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2017年9月11日月曜日

短編小説「かっちん虫、跳んだ。」/ 風花千里

かっちん虫、跳んだ。       風花千里

 仕事で大きなミスをした。取引先の業務に支障をきたしたので、先方の事務所へ謝罪に行き、会社に戻るところだ。上司である田中さんも同行してくれていた。
 田中さんと並んでオフィス街を歩く。歩道に点在するベンチには、外回りの男たちが湿気を含んだ風に顔をしかめながら休んでいる。先方が了承してくれたとはいえ、自分の不注意でミスをしたショックは大きかった。足取りは重く、履き慣れないパンプスの踵が地面に触れるたび、リズムを乱した打楽器のように情けない音をたてた。
 田中さんは、暑さの残る時期だというのに濃紺のスーツを着て一分の隙もない。口数が少なくてきぱきと仕事をこなすので会社では頼りにされているけれど、アンドロイドみたいに冷徹な印象があってわたしは彼が苦手だ。
 話すこともないので下を向いていたら、田中さんが突然しゃがみこんだ。その動作があまりにも素早かったので、わたしも立ち止まる。
「かっちん虫だ」
 田中さんの手には2センチほどの黒くて細長い虫がのっていた。つついても全く動かない。
「死んでるんですか?」
「こいつ本名をコメツキっていうんだけど、危険を察知すると死んだふりをするんだ」
 日頃スケジュールに追い立てられている田中さんが、こんなちっぽけな虫に時間を割いていることに驚いた。
「動かぬなら、動くまで待とう、かっちん虫」
 田中さんは妙なフレーズをつぶやきながら、わたしを歩道の端へ誘った。かっちん虫は仰向けにされ下に置かれた。待つこと3分。次第にまわりの風景がぼやけていき、視界にあるのは黒い虫だけとなる。
「来るぞ」
 田中さんがそっと立ち上がった。
 カッチーンと音がして虫が跳んだ。空中で半回転し、背を上にして着地する。「すごい」と声を発するわたしの横で、とてつもなく大きな物体も宙を飛んだ。田中さんだ。バック転てやつだ。かっちん虫に遅れること数秒、見事地面に降り立っていた。
「昔、体操やってたんでね」
 田中さんは恥ずかしそうに言った。
 恥ずかしいのはわたしのほうだ。通行人はいきなり宙を舞ったおじさんを好奇心丸出しの目で眺めている。
 頬が火照ってくるのがわかる。けれど同時におかしさもこみ上げてきて、わたしは人目を気にせず思いきり笑った。こんなに大口を開けて笑ったのは久しぶりだ。田中さんは絡まった毛糸を解き終えたような顔でそれを見ている。
 風向きが変わり、ほんの少し涼しさを帯びた風が吹く。わたしと田中さんはまた歩き出した。

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