五月は薄闇の内に─耕書堂奇談 風花千里
第二話 冩樂の大首絵(中) 九 「あら、京伝さん。どうしたのさ、こんな時分に」 女房のお芳が小娘のような甘ったるい嬌声を上げた。 珍しく家族揃っての夕餉のさなか、洒落た絽の単を着こなした京伝が耕書堂の母屋の台所へ顔を出した。 改革のお触れで、庶民は木綿の着物しか認められなくなったが、京伝は夜になると、こっそり絹や絽の着物を身にまとい、外へ出る。 「どうしたって、お宅の主人が俺の家へ使いを寄越したんだよ」 京伝が八つになる末娘の隣へ座を占める。八つの娘でも女は女。箸を持ったまま、京伝の横顔をぽーっと見つめているのが忌々しい。 「あらあら、うちの人が呼びつけたんですか」 お芳は大仰に驚いたふりをしながら、蔦重を咎めるように目をくれる。大方、京伝が来るなら念入りに化粧でもしておけばよかったと、考えているに違いない。 うるせえ、このお多福が、と叫びそうになるのをこらえ、蔦重は、こほっ、と咳払いをした。 「確かに呼んだ。だが、ちと早くないか」 蔦重は家長の威厳を保ちつつ、短く答えた。 「飯時を狙ったわけじゃねえんだが、今にも雨が降りそうだったんで、慌てて出てきたんだ。案の定、途中で降ってきちまったよ」 京伝の着物は薄い白茶だったので、すぐには気づかなかったが、肩や袖のあちこちが濡れて色が変わっていた。 「今日は朝から曇っていたから、いつ降るかと思ってたら、今頃になって降り出したんだね。まあ、こんなに濡れなさって、冷えて風邪でも引いたら大変だ。お鈴、すぐに乾いた手拭いを何枚か持っといで」 お芳は給仕をしていた下働きの娘に命じる。 お鈴が厨の棚から取ってきた手拭いを引ったくるように奪い取ると、まるで赤子の肌を撫でるような丁寧さで、京伝の着物に着いた雨の雫を拭き取った。 「もういいよ。てえした着物じゃねえから」 京伝はお芳から手拭いを貰うと、薄衣の上から無造作にごしごし擦った。 (贅沢品の絽を着てきたくせに、たいした着物じゃねえだと。ちぇ、嫌みにもほどがあるぜ) 蔦重は腹の中でぶつくさ呟くが、口には出さなかった。出したが最後、女共から鼻摘みに遭う。 お芳はしばらく京伝の仕草を見ていたが、ふと思いついたように口を開いた。 「京伝さんは、もう夕飯を済ませてきたのかい」 「いや、出掛ける寸前まで人と打ち合わせをしていたから、飯は後回しにしたんだ」 京伝は銀座に喫煙具と煙草の店を開いている。洒落者ゆえの感性を生かし、煙草入れなどの意匠も自ら考える京伝の店は、粋人を気取る世の男女に大人気だ。おそらく今日は出入りの業者と打ち合わせをしていたに違いない。 「それじゃお腹が減ってるでしょうよ。今、お膳を調えるから一緒に食べていきなさいな」 お芳は嬉々として立ち上がると、厨の奥へ入っていく。すぐに恭しく膳を掲げて戻ってきた。 「舌の肥えた京伝さんの口に合うかわからないけど、よかったらどうぞ」 と、京伝の前に据えた膳の上には、様々な御菜を盛った皿や小鉢が並んでいる。ひい、ふう、みい……何度数えても蔦重の膳より品数が多い。しかも、一家の主人にはついてないのに、京伝には一合徳利までついていた。 京伝はお芳の酌を受けると、 「これは豪勢な。それじゃ、遠慮なくいただきましょう」 と宣言し、無邪気に箸を取った。 好物を前にした子どものように目を輝かせる京伝を見て、お芳は目を細めた。 「お菊さんを亡くして、さぞかし不自由な暮らしをしているんじゃないかい。もっと遠慮せずに、うちにご飯を食べにきなさいよ」 「そりゃ、ありがてえけど、そうそう甘えてばかりもいられねえから」 京伝は蔦重の大嫌いな冬瓜の煮付けを上品に口に運んでいる。 寛政の色男と名高い京伝は、四年前、吉原の遊女、菊園を妻に迎えた。菊園が年季を勤め上げた後だった。 菊園は遊里勤めだったとは思えぬほど気質はおとなしく正直者で、様々な芸事をこなす才色を兼ね備えた女だった。 京伝は著書の中でも、遊女を妻にした事実を、大々的に世間に公表、いや、のろけた。 妻を娶った後は、すっぱり廓遊びもやめ、菊園との生活を楽しんだというから、 色男らしからぬ身の処し方だと、仲間内でも話題となったものだ。 その菊園が昨年病に倒れ、ほどなく世を去った。最愛の妻の死に、京伝は悲嘆に暮れた。 以降、ほとんど絵を描かなくなり、戯作を物さなくなった。家に引きこもりがちになっていたが、それは京伝なりの喪の服し方であった。 つらつらと京伝の身の上について考えていると、蔦重の目に思い掛けないものが飛び込んできた。京伝が手にした小鉢の中身だ。 「おい、俺には何で小海老の佃煮がついてねえんだ」 蔦重は声を尖らせた。 小海老の佃煮は大好物だ。いつもたくさん買っておいて好きな時に食べるのだが、膳の上にはなかったから、今日は切らしているのかと思っていた。 「ああ、お前さんはまだ野菜の御菜がたくさん残っているじゃないか。野菜を食べないと佃煮は出さないよ」 お芳が澄ました顔で、茶を注いで寄越した。京伝には酒、亭主には茶だ。 「俺は佃煮なんかより、この冬瓜の煮物のほうがずっと好きだな。薄味で上品な風味だ」 京伝がお芳の料理を褒め、姉に甘える弟のような上目遣いで微笑んだ。 蔦重は嫌な予感に駆られる。 「んまあ、磯屋の佃煮より俺の煮た冬瓜のほうが美味しいですって。ほーら、ごらん、やっぱり京伝さんは味のわかる男だよ」 お芳はそっくり返って蔦重を一瞥する。 「ねえ、京伝さん、聞いておくれよ。この人ったらさ、どんなに手の込んだ野菜の料理を出しても、まったく手をつけないんだよ。体のために野菜を食べなきゃいけないって、青庵先生にも言われてるのに。いったいどうしたら食べさせられるだろう」 お芳はしなだれ掛からんばかりに、京伝に意見を求めた。 十 「蔦重は相変わらず野菜を食べねえのか。仕様のねえ男だな。そんなんだから痛風も脚気も、よくならねえんだ」 京伝は眉をそびやかし、説教を垂れた。 「うるせえ。俺が野菜嫌いなのは、端から知ってるくせに、お芳に肩入れしてんじゃねえよ」 蔦重は本気でむくれた。お芳が京伝を抱き込んで、夫を改心させようと画策する様子が腹立たしい。 すると、京伝はお芳を振り返り、聞こえよがしに言った。 「お宅の主人は天邪鬼 だから、真っ向から意見したって駄目だね。本人がどうしても野菜を食べざるを得ない方向へ持っていかねえと」 お芳は、まさにその通りとばかりに、何度も頷く。後で京伝と仲良く一緒に策を練れるとでも考えているのかもしれない。 (面白くねえ、面白くねえ、面白くねえぞ) 蔦重は心の中で叫び倒す。浮かれすぎのお芳をきつく睨 めつけると、勢いよく立った。 (痛 っ) 左の足先が、じん、と痛んだ。 「おや、どこへ行くんだ」 京伝が歩き出す蔦重を目で追っている。 「店だ」 蔦重はぶっきらぼうに答えて、台所を出る。客座敷の横を通り抜け、一枚の戸の前に立った。開ければ、店と母屋を繋ぐ渡り廊下へつながる。 後ろから小走りに駆けてくる足音がする。後ろを向きかけた時、少し高めの艶のある声が飛んできた。 「店に行くなら、早く言えよ。慌てちまったじゃねえか」 京伝が自前の手拭いで口元を拭いながら、追いかけてきた。手拭いが湿り気を帯びている。先ほどお芳が渡した手拭いで濡れた着物を拭いていたが、耕書堂に着く前に自分でも水滴を取っていたらしい。 「いつ行こうと、俺の勝手だろ。おめぇは台所で、女子供と遊んでりゃいい」 「俺は、飯を食いにここに来た訳じゃねえ。使いを寄越したところをみると、何か俺に用事があったんじゃねえのかい」 京伝は蔦重に追いつくと、板戸に手を掛けた。 ぎぎ、と戸を引くと、渡り廊下が伸びている。 「例の寫樂の絵の件だ。早いとこ噂の真偽を確かめねえと、先へ進まねえんだ」 蔦重は廊下へ一歩を踏み出しながら答えた。 「えっ、何だって。入れ歯を外した爺 ぃみてえに、もぐもぐ喋るんじゃねえよ。雨音がうるさくて聞こえやしねえ」 京伝が耳元で騒ぐ。 渡り廊下は屋根こそついていたが、壁はなかった。土砂降りの雨の音がもろに聞こえ、人声を掻き消してしまう。 「顔が伸び縮みする絵のことだよ。二人で確かめようと言ったのは、おめぇじゃねえか」 雨音に負けぬよう、蔦重は声を張り上げた。 「件の絵は蔦重のところに置いてあるはずじゃねえか。急ぐなら自分で確かめればいいだろ」 「文箱に入れてあるんだが、なかなか開けて見る機会がなくて……」 蔦重は口籠った。京伝の言う通り、確かめたければ、先に一人で絵と向き合う手もあった。 「ははーん」手燭のわずかな灯りの中で、京伝が目をがっと見開き、口の端を思いきり引き上げた不気味な笑いを見せた。 「さては、一人で見るのが怖いんだろう。本当に顔が縮んだとしたら、馬面に描かれた役者の怨念が絵に取り憑いたのかもしれねえもんな。可哀相に、蔦重さんは、またしても憎まれ役になっちまったわけだ」 京伝が言う「憎まれ役」とは、五年前の歌麿の肉筆画にまつわる怪異に、端を発していた。 蔦重は間接的に女敵討の手助けをしたせいで、殺された吉原の遊女の怨みを買い、さまざまな怪異に悩まされた。 実際は京伝が種明かしをして、怪異は明確に説明のつく現象であることが判明したが、蔦重はそれでも遊女の怨念がさせた業という疑いを捨ててはいなかった。 「ふん、描いたのは冩樂であって、俺じゃねえ」 「そうか? 冩樂の筆であっても、売り出したのは耕書堂だぜ。冩樂は無名の絵師だ。蔦重が委細承知していたのだと、誰もが考える。あんたが役者に怨まれたって、誰もおかしいとは思わねえさ」 京伝が物騒な台詞を吐いた。 十一 蔦重と京伝は、店一階の奥にある小座敷に腰を落ち着けた。蔦重は行灯に火を入れ、ぐるりと室内を見渡した。 小座敷には耕書堂から売り出され、評判になった浮世絵の数々が所狭しと飾ってある。中には冩樂の絵もあったが、『三世市川八百蔵の田辺文蔵』ほか、それなりに売れた数枚しかなかった。 件の女形二人の絵はお世辞にも売れたとは言えないので、壁面には飾っていない。 「あの絵はどこだ」 京伝が早くも煙管に煙草を詰めながら、蔦重に聞いた。 「文机の後ろに棚があるだろ。そこに大きめの文箱が置いてあるはず。その中だ」 蔦重が返事をすると、京伝は煙管を置いて立って行き、大事そうに箱を抱えて戻ってきた。 「本当に一度も中を見てねえのか」 京伝が意地悪な視線を送ってくる。 「ああ、近頃いろいろと忙しくてな。見る暇がなかった」 蔦重は目を合わせぬよう、そっぽを向いた。 京伝はさらに追及したいようだったが、箱の中身のほうが気になったらしい。いそいそと畳の上に置くと、そっと箱の蓋を開けた。 「わっ」と京伝が大きな声で喚く。 その声に魂消た蔦重は後ろに倒れ、尻餅をついてしまった。 「何でぇ……、何が起こったんだ」 「いや、冩樂の絵は描かれた時とこれっぽっちも変わってねえ。意外だなと驚いただけだ」 「変化がないのに、妙な声を出して脅かすんじゃねえよ」 「だって、見ろよ。売り出した時と、役者の顔が寸分も変わらねえ」 京伝は箱を滑らせて、蔦重に中身を見せる。 「本当だ。冩樂が描いた、そのままだ」 蔦重はちらりと見ただけで、即断した。妙な因縁のある絵を、薄暗い室内で見るのは気持ちのいいものではない。すぐに目を逸らした。 しかし、京伝は違った。絵を取り出し、上下を逆さにしてみたり、行灯の光に透かしたりしている。そのうち箱に戻そうとして、少し考えたのち、畳に手拭いを敷いた。その上に絵を置く。 「変化がねえんじゃ、確かめようがねえな」 蔦重はすでに及び腰だった。冩樂の絵は薄闇で見ると、人の形を借りた妖怪の絵図のようだ。 「ふーん、亀屋の話は嘘だったのか。まあ、いい。少しこのまま様子を見よう」 京伝は気を取り直したように、煙管に火をつけた。 十二 座敷に来て四半刻、といった時分。 蔦重は出入口付近の行灯の傍に陣取って、次に耕書堂から出す黄表紙の内容を確認していた。 今すぐやらねばならぬ仕事ではない。しかし仕事をしている振りをすれば、堂々と行灯の近くにいられる。光があまり届かない位置で寫樂の絵と向き合うのは、どうしても嫌だった。 一方の京伝は、座敷の真ん中に置かれた絵の傍へ座り、煙草を一服喫み終わるたびに、変化がないか確かめていた。そのたびに落胆したように肩を落とす様子が、薄暗がりの内に見て取れた。 何度目かの落胆のあと、京伝は突然、立ち上がった。 「おおい、どうしたんだ」 京伝の不審な行動に、蔦重は不安が募る。京伝が行灯に向かって歩いてくる。顔に思い詰めたような表情が表れていた。 「厠に行ってくる」 京伝が心持ち、もじもじした足取りで、蔦重の前を通り過ぎようとする。思い詰めた顔をするはずだ。急に尿意を催し、切羽詰まった状況に陥っているのだろう。 「今、行かなきゃ駄目なのか」 慌てて京伝を引き留める。意地悪をして厠へ行かせないという気持ちもあったが、それより座敷に自分一人を残していってほしくなかった。 「いけねえか。お芳さんが勧め上手だから、思いのほか酒を過ごしちまったんだ」 蔦重は飲ませてもらえなかったが、京伝は徳利一本の酒を腹に収めている。蔦重より先に小便をしたくなるのは自然の理だった。 「早く戻ってこいよ」 蔦重は、つい本音を口走ってしまった。 「ああ、すぐ戻るが、俺が席を外す間、絵の変化をしっかり見守っておいてくれよ」 「俺が、か」 驚いて京伝の顔を見直した。 「当たりめえじゃねえか。怪異はいつ起こるかわからねえ。だから変化する機会を逃しちゃいけねえんだ。いいか、よーく見張ってろよ」 京伝は早口で言い付けると、小走りで厠へ向かった。 裏口を開け閉めする音がする。厠は裏口のすぐ側に設置されていた。 しんとした座敷の中で、蔦重は居心地の悪さを感じていた。 しかし、京伝に見張っておけと言い渡されたからには、呑気に行灯の傍で黄表紙を読んでいる場合ではなかった。あとで絵の番をしていなかったことがばれたら、どんな嫌味を浴びせられるかわからない。 「仕方ねえ、見てくるか」 蔦重は部屋の真ん中に移動した。 床に膝を突き、絵を覗き込んだ途端、後ろへ飛び退った。その瞬間、ぴきっと左足の骨に罅 が入ったような痛みが走る。 「うあぁぁ」 自分のものではないような悍しい悲鳴が、肚の底から噴き出した。 目と鼻の先にある役者の顔が、奇妙に縮んでいた。 武家の妻役の瀬川富三郎は、もともと長かった馬面の上下の寸が詰まり、むしろ役者本人の面影に近づいていた。 問題は、腰元若草を演じた無名の中村万世のほうだった。丸顔でふっくらした頬が、目刺しのごとく干からびたように痩 け、醜いほどに歪んでいる。 忠義者である様子を示す優しげな目も、今は左右共に歪 に変形して、蔦重の目を睨んでいる。これは断じて人の顔ではない。絵に宿った妖だ。 「おぉい、よせよ。何かの冗談だろ」 足元から迫り来る冷たい妖気を感じて、蔦重は室内の暗闇に向かって訴えた。 闇からは何の応答もない。妖しいものは姿を隠し、恐れ戦 く蔦重をどこからか嘲笑 っている。 蔦重は痛む足を押さえ、座敷から逃げ出そうともがいた。 怖さが理性を上回った。もう限界だった。京伝を待つ余裕はなかった。 けれども、見えない縄で雁字 搦 めにされているみたいに、体の自由が全く利かない。と思いきや、目だけは妖の宿った絵に無理やり引き寄せられる。 視線の先で、腰元の顔がさらに苦しげに歪んだ。まるで怨みを抱えて首を括った直後の人間のようだ。憎悪の念が表情から滲み出ている。 (なぜ俺を、そんな顔で見るのだ) 心の中で、誰にともなく問い掛ける。 刹那、蔦重は胸に焼き鏝を当てられたような猛烈な痛みに襲われた。 十三 「お前さん、しっかりしとくれよ」 蔦重は耳元で騒ぐお芳の声で目を覚ました。 目を開けた瞬間、覗き込んでいたお芳と視線が合う。 「よかった。気がついたのかい。まったく、お前さんって人は、いったいどこまで心配を掛ければ気が済むのさ」 言葉はきついが、お芳の眼は涙で潤んでいる。蔦重の腕を掴んで放さないお芳の手のぬくもりを袖越しに感じ、蔦重は少しだけ申し訳ない気持ちになった。 「俺は……どうしたんだ。急に胸が締めつけられたみてぇに痛くなって、そのまま、わけがわからなくなった」 うろうろと目を泳がせていると、 「店の座敷で倒れていたところを、京伝さんが見つけて、母屋へ運んだんだよ」 頭の上から青庵の野太い声が降ってくる。 青庵は五十がらみの医者で、声と同様、胸板の厚い堂々たる体躯の持ち主だ。色黒で、普段は暑苦しく見える風貌だが、非常時には、なぜか頼もしく映る。 「具合はどうだね」 青庵は胸ではなく、蔦重の鳩尾のあたりをさすった。 「座敷にいたときほどじゃねえが、きりきりと差し込むような痛みがまだある。先生、俺は心ノ臓をやられたのか」 近頃、患い始めた脚気は、悪くなると心ノ臓の働きが悪くなると聞く。 すると足元の方から、京伝のにやついた顔が近づいてきた。 「青庵先生の見立てじゃ、心ノ臓の痛みじゃねえそうだ。気を張りつめた結果の胃痛なんだとさ」 「でも、俺は確かに、胸がぎゅーっと締めつけられるような痛みを感じたぞ」 蔦重が反論すると、青庵は首を振った。 「心ノ臓と胃は近いから、突然、胃が傷つくと、胸の痛みと間違える場合も多いのだ」 青庵の説明を聞いて、蔦重は倒れる直前の光景を思い出した。中村万世の顔が醜く歪み、蔦重を睨みつけていた。 てっきり、驚いた衝撃で心ノ臓に負担が掛かったのかと思ったのだが、どうやら一人で怪異と向き合う緊張で胃が悲鳴を上げたらしい。 そこで、はっと気づいた。 京伝に寫樂の絵に起こった怪異を一刻も早く伝えねばならない。蔦重は勢いよく半身を起こした。 「うっ」鳩尾が引き攣れるような痛みが来た。 慌てて青庵が蔦重の上体を支えた。 「いきなり動いてはいかん。お芳さん、例のものを、すぐに持ってきなさい」 蔦重を布団に横たえ、お芳に命じる。 お芳は素早くどこかへ消えたかと思うと、すぐに戻ってきた。青庵と一言二言、何やら交わしている。 「熱さの加減もちょうどいいな。さあ、蔦重さん、あんたの好きな粥だ。食べさせてあげるから、口を開けなさい」 と、青庵は湯気の立った匙を蔦重の口元に近づけてきた。 なぜ胃の痛い今、粥を食べなければならないのか、さっぱり訳がわからなかったが、好物の粥と聞かされ、ひとりでに口が開いた。青庵の匙から粥が流し込まれる。 「ぐっ、ぐふぅ」 蔦重は粥を吹き出した。 摺り潰した青臭い豆の味や、鼻にすっと抜けるような不快な青菜の香りが、口の中いっぱいに広がっている。 「出すんじゃない。薬だと思って飲み込みなさい」 青庵が叱りつけ、さらに粥を口中に押し込んでくる。 蔦重が飲み込むまいといやいやをすると、枕元にいたお芳が容赦なく亭主の頭を押さえつけた。 一匙、二匙……少しずつだが、確実に大嫌いな野菜入りの粥が胃の中に落ちていった。 「俺は、もう一口たりとも食わんぞ」 蔦重は全力を振り絞って頭を動かし、お芳の手から逃れた。 「不味い粥を食うぐらいなら、苦い薬のほうが、よっぽどましだ」 蔦重は怒りをぶちまけた。薬代わりに粥を食わせるくらいなら、先に薬を出すのが筋というものだ。 ところが青庵の返事は、予想だにしないものだった。 「どうだね、痛みは治まっていないかね」 「えっ」蔦重は思わず片手で鳩尾を押さえる。 不思議なことに、胃の痛みはすっきりとなくなっていた。引き攣れたような痛みがあった部分は、今は内側からほかほかと温かい。 「治ったみてえだ」 蔦重が半信半疑のていで呟くと、青庵は得意げに頷いた。 「気を張りすぎて傷ついた胃には、重湯や粥が効くのだ。もう大丈夫だろう。後は九つの生薬からなる香砂平胃酸という薬を処方するから、しばらく煎じて飲むようにな。ひどく苦いぞ、いっひっひ」 いやらしい笑いを振り撒きながら、青庵は供に持たせてきた薬箱を開いた。 手早く薬を調合し、お芳に渡す。 「それじゃ、大事にな」 青庵は次の往診先へ向かうべく、さっさと蔦屋を後にする。お芳も見送りのために後を従いていった。 寝間には蔦重と京伝が残された。 蔦重は再び布団の上に起き直る。 「京伝、俺は見たぞ。役者の顔が縮むところをな。やっぱり冩樂の絵は捨てちまおう。あの絵は何ものかに呪われているに違えねえ」 いまだ恐怖心を抑えられず、蔦重は上擦った声で囁いた。 「俺だって、見たよ」 京伝はつまらなそうな表情で、横目遣いに見る。怪異が大好きな男にしては意外なほど淡白な反応だ。 ところが素っ気ないと思われた京伝の手応えが、一瞬にしてがらりと変わった。 「だがね、もっとよく見たかったのに、木偶坊が長々と間抜け面して倒れていやがるから、母屋へ戻って人を呼んでくる羽目になったのさ」 「俺のことか。しようがねえだろ、病気だったんだから」 仮病を使ったのならともかく、本当に苦しかったのだから、嫌味を言われる筋合いはない。 「病気って……、笑わせるなよ、あんたが訳もなく気を張ってるからいけねえんだ。もう痛みは治まったんだろう。なら、さっさと行くぞ」 京伝が素早い動作で尻を上げる。 「行くって、どこへ」 「店に決まってんだろ。もう一度、冩樂の絵を見に行くんだ」 京伝が蔦重の腕を掴んで立ち上がらせた。 十四 「おめぇも、げっそり痩 けた腰元の顔を見たんだろう。なんで怖くねえんだよ」 京伝に手を引かれ、再び渡り廊下を行く蔦重は、無表情で歩く隣人に噛みついた。 しかし、京伝は、 「うるせえな、考え事をしてるんだ。黙っててくれ」 と苛々と吐き捨てたきり、取り付く島もない。 蔦重は京伝の静かな息遣いを聞く。 もしかすると、頬の痩けた腰元役を目にしたのは蔦重だけだったのではないか。厠から戻った時に京伝が見たのは、元の絵とさほど変わらぬ図柄だったのではなかろうか。 蔦重の中に疑念が湧いた。でなければ、京伝のこの妙な落ち着きは理解できない。 だが、逆に蔦重が相対した怪異と同じ顔を見ていたとしたら。 精気を絞り取られて干からびた、死人のごとき腰元の表情を見て、平静でいられる男。京伝の存在こそが、実は本当の怪異かもしれない。 二人は連れ立って、小座敷に入った。 部屋の中は真っ暗だった。用心のいい京伝は、蔦重が運び出された後、きちんと行灯の火を消してくれていた。 「妙な音がするぞ」 手燭の光に照らされた京伝が、不思議そうに眉を顰めた。 「おい、おどかすなよ」 蔦重は、もう屁っぴり腰だ。先に行けば否応なく腰元と目を合わせてしまいそうで、敷居を跨いだところから足が一歩も進まない。 心なしか、また足先がじんじん痛むような気がする。 「嘘じゃねえ。ほら、よく聞いてみろよ。何かが動く気配がする」 京伝に腕を突っつかれ、蔦重も耳を澄ます。静まり返った店内に、確かに何かが蠢く音がした。 蔦重は襖の外へ顔を覗かせ、左右を確認する。それから上を向いて、ああ、と得心した。 「あれは一九だよ。二階で仕事をしてるんだ」 「こりゃあ珍しい、一九が夜中まで仕事を手伝ってるのか」 京伝が珍獣と行き合った猟師のように、大げさに驚いた。 「てっきり飲み歩いていて、ここにはいねえもんだと思ってた」 「駄賃をやっても、すぐに使っちまうんで、今は飲みに出る金もねえんだよ。明日の朝までにドーサ塗りをして、引札の挿絵描きをしたら駄賃を渡すと言ったから、今夜は徹夜でやるつもりなんだろう」 酒が飲みたさに、僅かな駄賃のために必死で仕事をする一九の姿を思い浮かべ、蔦重は苦笑した。 「なるほど。それじゃ一九の存在は放っておいて、件の絵に戻ろう。行灯に火を入れてくれ」 京伝が横柄に命令する。怪異を怖れぬ鈍い男と、怪異に腰が引けて震える男。この状況で、どちらの立場が優位か、考えるまでもなかった。 蔦重は、襖の脇の定位置に据えられた置行灯に火を灯す。 「ああ、明るくなったな。じゃ、行灯をこっちへ移動してくれ」 手燭だけでは絵を見にくいと考えたのだろう。蔦重は黙って京伝の指示に従った。 行灯上部の取っ手を持ち、部屋の中央へ進む。京伝の座る横へ行灯を置いた。 「やっぱり。思ったとおりだ」 京伝が親指と人さし指で顎の下を抓みながら、二度、三度と頷いた。 「何だよ。一人で納得してねえで、俺にも教えろよ」 蔦重が京伝の横顔を覗き込んだ時だった。 骨の上に皮を載せたような、げっそり窶れた腰元の顔が目の前に現れた。 十五 「うわあぁぁ」 蔦重は魂消て、声が嗄れるほど叫んだ。 京伝がとっさに件の絵を拾い上げ、蔦重の顔に突きつけたのだ。 恐ろしい光景だった。ふくよかだった腰元の顔は、さらに横に縮んでおり、もはや原形を留めぬほどに歪みきっている。口の端が奇妙に吊り上がり、笑っているんだか、嘲っているんだか、はたまた、恨めしがっているのか、よくわからぬ表情だった。 「お、俺が倒れる前に見た顔より、もっとひどくなっている」 震えて噛み合わぬ歯を必死で落ち着かせ、蔦重は呟いた。 武家の妻、やどり木の顔も縮んでいた。だが、こちらは横ではなく、縦に、だ。二人の女形の顔が織りなす、歪んで不吉な気配を孕んだ図柄は、流行りものの美人画や役者絵の構図ではなかった。 (これは妖怪絵だ) 確信があったわけではない。だが、蔦重は直感でそう思った。 「俺が見たときも、こんなもんだった」 しかし京伝は、顔色一つ変えずに、あっさりと言った。 「おめぇってやつは。薄闇でこんな不気味な絵を見ても、本当に何とも感じねえのか」 「別に。それより、なぜ二人の顔が違った感じに潰れたのか、そのほうが気になった」 京伝は薄っ気味悪い絵を、じーっと眺める。 京伝があまりに冷静なので、 「よく見てられるな。あまり秋波を送ってると、そのうち妖に取り憑かれるぞ」 とからかってみたものの、京伝なら妖に取り憑かれたところで、肩の上にでも乗せて飼い慣らしそうな気がする。妖が女だったら、確実だ。 「もう大丈夫だ。これ以上の怪異は起きねえ」 京伝は胸を張って断言した。 「なぜ、決めつける。この先こそ恐ろしい事態が起こるんじゃねえのか」 蔦重は異を唱えた。二人の女形の絵から立ち上る、どろんとした不吉な気配を感じ取れば、簡単に事態が収束するとは思えなかった。 「ええっ? 耕書堂をここまで大きくした切れ者の蔦重さんが、まさか、怪異について爪の先ほどもわかっちゃいねえ、なんて間の抜けた話じゃねえよな」 京伝が鼻先で、ふふん、と笑う。 他人を苛つかせるには、これ以上ないほど不遜な態度だ。鯉の滝登りのごとく、頭に一気に血が上る。蔦重は知らず知らずのうちに啖呵を切っていた。 「馬鹿野郎。この蔦重を舐めるなよ。俺様だって、すべてお見通しだよ」 「お見通し、って、何が」 京伝がしれっと訊く。 (何がって……はて、俺は何を見通したんだ) 蔦重は言葉に詰まった。またしても、京伝の術中に嵌まってしまった。 「どうした、答えられねえのか」 京伝が煙草盆を引き寄せながら訊く。蔦重の返答を待つ間、のんびり一服するつもりのようだった。 人を食った京伝の態度に反発し、蔦重は何とか解答を捻り出す。 「俺が胃痛であれだけ苦しんだんだから、もう役者どもの怨みは晴れたはずだ。だから、もう怪異は起きねえって話だろ」 我ながらうまい理由を思いついた。悶絶するほど酷い仕打ちを受けたのだから、罪滅ぼしは済んだと考えていいだろう。 ところが……、 「馬鹿も休み休み言え、この自信過剰の自惚れ屋め」 京伝が鵯のごとく、きーきーと囀る。 「あんたの脳味噌は長いこと掻き混ぜずにいた、黴だらけの糠味噌だ。味噌がぜんぜん働いてねえよ。おい、さっき俺が突きつけた絵を本当によく見たのか」 「み、見たとも」と答えはしたものの、蔦重は、つと、下を向く。あまりにも異様な光景に、一瞥した後は、ずっと絵から視線を逸らしていた。 「嘘つけ。怖くて、ほとんど見てねえくせに」 煙管を置き、京伝が躙り寄ってくる。手に例の絵を持っていた。 「怖くて見られねえんだったら、仕方ねえ。目を瞑って手を出しな」 威圧的な物言いに押されて、蔦重は言われるままに目を閉じ、右手を差し出した。 すると、手を掴まれ、どこかへ導かれる。 手が辿り着いた先は、ざらついた紙の上だった。 「わっ、何だ、こりゃ」 蔦重の背筋に怖気が走った。 十六 蔦重が右手の先から感じたのは、今までにない手触りだった。 いったい何に例えたらいいのか。非常に細かく不規則な凹凸がある。 鮫皮か。いや違う。 強いて言えば、がさがさした質の悪い縮緬のような触り心地だ。 蔦重は思い切って目を開けた。右手は二人の女形の絵に置かれていた。 「役者の顔が波打っている……」 呆然として呟く。行灯の光を頼りに絵に顔を近づけると、醜く歪んだ役者たちの面に無数の縮緬様の皺ができていた。 「目ん玉押っ開いて見れば、意外な事実が見えてくる。怖い、怖いで現実から目を逸らせば、容易くわかるはずの真実もわからなくなるんだ」 京伝に捲し立てられ、蔦重は不甲斐なくも目を伏せる。京伝の言う内容は至極まともで、蔦重に反論の余地はなかった。 それにしても、見事に二人の女形の顔だけに皺が寄っている。紙全体が縮んでいるわけではないのだ。 蔦重は考え込んだ。この現象は何を意味しているのだろうか。 「やっぱり、役者の怨みがなせる業か……」 思考がそのまま口から零れた。すると、 「また、始まった。何でもかんでも、安直に怨念に結びつければ事が済むかと思いやがって」 京伝がいきり立った。 「どこまでも目出たくて能天気な野郎だな。少々誇張して浮世絵に描かれたくらいで、役者が蔦重を怨む筋合いなんてねえよ。怨念なんて得体の知れないものに安直に寄りかかってるから、何にも見えて来ねえ。そんな薄らトンカチだから歌麿に裏切られたりするんだ」 と、最後は駄目押し気味に、蔦重の痛いところを突いてくる。 「じゃ、なんで今、顔が縮んだんだよ」 蔦重が口を尖らせると。京伝がぺろんと舌を出した。 「俺がやったからさ」 「何ぃ」脳天に怒りが突き抜け、 「一連の件は、すべておめぇの自作自演だったってぇのか。ふざけるな」 蔦重は京伝の胸倉を掴んだ。 「落ち着けよ。あんたは他人の話を聞かねえ男だな。俺は、今、この絵の顔を縮ませた件については肯定したが、亀屋の件については何も言ってねえ」 京伝は落ち着いた動作で、蔦重の手を振り払った。 「わからねえ。亀屋の話は本当で、今日の出来事は嘘だってか。いやいや違う。確かに今、絵は縮んだから、おめぇの話も真というわけなのか」 蔦重は混乱していた。 「わからねえなら、わからせてやろう。さあ、蔦重、あんたの、糠漬けにも使えない安物の腐れ脳味噌を酷使させ、生き返らせる時がやってきたぞ」 京伝は高らかに宣言した。 十七 「ずいぶんと機嫌がいいじゃねえか。そんなに俺を虐めるのが楽しいのかよ」 尋常ならざる京伝のはしゃぎようを前に、暗い気持ちを抱いた。 京伝の眼の中には確実に真相究明への意欲が燃えている。これから始まる謎解きとやらが、平穏無事に、とんとんと終わるとは、とても思えなかった。 「虐めるなんて人聞きの悪い。あちこちガタが来ている蔦重の体は青庵先生に任せるとして、俺は耕書堂再建のため、すっかり鈍くなった頭の働きのほうを鍛え直してやろうと思っているだけだ。さあ、手始めに聞こうじゃねえか。役者の顔が縮んだのは、なぜだ」 京伝がいきなり謎をぶつけてきた。 蔦重は思わず体を固くした。京伝の吐く台詞は、妖術師の手から繰り出された蜘蛛の糸のようだ。脳味噌が糸に絡め取られ、うまく働かない。 「な、なぜって、さっき、おめぇが縮ませたって白状したじゃねえか」 「ふん、まあそうだな。だが、どうやって」 京伝は含み笑いをしながら、それでも追及の手を緩めない。 「どうやってって……わからねえ。わかってりゃ、とっくの昔に答えてるさ」 「そうやってすぐに諦めるから、脳味噌がいつまでも黴びてバサバサしたままなんだ。ああ、この腐れ味噌を柔らかくするには、いってえ、どうしたらいいんだろう」 京伝は大袈裟に嘆く真似をした。そのうちに「そうだ」と短く頷く。 蔦重愛用の文机に近づいた。おもむろに硯箱の中の水滴を取り上げる。大ぶりの白磁の水滴だ。 それから大股で絵の置かれた部屋の中央に戻り、腰を下ろそうとした。 ところがだ。京伝は座ると見せかけ、通り過ぎざまに蔦重の眉間へ水滴の中身を浴びせかけた。 「冷てぇ、何しやがんでえ」 蔦重は慌てて顔を左右に振った。水滴の中身は昨日、補充したばかり。結構な量の水が蔦重の眉間から伝い落ちた計算になる。 「さすがに、これっぽっちの水じゃ人の顔は縮まねえか」 京伝はとぼけた口調で嘯くと、行灯の灯に照らされた顔を憎たらしく歪めた。 「水に濡れたぐれえで、生身の人間の顔が縮むわけねえだろうが」 蔦重は思わず床に落ちていた京伝の手拭いを拾い上げ、顔を拭こうとした。 「この手拭い、やけに湿っぽいじゃねえか」 行灯の光の中では気づかなかったが、手拭いはかなり水気を含んでおり、意外な重さがあった。 「待てよ、おめぇ、今、水じゃ人間の顔は縮まねえとか言ったな」 蔦重は頭の中に手を差し入れられ、ぐるりと掻き回されたような奇妙な気分に陥る。 水では人間の顔は縮まない。では、何が縮むというのか。 その時、脳裏に一筋の光が差し込み、蔦重は京伝を振り仰いだ。 「ぶっかけた水で、脳味噌のほうは少し柔らかくなったようだな」 京伝が鼻の穴を大きく膨らませ、蔦重の行動を面白そうに見守っている。 自分の額から鼻に亘って付着したままの水に、蔦重は人差し指を沿わせた。指先に水の玉が載る。その玉をこぼさぬよう、指を絵の上に運んだ。 皺くちゃになった女形二人のうち、腰元若草の顔の上に水の玉を落とす。腰元の顔のほうに皺と皺との間が広いところがあり、そこを目掛けて水を落としてみた。 ちり、という音がしたわけではない。だが、確かに蔦重の前で腰元の顔がわずかに捩れた。 「この絵は……水分を含むと縮むのか」 蔦重は声を絞り出した。 十八 蔦重は、絵と、京伝の手拭いと、自らの指先とを、代わる代わる眺めた。 「さっき絵の下に手拭いを敷いたのは、おめぇだったな」 と、罠を仕掛けた男に、ぎろりと視線を移す。 「おめぇは着物についた雨の雫を手拭いに移していたんだな。でもって、湿った手拭いを絵の下に敷き、湿り気で奴らの顔を縮ませた」 蔦重は、くしゃくしゃの女形の顔を指し示した。 「ほう、何のために」 愛用の銀製の煙管を振り翳し、京伝は何やら楽しそうだ。薄暗い座敷の隅々まで弾んだ声が響く。 「決まってんじゃねえか、俺を怖がらせるためだ。おめぇは手拭いの上に絵をおいた後、わざとらしく厠に行き、俺を独りにしたじゃねえか」 今になって振り返れば、厠へ行く際の京伝の行動は妙に芝居掛かっていた。 「ご名答。まず、あんた一人に怪異を体験してもらうには、少し策を弄して絵を縮ませる必要があったんだ。それじゃ、もう一つ訊く。なぜ水気を含ませると顔が縮むんだ」 「そりゃ、おめぇが仕組んだ陰痴気怪異なんだから、おめぇが一番よく知ってるだろうよ」 嬉々とした表情で質問を繰り出す京伝に不快の念を感じ、蔦重はぶっきらぼうに言い捨てた。 「相変わらずの浅知恵だな。俺は確かに早く絵を縮ませようとして、湿った手拭いを絵の下に敷いた。だが、手を下したのはそれだけだ」 「えっ、縮む理由は、水だけじゃねえのか」 蔦重は驚きを隠せなかった。 「考えてもみろ。この女形二人の摺物は何百枚も摺っているはずだが、他に縮んだ絵があるか。なければ、この絵だけが特別だ、ってことだ」 京伝の言う通りだった。摺物は方々の絵双紙屋に卸し、客の手に渡ったはずだが、亀屋の主人の話の他に怪異が起こったという噂は、ついぞ聞かなかった。 蔦重は売れ残りの浮世絵の束の中から、二人の女形の絵を探し出し、わずかに残った水滴の水を腰元の顔に落としてみる。 案の定、絵の中の表情は、ぴくりとも動かなかった。 「この絵だけが特別……、ってことは、摺物を摺る時の絵の具に細工がしてあったんだろうか」 蔦重の脳裏に摺師の才次の姿が浮かぶ。酒も煙草も博打もやらぬ真面目一辺倒の男で、絵師の指示通りに錦絵の微妙な色合いを摺り分ける技術に長けていた。 「才次の仕事ぶりを、よく思い出してみろよ。絵の具に細工して、一枚だけ他の絵と違う仕上げをする暇なんか、あるか」 「ねえな。あいつは、いつも工房の真ん真ん中で、ものすごい数の摺物をこなしてるから、ゆっくり細工する暇なんてあるわけねえ。絵の具じゃねえとすると……紙か」 耕書堂では、浮世絵用、戯作用等々、種々の紙を様々な紙問屋から仕入れている。庶民に向けて売り出す絵の紙は、安価で粗悪な紙が多かった。 「しかしだ。一枚だけ水で縮む材質の紙を紛れ込ませても、役者の顔は縮まんぞ」 京伝のひと言が蔦重の思考を中断させた。 「なぜだ」 「まっさらな紙の時点では、どの絵が摺られるかわからねえ。たとえわかったとしても、ちょうど顔の部分だけに皺を寄せるなんて芸当は、神様くらいしかできねえぜ」 そうなのだ。縮んでいるのは女形二人の顔の部分だけ。しかも皺は、顔の輪郭線からほとんどはみ出していない。 「謎の真相は紙じゃねえのか」 「あんたって人は……ようやく頭が働き始めたと思ったら、またぞろ鈍っちまった。いいか、浮世絵に使う紙ってのは、仕入れてそのまま使うのか?」 「おめぇも絵師の端くれだろう。今さら何を言いやがる。仕入れてそのままの紙を使ったら、絵の具がみーんな滲んで色が混じっちまう。当然、滲み止めをするに決まってんだろ……あっ、そうか。細工を講じる隙があるとしたら、ドーサを引く時だ」 蔦重は目の前に広々とした道が開けたように感じた。細工の詳細はわからぬまでも、ついに真相に辿り着いたような気がする。 「でも、誰がこんな手の込んだ悪戯をしたんだ」 蔦重は当惑していた。ドーサ引きもあちこちの下請けに出している。安い手間賃でも引き受け手はいくらでもあったから、蔦重もどの紙をどこに出したか全部は把握していなかった。 となると、悪戯の主を特定するのは至難の業だ。 けれども、悪戯の犯人探しを諦めかけた蔦重を尻目に、京伝は背筋をぐっと張った。襖の外へ向かって、妙に間延びした声で呼び掛ける。 「おーい、階段の陰で聞き耳を立てている一九さんよ。いるのはわかってんだ。そろそろこっちに来いよ」 京伝の挑発に動揺したかのように、階段の上のほうで、ぎし、という床が鳴る音がした。 (後篇に続く)
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