紅に狂う 風花千里
紅い色を見る。 すると千鳥のからだの芯は舐め上げられたみたいに、きゅ、と締まります。 きゅう、と縮こまる時は、決まって月の障りが訪れます。初潮 の時も綺麗な紅 に目を奪われました。 柳の若芽を揺らす風が妙になまめかしい夜。 千鳥は襖を細めに開けて、こっそり姉様 の床入りを覗いていました。 その日に限って覗き見をする気になったのは、姉様がまるで世を呪っているかのようにふてくされていたからでした。 客は本卦還りも近い商家の主人。鯰のようにぬめぬめした肌が気色の悪い男です。 姉様は四菱模様の長襦袢に縮緬の湯文字という姿で、懐紙を唇に挟んで床に滑り込みました。 ──わちきの体、冷たいでありんしょう。 ──俺が暖めてやるさ。 二人はこしょこしょと形ばかりの睦言を交わしましたが、待ちきれぬとばかり、男はすぐに腰を使い出しました。 ──ああ、旦那さま、よいわ、よいわ 姉様が甘ったるい声を上げます。 でも、男の動きに合わせて善がるものの、目はてんで彼方 のほうを向いていました。たまに男の髷に視線を這わせても、その眼差しにはじっとりと侮蔑の色が滲んでいます。 それでも男はひとりで猛りに猛っていました。 堅牢な城壁を突き崩すがごとく、攻具を押したり引いたり。 大仰に腰を振り立てれば、瞬く間に夢の階 を駆け上がってゆく。 一方の姉様といえば、男の首っ玉にしがみつき、一緒に上りつめると見せかけて、密かに舌を出していました。寝化粧を施した瓜実形のかんばせには、大蜘蛛が這い回った後みたいに嫌悪の情が貼り付いています。 うおお、とケダモノめいた咆え声を上げ、男が姉様の上に突っ伏しました。 姉様の緋色の湯文字が、大股を広げたみたいな形で男の腰の下から覗いています。 その時でした。千鳥は臍の下に引き攣れるような痛みを覚えたのです。 しばらく時が止まったように思えました。 襖にくっ付けた目を離せない。顔を強く押し付けているせいで、頬骨の上がじんじんします。 男がやっとこさ体を起こしました。姉様の上から退 き、誇らしげに腰を突き出します。 男の股間は紅く染まっていました。 だらしなく萎んだ一物に、べったりとこびりついた綺麗な綺麗な紅。姉様の湯文字の緋より、粘っこく猥らな紅。 きゅう。 下腹の痛みが増して、悪寒めいたものを感じた千鳥は寝間着の裾をめくってみました。 太腿から脛に向かって、艶紅 を刷いたように一条の線がのびていました。 男は毎月七日間だけ妓楼を訪れました。 千鳥があとで遣手のお滝婆に聞いたところによると、男は姉様に月のものが来るのを見計らって登楼するのだそうです。 きっちり七日続けて通い、執拗に血の壺へ己が身を沈める。三度の飯より御神酒より、月の水が好きな旦那です。 姉様は旦那が嫌いでたまりませんでしたが、金払いのたいそう良いお客なので、つれなくするわけにもいきません。月の障りがきつい時、女郎に与えられる休みもあまりもらえないのに、浅ましさに耐えながら勤めを果たしていました。 千鳥は姉様のつらい身の上を気の毒に思いました。 けれど、それよりも月の水の紅のほうが、いっそう鮮やかに心に残っていました。 思い出の縁から浮かび上がり、千鳥は納戸の中で寝そべっている下女の腰を爪先で小突きました。 下女の名はお茂。千鳥と同じで、十を二つばかり越えています。 料理人と飯炊きは台所で夜見世の準備をしています。 納戸には千鳥とお茂の他に誰もいません。 千鳥の声が聞こえたのか、棒っ切れのように凹凸のないお茂の体がわずかに動きました。 「おなかが一杯になったからって、こんな所で寝ちゃだめよ」 お茂は饅頭を食べたあとでした。 腹がくちくなれば引き幕のごとく眠気が襲ってきます。しかも下女は朝が早い。お茂の目蓋は、ちょっとやそっとじゃ目覚めそうもないくらい、しっかり閉ざされていました。 そういえば、三津五郎を初めて見たときも、からだの中が疼いたのでした。 千鳥は出会いの場面を思い出し、目を細めました。 三津五郎といっても、『娘道成寺』を得意とする希代の役者の話じゃありません。禿 を手懐けて姉様の歓心を買おうとするお馴染が持ってきた二十日鼠のことです。頤 の細い真っ白な顔が、白拍子花子を舞う坂東三津五郎にそっくりでした。 姉様と暮らす部屋に持ち帰ると、三津五郎は餌をねだって飼育箱の中から可愛らしい声を出しました。 二つのつぶらな眼が千鳥を見上げます。南天の実に似た紅い眼に見つめられると、千鳥は何だか切ない気持ちになりました。腰紐を締めたあたりが妙にそわそわして、気づいた時には飼育箱の蓋に手を伸ばしていました。 三津五郎をそっと手の中に包み込むと、温もりが手のひらを通して伝わってきます。 滑らかで手触りのよい三津五郎の毛を撫でているうちに、千鳥はふと思いつきました。懐の中に鼠を入れてみようと思ったのです。 襟を引っ張り、胸元へ鼠を押し込みました。 着物と素肌の間の狭苦しい中に突っ込まれ、三津五郎は魂消たみたいでした。 ふくらみ始めた胸の間で、鼠は右往左往します。 もぞもぞ動くたび、天鵞絨 のような毛が千鳥の乳房 をそそのかします。薄桃色の乳首が、ぴん、とそそり立つのがわかりました。 暴れても暴れても出口が見えないせいで、三津五郎はますます勢いづきました。水中で溺れたかのようにもがき始め、千鳥の胸乳に小さな頭を押しつけます。 三津五郎の鼻先が乳首を掠めました。 あっ。 変な声が出ました。 千鳥は腰が砕けたみたいにその場にへたり込みました。わが身をいとおしむように着物の上から胸を押さえます。下腹が焼け火箸を当てられたかと思うほど熱く感じました。 それ以来、千鳥が辛いとき、淋しいとき、三津五郎は一所懸命慰めてくれました。 お喋りをしたりはできないけど、懐に入れれば、心地よい温もりが千鳥の胸を焦がしました。そのうち興に乗って腰巻きを緩め、中に三津五郎を入れてみたりもしました。 姉様の世話に追われ、筝や習字の稽古に時間を取られ、時に助平な酔客にあちこち触られて、毎日くたくたになって部屋に戻る千鳥の憂さを、いつだって三津五郎は晴らしてくれたのです。 千鳥には、もう父さんも母さんもいません。 三津五郎が心を許せるたったひとりの友達でした。 それなのに…… 三津五郎は千鳥を置いて逝ってしまいました。 今朝起きたら、飼育箱の中で硬く冷たくなっていたのです。 周囲には、前の日に食べた菜っ葉やら何やらが吐き散らかされ、三津五郎はからだを小さく丸めた格好で事切れていました。 千鳥は箱に手を差し入れ、三津五郎の死骸を掴み出しました。 紅い眼は固く閉じられ、もう千鳥の下腹を疼かせてはくれませんでした。からだを包んでいた柔らかな毛も、安物の化粧刷毛のごとく化していました。 手のひらにのせた白い塊を見つめていたら、知らずしらずのうちに、唇が小刻みに震え出しました。 えっ、えっと、嗚咽を漏らすたびに涙があふれます。 みつごろう、みつごろうぅ。 一滴、二滴……涙は頬の上にとどまりきらず、三津五郎の鼻先へと降り注ぎました。 あれ、これは何だろ。 千鳥は泣き濡れた目をこすり、三津五郎の死に顔を見つめました。 生気を失って萎れた三津五郎のひげに白い粉が付いています。 よく見れば、口の周りにも小さな白い粒が見えます。 すかぬ嫁御もころりとまいるぅ いわぁみぎんざん ねずみとりぃ 頭の中に陽気な節回しがこだましました。 廓で商売をする〈石見銀山ねずみ捕り〉売りの声です。 〈石見銀山ねずみ捕り〉は鼠退治に使われる毒薬でした。 薬の使い方はいたって簡単です。 粉を捏ねて丸めた中に毒を仕込み、その団子を鼠の通り道に置いておく。粉に砂糖を混ぜてあるので、しばらくすると鼠はうす甘い匂いにつられてやって来ます。 石見銀山の粉には匂いも味もしませんから、鼠は怪しみもせず口にするのです。そのうちに瘧 のようにからだを震わせ、ころんと息絶えるという寸法でした。 そうだったのか。 千鳥は思い至りました。 三津五郎は毒団子を食べて死んだのでした。 たぶん千鳥が姉様に従いて客の酒の相手をしている時に、ひとり寂しく死んでいったに違いありません。 でも、みずから罠にはまったのではないでしょう。 三津五郎は飼育箱で一日を過ごす「籠の鼠」。 台所や納戸に仕掛けた毒団子を口にできるわけがないのです。 「あんたの仕業だったんだね」 千鳥は、いぎたなく眠るお茂の尻を蹴飛ばしました。 うぐう。 お茂が鼾みたいな気味の悪い声を上げました 「あんたはわっちを妬んでたものね。禿は良いべべを着て、客の残した御馳走を食べられて、おんなじ歳なのにずるいって。その腹いせに三津五郎に一服盛ったんでしょう」 千鳥はきつい声で問い詰めました。お茂はようやく薄目を開け、恨みがましくこっちを睨みます。 「ふん、そんな目をしたって、だめ。わっちはしかと見てたんだもの。納戸に仕掛ける毒団子を、あんたがお仕着せの袂に押し込むのを、ね」 中郎のおじさんに命じられ、団子をそこここに置きにいくのは、お茂の役目でした。あたりに目配りしながらお茂が毒団子を掠め取るのを見た時、千鳥は何か嫌あな感じがしたのを覚えています。 「毒団子をちょろまかした時に気づくべきだったわ。あんたは姉様の部屋に忍び込み、三津五郎に団子を食わせたのね」 三津五郎の痛ましい屍 が脳裡に甦り、千鳥はいやいやをするみたいに首を振りました。 その拍子に、禿島田に挿した花簪がひらひらと揺れます。 お茂が三津五郎に毒を盛ったと知り、千鳥は仕返しをすることにしました。 まず、昨夜、お客からいただいた〈竹村伊勢〉の饅頭を手をつけずにとっておきました。 〈竹村伊勢〉は吉原揚屋町にある名高い菓子屋です。薄い煎餅に砂糖をかけた〈最中の月〉で知られていますが、このところ煎餅の間に餡を挟んだ饅頭も売り出していました。 千鳥は饅頭の餡の中にほんの僅かな毒を忍ばせました。これなら吐き気や痺れが起こるくらいなので、相手を嚇かすにはもってこいです。 〈石見銀山ねずみ捕り〉は台所奥の壺の中に隠してあるのを知っていましたから、懐紙に少し取り分けるくらいは容易くできました。 それから、勝手口の外で掃除をしていたお茂のところへ行って声を掛けました。 ──おいしいお菓子が食べきれないほどあるから、一つ分けてあげる。 お茂は目を輝かせて頷きました。 子どもっぽい無邪気な笑みを浮かべたお茂を前に、千鳥は驚きましました。その顔には、三津五郎を殺した後ろめたさなど、これっぽっちも見えませんでした。「虫も殺さぬような顔」とは、こんな面差しを言うのでしょうか。 そこで罪を認めて謝ってくれれば、千鳥の気持ちも少しは収まったかもしれません。けれども、すでにお茂の心の中はお菓子が占めていて、三津五郎を死に追いやったことなど、けろりと忘れてしまっているようでした。 千鳥にとって三津五郎はいとしい友達。 でも、お茂にとってはただの畜生でしかなかったのです。 畜生だから好き勝手に殺してもいいの? 千鳥は臓腑へ墨をぶちまかれたような冥い怒りを感じました。 夜見世が始まる前にお茂と会う約束をした後、部屋へ戻って、饅頭にさらに毒を仕込みました。それは中郎のおじさんが団子に混ぜるより、ずっとたくさんの量でした。 うげえ、と身の毛のよだつような濁声と共に、お茂の口から反吐がこぼれました。 すでに幾度も吐いているので、お茂の周りには饐えた臭いが立ち込めています。毒でお腹の中が爛れてしまったようで、汚物から血の臭いも漂っていました。千鳥は思わず振袖の袂で鼻を押さえました。 「赦して……」 か細い声で、お茂が赦しを乞いました。 細く開いた眼が落ち着きなく揺れています。 もしかすると、そろそろ枕辺に死神が立つ時分なのかもしれません。 「もう遅いよ。あんたはわっちの大切な友達を殺めたのだもの。罰を受けなくちゃいけないわ」 千鳥は冷たく突き放しました。 今の今まで疾しさなんて感じていなかったくせに、お茂はなんて身勝手なのでしょう。罪の重さがわからないのなら、わからせてあげねばなりません。 三津五郎は何も悪くないのに、ひとりぼっちで死んでいったのです。それに比べたら、千鳥に見守られて息絶えるお茂はよっぽどか幸せなはずでした。 お茂が目を瞠きました。両手で空 を引っ掻きます。 突き出した下唇から、てろ、と血が零れ出しました。 彼岸に咲く花より、もっともっと不吉な紅。 怖いほど綺麗…… 千鳥はまたしても下腹が捩じれたような痛みに襲われ、思わず顔を顰めました。 遠くで、お茂を探す中郎の声がしています。 しばらくしたら、いきり立った中郎によって納戸の戸が開けられるはず。その前に、すべて事を終えてしまわねばなりません。 「仇はとったよ」 千鳥は眼裏 に浮かぶ三津五郎の面影に語りかけると、目を瞑って懐紙に残っていた粉を一気に口の中へ入れました。
0 件のコメント:
コメントを投稿