〈大江戸鉄火双紙 二〉座敷鷹 風花千里
──こりゃあ、面倒な雲行きになってきたぞ。利 平 は、唇を噛んで俯いた。伊 勢 屋 利平は日本橋室町に店を構える塗物問屋の主人。取引先の材木問屋、山正文五郎 に招かれ、深川木場の屋敷に来ていた。 利平が通された離れには、利平を含めて二十人を超える人々が集っていた。知らない顔ばかりだが、集まった輩は血気に逸っているがごとく、そわそわと落ち着きがなかった。 「伊勢屋さん、あんた糞真面目で通っているがよ、商売の勘を養うつもりで、たまには勝負事をやってみねえか」 文五郎が、子猫を弄うような気軽さで、利平に誘いを掛けてきた。 「勝負事って、博打か何かですか」利平は渋面をつくった。 山正は、木場でも有数の大問屋。小規模な商いに徹してきた伊勢屋としては、この機会に是が非とも山正との繋がりを強めておきたい。しかし、その取っ掛かりが博打とは少々憂鬱だ。 「まあな。実は、これからこの離れで鷹狩りをするのよ」 文五郎は二十畳ほどの座敷を見渡した。握り拳のように厳つい顔には脂が浮き、てらてらと光っている。 「鷹狩りを室内でやるなんて、いくら何でも無理な話でしょう」 鷹狩りは代々の将軍が好んだ狩猟だが、元禄と改元されて十五年、今は大名家ですら催していない。五代将軍徳川綱吉が生類の殺生を一切禁じているから、鷹に兎を狩らせるなんぞ以っての外なのだ。 「あんた、ほんとに何にも知らねえ堅物なんだな。商人たるもの世間の流行り廃 りに敏くねえと、この先やっていけねえぜ。鷹狩りってのは、何も本物の鷹を座敷に放すわけじゃねえ。座敷鷹といって、鷹に見立てた蜘蛛に兎ならぬ蠅を捕らせるんだよ」 利平は、日ごろ商い一筋。座敷鷹なる酔狂な遊びが巷に流行っているとは全く知らなかった。 「早く蠅を捕まえた蜘蛛が勝ちってわけですか」 「そうだ。蠅を捕まえるには、蜘蛛が高く遠くに飛ぶ力を持ってなきゃならねえ。どうだい、ひとつ勝つ蜘蛛を当ててみちゃ」 文五郎が口元を歪め、威し付けるような笑みを浮かべた。さすが、木場で働く荒くれ男たちを束ねているだけあって、文五郎の言動には否応を言わせぬ迫力がある。問屋といえど小商いに近い伊勢屋など、その気になれば出入り禁止にできるとでも言わんばかりだ。 「ですが、勝負事は、とんと勝手がわからないのでございますよ」 利平の首筋から汗がつーっと滴り落ちた。 博打をするには元手がいる。だが、利平の紙入れには、いつもほんの小遣い程度の銭しか入っていなかった。 利平は伊勢屋の婿養子だ。小僧時代から奉公し、先代の主人からその働きぶりを認められた。一人娘と妻 わせたいと乞われ、婿養子となったのが七年前。三年前には、後を継いで主人の座に納まった。 けれども、商いの実権は、依然として先代とその娘である妻のお龍 に握られていた。利平は朝から晩まで店で働き詰め。何人かいる奉公人たちと扱いは何ら変わらなかった。 その上お龍は、利平の私生活にまで事細かに喧しく口を出した。 「飲む、打つ、買う」はもちろんのこと、着物を含めた身に着けるもの一切に贅沢を禁じる。自分は、日本橋の白木屋で季節ごとに何枚もの着物を誂えているのにだ。 それでも利平は不平を零したためしはなかった。もともと洒落っ気とは無縁の性質だし、不潔でなければそれでよし、と考えてもいた。酒も弱いし、煙草も好かないから、なくても一向に困らない。 ただ一つ不満があるとすれば、外出する際の懐具合だった。 利平が出掛ける時、お龍が紙入れを渡してくれるのだが、中身は「ちょいと小上がりで一杯」にも足りない銭しか入っていない。 何も豪勢に吉原へ繰り出そうって話ではない。 問屋の主人なるもの、いつ何時、金が入り用になるかわからぬ。ある程度の現金は必要と、利平は口を酸っぱくして説くのだが、お龍は鼻で笑うばかり。得意先との付き合いや問屋仲間との会合は先代の仕事ゆえ、利平に交際費の必要はなしとの腹らしい。 「今日来ている出入りの奴らは、みんな何度も鷹狩りを楽しんでるのよ。へへっ、あんたも仲間に入 って俺のご機嫌を取り結んでおいたほうがいいんじゃねえかい。塗物問屋なんて、この江戸にゃ掃いて捨てるほどあるんだからよ」 煮え切らぬ利平の態度に苛つき、文五郎が脅しにかかった。 「そんなに脅かさないでくださいましよ。承知しました。それじゃ、一度だけ仲間に入れてもらいましょう」 今まで溜めこんでいた迷いを吐き捨てるように、利平は決断した。 乏しい持ち金では大した額は張れぬが、一度でも場を共有すれば、文五郎の気も収まるだろう。 「そうこなくちゃ。あんたはうちの大事な出入り商人だ。今日はひとつ、たんまり儲けさせてやろう。ちょいと耳を貸しな」 利平が体を傾けると、その耳に文五郎が口を寄せた。 「これから十番勝負が始まるが、あんたは俺の蜘蛛に賭けるんだ。他の蜘蛛がどんなに立派に見えても、断じて賭けちゃいけねえ」 利平は頷いた。どうせ文五郎のご機嫌取りだ。一回こっきりの勝負なら、文五郎の蜘蛛に賭けるに決まっている。 離れの唐紙が開き、若い女中が顔を覗かせた。 どうやら最後の客が到着したらしい。 「よーし、これで顔が揃ったな。すぐ始めるから、皆さん、楽しみにお待ちなせえよ」 周囲の空気を圧するような太い濁声で、文五郎が告げた。 * 十番勝負が始まる前に、利平は席を外し、座敷の外へ出た。 用を足す振りをして、手水へ入ると、懐からそそくさと紙入れを取り出す。 「ふうっー」手水の中で、利平は大きく安堵の息をついた。 紙入れには二両の金が入っていた。 利平の訪問先が大商人の山正と知って、さすがのお龍も、いつものようなしみったれた真似はできなかったらしい。 ──これで恥ずかしくない程度には、勝負に付き合えそうだ。 利平は紙入れをしまい、密かに北叟 笑んだ。 得意先として、ここで山正を取り込めることができたら、伊勢屋における自分の立場も向上するはずだ。 急に気分が軽くなった。つい鼻唄が口をつきそうになるのを堪え、利平は手水の戸に手を掛けた。 「おっと……」 手水を出た途端、母屋の方から来た男と鉢合わせしそうになった。 「ああ、すいやせん。まさか人が出てくるとは思わなかったもんで」 男がちょんと頭を下げた。小柄な体に粗末な綿の着物を纏っている。開いた口は前歯が二本欠けていた。 「その箱は……。なぜ、お前さんがそれを持っていなさるのだ」 男が手にした小さな箱に気づき、利平は目を瞠った。 箱は、縦四寸、横二寸、高さ二寸ほどの大きさで、夏草を描いた見事な蒔絵が施されている。 片端に、上から下へ向かって挿し板が嵌っていた。挿し板を上げると、中は抽斗状になっていて、仕切り板で三つの空間に区切られているはずだ。 それはまさしく、数日前に利平が文五郎に納めた品だった。こんなみすぼらしいなりの男が持つような代物では断じてない。 「ああ、こん中にあっしんとこの商品を納めてあるんですよ」 男は面倒臭そうに返事をすると、せかせかと行き過ぎようとする。 「お待ちなさい。いったい箱の中には何が入っているのだ」 利平は声を荒げ、通り過ぎる男を体を張って押しとどめた。 内証の裕福な屋敷で催しがある時、人の多さに乗じて忍び込み、盗みを働く輩はいつの時代にも存在する。 場違い甚だしいこの男も、きっとどさくさに紛れて、金目のものを頂戴しにきた賊の類にちがいない。 行く手を阻まれ、男は、ちっ、と小さく舌打ちをする。だが、相手の目にあからさまな不審の色を感じ取ったのか、利平を押しのけて先を急ぐような真似はしなかった。 「あっしは、茂 吉 という蜘蛛屋ですよ。怪しいもんじゃありやせん」 腰を屈め、茂吉は媚びるような目で見上げた。 利平は首を傾げた。夏になると虫売りがやってきて、往来で蛍や松虫を売っているが、蜘蛛を売る商売があるとは知らなかった。 「今日この家で鷹狩りがあるのは、旦那もご存じでしょう。その鷹に見立てる蠅捕 蜘蛛を納めにきたんですよ」 茂吉は蒔絵の小箱を少し持ち上げた。 「中に蜘蛛が入っていると言うのか? 嘘をつけ! その箱は唐木製で、当代一の蒔絵師に細工させた逸品だ。小さな箱だが、五両もするんだ。汚らわしい蜘蛛なんか入れるわけないだろうが」 「この箱は五両ですかい。じゃあ、箱に不足はねえ。うちの蜘蛛は一匹二分の値打ちがあるんだからね」 「何ぃ! 蜘蛛一匹に二分だと。そんな馬鹿な」 二分といえば、吉原の揚屋でそこそこの女郎が買える値段だ。 「旦那、さては鷹狩りは初めてだね。あっしが大事に育てている蜘蛛は、強くて、遠くに飛べると有名なんでさ。大名や金持ちの商人の間で『茂吉の座敷鷹』といえば、一両出しても手に入れたい代物。山正さんとこはお得意様だから、半値で納めさせてもらってますがね」 茂吉は得意げに鼻を蠢かす。どうやら、自宅で蜘蛛を飼い、鷹狩りをさせるための訓練をしているらしい。 利平は茂吉が手にした蒔絵の箱に目を転じた。 「そういえば、山正さんの頼みで、覗き窓のように箱の上部が開く仕掛けをつけたが、あれは蜘蛛の様子を見るための絡繰だったのか」 掌に載るぐらいの小さな箱なのに、二つも開け口がある。いったい何を入れるのだろうと訝しんだものだったが、蜘蛛の飼育箱にするつもりだったのなら納得がいく。 「各々の部屋に一匹ずつ入ってるんですよ。見てみますかい」 茂吉は箱の上部に指先を当てると、そっと横へ滑らせた。 茂吉に促され、利平は開け口に顔を近づけた。 なるほど、一匹の蜘蛛が箱の中に鎮座ましましていた。 頭の正面に目が四つ付いている。さらに頭の後方にも四つの目が見える。正面の目は真ん中の二つが大きく、両端の二つはおまけのように小さい。不意に明るくなった周囲を探るように、真ん中の二つの目が微かに動いていた。 「今日は三匹納めるんで、この両側にあと二匹入っているんですわ。しめて一両二分の売上げってわけですな」 「こんなちっぽけな蜘蛛三匹で一両二分か、いい商売だな」 利平は呟いた。声に羨望の色が滲んでしまったかもしれない。 普段はあまり意識しないが、蠅捕蜘蛛はどこにでもいる生き物だ。 事実、利平も幼少のころ蠅を食っている蜘蛛を何度も見かけたことがある。そんなありふれた虫を飼育して多額の報酬を得られるのであれば、利平も小遣い稼ぎに手を出したいと思うのは当然だろう。 「へへっ、大名家じゃ廃れてしまったが、金持ちの町人の間では、座敷鷹は今まさに大流行りなんでさ。お蔭さんでずいぶんと稼がせてもらってますよ。ただしね、『茂吉の座敷鷹』がここまで評判になったのには、あっしの努力があったからですぜ。ただ蜘蛛を捕まえて売るだけじゃ駄目なんでさ」 茂吉は、利平の下心を見透かすように薄笑いを浮かべた。 図星を指され、利平は一瞬たじろいだ。しかし、好奇心が疼くのを抑えられない。上目遣いに相手の顔色を窺った。 「して、その極意とやらは教えてもらえないのかね」 蠅捕蜘蛛は見たところどれも同じような形状だ。何十、何百匹と飼育した中から勝負に勝てる蜘蛛を育て上げるこつを、利平は是非とも知りたいと思った。 「ふっ、蜘蛛屋も数多の商売と同じく年季と勘が物を言うんでさ。まあ、どうしても知りたいってなら、ほんの少しこつを教えてさしあげてもいいんですがね……おやっ、あそこから出てきたのは、たぶんあっしを迎えに来た女中だ。いけねえ、急いで山正さんとこへ蜘蛛を届けなきゃ。旦那、悪ぃね。あっしは先を急ぎます。後でまたお会いしやしょう」 茂吉は早口に言い捨てると、離れを目指して一目散に駆け出した。 残された利平は肩透かしを食って、しばらくその場に佇んでいた。 ほどなく鷹狩りの開始を告げる声がした。 利平は気を取り直し、ゆっくりと離れのほうへ足を向けた。 * 鷹狩り十番勝負のうちの最初の闘いが始まった。 離れ座敷の中程に、差し渡し二尺くらいの大きさに綱が丸く置かれ、土俵が作られていた。 「山正さんの蜘蛛が出てきますぜ」 耳元で囁く声に驚き、利平は振り返った。 蜘蛛屋の茂吉が、いつの間にやら背後に来て座っていた。 茂吉の視線を辿っていくと、文五郎が座の世話人に歩み寄っていくのが見えた。利平が納めた蒔絵の飼育箱から、一匹の蜘蛛を取り出して、世話人に預けている。 土俵の周囲で、わらわらと金子のやり取りが始まった。 博打の胴元である文五郎が、代理の男に耳打ちをする。 すると、代理の男が腰を上げ、利平に近づいてきた。 「勝つと思うほうに張ってくださいましよ」 男に要請され、利平は、はたと当惑した。 何しろ博打は初めてだ。持ち金には限りがある。幾ら賭けたらいいのか皆目見当もつかなかった。 初恋の女子を前にした初な小僧のように、もじもじしていた利平の傍に、茂吉がつと躙り寄った。 「勝負するんですかい」 「ああ、これも付き合いだ。一回ぐらい賭けてみようと思うのだが、いくら張ればいいのか、全然わからないのだ」 利平は周囲を眺め回した。 利平の正面にいる男は、商家の若旦那のようだが、家の金でも持ち出してきたのか、厚い紙入れを手に気もそぞろといった態だ。 一方、右隣で身を乗り出す男は旗本の冷飯食いといった格好。目をぎらぎらさせ、座敷鷹の登場をいまかいまかと待ち構えている。 「旦那はほんとに世間知らずなんだな。何だか心配になってきたぞ。勝手がわからねえなら、一分、二分くらい賭けておけば十分でさ。あんまり深入りしちゃいけねえ」 茂吉が助言してくれる。 「一分? そんな少額でもいいのか」 「なあに、額の問題じゃねえ。山正さんとしては、博打を通して旦那と末永く付き合いたいって肚なんでしょうよ。何も大金を投じる必要はねえ。懐具合に応じて賭けりゃいいんですよ」 利平は胸を撫で下ろした。いくら賭けなければいけないという決まりはないらしい。 茂吉と喋っている間に、対戦する二匹の蠅捕蜘蛛の名が呼ばれた。 蜘蛛には各々勇ましい名が付けられている。 世話人が、土俵の中へ二匹を入れ、向かい合わせにした。 一方は文五郎の蜘蛛で〈風神 〉と名付けられていた。小指の先ほどの小さな蜘蛛で、強そうというよりは、愛らしいといった風貌だ。 すでに闘う態勢に入っているのか、体をぐっと沈め、二本の第一脚を蟹の鋏のように振り上げた。 もう片方は〈兜山 〉。〈風神〉より一回り大きい。〈兜山〉は、正面にいる風神を威圧するように、大きな体を小刻みに揺すった。 下見を終えた見物客らが、勝ち蜘蛛と思われるほうに金子を張っていく。そのほとんどが体の立派な〈兜山〉を高く買っていた。 利平は大方の支持とは逆に、文五郎に言われた通り〈風神〉へ一両を賭けた。一分でいいところを一両。常に小遣い銭にぴいぴいする利平にしてみれば、滝壺へ飛び込むのに匹敵するほどの決断だ。 だが、利平の頭の中では茂吉の話が蘇っていた。文五郎に伊勢屋と末永く付き合おうという気があるなら、一両ごときを出し惜しみしてはいけない。 「旦那、いい判断だ。この勝負、間違いなく〈風神〉の勝ちだ」 茂吉が腕を組み、満足そうに頷いた。 世話人が、お互いを威嚇し合う蜘蛛の真ん中に、蠅を一匹放した。一回戦の始まりだ。 「ほれ、〈兜山〉、かかっていけ!」 「〈風神〉、跳べ、跳ぶんだ!」 周囲の見物人から掛け声が沸き起こった。 皆、どちらかの蜘蛛に幾ばくかの金子を賭けているから、掛ける声にも気合いが漲っている。 ──おやっ、蠅ってのは、あんな風に飛ぶんだっけか? 土俵の内をふわんふわんと飛ぶ蠅を、利平はじっと見つめた。 決して弱っているわけではない。それどころか、迫りくる二匹の座敷鷹の姿を認めると、捕まるまいとして狂ったように飛び回る。 しかし、その飛び方がどこかおかしい。 茂吉の控えめな声が耳を掠めた。 「羽の先を、少しちょん切ってるんです。土俵の中の勝負ですからね、蠅があまり遠くへ行けないように、羽を短くするんでさ」 利平は得心し、土俵に視線を戻した。 ちょうど〈風神〉が、不安定な体勢で飛ぶ蠅の後ろに回り込んだところだった。まだ〈兜山〉は蠅に近づいてもいなかった。 〈風神〉は大きな目でちろっと蠅を見遣った刹那、よく発達した脚で長い距離を跳んだ。見事空中で蠅を捕獲する。 おおー、と見物人からどよめきが起こった。 細かい毛の生えた第一脚で獲物をしっかり捕らえ、〈風神〉はすぐさま蠅にかぶりついた。よほど飢えていたのか、一心不乱に蠅の体の汁を吸っている。 「この勝負、〈風神〉の勝ち」世話人が、勝ったほうの名を告げた。 座のあちこちが騒めき出す。 「ちっくしょう!〈兜山〉のほうがでかいから強いと思ったのに」 「何だい、見かけ倒しかよ」 賭けに負けた見物人が口々に〈兜山〉を罵倒する。 剥ぐ者と剥がれる者。博打では常にこの二種類しか存在しない。今はまだ罵る元気もあろうが、剥がされ続けたら、声すら出せない状況に陥るのは必至だった。 胴元の文五郎に賭け金の中から、一割の寺銭が支払われた。勝った〈風神〉には賞金が、負けた〈兜山〉にも出場料が支払われた。 さらに残った賭け金は〈風神〉に賭けた客に分配される。 賭け金の額に応じて、当人の前に取り分が置かれる。利平の前の畳には、五両の小判が積まれた。 * ──一両が五両になった。 利平は胸の内で快哉を叫んでいた。 嬉しくて小躍りしそうになる。慌てて膝頭にぐっと力を込める。 土俵の先で、文五郎が、どうだ、と言わんばかりに笑っていた。 ──この五両は、すべて私が自由にできる金なのだ。 利平は有頂天になっていた。自分の意思で勝ちそうな蜘蛛を選んで賭ける。たったそれだけなのに、利平は大層な仕事を成し遂げたように、爽快な気分だった。 正直に言えば、商いがうまくいった時より達成感は大きかった。商売に関してはいつも舅の目が光っており、利平の意思など露ほどにも尊重されないからだ。 「よござんしたね」茂吉が後ろで囁いた。 「ああ、博打というものはずいぶんと簡単なんだな。お前の育てた蜘蛛はおそろしく敏捷じゃないか」 「へへ、育て方にこつがあると申したでしょう。蜘蛛は常に死なない程度に飢えた状態にしておくんです。そん中で生き残った奴をさらに鍛える。今日持ってきたのは、選りすぐりの三匹でさ」 茂吉は妙に義理堅い男だ。先ほど言い掛けた蜘蛛飼育のこつとやらを今になって教えてくれる。 「そんな業があるのか。だが、そのこつを掴むまでには相当の年月が必要のようだ。済まない。蜘蛛屋なんぞ、ただ蜘蛛を取ってきて売るだけの商いだと軽く見ていたが、お前さんは職人芸に近い技を持っているのだな」 手間隙かかる蜘蛛の飼育より博打のほうが手っ取り早く儲かる。利平は既に蜘蛛屋の仕事に興味を失っていた。 利平が非礼を詫びると、茂吉は照れくさそうに鬢を掻いた。 「おや、また山正さんの蜘蛛が出るようですぜ」 目を凝らして、茂吉が土俵の方を見つめた。 「よし、次はいくら張るとしようか」 利平は、頭の中で素早く銭勘定をする。 「あれっ、まだ賭けを続けようってんですか。初めてなら、勝ったところでやめておいたほうがいいんじゃないですかい」 「いいや、次も勝つから心配しなさんな」 思わぬ大金を手にして、利平は気が大きくなっている。 文五郎は自分の蜘蛛に賭ければいいと言った。ならば文五郎の蜘蛛が出る勝負に賭ければ、間違いなく勝てるはずだ。 文五郎が繰り出した次なる蜘蛛は〈雷神 〉。〈風神〉と比べて二回りも大きい。 利平は少し迷った。 〈兜山〉のように、体格が大きいからといって強いわけではない。案の定、見物客の大方が対戦相手の〈白波 〉に金を張っている。 利平は気持ちを固め、〈雷神〉に三両を張った。ここで〈白波〉に賭けてしまったら、己に対する文五郎の心証が一気に悪くなるような気がしたからだ。 しかし、この勝負はなかなか始まらなかった。 〈白波〉に張る見物人が多すぎるのだ。丁半と同じく鷹狩りでも、賭け金が双方均等にならないと賭けが成立しない。 とうとう〈白波〉に「三つ手を叩くうちに蠅を捕獲しなければ負け」という負担条件が課される羽目になった。 すると、負担条件が付くならと、〈雷神〉に鞍替えする輩が出てくる。 しばらくして、ようやく賭け金が均等になり、二番目の勝負が始まった。 だが、蠅を放す前に勝負は決まった。向かい合った途端、〈白波〉が敵に尻を向けて土俵から逃げ出してしまったのだ。蠅を捕獲するより先に、〈雷神〉に怖気づいてしまったらしい。 「〈雷神〉の勝ち」世話人が文五郎の蜘蛛の勝利を告げた。 即座に、寺銭と賞金と出場料が除かれた賭け金が分配される。 最初の負けを取り返そうと、二番目の勝負では大金を賭ける者が続出した。彼らの多くがまた負けた。その一方で、利平の懐には二十両もの金が転がり込んでくる。 利平は陶然としていた。賭ければ賭けるほど、糸巻きの糸のように持ち金が増えていく。 いや、勝ち負けだけの問題ではない。自分の采配で物事を決断することがこんなに気持ちのいい行為だと、利平は初めて知った。 三番目の勝負が始まろうとするまさにその時、茂吉が隣に来て座った。利平の膝に手を掛け、諭すような口調で言う。 「旦那、悪ぃことは言わねえから、もうやめときな。博打ってのは水物だ。あんたは博打にはまり込むと危険なたちと見える」 「心配するな。お前さんも自分が育てた蜘蛛が一番強いという自負があるだろう? 私は次も山正さんの蜘蛛に賭けるつもりだ」 文五郎の蜘蛛は三匹。あと一回は勝負に出てくるはずだ。 予想通り、三番目の勝負にも文五郎の蜘蛛が出てきた。 名は〈蠅虎 〉。大きさは〈風神〉と〈雷神〉の間ぐらい。後脚がやけに発達していて、さぞかし高く跳躍できそうに見える。 対する相手は〈桃園 〉。名前からして強そうな印象がない。体の大きさは〈蠅虎〉よりいくぶん大きかった。 今度は〈蠅虎〉に賭ける輩が多い。賭けを成立させるために、またしても負担条件が付された。〈蠅虎〉は「三つ手を叩くうちに」蠅を捕獲しなければならなくなった。 負担条件が付いても、利平は文五郎の蜘蛛に賭けた。最初の〈風神〉は瞬時に蠅を捕まえた。〈風神〉より高く飛べそうな〈蠅虎〉が負けるはずはないと考えたのだ。勝てる勝負に大金を投じないのはもったいない。さっき転がり込んだ二十両をすべて場に張った。 「二十両も! 旦那、そりゃあ、張りすぎだよ。いくらあっしの蜘蛛が強くても、条件が付いちまうと絶対勝てるとは言い切れねえんだ。せっかく儲けた銭をここで失うことになっちまうよ」 茂吉が慌てふためいている。まさか、利平が二十両も張るとは思っていなかったようだ。口元から覗く欠けた前歯が、茂吉の顔を思いきり情けなく見せていた。 「〈蠅虎〉が負けるはずないさ。負けたら山正さんが損をしちまう」 勝ち蜘蛛の賞金は大きいが、出場料は雀の涙ほどの金額だった。 「いや、違うんでさ。山正さんは胴元だから寺銭が入る。たとえ勝負に負けたとしても、損はしないようになってるんですよ。ああ、だめだ……もう次が始まっちまう」 茂吉がお手上げだとばかりに呻いた途端、三番目の勝負が始まった。 〈蠅虎〉と〈桃園〉が向かい合う。中央に生きのいい蠅が放たれた。 「いーち」世話人が一つ手を叩く。 「〈蠅虎〉早く捕まえるんだ!」 利平の口から信じられないほどの大声が出た。〈蠅虎〉は自分の二十両を、いや自分の吉兆を背負っている。 〈蠅虎〉が跳躍しようと身構えた。 「にー」二つ目の拍手が響く。 「飛べー!」 利平は声を限りに叫ぶ。 ようやく〈蠅虎〉が飛び上がった。 周囲が一気にさんざめく。 〈蠅虎〉は確かに飛んだ。 だが、ひとっ飛びすると、宙を飛ぶ蠅はそっちのけで〈桃園〉の前に着地したのだ。 それからこともあろうに第一脚を振り上げ、踊り始めた。 飛んだり跳ねたり、くるっと回ったり、〈桃園〉の前から一歩も動かず〈蠅虎〉は踊り狂う。 「いかん、〈桃園〉は雌だ。〈蠅虎〉は女子の気を引こうとして踊って見せてるんですわ」 茂吉が呻くように指摘した時、世話人の手が鳴った。 「さーん。この勝負、〈桃園〉の勝ち」 利平が積んだ二十両が、瞬く間に掻き集められていく。 〈蠅虎〉は負けた。利平の懐はすっかり軽くなり、文五郎の懐には、またしても多額の寺銭が入った。 利平は俯いて、深く息を吐いた。 「旦那、気を確かに」 肩越しに、茂吉の案じる声が聞こえてきた。 けれども、利平は落胆して気持ちが沈み込んだわけではなかった。それどころか胸中には静かな闘志が漲り、不思議な昂揚感が全身を包んでいる。 「博打は水物って意味がよくわかったでしょう。条件付きの勝負ばっかりは、飼い主のあっしでも予測できねえんでさ。旦那、こっから先は見物に回りましょう。もう山正さんの蜘蛛は出払っちまったし、このまま続ければ、ほんとにすっからかんにされちまいますよ」 茂吉は利平の腕を取り、強引に土俵際から後方へ移動させようとする。 「いいえ、私はやめませんよ」 利平は茂吉の腕を振りほどいた。 「まだ持ち金が三両あります。これを元手にして、あと七番勝負で負けを取り戻してみせますから見ていなさい」 四番勝負に出る蜘蛛が、土俵に顔を揃えた。 「やれやれ、また一人、座敷鷹の餌食になっちまった」 茂吉が、大きくため息をついた。 (了)
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