五月は薄闇の内に─耕書堂奇談 風花千里
第一話 歌麿の肉筆画(中) 十二 「加減はどうだえ」 うっすらと目を開けると、女房のお芳 が覗き込んでいた。 いつの間にか蔦重は、母屋の寝間に敷かれた分厚い布団の上に寝かされていた。 お芳が蔦重の額に手を当てる。今年で四十になるお芳は、芝神明町の暇瑾問屋の娘だった女だ。 「熱は下がったようだね。一時はどうなることかと心配したけど、これで、ひと安心だ」 「昨晩、この家で女が泣いていただろう。聞こえなかったか」 蔦重は気になっていた件を口にした。泣き声は母屋まで聞こえなくても、あの臓腑を抉るようなおぞましい笑いは、家中に轟き渡っいてもおかしくなかった。 「何、妙なことを言ってるんだよ。別嬪の女郎を泣かす夢でも見てたのかえ」 蔦重より二つ上のお芳は、廓遊びを覚えたばかりの若旦那をからかうような目をした。 「馬鹿ぁ言うんじゃねえ。俺は確かに聞いたんだ。ありゃ、夜の八つ頃だった」 「お前さんは高い熱を出して、寝込んじまっていたんだよ。三日三晩の間ね。ずいぶんと譫言 を言ってたし、おおかた、熱に浮かされて悪い夢でも見てたんだろうよ」 「俺はそんなに寝込んでいたのか。今日は、いったい何日だ」 「十日だよ。お前さんは七日の夜中に店で倒れたんだよ。叫び声がしたってんで、手代の梅三郎が駆けつけてさ。正体のないお前さんをおぶって母屋まで連れてきたんだ」 お芳は蔦重が母屋で寝ていた理由を手短に語った。 「でも、よかったねえ。一時はこのまま熱が下がらないんじゃないかと思って、肝を冷やしたよ。青庵先生がいなかったら、お前さんはあの世へ旅立つところだった」 「あの藪医者め、縁起でもねえ御 託 をほざきやがって」 蔦重は悪態をついた。青庵は、ここ五年ほど掛かっている亀井町の町医者だ。 「まだ伝助に商いの『あ』の字も教えてねえんだ。当分の間、三途の川を渡る予定はねえ」 憮然として、お芳を睨む。 吉原で育った蔦重は、容姿は群を抜くが、生き様のだらしない女をたくさん見てきた。 例えば禿や新造に身の回りのすべてを世話させるが、自分では繕い物の一つもできない花魁や、美貌と口の上手さを武器に、男に金を貢がせるしか能のない自称音曲の師匠などだ。 だから自分の嫁には見てくれではなく、商売人の妻として店や家族の世話をきちんとできる女を選んだ。 お芳は容姿は十人並みだが、何かにつけて手際がいい。店にこそ出ないが、家の中の采配から子供たちの教育まで一手に引き受け、俳画を嗜む余裕まであった。 お芳との間には嫡男の伝助をはじめ、一男三女を授かった。誰一人として夭折することなく元気に育ったわけは、商いで忙しい蔦重に代わり、お芳が子供たちに惜しみない愛情を注いだからだろう。 「それだけ威勢のいい台詞が出るんじゃ、もう大丈夫かね。そうだ。お前さん、何か食べられるかえ。粥でも、こさえてこようか」 お芳はふくよかな頬を緩め、にんわりと笑った。 「粥」という言葉を聞いた途端、蔦重の腹が、ぐぅぅ、と動く。お芳と二人きりの寝間に、腹の虫は大きな音を立てた。 「お腹は正直だね。でもね、青庵先生のお話じゃ、もう食べ過ぎや飲み過ぎは控えなきゃいけないそうだよ」 お芳の一言に蔦重は驚いた。 商売一筋の蔦重にとって、唯一の愉しみは飲食だった。毎日、炊きたての白飯を腹いっぱい食わないと、気力も体力もつかない。 「何でだ。俺は肥えてもいねえし、どこも悪くねえぞ。食べ過ぎに気をつけなきゃいけねえのは、米俵みてえな体をした市兵衛やお前じゃねえか」 「失礼だね。俺だって、昔は『神明小町の二番手』と謳われた女だよ」 お芳は口を尖らせた。「神明小町」ではなく、その「二番手」という言い草が笑わせる。要するに「可もなく不可もない器量」ほどの意味だ。 「俺が肥えちまったのは、お前さんのせいじゃないか。お前さんが御菜 の品数を増やせ、増やせと言うからだよ。一緒になって食べてたら、こんなに大きくなっちまった」 お芳は蔦重と夫婦になって、めきめきと太り出した。日々、健啖な夫に付き合って他人より多い飯を喰らっている。太らないほうがおかしかった。 こんな他愛のない応酬ができるのは、お芳と連れ添ってきた長い年月のおかげだった。 蔦重も三十八歳。決して若くはない。商いを大きくする野望以外は頭にない蔦重にとって、お芳との気の置けない夫婦の関係は何事にも代えがたい気がした。 「人をおちょくったと思ったら、何をしみじみとしてるのさ……」 蔦重の顔をじっと見つめていたお芳が、照れくさそうに口籠った。 「それじゃ、粥をこさえてこようかね。青庵先生は熱さえ下がれば、命にかかわることはないと仰っていたけど、念のため、今日一日、おとなしく寝ていておくれよ」 お芳は乱れていた蔦重の夜着を整えると、大きな尻を揺すって出ていった。 十三 お芳が運んできた粥は、小さな椀に一杯分しかなかった。 空腹で気が遠くなりそうだったのに、ひと椀の粥では文字通り腹の足しにもならない。しかも胡瓜の塩揉みだの茄子の煮物だの、蔦重の大嫌いな野菜の御菜は粥と一緒に山ほど付いてきた。 病人食のような御菜の品揃えは青庵の差し金だ。三日三晩も寝ていたのだから、いきなり普段通りの食事をしてはいけない、という指示なのだろう。 かちんときた蔦重は、御菜には一つも手をつけず、粥のみを有難そうに啜ってやった。 「粥をもっと持ってきてくれ。それと干し魚を焼いたのと、精をつけるために卵も頼む」 蔦重は傍らで給仕をするお芳に所望した。 「まぁだ御菜がたくさん残ってるじゃないか。野菜も食べないと、良くならないよ」 聞きわけのない幼子を相手にするように、お芳は小鉢に入った胡瓜の塩揉みを箸で摘まむと、蔦重の口に運ぼうとする。 「胡瓜は好かん」 蔦重はそっぽを向いた。胡瓜の青臭い匂いを嗅ぐだけで、反吐が出そうだ。 「胡瓜は、って……、お前さん、好かねえのは胡瓜だけじゃないだろ。茄子も小松菜も、冬場の美味しい大根だって食べやしない」 「野菜なんて、いくら食っても満腹にならん。いいから早く粥を持ってこい」 あるじの威厳を周囲に誇示するように、蔦重は強気に命じた。 「いいや、ここに出ている御菜をすっかり食べない限り、お代わりは、なしだよ」 お芳も意地になっている。空になった粥の椀を遠ざけ、半身を起こした蔦重の前に、御菜の器をずらりと並べた。 「冗談じゃねえ、野菜なんか誰が何と言おうと食わねえ。あの藪医者の言いなりになんか、なるものか」 己の体は己が一番よく知っている。蔦重の活力の源は、どう転んでも野菜ではない。 「それじゃあ、仕方がないね。今、食べた分だけで我慢おし」 青庵の診立てに全幅の信頼を置くお芳は、蔦重の言い分を無視し、さっさと残った御菜を下げ始めた。 蔦重が恨めしさを込めた目で睨んでも、知らんぷりを決め込んでいる。小鼻を大きく膨らませた形相から、お芳の内心かなり怒っている状況が見て取れた。 残り物の載った盆を持ち、お芳が寝間を出ていくと、もう腹の虫が騒ぎ出した。粥を食べ終えてから、まだ四半刻も経っていない。 「ああ、飯、飯……、腹いっぱい飯が食いてえ」 願望が口をついて出る。「白飯をおかずに白飯を食う」といった態でもいい。今なら、丼十杯でも飯を掻っ込めそうな気分だ。 とはいえ、意識すればするだけ腹は減る。 空腹を紛らわそうと、蔦重は三日前の怪異について想いを巡らせ始めた。 半身を起こしたままの体勢で、そっと両脚を動かしてみる。 怠さは残っているものの、痛みは全く感じなかった。 (あの夜の痛みは何だったのだ。そのままお陀仏になってもおかしくないほど甚だしい痛みだったが……) またしても花房の死に際が目に浮かぶ。あの夜に見た謎の炎はやはり花房の幽霊だったのだろうか。 家人や使用人は、女の涙声や嘲笑が聞こえなかったという。とすると、花房の狙う相手は、蔦重ただ一人、ということになる。 今まで商売を大きくする過程で数多の人間を蹴落としてきた。一代で蔦屋を大きくし、他人の怨みを買っても平気の平左を気取っていた蔦重だったが、この世にいない相手から怨まれているかもしれないと思うと、さすがに気味が悪かった。今回は寝込んだだけで済んだものの、再び同様の痛みに見舞われたら、今度こそ命の保証はないかもしれない。 つらつら考えていると、不安が募ってくる。鋭利な刃で貫かれたような痛みに、いつまた襲われるかと思うと、胸のあたりが息苦しくなった。 息が浅く、速くなっていくさまが、はっきりとわかる。 けけけっけっけっけっけ…… 狂気を孕んだような刺々しい笑い声が脳裡に木霊する。 冷たく湿った邪気が我が家を覆っているような気がして、蔦重は戦慄した。 十四 翌朝、明けの六つ半(五時半)に目を覚ました。 眠りが浅かったり、寝汗を掻いていたりして、夢見はあまりよくなかったが、ともかく普段通りに床から出た。 台所に顔を出す。 お芳は朝から機嫌が悪かった。蔦重が話し掛けても、ろくすっぽ返事をしない。昨日の諍いが尾を引いているようだった。 朝餉の膳には、またしてもあちこちに野菜が顔を覗かせていた。 眉根に皺を寄せ、蔦重は不快な感情を露わにする。 とはいえ、内心、大した怒りは感じていなかった。瓜の胡麻和えの小鉢や沢庵漬の小皿などは、手をつけねば事足りる。 隣に誰かいれば、野菜の御菜は全て、その人間の皿に移すのだが、皆とっくに朝餉を終え、仕事に就いている。やむなく飯の茶碗と味噌汁の椀のみを引き寄せ、野菜は自分から遠ざけた。 ところが、だ。気づくと、豆腐か魚貝しか入れてはならぬと厳命している味噌汁から、茗荷と青紫蘇の香りがぷんぷん立ち上っている。俄に怒りが込み上げてきた。 汁の表面を見れば、大きく切った豆腐の陰に刻んだ青紫蘇の葉が潜んでいた。 野菜を細かく切って汁に入れてしまえば、取り除くのは至難の業。野菜嫌いの亭主の口にも否応なく入る。と、お芳は踏んだのだろう。 お芳の様子を窺う。お芳は素知らぬ態で女中に用事を言いつけているが、目の端で蔦重の動向を見守っている気配が濃厚だった。 (浅はかなやつめ。いかにも俄か策士が考えつきそうな企みだ。こんな子供だましの策略に引っ掛かるほど、俺は耄碌しておらぬ。今に見ておれ) 蔦重は左手に飯椀を取った。その上で箸を持った右手を、遠ざけておいた瓜の小鉢に伸ばした。胡麻和えを摘まむと見せかけ、右肘で味噌汁の椀を、ちょいと小突く。 じゃぱっ、と音を立て、椀の中身が瓜の鉢と沢庵漬の上へぶち撒かれた。 瓜はぐちゃぐちゃの豆腐にまみれて姿を隠し、沢庵漬は茗荷と青紫蘇の和え物のごとき様相を呈している。だが、左手にある白飯の茶碗だけは見事に難を逃れた。 「んまあ」とお芳が短く叫んだ。 お芳の慌てぶりに蔦重は意地悪く顔を歪めた。心の中でお芳に毒づく。 (ざまあ見やがれ、この、すかたん、が) 蔦重は澄ました表情を作り、悠々と白飯を食い始めた。 目論見の外れたお芳が、練り立ての辛子のようなひりひりした視線で睨めつけてくる。蔦重は気づかぬ振りをして黙々と飯を口に運んだ。 野菜を食わされるくらいなら、死んだほうがまし。蔦重は本気で考えていた。 食後は青庵が処方した薬を飲んだ。苦いので普段から薬は服用しないのだが、高熱を出した後だから、今日ばかりは仕方あるまい。 薬と白湯を運んできた女中の娘に効能を聞いてみたが、知らぬという。お芳は知っているだろうが、蔦重のやり口に業を煮やしたようで、肩を揺すりながら台所を出ていったきり、戻ってこなかった。 (さて、店へ行くか) 蔦重は腰を上げた。しかし、何だか気が重い。寝込んで以来、店に出るのは初めてだった。 通用口を出て渡り廊下を通る。途中、店裏に建つ厠へ寄り、用を足した。 厠は母屋の寝間近くにもあるが家族の専用で、使用人は常に、店裏の厠を利用する。蔦重も店に出ている時は、近いほうの厠を使った。 いつものように帳場の奥の座敷に向かった。 『哀しみの鷺娘』をはじめ、耕書堂から出版された浮世絵が並ぶ部屋だ。 座敷の入口に立つと、朝の鮮やかな光の中で内部はいやに明るく清潔に見えた。 文机の前に坐り、蔦重は深呼吸をした。 三日前に見た炎の正体が気になって、どうにも落ち着けない。 あの青白い炎は何だったのか。己の目の迷いだったのか。それとも……。 蔦重は、思い切って壁に下がった掛け軸に目を遣った。 (別に変わったところはねえな) もう一度よく絵を見直す。真っ白な画面の中で、鷺娘に扮した花房は美しく立っている。傍に寄ってみたが、絵は歌麿が携えてきた当初と、いささかも変わってはいなかった。 やはり錯覚だったか、と己を納得させたものの、蔦重の両肩はなぜか、ぞくり、と震えた。 帳場のほうから足音が聞こえてきた。襖の向こうで若い手代の声がする。 「お客様がお見えです」 「今日は誰とも約束しておらぬはずだが」 蔦重は訝しんだ。病み上がりの身だから、何の予定も立てていない。 「京伝先生でございますよ。旦那様のお見舞いにいらしたのだそうです。すぐお通ししますからね」 早口で捲し立てると、手代は、ばたばたと帳場へ戻っていった。 十五 「存外に顔色が良いな。生まれたての赤ん坊の肌みたいに、無駄にぴっかぴかじゃねえか。すっかり具合はいいのか」 高めで艶のある声がしたと思うと、手代の案内もなしに京伝が入って来た。 「勝手に上がり込んできやがって」 戯作者の山東京伝は、北尾政演という名の浮世絵師でもある。戯作にしろ浮世絵にしろ、作品の多くは蔦重の元から出版され、いわば耕書堂付きの作家と言ってもいい存在だった。頻繁に耕書堂へ顔を出し、間取りから使用人の数、新顔の戯作者や絵師の名まで知り尽くしている。 「それだけ憎まれ口を叩けるなら安心だ。蔦重から毒気を抜いたら、何も残らないからな。まあ、蝮 みてえなもんだ。おっと、蝮は酒に漬け込みゃ薬酒になるが、酒漬けの蔦重じゃ誰も買わねえか」 小憎らしい台詞を吐く京伝は、蔦重より十一歳年下の二十八歳。蔦重とは版元と作者という枠を超えた深い付き合いだ。 戯作者には武士という表の顔を持つ者も多いが、京伝は深川の商家の出身である。破天荒のようでいて、その実、自尊心が強いだけの「兼業武士」とも付き合わねばならぬ蔦重である。己の美意識を世間に向けて披露することにのみ心血を注ぐ京伝は、大文字屋の市兵衛とともに気の置けない友人だった。 京伝が蔦重の前にゆったりと座る。 「熱はずいぶん高かったのか」 「まあな、ひでえ目に遭ったよ。いったんは黄泉の入口まで行きかけたようだが、何とか此岸へ戻ってこられた」 蔦重は苦笑まじりに言い、煙草盆を京伝の傍へ押しやった。 「油断するんじゃねえぞ。当分の間、無理は禁物だ。だいたい蔦重は、自分の体に無頓着すぎるんだ。食べ過ぎ、飲み過ぎ、寝不足……加えて、近頃はあまり歩かねえだろう。体調が悪くなって不思議のねえ不摂生ぶりだ」 「俺はまだ四十前だ。それほど体にガタは来ちゃいねえよ。それよりおめぇこそ、煙草の喫 み過ぎには気をつけろよ。ひっきりなしに喫んでいやがるから、歯の裏が脂 で真っ黒けだって話じゃねえか」 金唐革の提げ煙草入れから煙管を取り出した京伝の手元に、蔦重は目を向けた。 煙管は銀製の羅 宇 で、男が持つにしてはかなり細身だった。複雑な唐草模様が彫られた凝った造りは、洒落者の京伝によく似合う。 煙草盆の抽斗から煙草を抓み出し、京伝は細い指で火皿に煙草を詰めた。雁首を煙草盆に近づけ、火をつける。 「ふうー、いい煙草じゃねえか。堀留町は栄屋の〈不二〉だな。栄屋の煙草は質がいい。呉服町の壺屋も悪くねえが」 と、一服したのち、満面の笑みを見せた。煙草の銘柄ばかりか、購う煙草店の良し悪しにまで一家言を持っている。 「大伝馬町の湊屋で売り出したばかりの〈清流〉も、脂が歯につきにくいと評判なんだ。俺も試してみたけど、確かに脂臭くねえし、香りもいい。蔦重のところも、是非〈清流〉に替えるといい」 「てやんでえ、他 人 様 ん家 の煙草を頂いているくせに、ずらずら御 託 を並べてるんじゃねえよ。脂が嫌なら、煙草なんぞ喫うな」 蔦重は京伝の横顔を睨みつけた。 しかし、視線が定まったのも束の間、心の内で唸り声を上げる。 (相変わらず、粋な野郎だな) 「宝暦の色男」が朋誠堂喜三二なら、「寛政の色男」は、この京伝だ。 しかし同じ色男でも、二人の男振りは全く違っていた。 朋誠堂は、役者と見紛うほど目鼻立ちが整って上背もある、他 人 目 を引く容姿だ。江戸留守居役の職権を利用して、遊里で豪勢に金を遣い、綺麗に遊ぶ。 色と慾にまみれた花魁連中だけでなく芸者や妓楼の女中までもが朋誠堂に憧れ、色男の一挙一動に胸をときめかせた。 一方の京伝は、とびきりの美男ではない。どちらかといえば痩せ形の優男で、あまり男臭さを感じさせない風貌だった。 だが、眦 が少し下がり気味の眼は、いつも好奇の色を湛えて、愛嬌がある。無駄な肉のない頬の線と細い頤 は、意志の強さをよく表していた。 その上、女子 には無闇矢鱈と優しかった。 十代の頃から遊廓に出入りしているせいか、京伝は女心がよく読める。情の細やかさと機知に富んだ会話で、関わり合った女をことごとく虜にした。 また京伝は、自らの審美眼のみを物事の判断材料とし、他人の評価をいっさい気にせぬ男だった。 日々の装いや煙草入れなど装身具の趣味、物す戯作や手掛ける浮世絵も、すべて京伝の美意識の赴くまま。発表される新奇な趣向は常に世間の話題となり、たちまち流行を巻き起こした。 今や「京伝好み」が「江戸好み」と言い換えられるのに、ほんのひと月も掛からない。女子からだけでなく同性からも「色男」の称号を贈られている。 「で、今日は何の用だ。おめぇの本は、つい、こないだ出したばかりだろう」 好奇心旺盛な京伝のことだ。蔦重の災難を聞きつけ、様子を見に来たに違いない。探りを入れたい気持ちを堪え、蔦重は冷たく言い放った。 「ずいぶんと突慳貪 な物言いだな。蔦重が倒れたって聞いて、心底、心配したってのに」 京伝は不満そうに鼻を鳴らした。しかし、その表情に気を悪くした様子はなかった。 「とはいえ、心配は無用だったかもしれねえがな。別嬪の傾城ならともかく、分別臭い蔦重が相手じゃあ、地獄の閻魔様も、とっとと娑婆へ帰れと追い返すだろうから」 「わかった、わかった。減らず口はそのぐらいにして、どうして、今日、床上げしたと知ったんだ。へらへら笑っていねえで、仔細を話せよ」 蔦重は詰め寄った。 いわくありげに、にやついていた京伝だったが、真顔に戻ると、たっぷりと勿体をつけて話し出した。 「実は、三日前に蔦重が倒れたとお芳さんから文を貰ったんだ。すぐに駆けつけたんだが、まだ熱が高くて会えそうもなかった。で、『亭主の具合が良くなったら、使いをくれ』と、お芳さんに頼んでおいたのさ。そうしたら今朝、ここの小僧がうちに来たってわけだ」 京伝は通油町からほど近い銀座に居を構えている。容態の快復した蔦重を見て、お芳は昨夜のうちに小僧に言い含めておいたのだろう。 「お芳は何を言うにも大袈裟すぎるんだよ。他人にまで余計な心配を掛けさせやがって。たかだか熱が出ただけじゃねえか」 「そんなに女房を詰 るもんじゃねえよ。実際、死にかけたんだろう。お芳さんだって心配だったに違えねえ。それに、譫言 で『女の泣き声がする』と喚いてたっていうじゃねえか。亭主に何か疾しいことでもあったんじゃねえかと、お芳さんが気を揉むのは当たりめえさ」 京伝は悪戯っぽく笑った。さすが女には大甘の色男だ。他人の女房にさえ過剰な肩入れをする。 「泣き声の話を聞いたのか。ってことは、やっぱり様子を探りに来たんだな」 蔦重は京伝の目を覗き込んだ。 「それだけじゃねえけどさ。でも、花房の事件があった後だ。しかも斬られた場所に蔦重が居合わせたって話じゃねえか。事件と譫言を結びつけねえでいるほど、俺は頓馬じゃねえよ」 「どこで花房の話を知った」 「事件のあった翌日、俺は用事があって吉原へ行ったんだ。市兵衛がいくら口止めしたって、人の口に戸は立てられねえ。さすがに騒ぎ立てはしねえけど、廓の連中は皆、知ってたよ」 京伝の話に不思議はなかった。 吉原は、女ばかりの不夜の城。噂は三味 の音 に乗り、あっという間に廓の隅々まで行き渡る。 「で、蔦重の身に、いってえ何があったんだ」 京伝は話の続きを催促するがごとく、こん、と煙管を灰吹きに打ちつけた。 十六 蔦重は自らが体験した怪異の記憶を京伝に話した。 花房の正体と死。深夜の女子の啜り泣き、暗闇に光る人形 、さらには、あの半身を引き裂かれるような謎の痛み……。 京伝が珍しく茶々も入れず、真剣に聞いてくれるので、蔦重も心強かった。四半刻と、たっぷり時間を掛け、できるだけ詳しく怪異の状況を説明した。 「面白い内容だ。特に、女の泣き声がした、という下 りは興味深い。泣き声がしたのは、一度や二度じゃなかったんだな。母屋の女中たちに、泣いた女はいなかったのか」 京伝が口を開いた。長話に飽きた様子も見せず、相変わらず目をくりくりと輝かせている。恐怖より興味が先に立つ性質だから、蔦重が味わった恐ろしさを慮る気持ちは二の次だろう。 「台所で女どもに訊いてみたんだが、夜中に泣いた者はいなかった。女中たちは同じ部屋で寝ているし、お芳は……深夜さめざめと泣くような気弱な女じゃねえからな。『女中たちは昼間の仕事で疲れ切ってて、夜中に泣く力なんぞ、ひとったれも残ってませんよ』と、かえって女中頭のお勝に嫌味を言われちまったよ」 お勝は名の通り、勝気な女。小僧だろうが主人だろうが、文句があれば直ちに口にし、遠慮会釈なく雷を落とした。 お勝くらいの度胸がなければ、日々、札付きの変人が集う耕書堂の女中頭は務まらない。 「それは、とんだ藪蛇だったな。ってことは、やっぱり花房の仕業なのかもしれねえな。蔦重は怨みを買ってしかるべき仕打ちをしているから」 京伝が文机の上に載ったヒードロ玉を取り上げ、手で弄びながら言った。 「雛形の話か。俺はそんなに酷い仕打ちをした覚えはねえぞ」 蔦重は狼狽 える。 「したともさ。市兵衛を焚きつけ、『雛形を断るなら、兄貴のために用立てた二十両を今すぐ返せ』と迫らせたのは、どこの因業 野郎だ。そもそも花房は大文字屋に来た時点で借金まみれなんだから、纏まった金など、あるはずがねえ」 「そりゃあ、ちょっと強引だったかもしれねえ。だが、それは商売人として当たりめえの態度だろう。雛形になるったって、何も取って食うわけじゃあるめえし、一世を風靡 した色男と一緒に天下の絵師に描いてもらえるんだ。花魁にとって名誉でこそあれ、俺が怨まれる筋合いはねえはずだ」 本来なら花房に怒りをぶつけるべきなのだが、朝っぱらから幽霊がうろついているはずもない。やむを得ず、蔦重は目の前の京伝に突っ掛かった。 「普通は蔦重の言うとおりなんだが、花房は違った。浮世絵に描かれちゃ、いつどこで誰が見るかわからねえ。世間に向けておおっぴらに顔向けできねえ立場だったわけだからな」 「ひょっとして、市兵衛にも異変があったんじゃねえのか」 蔦重は市兵衛の身が心配になった。 「三日前に大文字屋を訪ねた時には、ぴんぴんしてた。その後も変わりがあったとは聞いてねえ」 「そうなのか。くそ、何で俺だけが……」 蔦重は、ぼやいた。花房の怨みが雛形の一件に由来するなら、市兵衛にも、ぜひ祟ってもらいたい。巨体が痩せ細るくらいに怖がらせてもらいたい。 「市兵衛は女郎屋の主だけあって、恐ろしいほど肝が据わっているからな。たとえ泣き声がしたとしても、高鼾で寝ていただろうよ。その点、蔦重は、うじうじと気に病む性 質 だから」 京伝がしたり顔で腕を組んだ。 (うじうじ、とは失敬な) と、声に出そうとして、蔦重は思い留まった。 京伝の言葉通り、確かに思い当たる節がある。 蔦重は企画を起こす前、また企画が完了してからも、いちいち仕事の経過を振り返り、反省したり、次の行動に繋げるべくあれこれ考えたりする。 それは商売には必要な行為ではあるのだが、蔦重の場合は度が過ぎた。不眠を引き起こしたり、気を病んだり、何かしらの弊害 を伴う羽目になった。 さすがは京伝。付き合いが長いだけあり、蔦重の性格を知り抜いている。 ぽとっ。 小さな音がして、京伝の手にしていた金柑の実ほどのビードロ玉が畳の上に落ちた。弾みがつき、玉はころころと部屋の隅へと転がっていく。 「やっぱり気になるな」 玉の行方を目で追っていた京伝が、焦れたような甲高い声を上げた。 「何が、だ」 蔦重も京伝と同じ方向を見る。玉は窓際まで行って、ようやく止まった。 蔦重のほうが近くにいるので玉を拾ってやろうかとも考えた。が、立ち上がるのは億劫 だった。 身のこなしの軽い京伝が、さっと立って行って拾い上げる。 「そうだ。今夜、俺と一緒に、蔦重が怖い目に遭った場を再現してみようじゃねえか。怪異の正体を見定めるんだ」 振り返ってビードロ玉を抓 んだ手を振り翳し、京伝は嬉しそうに叫んだ。 「再現して、どうすんだよ。どうせおめぇは野次馬根性丸出しで、俺が恐れ慄くさまを笑い飛ばすつもりだろう。それとも花房の幽霊と差し向かいで一杯 やるつもりか」 「花房の幽霊と出会える。それは願ったりだ。本物の幽霊とご対面できるなんざ、めったにねえ経験だからな。期待と興奮でぞくぞくしてくるよ」 京伝の頬は紅潮し、小躍りしそうなほど体を揺すっている。 「ばっかやろう。おめぇの酔狂になんか付き合ってられるか。俺は金輪際あんな場面に身を曝すのは、ごめんだからな。断固として、断る」 京伝の異様な高揚ぶりに呆れ果て、蔦重は声を荒げた。 「そう、いきり立つなよぉ……。またいつ何時 、泣き声が聞こえてくるか、わからねえんだぞぉ。このまま放っておいて、いいのかえ……」 不気味な口調だ。しかも底意地の悪い友は『哀しみの鷺娘』に目を走らせ、いわくあり気に表情を曇らせた。すっかり意気地のなくなった蔦重に、なおも揺さぶりを懸ける魂胆 らしい。 (こいつの術中には絶対に嵌まらねえぞ) 肩をそびやかし、いったんは京伝の提案を突っ撥ねようとした。 だが、思ったそばから不安が顔を覗かせる。再び女の啜り泣きを聞いたとしたら、冷静を保っていられるのか。一人で怪異の正体を暴くことができるのか。幽霊が現れたら、正気でやり過ごすことができるのか。 考えてみると、蔦重は全く自信がなかった。 「わかった。俺は少々、気が弱っちまってるようだ。おめぇの好きなようにしろよ」 京伝の強力な突っ張りの前に、蔦重はあえなく屈した格好となった。 「そう来なくっちゃ。では、今夜こそ幽霊の正体を突き止めよう」 京伝が高らかに宣言した。 すると風もないのに、壁の掛け軸が、かたん、と小さな音を立てて揺れた。 十七 怪異の場を再現する約束を取り付けた京伝は、いったん銀座の家に帰った。その後、夜の五つ半(午後九時半)頃、耕書堂へ舞い戻ってきた。 帰宅していた間に、短い戯作を一本と狂歌集の挿絵を二つ仕上げてきたというから、今夜の計画を遂行するにあたり、並々ならぬ気構えで臨む様子が見て取れた。 「少し、冷えてきたな」 湿気を含んだ冷たい空気が、床下から立ち上ってきた。 蔦重はぶるんと身震いして、はだけ気味だった着物の前を急いで合わせた。 「昼間はよく晴れて、暑かったのにな。夕立のせいで、風向きが変わったんだろう。だが、雨が上がってよかった。四日前も雨は降っていなかったんだよな」 京伝が細い頤を、ゆるりと窓のほうへ向ける。 「月こそ見えなかったが、今夜と似たような天気だった」 「何よりだ。場の状況はなるべく似ていたほうがいいからな。ふっふー」 京伝は浮かれた調子で、煙草の煙を思いきり吐き出した。 「ずいぶんと楽しそうだな」 やたら機嫌のいい京伝を前に、蔦重は面白くなかった。 京伝の態度は、まるで上野のお山へ花見にでも繰り出したような燥 ぎようだ。嫌味の一つも投げつけてやりたい。 が、ここで臍を曲げられ、帰ると言い出されても、また困る――と、蔦重が悶々としていたところへ、刻を告げる鐘が鳴った。 「九つ(午後十一時半)か。さて、幽霊殿はいつお出ましになるかな」 京伝が掛け軸に視線を送った。蔦重も倣う。 画中の鷺娘は物憂げな表情で置行灯の淡く揺らめく光の中に浮かび上がっていた。 「この間は八つぐらいだった。だが、今晩は何も起きねえかもしれねえな。おめぇがいるし、俺だけに祟りてえんなら、幽霊は別の夜を選ぶと思うんだ」 蔦重は安堵と不安が綯い交ぜになったような複雑な気分だった。 幽霊が出るのなら、京伝がいてくれたほうが心強い。けれども本音を言えば怖い思いを二度としたくない。 「だとすると、優雅に煙草を喫ってる場合じゃねえな」 京伝は煙管を置くと、音も立てずに立ち上がった。 「この先、俺はできるだけ気配を消して待つ。蔦重も話し掛けないでくれよ」 蔦重に背を向け、座敷奥の窓際へ向かった。 京伝が四日前と同じ条件にしたいと強く主張するので、今宵も置行灯は一つきりだった。 暗くてぼんやりとしか見えないが、京伝は窓の下に寄り掛かるように座っていた。 もしかしたら、目を瞑っているのかもしれない。呼吸の音も聞こえぬくらい、京伝は見事に存在を消していた。 蔦重も黙って、机の上の本に目を落とす。 本は他店から出たばかりの浄瑠璃本だったが、気がつくと、同じところを何度も行きつ戻りつしていて、内容はさっぱり頭に入ってこなかった。 どのくらいの刻が経っただろう。半刻、いや一刻近く過ぎたか。 夜更けの静寂の間を縫うようにして、冷たく湿った声がした。 十八 ひっ、ひっ 四日前と同じ女の啜り泣きだった。 しかも前に比べて、今宵はより鮮明に聞こえる。 ひっ、ひっ、ひひぃ また声がした。いったいどこから忍び寄ってくるのか。声の残響が蔦重の耳に纏わりつく。声はじくじくと耳の奥へと入り込み、頭の中で増殖を始めた。 突如、左足の先が、ずきん、と痛んだ。 脳裡は陰々滅々とした女の声で満たされ、足元では熾火のように痛みが燻る。 「うわ」 蔦重が短く叫んだ途端、京伝の叱声が飛んだ。 「静かにしろ。黙って聞くんだ」 京伝に威しつけられ、蔦重は吐き出すばかりだった息を、少し吸った。 (そうだ、京伝が一緒だったのだ。この先、何が起こっても、俺一人の目だけではなく、京伝の垂れ目も一部始終を映すはずだ) たった一言ではあったが、友の存在は、蔦重に落ち着きを取り戻させた。 泣き声はまだ続いていた。 ひ、ひっく、ひっく 蔦重は聞きたくない気持ちを抑えつつ、声に意識を向ける。 声はこの間と高さは同じだが、少し調子が違うようだった。何と言えばいいのだろう、暗い情念が籠もっているだけなく、寂しげで悲哀すら感じさせるような幽けき声とでも言えばよいか。 徐々に鼓動が速くなった。拍動の間隔がどんどん短くなっていく。心ノ臓の動きと共に、足先の不穏な違和感も強くなっていくような気がする。 動悸のする胸を押さえつつ、蔦重は恐る恐る座敷のあちこちを見回した。 部屋は六畳。行灯の明かりだけとはいえ、鼻を抓まれてもわからないほどの暗さではない。室内には、蔦重と窓際にいる京伝以外の気配は、皆目、感じられなかった。 しばらくすると、泣き声が止んだ。 「京伝」 怖々呼び掛けた。だが、応答がない。 京伝は先ほど蔦重を叱りつけただけで、その後、身動き一つしなかった。 「おめぇも聞いただろ。怨みがましい女の泣き声をよ」 返事がないので不安になった。京伝は暗がりの中で何をしているのか。 文机の前に坐している蔦重は、足元を手で探った。机の下の手燭が指先に触れる。何かあったら火を灯し、明かりを増やそうと、内緒で隠しておいた。 その時、京伝の白い顔が、ぬっと現れた。 「この、唐変木 が。黙ってろ、と言ったじゃねえか」 京伝の声音は、いつもと変わらず涼しげで、辛辣 だった。 「だって……もう泣き声が止んだのだから、少々喋ったっていいじゃねえか」 蔦重は不貞腐れて、口を尖らせる。 「ほんとに、どこまで莫迦なのさ。声のしなくなった後の『間 』を聞くってことが大切なんだ。なのにあんたが、もじゃもじゃと要らんことを喋るから、手掛かりを聞き逃したかもしれねえじゃねえか」 京伝は立腹の様子だ。唐変木だの莫迦だのと、年上の友人につけるにしては、いささか乱暴な敬称を繰り出してくる。 「済まねえ、つい大声が出ちまって。だが、これで俺の話が嘘でないとわかっただろう。女はこの家のどこかで泣いてるんだよ」 仕方なく蔦重が下手に出ると、京伝はあっさりと機嫌を直し、 「確かに女の泣き声はする。ちょいと帳場を見てこよう」 と、襖に手を掛けた。 「一人で行くのか」 「すぐ、そこじゃねえか。ついでに店の中も一回りしてくる」 二人がいる建物の内部は簡単な構造だ。店の土間を上がると、浮世絵を並べた畳敷きの店頭となる。その横に帳場があり、帳場の先がこの小座敷だった。 帳場と小座敷との間には、渡り廊下に繋がる裏口がある。 「店は真っ暗だぞ」 「平気さ。襖を開けっぱなしにして、こうやって行灯の位置を移せば」 京伝は置き行灯を抱え、出入口に向かって右手の壁際に移動させた。 外廊下が仄かに明るくなるのがわかる。 「後は手元だな。隠し持ってる手燭を出しな」 京伝は、にっ、と笑って、蔦重の足元を指差した。 「何だ、知ってたのか」 蔦重はきまりが悪くなって、しぶしぶ手燭を差し出した。 京伝が蝋燭に点火する。 ごく。蔦重は唾を呑み込んだ。 小さな光の輪の中に、京伝ののっぺりとした顔が、生首のように浮かんでいた。 「それじゃ、行ってくる」 京伝は座敷を出ていく。その後ろ姿は心なしか影が薄いような気がした。 ひた、ひた、と一定の間隔で足音が遠ざかるにつれて、再び静寂が訪れた。 十九 蔦重は文机の前から動けずにいた。行灯の灯が照らす襖の前で、京伝の帰りを待とうか、とも考えた。 だが、襖の向こうを覗くと、何か人でないものを見てしまいそうな心地がして、体が反応しない。 京伝は手燭を掲げて、店の隅々まで歩き回っているのだろうか。それにしては、人が立てる物音が全くしなかった。 「白木屋みてえな大店じゃあるめえし、いつまで見回ってやがるんだよぉ」 白木屋とは日本橋通町に店を構える江戸一の呉服問屋。真夜中のことで、あまり時間の感覚がないから、出ていったきり一向に戻らない京伝に業を煮やし、つい泣き事が口をついて出る。もしかすると、蔦重を置き去りにし、怖がらせて愉しんでいるのではあるまいか。 (そういう魂胆なら、こっちにも考えがあるぜ) 蔦重は立って行って、外廊下の方を見ないようにしながら、置行灯を、壁に沿ってさらに奥へ押しやった。これで廊下は真っ暗になるはずで、可愛げのない京伝を少しは怖気づかせることができるかもしれない。 (でもまさか、本当に幽霊と出会っちまったわけじゃねえよな) 嫌がらせの仕返しをしてすっきりはしたが、やはり京伝の戻りが遅いのが気になった。 もし幽霊の正体が花房だとしたら、蔦重の友人に対して友好的な態度は決して取らないだろう。蔦重もろとも末代まで取り憑いて祟るか、さもなくば、その場で息の根を止められるか。今頃、悪意に満ちた幽霊によって店の土間に沈められていなければいいが。 あれこれ想像しているさ中、啜り泣きが再び薄闇の間 を縫った。 ひっひっひっひっ…… 泣き声は次第に、感極まったように速くなる。 蔦重はとっさに視線を上向けた。喉を絞められたように息が止まる。 文机の横の壁に、火の玉、いや人の形をした白っぽい炎が揺れていた。 しかも今夜の炎は、三日前と比べ、刺々しい光を放っていた。まるでやり場のない怒りを燃やし尽くそうとしているかのごとく。 「で、出た……」 全身が緊張したのがわかる。助けを呼ぼうとしたが、舌の根が渇き切って、うまく言葉が出てこない。 (ともかく京伝を呼んでこねえと) 蔦重は、強張った脚を畳から引き剥がすように、襖の外へ身を乗り出した。 廊下に、いつもと違う不穏な気配が色濃く漂っている。気配は徐々に蔦重のいる場所へ近づいてきた。 怖いのに、視線が廊下の先へとひとりでに吸い寄せられる。 じっと目を凝らすと、黒い塊のような大きな影が地面を滑るようにしてやって来るのが見えた。 気の迷いか。 いや、違う。人でない何かが確かに忍び寄ってくる。 蔦重は脚が震えるのを意識した。 けけけっけっけっけ 蔦重の動揺を嘲るように、泣き声が気色の悪い笑いに取って変わる。 その途端、心ノ臓が暴れ始めた。鼓動が喉を迫り上がってくるような気がする。はっはっ、と息遣いが荒くなる。 足に激しい痛みを感じ、その場にへたり込んだ。花房が死んだ夜と同じく、研ぎ澄ました錐 か鑿 で下から刺し貫かれるような痛みだった。 痛みの強さに、体ががくがくと痙攣する。濁りきった池で喘ぐ瀕死の鯉のごとく、口が、はくはくと開閉する。 (このまま死に至るのか) と観念した矢先、数間先の板戸が小さく鳴った。黒い影は、裏口から外へ出ていく。 影が自分に向かってくるものだと思っていたので、蔦重は少し冷静さを取り戻した。 しかし、すぐに別の懸念が取ってかわる。 影は裏口を出ていった。つまり、母屋の方角に向かったわけだ。母屋には蔦重の家族の他、住み込みの使用人が数多くいる。 家族まで幽霊に祟られるわけにはいかなかった。耕書堂のあるじとして、母屋の住人を守らねばならぬ。 (ぐずぐずしてる場合じゃねえ) 蔦重は無理やり体を起こそうとした。 だが、痛みに痺れた左脚は、動かそうとしても意のままにならない。 仕方なく腹這いになった。両腕と右脚のみを使って、這いながら座敷を出る。 匍匐前進。しかし、事はそう簡単にはいかなかった。左の足先が冷たい廊下に触れるたび、痛みの中に全身が呑み込まれるごとき衝撃が走った。 やむを得ず、左足をなるべく地面につけないよう、小便する犬にも似た不格好な体勢で這っていく。 裏口の前まで辿り着いた時、母屋の近くから「きゃああ、助けてえ」という金切り声がした。 声の主は若い女子だろう。細く高い声だ。女中か、もしくは三人いる蔦重の娘のうちの誰かか。 蔦重は腹這いになったまま、絶望の思いで目を瞑った。 「やはり、すべては花房の仕業だったのか」 今しがた出ていった影は、花房の幽霊だったのだ。蔦重の体の自由を奪い、今また家族にも危害を及ぼそうと企んでいる。 蔦重は両腕に渾身の力を込めて上体を起こした。 まだ足に痛みはある。いや、足全体が痛みの塊と化したかと思うほどの激痛だ。 だが、「火事場の馬鹿力」とはよく言ったもので、人間は切羽詰まると、気力が体力を勝り、不可能をも可能にする。 蔦重も鉛の錘 のような不自由な足をものともせず、両腕を突っ張って起き上がった。跛 をひきひき、開け放たれた裏口から闇の中へ一歩を踏み出す。 すると、湿り気を帯びた生暖かい風が蔦重の鼻先へ降り掛かった。 否、風ではない。燃え上がった後に燻っている枯草のような匂い。これが物の怪の息遣いなのか。 間違いない。花房はすぐ傍にいる。 蔦重は一歩下がり、戸口の裏に立て掛けた心張り棒を手に取った。 「おのれ、花房。いくら怨みがあるからといって、京伝や家族にまで手を掛けるとは……。祟るなら、俺だけに祟りやがれ」 蔦重は腹の内が煮えてならなかった。 「これでも食らえ」 外の闇に向かって心張り棒を振り下ろす。 しゅっ、と、ものの表面を擦る音がした。棒を握った蔦重の両手にも、微かに手応えがある。 もう一度しっかり狙いをつけて、心張り棒を振り翳した。 「ちょっと待て。俺だよ。京伝だ」 纏っていた暗闇を脱ぎ去るように、俄かに京伝の顔が近づいた。 (後篇に続く)
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