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2012年8月5日日曜日

Baloney! - 「イワセミ」/ 風花銀次

 イワセミ◎風花銀次

 土の中で数年の幼虫時代を過ごしたのち、羽化して、岩の隙間、割れ目の中で終生を過ごすという奇妙な生活史を持つ地味な半翅目の昆虫、セミの一種が発見されたとき、色めき立ったのは生物学者やアマチュア昆虫愛好家ばかりではなかった。
 退化して小さくなった貧相な翅が、ある種のフェチを喚起するから、という説もあるにはあるが、それでは、まるで畑違いの芭蕉研究家たちが慌てふためいた理由は説明できないだろう。なぜ芭蕉研究家たちは慌てふためいたのか。
 まだ名前すらない新種のセミを、とりあえずイワセミとよぶことにするが、芭蕉研究家たちが慌てふためいた理由としては、このイワセミが発見されたのが山形市だったことが大きいといえるだろう。山形市には通称山寺こと宝珠山立石寺があり、芭蕉はここで

  閑さや岩にしみ入る蟬の声

 という人口に膾炙した句を詠んでいるのである。
 イワセミの発見は、この句の解釈に変更を迫るものとなるかもしれず、そのため芭蕉研究家たちはあたふたと慌てふためいたのである。
 だから、同じ山形県内の村山市で発見された、やはり新種のサクライクロナガゴミムシ Pterostichus (Eosteropus) sakuraii はさほど騒がれなかったのに、などと拗ねる必要はさらさらない。サクライクロナガゴミムシらしき虫を詠んだ句はないのだから。
 また、これから詠もうにも、サクライクロナガゴミムシという種名はすでに十二音もあり俳句には詠み難い。どうせ十二音なら五・七もしくは七・五で区切れるようにしてくれるとありがたかった。しかし新種に命名する人が俳句に詠むことを考慮してくれることは、まずないのである。
 さて、イワセミの発見により、「岩にしみ入る」は喩ではないのではないか、という疑問が提起された。つまり「岩の中で鳴いている蟬」の声を詠んだのではないか、というのである。
 さらに、「岩にしみ入る」のはセミの声ではなくセミそのものではないか、との説も唱えられた。岩の中に潜り込んで暮らすのだからありえないことではない、というのだ。
 ちなみにイワセミは小さく、ほかのセミに比べて扁平な体をしており、そのため腹部の共鳴室も小さい。そして、そのぶん小さな声だが、岩の中で鳴いていてもしっかり聞こえる高音である。
 しかし「岩の中で鳴いているセミの声を詠んだのだとしたら『岩にしみ入る』ではなく『岩からしみ出す』でなくてはおかしいのではないか」との反論が当然のごとく出てきた。
 もちろん「あえて『しみ入る』としたところに芭蕉の詩精神を読み取るべきではないか」との反駁がすかさず行われたのはいうまでもない。
 また、岩にしみ入るのは声ではなくセミそのものではないか、という説について「セミは液体ではないし『しみ入る』というのはおかしいのではないか」という至極当たり前な反論が出てきたが、これにも「あえてそうしたのが芭蕉の詩精神というものではないか。声だって液体ではないし、しみ入ったりはしない。まして岩になんか」との反駁が、やはりすかさず行われた。
 芭蕉研究家たちは、昆虫について素人とはいえ、もちろん芭蕉に関しては専門家なので、専門用語などもたくさん使い、もっと高邁な言い回しで長い時間をかけて議論したのだが、あたしの能力に合わせてダイジェストでお届けすると、まあ、こんな感じになるわけなのだった。
 そして、あるときついに「王様は裸だ!」的な爆弾発言が出てくる。
「もしイワセミを詠んだのだとしたら、この句は大した句ではないのかもしれない」
 というのである。
「閑さや」=「小さな声」、「岩にしみ入る」=「岩の中に棲んでいる」、「蟬の声」=「蟬の声」と、すべてがパラレルであり、二物衝撃とは到底いえず、これまで評価されてきた理由の大部分が雲散霧消するのだから、むべなるかな、という気もしなくはない。
 ところで芭蕉が詠んだ蟬の正体について興味を持つ者は昔からいたらしく、大正十四年、斎藤茂吉は「改造」四月号に発表した「童馬山房漫筆」のなかで、芭蕉句のセミはアブラゼミであると断定して論争を引き起こした。
 新暦で七月上旬という時期から考えてアブラゼミじゃないだろう、と反論された茂吉は、実地調査などを経て「アブラゼミじゃなくてニイニイゼミ」と、あらためて結論づけた。
 だが、七月上旬に山形で初鳴きする可能性のあるセミの種類にはいろいろあって、エゾハルゼミ Terpnosia nigricosta 、ニイニイゼミ Platypleura kaempferi 、ヒグラシ Tanna japonensis に加えアブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata だっている(とウィキペディアにだって書いてある)。イワセミは、茂吉の時代には発見されていないので候補に上がらないのもいたしかたない。
 さて、長谷川櫂は評釈で「岩にしみ入る蟬の声」を現実の音とし、「閑さや」は心の世界であり、次元の異なるものの取り合わせとしているが、この解釈ならナニゼミだろうが、立石寺だろうがなかろうが、さらには山形でなくたってかまわないという気がする。だいたい、あたしは現地に行ったこともないので「立石寺で詠んだ」といわれても、どれほどの感慨もなかったりするよ。
 そして、あたしなんかは「閑さや」が現実世界で、「岩にしみ入る蟬の声」が心の世界でもいんじゃね、と思ったりしてね。
 つまりセミはまだ鳴いていない。
 静寂の中で、岩の中でいわば結晶化している「蟬の声」がやがて融解し、あたりに満ち溢れる、というのは虫好きにとってはなかなか心が浮き立つような解釈じゃなかろうか。どうだ。
 どうだといっても、

  山寺や石にしみつく蟬の声
  淋しさの岩にしみ込せみの声
  さびしさや岩にしみ込蟬のこゑ

 という推敲のあとをたどるまでもなく、ちときびしいか。鑑賞者にとっては推敲のあとなどどうでもよく、最終的な作品のみが重要なんだとしても、やはりセミは鳴いてたんだろうなって思う。そんでも、ぶっちゃけた話をすれば、句の解釈をひとつに決めなくてはいけないという超越的な根拠などそもそもない。
 解釈といえば、分子生物学や生物発生学の進展によって遺伝子と形質は一対一で対応しているわけではないことがわかってきているんだが、なぜか日本のメディアはDNAがすべての形質(どころか行動まで)を決めてしまうかのように伝えたがる。遺伝子には、たしかに形質についての情報が書き込まれているけれども、たとえ同じ情報であっても、それを解釈するシステムによって形質は異なってくる、ということは伝えない。ちなみにタンパク質をコードするDNA=遺伝子は、ヒトの場合で全DNAの二%しかないとのこと。
 遺伝子レベルでさほど変わらないヒトとチンパンジーの違いなども、ほとんどが解釈系のシステムの違いによる、ということになるらしい。それどころか哺乳類と昆虫でさえ相同の遺伝子を使い回しているというんだから、遺伝子てやつもずいぶんアナーキーだね。
 そんで、なにがいいたいのかというと、自分でもよくわかんなくなってきているけれども、芭蕉句においてセミは鳴いていても鳴いていなくても、アブラゼミでもニイニイゼミでもエゾハルゼミでもヒグラシでもよく、それらの詮索は、解釈系のシステムである読者のお楽しみになることはあっても、セミの種類が名句の条件になることはないんじゃないの、ということだ。
 ただし、ナニゼミでもいいといっても、イワセミはいただけない。だって、そんなのはいない。要するにしょうもない与太話なわけです。
 でも、サクライクロナガゴミムシてのは本当にいて、山形昆虫同好会代表の桜井俊一さんが昭和五十九年に採集したものが、二十年経ってからの鑑定で新種と判明。彼は、ほかにもアマミセスジムシ Omoglymmius sakuraii、サクライエグリゴミムシダマシ Uloma sakuraii といった新種の甲虫を、いずれも奄美大島で発見している。
 それにしても十七音の俳句では昆虫(生物)の種を特定できるほどディテールを詠み込むのはなかなか難しい。そんな必要があるのか、とか、どうしてもってんなら前詞か添書きに書けばいんじゃね、といったようなあたりきは、とりあえず脇に置いとくとして。
 種名そのものをずばりいってしまえればいいんだが、カノウモビックリミトキハニドビックリササキリモドキ(スオウササキリモドキの別名) Asymmetricercus suohensis ほどではないにしても、サクライクロナガゴミムシていどに種名が長いことがほとんど。また昆虫ではよく似ていて別の種、という例は枚挙にいとまがなく、なにより人々は昆虫になどほとんど興味がないので、なんで見分けられんかな、と不思議に思うことしばしばだ。
 昆虫に造詣の深い桜井さんでさえ「小型だったため、発育不全かな」と思い、採集から二十年もほっといたのが新種だったわけで、昆虫に興味がない人はモンシロチョウ Pieris rapae とツマキチョウ Anthocharis scolymus の区別さえつかんし、小さなオオクワガタ Dorcus hopei binodulosus と大きなコクワガタ Dorcus rectus の区別だってできない。ポピュラーな種であっても、そのような体たらくなのだから、エンドウヒゲナガアブラムシ Acyrthosiphon pisum とヨモギオナガヒメヒゲナガアブラムシ Macrosiphoniella grandicauda の区別など望むべくもない。望むべくもないが、アブラムシの場合は寄主植物を覚えるというこつがあるので、ぜひがんばってほしい。アブラムシは意外とかわいいからね。
 そして、子供たちに理科を教えているはずの小学校教師でさえ、ハチとアブが区別できなかったりする現実を目の当たりにすると、嘆かわしいことこのうえなく、憤死しそうになるのだが、短詩形式詩でどれだけディテールを詠み込めるかといったこととは別の問題として、創作においても鑑賞においても、ディテールを見分ける目は持っておいて損はない。
 とりあえず、解釈系のシステムである読者のお楽しみとして、いくつかの句で昆虫の種を詮索して遊んでみることにする。

  黒揚羽軋める音をこぼしけり 宮坂静生

 黒揚羽といわれれば、蝶についていくらかでも知っている人間なら素直に、標準和名としてクロアゲハの名を持つ Papilio protenor demetrius のことだと思うのだが、そして、そう思って問題ないだろうとも思うのだが、実に多くの人間が黒い翅を持つアゲハチョウ科をひっくるめてクロアゲハと呼んでいたりするので、実際のクロアゲハでないとしたらなんなのかという、しなくてもよい詮索をあえてしてみる。
 しなくてもよい詮索ならしなければよいのだが、なにがなんでもしなければならない詮索というのも意外にないもので、結局のところ、ほとんどの詮索は個人的な趣味にすぎないと思ってまず間違いなく、他人に迷惑がかかるわけでなければ、趣味についてとやかくいわれる筋合いもないのである。
 さて、日本に生息するアゲハチョウ科のうち、黒い翅を持つのはクロアゲハのほかに、カラスアゲハ Papilio dehaanii dehanii、オナガアゲハ Papilio macilentus、ジャコウアゲハ Byasa alcinous、モンキアゲハ Papilio helenus nicconicolens、ナガサキアゲハ Papilio memnon、シロオビアゲハ Papilio polytes、ヤエヤマカラスアゲハ Papilio bianor junia といった種がある。
 またアゲハチョウというと一般的なイメージとしては緩やかな飛び方で、ふわふわしていて重さは感じない。「軋める音」をこぼすようなものではない。そこで一般的なイメージの飛び方ではないアゲハとしては、クロアゲハよりも飛び方の速いオナガアゲハやジャコウアゲハがいるが、直線的に速く飛ぶジャコウアゲハの雄をおすすめしたい。
 ジャコウアゲハの幼虫が食草とするウマノスズクサ Aristolochia debilis にはアリストロキア酸等のアルカロイド毒があるため、これを蓄積し、成虫も体内に毒を残している。蛹は別名を「お菊虫」といい、怪談「播州皿屋敷」で非業の死を遂げるお菊に由来している。このような好逸話も「軋む」にふさわしい気がするが、どうか。
 もっとも「羽化時のクロアゲハの翅が伸びていくところ」なんていわれれば、なるほどね、って気もするんだけどね。

  厠にも鍬形虫の死んでゐし 茨城和生

 たぶん、立派な大顎を持っている雄のノコギリクワガタ Prosopocoilus inclinatus あたりだろうな、とは思うが、ミヤマクワガタ Lucanus maculifemoratus の雌というのが、なんとはなしに哀れで好みだ。ヒラタクワガタ Dorcus titanus の雄というのも滑稽でいいかもしれない。でも、なぜかオオクワガタの雄ではお話にならない気がするから不思議だ。

  蝶落ちて大音響の結氷期 富澤赤黄男

 ふたたび蝶。季語は結氷で冬だから、蝶も冬の蝶ということになる。俳句では凍蝶などともいい、歳時記や辞書類では「冬まで生きのびて」云々と、健気さやあわれさが説明されているが、じつに成虫越冬する蝶の種類は多く、比較的よく見かけられるものとしては、キチョウ Eurema hecabe、ウラギンシジミ Curetis acuta、キタテハ Polygonia c-aureum、ルリタテハ Kaniska canace 等々がいる。
 開長三十五ミリメートル程度のキチョウやウラギンシジミと、開長六十ミリメートルと倍近くになるルリタテハでは、落っこちたときのイメージがだいぶ違ってくるが、小さな蝶のほうが「大音響」が生きるような気がする。
 昆虫写真家の海野和男さんの作品に、雪のなかで越冬するキチョウを撮ったものがあり、それを見て以来、赤黄男句の蝶はキチョウ以外思い浮かばなくなってしまった。
 しかし、越冬もへったくれもなく、どこかで死んでいた蝶が風に舞って落ちたのだとしたら、ナニチョウでもかまわないというか、ありとあらゆる蝶が候補に上がることになるね。
 ふと思い出したが、小学生のころ与謝野晶子の

  やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

 を、なんの予備知識もなく読んだとき、「道を説く君」でハンミョウ Cicindela chinensis japonica を連想した。ミチオシエの別名があるというのも理由のひとつだが、ほかに、顔をアップで見ると中国道教の道士のようだということもある。妖艶な美女と巨大ハンミョウの絡みを妄想して夢に見るほどだったが、とんでもない誤読だ。
 誤読ではあるが、遺伝子という細胞に括りつけの情報に変異がなくても、解釈系のシステムに変異が起こることで大進化は起こりうる。すなわち誤読は進化を加速する。誤読、大いにすべし。
 文芸作品でいえば遺伝子とは作者に括り付けの情報ということになるのかもしれないが、そんなものはもともと作者以外に知りようのないものだし、素晴らしい誤読は、それ自体独自のものとして生き残ってもいいんじゃないだろうかね。
 生き残んなくったって、進化の実験室といわれるカンブリア紀の奇妙奇天烈な生物たちのように、さまざまな誤読があってよい。つまらない誤読や悪意のある誤読はいずれ滅びるだろう(希望的観測)。そして誤読されるためには、まず読まれなければいけないわけだが、ここで作者に括り付けの情報が働くことは多いかもしれない。
 しかしね、進化てのは不可逆かつ世代を超えた変化なわけだが、あたしはすでに「道を説く君」がハンミョウではないことを知ってしまったし、あたしの息子に「道を説く君」がハンミョウだという誤読が継承されているわけでもない。
 さびしいかぎりさ。

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