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2018年3月25日日曜日

短編小説「花の雨」/ 風花千里

花の雨              風花千里

 妙さんは公園の小道を歩いていました。手には白いつえ。事故で光を失って以来、いつも共に歩んでいます。
 妙さんはベンチに腰をおろしました。シジュウカラやメジロのさえずりに耳をかたむけます。この公園は桜の名所です。休日の今日、園内はたくさんの人で賑わっていました。
 二種類のリズムのちがう足音が近づいてきました。
「となりに座っていいですか」
 女の人の声がしました。おちついた声の感じから、還暦をすぎた妙さんと同じくらいかもしれません。
「どうぞ」
 妙さんは体をずらして席をあけました。こんでいるのでベンチをひとりじめするわけにはいきません。
「私は端でいいから、あなたはまん中へどうぞ」
 妙さんのとなりにも人が腰をおろしたようでした。
 ふわっ。やわらかな匂いが妙さんの鼻先をかすめました。
 この匂い……妙さんの記憶は四十年前にさかのぼりました。
 妙さんと茂さんは恋人同士でした。茂さんは商事会社の営業マン、盲学校を卒業した妙さんはマッサージの仕事をしていました。夜、仕事で疲れた茂さんの足をもんであげるのが妙さんの日課でした。
 汗で足の指がベタつくのをきらう茂さんに、妙さんはタルカムパウダーをはたいてあげました。そのころにはめずらしい外国製のタルカムパウダー。すずらんのよい匂いのする粉です。さらさらになった茂さんの足のにおいをかぐと、妙さんは自分のからだの深いところから満ち足りていくのを感じるのでした。
 茂さんは妙さんに結婚を申し込みました。妙さんはそれを受け入れ、二人の行く末は明るく、どこまでも続いていくように思われました。
 けれど、その結婚に反対した人たちがいました。茂さんの両親です。妙さんは一人息子である茂さんの伴侶にふさわしくないというのがその理由でした。
 茂さんは、親の働きかけによって、長いあいだ海外に赴任することになりました。初めのうちこそ、毎日のように茂さんから手紙が届きました。異国の街並みが写った葉書には、妙さんを気遣う言葉がつらねてありました。しかし、一人暮らしの妙さんが、すぐにその内容を理解するのは容易ではありません。手紙は点字で書かれていなかったからです。茂さんへの返事はだんだんと遅れるようになり、そのうち、茂さんからの連絡も途絶えがちになりました。いつしか、二人はきずなを結ぶことなく別れ別れになってしまいました。
 妙さんの鼻をとらえたのは、タルカムパウダーの匂いでした。
 となりの話に耳をすますと、男の人があいづちをうっているのが聞こえます。少し高めのやさしい声。それはたしかに聞きおぼえがありました。
「わあ、桜がきれい」
 すわっていた女の人がはしゃいだように声を上げました。つられて妙さんも顔を上げました。けれども妙さんには、花の息づかいを感じることはできても、花のさかりを目で見ることはできません。
「あなた、何よそ見しているの? 桜はあっちよ」
 妙さんははっとしました。となりの人が自分を見ているような気がしたのです。
 でも、この人が茂さんだったとしても、となりにいるのが妙さんだとは気づかないでしょう。髪にはしらががふえ、顔には四十年分のシワがきざみこまれているはずです。月日は手品のように妙さんの姿かたちを変えていました。
 風向きが変わり、それに乗ってきた雨のけはい。タルカムパウダーの匂いが一段と濃くにおいます。妙さんは立ち上がりました。
「あの」と男の人が呼び止めました。「もうお帰りですか」
「ええ、湿気をふくんで花の匂いがきつくなってきました。ひと雨くるんじゃないかと思います」
 妙さんがこたえました。
「桜に香りはないでしょう。それは、もしかしたらぼくが使っているパウダーの匂いじゃありませんか。四十年も使いつづけているから体にしみついているんです」
 男の人は、そう言って言葉を切りました。その時、いつもと同じ闇の中なのに、妙さんは自分の視線と相手の視線がたしかに交わるのを感じました。
 あなたー、こっちの桜のほうがきれいよ。離れたところから女の人の呼ぶ声が聞こえます。妙さんはまぶたをぎゅっと閉じ、二、三度小さく頭を振りました。
「そうかもしれませんね。あっ、もう雨つぶが落ちてきたようです。そちらさまもどうぞ雨に濡れませんように」
 妙さんは頬に落ちた雨を手でぬぐうと、つえを手にとりました。そしてつえに支えられ、地面を踏みしめるようにゆっくりと歩き出しました。

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