのもたいがいにしろ」 途端、半分閉じかけていた京伝の眼に怒りの火が灯った。 「もう一度、言ってみろ、芸のねえ戯言しか出てこない卑しい口を、ぶっとい蒲団針で縫い閉じてやる」 京伝は肩をいからせて立ち上がると、ずかすか歩いて蔦重の隣へ座る。眠気が頂点に達して機嫌が悪いのか、顔に憎々しいほどの仏頂面を貼り付けている。 「幽霊なんか、どこにもいねえじゃねえか」 と、不機嫌そうな、ざらついた声で言い放つ。 「今は、な。だが、泣き声がした時に、おめぇがここを出て行っただろう。あの後、幽霊が出たんだ。おめぇは見てねえんだとしたら、俺だけに祟るつもりだったのかもしれねえ」 「だから、どうだというんだ」 素っ気なく聞こえるものの、京伝の口調には、ちりちりとした苛立ちが含まれている。 「だから、どうって、俺は本当に幽霊を見たんだ。それが、花房の怨みがなせる業ならお祓いでもしてもらって、怒れる魂を鎮めてやんなきゃならねえ」 菩提寺で花房を盛大に供養してやろうかと、蔦重は真剣に考え始めていた。 「怨まれていると感じるなら、供養なり何なりしてやればいいじゃねえか。市兵衛の話じゃ、花房は雛型の件が本決まりになった後、しきりに蔦重の悪口を朋輩にぶちまけていたらしいからな」 京伝は気の毒そうに目を伏せる。 「やっぱり、そう思うか」 案の定、花房は討たれる前から、ずっと蔦重に対して瞋恚 の炎を燃やしていたのだ。 新しい情 報 に接し、蔦重は何とも言えず嫌な気分になる。 すると京伝が、がらっと表情を変えた。目と頬と口を思いきり吊り上げて笑う。 「何をびびってんだよ。あんたの目は、黒目も白目も、ぜーんぶ腐ってんじゃねえのか。その濁り切った二つの目を〈一を以て万を知る〉天下の京伝さんが澄ましてやるよ」 二十六 「幽霊とやらがなぜ現れたのか、知りてえんだろう。だったら、まずはこれをよく見ろよ」 と、京伝は向かって左手の壁を指差した。 蔦重が目を向けると、京伝の指の先には、行灯の仄かな明かりの中に照らし出された『哀しみの鷺娘』があるだけだった。 「見た。けど、何もわからねえ」 蔦重はあっさり降参した。 「じゃ、これはどうだ。ふーっ」 京伝の声が尾を引く中、行灯の火が大きく揺らめいて消えた。 「何すんだ。真っ暗になっちまったじゃねえか」 蔦重は慌てた。行灯が消えてしまうと、後は京伝の後ろにある手燭の小さな火だけになった。 「ああっ、壁が……」 思わず声が漏れた。 暗闇で壁がぼんやりと光っていた。おそらく鷺娘の掛け軸の下がったあたりだ。 「俺が見たのは、これだ」 蔦重は驚きの表情のまま、京伝のほうを振り返った。 「これが幽霊だって。本当にそうかい。もっと近づいて見てみろよ」 京伝が声を落として囁く。 「嫌だ、近寄りたくねえよ」 蔦重は尻込みする。 すると京伝は、濃墨をぶちまけたような闇の中、いきなり蔦重の背を突き飛ばした。弾みで、蔦重は前につんのめる。 「危ねえな、こんちくしょう」 畳に這い蹲ったまま罵声を上げると、蔦重は手をついて体を起こそうとした。 目の前にさっと手燭が差し出された。 「五月蠅え。黙って見ろ」 京伝の気迫に押され、蔦重は掛け軸に明かりを近づけた。 「どうだ、何か絵に変なところはあるか」 「いや、ねえ」 蔦重は観念して『哀しみの鷺娘』に目を這わせた。 「なるほど、絵に光が当たらなくなると、幽霊が現れるという寸法なんだな」 朧げながら真相が見えてきた。絵の面に光が当たっている間はわからないが、行灯の位置をずらしたり、火を消したりすると、絵の表面が人の形に発光するのだ。 「だが、なぜ」 「蔦重のおつむじゃ、これ以上の謎解きは無理かもしれねえな。幽霊の件は、肉筆画の題材が『鷺娘』だというところに秘密があるんだ」 思わせぶりな口調で説明しながら、京伝は再び行灯の火を灯した。 「『鷺娘』は歌舞伎の踊りの一部を描いたものだが、唄の筋と繋がりがあるのか」 『鷺娘』とは娘姿の鷺の化身が、冬景色の中で、恋にまつわる様々な感情を表現しながら踊る曲だ。 「筋よりも、鷺の化身を描いたという経緯のほうが重要だ。蔦重は青鷺火 を知ってるか」 京伝の話が思わぬ方向に逸れる。 「光を放つ鷺の妖だ。まさか、花房の正体は鷺だったとでも言うんじゃねえだろうな」 青鷺火は、鳥山石燕 の『今昔画図続百鬼 』にも登場する有名な怪談で、鷺が人魂のように発光しながら飛ぶさまをいう。またの名を五 位 の火 とも言った。 「あほう。青鷺火は妖なんかじゃねえ。ただの鳥だ。胸前の羽毛に粉のようなものがたくさん絡みついていて、暗いところでその粉が光を放つだけなんだ」 「嘘だろう。確かめたやつがいるのか」 「怪異は自分の目で確かめるべきもんだ」 京伝の眼差しが、いたずらっぽく煌めいた。 「もしかして、おめぇが自ら秘密を解き明かしたのか」 「まあな、馴染みの妓との寝物語で、吉原田圃に青鷺火が出たと聞いたのさ。前に鷺の胸のあたりが光ると耳にした覚えがあったから、泊まった翌日、田植えをしていた百姓に頼んで鷺を捕まえてもらい、粉を採ってきた」 「呆れた奴だな。田圃に下りたのか」 吉原を訪れる際、多くの場合は日本堤という長い土手の上を歩かねばならない。土手の両脇には遙か彼方まで田圃が広がっていた。おそらく京伝は土手の下に鷺がいるのに気づき、百姓と一緒になって鷺の羽毛を毟ったのだろう。 「だが、おかげで青鷺火の正体をこの目で確かめることができた。真っ暗な中で粉を撒くと、地面がきらきら星空のように輝いたよ」 京伝は何につけても自らの目で確かめねば気が済まぬ性分だが、鷺の件は酔狂にもほどがあった。 「鷺の羽が輝くなんて知らなかった」 「おいおい、山東京伝を筆頭に数多の粋人が集う耕書堂のあるじが、不思議を不思議のままにしておいてどうするんだ。暗闇で光る粉なんて、数奇者の心をくすぐる面白い代物じゃねえか」 言われてみれば、その通りだった。蔦重は商売の忙しさにかまけて、自ら面白い情報を探してくる努力を怠っていた。 「商いに忙しいあんたの耳には入らなかったかもしれねえが、ここに集まる連中はみんな知ってる。歌麿もその一人だ」 「あいつは俺に一杯食わすつもりでこの絵を描いたのか」 蔦重は開いた口が塞がらない。 「そうだろうな。歌麿はさかんに新しい浮世絵の技法を編み出したがっていた。何も言わずに絵を置いていった理由は、先に種明かしをして版元の蔦重に妙な思い込みを持ってほしくなかったからだろう」 「しかし、どうやって光らせてんだ。見たところ絵の面は滑らかで、絵の具に妙なものを混ぜた形跡はないが」 『哀しみの鷺娘』は紙ではなく薄い絹の布に描かれていた。肉筆画は薄絹に描かれる場合も多い。紙に描くより繊細で微妙な色合いを醸し出せると歌麿は好んで使っている。 「この絵は軸装してあるだろう。たぶん薄絹に裏打ちした紙のほうに粉を塗っているんだと思う」 闇の中で、京伝が絵に近づいた。 絹地に描いた絵を掛け軸にする際、布をそのまま貼るわけにはいかない。裏に丈夫な紙を張り合わせ、布に強度を持たせてから軸にする。 「道理で絵の表面を見てもわからなかったはずだ」 歌麿が掛け軸を置いていってから、周囲が明るい時間に何度も絵を眺めたが、発光する仕掛けが施されているとは気づかなかった。 「蔦重が新しい技法として使えると踏めば、歌麿は新作の摺物に取り入れるつもりだったに違えねえ。だが、この技法はやめたほうがいいかもな」 聞こえてきたのは、茶目っ気を含んだような声だ。 「どうしてだ。面白えじゃねえか」 蔦重の頭はいつしか商人の思考に戻っていた。暗闇で発光する浮世絵を発売したら、大変な評判になること間違いなしだ。 「生き物由来の顔料は劣化が早いと聞く。これを見ろ」 京伝は行灯を遠ざけた。再び壁がぼんやりと光り出す。 歌麿は人の形に光るように仕組んだんだろうが、すでにあちこち光が失せている」 「本当だ。だから今日の幽霊はぎすぎすした感じに見えたのか」 「軸に仕立てた肉筆画でさえ形が崩れてくる。摺り物の絵の具に混ぜて摺ったところで、紙同士が擦れたりしたら、粉はみんな落っこっちまうだろうよ」 「鷺をとっ捕まえて光る粉を手に入れても、摺物にしたときに思ったほどの効果が出ねえんじゃ、試す価値はねえな。わかった、潔く諦めよう。その代わりと言っちゃなんだが、最後の謎についても、手掛かりをくれねえか」 「はて、まだ何かあったか」 京伝が心底、怪訝そうな表情を見せる。 「俺の足の痛みだよ。あれは、耳や目が惑わされたとかいう理由じゃ説明できねえだろ」 「はあっ?」 京伝の声が一回転しそうなほど裏返った。 二十七 「お芳さんから何も聞いてねえのか」 驚きの表情を見せて、京伝が身を乗り出した。 「昨日、食い物の件で喧嘩したまま、お芳とはろくすっぽ話をしていねえ」 怒りでぶんむくれたお芳の丸顔を思い出し、蔦重は口を窄 める。 「今朝も話をしてねえのか。呆れたもんだな。夫婦喧嘩は犬も食わねえと言うが、蔦重んとこの喧嘩は、ぎすぎすし過ぎて、畑の肥やしにもなりゃしねえな。いいか、青庵先生の診立てによると、蔦重の足の痛みは痛風のせいだ」 京伝はたっぷりと憐れみのこもった目で、蔦重の足を眺めた。 「痛風だとぉ……」 京伝はお芳からの文で知り得たのだろうが、蔦重にとっては寝耳に水の話だった。 「風が吹いただけでも痛えっていう、あの病だ」 京伝が力強く駄目を押す。 「ちょっと待てよ。痛風ってのは、大樹様や御大名の御殿様が罹る、贅沢病だ。何で一介の本屋がなるんだ」 「罹るさ。蔦重は痛風になってしかるべき生活だからな。白米が好物。野菜が嫌い。でもって、歳を取るにつれ歩かなくなる。気に病む性格も災いするんだそうだ」 頭の中で、お芳が勝ち誇ったようにせせら笑った。 「だからお芳が、これでもかと野菜の御菜を並べたのか」 「お芳さんは蔦重の体を案じているんだ。いい女房じゃあねえか。この機会に、せいぜい精進するこったね」 またしても京伝に女房の肩を持たれ、蔦重は負けん気がむらむらと湧き上がるのを感じた。 「青菜だの人参だの、野菜なんて他に食うものがねえ奴が口にするもんだ。俺は、この先も一切、食わねえぞ」 蔦重は鼻息荒く宣言した。 「精進しねえと病はよくならねえぞ。現に今夜も、足が痛くなったんだろう」 「もう、痛くねえ。痛かったところは、綺麗さっぱりなくなっちまったよ」 嘘ではなかった。謎解きに夢中になるうちに、堰き止められていた水が一気に流れるように、痛みが消えてなくなっていた。 「青庵先生の出す薬はよく効くと評判だから、飲めば酷い痛みは出ねえはずなんだが。薬は決められた時間に飲んでいるのか」 「晩飯の後に飲むのを忘れて、おめぇが来る少し前に飲んだ」 「やっぱり……。痛みが消えたわけは、遅ればせながら薬が効いたからだ。一人でまんまも食えねえ洟垂れの餓鬼じゃねえんだから、決められた時間に薬を飲み、規則正しい生活をしろよ」 京伝は握り拳が三つも入りそうなほどの口を開け、大欠伸をした。 「さあ、今度こそ、寝かせてもらうぞ。手燭を借りて先に母屋へ行くから、蔦重は後始末をよろしく頼む」 と、自らが主人であるかのような物言いをして、腰を伸ばしながら座敷を出ていった。 やがて、きい、きい、と渡り廊下を行く音が聞こえてくる。 蔦重は一人ぽつんと座敷に残された。 「俺も火の始末をして、寝るとするか」 腰を上げて置行灯に近寄る。 四日の間、幽霊の存在に脅かされてきたが、謎が解け、蔦重の心はようやく落ち着きを取り戻した。今夜は怖い夢を見て魘されずに済みそうだ。 ふっ、と行灯の火を吹き消すと、真の闇が訪れた。月明かりもない、冷たく虚ろな闇だ。 蔦重は立ち上がると、何の気なしに『哀しみの鷺娘』に目を転じた。 やはり、ぼんやりと輝く人の形が浮かんでいる。もう恐怖はいささかも感じなかった。ところが…… 「おやっ」 視線を戻そうとして、蔦重は慌てて目を凝らした。 淡々と光る人形の顔の中に、小さな黒い染みが二つ見えた。京伝と共に見た時は、存在しなかった丸い点のような染み。それは、まるで事切れた直後の花房の眼窩のごとく、瞑くて深い妖気を宿していた。 蔦重は一目散に座敷を飛び出した。 二十八 白々と明けゆく空の下、蔦重は大川を下る猪牙舟の中で髪が逆立ちそうなほど気負い立っていた。 通油町の耕書堂から両国へ出て、柳橋の船宿から舟を仕立てた。 向かう先は、浅草新鳥越町の正法寺。日蓮宗の寺院で、養子に入った叔父の家が檀家だった縁で、蔦重も何かと世話になっていた。 昨夜、最後の最後になって『哀しみの鷺娘』の中に花房の瞑い怨念を見い出し、蔦重は誰が何と言おうと供養すると決めた。 今朝は六つ前には起き、朝飯もそこそこに家を飛び出した。 眠りについた時刻が暁の八つ過ぎだから、ほとんど寝ていない計算になる。京伝はまだ高鼾で寝ていたが、声は掛けなかった。掛けたところで、供養など無駄だとけんもほろろに返されるに決まっている。 やがて猪牙舟は大川から山谷堀へ入った。堀へ入って四つ目の橋、正法寺橋の袂で舟を下りた。陸に上がれば、正法寺は目の前だ。 山門前に着くと、若い女子のように華奢な僧が門の周囲を掃き清めている。正法寺はやたらと美形の青年僧が多かった。 社務所で声を掛けると、すぐに奥へ通された。朝早く小僧を使いに出しておいたから、住職には話が通っているはずだった。 年端もゆかぬ寺小姓に案内され、社務所の一番奥の座敷に赴くと、袈裟を着けた住職が待っていた。 「朝っぱらから、どうしたのだ」 正法寺住職の楽穏が、両手を広げながら大袈裟な身振りで迎えてくれる。天正十年創建の由緒ある寺の坊さんにしてはくだけた口調だが、別に檀家が来たから親愛の情を示しているわけではない。楽隠は正法寺を訪れる者に、一様に大らかな態度で接するのが常だった。 楽隠は還暦間近の年だが、歳よりずっと若く見える。蔦重は子供の頃から正法寺に出入りしていたので、楽隠との付き合いはかれこれ三十年以上にもなる。 「急かして済まぬが、先ごろ死んだ女の供養を頼みたいのだ」 蔦重は挨拶もそこそこに、勢い込んで用件を伝えた。 「噂の、花房とかいう花魁の供養かな」 楽隠が頬を大きく動かし、にたりと笑った。鯰の皮膚のようにぬめぬめした楽隠の頬は、どこまでも伸びて、口の両端が耳のあたりまで届きそうだ。 「もう和尚の耳にも入っているのか」 噂の伝わる速さに驚きはしたが、考えてみれば、正法寺は吉原に近い。山谷堀を行き止まりまで上れば、吉原の入口である大門は目と鼻の先。蔦重が正法寺に来るよりも、吉原の人間の口から口へ噂が移っていくほうが速いのは明らかだった。 蔦重は、昨夜を含めた四日間の経緯を語った。 楽隠は敵討の騒動は知っていたが、蔦重の身に降りかかった怪異については初耳だった。 京伝が怪異の謎をすべて解いたと知ると、楽隠は「猪口才 な男だのぉ」と、飄然と呟いた。 「件の絵は持ってきたのかね」 楽隠に問われ、蔦重は携えてきた風呂敷包みを解いた。 『哀しみの鷺娘』の掛け軸が現れる。 蔦重は巻緒を外し、畳の上に絵を広げた。 二十九 「この鷺娘が花房か。ふむ、確かに、しんねりとした執念の深さが、絵の中にも漂うておる」 広げた掛け軸を見るなり、楽穏は小さな丸い目を閉じ、厳かに言った。 「やっぱり、そうか。京伝の謎解きにも一理あるのは認める。だが、俺には、もっとこう、足下から立ち上ってくるような冷てえ妖気を感じずにはいられねえんだ」 蔦重も絵に目を落とす。 明るい光の下で見れば、ただの美しい肉筆画だ。 しかし掛け軸の入った風呂敷包みを抱え、正法寺に来る道々、蔦重の体は地の底から這い上ってきたような冷たい疼きに襲われた。今日は朝から汗ばむくらいの初夏の陽気なのに、だ。 しかし寺に着き、この座敷で掛け軸を手放した途端、疼きは治まった。急に体も軽くなったところをみると、やはり花房はいまだ此岸をさまよっていて、供養によって成仏を望んでいるのではないかと思われる。 「事情はわかった。供養する品は、この掛け軸だけでよいのかね」 楽穏は絵の中の花房に手を合わせると、掛け軸を太く短い指で丁寧に巻き始めた。 「亡骸は大文字屋の市兵衛が引き取ったから、俺のところは掛け軸だけだ」 市兵衛に少しでも情けがあれば、花房の亡骸は今頃、どこかの寺に埋葬されているはずだった。 だが多忙な妓楼の主人のこと、先延ばしにしているうちに、 他人の手によって、死んだ女郎の投げ込み寺として名高い浄閑寺に運ばれたかもしれなかった。何しろ梅雨時のこの季節、放っておけば、あっという間に死体は腐敗する。 「今日は下谷近辺の檀家がこぞって挨拶にやってくる日で、目が回るほど忙しいんじゃがな。他 な ら ぬ 蔦重の頼みじゃ、しようがあるまい。夕方の勤めの前にでも供養するとしよう」 楽穏がちらりと蔦重を見上げる。他ならぬを強調するあたり、魂胆は見えている。 「承知しておる」 蔦重は懐から財布を出した。懐紙に包んだ十両を楽穏の坐す前に置いた。 楽穏は若い頃、ふらりと正法寺にやってきて、そのまま住み着いた。当時、正法寺は檀家が減り、本堂の修繕もままならない有り様だった。 楽穏は目端が利く男だったので、時の住職に気に入られ、勧められるままに得度した。 その後は住職を助け、檀家の獲得に乗り出した。 楽穏は鯰のように愛嬌のある顔立ち。その上、説法の上手さが檀家の間で話題となり、近隣の小金持ちを次々と取り込んでいった。 また場所柄、正法寺は人知れず亡骸を葬りたい輩や、折檻の末に誤って死なせた女郎の始末を望む向きも数多く訪れた。楽穏はそんな「訳あり」の依頼もうまく捌いたから、檀家は増える一方。住職亡き後、楽穏が新たに住職の座に就いたのも当然の流れだった。 一瞬、真面目くさった表情をつくり、楽穏は懐紙の包みを手に取った。包みの厚みで、おおよその金額はわかるはずだった。 数珠を掛けた右手を掲げ、包みを軽く拝む。その上で、襖の近くに控えていた若い僧に手渡した。 聡明そうな広い額、中高の整った顔立ち、いかにも楽隠が目を掛けそうな青年だ。 「足の具合は、まだ悪いのか」 楽穏は照れたような薄笑いを浮かべながら、蔦重を気遣った。 「薬を飲んでいる間はいいが、飲み忘れたり、刻限までに飲まなかったりすると、容赦なく痛みが出る」 蔦重は昨夜の痛みを思い出していた。さらに白状すれば、今朝も食後に薬を飲み忘れて家を出た。追いかけてきた小僧に手渡され、道端で服用したという始末だ。 時刻通りに飲まなかったせいで、猪牙舟の中で足に鈍痛を覚えた時には、冷や汗を掻いた。 「痛風は、くよくよ気に病むとよくないぞ」 付き合いが長いから、楽隠も蔦重の性格をよくわかっている。 「気に病むなと言われて、すぐに能天気になれるか。仮になったとして、痛風には罹らないで済むかもしれないが、耕書堂はとっくに潰れている」 寝る間も惜しんで商売の方針を立て、売り出しの仕掛けを練る。京伝には「唐変木」だの「こんこんちき」だのと、さんざん罵倒されたが、蔦重だって使うところには気も頭も使っていた。そうでなければ、耕書堂を世に聞こえる地本問屋に育てることはできなかったはずだ。 「病は『気』からというからのぉ、いや、待てよ……」 綺麗に抜け上がった額に手を当てながら、楽隠が言葉を切る。少し考え、辺りを憚るように声を落とした。 「仔細を聞くと、お前さんの場合、病は『奇』から来たのかもしれぬ」 「『奇』って、奇怪の『奇』のことか」 意表を突く楽隠の台詞に、蔦重の声が変に高くなった。 「左様、奇妙の『奇』じゃ。この先も妙な『奇』に取り憑かれぬよう、できるだけ用心することだな」 楽隠は瞑い眼を向けた。数多の死に関わってきた僧の中にも、得体の知れぬ深い闇が存在しているようだった。 蔦重は楽隠の膝上にある「奇」を封じ込めた巻き軸を見つめ、慄然とした。 (第一話 了)
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