蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章 風花千里
第六章 四人の禿 「歌乃、行くよ」 まさに阿吽の呼吸とでも言おうか。菊乃の呼びかけに、歌乃が間髪を入れず「うん!」と頷いた。 「千鳥と波路に話を聞きに行くのね」 歌乃の瞳がいつになく強い光を湛えている。 波路と同様、千鳥も、おっとり構えた歌乃を陰で小馬鹿にしている。歌乃も、千鳥らの陰湿な言動を肌で感じているはずだった。 姉女郎のお墨付きを得て、菊乃とともに話を聞きに行くとなれば、いつもいじめられている鬱憤を晴らせる絶好機だと思っているのかもしれない。 いつもと違う歌乃の積極的な様子に、菊乃は少々面食らった。 昼も、九つ半になろうという時刻。化粧も終わり、綾錦は馴染客に文を書くというので、菊乃たちに、ほんの四半時だが暇が与えられた。 二人して、勇んで部屋を出たまではよかったが、襖を閉めてから、はたと当惑する。 芙蓉が死んで主のいなくなった向かいの三つの座敷は、綺麗に掃除がなされ、襖が開け放たれていた。人の気配は、まるでない。 朝、湯殿に出向いた時には襖が閉じられていたから、芙蓉付きだった禿 や新造は、まだ居るものだと思っていた。けれども、どうやらすでに散り散りになって、どこかの部屋に移ったようだ。 丁子屋は大見世ゆえ、女郎だけでも二十人を超えた。 芙蓉の自害から二日。対の禿が、どの花魁に付いたかという情報は、いまだ菊乃たちの耳に届いていなかった。 「どうするの? 千鳥も波路もどこ行ったか、全然わからないよ」 芙蓉の座敷の前に立った途端、歌乃は、早くも逃げ腰である。 自害の現場を見ているわけでもないのに、人一倍おろおろと怖がる歌乃は、事件からこの方、一人では絶対に部屋を出ない。湯殿はおろか、厠に至るまで、菊乃と一緒でなければ用を足せないのだ。 畳が替えられ、自害の痕跡などまるっきり見出せない整然とした座敷を、菊乃は端から端まで見渡した。 おや? 何か引っ掛かった。菊乃は、左から右へと、ゆっくり移動させていた視線を慌てて中央に戻す。床の間の上部に、縦五尺くらいの掛け軸が提げられている。 「歌乃、あれって、芙蓉さんが書いたんじゃなかったっけ?」 歌乃は、穢れのあった部屋を避けるように、そっぽを向いていたが、菊乃に促されて、しぶりしぶり、おずおずと座敷を覗いた。 「うん。そうよ。あの『芙蓉』っていう字に、見覚えがあるもの」 「やっぱり、そうか。部屋を掃除したおじさんたち、元からこの部屋にある掛け軸だと勘違いして、掛けっぱなしにしておいたんだね」 菊乃は座敷に入り、しげしげと掛け軸を眺めた。 芙蓉が、自分の名が詠み込まれた漢詩を揮毫して、客を招く座敷に飾っているという話は聞いた覚えがあった。 先年、柳橋の河内屋で開かれた書画会に、芙蓉は、吉原の女郎として初めて招かれた。その席で芙蓉が揮毫した書は、普段は吉原でしか目にできない貴重な作品という理由で、大変な高値がついたという噂だった。 一向に書が上達しない菊乃ではあるが、芙蓉の書の見事さは、はっきりと実感できた。 女郎は、登楼の誘いから金の無心まで、日に何通も馴染客に文を書く。特に芙蓉は、一日十通以上の文をしたためることもあるという。芙蓉が呼出しの地位にまで上り詰めた理由は、案外、そのまめな部分にあるのかもしれなかった。 芙蓉の書の流麗な線と、己の房楊枝で書きなぐったような、がさがさの線とを引き比べ、菊乃は天を仰いで盛大に嘆息した。 菊乃のあまりに大げさな呼気に、歌乃が、んくっ、と笑いを嚙み殺している。 「何、溜め息ついてるの?」 「わっちと芙蓉さん、同じように紙と筆を使って書いているのに、どうしてこんなに出来栄えが違うのかなあって……。まっ、そんなことはいいや。それより下へ行ってみよう。誰か千鳥と波路の行方を知っている人がいるかもしれない」 菊乃は、歌乃の手をむんずと摑むと、廊下を走り出した。 遅い朝飯の片付けを終え、まだ開店の準備には間があるからか、内所には、人っ子一人、見当たらなかった。 常に内所から女郎や雇い人に目を光らせている楼主と内儀も、所用で席を外しているのか、どこにも姿が見えない。 内所の奥の座敷から、常磐津の節回しが聞こえる。ことによると、角町 に住む常磐津の師匠が来て、内儀に稽古をつけている最中なのかもしれない。 菊乃と歌乃は、内所には入らず台所に向かった。 「ここも、誰もいないね」 菊乃につき合い、階下まで走ってきたせいで、歌乃の息が荒く弾んでいる。 「一回りして誰もいなかったらほかを探そう」 菊乃は、歌乃の手を離した。二人とも懸命に駆けてきたから、掌が少し汗ばんでいた。 人がいないせいか、やけに広く見える台所を通り抜ける。途中で菊乃は、調理場の隅に置かれた鉢に、朝飯の菜の残りの沢庵を見つけ、素早く一つ頂戴して、ひょいっと口に放り込んだ。平気でつまみ食いをする菊乃を見咎め、歌乃は、めっと睨む真似をした。 外に通じる木戸の前にたどり着いた。 そっと木戸を開けると、凩が吹きすさび、肌に触れる風が身を切るように冷たかった。 「この間、ゆきはここで遊んでいたんだよ」 菊乃は木戸の外を指さした。 さすがに、この身を切るような寒さの中、ゆきの姿は見えなかった。 「まあ、ゆきったら、こんなところまで来てたのね。遣手のお滝婆は猫嫌いだから、見つかったらいじめられるわ。あんまり外をうろつかないよう気をつけてやらないと」 初めは生き物に興味のなかった歌乃も、部屋でゆきを飼うようになってから、すっかり猫好きになっていた。 しばし戸を開けたまま、誰か通りかからないか窺っていたが、歌乃が、耐えかねたように「寒いねえ」と口を開いた。手をこすり合わせ、寒さに身をよじっている。 振袖を三枚も重ねているといっても、まだ部屋着のままである。襟元や身八つ口から忍び込む冷気は、華奢な子供の体を震え上がらせるに十分だった。このまま外にいると風邪を引きそうだ。 菊乃は音を立てないようにして木戸を閉めた。 再び、台所を通る時、内所の近くで何やら人の蠢く気配がした。 菊乃は、歌乃と顔を見合わせ、目配せをする。腰を屈め、土間を忍び足で進み、内所に近づいた。 先を行く歌乃の歩みが止まった。二人で土間に膝をつき、台所の板の間越しに顔を覗かせる。 板の間と内所を仕切る丈の低い屛風の陰に、妓楼の粗末な仕着せをまとった子供が潜んでいた。内所の、さらに奥に続いている座敷の様子を窺っているらしい。どうやら下働きの子供のようだ。 「あの子、何を企んでいるんだろう」 菊乃が歌乃の耳に囁きかけた途端、当の子供が振り向いた。 「あっ!」「えっ!」 菊乃と歌乃が、交互に叫んだ。 煤けたような顔をした波路が、爛々と燃えるような目で二人を見据えていた。 菊乃は急いで波路のもとへ駆け寄ると、ぺたりと座った波路の頭のてっぺんから足の先まで視線を走らせた。 「どうしたの? その格好」 少し前まで、菊乃や歌乃と同じく艶やかな振袖を着ていた波路が、藍天鵞絨の真岡木綿の地味な布子に、細帯を締めただけの姿でうずくまっているのだ。もちろん化粧もしておらず、髪には質素な簪を一本しか挿していない。 波路は、奥の座敷を憚るように声を潜めた。 「しっ、声が高い。ご覧のとおり、姉様が死んでほかに行くところがないから、内所の手伝いをしてんのよ」 菊乃たちの着物を睨 めつけると、波路はふてくされた顔をして言った。 「行くとこないって、どういうこと?」 菊乃は思わず聞き返した。歌乃も事情がよく吞み込めていないと見え、目を見張ったまま呆然としている。 花魁の中で、小間使いとして禿を付けられる資格があるのは、呼出しと、昼三 。つまり、揚代が昼夜共で三分という上妓である。昼三はさらに、道中をし、引手茶屋で仲之町 張りをする者と、妓楼で客を待つ見世昼三とに分かれていた。 芙蓉が死んで、呼出しは綾錦一人となった。しかし、昼三は五人ほどいるはずで、菊乃は、波路と千鳥が、他の昼三の下に付くと思っていた。 波路は、菊乃の吞み込みの悪さに腹を立てたか、忌々しそうに、ちっ、と舌を鳴らす。 「要するに、今は、どの花魁にも二人ずつ禿が付いているんで、わっちを世話してくれる姉さんが全然いないってことよ」 菊乃は、丁子屋の昼三の顔を頭に描いてみる。三芳野、桜葉、花鳥、玉川、薫。確かに、この五人の花魁は、すでに対の禿の面倒を見ていた。 「そう。じゃ、千鳥も一緒に内所の手伝いをしているんだ」 と、菊乃が何気なく呟いた刹那、波路の手が菊乃の肘を思いきり摑み、強い力で引っ張った。 「いっ、痛い! 何すんだよ!」 「うるさい! 黙ってここから見てごらん」 波路が屛風の陰で体をずらし、菊乃に場所を譲った。 菊乃は屛風の脇からそっと顔を出し、奥の座敷を覗いた。 「千鳥、引込になったんだ……」 菊乃が目にしたのは、目の覚めるような韓紅花 の小袖を着て、常磐津の師匠に稽古をつけてもらっている千鳥の姿だった。千鳥の横には内儀が控えており、にこやかに稽古の進み具合を眺めていた。 禿の中で、器量が良く、将来、全盛の花魁になれそうな素質を持つ子供は、引込禿として、内所で育て上げた。店にも出さず、雑用もさせず、ひたすら芸事と行儀を仕込まれる。引込禿は、禿の中でも選り抜かれた子供しかなれぬゆえ、妓楼に一人いるかいないか、といった存在だった。 それにしても、芙蓉の死によって生じた、禿の境遇の差はどうしたことだろう。片や煌びやかな着物を身にまとい、芸事三昧。片や垢じみた仕着せで、台所の下働きである。 波路が烈しい嫉妬の感情を抱きつつ、屛風の陰で朋輩の様子を窺っていたであろうことは容易に想像がついた。 「波路……」 菊乃は波路が気の毒で、掛ける言葉が見つからなかった。 波路は、話の接ぎ穂を失って口ごもる菊乃を、苦々しい顔つきで見遣っていたが、唐突に、くっくっ、と忍び笑いを漏らした。 「何がおかしいのさ」 菊乃は、波路の小生意気な態度に、かちんと来た。 「へん、ちゃんちゃら、おかしいわよ。あんた、柄にもなくわっちに同情しているつもりなんだろうけど、そんなの無用よ。今に見てなさい。わっちとあんたは、いずれ綾錦さんの部屋で一緒になるはずだから」 波路は、肩肘を張り、傲慢なくらいにそっくり返った。そばかすの浮いた顔は奇妙にねじくれて、歌舞伎『助六』の意休さながらの悪意に満ちていた。 歌乃の指摘どおり、波路は相当にひねくれて陰湿な性格のようだ。 それまで唇をぎゅっと嚙んで黙っていた歌乃が、すっと背筋を伸ばし、挑むように波路に食ってかかった。 「は? 波路ったら、おつむが変になったんじゃないの? 姉様のところには、菊乃とわっち、もう禿は二人いるわよ」 波路は目を転じ、歌乃の硬く突っ張ったような顔を、まじまじと見つめた。二人の視線が絡まり合い、火花が散りそうなほどの緊張が走る。 「あら、お内儀さんが、歌乃を家に帰して芸者にしたほうがいいだろう、って仰っているのを知らないの?」 「えっ、それって、どういうこと……」 歌乃が言葉を詰まらせた。語尾がかすれ、わずかに声が震えている。 ふふん、と波路は鼻で笑うと、追い討ちをかけるように毒言を吐いた。 「あんたは器量も良くないし、何かにつけてとろいし、その上、気働きもできないから、女郎には向かないんだってさ」 「噓だ! いいかげんなこと言うな」 歌乃をいじめるやつは許さない。菊乃は、波路と歌乃の間へ割って入った。あまりに腹が立って、全身が、かっと熱くなる。 「この耳でお内儀さんから聞いたんだもの、本当のことよ。だから、歌乃がお払い箱になったら、わっちが絶対に後釜に座ってやる!」 妬みという感情は、これほどまでに人の形相を変えてしまうのか。 波路は、どちらかといえば人好きのするかわいらしい顔立ちだったが、今は、その面持ちがとげとげしく、醜いほどに歪んでいた。 「ひっ、ひどい」 歌乃は、顔を袖で覆って立ち上がった。菊乃が止める間もなく、その場から走り去る。 「あっ、歌乃!」 「うふふ、相変わらずの泣き虫だねえ。とっとと母ちゃんのところへ帰ればいいのに」 「なんだと!」と言い放つのと、菊乃の手がびしゃっと波路の頬を張るのとは、まったく同時だった。 「うちの姉様は、歌乃を手放したりしない」 菊乃は、きっぱりと言い切った。綾錦が歌乃の意向も聞かずに、折り合いの悪い母親のもとへ帰すなど、絶対にあるはずがない。 波路は張られた頬を手で押さえ、しばらく憎々しげな目つきで菊乃を見ていた。 だが、菊乃を敵に回すのは得策ではないと踏んだのだろう。にわかに、声がおもねるような調子に変わる。 「どうだかね。花魁なんて、みんな同じよ。禿は体のいい小間使いとしか思ってないわ。養ってやっているんだからと、禿の使い勝手が悪ければ、怒るし、叩くし、揚げ句の果てに暇を出す。うちの死んじゃった姉様だって、そう。ほうら、見て」 波路が着物の袖をまくって差し出した二の腕には、煙管で打たれた跡だろうか。紫色に変色した痣がいくつも残っていた。 波路は、無理に唇の端を捻じ曲げたように、引きつった笑いを見せた。 「ねっ、ひどいもんでしょう?」 「そんなに折檻されてたのか……。それじゃ、波路は、芙蓉さんを恨んでいたのかい?」 菊乃は、突如として、馴れ馴れしい振舞いに及ぶ波路を警戒しながらも、大事な話を聞くことを忘れなかった。 波路には、芙蓉に毒を盛る機会があったのだ。以前から、折檻を受けていたのであれば、毒を盛る立派な動機となる。 しかし、波路は、力なく首を振った。 「折檻はつらかったし、逃げ出したいと思ったこともある。だけどそれとて、姉様がいないよりか、よっぽどまし。ここじゃ姉女郎を持たない子供は惨めなもんよ。行く末は、どんなに出世したって昼夜金二分の部屋持ち止まり。店のおめがねに適わなければ、小見世に売られることだってある。姉女郎がいるだけで、どんなにありがたいことか、姉様が死んで、ようくわかったわ」 波路の話に、菊乃は頷くところがあった。 菊乃は、今や丁子屋一となった綾錦の世話になっている。特定の花魁に付けず下働きをさせられている子供とは、食事、衣裳等、待遇に雲泥の差があった。その上、菊乃と歌乃が習う、三味線、手習いの費用はすべて綾錦が負担してくれている。 「ああ、姉様が自害なんかしなければ」 波路が、両手で額を押さえ、悲痛な声でうめいた。 ひと口に禿といえども、妓楼における出世の終着点は、本人が置かれた状況によって大きく変わってしまうのだ。ことほどかように、禿にとって姉女郎の存在は大きい。 だが、時を置かず、まるで見えない力によって奮い立たされたように、波路はしゃんと頭を上げた。 「だけど、わっちは絶対に諦めない。今に、千鳥や菊乃より、うんとうーんと立派な花魁になって、わっちをこき使ってきた大人たちを見返してやる」 真っ赤に熾った火鉢の炭のように、波路の眼は烈しい闘志を宿していた。 「こら、お前たち! そんなところで何をごちゃごちゃ騒いでる。稽古中だってのに、お師匠さんの声が聞こえないじゃないか」 頭上で、内儀の険しい声がした。 屛風の向こうから見下ろしている内儀の姿に気づき、波路が慌てふためいた。 「波路、そんなところで無駄話をしおって。内所の棚の拭き掃除は済んだのか?」 屛風のそばに、絞ったままの雑巾が捨て置かれている。おそらく、まだ命じられた用事は済んでいないのだ。 「菊乃が……、菊乃が、わっちの仕事の邪魔をするんです」 こっそり覗き見をしていたにもかかわらず、波路は芝居気たっぷりに内儀に泣きついた。油を売っていた責任を菊乃に押し付ける気らしい。すがりつかんばかりに、苦情を訴える波路の横顔には、追従の色がありありと現れていた。 何をか言わんやである。菊乃はあんぐり口を開けたまま、波路と内儀を代わる代わる見比べた。波路は、これ幸いと、内儀の怒りの矛先を菊乃に向けるつもりのようだった。 案の定、内儀は鬼神のごとく、目も口もくわっと開け、菊乃のほうへ面 を向けた。 「菊乃! お滝から聞いてはいたけど、お前はあちこちで油を売ってるそうじゃないか」 「いえいえ、そんなことありいせん」 菊乃は、えへらえへらと愛想笑いを浮かべながら、内心「こいつは、ちょいとまずい状況になったもんだ」と焦っていた。 お滝婆には、つい先日、物干し場で遭遇した時、ねちねちと小言を食らったばかりだった。どうやら、菊乃の軽率な行動を目にしては、内儀に報告しているようである。 しょせんは雇い人だから、お滝婆は怖くない。だが、内儀に睨まれると、ちと厄介だ。廓内の会合や揉め事の始末で留守がちの楼主に代わり、妓楼を仕切っているのは、実質的に内儀である。禿が粗相をしがちで、内儀の覚えがめでたくないと、姉女郎まで飛ばっちりを食う事態になりかねない。 他人に着せられた身に覚えのない疑いは、晴らさねばならない。菊乃は、濡れ衣を着せた波路に詰め寄ろうとした。 あれ? だが、波路の立っていた場所には、雑巾が転がっているだけだった。当の本人は、内儀の注意が菊乃に行っている間に、さっさと遁走したらしい。はるか向こうの廊下を勢いよく駆けていく足音が、菊乃の耳にも届いた。 内儀は、いなくなった波路の存在など、この際どうでもよくなったようだ。ここぞとばかりに、菊乃に対して執拗に非難を浴びせかける。 「まったく、お前ときたら、せっかく綾錦が拾ってくれたのに、その恩も忘れて怠けてばかり。どうしたもんだろうね。こんな役立たずじゃ、綾錦にとっても足手まといになっているに違いないよ。姉女郎に誠意を尽くせない禿は、花魁付きにはしておけないんだ。こうなったら、こんななまくらもんは、切見世にでも売り飛ばすしかないかね。お前のように痩せっぽちで貧相な女子 でも、もてあそびたい好き者はいつの世にもいるからねえ」 内儀は、意味深長な薄笑いを浮かべて脅しにかかった。 まずい……、ここはひとつ、しおらしくしとくか。 菊乃は面を伏せて、自らの非を悔い改めている態を見せた。 脱走を企てた過去はともあれ、今は禿として、綾錦の下でする修業のあれこれが、ほんの少し楽しくなってきたところだ。 菊乃は行くあてのない身だから、内儀の機嫌を損ねて妓楼を追い出されれば、二度と学ぶ機会は訪れないだろう。ここは、内儀の怒りの嵐が静まるのをじっと待つしかなかった。 そこへ、相変わらず一分の隙もなく化粧を施した千鳥が顔を出した。 「お内儀さん、お師匠様がお待ちでございんす」 禿島田に結った千鳥の髪は、流行りの木の葉の花簪で飾られ、香を焚きしめた小袖からは、ほのかに白檀の香りが立っている。もし、この場に波路が居残っていたら、羨望のあまり朋輩に絡み、ひと悶着を起こしたかもしれない。 千鳥に声を掛けられ、内儀は気勢を削がれたようだ。しきりに、内所の奥にある座敷の様子を気にしている。 「菊乃」 内儀は、いまだ腹に据えかねるといった尖った調子で、菊乃の名を呼んだ。 菊乃は「あい」と間髪を入れず、努めて素直に返事をする。 「今日のところは、これで勘弁してやるが、次にお前の不精な振舞いを耳にしたら、ただじゃおかないよ。よく覚えておおき」 内儀が言い捨て、波路が置き忘れていった雑巾を忌々しそうに蹴飛ばした。 「わっちは常磐津の稽古が終わりいした。続けて、揚屋町 の峰春 先生のところへ、手習いの稽古に参ってもいいざんすか」 千鳥は、やけに取り澄ました表情で内儀に伺いを立てた。菊乃を木 偶 とでも思っているのか、目をくれようともしない。 「ああ、それがいい。このなまくらもんに邪魔立てされないうちに、早くお行き」 内儀は機嫌よく千鳥を追い立てると、自分もさっさと踵を返し、奥の座敷へと消えた。 菊乃は、ぽつんと一人、板の間に取り残された。 内所の縁起棚に掛かるお多福面の、人を小馬鹿にしたような薄ら笑いが癪に障る。男の一物をかたどった金精 大明神が、不恰好な姿を縁起棚から突き出し、やんややんやと、囃し立てているように見えるのにも腹が立つ。 菊乃は内所へ入り、縁起棚の前に陣取った。背伸びをし、片手でがしっと金精大明神を摑むと、逆さにして棚に立て掛けた。 この罰当たりが、という向きもあろう。だが、今は、神無月。どうせ神様は、出雲の国に出かけて、のん気に酒盛りでもして浮かれているに違いない。 このまま、黙って引き下がれるかい。 菊乃は、ぱぱっ、と周囲を見渡す。二階へ続く大階段に目を留めると、素早く階段下へ身を隠した。 千鳥は、揚屋町の手習いの師匠の家へ行く、と言っていた。それなら、千鳥が暮らす楼主の部屋から、内所を抜け、大階段の脇を通って外へ出るはずだ。 菊乃が階段の下でじっと息を凝らしていると、ほどなく、千鳥が手習いの道具を包んだ風呂敷を抱えてやってきた。妓楼の入口で下駄を履き、暖簾をくぐる。 千鳥が表に出たのを見定め、菊乃も階段下から走り出た。 急いで下駄を突っかける。入口で所用から戻ってきた番頭と鉢合わせしたが、構わず外に飛び出した。 十間ほど先に、派手な振袖が翻っているのが見える。相手も下駄を履いている。同じ下駄履きなら、追いつけぬわけはない。 「千鳥、ちょいと、待った」 菊乃は全速力で走り、江 戸町 二丁目の木戸の手前で、千鳥の前に回り込んだ。 行く手を塞がれ、千鳥は憎々しげな面差しを隠さない。 「何さ。あんたとは関わり合いになりたくないの。稽古に遅れるから、邪魔しないでよ」 「ところが、どっこい。こちとら用事があるのさ」 菊乃は、千鳥に逃げられないよう、べったり脇に張り付いて歩を進めた。一緒に木戸をくぐり、待合の辻を左に折れる。 「死んだ芙蓉さんのことを教えてほしいのさ。ねえ、どんな人だったの? 厳しかった? それとも、意地悪だった?」 「姉様のこと? そうねえ……」 うるさくつきまとわれて観念したか、千鳥は、意外なほどあっさり菊乃の誘いに乗った。 「そりゃ、厳しいお方だったわよ。言いつけられた仕事をしくじれば怒られる。姉様に恥をかかせるような失態をすれば、飯を抜かれる。でも、それは、どこの姉様も同じじゃないのかしら? わっちは今じゃ、厳しい姉様で、かえってよかったと思ってる。あの厳しさに耐えられれば、どこへ出ても、恥をかくことはないもの。それに、芸事の修業は、引込になった今のほうが厳しいしね」 千鳥は早口で芙蓉の恩を強調したが、菊乃はまったく頷けなかった。 「ああ、わっちの姉様が芙蓉さんじゃなくてよかった。ところでさ、千鳥は、その芙蓉さんの小間使いをしてたの?」 「そう。姉様の化粧や、衣裳の着付けの手伝いをしてた。何であれ、きちんとしなきゃ、虫の居所の悪くなるお人だったから、わっちも白梅姉さんもつくづく気を使ったけどね」 やはり千鳥は芙蓉の身支度を手伝っていた。しかし、白梅も一緒だったなら、石見銀山を仕込むには無理があったかもしれない。綾錦と異なり、芙蓉は身の回りの世話をすべて新造や禿に任せ、自分はほとんど部屋から出なかった。そんな中で化粧道具に毒を仕込む隙はほとんどないに等しい。 「そうそう、それからお馴染さんへの文を言いつけるのに、便り屋までよく行かされたわ」 菊乃の意識が、自分の話からすっかり逸れているのも露知らず、千鳥は、律儀にずっと質問に対する答えを探していたようだ。 揚屋町への木戸が見えてきた。 吉原の町は狭い。花魁道中の際は、一町を四半時もかけて進むが、こうして早足に歩くと、南北一三五間しかない仲之町の通りは、行き止まりの水道尻まで、あっという間に行き着いてしまう。千鳥への訊き込みもさることながら、菊乃は、先ほど出くわした波路の話も聞いてみたいと思った。 「ところで、千鳥んとこでは、鉄 漿 を用意していたのはいつも波路だったんだろう? たとえば、鉄漿の中に何かを混ぜるとか、怪しい素振りをしたことはなかったのかい?」 怪しまれぬよう、菊乃は、努めてさりげなく訊いたつもりだった。 しかし、千鳥は通りの真ん中で立ち止まると、菊乃に詰め寄った。 「それ、どういう意味? あんた、何か知ってるの? 昨日、姉様の部屋に親仁さんが来て、篝火姉さんや白梅姉さんに、きつく何かを訊ねてらした。やれ、花魁にお茶を出していたのは誰だ、飯を運んでいたのは誰だと、そりゃあ、怖いものの言い方だった。ねえ、姉様が喉を突いたのと、飯を運ぶのと、いったいなんの関係があるっていうのよ?」 千鳥が血相を変えている。果たして事の次第を話していいものか。菊乃の心に迷いが生じた。 芙蓉が毒を盛られていた事実に、本当に気づかなかったのか、それとも、気づいていたのにしらを切っているのか。 「芙蓉さんは、死んだ時には、体中に斑点が出ていたって。お医者の見立てじゃ、自害する前から毒を盛られていたそうだよ」 揚屋町の木戸をくぐり抜けながら、一か八か、菊乃は、八橋から聞いた事の経緯を、千鳥に明かした。 「毒を盛られた?」 千鳥は、ようやく合点がいったというふうに、大げさに頷いた。 「ああ、だから姉さんたちが疑われたのね。でも、鉄漿のことはわからないわ。波路が一手に引き受けていたから」 「そうか。うちの姉様は、鉄漿に毒を仕込むという手口があるかもしれないって言うんで、波路のことを訊いてみたのさ」 菊乃は、わざと化粧品の可能性については黙っておいた。 「ところで、千鳥は、芙蓉さんの斑点に気づかなかったのかい?」 路地へ入り、千鳥は歩きながらじっと考え込んでいる。 「わからない……、近頃、姉様は湯殿にも朝遅くに一人で出向いていたし、お化粧もお手伝いをしようとすると、結構、と撥ねつけられた。そういえば、夜見世の前に着替える時、胸元に痣のようなものが見えたことがあったけど、あれがそうだったのかしら」 胸元の痣というのは、自害した夜、西村屋が気づいたのと同じ箇所かもしれない。 「芙蓉さんが毒を飲まされていたのは、少なくとも一年くらい前からだって言うからね」 白塗りの顔から目だけが零 れ落ちてしまいそうなほど、千鳥が瞠目した。 「千鳥、どうしたの? 何か覚えでもあるのかい?」 千鳥の静かな、しかし、深い驚きを目の前にして、菊乃は訊ねずにはいられなかった。 「ううん、わっちが知るわけないじゃない」 口を開いた時には、千鳥はすでに元の表情のない顔に戻っていた。 「だけど毒を盛られたと聞いて、無理もないと思ったの。うちの姉様はこれまであくどい嫌がらせを仕掛けて、ほかの姉さんたちの恨みを買ってきたからね。姉さんたちが意趣返しをしたとしても少しもおかしくないわ。たとえば、あんたんとこの姉様とかね」 「なんだって! うちの姉様は、わからないようにじわじわと毒を盛るなんて卑怯な真似はしないさ」 腹が立って、路地の左右に民家がひしめいているにもかかわらず、菊乃は大声を出した。 「わかったわよ。恥ずかしいから、そんな物売りみたいな大声を張り上げないで。でも、あんたが姉女郎をかばうのなら、わっちだって同じよ。うちの姉さんたちだって、姉様に毒を盛るようなお人じゃない。もちろん、波路もね。それはわっちが請け合うわ」 挙動が怪しいと気づいた上で、千鳥が篝火や白梅をかばっているのか、もう一枚の皮膚を重ねたような厚化粧の上からでは、到底、窺い知ることはできなかった。 「さっ、もういいでしょ。わっちはお稽古に行かなくちゃ」 つきまとってくる蠅を追い払うような仕草で手を振ると、千鳥は小綺麗な造りの長屋の前で立ち止まった。 《東江流手跡指南所 山村峰春》 何戸かあるうちの一戸に黒々と墨書された看板は、菊乃も、もちろん見知っていた。 死んだ芙蓉は峰春の一番弟子と言われていた。だから、姉女郎の亡き後も、千鳥はそのまま峰春に教えを請うのが筋なのだろう。 千鳥は指南所の戸を開け、峰春先生、と一声掛けた。中から低い声で応答があり、それを合図に千鳥は中へ入っていく。 「あっ、千鳥」 菊乃は、千鳥の後ろ姿に思わず声を掛けた。千鳥がしとやかに振り返る。 しかし千鳥は、菊乃と一切目を合わすことなく、ぴしゃりと素早く戸を閉めた。 相変わらず、失礼で嫌なやつ! 菊乃は苦々しい思いで指南所の戸を睨むと、諦めてその場を後にした。 (続く)
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