蝶々雲――かむろ菊乃の廓文章 風花千里
第五章 化粧う女たち 「歌乃ぉ、あんたの《江戸の水》さ、ちょっと貸してよ」 菊乃は、湯上がりで火照った頬をぺちぺちと叩きながら、歌乃に請うた。 《江戸の水》とは、近年、江戸で流行している化粧水。今は亡き、式亭三馬とかいう戯作者が、副業で始めた生薬屋から売り出した代物だった。 《江戸の水》は、綺麗な硝子瓶に入っている。菊乃も歌乃も初糸も、綾錦からこの化粧水を一瓶ずつもらっていた。 「やあよ。菊乃に貸すと、一気に中身が減るんだもの」 歌乃は、口をむうっと尖らせて拒んだ。 「わっちの瓶の中身は、もうなくなっちゃったんだ。ねっ、少しくらい、いいじゃない」 菊乃は、掌を合わせ、拝まんばかりにして歌乃に言い寄った。歌乃の瓶は、まだ中ほどまで化粧水で満たされていた。《江戸の水》は、少量を左手に取り、それを右手に持った刷毛で薄く顔に伸ばしていくのがよいとされている。 だが、菊乃の場合、刷毛の捌きが恐ろしく下手で、刷毛で伸ばせば少量で済むところを、零 れるほど手に取った化粧水を、洗顔の要領でばしゃばしゃと顔にはたきつける。 結果、化粧水は、あれよあれよという間になくなってしまうのだった。 「嫌ったら、嫌。今朝、貸してあげた歯磨き粉だって、ずいぶん減っていたもの」 歌乃は頑固に言い張った。 菊乃が、朝、起き抜けに借りた歯磨き粉とは、本郷かねやすの《乳香散》。妓楼の客に供するのは松葉塩と決まっているが、綾錦は妹女郎のために《乳香散》を、わざわざ出入りの小間物屋から買い求めていた。 あの歯磨き粉、房楊枝に付けて磨くと、ふんわりといい匂いがするから、つい、使いすぎちゃうんだよね。 菊乃は俯き、歌乃に見つからないよう、こっそり舌を出した。《乳香散》の甘く柔らかな香りが好きで、やはり、とうに自分の分は使い切っていた。 それにしても、ものを大切にするのはいい習慣だとはいえ、歌乃は、なんでもかんでも、がっちり溜め込みすぎる。 市松模様の千代紙を菓子箱に貼っただけの歌乃の宝箱には、姉女郎がくれた櫛や鞠が、ただの一度も使われずにしまってあった。 綾錦の贔屓からもらった飴玉の袋も、一つ、二つ食べただけで後生大事に箱に入れてしまう。そのせいで真夏の暑さに飴が溶け出し、袋の内側がべたべたになったこともあった。 菊乃が借りた歯磨き粉は、宝箱の中に封を切ってない袋が二つも残っている。使いかけを多めにいただいたくらいで、ここまで目くじらを立てることはないと、菊乃は思うのだ。 「ふんだ、歌乃のけちんぼ、しみったれ」 菊乃は、わざと囃し立てるように毒づいた。歌乃は憤慨した面持ちで菊乃を睨んだが、やがて怒りを含んだ眼に、うるうると涙が浮かんだ。 またあ、歌乃ったら、すぐ泣くんだから。 歌乃の目の縁がじんわり滲んでいるのを見て、菊乃はうっとうしくなった。まったく、目の奥に、自由自在に開閉できる堰が設えてあるみたいだ。何か自分の気にそぐわぬ事態が起こると、堰を切って、涙という武器を、どっと流す。 とはいえ、菊乃は歌乃の涙に弱い。歌乃の愛嬌のある垂れ気味の眼がしっとりと濡れてくると、菊乃の胸にたとえようもない慈しみの情が湧き上がり、歌乃はわっちが守ってあげなくちゃと、強い使命感に駆られるのが常なのだった。 菊乃が歌乃の涙に困惑していたところへ、湯殿からの帰りに、内所に寄っていた綾錦が戻ってきた。 「これ、やかましい。声が部屋の外まで漏れているじゃないか。いったい、二人とも、何を言い争っているのかえ」 瑠璃紺の絞りの浴衣をゆったり着付け、細帯をきりりと締めただけの綾錦の立ち姿は、五月に仲之町 に植えられる花菖蒲の清々しさに通ずるものがあった。 「いえね、どうしても《江戸の水》を分けてくれないと言って、菊乃が歌乃に絡んでいるんですよ」 綾錦が戻ると知るや、初糸が盆に茶を載せて持ってきた。綾錦に事の次第を告げる口調は、どこか非難めいている。 「菊乃、お前の化粧水は、どうしたのかえ」 綾錦は、旨そうに茶を啜ると、じろんと菊乃に視線を据えた。 「一滴残らず使ってしまいました」 菊乃は仕方なく、正直に白状した。 「ついこの間、買ってやったばかりなのに、もうなくなったのかい」 呆気にとられた表情で、綾錦は傍らの初糸を振り返った。 「そうなんですよ。菊乃は刷毛を使わずに、そのままべたべた顔に塗るから、化粧水の減りが早い」 初糸が両手で顔を叩く仕草をして、姉女郎に訴えた。 「菊乃」綾錦が、肚の底に石でも沈めているような重々しい声で呼んだ。こういう時の姉女郎は、決して愉快な気分ではないはずだ。 菊乃は、上目遣いで綾錦の機嫌を窺いながら、そろそろと返事をする。 「あい……」 「お前は、何でも無駄遣いしすぎるね。化粧水もそうだが、手習いの半紙だってそうだよ。ちょっと字をまちがえたくらいで、半紙をすぐ反古にしてしまう」 「……」 菊乃は何も反論できない。確かに、手習いの師匠のところから持ち帰る反古紙は、菊乃のほうが歌乃に比べて圧倒的に多かった。歌乃は、書き損じた紙の余白にまで几帳面に練習するから、多くの半紙は必要としないのだ。 しかも、こまめに反古紙を捨てている芙蓉の部屋の禿 とは反対に、菊乃はおっくうがって反古紙を部屋に溜め込んでいた。抽斗の中から、おびただしい菊乃の書き損じを見つけた姉女郎が怒るのはもっともだった。 綾錦は、たん、と音を立てて茶碗を盆に戻し、菊乃を威圧する。 「自分で無駄遣いをしたくせに、歌乃が分けてくれないと騒ぐのは、お門違いもはなはだしいんじゃないかえ」 じろりと横目で睨む様子は、大見得を切る役者さながらの迫力だった。 あいぃぃ。姉様の仰るとおりでございますぅ。菊乃は、首をすくめて縮こまった。 化粧は手数がかかって煩わしい。手習いも、書き損じの余白にちまちま練習するのは面倒臭い。 廓のしきたりや芸事を厭う気持ちが膨らんだ結果、常日頃の大ざっぱな振舞いに至っていることに、菊乃は薄々ながら気づいていた。 だが、気づいたからといって、すぐに改められるかといえば、そう簡単にはいかない。何しろ、三味線、箏、化粧と、不器用な菊乃には、不得手がたくさんある。たくさんあるから、つまるところ、やることなすこと、すべておざなりになっているのだ。 「まあ、姉様。今日のところは、わっちが化粧水を分けてやります」 初糸が哀れむように菊乃を見ながら申し出た。すでに《江戸の水》の瓶を手にしている。 「ええ。だけど、ただ分けてやるだけじゃ駄目だよ。この際だから、菊乃にはきっちり、お化粧の仕方を覚えてもらうとしよう」 綾錦は、縮こまったままの菊乃の頬を、ちょんと、その細く上品な指で突いた。 ひょえぇぇ。菊乃は冷んやりとした綾錦の指先に驚きつつも、予期しないなりゆきに、なすすべがない。 「あっ、それなら、わっちもお手伝いする」 歌乃がにんまりと笑いながら、菊乃に近寄ってきた。他 人 事 だと思って、今さっき泣いた烏が、もう笑っている。 「まずは、白粉をはたく前の下塗りからだね」 綾錦は、牡丹の意匠を施した見事な鏡箱を菊乃の前に置き、揃いの鏡を据えつけた。 「さっ、《江戸の水》を、手に少し取って」 初糸が菊乃の左手を返し、掌の窪みにほんのり白く色づいた《江戸の水》を垂らした。 「この刷毛を使って、零さないよう、さっさと顔に塗るんだよ」 綾錦は菊乃の右手に刷毛を握らせ、てきぱきと指示を出した。 菊乃は化粧水を含ませた刷毛で、しぶしぶ両頬を撫でる。あまりいいかげんにやっているとお小言を食らいそうなので、「の」の字を書くように、しっかり塗り付けた。 「困った子だねえ。それで白粉を付けたら、斑 雪 のように、むらになってしまうよ。ほっぺただけじゃなく、額や顎の周りとまんべんなく塗らなきゃ」 だが、綾錦は言葉とは裏腹に、ちっとも困ったふうではない。おかしくてたまらないといった風情だ。 「ほら、こうやって」綾錦が、菊乃の右手に自分の手を添え、額の生え際や瞼の窪みまで、素早くかつ丁寧に化粧水を付けていく。 菊乃は、自らの意思と関係なく動いていく刷毛の動きを、ぼんやりと感じていた。湯上がりでぽっぽと熱くなっていた肌に、ひんやりした冷たい水の感触が心地よい。 《江戸の水》を付けた後、顔を手で触ってみる。肌は繻子織のように滑らかで、しっとりしていた。たかが化粧水なのに、塗り方ひとつでこうも肌の具合が変わるものかと、菊乃は、心底、驚いた。 「次は白粉だね」 綾錦は、唐草文様をあしらった三段重の容器のうち、二つの器にそれぞれ別の白粉を載せ、玉にならぬよう、水で丹念に溶いた。 片や《兵部卿》という名の赤みのある白粉。もう一方は京橋坂本屋の《仙女香》という高価な白粉。《仙女》という名称は、一昔前に名女形として一世を風靡した、三世の瀬川菊之丞の俳名から取っているそうだ。 「鬢付け油も塗らなくちゃね」 いつの間にそばに来ていたのか、八橋までが、昼下がりの化粧講習会に顔を見せていた。白粉の用意をしている綾錦の横で、八橋は髪結い用の鬢付け油を手に取り、菊乃の顔に薄くなすり付ける。 小鼻の脇や目尻の際まで、指先で念入りに馴染ませると、八橋は満足そうな顔で退いた。 「さあ、やってごらん」 兵部卿を含ませ、ほのかに赤みを帯びた白粉用の刷毛を、綾錦は、守刀でも手渡すがごとく、物々しく突き出した。 憚りながら、菊乃は、こわごわ刷毛を受け取った。 贅を尽くした姉女郎の鏡を覗くと、頬を上気させた、やけに目ん玉の大きい、幼い顔が映っている。 「むらにならないよう、気をつけて塗るんだよ」 綾錦の注意を受けた菊乃は、意を決して、恐る恐る刷毛を鼻の脇に当てた。 すうっと真一文字に刷毛を動かす。白い素肌に《兵部卿》の石竹色が乗った。 うん、なかなかの出来栄え。手習いの稽古より面白いじゃない。 菊乃は調子づき、べたべたと《兵部卿》を塗りたくる。姉女郎に言われなくても、目の際や口元は、細い刷毛に持ち替え、色が均一になるよう念入りに塗り込めた。 菊乃は、自信満々に綾錦を振り返った。鏡でざっと確かめた印象では、塗り残しはないはずだ。 「どう、姉様」 「ちょっと厚塗りだけどまあまあだね。それじゃ、この濡れ手拭いで、一度拭き取って」 綾錦は、菊乃の顔を一瞥し、事もなげに、水で絞った手拭いを渡して寄越した。 「えぇっ? 拭き取るぅ? せっかく、こんなに綺麗に塗れたのに、どうして」 無慈悲な姉女郎の命令に、菊乃は驚いて目を剥 いた。どうせ《兵部卿》は下塗りなのだから、少しくらい厚塗りになったとしても、上に塗る《仙女香》で調節すれば、それでよいことではないか。 「白粉はね、塗って拭き取るを繰り返し、幾度も重ねづけをすることで、落ちにくくなる。それに、お化粧のもちも良くなるんだ」 綾錦は、自分のきめ細かな肌を何度も撫で、塗り方の手本を示してみせた。 「お前は、初糸がやってくれるのを見ていなかったのかえ?」 綾錦が眉をひくっと吊り上げ、強い視線を菊乃に向けた。 無意識に目を合わせるのを避けたのだろう、菊乃は、自分の目玉が、うろうろと左右に彷徨っているのを感じた。 痛いところを突かれた、と菊乃は思った。 初糸は仕事の段取りが良く、普段から滑らかに淀みなく化粧を施してくれる。その間、菊乃はされるがまま、頭の中では化粧の手順ではなく、お使いの途中で見かけた雀の親子のことなどを考えていたのだ。 だから、こんなに塗ったり拭き取ったりを繰り返して化粧が仕上がっているとは、まったく気づかなかった。 「あーあ、もったいないなあ」 菊乃はしぶりながらも濡れた手拭いで顔を拭った。《兵部卿》が、桜の花びらのように、手拭いの表面に散っている。 歌乃が横から、ずいっと鏡を覗き込んだ。鏡面の上で、菊乃と目が合う。 「菊乃はいいなあ。色は白いし、鼻も高いし、口だって、おちょぼ口だもんね。それって、美人の相でしょう?」 歌乃は羨ましそうに溜め息をついた。 もう《仙女香》を塗り終えていたが、鏡の中に映る歌乃の顔は、輝くばかりの白さとはお世辞にも言えない。しかも、唇が厚い上に、かなり大きめであった。 歌乃は、笑うとえくぼができる、愛嬌のある顔立ちではある。だが、女郎の武器となる整った目鼻立ちからは、だいぶ遠かった。 容姿に自信のない歌乃は、しかし、手をこまぬいているわけではない。欠点を目立たなくする術を、しっかり心得ていた。 たとえば、口元を小さく見せたい時。唇の中ほどまで白粉を塗り込め、一回り小さくなった唇に紅を差す。がはは、と大口を開けて笑わぬ限り、これで、品のいいおちょぼ口に見せかけることができる。 肌の色も、新雪のごとき色白に見せるのは難しいが、白粉を几帳面に何度も塗り重ねることで、ふっくらとした艶のある肌を演出することができた。 自分の容姿をよく知り、日々の努力によって、欠点を美点に変える。歌乃が、年若くして化粧上手になるのは、当たり前の結果だった。 菊乃は、ぶんぶんと頭を振った。 「美人の相なんかじゃないってば。わっちの眉は太くて勇ましいし、顔だって、瓜実とは似ても似つかぬ、卵みたいな形だもの」 美人っていうのは、歌乃の隣に座る姉様みたいな人のことを言うんだよ。 面長で「ノ」の字のごとく緩やかに反った鼻筋。子供の菊乃でも惚れ惚れするような、見事な左右対称をなす美しい富士額。綾錦の顔かたちのどこを取り上げても、美人の条件にぴたりと合致する。綾錦に化粧など必要ないと、菊乃は常々思っているくらいだ。 「菊乃、まだお化粧は終わってないよ。もう一度、《兵部卿》を薄く塗ってごらん」 綾錦は、ぽんと手を一つ叩くと、二人の注意を引いた。 姉女郎に促され、菊乃は、再度、刷毛を取り上げた。 もたもたして、白粉が乾くと厚塗りになる。先刻より手早く塗ることを心がけると、意外なほど薄く綺麗に白粉を付けることができた。 菊乃はむやみに嬉しくなって、鏡に向かい、にぃっと笑ってみせた。 《兵部卿》の次は、いよいよ《仙女香》を塗る番である。 《仙女香》といえば、今や白粉の一大銘柄。美人画の隅や草双紙の余白、はたまた道標にまで名前が書き込まれ、さりげなく、場合によっては大胆に、人々の目に訴えかけていた。 もちろん、西村屋から出た綾錦の美人画の中にも、何気なく《仙女香》の文字が躍っている。この名うての白粉を使えば、吉原一の美女と謳われる花魁のように美しくなれますよ、という巧みな宣伝であった。 廓の女たちは、こぞって《仙女香》を愛用していた。 皆が皆、美人画の女のような美貌を手に入れられるとは、露ほどにも思っていない。とはいえ《仙女香》は、肌のきめを整えたり、にきびや吹き出物が治るという効能があるとされる。 勤め柄、女郎は化粧を毎日しなくてはならない。肌の衰えを少しでも遅らせるためには、薬効があると評判の化粧品に闇雲に飛びつくというわけだ。 《兵部卿》で練習した成果なのか、菊乃は、初糸の仕上げと遜色ないくらい上手に《仙女香》を塗ることができた。 「姉様、《兵部卿》みたいに、拭き取って、もう一回塗るの?」 菊乃は、びくびくしながら伺いを立てた。 綾錦が顎に手を当て、じいっと菊乃の顔を見つめた。 「ちょっと控えめだけど、お前は振袖だから、いいだろう」 綾錦の返事に、菊乃はほっと胸を撫で下ろした。あと何回くらい塗り拭きをさせられるものやら見当がつかず、戦々恐々としていたからである。 しかし、そこで、菊乃の胸に疑問が湧き上がる。 「ねえ、姉様。世の中は、倹約だの、贅沢の禁止だのと、年々お達しが厳しくなっているでしょ? お化粧だって薄く目立たないのが流行っているのに、どうして、こんなに時間をかけて丹念にお化粧をするの?」 菊乃は、廓の外を見てきたわけではない。だが、客や廓外からやってくる物売りたちの話から推測して、世間の様子や流行り物の情報は万事、何であれ仕入れることができた。 近年、何事にも質素にという風潮が、巷の常識となっていた。男も女も、老いも若きも華美な装いを慎み、高直の料理や菓子を食すことも控えているという噂は、籠の鳥である吉原の女たちの耳にも入ってきていた。 綾錦は「ああ」と納得したように頷き、謎掛けのように問い返した。 「菊乃のべべは、なんで、できてる?」 菊乃は、自分の着物をしげしげと眺めた。まだ部屋着ではあるが、麻の葉模様、鹿の子、菊唐草と三枚重ねた小袖は、すべて肌触りのいい絹織物である。 「えっと、縮緬かな」 「そう、わっちら女郎の着るべべは、縮緬、羽二重、繻子、緞子と、値の張る高級な着物ばかり。では、廓の女だけがこないに豪華な衣裳をまとうのは、なぜだか、わかるかえ?」 綾錦は、傍らの衣桁に掛かる、菊乃と歌乃の真新しい振袖を見遣った。 濃紺の繻子の地に手鞠の縫い取り。裾のあちこちには、鞠に子猫がじゃれつく様子が刺繡されている。今まで着ていた真朱や薄紅色の振袖から比べると、紺地の振袖はずっと大人っぽかった。 自分がこの濃紺の振袖を着た姿を、顔馴染みが見たら、なんと言うだろう。 いつも、菊乃を実の孫娘のようにかわいがってくれる西村屋の旦那は「どこの新造かと思った」などと、大げさに褒めてくれるかもしれない。 それじゃ、たとえば、銀次さんは? 菊乃は、普段と違う自分の装いに、大門脇の駕籠舁きがどういう反応を示すかを思い描いてみた。 ことによると、銀次は仰天して、お客の乗った駕籠を取り落としてしまうかもしれない。馴染の女郎とよろしくやってご機嫌だった客は、頭から湯気を立てて怒り出すだろう。 だが、もしかすると、駕籠の客だって、わっちの大人びた姿に見惚れて、その場に釘付けになるかもしれない。 なんら根拠のない妄想ににやつきながら、菊乃は思いつくまま謎掛けの答えを口にした。 「お客さんのため?」 振袖のように、袖が長くて邪魔くさい着物を、菊乃は好きになれない。着る本人が望まないのに、身にまとわなければならないとしたら、懐に山吹を携えて、いそいそとやって来る遊廓の客のために決まっている。吉原というところは、客が来てくれなければ、夜も日も明けないのだ。 「よく、わかったね。浮世の憂さを晴らしに来るお客が、町の女みたいに、地味な木綿の縞柄を着ている女を求めるはずがない。わっちらの商売は、竜宮に連れられた太郎のように、お馴染さんに俗世間を忘れさせ、夢見心地にさせてあげることなんだよ」 歌乃が、たん、と膝を打った。 「そっか。薄いお化粧だと、豪華な着物に合わない。それじゃ、お客さんも興醒めよね。だから、着物に負けないよう、しっかりお化粧するのね」 歌乃の目が生き生きと輝いた。もとより、器用で化粧上手な歌乃のことだ。美しく、人目を引く女郎を目指し、さらに化粧に精を出すつもりなのだろう。 しかし、菊乃の受け止め方は違った。 ふうん。豪華なべべと、きっちり仕上げた化粧で、男を夢見心地にさせられるのなら、女郎は、皆が皆、花魁になれそうなもんだけど。 菊乃は、廓にあまたひしめく女郎たちを思い浮かべた。 現実に、女郎の待遇には天と地ほどの差がある。ということは、花魁という天を目指すために、何かほかに必要な条件があるに違いない。 幸か不幸か、菊乃はまだそれを知らなかった。いまだ廓という閉ざされた世界を受け入れたわけではないが、この世界より行き場がないなら、いつかは廓で生き抜くための条件を揃えなければいけない時が来るかもしれない。 「じゃ、菊乃、顔に薄紙を載せるわよ」 綾錦が、菊乃の顔面に化粧紙を載せた。急に視界が遮られ、菊乃は慌てた。 「姉様、まっ、前が見えない」 「薄目を開けてごらん。微かに、あたりが見えるだろう。さあ、この水を含ませた刷毛で、紙の上を刷 いてみなさい」 菊乃は、渡された刷毛で紙の上をなぞった。時を置かずに、綾錦がゆっくりと紙を剥ぐ。 「これで、白粉がぴったり肌に付いて、もちが良くなる。さて、お次は、首に《ぱっちり》を塗るよ」 綾錦が、おどけた仕草で、菊乃の首を撫でた。 「えー! まだ塗るの?」 ようやく白粉塗りが終わったと思った菊乃は、失望のあまり、ばったんと突っ伏した。 菊乃の唐突な振舞いに、部屋の中が、どっと沸いた。 「姉様。もう、そのへんで勘弁してやったらどうです?」 初糸が、おかしさを必死に堪えているような顔で、助け舟を出した。 柔和な笑みを湛えながらも、綾錦は思案顔である。 「そうだねえ、あまりいっぺんに教えると、化粧が嫌になるかねえ。だけど、あと《ぱっちり》くらいなら……」 菊乃は、一縷の望みをかけて、がばっと起き直る。正直、白粉の手順の煩雑さには、ほとほと疲れた。今日のところは、顔塗りだけで堪忍してもらいたい。 菊乃は、姉女郎が言い淀んだ一瞬の隙を逃さなかった。 「姉様! 今日ここで教わった手順は、ちゃんと覚えました。明日から、白粉は一人で絶対できます」 必死の思いで、菊乃は言い募る。重ね塗りで、綺麗な桜色に仕上がった頬が、紅潮して一段と濃くなったかもしれないが、構うこっちゃない。 「仕方ないねえ。まあ、今日のところは、ここまででいいだろう」 綾錦の情け深い決断に、菊乃は「ばんざーい!」と、諸手を挙げて叫んでいた。 「ふん、現金な子だねえ。その代わり、この先の手順も忘れずに覚えておくんだよ。初糸、菊乃に化粧の続きをしてやっておくれ」 姉女郎の命を受け、初糸が、菊乃の前に回り込んだ。 初糸は、菊乃の諸肌を脱がせた。《ぱっちり》と呼ばれる首筋専用の白粉を、菊乃の喉から胸元へ、大きめの刷毛で塗っていく。 鏡に映る、真っ白に塗り込められた鎖骨のあたりは、浅草田圃に飛来する白鷺のように、えらく華奢だった。 「さっ、襟足を塗るから、後ろを向いて」 初糸が菊乃の肩を押し、向きを変えるよう促した。 襟足に刷毛のひやりとした感触が襲う。菊乃は「ひゃあ」と声を上げ、首を引っ込めた。 「後ろに目がないのに、一人で塗る時は、どうやって仕上がり具合を見るの?」 一人で《ぱっちり》を使った経験のない菊乃の素朴な疑問だった。闇雲に塗ったら、それこそ襟足のそこかしこに塗りむらができそうだ。 「合わせ鏡で見るのよ」 初糸が、菊乃の背後から大きめの手鏡を翳す。「前の鏡を覗いてごらん」 菊乃が自分の前に置かれた鏡を見る。鏡面に映った、初糸の翳す手鏡の中には、菊乃の襟足がくっきりと見えていた。 「わあ、ほんとだ。よく見える」 菊乃は感嘆の声を発した。手鏡の角度を変え、何度も背後を眺める。 このぶんなら、合わせ鏡をすれば《ぱっちり》もなんとか使いこなせそうだった。 「それにしても、昨夜のお客は、情けなかったわね」 化粧をしないので手持ち無沙汰なのか、八橋が初糸に話しかけた。 「ああ、佐々木様ね。まったく、ようやく待ち望んだ花魁と会えたというのに、あないに酔っ払ってはね」 要領のいい初糸は、言葉を掛けられたくらいで仕事が滞ることはない。気安く、八橋の話を引き取った。 菊乃は、初糸に眉を整えてもらいながら、黙って二人の新造の話を聞いていた。 昨晩出向いた駿河屋で、綾錦は初めて旗本の次男坊、佐々木久馬の座敷に出た。 久馬は三十くらいか。遊び慣れた風情で、逸る心を抑えながら陽気に酒など飲んでいたが、間近で対した綾錦の美貌に度肝を抜かれたらしい。 久馬は、内心の動揺を隠すべく、次から次へと運ばれてきた銚子を空にし、引手茶屋での宴の時点で、すでに相当な酔い加減だった。 その後、駿河屋を出て、丁子屋の座敷にたどり着いた頃には、久馬、すっかり酩酊し、ぐでんぐでんの体たらくと相成っていた。 「高級女郎は、初会で帯を解かない。初会は裏を返して、三度目にようやくお床入り」大昔の吉原では、当然のこととして罷り通ってきたしきたりである。 だが、時が経つにつれ、吉原も、初会だの裏だのと、悠長かつ偉そうな贅沢は言っていられなくなった。江戸市中のあちこちに雨後の筍のごとく出現する岡場所に、官許の遊所である吉原が、その座を脅かされるようになったからである。 だから、近年、大方の見世が初会から客を馴染扱いし、花魁を床入りさせるようになったのは、時代の趨勢と言ってよかった。 けれども丁子屋の場合、楼主の源右衛門が川柳を嗜む粋人ゆえに、他の大見世とは一線を画すところがあった。 初会の客に対して、妓楼が馴染として接するのは、時代の流れから、やむをえない。しかし、せめて丁子屋だけでも、岡場所との違いを明確にしたい。そう考えた源右衛門は、抱えの女郎に、教養を身につけ諸芸をものにすることを奨励した。 丁子屋は、数々の太夫を売り出してきた、古くからの妓楼である。現在の主である源右衛門自身が往時を偲び、在りし日の太夫のような名妓を育てたいという願いを持っているのかもしれなかった。 その結果、吉原全体が「高級な岡場所」と化す中で、行き場をなくしたひと握りの通人、粋人たちは、ほとんどが丁子屋へ揚がるようになった。夢を与え、俗世を忘れさせてくれる女は、もはや丁子屋にしかいない、というのが通人の合言葉になっていた。 ところが、丁子屋の座敷に落ち着いた久馬は、まだ宴はこれからという時に酔った勢いで綾錦に挑みかかり、若い衆 に止められた。粋にはほど遠い、無様な振舞いだった。 「だいたい、酒を飲ませて花魁を酔わせた挙句、自分の好き勝手にしようという浅ましい魂胆が情けない」 久馬の行状を思い出し、八橋は、我が身に災難が降りかかったかのごとく憤っている。 「ええ、姉様を酔わせようなんて、樽船一艘を買い切りでもしない限り、無理な話よね」 初糸が、細い眉掃きで菊乃の眉をぼかしながら、なんとも豪快な冗談を飛ばした。 樽船とは、上方の上等な酒を江戸へ運ぶ船のこと。酒に強い綾錦を酔わすには、樽船一艘分の下り酒を用意するくらいでなければ難しい、と言いたいのだ。 妓楼側は、供の者に言いつけ、丁重に久馬を帰そうとした。だが、当の久馬が承知しない。金払いの良さそうな上客だったので、妓楼も無理強いはできかねた。酔って常軌を逸した酔客の始末をどうするか、宴の裏では、皆が額を集めていたらしい。 「でも、そこでまさか、姉様が佐々木様をお床に誘うとは、夢にも思いませんでしたよ」 記憶をたどっているのか、初糸が、ぐっと宙を仰いだ。 狼藉を受けても泰然自若としていた綾錦だったが、座が少し落ち着いたところで、「久馬様」とにじり寄り、なんと久馬の手を取った。しかも「無粋な者どもは放っておいて、ささっ、あちらへ」とかなんとか囁くと、閨へと誘った。これには、部屋の一同が、おおっ、と仰天したのも無理はなかった。 事の意外ななりゆきに、遣手のお滝が、床入りの際の常套句「おしげりなんし」を言い忘れたのはご愛嬌。その時、座敷にいた誰もが、客と花魁が出てゆく姿を、ぽかんと口を開けて見送った。 へべれけになった久馬は、こうして、酔わせて自分の思うがままにするつもりだった綾錦に付き添われ、なんとかめでたく床入りを果たしたのだった。 しかし、その後どういう経緯となったのか。菊乃は眠気に勝てず、歌乃とともに寝込んでしまったので、詳しい事情は知らなかった。 「並みの花魁が、あんな酒癖の悪い客の敵娼 だったら張り手を食らわすか、袖にして、さっさと一人で寝てしまうところ。でも、姉様は、さすがだわ。佐々木様が、お床でずいぶん反吐を吐きなすったそうだけど、背中をさすったり、反吐の後始末も恥をかかせぬよう、こっそり喜助を呼んだり。ご自分よりずいぶん年上のお客なのに、まるで出来の悪い弟に接するみたいに世話を焼いてらしたとか」 昨夜の綾錦の行動に深く感じ入ったがごとく、初糸は、姉女郎を手放しで称えた。 初糸の向かいでは、八橋も大きく頷いている。 「佐々木様は、花魁の優しさに安心して、暁七つまでお休みになり、すっかり素面に返ったようで。世話になったと、下働きにまで結構な祝儀を弾んでいったとか。お滝さんが、さっき内所で言っておりましたよ」 もちろん、八橋も初糸もたんまり心づけをもらったはずだが、下々の雇い人たちにまで祝儀を配ったとは。耳聡い番頭新造は、いつもいち早く店に流れる噂話を聞き込んできた。 綾錦は《兵部卿》を薄く肌に馴染ませながら、意味ありげな表情で「ふふっ」と笑う。 「酒の上のしくじりなんて、よくあること。久馬様も、根は悪いお方じゃあるまい。わっちの到着を待ちわびて、つい飲みすぎてしまっただけなんだろう。その証拠に、七つ時に目覚めた時の、あのばつの悪そうな顔といったら……、まるで、うっかり寝小便を垂れてしまった小僧のようだったよ」 余裕綽々。見てくれだけの通人にすぎない旗本のお坊ちゃまは、綾錦にかかると、商店で働く丁稚小僧と大差なくなってしまうらしい。 「穴があったら、さぞかし入りたかったことでしょうね。でも、佐々木様、これに懲りて、もう丁子屋には見えないかしら」 初糸が眉根に皺を寄せて、懸念を口にした。 久馬が、単に初会の緊張から狼藉を働いただけなら、次から上客になる見込みはある。身なりや贅沢な装飾品からして、久馬の家はかなり内証が豊かに違いない。一度きりの縁にしてしまうのは惜しい客であった。 「ご心配なく。佐々木様は近いうちに必ず裏を返しに来ると、駿河屋に言い置いていったそうよ。よっぽど花魁がお気に召したんですわねえ」 八橋は、濡れたようなあだっぽい目つきで、綾錦に視線を移した。 「おや? わっちは、ただ、添い寝していただけなんだけどねえ」 事実なのか、はたまた、空とぼけているのか。すでに《仙女香》を塗り始めた綾錦の顔からは、何も窺い知ることはできなかった。 「ともかく、これで、お馴染がまた一人、増えたことになりますわ。ほんに、姉様のお客は増えるばかりで、ふふ、よろしゅうございますこと」 初糸が羨望の入り混じった目つきで、綾錦の横顔をうっとりと凝視した。 姉女郎が全盛の花魁であれば、妹女郎にも、なんやかんやと実入りがある。あまたの客を摑んでいる花魁の下におれば、その縁で妹女郎も引き立ててもらえた。 しかし、吉原で高級女郎として生き残っていくには、姉女郎からの恩恵を受けるといった他力本願だけでは不可能。自らがその才を発揮し、知恵を絞って、客の心を手繰り寄せなければならない。 初糸も年明けには初見世が控えていて、いよいよ客を取ることになる。いくらおっとりした性格の初糸でも、そのような廓の現実は熟知しているはずだった。近頃、目に見えて綺麗になったのは、初糸に自覚が芽生えてきたしるしだと、もっぱら評判になっていた。 菊乃の化粧も、後は唇に紅を差すだけになった。 菊乃は、紅猪口に施された赤絵のかわいい兎に目を奪われていたが、すでに化粧を終えている初糸の唇に気づくと、ふと、興味をそそられた。 「ねっ、紅だけ、わっちも塗ってみようかな」 菊乃は初糸に、それとなくねだった。 近来は笹色紅といって、下唇に何度も紅を重ね塗りし、玉虫色に光らせる化粧法が流行していた。初糸の唇も、もちろん黒っぽい濃い玉虫色に輝いている。 「へえ、菊乃が自分から紅を塗りたいだなんて、今日は雪でも降るんじゃないかい」と、口ではからかいながら、初糸は、いともあっさり紅筆を寄越した。 まずは、上唇から、っと。 紅猪口の裏に塗り付けられた艶めく紅を、菊乃は、水を含ませた筆で溶いた。 菊乃は睨めっこをするごとく、鏡面を覗き込む。 唇をすぼめたり、引き伸ばしたり、はたまた大口を開けたりしながら、注意深く紅を塗っていく。 菊乃の口は小さめなので、口元が際立つよう、やや濃いめに仕上げてみた。山型に美しい稜線を描く上唇は、下谷正燈寺の紅葉のように鮮やかな色を放っている。 してやったり。思わぬ出来栄えに、菊乃は、鏡に向かって、にやりと笑いかけた。 続いては、下唇だ。上唇と同じく紅筆で唇の輪郭をとり、中を塗り込める。 さて、玉虫色にするには、確か何度も塗り重ねなきゃいけないんだよね。 菊乃は筆に少しだけ紅を取り、塗ったばかりの下唇に、再度そーっと紅を重ねた。 何度くらい塗れば目的が達成できるのか、定かではない。いずれにせよ、とにかく唇が黒ずみ、七色に輝き出すまで、ひたすら重ねていけばいいはずだった。 猪口の中の紅が、見る見るうちに減っていく。 紅は、紅花の花を搾って製する。猪口一つ分の紅をつくるには、何百との花が必要で、でき上がった紅粉は金と同等の価値があると言われた。 紅は高価な品ゆえ、笹色紅は、裕福な女たちだけの化粧法かといえば、そういうわけでもなかった。町の女などは、口を笹色に彩りたい時、紅の節約するために、下に墨を塗布し、その上から紅を塗るそうである。すると、玉虫色まではいかぬが、真鍮色くらいには唇を光らすことができるらしい。 しかし、町家の女の苦心などどこ吹く風と、廓の上妓たちは、惜しげもなく紅を使った。しかも、本人だけでなく、面倒を見ている新造や禿も、姉女郎にならい湯水のごとく紅を消費した。その費用だけで、たかが化粧品とは侮れぬ額になるはずだった。 綾錦から真新しい紅猪口をもらうたびに、菊乃は改めて、姉女郎の羽振りの良さを実感していた。 〈恋の手習つい見習ひて、誰に見しよとて紅鉄 漿 付けうぞ、みんな主への心中 立て……〉 宴の席で綾錦が唄う『京鹿子娘道成寺』の一節が、菊乃の脳裏をかすめた。 『京鹿子娘道成寺』は初代の中村富十郎が江戸中村座で演じたのが始まりと言われ、近年では三代目・坂東三津五郎の再演が評判となっていた。綾錦はこの長唄が得意で、姉女郎の伸びやか、かつ情感たっぷりな唄を目当てに通ってくる贔屓客も多々いるほどだった。 菊乃は、心の中で呟く。 この唄の娘さんは、好いたお人のためにお化粧をするんだ――と。 これまで菊乃は、歌詞の示す内容も考えずに、綾錦の唄に聞き入っていた。が、よくよく歌詞を味わってみると、女郎にとっては日常茶飯である化粧も、大方の世間の女にとっては、特別な意味を持つ行為のようだ。 先刻、化粧の意味を問うた時、姉女郎は「すべては客のため」と答えたのに、この唄の主人公は、恋焦がれてやまぬ男のために、美しく丹念に顔を装っている。 恋。恋しい。愛しい。最近、初糸からこっそり拝借した柳亭種彦の人情本などを読んでいると、たびたび目にする言葉である。 人情本を読んでいる最中、菊乃は胸の内が、何やらぽおっと熱くなる時があった。 だが、本の中に登場する女たちが、たった一人の男の目に少しでも綺麗に見えるよう、拵えに工夫を凝らし、また、たった一人の男を巡って惚れた腫れたを繰り返す有様に共感できるかというと、正直、まだよくわからない。 ただ、廓の女郎がする装いと、恋情に身を焼かれ、その男なしでは生きていけなくなった女たちの装いとでは、その意味に雲泥の差があることは、どうにか理解できた。 廓のうっとうしい習慣や、芸事について、綾錦はその都度、懇切丁寧に教えてくれる。 けれども、姉女郎の口に、恋に関する話題が上ったことは、菊乃の記憶の中に一度たりともなかった。 本人から聞いたわけではないが、綾錦には山村峰春 という想い人がいるはずだ。なのに、恋が何たるかを教えてくれないのは、菊乃がまだ子供すぎるからか。あるいは、菊乃が知らないだけで、初糸あたりにはそれとなく話題を提供しているのか。 頭の中で、ぐるぐると想像を巡らすだけで、菊乃には、姉女郎の真意を突き止めることはできない。 やはり唇に紅を差している綾錦を、菊乃は、気づかれぬよう流し目に見た。 綾錦は、常日頃から、からくりのような正確さで、段取りよく容儀を調えた。そこには恋情はおろか、なんの感情も見出せないように見える。 でも、手習いの稽古に行く時は、念入りに、おめかししていくよね。 綾錦が禿たちを連れて峰春の指南所へ出向く場面を、菊乃は思い出していた。 書の稽古がある日、綾錦は肌の手入れや着物選びに余念がなく、入念に身支度を調えた姉女郎の姿は、花魁道中よりも人目を引くほどだった。 仕方ないか。姉様はわっちを子供としか見てないもんね。 大人になりたくない。廓では、〈大人になる〉は〈女郎になる〉と等しいからだ。心の底では子供のままでいたいと考えているくせに、大好きな姉女郎に子供扱いされると、菊乃は、自分だけ除け者にされているような途方もない寂しさを感じた。 「そういえば、姉様……」 菊乃の化粧をし終え、お役御免となった初糸が、八橋の隣に移動し、お喋りに本腰を入れ出した。 綾錦が紅筆を持つ手を休めて「なんだい?」と声を掛ける。 「わっち、今朝、湯殿で白梅さんに話を聞いたんですよ」 何度目かの紅を塗り重ねていた菊乃は、思わず初糸を振り返った。 えっ! もう、白梅さんに、芙蓉さんのこと訊いてきたの? 昨夜は、芙蓉に毒を盛った犯人を絶対に捜し出すと、あれほど息巻いていたのに、一晩ぐっすり寝たら、菊乃はその決意を、ころっと忘れていた。 しまった、初糸姉さんに先を越された! 菊乃は慌てて、化粧道具を片付けていた歌乃に向き直る。歌乃も鳩に豆鉄砲といった面持ちで、菊乃の顔を穴が開きそうなほど眺めていた。 「菊乃、口……紅が、はみ出してる」 「えっ?」蚯蚓 のぬたくったような赤々とした線が一本、鏡に映った菊乃の頬に、確かに見えている。菊乃は、手にした紅筆と鏡の中の蚯蚓を見比べて「ありゃあ」と一声発した。 「菊乃、化粧は最後まで気を抜いちゃいかんぞえ」 綾錦の低く、くぐもった小言が飛ぶ。菊乃は、また叱られるかと、こわごわ姉女郎の表情を窺った。声とは裏腹に、綾錦は奇妙に顔を歪め、必死で笑いを堪えている。 「はあ、最初からやり直しか」 菊乃は、見苦しい顔に心底がっかりした。面倒な手順を踏んで、ようやく化粧が仕上がるところだったのに、一瞬にして台なしになってしまった。 「紅が薄いから、やり直さなくてもいいよ。白粉で上から押さえれば大丈夫」 綾錦が菊乃の頬を検 め、白粉で蚯蚓を塗り隠す。その上で、菊乃の笹色紅に目を留めて「今日の振袖には、よく似合うよ」と褒めてくれた。 姉女郎の手を幾度も煩わしたことで、菊乃はうなだれつつも、とりあえず今日の御作りはこれにて終了となりそうな気配なので、ほっと安堵の胸を撫で下ろした。このぶんでは、愛しい男のために装うなんて、まだまだ先の話に違いない。 菊乃は、急に身軽になったような気がして、いそいそと化粧道具をしまった。 「菊乃も気になっているようだから、初糸、続きを話してごらん」 綾錦が、黙って控えていた初糸を促した。 待ってましたとばかりに膝を打ち、初糸は滔々と話し始めた。 「いえね、今朝は、たまたま湯殿にわっちと白梅さんしかいなかったんで、ゆっくり話を聞くことができたんです。あそこは芙蓉さんと番頭新造の仲があまり良くなかったでしょう? それでまず、番新の篝火さんが疑われたようです」 昨夜は一晩中ずっと久馬の介抱に明け暮れた綾錦が、今朝は寝坊し、起床が遅くなった。初糸は一人で先に湯殿に出向き、そこで白梅とばったり鉢合わせしたのだ。 姉女郎を失い、白梅は近々、部屋持ちの新造になるそうだが、心中は懸念で一杯なのだろう。初糸が芙蓉の生前の様子を訊こうと、それとなく誘い水を向けると、芙蓉の傲慢な振舞いや、白梅がそれまで抑え込んでいた不平不満、後ろ盾を失った不安に至るまで、四半時にわたり、延々と喋り続けたそうである。 「芙蓉さんと篝火の仲が悪かったのは、やはり銭のせいかえ?」 八橋から刻みを詰めた煙管を受け取りながら、綾錦が訊ねた。 「ええ。芙蓉さん、客の筋はあまり良くないが、数だけはお馴染がたくさんいたでしょう? 番新は、花魁の稼いだ金子のやり繰りを任されていますが、篝火さんは、芙蓉さんの財布を握っているのをいいことに、その金をこっそり手元不如意の座敷持ちや部屋持ちに貸し付けていたんです」 初糸があたりを憚り、声を低めた。向かいの座敷には主がいなくなったとはいえ、廊下で誰かが聞いているとも限らない。 おのずと皆が、初糸を囲むように、にじり寄った。 「廊下を通る時、芙蓉さんが篝火をなじっている声を幾度か耳にしたことがあったんだ。でも、まさか篝火が金貸しをしていたとは」 綾錦が、苦々しい顔で煙管を吹かした。ぽってりとした綾錦の口から立ちのぼった紫煙が、行き場をなくして戸惑っているように、もやもやと女たちの周囲に留まった。 「篝火さんは高い利子を取ってお金を貸し付け、利子のいくばくかを自分の懐に入れていた。芙蓉さんは、自分に付く新造たちに対しては吝 いという話ですからね。篝火さんとしては、花魁の銭も増えるし、その上で自分の懐も潤うんだからいいだろう、という腹積もりだったんでしょう。しかし、篝火さんが自分に内緒で金貸しをしていたことを知って、芙蓉さんは烈火のごとく怒った。もう番新なんて要らない、とまで言ったそうです」 綾錦以外の女は、初糸の話をむっつりと黙ったまま聞いていた。特に八橋は、同じ番頭新造として許せない気持ちなのだろう。瓦版の粗悪な紙のように顔を強張らせ、今にも篝火を怒鳴りつけに駆け出しそうな気配だった。 番頭新造は、陰になり日向になり、担当した花魁を盛り立てていく役回り。勝手に番新が高利で金貸しなどすれば、花魁の面目は丸潰れになる。芙蓉が怒り心頭に発したのも当然だった。 菊乃は、篝火の風貌を思い返していた。 篝火は、細く尖った顎の目立つ険のある顔立ちで、吊り上がったきつい眼差しが、どことなく狐を思わせる。常に、己の利益になる話が転がっていないか、内所の機嫌を窺っているような女だった。 実際、篝火は、こーん、とは鳴かずに、金、金と口走っているのではなかろうか。 ひと息ついた初糸は、先を急ぐように再び話し出した。 「でも、芙蓉さんのように何でも他人任せにする花魁は、番頭新造なしでは勤めが立ち行きません。結局、芙蓉さんが折れて、金貸しを金輪際しないことを条件に、篝火さんを番新のままにしたそうです。だけど、その後も金の使い道を巡って、二人の間には、ちょこちょこ諍いがあったとか」 綾錦は階下の内所を指し示すように、顎をしゃくった。 「それで、親仁さんは、いの一番に篝火を疑ったんだね」 「一応、話は聞いたようですが、ただ、篝火さんが、頻繁に毒を飲ませることができたかというと、そうとは断言できない事情があるようで」 初糸が、寒気を感じたのか、ぶるっと体を震わせる。今日の風は北寄りの風と見え、閉めた障子の隙間から、遠慮なく冷たい息を吹き込んでくる。 八橋に促され、菊乃は、綾錦の背後に置かれた獅子嚙火鉢に近寄ると、火箸で新しい炭を足した。 「番新なら、朝飯の膳を運んでくるついでに、ほい、と芙蓉さんの椀の中に、毒を放り込むこともできたんじゃないのかい」 綾錦が、鍋に塩をひとつまみ入れるような手つきをした。朝飯は、新造や禿は階下の台所で食べるが、上妓たちは膳を運ばせ、自分の部屋で食べる特権を与えられていた。 「姉様が言うように、毒を盛るなら、食事か飲み物に入れるのが手っ取り早い方法です。この部屋は、わっちだけじゃなく、八橋さんでも菊乃でも、誰か手の空いている者がお膳を運ぶことになっていますが、芙蓉さんのところは、きっちり役割分担がなされている。篝火さんは、銭の管理と花魁の勤めの段取りがうまくいくよう差配するのみ。配膳だの、着付けの手伝いだの、細かな雑用には、一切かかわっていなかったそうなんです」 何かにつけて神経質な芙蓉の考えそうなやり方である。部屋の女たちそれぞれに仕事を割り振り、各々の専業にさせる。専業にすれば、人によって出来不出来に差がつくことはないし、仕事も日々円滑に進む。 しかし、専業とは使うほうはいいかもしれないが、使われるほうはどうなのか。特に、廓の習慣を学ぶ必要のある振袖新造や禿は、大事な修業の時期に、決まりきった雑事だけを黙々と毎日こなさなければならない。花魁の下から離れ、振新が一本立ちした時に、廓の複雑なしきたりが身についているか、はなはだ怪しいことになりはしまいか。 綾錦の世話になっている自らの境遇を、菊乃は幸運と思わずにはいられなかった。 しばらく間を置いたのち、八橋がようやく口を開いた。 「それじゃ、誰が配膳していたというんだい?」 「手が離せない時を除いて、飯も茶もすべて、白梅さんが用意していたそうです」 初糸は、ここが肝要、とばかりに身を乗り出し、強い視線で周囲を圧した。 「白梅が、まさか……」 八橋が声を震わせ、両手で口元を覆った。八橋だけでなく、そこにいた全員が白梅の顔を思い浮かべて「いくら何でも」と思ったはずだ。 白梅はその名のとおり、楚々とした様子の、おとなしいといえば聞こえはいいが、どちらかといえば気の弱そうな女である。優しそうな風情に惹かれ、通ってくる客も増えているらしいが、まかり間違っても、姉女郎に毒を盛る度胸があるようには見えない。 綾錦は、定紋蒔絵の簞笥の金具をじっと見つめ、口をきりりと結んで考え込んでいた。 やがて綾錦は、ふっと何か思い当たったように表情を崩した。 「白梅は、もう初見世が済んでいたっけね」 「ええ、この五月に」 白梅は、廓に来た時期も、初見世の日も、初糸より半年ほど早い。 「確か、白梅の初見世のお客さんは魚問屋のご隠居だったと思ったが。とすると、芙蓉さんが生きていようが死んでいようが、五月も前に、白梅は初見世の道中を終えたわけだ」 魚問屋のご隠居とは、日本橋の大店 の隠居。還暦をとうに過ぎても元気で、無類の若草好きだ。新造の初見世と聞けば、ぜひ儂 に、と名乗りを挙げることでも有名な御仁だった。 綾錦は平素、廓の噂話に頓着していないふうに見える。だが、女郎の動向や客の見極めなど、必要な情報は、きちんと把握していた。 そこで初糸が、事の真相が読めたといった調子で「あっ!」と、かん高い声を発した。 「つまり、もう姉女郎の後ろ盾もあてにできぬようになるし、白梅さん、日頃の鬱憤を晴らすべく毒を盛ったと」 綾錦は、妹分が逸り立つ様子を呆気に取られて眺めていたが、やがて、ゆっくりと首を左右に振った。 「なんぼなんでも、それはないだろう。白梅が、芙蓉さんに対して不満を持っていたのは間違いなかろう。だが、毒を盛り始めたのは、少なくとも一年前から。まだ初見世も済んでない妹分が、姉女郎に毒を盛ったりするかい?」 綾錦は、初糸以外の女にも訊ねるように、あたりを見回した。 呼出しの花魁に付く新造は、道中の衣裳や小間物、廓内、茶屋、船宿にする贈り物など、初見世にかかる費用の一切を、姉分に出してもらうのが慣わしになっていた。 呼出し付きの新造の初見世ともなると、二百両から五百両の物入りだった。 しかし、我が世の春を喧伝したい花魁たちは、競って抱えの新造や禿のなりに贅を尽くすため、金子を惜しげもなしにばらまく。 だから、その道中たるや絢爛の一言に尽きた。菊乃も、初糸が禿から新造になる際の道中を見ているが、筆舌に尽くしがたいほど、豪華で煌びやかな行列だった。 初見世前に芙蓉が死んだら、白梅の初見世の費用は妓楼持ちになる。そうなれば贅沢など、とても望めない。おそらくずいぶんと見栄えのしない、貧弱な道中になったはずだ。 白梅にとって、初見世は一世一代の晴れ舞台である。つまるところ晴れ舞台を棒に振ってまで、白梅が姉女郎を殺めるとは思えないと、綾錦は言いたいのだ。 「なるほど。だけど、親仁さんも、わっちと同じことを考えたのかもしれません。篝火さんの後に、白梅さんが話を訊かれたそうなんですが、お前は花魁に恨みがあったはずだ、花魁の食い物に毒を入れることができたのはお前だけだ――と、すでに犯人扱い。一時もの間、ねちねちとしつこく、痛くもない腹を探られたようです。わっちに話しながら、白梅さんは、悔しい、と湯船の中で涙ぐんでおりました」 初糸が、湯殿での白梅の様子を思い返しているのか、しんみりとして言った。 「毒は口から入ったのだから、親仁さんも、飯を運んでいた白梅を疑わざるをえなかったんだろう。だけど、わっちはやっぱり、犯人は白梅じゃないと思う。せっかく道中の突出しをさせてもらったんだ。芙蓉さんが生きていれば、座敷持ちにはなれたはずなのに、結局、白梅は部屋持ちにしかなれなかった。いくら疎ましくても、姉女郎という後ろ盾があるとないでは、女郎の格に差が出るというもの。自分の行く先を考えたら、姉女郎を殺す気になんか、まず、ならないよ」 綾錦の言葉に、初糸は得心がいったというふうに、こっくりと頷いた。 「それにしても、芙蓉さんに毒を盛る方法ってのは、ほかにないもんだろうかね」 綾錦が、自分の唇に手を当てながら、しきりに首を捻っている。すると傍らから、八橋が口を挟んだ。 「毎日、決まって食べるお菓子のようなものに、毒を仕込んで送りつける、とか?」 上妓の部屋ともなれば、甘いものには事欠かない。客の土産は引きも切らず、花魁が自分で菓子屋に注文することも、ままあった。 「うーん、芙蓉さんは甘味が好きだから、菓子に入れれば自然と口に入るかもしれない。だけど、送りつけるなら廓外の人間の仕業ってことだろう? 毎日毎日、菓子を送ってきたら、かえって目立つと思うんだけど」 「そう言われれば確かに、そうですけど……」 八橋は、せっかくの思いつきに異議を差し挟まれて、しょげている。 「しかも、頂き物の菓子なら、芙蓉さんだけでなく部屋の者もお相伴で口に入れるんじゃないか? それなら、篝火や白梅、禿たちにも斑点が出てよさそうなものだが。八橋、念のため、芙蓉さんに同じ人間から頻繁に届け物がないか、内所で訊いておいておくれ」 沈みかけた八橋の気分を引き立てるように、綾錦は明るい調子で命じた。 「さっき、菊乃のしくじりを見ていて気がついたんですけど、紅はどうでしょう? 食べ物じゃないが、塗っていると少しずつ融けて体の中に入っていくんじゃ……」 初糸が、綺麗に塗り直された菊乃の紅に視線を寄越す。 「なるほど、紅か。こっそり毒を練り込んでおけば、ありえない話ではないけど……」 綾錦も菊乃の唇に目を転じた。 「ただね、女郎はむやみに紅を付けた後の唇を舐めるような真似はしないものさ。それに、よほどのお馴染の前でなければ、宴でも、ものを飲んだり食べたりしないだろう。紅に毒を仕込んだからといって、間違いなく口の中に毒が入るだろうか。だったらほかに口に入るもの……そうだ、鉄漿はどうだろう。初糸、芙蓉さんの鉄漿を用意していたのは、誰か知っているかえ?」 綾錦の脳裏に、また何事か閃いたらしい。 姉様ったら、次から次へと、よく考えつくなあ。姉様の頭を開けて、一度脳味噌をこっそり覗き見してみたいもんだ。 姉女郎の頭の回転の速さに、菊乃は舌を巻いた。 鉄漿は、鉄漿汁で歯を黒く染める既婚女性の習慣であるが、吉原では、新造が初見世をするにあたり、鉄漿初めをする風習になっていた。 町屋では、個々の家で鉄漿汁を作り、保存する。しかし、作る時間的余裕のない女郎たちは、鉄漿売りから鉄漿を買った。買い求めた鉄漿は鉄製の鉄漿壺に入れ、台所の竈の火で温めてから歯に塗った。 菊乃はまだ鉄漿を口にした経験がなかった。だが、酸っぱくてたいそうまずいと聞く。 ということは、もし毒を混ぜたとしても、そのひどい味わいゆえに、歯を染める当人には、まったく判別がつかないかもしれない。 すると、火鉢に手を翳して暖を取っていた歌乃が「知ってる!」と、顔を上げた。 「芙蓉さんの鉄漿を運んでいたのは、波路だよ」 鉄漿売りは早朝に商売をしに来るので、鉄漿を求めるのは、早起きの禿が多かった。 綾錦の部屋では、役割分担を特に決めてはいなかったが、鉄漿の準備だけは歌乃に割り振られていた。 芙蓉の部屋では、鉄漿の準備は、対の禿のうちの一人、波路の役目だったという。 綾錦は、いくらか拍子抜けしたように、ぼそりと呟いた。 「いくら何でも、子供が毒を盛るなんて悪事を考えつくはずがないか。とすると、鉄漿が原因ではないのかもしれないね」 「それはどうかしら」歌乃が、きんきんと苛立ちを抑えられぬような声でまくし立てる。 「芙蓉さんは千鳥ばっかりかわいがっていた。千鳥は、おべっかが上手だからね。波路は、いつも千鳥と比べられて怒られていたらしいわ。その腹いせに、ことづかったお客への文をこっそり捨てたり、お馴染から贈られた芙蓉さんの大事な簪を隠したりしたみたい。ぼーっとしているように見えるけど、あれで陰険なのよ。わっち、ああいう子、嫌いだわ」 歌乃は「嫌い」というところで、いっそう声を強めた。普段、好き嫌いをあまり表に出さない歌乃にしては珍しい。 千鳥の陰に隠れ、自分とは滅多に口を利いてくれないからか、菊乃は、波路に対して特別な印象を持っていなかった。 顔はそこそこ綺麗だが、どちらかといえば頭の働きの鈍そうな、薄ぼんやりした風情の子。その程度にしか波路の印象を思い描けなかった。 商家の下働きだったら、たぶん使い物にならないだろう。しかし、歌乃は、その波路が案外な性悪で、ねじけた性質だ、と主張する。 秩序を失った頭の中を整理するように、綾錦がゆっくりと目を閉じた。障子越しに射し込む弱い日の光を受け、髪に挿した玳瑁の簪が鈍く光る。 菊乃を含めた全員が、姉女郎にならい、だんまりを決め込んだ。 二階のどこからか、女郎相手に持参の草双紙の荒筋を面白おかしく説明する、貸本屋の淀みない声が聞こえてくる。 目を開くと同時に、綾錦が困惑したように、ふう、と息を長く吐いた。 「歌乃の言い分が正しいとすれば、要するに、芙蓉さんの部屋の女には、そのほとんどが、疑われてしかるべき理由があるわけだね」 そう、姉女郎の言うとおり、理由はあった。しかし、確実に毒を盛ったという証拠は、今のところ、どこにもなかった。 (続く)
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