〈大江戸鉄火双紙 一〉丁か半かの命なりけり 風花千里
時は、田沼政治の真っ只中。松平丹波守 下屋敷の中間 部屋で、博打に興じていた伝助という男。土間に敷かれた茣 蓙 の上に、いきなり突っ伏した。 壺振りを囲んで丁半を張っていた博徒たちが、一斉に狼狽 える。伝助の口から、寒椿の花びらのように血が鮮やかに散った。 「ちっ、労咳 病みかい? 仕方ねえな、こんなところで倒れられちゃ、迷惑千万だ。さっき来たばかりだから、まだ銭を持ってんだろう。おい、金次、佐七、こやつを医者へ運んどけ」 中間頭で胴元の勘兵衛が、近くにいた小者たちを振り返った。 金次、佐七と名指しされた二人は、あからさまに嫌な顔をした。 二人は大の博打好き。共に今日は馬鹿にツイていた。しかも、この半刻は博打の神が降りてきたかのようなツキ具合。このまま勝ち続ければ、今宵は吉原に繰り出して、若いのから妖艶な年増まで、選り取りみどりの遊び放題だったかもしれない。 しかし、頭の命令ではやむを得ない。というより、逆らったら、二人とも半殺しの目に遭うのは明らかだ。 二人は伝助を抱き起こし、大柄な佐七が伝助を背負った。金次がそれに続く。外に出ると、日が西に傾き、凩が吹き荒んでいた。 「うう、寒。兄貴ぃ、なんの因果で、あっしら、こんな目に遭わなくちゃいけないんですかねえ」 十月の寒風をまともに受け、落とし紙をくしゃくしゃにしたような情けない顔で、佐七は愚痴をこぼした。 「俺様の一分が十両になろうかって瀬戸際に、この阿呆が血なんか吐きやがるから。てめえなんか、さっさとくたばっちめえ」 金次は下がり気味の眉を大げさにしかめ、佐七の背におぶさった伝助を小突いた。垂れ目と共に、眉は金次の面 を強面 とは言い難いものにしていた。それを気にして、金次はなるべく凄みのある顔つきを演出しようとするが、未だかつてうまくいった試しはなかった。 「なんだい、兄貴、福笑いのおかめさんみたいな顔して。笑ってる場合じゃないですぜ。だが、兄貴の言うことはもっともだ。あと半刻も賭場に座ってりゃ、あっしの一分だって、十両、いや二十両になったかもしれねえ」 佐七は、悔しそうに伝助の尻を思いきり抓 った。 「ああ……、痛い」 伝助が小さな声を上げた。顔は青ざめ、吐いた血が口の端にべったりとこびり付いて、すさまじいほどの形相だ。 金次は、今にもぽっくり逝きそうな伝助を気味悪そうに見遣る。しかし、すぐに何か思いついたらしい。いそいそ佐七の前へ回った。 「今、元手の一分が二十両になったかもしれねえって言ったな」 佐七のくたびれた小袖の胸を、金次は、とんと押した。押した感触では、五、六両は懐に隠し持っているようだ。 「両手が塞がってるからって、気安く叩かないでくださいよ。ああ、確かに言いましたよ。だって、今日の調子じゃ、賭場で大きく張っていたあの旗本の三男坊や、今、あっしの背にいる伝助を、すっからかんのかんからかん、にできそうな勢いでしたからね」 佐七は自慢げに大きな鼻を膨らませ、ことさらに蠢 かす。 確かに今日は、左七のほうが金次よりもさらにツイていた。 賭場には、仕官のあてもない部屋住みの武士や、店の売上げをちょろまかして種銭にする小店の番頭など、小金を懐にしのばせた連中が集まってくる。 彼らの懐中の一部でも自分の懐に移し変えることができれば、今まで負けが込んでいた佐七などは、借金をきれいさっぱり返す算段がつくのだ。 おちこちから吹いてくる北風に、小間物屋の掛け看板が、はったはった、と揺れている。 金次は看板がくるくると旋回する様子を眺めていたが、出し抜けに「張った!」と大声で叫んだ。 「うおっ」佐七が飛び上がった。危うく伝助を落としそうになる。 「突然、大声なんか出してなんだい。いい加減、こんなところで油を売るのはやめにして、急いで医者へ行きましょうや」 佐七は大むくれの態 だった。重みを増してきた伝助を医者へぶち込んで、佐七は早く賭場へ戻りたいのだ。医者霊岸寺 の門前に庵を構えているが、大名屋敷の塀が連なる道を通って、あと二町は歩かねばならない。それなのに金次ときたら、さっきから佐七の足を鈍らすような真似ばかりする。 けれど金次は、佐七の怒りなどどこ吹く風。いわくありげに顎を撫でている。 「なあ、伝助を医者に担ぎ込んだとして、その後、賭場に戻っても、あらかた勝負はついているんじゃねえかい?」 「まあな、行って戻って半刻はゆうにかかる。ただでさえ負けが込んでたお侍様だ、ことによると、今頃身ぐるみ剥がれて、表に転がってるかもしれねえ」 佐七は、悔しそうに歯噛みした。佐七は、目も鼻も口も大きいから、歯軋りすると、癋見面 のごとくふてぶてしい。 「だろ? だからあそこは諦めて、別に勝負をしようじゃねえか」 金次が、佐七の顔を覗き込んで、いひひと笑った。 「そ、そんな勝負があるのかい。こりゃあ、いいや。して、その勝負ってのは、い、いったい、どこでやってんですかい?」 寒さと興奮で吃りながら、佐七が聞いた。 「ここよ」 金次は顎をしゃくった。視線が伝助のほうを向いている。 「へっ?」 「こいつが生きるか、死ぬか。それを賭けようじゃねえか」 「あっしと兄貴でかい?」 「あったりめえよ、他に誰がいるんだ。俺とおめえ、お互い、ありったけの持ち金を賭けるんだよ」 佐七は、首を回して、こわごわ背後の様子を探った。 ちらりと見えた伝助の顔は、青白いを通り越して、蝋のような白さだ。背に伝わる体の温もりは、どんどん失われ、まるで木 偶 を背負っているようだった。 金次が厳かな声で宣言した。 「このまま生きているなら『丁』。死んだら『半』だ」 佐七は、ごくりと生唾を呑んだ。 「よっ、よし。こいつ、顔に死相が出てる。だから、シソウの半ってことで、あっしは半に賭けさしてもらいます」 丁半は、二つの賽子 の目の合計が偶数だったら「丁」、奇数だったら「半」である。シソウの半とは、出た目が四と三の場合だ。 「佐七よ、そりゃ駄目だ」 金次が慌てて遮った。 佐七が「何でですかい?」と憤った。「兄貴が勝負しようって言ったんじゃないか。だからあっしは『半』と張ったまでだ」 「ああ、勝負しようと言ったさ。だがな、俺も『半』だ」 「兄貴も『半』、ってえことは……」 「賭けにならんてことよ」 「……」佐七は高揚していた自分が、急速に冷めていくのを感じた。 「いや、ちと待て。いいことを思いついたぞ、おい!」 ひょいと背伸びをすると、金次が伝助に呼び掛けた。だが、ずっと目を閉じたままの伝助は気づかない。金次は飛び上がると、伝助の頭をてかんと叩いた。 「こいつは賭場に来て、すぐに血ぃ吐いただろ? 中間頭が薬代の高い医者へ担ぎ込めと言ったのは、まだ懐にたんまり金を持ってるからだ。だからよ、俺ら、この伝助と勝負するってのはどうだ?」 「おお、そりゃあいい。兄貴とあっしがシソウの半で、こいつは死にたくねえだろうから、丁ってわけですね」 佐七の中で、気分がまた高まり出した。 耳元で、小者二人が騒いでいるのにようやく気づいたのだろう。伝助が口だけを開き、おろおろと小さな声で訴えた。 「勘弁しておくんなさい。あたしは、もう賭けをする元気はない」 「うるせえ! ここまで運んできてやっただけでも、俺たちに感謝すべきところだ。それとも、えっ、賭けが嫌だってのか? だったら、今すぐおめえを放り出してやらあ」 「そんな殺生な……」 伝助は、小さく首を横に振った。 「兄貴の言うとおりだ。勝負しないなら、川へ放り込んでやるぞ」 佐七も勢い込んで捲し立てた。今、歩いている道は、左手に大名屋敷の築地塀、右手には小 名 木 川が流れている。脅しをかけるように、佐七は伝助を左右に大きく揺さぶった。 「あ…ああ、堪忍して。わかりました……、あたしだって、まだ生きていとうございます。丁に十両張らしてもらいましょう」 伝助は、小名木川を越えた先にある呉服屋の手代。手代ごときがどう工面したのか知らぬが、懐中に十両もの大金を隠している。 「十両! 伝助さんよ。あんた、ずいぶんなお大尽様じゃないか。そんなら、俺は、半に五両張るとしようか」 金次が、胸を叩いた。 「じゃ、あっしは、半に三両で」佐七が控えめに腰を屈めた。 「ふざけんじゃねえ! 伝助さんが十両お張りになってんだ。でもって俺が五両。そうなりゃおめえも五両に決まってんだろうが!」 「ええ? 五両も? じゃ、あと一両しか残らないじゃあねえか」 佐七が泣き言を漏らす。 「いーや、一両も残らねえよ」 「えっ?」 口をぽかんと開けたまま、佐七が金次の顔を見詰めた。 「俺は、手持ちが四両しかねえんだ。おめえの一両を貸しときな」 賭けは成立した。一行は、再び霊岸寺の門前町へ歩を進めた。 「おや? こんな場所に、医者がいたっけかな?」 霊岸寺へ行くには、海辺大工町のあたりを左に折れなければならない。佐七より、一足先に角を曲がった金次が、訝しそうに言った。 「おや、ほんとだ。海辺大工町には、医者はいなかったはず。こりゃ、庵を構えたばかりと見える。兄貴、医者なんてどこも同じようなもの。伝助をここにぶち込んでしまいましょうや」 佐七は、思いのほか近くに医者がいたせいで気が緩んだのか、一歩たりとも歩く気がなくなったらしい。「薬師川 萩杜博 」と墨書された看板の前から動こうとしない。 「そうだな、風も強くなってきたことだし、ここに担ぎ込んで、こいつがすぐ死ぬのかどうか、診立ててもらうとしよう」 金次が戸口を開け、庵の中へ声をかけた。 「病人を一人担いできたんだが、診てやってくれませんかね」 すると、戸口へ背を向けて座っていた男が振り返った。 「そりゃあ大儀な。さっ、早くこっちへ連れていらっしゃい」 その男が医者のようだ。恰幅のいい体に黒い十徳を羽織っている。 金次と佐七は、これ幸いと土間から座敷へ上がり込む。二人で協力して、医者の前に敷かれた蒲団の上に、伝助を横たえた。 医者は、まず伝助の口にこびり付いた血を、懐紙でぬぐい、締めていた帯を緩める。 座敷は病人を診立てる部屋で、種々の薬をしまった抽斗 や、鉄瓶がのった火鉢が置かれている。隣室とを隔てる襖の鴨居には、何やら書き付けた紙が三枚、並んで貼られていた。 「おやっ」伝助を下ろし、一息ついた佐七が、周囲を見回して驚いたような声を出した。「先客がいらあ」 佐七の声に、金次もすかさず左右に視線を走らす。座敷の隅に敷かれた座布団の上に、男と女が座っていた。 医者に来ているのだから当然だが、男も女も具合が悪そうだ。伝助ほどでないにしても、二人とも顔色が悪く、女のほうは脇腹を手で押さえ、蹲 っている。 「先生……、わたしゃもう胸が苦しくていかん。お願いだから、早く診てくださいよ」 男のほうが、息を荒くして訴える。仕立てのいい羽織を着ていて、お店の番頭といった風情だ。傍らに小僧が控えていた。 すると、唐桟 の小袖を着た女が眉を顰 めて男にくってかかった。 「わっしが先に来たんだ。こっちを先に診るのが筋ってもんじゃないか。さっきから腹が差し込んで死にそうなんだよ」 女は、ことさらに脇腹を強く押さえ、医者に働きかけた。女は近くの深川で働く芸者なのだろう。半玉 らしき若い娘が、これまた女に付き添っていた。 病人二人が言い争っているのを、金次と佐七は呆気にとられて聞いていた。伝助を診てもらうには、先に来ていた二人の診察が終わるまで待たねばならないらしい。だとすると、相当の時間がかかる。 金次と佐七は顔を見合わせた。 有り金はたいて大勝負しているのだ。伝助は死ぬのか、はたまた生きるのか。早いとこ医者に断定してもらわねばならない。その結果、死ぬとわかったら、まだ息があろうと、伝助の懐から十両、いや胴巻きごとすべて掠め取ろうと、金次は密かに企んでいた。 「おいおい、さっきから聞いてりゃ、好き勝手ぬかしやがって」 下がった眉が間抜けに見えないよう傾きを十分に加減しながら、金次は男女を睨みつけた。 「ここにいる伝助さんが最初に決まってんだろう。見てみろ、こうやって横になっていたって、目も開けられねえほど弱ってんだ。それに引き換え、おめえらは、まだ座ってられるじゃねえか」 男も女も、金次の剣幕に一瞬たじろいだ。だが、おとなしく引き下がるわけにはいかない。男には商売があったし、女には夜からの座敷が待っていた。 「杜博先生、わたしを一番に診てくれれば、お代をたんと弾みましょう。診立てのお代の他に一両でどうです?」 男が、手で押さえていた胸元から財布を取り出した。 「一両? ほほう、それは豪儀なこと。わしは何も薬礼の多少で、診立ての順を決めているわけではないのじゃがな、うほっほ」 医者は遠慮している振りをして、実に意地汚い笑い声を立てた。 束髪にした医者は、顔に深く刻まれた皺のせいで、長く医術を学んできた名医にも見える。ただ、十徳の下から覗く小袖の質の良さといい、庵の立派さといい、かなり内証は豊かであるらしい。たぶん、長年、金持ち相手の治療に勤しんできた結果なのだろう。 「お金で診立ての順を買おうなんて忌々しい奴だ。わっしは一両なんて持ち合わせはないけど、江戸の水で磨きぬかれたこの体がある。先に診てくれたら、わっしを先生の好きにしていいからさぁ」 芸者が痛みに耐えながら、艶かしく身をくねらせた。色仕掛けで、診療の順を先にしてもらおうという魂胆だ。 すると、杜博先生、にたぁりとだらしなく口元を綻ばせた。 「わしはもう爺じゃからなあ、そっちのほうは、よしておるんじゃ。だが、あんたは、なかなかいい肌をしておる。こんな寒い夜に添い寝してもらうにはいいかもしれんの。うほほっ」 と、気のない振りをして、なんともしまりのない笑い声を立てる。見かけは還暦に手が届いていそうな風貌だが、なんのなんの、金だけでなく、色も嫌いではないようだ。 杜博先生の態度がはっきりしないので、金次の後ろに控えていた佐七の堪忍袋の緒がとうとう切れた。 「やい、あんた曲がりなりにも医者だろう。金や色につられて重病人を放っておくとは、人倫にももとる仕打ちじゃねえかい。えっ、そんなことないって? だったら、伝助から診ておくれよ」 「困ったな。わしは三人のうち一人しか助けられないのじゃ」 三方からせがまれ、杜博先生は、妙なことを言い出した。蓬髪の頭の後ろを掻きながら、対処に苦しんでいるような表情を見せる。 番頭が、不快の念を露わにして詰め寄った。 「私たちは診る順番を決めてもらいたいだけ。先生は医者なんだから、全員を治すのが筋だろう」 「そうだそうだ」 金次と佐七が、声を揃えて番頭に同意した。 「わしゃ、医者の看板を掲げているがの、実は医者ではないのだ」 「えっ!」「はっ?」「何?」 番頭も加わったいくつもの驚愕の声が、広い座敷に響き渡った。女などは声を発したはいいが、そのまま思考が止まってしまったらしい。ぽけっと口を開けたまま身じろぎもしない。 「わしは死神なのじゃ」 「しっ、死神ぃ?」喉を引き攣らせ、番頭が息を吸い込んだ。「何で死神が医者の真似なんか」 「はは、近頃、太っちまったせいで、死にそうな人間のそばに赴くのが億劫になってな。こうやって開業して、死にそうな者のほうから来てもらって手間を省いておるのじゃ」 杜博先生こと死神は、ふっくらとした手で、太鼓腹を叩いた。ぽんっ、と景気のいい音が響く。音に呼応するように死神は視線を上方に転じた。鴨居から半紙大の紙が下がっていた。 「ほれ、そこの三枚の紙を、よくご覧」 一同は紙を注意深く眺めた。それぞれの紙には、あまり達者ではない字で〈常盤町 酒屋伊勢屋の番頭 政吉〉〈海辺大工町 芸者お万〉〈林町 呉服蓬莱屋の手代 伝助〉と記されていた。 「こ、これはどういう意味で?」 番頭が震える声で、死神に問うた。 「見てのとおりじゃ。天界からのお達しで、今日はこの三人が三途の川を渡る予定になっておる」 「冗談じゃないよ! やっといい旦那がつきそうなところだってのに、わっしは、まだ死にたくなんかないんだ。ううっ」 芸者は差し込みがきつくなったのか、腹を押さえて呻 いた。 「私だって、主人から暖簾分けの話が出る時分。今死んだらこれまで身を粉にして働いてきた苦労が水の泡だ。うっ、く、苦しい」 と、政吉もだしぬけに胸を掻き毟 った。顔が、みるみるうちに土くれのような色に変わる。 しかし死神は、患者の急変にいささかも慌てるところがない。患者の運命は手の内にあるとばかりに、寛いだ様子で胡坐 をかいた。 「まあまあ、そう騒ぐでない。確かに、死人を迎えにいかず、神様のくせに労苦を惜しんでいるという批判があるのは、わしもよおく知っておる。だから、せめてもの罪滅ぼしに、死人として選ばれた者のうち、一人だけは助けてやることにしたのじゃ。何せ、医者という看板を掲げている都合上、あまり死人ばかりが出ると、『藪』と呼ばれかねないのでな」 昨今の政道と同じく、天界でも職務怠慢の傾向があるようだ。生死の境目にある三人を前に、死神は腕組みをして考えている。 「今日の三人には、死なせるような恨みもなければ、助けなければならない義理もない。ふうむ、弱ったな、どうするか」 「せ、先生、わっしを助けてくれたら、一生、先生のそばで寝てあげるよ。こう見えて炊事や洗濯も上手なんだ。先生の身の回りの世話だって喜んでする。だから……お願い、わっしを助けて」 芸者が、荒い息を吐きながら懇願した。 すると一方で、政吉が掻き毟っていた胸から胴へと手を移した。 「一両などという端 た金で先生に診ていただこうなんて、失礼しました。実は、私めは掛取りの帰りでございます。この胴巻きには十五両入っている。それをすべてここへ置いてまいります。なあに、命あっての奉公。幸いうちの主人は話のわかるお人だ。後できっちり働いて返せばいい。ですから、どうか私を助けてくださいまし」 「ひょひょっ! 十五両は、助けねばならぬ立派な義理になるな」 政吉の申し出を聞いた死神は、思わず腰を浮かせた。〈地獄の沙汰も金次第〉と言うが、地獄に行く前から金次第の有様では、将軍様でもないかぎり、天国へ行くのはおろか、長生きもできない。 「だが、待て。もう一人、心意を聞いてない者がいるでな」 死神は、目の前に横たわる伝助に目を落とした。 しかし、伝助はすでに虫の息。周囲で繰り広げられる命乞いも耳に入っていないのか、目を閉じてそこにいるのみだった。 「ほっといても長くないな。そこの二人、伝助はどうする?」 死神に声を掛けられて、金次と佐七は竦 み上がった。 医者の庵だと思って駆け込んだものの、相手は死神であった。伝助を置きざりにして逃げようにも、死神は戸口を背にして座っている。逃げる前に止められるに決まっていた。 それに、伝助の懐にある十両も、二人を踏みとどまらせる要因だった。置きざりにすれば、伝助の金は、死神のものになってしまう。二人にとって十両は、諦めるには惜しい大金だった。 「話を聞いてりゃ、三人のうち一人しか生きられない。つまり残りの二人は死ぬ。ってことは、もし十五両の大枚を投げ出す番頭さんを助けるなら、伝助は間違いなく死ぬってことですよね?」 金次は、いちいち確認するように死神の顔を見た。 「そうなるな。お前さん方が十五両よりも多く薬礼を置いていくってんなら、話は別だが」 死神の返事に、金次は真っ平御免というように首を振った。 「死ぬとわかったんなら、先生のお手を煩わせるまでもありませんや。とっとと伝助を引き取って帰りやす」 「死ぬなら、ここにほっぽらかしていきゃあ、いいじゃねえすか」 佐七が、不満そうに金次の耳元で囁いた。とっぷり日の暮れた冬空の下、伝助をまた背負って帰るのは、断固として拒みたかった。 「馬鹿め。死ぬとわかってるなら、賭けは俺たちの勝ちだ。有り金だけ掻っ攫い、伝助は小名木川に放り込んでおきゃあいいさ」 「なるほど、さすが兄貴、頭がいいな。じゃ、先生、どうぞ番頭でも芸者でも、好きなほうを助けてやっておくんなせえ」 と、佐七が、伝助の体を担ごうとした時だ。 「ちょっと……待っておくんなさい」 伝助が最後の力を振り絞って、口を開いた。 「聞けば十五両で命が買えるとのこと。でも、あたしは今、持ち合わせが十両しかありません」 「十両しかないのに命乞いとはずうずうしい。助かるのは十五両出すこの私だ。お前はとっとと地獄に行け。さっ、先生、早く薬を」 番頭が死神に躙 り寄った。 伝助は消え入りそうな声で、それでも必死になって訴える。 「違うんです。今は十両しかありませんが……あたしを助けていただければ、二十両差し上げます……」 「ほう、二十両。しかし、わしは、掛売りはしないぞ」 金額を聞いて、死神は目を光らせた。 「あたしは金次と佐七と賭けをしております。あたしが死んだら半、生きてたら丁。あたしは丁に十両、二人は半に五両ずつ張りました。死神様が助けてくだされば、十両が転がり込むって寸法です。そうなったら持ち金と合わせ二十両、耳をそろえてお払いしましょう」 その途端、唸っていた番頭と芸者が、ひいっと息を呑み絶命した。 「番頭さん!」と叫んで、小僧が息絶えた政吉の体を揺する。 その傍らで、半玉が「姉さん、死なないで」と泣き崩れた。 と同時に、伝助の両目が、かっと開いた。命の炎を宿した伝助の目は、さながら賽の目の「一」のごときである。 「ピンゾロの丁……」 金次が身震いした。「一」の目が揃うことを「ピンゾロ」という。 気づけば、三枚の半紙のうち二枚が落ち、畳の上でうつ伏せになって死んだ、男女の上に掛かっている。 外を吹き荒れる凩が、庵の戸を、かったかった、と鳴らした。 「さあ、兄さん方、あたしは、ぴんぴん生きておりますよ。約束通り、十両を頂きましょうか」 伝助が口の片端をねじ曲げて言った。とてもさっきまで死にかけていた男とは思えぬ、やけにドスの利いた声だ。 「何言いやがる、そんな約束をした覚えはねえ」 金次は後ずさりを始めた。せっかく儲けた懐の四両。やすやすと渡すわけにはいかない。 「約束を反故にするってぇのか。これは文字通り生死を賭けた真剣勝負。なかったことにするなら、こちとらも考えがある。先生、そいじゃ薬礼の代わりに、この大騙りたちの命を差し上げましょう」 「そりゃいい。冥土へ持っていく命が多ければ、わしの株も上がり、昇進も早まる。どれ、金の代わりに命を頂戴するとしようかの」 死神が右手を上げると、鴨居に新たに二枚の紙が下がった。 〈島崎町 博徒 金次〉〈同 佐七〉 今さっき死んだ男女の骸を横目に、金次と佐七は震え上がった。 「済まねえ、この通りだ。命だけは助けてくれい」 金次は懐から小判を出すと、畳の上へ放り投げた。 「兄貴の四両とあっしの六両の合わせて十両。これでご勘弁を」 佐七もおずおずと山吹を差し出す。と同時に、二人揃って尻を端折ると、入って来た戸口から一目散に逃げ出した。 「ふむ、命二つと十両の身入りか。まあまあだな」 死神が散らばった小判を拾い集めながらひとりごちた。 「えげつないねえ。そもそも何で神様に銭が必要なんですかい?」 死神を前に、伝助は煙管をふかし始めた。 「わしの上司や、仏様や閻魔様が銭を欲しがるのだ。銭があれば、好きな時にお忍びで下界に降り、旨いものをたらふく食ったり、吉原で別嬪を侍らしたりできるからのう」 「それじゃ、この十両はみーんな神様、仏様、閻魔様の袖の下へ」 伝助が目を瞠る。儲かったのは死神ではなく、その上に鎮座ましますお偉いさん方だった。 「左様。死神であり続けるには鑑札を貰わねばならぬ。それには金がないと埒が明かないのじゃ。博打の元手に渡した十両。半分はお前が受け取ってよい。が、残りの五両は当然上へ返さねばならん」 疲れた顔で死神がぼやいた。神にも階級があって、下級の神は上級の神になるために、せっせと賄賂を使わねばならないらしい。 「それにしても、今日はうまくいきやしたね。医者に行かないで十両ふんだくってしまえば儲かるものを、あいつらはとりわけ博打好きだからね、何でも勝負をしたがる。ああいう単純な奴らがごろごろ居てくれりゃ、こっちも仕事がやりやすいんだがなあ」 博打よりも、鉄火場でいい鴨を探したほうが伝助は儲かるのだ。 「お前の働きのおかげで、わしも死神の職に居続けられるのじゃ。これからもよろしく頼むぞ」 「へえへえ、神様の手伝いをしてるんだから、あたしが死ぬ時には必ず極楽へ送ってくださいよ。ところで、あいつらを脅すために貼った紙はどうします? 外しておきましょうかい?」 伝助が、紙の下がった鴨居を指差した。 「面倒だからそのままにしておけ。あれは明日の分にする」 死神は太鼓腹を揺らして横になり、豪快な鼾 をかき出した。 (了)
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