しばしお待ちを...

2014年9月26日金曜日

ひとり兎園會 8 「影女」/ 齋藤幹夫

 ひとり兎園會 ―其之捌 影女―      齋藤幹夫


ものゝけのあるいへには月かげに女のかげ障子せうじなどにうつると云。荘子さうじにも 罔 両 もうりやうと景と問答もんだうせし事あり。景は人のかげ也。 罔 両 もうりやうかげのそばにある微 陰うすきかげなり。
           『今昔百鬼拾遺』「影女」より  鳥山石燕
 少年の頃に読んだ集英社の「ジュニア版世界のSF」の『なぞの宇宙物体X』が私のホラーSF小説初体験であり、戦慄が走ったのを記憶している。これを映画化したジョン・カーペンターの『遊星からの物体X』('82)を観た時はこれまた度肝を抜かれた。(後にこれのリメイク元『遊星よりの物体X』('51)は失笑を禁じ得なかったが。)
『遊星からの物体X』の原題は『John Carpenter's The Thing』、『遊星より
の物体X』は『The Thing from Another World』。 原作はジョン・W・キャンベルの『Who Goes There?』で'38年に発表され'55年に出版された作品。 翻
訳版の出版は早川書房から '67年にキャンベルの短篇集の中の一篇として矢野徹の訳で出版され、 '95年に再販。その後東京創元社から中村融の訳でアンソロジーの中の一篇として '00 年に出版された。 邦題は何れも 『 影が行く 』。「ジュニア版世界のSF」の邦題は、先の映画の邦題を持ってきたと推測されるが、早川書房と東京創元社版は、先の矢野徹の邦題を中村融がそのまま踏襲したという。この矢野徹の付けた邦題は、読む前から不安感を煽らせ、読了後には見えざる未来への不安と恐怖を募らせる。だからこそ『影が「来る」』のではなく、怪談の結末にある「次はお前のところに行くよ……」のそれに等しく『 影が「行く」』でなければならない。そして、物体Xでも物体でも、それ、誰か、でもなく「影」としたところに翻訳者の優れた感覚に瞠目するのだ。 「かげ」は現象として、また概念として、また抽象や暗喩として親しまれながら、望まれ、愛され、かつ恐れられている。特に言葉を介して用いられる「かげ」は、物理的現象を示す単語で、場面や状況、心理と言ったものを表すのに一番多く使われているのではないかと思えるくらいで、例えば、辛酸辛苦を舐めた後歩む姿を「足枷の如く影を引き摺る」と、緊急時、または歓喜を伝えるべく全速力で走る姿を「影がついて来られぬ程に駆ける」と著せば読む者は容易にその場面を想起するだろう。  英語の shadow は、shadow of a tree で「木蔭」を、shadow of deathで「死相」、時には霊や不幸、神の加護もその一言を文脈に絡め表現する。対して、漢字の「影」は、陰・蔭・翳・景・廕・庇…と、意味合いを違え、趣を変えながら存在し、(何も「かげ」に限ったことではないが)その字の持つ意味を識る表現者にとっては最良の道具になり得、読者は字面を通して鮮烈なヴィジョンとなる。 靑葉くらきその下かげのあはれさは「女 囚 携 帶 乳 兒 墓じよしうけいたいにゆじのはか」 齋藤茂吉 綠蔭に三人の老婆わらへりき               西東三鬼 死の塔の片陰に消え影も消ゆ               加藤楸邨  茂吉の「くらき」「かげ」の平仮名表記は、読者に「女 囚 携 帶 乳 兒 墓じよしうけいたいにゆじのはか」を見せつけて一層の衝撃と驚愕を与える。そして、三鬼の「蔭」は白昼夢の如き眩暈を、楸邨の「陰・影」は幽玄を。三鬼の蔭が陰で、楸邨の陰が蔭であったら、忽ちその魅力は失われよう。ビルヂングや看板といった類の影や陰に、草冠をつけた「蔭」を用いて書かれたものを時折見掛ける。はたと膝を打ちたくなるような作品でもこれでは興醒め。作者の個人的な好みであろうかも知れないから、残念に思いながらも「どうぞご自由に」と言う他はないのだろう。ただ私は好まないし、忌み嫌う。 罔両、景に問いて曰く、曩には子行き、今は子止まる。曩には子坐し、今は子起つ。何ぞ其れ特操なきやと。景曰く、吾れは待つ有りて然る者か。吾が待つ所は又た待つ有りて然る者か。吾れは蛇付、蜩翼を待つか。惡くんぞ然る所以を識らん、惡くんぞ然らざる所以を識らんと。                        『荘子』齊物論篇 第二  荘子は「怪力乱神を語ら」ぬはずの孔子を皮肉っていたのかいざ知らず、罔両と景と問答をしたと云う。景は人の影として捉えればいいとして、さて罔両、これが一向に捉え処が無い。無論「かげ」だと言うのだから捉え処が無くて当たり前なのだが、こちらでは水神、水の怪にであったり、あちらでは女神かと思えば死人の肝を喰らうモノであったり、その孔子のお陰で妖怪の総称になったりと、混乱することこの上ない。荘子のこの逸話を読むよりは鴨長明の『方丈記』を読むほうが私の心には染みとおるし、何より魍魎のことなど考えずに済むから、混乱することもない。ピーターパンに読んで聞かせてあげたいが、おそらく聞く耳を持たないだろうから、糠に釘、否影に釘である。  影女には魍魎とは違った捉え処の無さがあり、それ故怖さが殊更に増す。水木しげる御大の『【図説】日本妖怪大全』には「男だけで暮らしていると、その家に『影女』がすみつくことがある」とあり、差し詰め「男寡にが憑く」と言ったところ。そして「影で見られるものだから、実体でとらえるのはむずかしいようだ」と〆ている。その図には白髪の老婆が描かれおり、こちらは「月光 つきかげにひとりの老婆わらへりき」。これはこれで恐ろしい。  二段ベッドの上には九歳の私。下の段には三つ違いの妹が寝ていた。ベッドは一方の側面を壁にくっ付けて設置され、その反対側は押入れである。電気を全部消すと怖いからと妹が言うので、豆電球を一晩中点けて寝ていた。或る夜、別に尿意を覚えたわけでもなく、夜中に目を覚ました私。豆電球の橙色の明かりが部屋には満ちている。今が何時であろうと気にも掛けず、まだ朝ではないことだけは判るので、今一度眠りに落ちようと、左肩を下にして壁を向いていた体を、反対の襖の方を向くように寝返りをうつ。寝返りをうち目を閉じる瞬間、襖と「何か」が目に入る。今一度目を開き襖を見る。豆電球は白い襖を橙色に染め、同時に女の影を映し出している。襖と豆電球の間に女はおろか、光を遮るものなど何もない。しかし襖には髪の長い女の影がべったりと張り付いている。咄嗟に布団を頭から被り身を隠す。見つかれば何処かに連れていかれる、そんな気がした。布団を持ち上げた僅かな隙間から覗くと女の頭の部分の影が襖の上桟より上に来ている。影の元はその光源に近づくに連れ、その影の大きさは増す。女が近づいていると言う恐怖に布団の中で震えるしかなかった。再び反対側の壁の方を向こうかとも思ったが、その壁にも女の影が張り付いていそうで、それも出来なかった。――長い時間震え続け、再び隙間から覗くと朝が来ていた。女の影も消えていた。  謎謎に「あなたは今までに見た一番大きな影は何?」というものがあり、暫し考え込む者は少なくなく、答えは「地球の影」、即ち夜のことであり、人はこの夜、影に不安と恐怖を感じ、その闇にこの世にあらざるモノを見、跋扈する異形のモノに恐れ戦く。『今昔百鬼拾遺』の影女は月光つきかげにて現れると云う。つまりは闇夜に影女は現れない。人は夜を明るくし、闇夜を無くした。その代り影を増やした。影女の出る機会は増えたと言える。             ひとり兎園會 ――其之捌 影女――  閉會

0 件のコメント:

コメントを投稿